勇敢な軍人とは

  毎年八月は日本国民が先の大戦を反省する恒例行事で一杯だ。今年は半藤一利の小説(史書?)を原作とした映画『日本のいちばん長い日』が上映された。「また、あの半藤かよ」と吐き捨てたくなるような作品である。それに、阿南惟幾(あなみ・これちか)を演じるのが役所広司で、別の映画で極悪人の山本五十六を演じた俳優だ。筆者の好みだから勘弁して貰(もら)いたいが、役所氏の演技は大したことないし、俳優としての魅力をいささかも感じない。共演者の山崎努の方がよっぽど演技が上手いし、キャラクターの存在感がある。今回は映画評論ではないので内容には触れない。ここでは、軍人の質について考えたい。我々は大東亜戦争を振り返るたびに、昭和の軍人や政治家の愚劣さに辟易してしまう。明治維新の頃は、大所高所に立って政局を観ることのできる元勲がいたし、軍人だって一級の人物が各藩にいたのだ。日清・日露の戦役では、我が国の軍人は勇猛果敢で、まさに武士の鑑であった。大東亜戦争を指揮した高級将校と比べれば、知力や力量の点で雲泥の差がある。初期の帝國陸海軍には、智将、猛将、驍将、烈士、勇士が綺羅星の如くいて、ため息が出るほど羨ましい。

半藤一利役所広司役所広司2山崎努1








(左: 半藤一利 / 役所広司 / 山本五十六役の役所広司 / 右: 山崎努)

  翻って、大東亜戦争を指揮した将官を見るとうんざりする。米国相手に一年くらい暴れてみせよう、と啖呵を切った山本五十六は、卑怯者で戦術・戦略も理解できなかった愚将もいいとこだ。保守派論客を装い、帝國海軍の卑劣な愚将を美化していた阿川弘之らの罪は重い。だいたい、真珠湾奇襲の時、どうして山本司令長官が率先して奇襲作戦を指揮しなかったのか? 水雷戦術には詳しくても航空戦に疎い南雲忠一を指揮官にして、ハワイの現場を任せるなんておかしいだろう。五十六が奇襲作戦を提案した総責任者なら、戦場の最前線で陣頭指揮を執るのが普通だろう。たとえ刺し違えても、必ずやハワイの米国海軍を全滅させる、といった気概で戦うのが、本当の指揮官である。帝國海軍士官が模範としたホレイショ・ネルソン(Horation Nelson)提督は、トラファルガーの海戦に臨んだ時、旗艦ヴィクトリー号の甲板上に現れ、飛び交う弾丸を気もせず悠然と指揮を執っていた。しかし、この勇敢な英国軍人は激戦の最中、フランスの艦船ルドゥタブル号から発射された兇弾に斃れる。左肩に当たった銃弾は脊椎を貫通して、この偉大なる提督の命を奪ったのだ。

Horatio Nelson 1東郷平八郎南雲忠一









(左: ホレイショ・ネルソン / 中央: 東郷平八郎 / 右: 南雲忠一)

  我が帝國海軍が誇る東郷平八郎元帥は、このイギリス人の英雄を模範としていたのである。日本海海戦に於いて、戦艦三笠に乗り込んだ東郷元帥は、敵の砲弾をものともせず、甲板上で仁王立ちになってた。皇國の命運を背負った武士は、勝つことのみを目指し、軍神の権化となって采配を揮っていたのだ。若き日に従軍した薩英戦争で、死んでいたかも知れぬ元帥は、決死の覚悟がとうにできていた。しかるに、聯合艦隊司令長官となった山本五十六は、部下がハワイで命懸けの戦闘を繰り広げているのに、瀬戸内海に戦艦長門を停泊させ、そこから指令を送っていたのだ。自分だけ安全地帯に隠れて、勇ましい言葉を発し、高みの見物を決め込んでいたのである。一方、艦隊保全を優先させた南雲司令官は、石油タンクなどを反復攻撃をせず、適当な戦果で満足し、さっさと引き揚げてしまった。連合艦隊が成し遂げた戦果とは、最終的に撃沈したアリゾナとオクラホマの戦艦二隻である。これでは、腰の重いアメリカ国民を激怒させるために、わざと吹っかけた喧嘩程度じゃないか。東映の映画『連合艦隊司令長官 山本五十六』は、卑怯な司令長官の本性を隠すためのカモフラージュ作品だろう。半藤一利の原作を基にして作られたから、今さら目くじらを立ててもしょうがないが、実にイヤらしいプロパガンダ映画である。

激痛を我慢した若武者

  戊辰戦争や明治維新で頭角を現した軍人には、後世の将校に見られないガッツがあった。南雲中将に、武士の剛胆さがあれば、アメリカ太平洋艦隊に大損害を与えられたはず。(もっとも、米国海軍の空母は無傷であったし、ローズヴェルト大統領が予め奇襲作戦を知っていたから、ハワイ攻撃は最初から無意味であった。詳しくは、ロバート・スティネットの『真珠湾の真実』を参照。) とにかく、昭和の帝國陸海軍には、責任は取らないが、勲章は欲しがる輩が多かったので、彼らの指揮下で戦った兵卒が不憫でならない。大東亜戦争で指揮官になった者や兵の命を粗末にした参謀を、今さら明治に生きた将軍たちと比べても仕方ないが、なぜエリートが変質したかを調べることには価値がある。そこで、今回は、山地元治(やまじ・もとはる)将軍を紹介したい。

  山地元治は土佐藩士である山地元恒のもとに生まれ、幼名を熊太郎と言い、次いで貞之助と称した後、「忠七」と改めた。そして、明治なる頃には「元治」と名乗っていた。幼少時代に片目を失ったことから、仙台の伊達政宗に比せられ、元治には「獨眼龍(どくがんりゅう)」との渾名がつく。武家に生まれた山地将軍は、封建時代の雰囲気の中で育ち、武人としての鍛錬を積んでいたらしい。立派な武士の淵源を探ると、大抵そこには良き家庭があるものだ。後に獨眼龍将軍が功名を挙げることができたのは、その御母堂(ごぼどう)が授けた薫陶によるところが多いのではないか。幼児の頃より、古えの武士や賢者の逸話と共に、忠節義烈の美談を聴きながら育ったのである。こんにち流行っている、有名私立幼稚園に入るための受験勉強ではない。山地家はその家系を辿れば、遠く楠木正成(くすのき・まさしげ)にまで遡るという。山地将軍の御母堂は、「汝、成長して菊水の末流の名を辱めることはせぬように」と訓育していたそうだ。この誡めは、元治の純粋な童心に深く刻まれ、終生の規範となったのである。

山地元治 1 (左/山地元治)
  獨眼龍将軍となる元治少年は、子供の頃、ふとしたことで眼球を失うことになった。ある日、近所の児童と戯れに「鬼ごっこ」をしていたそうだ。元治が鬼に追われて走り、笹藪の生い茂る場所まで来た時のことである。たまたま、小さな溝を跳び越えたのだが、着地する時過って地面に倒れ、その目を竹で刺してしまった。眼球からは血が滴り流れ、一緒に遊んでいた子供たちは、急ぎ彼の母親にこの惨状を告げようとした。しばらくして御母堂が駆けつけると、我が子の右目は瞳孔が破れて、顔面は流血で真っ赤に染まっていたという。普通の子供なら激痛に耐えられず、発狂したように泣き叫ぶだろう。しかし、元治は泣きながらも、必死で堪えていたらしい。すると、その元治を見た御母堂は、「武士の子が僅か一眼の傷くらいで泣くことがありますか」と叱ったそうだ。元治はこれを聞いて歯を食いしばり、俄に泣き声を押さえたという。(『近世名将言行録』 第二巻 吉川弘文館 昭和9年p.220)

  さすが武家の母親は違う。現代の母親なら、鮮血に染まった息子を見て取り乱し、我が子を抱きながら医者の元へ急ぐに違いにない。病院に直行した母は、息子の傷を心配する余り、発狂したかのように号泣するだろう。平民の親なら、重傷を負った子供に「我慢しろ」なんて口が裂けたって言えない。第一、そんな言葉さえ思い浮かばないはずだ。武士の妻は、“いざ”という秋(とき)の振る舞いをたたき込まれている。名誉を守るためなら、自害することだってあり得るのだ。武士を育てる母親は、息子に苦痛に耐え、名誉を重んじ、戦場で斃れようとも奮闘することを教える。命より名を惜しめ。恥を知り、義を尊べ、と諭すのだ。今の親だと、左翼かぶれの保母と一緒になって、「危ないところには近寄っちゃダメよ」とか「命が一番大切なの」、「他人を傷つけちゃいけないわ」、なんてことを平然と教えている。「およげ ! たいやきくん」でも、最後にたい焼き君が食べられちゃうのは可哀想だから、省略して歌わないという親だっているくらいだ。そんなら童話『桃太郎』で、鬼退治を実行した桃太郎は、大量殺戮犯になってしまう。左巻きの親からすれば、鉞(まさかり)担いだ金太郎だって、銃刀法違反の危険人物である。女々しい母親からは、男らしい息子など生まれやしない。蛙の子は蛙だもん。

  元治少年の御母堂様は冷酷な親に思えるが、そうした厳しい躾ができたのは、海より深い親子の絆があったからである。幼少時に母親から溢れるほどの愛情を吸収して育った子供は、どんな困難にも堪えられるし、人間の基本ができている。こうした子供は、黙っていても人徳が滲み出て、尊敬に値する人物であることが多い。つまり、人格の根幹がしっかりしているのだ。明治の頃、日本人が驚くほど立派で、忠義に厚く、勇敢に戦えたのは、家庭に於ける健全な価値観と濃厚な親子関係があったからである。子供の自主性を尊重する、なんてほざく左翼家庭の子供を見れば分かるだろう。軽薄な家庭で育った子供は、どこか頼りなく、破廉恥で卑怯なくせに、異常なほど自尊心が高く、鼻持ちならないロクでなしがほとんど。敗戦後の日本人が変質したのは、伝統的家庭が劣化し、その数が減少したことに起因する。共産主義者にとり、立派な人物を育てる家庭は敵である。悖徳の“ならず者”や、他人を妬むゴロツキこそ、革命の闘士になりやすい。だから、共産主義者は家庭の破壊を目指すのだ。

山内容堂(左/山内容堂)
  山地家の御母堂様の訓育は、将軍が成長してからも続いたようである。元治が藩主山内容堂(やまのうち・ようどう)に隨って江戸にいる時、郷里の母が病に伏したとの書簡を受け取った。元治はたいそう心配したらしい。そこで、直ちに手紙をしたため、近く交代することになるので、その時期を早めて急ぎ看護に赴きたい、との旨を伝えたそうだ。すると、御母堂はこの書簡を読み、機嫌を損ねたらしい。母は息子に、「汝は何ゆえ君主に仕えて居るのか。公私を混同することを教えたつもりはない。今は帰郷を延期してでも、君侯の側に侍り、忠勤を致すべき時である。しかるに、軽重公私を転倒するが如き根性を見せるとは、甚だ心得難き處である」と厳しく誡めたそうだ。(p.222) 日本人は儒教を重んじたと言うが、支那人や朝鮮人とは決定的に違う。彼らにとっては、主君より両親の方が遙かに尊い。殿様なんか何人もいるし、誰に仕えるかは利益次第である。しかし、両親となれば替わりが居ない。親が重病だったり、危篤になれば、戦闘中だって勝手に帰郷してしまうのだ。親孝行が忠君に優先擦るのは当然。日本人は親の臨終であっても決して戦場を離れない。義務の前では孝行が些末なことになる。これを聞いた支那人や朝鮮人なら、腰を抜かして驚くだろう。日本人はすべてが終わってから、ひっそりと帰郷して親の墓に向かうのだ。元治の御母堂は当時として珍しくない。武家の母親なら自然な態度である。後に、藩主容堂は乾(板垣)退助からこのことを聞き、その書簡を見せるよう命じたという。元治はやむを得ず書を主君に差し出すと、容堂は「この母にしてこの子あり」と大いに称賛し、愛蔵していたギヤマン(硝子)の盃を賜った。当時、ガラスの盃は貴重品である。以降、この盃は山地家の家宝となったそうだ。


実戦が選抜試験だった

  明治の軍人は士官学校の秀才ではなかった。海軍兵学校や陸軍大学校が出来るのは後のことで、幕末の志士は実戦で戦争を学んだ人物がほとんど。机上の勉強ではなく、実弾が飛び交う戦場で、本当の“修羅場”を体験したのである。維新の元勲と同じく元治も戊辰戦争に参加し、奥州征討では、白河、棚倉、三春、本宮などで闘い、ついに若松城に迫った。特に本宮での闘いは危ないところだった。白川街道で幕府軍は館林藩の陣営を襲撃し、官軍は苦戦を強いられたという。この知らせを聞いた土佐藩の兵隊は、急ぎ救援に駆けつけ、激戦のすえ敵兵を撃退せしめた。そこで敵軍は高倉村に退却し、かの地で防戦することにしたらしい。元治が率いた胡蝶隊(こちょうたい)は、吶喊(とっかん)して敵軍に襲いかかり、悉く掃討したという。この時、元治は宮本と郡山の中間にある高倉駅を攻略した。彼は戦闘に臨むとき常に先頭に立ち、その勇姿を示していたのだ。元治は戦闘の途中、高倉川沿いの小道で、敵将と覚(おぼ)しき者2名を発見したという。胡蝶隊の教導、五十嵐幾之助と共に、路傍の小高き場所に身をかがめていたが、元込銃を持つ五十嵐は敵目がけて一発撃った。しかし、その弾が中らなかったので、第二弾を詰め込もうとしたという。ところがその間に、敵2名が接近してきたのである。彼らは腰に帯びた佩刀(はいとう)を抜いて斬りかかってきた。元治はとっさに道路に飛び出し、前方の敵と向かい合う。殺気に満ちた敵兵は、上段から刀を振り下ろし、元治を一刀両断にせん、と試みた。元治はこれを受け流し、そのまま胴斬りを加えて、反撃とする。そして身を翻すと、返す刀で後方の敵にも一撃を加えたという。

  全身の血が燃えたぎった敵は手強い。元治に斬られた初めの敵は、深傷(ふかで)を負いながらも五十嵐に襲いかかった。五十嵐は銃を捨てて刀に持ち替え、捨て身になって敵を斬り倒したのである。その間、元治はもう一方の敵と挌闘していたという。やっとのことで倒したものの、彼自身も無事ではなかった。無我夢中で戦った元治は、右肩と右脚の太腿に重傷を負ってしまい、三春の療養所に運ばれたのである。ところが、若松城攻略をの知らせを聞きつけると、相当な傷を負った身であるにもかかわらず、馳せ参じて再び兵を率いたという。名将野津道實(のづ・みちつら)もそうであったが、幕末の武士ときたら、負傷しても戦列に戻ってくるんだから、命知らずというか、闘魂の権化である。戦場で死ぬことは男子の本懐、と教えられて成長した武士の子は、庶民と根本的に違うのだ。生まれた時から、人の上に立つ武人として育ってきたから、戦さで討ち死にすることを当然と考えている。

  西南戦争でも元治は勇気を見せた。元治は人吉城(ひとよしじょう)の戦いにおいて、街の北方にある要衝の村山を占領し、敵を市街に追い詰め、ついに敵軍を球魔川の南に退却させたのである。そこで、彼は勢いに乗って城中の薩摩兵と戦ったのだが、薩軍の放った火は川の南に位置する市街に飛び移り、その地は火の海となってしまった。官軍の将校は球摩川の橋梁が焼け落ちたので、撤退して村山附近に陣を布く事にしたという。ところが、元治は敵情を視察するため土橋附近に赴いた。その時である。敵が城より砲弾を発し、その弾は橋頭の樹林を貫き破片となった。この破片が元治の左股に刺さった。砲弾の余勢に圧倒され、後ろに倒れた元治は、憤然として起き上がり、前方に数歩走ったという。驚いた部下が助けようとすると、元治は「安心せよ、五、六歩を走りえたくらいぢゃ、大したことはない。我を捨てて、汝らは突撃せよ」と指示を出した。その後のことは岡本大尉に託して、自らの負傷を司令官の山田顯義に告げて、井口の包帯所に向かったという。

  このように、明治日本の軍隊を率いた指揮官は、いつ死んでもおかしくはない戦闘を生き抜いてきたのだ。理論ではなく実戦を通して兵法を体得した軍人は、戦闘の秘訣(コツ)を弁えている。血しぶきの洗礼を受けた彼らは、生半可な学校秀才とは格が違うのだ。筆記試験では実弾が飛んでこないし、猛獣のような敵が抜刀して斬りかかってくることもない。狂戦士(バーサーク)と化した武士が、渾身の力を込めて刀を振り下ろす恐怖は、それを味わった者でないと分からない。この戦慄が軍人を鍛えるのだ。分厚い教科書を暗記しただけの優等生は、白兵戦の何たるかを理解しないまま士官となる。だから、頭でっかちの少尉に従う兵卒は、哀れ皆お陀仏。血も凍るような修羅場を生き延び、生傷を重ねてきた猛将は、冥府魔道に生きる剣豪と同じく、どっしりと肝が据わっている。明日をも知れぬ兵卒は、指揮官の成績表なんか当てにしない。生死が決まる戦場に置かれた兵卒は、本能的に指揮官の手腕を嗅ぎ取り、信頼できる人物か否かを判断するのだ。

  身体に傷を負った元治だが、その剛毅な精神は萎縮することはなかった。長崎病院で療養していた元治は、主治医からある養生法を授かったという。医師曰く、気分が良ければ病院の庭を、毎日1時間ほど散歩するのが宜しかろう、とのことであった。そこで、愚直な元治は毎日これを実行したのだが、彼は晴天雨天を問わず、豪雨の中でも平然と散歩したので、これに気づいた担当医は驚き、ほとほと困ったらしい。そんな療養生活を送っていたところ、薩摩兵が官軍の包囲を突破して、長崎に闖入したとの情報が病院に届いた。入院中の将校や士官らはこの知らせを聞きつけ、不安で怖じ気づく者が出たという。中には、大阪の病院に搬送してくれと乞う者が出る始末。元治は彼らを諫めて曰く、「敵が恐ろしければ、速やかに軍職を捨てよ。軍人である以上、いつ何時敵と遭うやもしれぬ。むしろ、それは本懐であるべきだ。我不幸にして負傷し、戦地を退き、空しく病床に伏して居る。まことに脾肉(ひにく)の嘆に耐えぬ。敵が此処に来襲すれば、却って会心の挙である。座しながらにして闘うことができる。これ武人の望みを達しうるのである」と。(pp.239-240) 大阪への移動を願っていた者たちは、元治の言葉を聞き、以降沈黙を守ったらしい。

猛烈な闘争心

  獨眼龍将軍との異名を持つ元治が、指揮官としての能力を発揮したのは、何と言っても日清戦争の時である。彼の第一師団は金州攻撃を目指して進撃していた。元治は敵情を視察すると、歩兵第十五聯隊に敵の正面を衝かせ、師団の主力は遠く北方に迂回させて、敵の左側を衝くという作戦に出た。しかし、この迂回路が容易に分からなかったのだ。地図はあれど甚だ不完全で、頼りにならない。ただ、前日に騎兵隊の斥候が通過したことがあるというだけであった。しかし、この斥候とて道を正確に記憶していたわけではない。それでも山地師団は前進する。山中の道は相当険悪で、何処をどう行ったら良いのか、さっぱり見当もつかない。朝から行軍すること15里。野砲を人力で運んでいたこともあり、夕方には士卒も疲労困憊し、行軍は甚だ困難となった。行けども行けども、一向に目的地へ到達しないのだ。将兵皆懐疑的になり、路が間違っているのではないか、と悲観する者が続出したという。

  しかるに、山地師団長は、悠然として手綱をとり、馬を進ませながら部隊の先頭を切っている。その冷静沈着なる姿を見た部下たちは、疑惑の念を振り払い、再び元気を取り戻して行軍を続けたらしい。日没後になったが、一同はようやく復州街道三十堡塁に到着。落ち着いてから、ある副官が元治に尋ねたそうだ。「あの山中では師団長閣下もご心配だったろうと思いますが、なにゆえ閣下は黙っておられたのですか?」そこで、元治曰く、「なに、わしがあの際何とか言えば、皆がいよいよ落胆し、却ってそれがために途を失することになるぢゃろう。そう思ったから、わしは殊更、黙っておったのぢゃ。よしんばあの時、わしが何か言ったところで、それで不明の道路が急に知れてくる訳でもなかろう。どうせ迷ったなら、遅くなってもいいから、目的地に出ることだ。それ以上言うことはない。」こう述べると、将軍は一笑されたという。(原田指月 『命を棄てて』 文武書院 大正13年 p.345) 元治の態度は確かに正しい。師団の誰も道が分からない以上、いたずらに騒いでもしょうがない。軍隊を率いる大将が心配する様子も見せず、堂々とした態度を示せば、不安に駆られた部下も何となく安心するものだ。元治は全軍の士気が落ちることを懸念したからこそ、あえて平生を装ったのである。

  日清・日露の戦役を指揮した将軍には、直感に優れている、というか戦に慣れているベテランが多くいて、不可能と思われる戦闘を可能にする才幹に恵まれていた。金州城を攻める前日のことであった。乾家子に露営する我が軍を外国からの軍人が訪問したという。しばらく談笑した後、これらの武官が去ろうとした時だった。元治は彼らに向かって、「明日、金州城内でお目にかかろう」と声を掛けたらしい。しかし、この外人武官らは元治の言葉を一時の傲慢として聞き流した。なぜなら、金州城の要塞を攻略するには、如何なる精鋭を以てしても数日は要する。明日にも陥落させてみせよう、などと軽率な言葉を発するなら、必ずや失敗するに決まっている、と思っていたのだ。

  翌日、元治は馬を進ませて金州城外の高地に登り、全軍の攻撃を監督した。乃木少将の一隊及び河野大佐の支隊を金州街道から攻めさせ、元治は自らの砲兵陣地に命じて砲撃を開始させた。36門の砲台全てが発射し、硝煙が立ち籠める中、元治は戦線内に突入し、全軍に対して進撃の命を下す。そうして、旅順方面に退却する敵を追撃させたのである。戦(いくさ)の最中、我が突撃隊は金州城に迫ったが、その城壁が3丈(9m)の高さを誇るので、兵が登ることができない。四方の城門は堅く閉ざされているし、城壁の上からは敵兵が、我が軍に狙いを定め撃ってくる。そこで、我が工兵隊は城門の爆破に取りかかった。特に永安門は強固であったから、工兵隊の矢野目中尉は永安門の土台に爆薬を設置するよう部下に命じ、その鉄門を木っ端微塵に爆破したのである。崩れ落ちた永安門から、我が軍の兵が突入し、北門についで東門を開き、味方の侵入を促す。敵兵は周章狼狽し、西門を開いて旅順方面に遁走し始めた。元治が城内に入った時には、既に敵兵は一人も見当たらなかったらしい。金州城が我が軍によって占領されると、外国の従軍武官らも城内にやって来た。昨日、元治が口にした言葉が実現されて、驚嘆を隠しきれなかったという。

  獨眼龍将軍を始めとして、明治の指揮官は敵の殲滅を目指すほど、徹底した攻撃を加える烈士であった。戦に情けは無用である。日清戦争において、山地将軍は徹底して支那軍を叩いた。明治28年2月、山地師団長は、第一軍司令官の野津道實と会合し、太平山の敵を撃滅する事に決めたという。かくて、我が軍は電光石火の如く太平山を攻略し、東七里溝に至るまで占領することとなった。この時、敵将の宋慶は、西七里溝の塁に退き、我が軍に対して砲十数門を備えて応戦したのである。支那軍は栄口方面からの増援を得て、我が軍を包囲する体勢を取った。双方の砲撃戦が始まると、白兵戦の始まりだ。まず、我らの歩兵第十五聯隊が突撃。第一大隊の斉藤隊長が太刀を振るって真っ先に進み、敵塁に肉薄すると敵兵を滅多斬りに。全身の血が沸騰した日本男児の猛攻は、天下無敵で誰にも止められない。第二大隊の栗屋、続いて第三大隊の殿井が、部下を引き連れて奮闘し、支那人をメッタ斬りにした。我が軍の勢いに堪えきれなくなった宋慶の軍は、遂に敗走することとなり、日本軍が西七里溝を占領することになった。

  この戦闘を観ていた外国従軍武官は、我が軍の行動をこう批評していた。日本軍は既に太平山を占領して目的を達成していたのだから、なにも兵力で勝る敵軍に対し挑む必要はあるまい。それに、兵家が甚だ忌む午後の攻撃を敢行したのは無謀である、と。そこで、山地将軍はこれに異を唱えた。歐洲の戦術よりすれば、午後二時以降の攻撃は行わぬ方が良い。しかしながら、戦闘は“活物”である。実戦に臨めば実戦の機がある。一々歐洲の戦術に拘泥すべきではない。日本には日本の戦術があって、我が良しと認むる處は必ず行う。このように反論した獨眼龍は、さすがである。戦(いくさ)が「活物(いきもの)」とは名言だ。戦闘は一旦始まると予定通りには運ばぬもの。臨機応変に兵を用い、勢いを逃さず敵を攻め滅ぼすのが鉄則。残念なことだが、大東亜戦争の海軍司令官には、そうした「徹底さ」が欠けていたのだ。

  山地将軍は支那軍に対する認識も正確であった。もし、我が軍が太平山の占領で止まってしまえば、西七里溝に盤踞する敵軍に対して、我が軍は夜を雪の中で過ごさねばならぬ。これは決して善策ではない。ましてや、支那兵に対して、少しでも手ぬるい方法を取れば、彼らは増長し、その襲撃を繰り返すことになろう。そうなれば、我が軍はこれを一々撃退せねばならない。こうした支那兵に対しては、“ガン”と一発食らわして、充分に懲らしめる事が必要である。また、これが同時に我が軍の士気を高めることになる所以で、外人の兵法家には計り知れぬところの極意である。山地将軍の論は、まさしく卓見だ。支那軍に対して手心は禁物。敵軍殲滅こそ最善の策である。元治は旅順を攻略してからのち、大本営の方針に不満であった。獨眼龍は軍司令官に度々「北京に向かわせてくれ」と懇願したようだ。敵の本拠地を攻撃することが肝要であることを理解していたのだ。しかし、そうこうしているうちに、和平が成立してしまったので、結局北京攻略の必要性は無くなってしまった。元治は非常に残念がっていたという。

ジャーナリストはロクで無し

  支那人との戦争を語るなら、日清戦争で起こった虐殺事件に触れねばなるまい。旅順攻略に向かった第一師団は、歩兵第三聯隊を前衛として、土城子(どじょうし)を目標に前進していた。ここで敵軍と遭遇し、先進部隊は激戦を交え、騎兵中隊は中隊長が負傷するなど、多くの死傷者を出したが、ついに敵を撃破して支那兵を敗走させたという。翌朝、激戦の跡を観た我が軍の将兵は色を失った。死亡した日本の軍人は悉く腸(はらわた)を抉(えぐ)られ、首を刎(は)ねられていたのだ。しかも、遺体の目鼻はくりぬかれ、刃物で手足を切断され、胴体からもがれている。まさに、目も当てられぬ蛮行で、酸鼻を極めていたのだ。支那兵の残忍性は言語に絶し、我が軍の将兵は、見る見るうちに怒りで震え、中には大声を上げて泣く者もいたそうだ。憤慨した将兵は、この恨み決して忘れぬ、と誓ったそうである。(『命を棄てて』 pp.251-252) 元治もこの残虐行為には激怒し、旅順の敵兵は皆殺しにして、一人も逃すなと厳命したそうだ。昂奮した将軍は「もう容赦は要らぬ。どしどしやってしまえ。この師団長が許すぞ」と息巻いた。傍らにいた者によれば、山地師団長があれぼど激昂したのは、かつて見たことがないという。恐ろしい形相をみせた将軍に、側近の者は驚いたそうだ。幕末に至るまで、日本人は書物の中でしか支那人を知らなかった。大陸に渡って実際の支那人に接し、その本性を初めて知ることになったのだ。地球上で一番卑劣で野蛮な国を、聖人の国と崇めていた儒者の罪は重いと言わざるを得ない。

  現在の我々は反日的な欧米のジャーナリストに腹を立てることが度々ある。南京大虐殺や慰安婦報道で、いかに下劣な記者が多いかが分かった。ところが、こうした下郎は昔から居たのだ。旅順方面で戦闘中の我が軍に、あるアメリカ人の新聞記者が厄介になっていたそうだ。第一師団司令部に出入りしていた、このアメリカ人記者は、大層日本軍に好意を寄せ、戦闘中に起こった我が軍の報復に理解を示していた。「日本軍による多少の虐殺なんか当然です。今回のやり方は決して虐殺でもなく、不道徳でもない至当の処置であります」とおべっかを使っていたのだ。彼は常々、口癖のようにそう言って、清国兵の暴行を激しく罵っていたという。我が軍から頗る歓待を受けていた、このアメリカ人は幸福な毎日を過ごし、新聞記者としての便宜を計って貰っていたそうだ。ところが、旅順が陥落すると、いつの間にか姿が見えなくなり、行方を眩ませてしまった。すると、この悪徳記者はあちこちを訪れ、「日本軍は虐殺をしたんだ。人道に背く行為だぞ」と盛んに触れ廻ったそうである。

  いつの時代でも、クズの新聞記者はいるものだ。支那兵の犯した虐殺と、我が軍の行為を正直に発表すれば、それほど世間が騒ぐこともなかったはずである。しかし、有ること無いことをごちゃ混ぜにして報道したから、我が軍の将兵は怒ったのだ。山地将軍も眉を逆立てて、「見つけ次第、撲殺にしてしまえ」と言いだした。なぜ撲殺か、と言えば、軍刀で斬ったり、銃殺に処することは、相手を人間扱いにすることだからである。人の道に外れた異邦人は、虫けら同然とされてしまうのだ。卑劣漢に名誉ある死など与えてはならない。件(くだん)のアメリカ人記者は長崎で捕まったそうだが、その後どうなったかは不明である。(『命を棄てて』 p.256) この記者は自業自得だ。外国人の武官や記者は、我が軍に従軍する前、守らねばならぬ規則に承諾し、それを守ると誓約ていたのである。それなのに、我が軍を誹謗中傷したアメリカ人記者は、万事を承知の上で行っていたのだ。雲隠れしていたのは、その違反を充分認識していたからであろう。

  そもそも、新聞記者になる奴は、米国でもロクでなしが多い。優秀なら軍人やビジネスマン、あるいは裁判官とか政治家になっている。権力や金銭に縁が無い劣等生は、目立ちたいから新聞記者を志望する。会社の看板を背にした弱虫は、勝手な正義の御旗を振ることで、偉人の気分を満喫できるのだ。大衆社会に住むアメリカ人は、外国の事なんかまったく分からないから、ジャーナリストの捏造記事でも簡単に信じてしまう。この点では日本人も同じである。日本人は大手新聞社の肩書きを目にすると、無条件でそこの記者を信用し、偏向報道があるとは考えない。一般人は忘れっぽいから、何度でも騙される。彼らは、出世のために記事を書いているのであって、読者のためではない。おかしなことに、購読者は記者の素性も分からずに、彼の記事を信じている。一般人は執筆者ではなく、会社の評判を信頼しているからだろう。我々は新聞記者を昔通り、「羽織を着て他人を強請(ゆす)るゴロツキ」、すなわち「羽織ゴロ」と呼ぶべきである。

部下を大切にする指揮官

  有能な指揮官は些細なことにも気を配るという。山地将軍も勇猛なだけではなく、部下の気持ちを斟酌する棟梁であった。明治13年、丸亀の聯隊長職にあった頃の話だ。陸軍内部では射撃の競技が盛んに行われていて、将校らはこぞって英国の精巧なる銃を購入し、お互いに腕を競っていたらしい。しかし、兵卒は旧式のスナイドル銃を渡されているだけ。そこで、元治は英国の銃を購入することを厳禁とした。なぜなら、将校が優れた銃を使用するのに、兵卒は劣った銃を用いるとなれば、兵卒は自信をなくし、ふて腐れてしまうだろう。兵卒が射撃に対して自信を失うことは、戦場に臨んで敗色を見ることになりかねない。元治はこれを最も怖れたのである。そういえば以前、日本に駐留するアメリカ海兵隊員に新たなブーツが支給される事があった。海兵隊の司令官が、最後にそのブーツを渡されるのは自分だ、と語っていたのを覚えている。兵卒がまず先で、司令官は最後というわけだ。アフリカやアジアの軍隊なら、高級将校が優遇されることが当り前になっている。強い軍隊の指揮官は、人格の面でも大いに違うのだ。

  同じ頃、元治は聯隊の参謀官、副官、教官等の適否を示す考科表を作らぬことにした。この表によって、優秀なる者は参謀や教官に選抜され、選ばれなかった者は隊附属勤務になる、という慣例があったからだ。この廃止令には、部下が競って参謀になりたがる弊害を防ぐ目的があったらしい。参謀に抜擢された者は、その栄光を誇るあまり、驕り高ぶる傾向があった。一方、選抜に漏れた者は、自棄的になって隊附属勤務を疎かにする弊害が顕著になる。元治は考科表を廃止することで、その表から発生する弊害を未然に防いだのである。そういえば、昭和の陸軍でも、兵站部門に配属となった兵は落胆したそうだ。華やかな戦闘部隊ではなく、運搬係に回された者は左遷されたように感じたらしい。本来なら、兵站は軍隊行動にとって必要不可欠な部門なのに、我が軍では軽視されていたのだ。ローマ軍の伝統を持たない我が国は、補給の重要性を真剣に考えない傾向があった。

山本五十六(左/山本五十六)
  我々が大東亜戦争を学ぶ時、とても辛く嫌になることがある。それは、我が軍の参謀や指揮官が部下の命を軽く見る癖があったからだ。戦争に犠牲は付きものとか、兵卒は黙って従え、といった意識が充満していたのは事実。海軍の水兵や陸軍の兵卒、航空隊のパイロットなど、上官に対して抗議できぬ者がたくさんいたのだ。神風特攻隊や人間魚雷「回天」を思い出せば分かるだろう。だいたい、どうして未来のある若者から順に、特攻へと駆り出されたのか? まずは、責任の重い高級将校や威張っていた将軍から出撃すべきだ。先の短い老人が率先して特攻に志願しないのは卑怯である。現在だと、中東地域でのさばるイスラム教指導者がそれに当たる。まだあどけない若者にジハードを呼びかけ、自爆すれば天国に行けると唆(そそのか)す。そんなに素晴らしい来世なら、髭もじゃの老人が爆弾を背負って、アメリカ兵の群れに突撃すればいいじゃないか。高齢のイマム(宗教指導者)たちが、純粋な少年を利用する聖戦は怪しい。彼らは本当に来世を信じているか? 口が達者で狡猾な老人が、単純な若者を宗教で操っているだけだろう。山本五十六だって同じ穴の狢(ムジナ)だ。彼は大勢の日本兵を博奕(バクチ)に使っただけである。五十六の罪状は、中川八洋著『山本五十六の大罪』(弓立社 2008年)に詳しい。( 特に第4章を参照。) 祖国破壊を目的とした対米戦争なのに、大東亜戦争を植民地解放戦争と肯定する保守派知識人は、その本質を理解せず、立派に戦った下級士卒のみを称賛し、悪質な左翼将校の罪を曖昧にするという罪を犯しているのだ。(これについては、またいずれかの機会で述べたい。)

  己に厳しい司令官、山地元治は我が軍の兵を愛した。獨眼龍の将軍曰く、「軍人は有事の際、戦場に出でて、陛下国家に身命を捧げる働きを為す事こそ、その本懐である。また、愉快とする處(ところ)でもある。」彼が丸亀聯隊長時代に、コレラが流行する事態が起こった。聯隊に外出禁止令が出され、この禁令を不満に思う者がいたらしい。そこで、元治はこう語ったという。

  わが士卒は陛下の士卒であり、我に託されたのだ。今、衛生上の不注意から伝染病が蔓延し、一人でもそれに罹って失うことあれば、陛下に対して何と申し上げてよいか。我は世間から非難を受けても怖れぬが、だだ真に恐れることは陛下の士卒を一人といえども失うことである。(『近世名将言行録』 p.243)

  帝國陸海軍の指揮官は、天皇陛下の士官や兵卒を預かっている統率者である。大元帥であらせられる陛下より、貴重な日本国民を委託されているのだ。一人たりとも粗末に扱うことは許されない。それなのに、戦艦大和をホテル代わりに使っていた山本五十六や、その腰巾着の黒島亀人(くろしま・かめと/連合艦隊先任参謀)、隠れ左翼の米内光政、ソ連に内通していた瀬島龍三など、思い出しただけでも嘔吐(ヘド)が出る。  

黒島亀人 1米内光政瀬島龍三3瀬島龍三2








(左: 黒島亀人 / 米内光政 / 右写真二枚: 瀬島龍三)

  軍人勅諭は軍人が政治に係わることを禁じている。しかるに、昭和の軍人は積極的に政治に介入し、現役武官制を楯にとって内閣を流産せしめることすらあった。さらに、二・二六事件に至っては、政治家を誅殺するなど、陛下の臣に対して謀反を起こす。皇室に弓引く者との自覚がない。渡辺錠太郎(わたなべ・じょうたろう)、高橋是清(たかはし・これきよ)、齋藤實(さいとう・まこと)を殺し、暗殺は免れたものの鈴木貫太郎(すずき・かんたろう)は、瀕死の重傷を負ってしまった。首謀者の磯部浅一、香田清貞、栗原安秀、野中四郎らは、兇悪な北一輝(きた・いっき)の甘言に同調し、勝手な言い訳を掲げて国家乗っ取りを謀ったのだ。二・二六事件の恐怖は、その後の政界に多大な影響を及ぼすことになる。政治家が常に軍人による暗殺に怯えるようになったからだ。学校の歴史科教師は、謀反人を「軍人」と規定するが、その正体を巧妙に隠している。彼らの実態は国家に奉仕する武人ではなく、共産主義思想に染まった全体主義者である。右翼も左翼も、自分たちで国民の生活や国家の体制を「設計」し、永遠に「支配」しようとする独裁者を夢見ていたのだ。左翼教師はこの連中と同類なのに、「軍国主義者」のレッテルを貼って、自分たちと違う人間に仕立てている。その証拠に、近衛文麿が共産主義者だ、ということを子供たちに教えることはない。軍国主義者や国家主義者が戦争を起こした、と偽っている。

北一輝磯部浅一栗原安秀香田清貞







(左: 北一輝 / 磯部浅一 / 栗原安秀 / 右: 香田清貞)

  真の武人である山地元治は、政治に係わることを徹底して遠ざけた。彼は板垣退助と同じ土佐藩に仕え、竹馬の友であり、また戦友でもあった。ある時、政治家になった板垣と話した際、持論を枉げない元治は、自由民権に固執する板垣と意見を異にしたそうだ。以来、元治は板垣との友誼を親密に保ったが、板垣を親しく訪ねることは決してなかったらしい。ある者が元治に板垣との仲を尋ねたという。元治答えて曰く、「友誼は友誼である。然れども、彼は政党の首領である。これを訪問せぬは政府の嫌疑を恐るる為ではない。むしろ、部下の為を思うて憚るのである。軍人は断じて政党臭に近よってはいけない」と。(『近世名将言行録』 p.245) 元治は軍人一筋であった。武人の名誉を損なうことなら、たとえ些細な事柄でも避けていた。例えば、彼が大阪鎮台司令官に着任した時の事である。ある御用商人が一尾の鯛を献上し、元春の就任祝いとしたらしい。しかし、元春はこれを斥けた。ある者が言うには、一尾の鯛なら、その値段はいくらでもない。これを受け取っても、論ずるほどの事はあるまい。むしろ、これを拒むは狭量なり、と笑ったそうだ。それに対して、元春が応えた。

  確かに、一尾の鯛なら価格は大したことはないだろう。さりながら、これを受ければ、その行為に酬(むく)いねばならぬ。彼の行為に酬いるとは、彼が欲する禁制を緩めることに外ならぬ。そのようなこと、私には到底できない。すでに一尾を受け取れば、さらに二尾を受ける事になろう。二尾は三尾となり、次いで数尾となれば、やがて数十尾となるに相違ない。贈り物は次第に巨大化し、その毒が恐るべきものとなるは必然。これが一尾の鯛を拒みたる我が理由なり。

  立派な人物は、その人格が優れているばかりでなく、物事を論理的に考えることができるのだ。誘惑を一旦受け容れれば、一つの弱みができ、その弱みを隠すために、更なる癒着を招くことになる。最初に勇気を持って断れば済む話だ。瀆職(とくしょく)で捕まる議員や官僚が減らないのは、受験勉強でこうした常識を学ばないからだろう。

  元治の高潔さは軍人の中で傑出していた。日清戦争が終わると、論功行賞の調査が始まったという。各師団長や旅団長は、東京に集まって会議を開いたそうだ。ある師団長は、誰にどんな勲章が妥当か、その多寡について論じ合い、我が師団には“これこれ”の功労がるから、それに相応する勲章を与えられたし、と述べた。また別の師団長は、その隠れたる功績を披露し、授与されるべき勲章を論じていたのだ。こうした我田引水の議論を、元治は独り黙って聞いていた。しばらくすると、彼は口を開き、次のように述べたという。

  軍人の職務は戦闘にある。戦闘に関する事項は如何に功績偉大なるものがあるとて、それは職務上当然の結果である。平時、国家は莫大な費用を投じて、戦わざる間に我らを養い、社会もまたこれを容認しているのだ。ことに、陛下の殊遇(しゅぐう)を蒙(こう)むる者が、時に臨んで功を樹て、績を挙ぐるは、当然至極の事である。むしろ、戦争あらば、日頃の恩を上下に報いる好機と喜ぶべきである。殊更に賞を請(こ)い、勲章の多寡(たか)を論ずるべきではない。戦死者は身命をつくしたのだから、君恩に報いたことになる。むしろ、憐れむべきは戦死者の後のことだ。戦死者に対して功を厚くすることはあってもよい。しかし、生きて戦場から帰った者には、賞を薄くするのが至当であろう。(『近世名将言行録』 p. 271)

  元治の見解は正論である。軍人が戦争で奮闘するのは当然である。戦場で散っていった者にこそ、手厚い栄誉が与えられるべきであろう。元治は普段から軍人の本分を辨(わきま)えていた。彼はある時こう述べた。軍人は陛下の賜る俸給で衣食するから、その範囲で分を守り生活するのがよい。もし、分を越えることがあれば、奢侈に流れてしまう。奢侈は軍人が最も忌むべきものである。軍人なのに俸禄を蓄える者は陋劣(ろうれつ)である。されど、俸給を不足と感じる者は、もっも陋劣な者である。軍人は国費を以て養われているのだから、軍人たる者、その俸給を多い少なとか論じるべきではない。美食美味は西洋軍人に必要であろうが、日本の武人はサンマの肴(さかな)で結構飯が食えるものだ。(『近世名将言行録』pp.272-273) 明治の軍人は、西洋の軍服で身を包んだが、その心は武士の倫理で支えられていた。

  叙勲に関する元治の態度も立派だった。部下の命を惜しんだ元治は、散華(さんげ)した士卒を第一に考え、自分の功績を自慢することはなかった。日清・日露の戦役では、あまたの高級将校が叙勲対象となったが、彼らが手にした勲章の背後には、夥しい屍が横たわっていたのだ。それに、「一将功成りて万骨枯る」と言うではないか。こうした言葉を聞けば、我々は乃木希典大将の事を思い出す。日露戦争が終わり、東京に凱旋した乃木さんは、明治天皇の御前に立ち、手にした復命書を開くや、第三軍の作戦経過を述べた。しかし、乃木将軍は読み続けるうちに、熱いものが込み上げ声がでなくなったという。激闘を経た将軍は、声を振り絞ってご報告した。

  我が将卒は常に勁敵(けいてき)と健闘し、忠勇義烈、死を視ること帰するが如く、弾に斃れ、剣に殪(たう)るるも皆、陛下の萬歳を喚呼(かんこ)し、欣然(きんぜん)として瞑目したるは、臣これを伏奏(ふくそう)するも能(あた)わず (宿利重一 『乃木希典』 對胸舎 昭和4年 p.645)

  乃木さんは復命書を奉読しながら、戦場で如何に多くの士卒が散っていったかを思い浮かべたのだ。閉じた目には涙が溢れて止まらなかったが、震える手で復命書を持ち直して、報告を続けたのである。しかし、乃木大将は復命を続けるも、ついに絶句し頭を垂れ、力が抜けた膝は床についた。そして、肩を震わせ嗚咽(おえつ)したという。

村山富市河野洋平田英夫石田博英 2








(左: 村山富市 / 河野洋平 / 田英夫 / 右: 石田博英)

  では、現在の日本を見てみよう。敗戦後の叙勲リストを見ると、我々は大日本帝國を築いた祖先の末裔とは到底思えない。「従軍慰安婦」という虚構で、英霊を侮辱した河野洋平や村山富市は、勲一等桐花大綬章を貰っていたのだ。我が国を愚弄すれば表彰されるのが現在の日本である。北鮮のスパイ辛光洙(しんがんす)を釈放すべく署名活動をした田英夫(でん・ひでお)も、同じ勲章を貰っていた。また、勲一等旭日大綬章者もひどい。なぜなら、本物の売国奴がいたのだ。自民党の石田博英はソ連のスパイで、KGBから「フーバー」というコードネームを与えられていた。こんな奴が労働大臣や運輸大臣になっていたのである。被差別部落の怨念に満ちた野中広務も、旭日大綬章をもらっていた。野中には金日成バッヂの方が似合っている。彼にとっての同胞は朝鮮人だった。日本国民は野中と北鮮にとって共通の敵であるから、お互いに親近感を覚えたのであろう。

野中広務2中山正暉金丸信竹下登








(左: 野中広務 / 山中正暉 / 金丸信 / 右: 竹下登)

  叙勲対象者を誰が決めているのかはっきりしないが、内閣府や各省庁の役人は狂っている。日本を憎む者ほど勲章に近くなるからだ。だいたい、どうして北朝鮮のような敵国と通じる者が、栄誉ある叙勲の対象になりやすいのか?  例えば、自民党の中山正暉(なかやま・まさあき)は、拉致問題が顕著になった頃、事件解決に係わっていた。しかし、金丸信の北朝鮮訪問団に随行し、平壌から戻ってくると、急に態度を変えてしまった。以前は、石原慎太郎らと組んで自民党タカ派を気取っていたのに、帰国するや、日朝友好議員連盟の会長になってしまったのだ。それからというもの、拉致被害者家族に対して冷淡になった。平壌でどんな歓迎を受けたのか知らないが、北鮮寄りの態度を取った中山は、目出度く勲一等旭日大綬章を受けることとなった。この勲章は、硫黄島の激戦で指揮を執った栗林忠道(くりばやし・ただみち)中将にも、死後贈られているのだ。米軍と最後まで戦った英雄と売国奴が同じ扱いとは、日本の叙勲基準は常軌を逸している。

伊東祐享1栗林中将中曾根康弘2胡耀邦








(左: 伊東祐享 / 栗林忠道 / 中曾根康弘 / 右: 胡耀邦)

  大勲位菊花大綬章は更にひどい。西郷從道や東郷平八郎、大山巌、奥保鞏(おく・やすかた)、山縣有朋、清浦奎吾(きようら・けいご)などの大物が受勲したのなら分かる。しかし、連合赤軍に屈服してテロリストの要求を呑んだ福田赳夫や、我が国の防衛を狂わせた極左の三木武夫、暗愚の宰相と呼ばれた鈴木善幸、金丸と組んで派閥を作った竹下登なども、元勲と同じ功績をなしたと見なされたのだ。こうしたおぞましい叙勲を、一般国民は覚えていないだろう。とりわけ許せないのが、あの裏切り者、保守派を装っていた隠れ左翼の中曾根康弘である。こんな野郎が東郷元帥と同じ大勲位とは。誰が見ても裏がありそうな中曾根は、親友の胡耀邦(こようほう)から、「靖國を参拝しちゃダメだぞ」と釘を刺されたので、公式参拝を取り止めてしまった総理大臣である。英霊より支那人の方が大切とは恐れ入った。支那人の犬でも大勲位とは、いったい勲章とはなんなのか? 支那人の工作員と肉体関係を持った首相の橋本龍太郎が、日清・日露で活躍した海軍元帥伊東祐享(いとう・すけゆき)や海軍大臣の樺山資紀(かばやま・すけのり)と同格である、とみなす日本人はいまい。敗戦の後遺症は恐ろしい。我々は名誉と恥辱の区別がつかないのだ。国家に奉仕をした者と害をなした者が同等に扱われなど言語道断。国家に尽くすことを当然と見なした山地元治を思い出すと、武家社会を潰した代償が如何に大きかったかが分かる。民衆が投票で選んだ政治家と、公平な筆記試験で採用した官僚は、身分社会の武士より立派なのか? 我々はこの問いに対する答えを、大東亜戦争の敗北で得たのである。




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