ケインジアンだったヒトラー

Hitler 3









  欧米人が学ぶ近代史の教科書は、ユダヤ人の歴史観に基づいている。欧米人はヒトラーと聞けば、すぐ「悪魔」とか「ユダヤ人虐殺者」を連想し、冷静に考えず感情的な拒否反応を示す。しかし、ナチ・ドイツだって西歐史の一部であって、長い歴史から見ればそんなに異質なものでもない。最も異様なのは、肉体はヨーロッパ人なのに、精神がユダヤ人的思考に染まっていることだ。特にイギリス人とアングロ系アメリカ人は、ドイツ人と同じゲルマン種族なのに、なぜかユダヤ人を同胞のように考えている。第三帝国のドイツ軍人を悪魔の手先と決めつけ、冷酷で残忍な殺人マシーンと見なすのに、今まで散々嫌ってきたユダヤ人が迫害されると、まるで血族が侮辱を受けたように感じるのだ。もし、西歐人が健全な精神を持っているなら、ドイツ人の歴史的背景を考慮するだろう。本来なら、戦闘停止ともなれば、騎士道精神を思い起こして、ドイツ軍人の奮闘を称え、ドイツ人に対する虐殺を反省するはずなのに、現実だとそうなっていない。西歐人はユダヤ人から繰り返し、「反ユダヤ主義の道徳的罪」を擦り込まれている。学界とマスメディアがユダヤ人に牛耳られているから、彼らは紳士的態度を忘却し、敗者のドイツ人を口汚く罵るというユダヤ的性格に染まっているのだ。アメリカやブリテンの紳士階級は、乃木大将がステッセル将軍に対して示したような武士道に気づかない。日本人はユダヤ人の洗脳を拒絶して、多様な角度からドイツ史を学ぶべきである。

Autobahn 1Valkswagen 2





(左: アウトバーン / 右: フォルクス・ワーゲンを試乗するドイツ将校)

  ナチス時代のドイツ経済を学ぶ時には、ナチ党の政治思想を併せて考えないと理解しづらい。ヒトラーが不況のドイツ経済を有効需要を生み出すことで回復させたことは、様々な学術書で語られている。ヒトラーがケインズ経済学を実践したことは、あちこちで説明されよく知られているから今さら珍しくもない。不景気で失業者が街に溢れているなら、ピラミッドでもスフィンクスでもいいから、何か仕事をつくって失業者に職を与えればいい。象徴的な公共事業がアウトバーンで、ナチ・ドイツが、全長約5,000キロ・メートルに及ぶ自動車道路網を建設したのは誰でも知っている事実。ヒトラーはアウトバーン公社を作って、ドイツ国内に高速道路網を張り巡らし、モーターライゼージョンをいち早く先導したのだ。ヒトラーが偉かったのは、政治家に徹したからだろう。高名な学者で銀行家だったヒャマル・シャハト博士(Dr. Horace G. Hjamar Schacht)や経済官僚が、あれこれ反対したり、出来ないことを並べても、鉄の意志でもって自分の信念を貫いた。

  総統にとっては失業者救済と景気回復が優先課題。そのために役人は智慧を絞れ。ヒトラーは大学教育を受けていなかったから、生半可な知識で躊躇することがなく、かえって直感が鋭かった。官僚が優秀なのは、過去の事例を暗記しているからで、未来のことになったら急に愚鈍となる。仮にアイデアを出しても凡庸なものがほとんど。失敗や責任を怖れるから、ギャンブルには不向き。クビになる心配のないヒトラーだから、大胆な事ができたのだ。こうした点はロナルド・レーガン大統領と似ている。レーガン大統領も経済学には素人だが、減税による景気回復や軍拡による強いアメリカ、信仰によるモラルの復活を目指した。巷の経済学者は、大統領の相談役だったアーサー・ラッファー(Arthur Laffer)教授のラッファー曲線を揶揄したり、減税による双子の赤字を云々するが、アメリカ人の生活は良かったし、軍事予算が増えて研究開発が盛んになったから、結果的に見れば良い方じゃないか。アメリカの国際的地位は沈まなかったし、ドルが紙くずになることもなかった。経済学者は強力な軍隊が外政に及ぼす役割に触れないから、片手落ちの議論を繰り返す癖がある。レーガン大統領は無名のユーレカ・カレッジ(Eureka College)に通っていたくらいだから、とても経済理論を勉強していたとは思えない。教室に籠もって教科書を朗読するより、フットボールや乗馬で体を動かす方が得意だった。しかし、政治家はガリ勉タイプより、世間通の常識人であるべきだ。レーガン大統領は、物事の本質を見抜く炯眼の持ち主だったから、学者がぎゃーぎゃー批判してもへこたれなかった。(言っちゃ悪いが、経済学者は政治家の方針にケチをつけるのが商売だから、庶民は常識を持って彼らの意見を聞かなくてはならない。)

  大規模な道路建設事業で雇用を創出したことは、色々な経済学者が書いているから、ここでは繰り返さない。重要なのは、ヒトラーが理想的な労働者の生活についてヴィジョンを持っていたことだ。日本の政治家なら道路工事は、地元有権者へのアピールと土建屋からのキックバックが目的だろう。しかし、ヒトラーは違った。彼は支配民族として相応しい生活をドイツ人が送れるように考えたのである。もちろん、劣悪な道路で自動車が消耗するのを防いだり、交通・輸送にかかる時間の短縮を狙ったものとも言えよう。しかし、何はともあれ、一般労働者でも車を手に入れ、ドライヴを楽しむことが出来るようになったのだ。裕福とは言えない庶民でも、真面目に働けば休日に家族を車に乗せて、ピクニックに出掛けることが可能になったのである。大変なクルマ好きであったヒトラーが、フェルディナンド・ポルシェ博士に国民車(フォルクス・ワーゲン)の設計を依頼したことはとても有名だ。ヒトラーが国民車のデザインをスケッチしたこともよく知られている。三流とはいえ、元は画家だったので、外見には敏感なのだろう。ユダヤ人が描くヒトラーは、誇大妄想に取り憑かれた狂人とか、低能で残酷な独裁者であるが、実際の彼は具体的に考え、細かいことにまで気を配る政治家であった。だから、国民車は庶民ても購入できる手頃な価格にしたかったし、エンジンは水冷式にすべしと提案していた。しかも、クルマの交換部品まで頭に入れていたというから賢い。一般人は自動車の値段ばかり気にするが、本当は維持費も考慮に入れなければ、いつか後悔することになる。メルセデス・ベンツを買って大喜びの日本人には、交換部品の値段を見てビックリという人もいただろう。

  ヒトラーのドイツと比べたら、我が国はとても貧しかった。同時代の日本人を思い出してみれば分かるだろう。1930年代に、我が国の労働者が自動車を購入して、日曜日に家族でドライヴを楽しむなんてあり得なかった。庶民の交通手段はバスとか自転車くらいで、都会だとフォードやGM製の円タクがあったが、カフェに勤める女給(ウェイトレス)が、帰りがけに乗るようなクルマではなかった。オートバイだって外国製が主流で、給料の20倍なしい30倍もしたから高嶺の花だった。ちなみに、昭和40年代頃までの日本は呑気な時代で、自動車免許を取れば大型バイクも乗れたのだ。スクーターさえ危なくて乗れないオバちゃんが、ハーレー・ダヴィドソンのような大型バイクに乗ることを許可されていたのだ。まあ、昔は大型バイクを購入する人が少数派だったからだろう。自動車ブームは高度成長期を待たねばならず、日本のモータライゼーションは遅れていたのだ。高齢者なら昭和30年代のホンダ・スーパー・カブを覚えているだろう。一家に一台の自家用車はまだ贅沢品で、当時は自動二輪が一般的。昭和30年代後半からようやく自動車の時代となり、スバル360などが人気で、その後にトヨタ・カローラやマツダ・ファミリアといった乗用車が人気車種となった。

  昔の日本人はクルマを運転することだけでも胸がワクワクしたし、恋人とデートする時にクルマを持っていることは自慢だった。クルマ離れの若者を見ると、新車販売のディーラーは昔が懐かしい。戦後、フルブライト留学生としてアメリカに渡った日本人は、中流家庭の労働者が大きな家に住み、自家用車を所有していることに驚いたという。何と言っても、ライフスタイルが違っていたのだ。小室直樹先生はフルブライト留学生で渡米した時、アメリカ人家庭の冷蔵庫を見て驚いた。冷蔵庫には食糧がいっぱい詰まっていたのだ。コカ・コーラとホット・ドッグを手にして、フットボールの試合を観戦したり、野外で映画を見るのがデートの定番といった時代である。比較的裕福な家庭の出身だった竹村健一も、戦後はソースを掛けただけのご飯を食べていたというから、アメリカに留学した時は日米の格差を実感したことだろう。あまりにも、生活水準が違っていたのである。こう考えると、ナチ・ドイツが実現した庶民の生活が如何に凄かったかが分かるだろう。

  こうした生活水準を実現するには、まず景気を回復させ、雇用を確保することだ。それには、公共事業を増やすと共に、個人消費を刺戟しなければならない。 そこで、帝國金融省大臣のフリッツ・ラインハルト(Fritz Reinhardt)は、様々な政策を打ち出した。1933年6月の第一次失業削減法は、10億マルク(ライヒス・マルク)を投じて全国の建設事業を活性化させたのだ。公共建築物や商業施設、住宅、農場などの修理や改築を促進し、その際にはドイツの建築資材が使われるよう法律で定めた。同年夏には建築物修復法が通り、小規模な事業者に5億マルクが投入され、住宅所有者が建物を修繕したり増築したりすると、費用の20パーセントを政府が負担してくれたのだ。また、商業建築物の所有者は、改築のときエレベーターや換気システムの設置をすれば補助の対象になった。住宅や商業ビルだと、高額な費用になるし、関連産業の裾野が広いから経済効果も抜群。不動産所有者が建物を新築する時には、地元の銀行や貸付組合から融資を受けることができた。その際、政府は金利を肩代わりするため、借り主にクーポン券を支給したという。さらに、1933年9月の税制控除法では、修繕した者に税控除を認めるという気前よさ。それでも腰が重い人がいるかも知れないので、政府は短期借り入れを低金利の長期借り入れに乗り換えるよう手助けした。この法律のお陰で、債務者が払う金利が7パーセントから4ないし3パーセントにまで減ったという。(Richard Tedor, Hitler's Revolution,  Chicago, 2013, p.42-43)

  景気刺戟策と税収はセットになっているから、経済政策では税制も重要になる。多くの国で税は重くなるし複雑になりがちだ。ワイマール時代のドイツでも同じで、賠償金を払うためもあったが、ドイツ国民は重税感に喘ぎ、複雑な税制にも辟易していた。各地方自治体が税や料金の徴収を行っていて、全国規模の徴税システムが整っていたなかったから、重複行政でコストが嵩み効率が悪かった。ラインハルトは複雑な徴税の仕組みを簡素化して行政の無駄を省こうとしたのだ。それには、地方がバラバラに集めていた税を国家が徴収することにし、全国共通の税制に変えることにした。中央政府が地方政府の予算を計算し、全ての歳入を手にして、それを地方の役所に分配するこという塩梅(あんばい)。各国民は一年間の納税通知書を受け取り、毎月の分割で納めるようになった。また、国民が個別に納税しに行く制度では、税務署の業務が忙しくなるので、ドイツ政府は企業の会計課が従業員の給料から税金を天引きするように指示したという。日本人の源泉徴収は、ドイツに倣った制度であった。いかにも効率を重視するドイツ人らしい発想だが、日本のサラリーマンが納税意識を失ったことは、日本の民衆政治にとって大きな打撃である。ラインハルトの方針は、大企業にとって増税となったが、長期的には、労働者に対する減税政策は商業を活性化させ、政府の収入を増やしたと言えよう。

  政府の歳入を増やすには、増税をするより、経済規模を拡大した方が良い。国民の懐からお金をむしり取るよりも、個人消費を増やして、売上税や法人税で歳入を確保した方が、国民だって納得するだろう。例えば、ドイツの自動車産業は減税措置の恩恵を受けた。1933年4月の車輌税法は、個人が購入した自動車やバイクにかかる税や料金を一気に撤廃したのである。自動車を所有したり運転したりする際の消費者負担が削減されたことで、販売数が飛躍的に伸びた。1932年に工場が生産していた自動車の数は43,430台だったのに、ヒトラーが政権に就くと92,160台に跳ね上がった。新車生産台数は増大し、自動車工場で雇われる労働者数は、1932年の34,392人から四年間で110,148人にも増えたという。政府は5千万マルクを投じて減税措置を行い、古くなった車の所有者に買い換えを勧めたのである。日本人だってヒトラーみたいに減税してくれる政治家を望んでしまうだろう。(左翼は安倍首相をヒトラーになぞらえるが、消費税を上げた安倍氏はヒトラーと反対の政策をとったのだ。) 日本で自動車にかかる税金は相当なものだ。自動車を購入すれば、取得税をとられ、毎年自動車税を払って燃料にも税金がかかっている。腹立たしいのは、ガソリン税に消費税を掛けるという二重課税だ。庶民は民間の自動車保険を契約した上に、車検まで受けなくてはならない。車検制度は不要なのに未だに存在する。だいたい、新車なのに三年くらいで故障する日本車なんて今時あるのか? クルマが贅沢品で粗悪だった頃の税制が、廃止されずにすうっと続いてきたのだ。車検がなくなって困るのは、ドライバーではなく、修理工場であろう。民衆政治では民衆への税負担が増えるというのは皮肉なものだ。

家庭重視のナチ・ドイツ

  ナチ・ドイツの経済政策は政治思想と密接に絡んでいる。財政出動や減税措置は、あるべき社会を実現するための手段であった。ヒトラーの性道徳や宗教観には不埒なものもあったが、彼の家族観は意外とまともなので感心する点が多い。例えば、女性は家庭を持って良き母たれ、という価値観があった。逆説(パラドックス)みたいだが、ヒトラーは国家の私物化を図ったため、かえって国家を健全にしてしまった。世界で最も素晴らしいドイツ帝國にするため、その成員たるドイツ人を立派な国民にとようとしたのだ。それには、まず家庭をしっかりとした基盤にする必要がある。こうしたイデオロギーから、ナチスは結婚を奨励し、職業婦人よりも良き妻で子沢山の母を優遇したのだ。例えば、ラインハルトの失業削減法は、月に1パーセントの金利で、1,000マルクを新婚カップルに貸し出した。この貸付金はクーポン券(購買券)の形で渡され、その券でもって家具や家庭雑貨、衣類を替えるようにしたのである。クーポン券にしたのは、現金で渡すと何らかの借金返済とか、他の目的に使用されることを危惧したからだ。現在の日本でも子育て補助を現金支給にしたら、不道徳な親はパチンコや酒、タパコに使ってしまう懼れがあるので、文房具とか体操着などしか買えない限定商品券にした方がよい。婚姻奨励貸付金は、過去2年間で6ヶ月以上勤務経験のある花嫁が対象で、寿(ことぶき)退社を条件にしていた。それに、職場から女性がいなくなれば、その空席に失業していた男性が就くことが出来る。

  帝國政府による貸付は少子化対策の一環でもあった。お金で子供を増やそうという発想はけしからんが、現実の生活ではお金が問題になるのでしようがない。この政策では、子供が1人生まれると、その借金の25パーセントが返済免除になるという仕組みであった。したがって、2人目、3人目を出産する度に返済免除が増えて行き、4人目を産めば、その借金はチャラとなる。つまり、子供を4人産めば借金が形を変えたプレゼントになるという訳だ。1936年までに、政府は75万組のカップルにこの融資を行ったという。妊婦だけにご褒美をくれるだけでは、他の庶民からも不満が出てきそうだから、一般労働者に対しても消費促進政策がとられた。公共事業に従事した労働者には、4週間の労働に月25マルク分の商品購入券が支給され、指定小売業者の店で衣服や世帯道具を購入できたし、クリーニングなどの支払いも出来たという。これには大型百貨店から小規模焦点を保護する目的もあった。

  新婚家庭が増えれば、それに伴う消費も増大する。住宅需要が伸びた結果、建築屋の現場に雇用が生まれ、それに伴い家具屋も繁盛した。こうした結果、1933年度の製造業は50パーセントも増大し、工場では暖房器具や、厨房・台所用品の生産で大わらわ。政府は小規模な住宅を購入する新婚夫婦に対して、不動産税を取らなかった。所得税や売上税の減税を実施した分は、失業補償の減少や歳入増加で相殺されたのである。様々な補助金政策や減税処置を行っても、雇用の安定や失業手当の減少、経済活動の回復・増加で支出とのバランスを取ることができたのだ。日本では家族破壊思想が政府や官庁で蔓延しているから、日本人撲滅政策がとられている。独身女性を増やすため、男女雇用均等法をつくり、年金も夫婦ではなく離婚を前提とした掛け金の支払い、扶養家族控除も縮小するといった方向に動いている。つまり、主婦になるメリットを減らし、家事よりも出稼ぎの方が得になる税制にしているのだ。しかも、保育所を増設することで、子育ては他人に任せるよう促す。親子の絆を脆くし、砂粒のような子供を増やすことか目的だ。霞ヶ関に蝟集(いしゅう)する赤い官僚にとって、共稼ぎをする夫婦や、離婚しても明るく生きる老人、孤独な人間が寝泊まりするだけの冷たい家庭が、民主的な日本の理想である。女性の扱いにおいては、日本人やアメリカ人の方が遙かに異常だ。女性を兵卒にしなかったナチ・ドイツよりも、女性を海兵隊員にしたり、ゲイを軍隊に認めたりするアメリカの方が、民主的と言われるが、日本人ならドイツの方が常識的に思える。子供を産む女性を尊敬しない国家は衰退するだけだ。

西歐にあった農本主義

german countryside 2German Village, Rothenburg-ob-der-Tauber






(写真/ドイツの田舎)

  一般的に、ドイツは新興工業国というイメージがあるけれど、ナチスは農業国としてのドイツを重視する思想を持っていた。これは人種と国土を強調するナチスの思想からすれば、それほど不思議ではない。ゲルマン人は掠奪を行う戦士である一方、家畜を育てたり、小麦を栽培したりする農民であった。イングランドへ渡ったアングル人やザクセン人は定住する土地が欲しかったし、アメリカ大陸へ入植したイギリス人が開拓農民になったのは興味深い。ゲルマン民族は大地に根付く生活が好きだし、都市よりも田園に郷愁を感じる。田舎の生活が理想になるのは、西歐に封建制度があったからだろう。地方の統治者と領民に活力が漲る西歐と日本には共通点が多い。ロシアからアラビア、インド、シナに至るアジア大陸と違い、西歐と日本では土地を介して支配者と領民の間で親子のような独特な感情が生まれた。意外かも知れないが、ここから自由主義と民衆政体が発展したのである。日本人は勘違いしているけど、西歐の絶対主義は封建制度があったから打破されたのだ。封建制のもとで鍛えられた騎士がいたからこそ、社会の支柱たる中流階級が勃興したのである。下層階級の庶民が政治意識に目覚めて、代議制が誕生したなんて信じる奴はいないだろう。

  各地の風土は、その宗教にも現れている。アラブ人やユダヤ人、フェニキア人といった中東アジアの民族は、基本的に商業で儲ける連中で、農村より都市に住むことを理想とする。彼らは城壁で囲まれた都市の中で暮らし、その中には様々な人間や産物が流れ込み、異民族混淆社会というのが普通。こうした城塞都市だから、魅力的だが怪しげな宗教家が現れて、人種や民族にこだわらない普遍宗教が台頭するのだ。不特定多数の民族を束ねる信仰だから、その戒律は簡潔で厳格となる。イスラム教はその典型で、どんな生まれの人間でも入信できるが、その生活はきっちりと規定される。沙漠の宗教には、日本的な曖昧解釈がない。一方、気運壮大な普遍的宗教を持たないゲルマン民族は、もっぱら自然や先祖を崇拝する多神教(アニミズム)が主流だ。神様や精霊が森や湖、川、山に住んでいて、人間みたいな感情を持っているし、人々が祈願すれば雨や豊作をもたらしてくれる。中東の神は唯一絶対の超越者で、人間が神に奉仕するのか定番。しかし、農村の神様はどことなく寛容である。神様だって子供みたいにすねるし、女神に至っては人間を誘惑する妖婦だ。しかも、人間に奉仕してくれることが多く、不条理な要求を人間に押しつけない。

German countryside 4Forest of Germany 2








(写真/ドイツの森林と山里)

  ゲルマン種族には、陰鬱な都会生活と健全な田園生活というイメージがある。空気のよどんだ城壁の中に密集するセム人種よりも、澄んだ空気と美しい自然に恵まれた田園に暮らすアーリア種族のほうが好ましい。イギリス人だって、むさ苦しい外国人や労働者が密集するロンドンより、清らかな小川が流れ、牧草が生い茂るノーフォークの方がいいだろう。また、ドイツ人を非難するフランス人やオランダ人でも、ゲットーから出てきたユダヤ人と一緒に都会で暮らすより、牧場で草を食べる羊や畑を耕す農夫を見ながら過ごした方が、よっぽと気持ちがいい。巨木の神秘性を崇めていたドイツ人は、「土に還れ」とか「聖なる森」といった言葉に惹かれてしまう。鬱蒼とした森林を目にすれば、自然の中を歩くワンダーフォーゲルがドイツで発生したのも納得できる。愛国主義と民族主義を掲げたアルターマーネン同盟(Artamanen Gesellschaft)などは、農本主義を土台にしていると言えるだろう。農業は人間が大地を耕し、大地から栄養を吸収した作物を供給するから、しばしば郷土愛と結びつく。しかも、農民は行商人とか貿易商と違って、親子代々同じ村に生まれ育つから、耕作地との一体感が強い。封建制では武士と百姓は共に一所懸命になる。

  ナチ・ドイツの東部殖民や農地開拓に影響を与えたのは、ハインリッヒ・ヒムラーの片腕として頭角を現したリカルド・ヴァルター・ダレ(Richard Walther Darré)である。彼は『北方人種の生命源としての農民精神(Das Bauerntun als Lebensquell der nordishen Rasse)』や『血と土の新貴族(Neuadel aus Blut und Boden)』を書いて、ドイツ人たることを自覚し、大地に根付く北方種族の農民を強調した。こう聞いて「あ、素晴らしい」と思う欧米人はまずいない。ドイツ民族主義者のダレやウィリバント・ヘンチェル(Williband Hentschel)が、北方種族の醇化(じゅんか)とかゲルマン民族の共同体を説くと、日本人や欧米人は直ぐ拒絶反応を起してしまう。我々が持つナチス思想への嫌悪感は、長年に亙るユダヤ人の宣伝が築き上げたものである。一旦確立した歴史観は容易に修正できない。ユダヤ人がドイツ人に対して持つ怨念は千年続くだろう。日本人にとって、ドイツ人がゲルマニアで、どんな理念を掲げて国家を作ろうが知ったことではない。学校で洗脳された日本人は、アーリア人讃美と聞けば眉をひそめるが、ユダヤ人の選民思想には無頓着だ。外人がどんな価値観を持とうが自由だろう。日本人は血みどろのイエズスといったフィギュアが教会にあっても気にしないし、大勢のドイツ人が復活した救世主を崇めていることには関心がない。教養ある紳士までもが、キリストの奇蹟を信じ、水の上を歩いたとか、山を動かしたと信じていても、日本人は彼らを気違いとか低能児とは思っていないのだ。イエズス・キリストを讃美するキリシタンが、異民族や異教徒を殺したからといって、キリスト教を禁止しろと叫ぶ日本人はいないだろう。ナチズムへの異様な嫌悪感は、ユダヤ人が積み重ねてきた努力の成果である。

  ヒトラーの台頭でユダヤ人は窮地に追い込まれた。妥協を許さないヒトラーの発言により、ユダヤ人が異人種であることが再確認されたのだ。戦後、アングロ・サクソン世界に移住したユダヤ人は、快適な西欧社会から二度と追放されぬよう、徹底的に反ユダヤ主義の芽を摘むことにした。各界に浸透したユダヤ人は、執拗にヒトラーの悪魔化とナチズムへの侮蔑を、西歐人に植え付けたのである。ただ、この洗脳はユダヤ人と同類のアラブ人やトルコ人、エジプト人には効果がなかった。彼らはユダヤ人の舌に騙されない。ところが、狡猾な中東アジア人と違う西歐人は単純だから、ユダヤ人学者の口車に乗ってしまい、自分もユダヤ人になったような錯覚を持ってしまった。肉体はドイツ人に近いのに、思考はユダヤ風に染められているのだ。ドイツ人が北方種族であることを公言したって、そんなのは手前味噌で、大抵の民族が同じような主張をしているから、さして驚くことでもないだろう。例えば、モンゴル人がモンゴロイド至上主義を提唱し、世界を股にかけたモンゴル帝國を絶賛したって、我々は目くじらを立てて怒らない。モンゴル人が純粋なモンゴロイドだけで民族共同体を建設し、ゲルマン種族や日本民族を排除したって、我々は平気だし「どうぞご勝手に」と言って無視するだろう。それに、もし彼らがミス・モンゴロイド大会を開いても、我々は嫉妬に狂って「ネオ・ナチのモンゴル人に反対 ! 」と叫けばない。

  だから、ドイツ人がアーリア人至上主義やドイツ民族優越論を唱えたって、それは彼らの「手前味噌」であり、普通の日本人なら「夜郎自大だねぇ~」といって笑ってお終い。ドイツ人が郷土のドイツに、「純血の北方種族から成る共同体」を創ろうとするのは、彼らの自由である。居候のユダヤ人が激怒したからといって、西欧系アメリカ人や関係ない日本人までもが、ドイツ人を非難するのはおかしい。大学やテレビ局でユダヤ人が反ナチズムを繰り返し、ユダヤ知識人が大量の本を書きまくるので、我々は正常な判断力を失っているのだ。皮肉なのは、イスラエルのユダヤ人がナチ党と同じ異民族迫害を繰り返し、ユダヤ民族至上主義を掲げ、黒人の抹殺を謀ったことだ。ユダヤ人も自分の国家を持つと、ドイツ人と同じように振る舞うから面白い。ユダヤ人もアラブ人との混血を不純と見なし、ユダヤ人娘がアラブ人男と結婚せぬよう注意する。また、ユダヤ教徒は祭司階級の「コーエン」が古代からの血統を守ることに異議を唱えない。日本人がイスラエル版ナチズムを知らないのは、マスコミや知識人による情報封鎖と知識の隠蔽が原因である。

  北方種族のドイツ人が美しい農村に住み、純粋な子孫を増やすことを理想としたことを念頭に置かないと、ナチ・ドイツが実行した農村対策が分からない。当時のドイツでは、不景気の影響で農民の多くが借金に苦しんでいた。若い世帯はより良い仕事を求めて農村を去り、もっと稼げる都会に出てしまったのだ。1933年9月、政府は国家食糧生産団(Reichsnährstand)を創設し、農村や漁村の経済を改善しようとした。1,700万人の組織会員は農村の荒廃に歯止めをかけ、工業地帯への人口流出を防ごうとしたのである。そこで政府は農作物価格の統制に乗り出した。当然、食料品価格が上昇したから、一般国民には不評である。市場原理で決まる商品価格に政府が介入すれば、ひずみが起きるのも当然だ。サービス産業と違い、農業は各地域の伝統文化の保存や好ましい環境維持に必要だから、どうしても特別な配慮がなされてしまう。今日でもフランス政府による農民保護政策は、商業的側面より文化的事業の色合いが濃い。日本でも、稲作が廃れ農村が疲弊すれば、食糧自給の崩壊ばかりではなく、古来からの地元文化や信仰が消滅する事になるだろう。農政は単なる利潤追求では済まされないところに難しさがある。

  ヒトラーは強靱な農民階級が国民の健全性に不可欠であると考えていたから、農家に対して様々な優遇措置を講じた。国家食糧生産団は農場への不動産税を軽減し、借金を帳消しにする政策までとったのだ。こんな荒技は民衆政ではなかなかできない。独裁政だから思い切った決定を下すことができたのだ。この徳政令で借金を抱えた農家は新たなスタートを切ることができたから、農民がヒトラーを支持したのもうなづける。これとは別に、政府は地方補助公団(Landhilfe)を創設し、12万人の失業者を農場で働けるようにした。政府は彼らに給料を保障し、訓練を施したうえに、住宅まで用意したのである。学校を卒業したての若者に臨時雇用を確保し、夏休みに学生が農場で働けるよう手配した。ヒトラーは第一次大戦の時、英国による海上封鎖でドイツ人が食糧不足に苦しんだことを忘れていなかった。大戦中は75万人(主に女子供であった)が、栄養失調で亡くなっていたので、ヒトラーは食糧の自給自足ができるよう目指したのである。現在でも、日本人は農産品の自由化を賛成する一方で、食糧の国内生産や農村文化の維持を心配をしているから、TPP交渉では慎重になるのだろう。ナチスがやった社会主義政策だから一概に悪とは思えないし、戦後の西欧諸国もドイツと同じような保護主義を取っていたのだ。

ドイツの労働者がヒトラーを熱烈に支持

Nazi Women 2






(写真/ナチス式敬礼をするドイツ人女性)

  ナチ党は国家社会主義政党だから、労働者のための政策を推進するのは当然だった。戦後、アメリカやブリテンのユダヤ人やその追従者が、激しくナチスを罵倒したので、日本人もナチスを自動的に拒絶するよう調教されているのだ。確かに、ナチ体制下のドイツだと、ユダヤ人は辛い目に遭っていたから、良いことはなかった。住み慣れた地域を追い出され、財産を没収された上に、強制収容所に送られたのだから、恨み骨髄でも当然だろう。しかし、そもそもドイツはドイツ人の国であるから、ドイツの歴史を学ぶ時には、ドイツ人の立場や視点で考えなくてはならない。それに、注意しなければならないのは、ユダヤ人じゃないけど、左翼思想を持つドイツ知識人が正体を隠して学術本を書いていることだ。自虐史観で本を書き、自分だけは正義を体現していると仄めかす人物があちこちにいる。歴史や経済の本を出版するのは特殊なドイツ人だし、書物を執筆できない労働者は自分の意見を表明できない。しかも、戦後のドイツ罪悪史観により、労働者は本音を語ることはなかったし、あったとしても言い訳めいたものだった。我々はユダヤ人の恨み節ではなく、ナチ党がドイツ人にもたらしたプラスとマイナス面を検討すべきなのだ。

  第二次世界大戦における戦争経済を述べるとキリが無いから、ここでは戦争以外の事柄について考えたい。ナチ政権の出現によって、ユダヤ人は散々な目に遭ったが、ドイツ人労働者の生活水準が向上したことは確かだ。労働者はヒトラーのお陰で生活が良くなってしまった。例えば、ヒトラーは賃金形態の見直しを行ったのである。役職による給料ではなく、働きや能力に応じた報酬にすべしという考えだった。これは今日の保険会社と似ていて、やり手のオバちゃん外交員は、外回りでたくさんのお客と契約を結べば、オフィスで命令・監督する係長より給料が高かったりする。上司だから部下よりも給料が多いとは限らない。ヒトラーも同じ考えだった。ただし、特筆すべき点がある。ヒトラーは上流や中流階級を嫌っていたが、上層階級を引きずり下ろすことで、下層階級を向上させようとはしなかった。それはドイツ国民が階級ごとに対立し、同質民族の共同体を引き裂くことになるからだ。

  ヒトラーは労働者の賃金ばかりではなく、労働環境や待遇にも関心があった。彼は会社経営陣による労働者の搾取を非難し、労働者の酷使に対して懲罰を加えようと提案したのである。1934年1月に政府は労働規制法を制定し、労使間にある階級区別や差別的序列をなくそうとした。職場では命令者から指図されて盲従する労働者ではなく、指導員と従事者との関係になって、協力しながら仕事をせよと勧告したのである。これは、今日で言うブラック企業への行政指導みたいなもので、弱い立場の派遣社員や臨時社員を保護しようとする規制に近い。労働者保護の背景には、ヒトラーの個人的経験も含まれていたようだ。1942年5月20日の夕食で語ったことは興味深い。ヒトラーは秘書や店員、藝人として働く女性が、きちんとした生活ができるくらいの収入を得られるようにしてやった。ヒトラーによると、それまでの女性は小間使いのように扱われていたけれども、能力に応じた給料を得られるようになったらしい。ヒトラーのお陰で彼女たちは、生活のために男友達に頼るという惨めな生活から抜け出せたのだ。

Nazi Germany 1Nazi Germany 2







(写真/ナチスを歓迎するドイツの民衆)

  伍長上がりのヒトラーは、下働きの女性に同情したのだろう。彼は劇場の踊り子達が酷い待遇を受けていることに憤慨したのだ。コメディアンにはユダヤ人が多く、ベルリーナ・メトロホールといった劇場で15分ほど下品なお喋りをすると、月に3千ないし4千マルクも稼ぐことができたという。それなのに、踊り子達には70か80マルクしか払われない。しかも、彼女たちは15分の出番のために、一日中稽古をつづけるのだ。はした金にしか思えない給料のせいで、彼女たちは街角に立つしかなく、劇場は売春宿と変わりない場所になっていた。ヒトラーは踊り子達の給料を180ないし200マルクほどに引き上げて、踊りに集中できるようにしてやったのだ。その結果、劇場は本当に綺麗な女の子だけを雇うようになり、彼女たちには本格的な訓練が与えられたそうだ。さらに、劇場は踊り子達に教育を施すようになり、年齢的な限界を迎えれば、引退して結婚できるようになったという。( ヒュー・トレヴァー・ローパー 解説 『ヒトラーのテーブルトーク 1941-1944』 下巻 吉田八岑訳 三交社 1994年 pp.169-170)

  庶民の生活を熟知していたヒトラーは、上流階級の経営者やオーナーが、身分の低い労働者を奉公人か召し使い程度に扱って侮蔑するのを許せなかった。だから、政権を握った時に、労働者が望むような社会にするため、政治権力を揮ったのである。もっとも、企業経営に政府が介入するのは弊害が多いが、当時は雇用者側と従業員側の区別が著しかったので、雇われ人には権利といったものは、ほとんどなかった。民間企業の工場やオフィスというのは、株主や経営者の私有物であり、政府が口を挟むものではなかったのに、ナチス時代になると公的な領域に変貌したのである。現在の日本でも、悪質な企業が存在するから行政が介入する場合がある。例えば、ある全国チェーンの衣料品店では、名ばかりの正社員が無料残業や不規則な勤務時間を強いられたりする。24時間営業の牛丼屋だと、店長にさせられたヒラ社員は、パート・タイム社員より苛酷な勤務になる場合があった。無茶な売上げノルマを課されたり、連続で夜勤を命令された者が、ノイローゼになって自殺したケースもあったらしい。筆者も知り合いから聞いた話がある。その人の伯父さんは小規模の運送会社に勤めていて、長距離トラックの運転手をしていた。ある日、お昼休みなので、一緒に乗っていた助手は食堂に行き、その運転手はトラックの中で一人弁当を食べた。休憩時間が終わったので助手がトラックに戻ってみると、相方の運転手は居眠りしているように見えた。しかし、体をゆすっても起きず、亡くなっていたそうだ。昼夜かまわずの無茶な勤務を続けていたので、心臓に負担がかかっていたらしい。明確な原因は分からないが、不規則な仕事は寿命を縮めてしまうものだ。現代の社会問題を考慮すれば、ヒトラーの労働者保護政策は先駆的なものであったと言えよう。

  ユダヤ人にとって冷酷な殺人鬼であるヒトラーでも、ドイツ人労働者にとっては親分肌の為政者であった。非西欧系のセム人種たるユダヤ人は強制収容所に押し込められたが、同胞のゲルマン人労働者には新しいタイプの住宅が供給されたのである。ワイマール時代のドイツだと、労働者の住宅は酷いもので、一部屋あるいは二部屋に台所しか附いていない住宅が、全戸数の47パーセントを占め、およそ90万世帯が狭苦しい生活を強いられていた。新築住宅軒数は1929年がピークで、317,682戸となっており、1932年には141,265戸であった。半数近くが小さな家屋で、400万から600万の住宅が近代化の必要があったという。多くの住宅で電気が通っていなかったり、上下水道が完備されていなかったから、シャワーや浴槽すらない家庭が珍しくなかった。こうした惨めな生活状態を鑑みて、子供を作る気がしない夫婦が増えてしまうことをナチスは懸念したのである。そこで、ヒトラーは労働者の住宅事情を改善すべく、政府が主導権をとって快適な住宅を供給しようと考えたのだ。

  ドイツ労働省は「国民住宅(Volkswohnung)」という新型住宅を提案した。このタイプにはベッド・ルーム二つと台所、浴室が附いている。ドイツ労働戦線(Deutsch Arbeitsfront)は、労働者の家族がゆったりと暮らせるよう、広々とした住宅を作りたかった。そこで、帝國住宅局長官のシュタインハウザー博士は、民間企業と共同でこの住宅建設に取り組み、実現化を目指したのである。一方、ドイツ労働戦線は協力した企業を表彰し、好意的な宣伝もしてやったというから、今日で言えば役所や政党が企業のイメージアップを手伝ったということだ。フォルクス・ワーゲンの時と同じく、ヒトラーは具体的な構想を持っていた。彼はセントラル・ヒーティングを備えた住宅に、石炭と電気を併用した調理器具とお湯が出るシャワーを設置することを提案したのだ。この独裁者は細かいことにまで気がついていた。シャワー附き住宅を建築する際、子供でもシャワーを使えるよう、壁の低い所にもシャワーを設置するよう命じたのだ。菜食主義者で知られるヒトラーは、一般人の健康や公衆衛生を考慮した政策を実行したのである。

夢の海外旅行を企画したナチス

  ナチ・ドイツがテレビ放送を開始したり、ラジオの普及に務めたりしたことはよく知られている。しかし、ドイツ政府は庶民に娯楽だけを提供したのではない。当時、裕福な家庭しか持てなかった冷蔵庫を、一般家庭でも購入できるくらいのものにしたのだ。つまり、政府は高級品だった冷蔵庫を、基本的な構造にして生産し、手頃な値段で販売できるよう、製造業者に開発を命じたのである。これは凄い。1930年代の日本で冷蔵庫を購入できる労働者などいなかった。昭和20年代くらいまでは、氷を入れて物を冷やすタイプの冷蔵庫が普通で、電気で冷やすタイプが一般に普及するのは昭和30年代からだった。それまでは冷蔵庫は高級家電。ディスカウント・ストアーの無い時代には、一台8万円くらいの値段で、当時のサラリーマンがもらう給料の10ヶ月分くらい。昭和30年代後半から40年代になって、ようやく冷凍室附の冷蔵庫が普及したから、日本はかなり遅れていたのである。冷房なんかまだ先の話で、百貨店で涼むのか一番だった。

  ヒトラーが抱いた労働者の理想は、住宅供給ばかりではなかった。新型住居を作っても、住宅街や環境をどうするのかまで考えないと支那人と同じだ。ナチ党員には労働者が田舎に住むことを提案する者がいたが、ヒトラーはそんな計画は無駄だと一蹴り。藝術家肌の総統は、快適で美しい街並みをもった住宅地を描いたのである。有名な建築家のアルバート・シュペーア(Albert Speer)博士や労働戦線リーダーであるロバート・レイ(Robert Ley)博士と相談して、ヒトラーは住宅地のデザインを練った。自動車が行き交う大通りから離れた場所で、美しい景観を保つ住宅街にしたかったらしい。歩行者や自転車用の道を整備し、散歩道や公園を有した閑静な住宅エリアを望ましく思っていたのだ。ヒトラーの計画に基づいて建設される住宅には、工場で予め切断・加工された材料が使われたので、レイ博士の計算によると、建築コストを半分にまで削減できたという。

  一般労働者にとって関心が高いのは、今でもそうだが住宅と健康である。当時の職場だと、薄暗い電灯のもとで仕事をしたり、雑音でうるさい工場で長時間働くから、健康を損ねる労働者が多かった。ホーム・ドクターなど持てなかったから、病院で診察を受けるのは、本当に具合が悪くなったり、緊急を要する時だけ。現在のアメリカだって健康保険に加入していない労働者は多いし、医療費が高額なので、ちょっとした病気なら薬局に行って薬を買うのが普通だ。中には、アメリカでの薬代が高いので、カナダに渡って安い薬を買う者さえいるという。当時のドイツだと、病院や医者がいない田舎もあったから、今より死亡率が高かった。そこで、国民の健康を守るため、レイ博士は終身医療券を各国民に支給して、政府が治療代の面倒を見ることにした。これは我々の国民健康保険制度と似ている。さらに、ナチスは病気になった労働者の給料も考えていたのだ。病気に罹った従業員は、療養中でも給料の70パーセントを貰うことができたという。また、家族の看病をするため休む従業員にも、経営者は同様の給料保障をする義務があった。政府はこうした一連の出費を抑えために、病気の予防策を重視する。ドイツ労働戦線は、国民の健康増進を図るため、温泉地や休養所、娯楽施設をつくって、労働者が週末を過ごせるようにしたのだ。政府はまた、労働者に病気を防ぐ助言を与えたり、規則正しい生活や健康な毎日を送れるよう教育したという。

  庶民が仕事と家庭に安心できるようになると、どうしても娯楽が必要になる。そこで、労働戦線は「喜びを通して力を恢復する(Kraft durch Freude)」というスローガンを掲げて、「慰安公団(歓喜力行団 / KdF )」という部局を創った。労働者は休日に家でごろ寝したり、だらだら過ごすべきではない、という発想からリクリエーションの重要性を説いた。ヒトラーは気力・体力の回復には旅行が一番と考えていたらしい。こうしたことから、慰安公団はドイツ国内のリゾート地だけではなく、外国旅行まで計画したのである。ナチス政権以前、休暇で旅行を楽しめる庶民なんかほとんどいなかった。慰安公団は低価格のパック・ツアーを用意したから、低所得の労働者家庭でも旅ができたのだ。この団体旅行では交通費、食事代、宿泊代が含まれており、利用者は登山、水泳、娯楽施設、ハイキング、キャンプ等を自由に選べた。1934年には200万人以上の国民が短期の休暇旅行を楽しんだという。この数は年々増加し、1938年になると約700万人が参加し、観光客で賑わうリゾート地は大繁盛となった。

  こんな事は独裁者ヒトラーだから実現したのであって、企業経営者からの献金で当選した政治家では、反対を喰らって断念するしかない。1933年11月、ヒトラーは全ての企業が社員に充分な賞与が払われるよう命令した。以前なら、労働者の約3分の1は労働契約を結んでおらず、休暇(バケーション)のない雇用形態だった。1931年だと、賃金労働者の30パーセントは、年に4ないし6日しか休暇が貰えなかった。ところが、61パーセントを占める多数派は、年に3日だけだったという。ナチス政権は全ての労働者が半年以上勤務すれば、最低でも年に6日の休暇を得られるよう保障したのだ。勤続年数の長い労働者なら、一年で12日間の有給休暇を貰えるようにしたのである。後にレイ博士は4週間の有給休暇を労働者が取れるように奮闘したそうだ。こうして、多くの国民がドレスデン号やモンテ・オリヴァー号に乗って、航海に出発したのである。

Norway 1Portugal 1








(左: ノルウェーのフィヨルド / 右: ポルトガルの城)

  手頃な価格の団体旅行は労働者に大変好評で、KdFの客船は、労働者にとって夢の船になった。1934年の暮れに行われたノルウェー・ツアーには、8万人の労働者家族が参加し5日間の航海を楽しんだ。KdFの船はこの他、イタリアのジェノア、ナポリ、パレルモ、バリにも向かう便があった。ドイツ人を乗せたKdFの客船がイタリアやポルトガルの港に停泊すると、地元の住民はドイツの労働者が休暇旅行を楽しめることに驚いたという。南欧の庶民にとって、海外旅行は上流階級の娯楽であり、平民が手を出せるレクリエーションではなかったからである。1938年には港のドックで働く労働者1,465名が、ウィルヘルム・ガストロフ号に乗船し、無料クルーズを楽しんだ。もっとも、旅行の費用は会社持ちだったこともあって、経営者側の負担になったらしい。しかし、現在では普通の事になっているから、ナチスは時代に先駆けた福祉政策を実行したことになる。ノルウェーやスペイン、ポルトガル、イタリアを回ったKdFの客船は、貧しい労働者家庭に外国旅行という経験をさるという快挙を達成したのである。現在のアメリカ人だって、外国旅行などしたことがない労働者はたくさんいて、キャンピング・カーで他の州を旅するくらいだ。仮に外国旅行ができても、車に乗ってメキシコ旅行では、ちょっと夢がない。

  筆者は社会主義に反対の立場を取るので、ヒトラーの政策に賛成できない点も多いし、ナチスが実現した制度や法律の危険性を承知している。しかし、ドイツの歴史は当時の価値観で判断すべきで、現在の価値観やユダヤ人の怨念で裁くべきではない。現在の我々はユダヤ人による一方的な価値観の刷り込みにより、冷静な判断を下せなくなっている。「ヒトラー」とか「ナチス」という言葉を聞いただけで、ある種の拒絶反応を示すよう躾けられている。パブロフの犬と同じだ。ヒトラーのしたことを少しでも肯定すると、世間は直ぐ「ネオ・ナチ」というレッテルを頭に思い浮かべてしまう。しかし、ナチ・ドイツの歴史は、西歐史の枠組みの中で検討すべきで、ユダヤ人の目や頭を通して眺めるものではない。特にナチスの人種論に至っては、欧米人はおろか日本人でも常識的に考えられないのだ。図書館に行けば、ユダヤ人によって書かれた本が、棚にびっしり並べてあるし、授業ではユダヤ人に同情する学者かユダヤ人教授により講義が行われている。映画やTVドラマはユダヤ人が出演して、ユダヤ人によって制作され、ユダヤ人の投資家がお金を出して、ユダヤ人の会社が配給しているのだ。さらに、ユダヤ人が支配するマス・メディアによって宣伝されているから異常である。もう嘆くしかないが、一般人はこうしたことに疑問すら持たないし、高等教育を受けた者ほど思考が硬直しているのだ。こうした精神病を治療するには大変な努力を要する。次回はナチスの人種論を取り上げてみたい。




人気ブログランキングへ