恥知らずの関東軍参謀

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(写真/昭和天皇)

  毎年、八月になると決まって大東亜戦争の大反省会が起こる。テレビや新聞はもちろんのこと、オピニオン雑誌もこぞって特集を組む。「なぜ無謀な戦争を始めたのか」とか「アジア諸国を侵掠して迷惑をかけました」といった定番メニューを掲げて、ちょっとでも売上げを伸ばそうと必死なところが痛ましい。しかし、それ以上に痛ましいのは、左翼学者や左翼かぶれの有名人を座談会に呼んで、適当な雑談をさせる編集者がいることだ。かつてはまともだった『Voice』や廃刊となった『諸君 !』でも、田原総一朗や半藤一利、保阪正康なんかを招いて、大東亜戦争にまつわる話を載せていたのだ。だいたい、中年になってから歴史を勉強し始めた田原総一朗なんかに訊いて何になるんだ? 田原が出版した『日本の戦争』なんか、つまらない上に内容が無く、気に入った左翼学者の文章を切り貼りして自分の見解にしていたんだから酷い。『諸君 !』で田原と対談した谷沢永一先生は、彼の本を指して、「空の米櫃(こめびつ)」と評した。なるほど名言だ。ちよっとした教養人なら買わないし、不注意な一般人なら、買ってから「お金を返せ !」と言いたくなるような代物である。世間では保守系雑誌と評される『WiLL』や『Hanada』も、執筆者は営業保守かピンク保守でなければ単なる凡人で、左翼臭プンプンの内容になっている。

Sejima 1Sejima 2(左: 参謀時代の瀬島龍三 / 右: 戦後の瀬島)

  もし、大東亜戦争を批判するなら、戦争を決定した者の資質を議論すべきだ。反日メディアの旗手たるNHKに期待しても無駄だが、「アジア諸国に対する侵掠」云々よりも、日本を無理矢理にでも英米と戦わせようとした政治家や軍人、共産主義者を洗い出して、国民に知らせることの方が重要である。NHKやTBSは首相になった東條英機については酷評するが、共産主義者の近衛文麿については一度も特集を組んで放送したことがない。フジテレビも同罪で、昔は瀬島龍三を招いて番組を作っていたのだ。この元関東軍作戦参謀は極東軍事裁判で、ソ連側の証人となったくらいだから、ロシア人から相当な訓練を受けたはずである。もっとも、以前から真っ赤であったから、共産主義に磨きがかかったとも言えるだろう。それに、瀬島と一緒にウランバートルの俘虜収容所にいたのが、陸軍中佐の朝枝繁春と種村佐孝、志位正二という面々で、骨まで真っ赤な連中であった。ソ連の飼い犬であることは明らかなのに、この瀬島は財団法人の「特攻隊戦歿者慰霊平和記念協会で会長職を務めていたんだから、開いた口が塞がらない。瀬島は平成九年(1997年)四月二日、靖國神社で開かれた第十八回特攻隊合同慰霊祭に臨席し、まるで参謀本部作戦参謀に戻ったかのように、祭文を読み上げたという。その中で瀬島は次の言葉を述べた。

  特攻隊は世界に類のないもので、わが日本民族の誇りであります。(生出寿 『一筆啓上 瀬島中佐殿』徳間書店 1998年  p.41)

  生還率ゼロ・パーセントの体当たり攻撃を承認し、6千952名もの若者を殺した最高作戦司令部に席を置いていたのに、よくもこんな図々しいことを言えたものである。瀬島が読んだ祭文は『特攻』という会報の平成九年五月号に掲載されたのだが、上記の文は削除されており、「中略」になっていたそうだ。どうして省略したのか? どんな不都合があったというのか? 全文を掲載しないなんて卑怯じゃないか? こんな奴が偉そうに竹村健一の『世相を斬る』なんかに出ていたのだ。晩年には笑福亭鶴瓶の『日本の夜明け』にもゲスト出演し、滔々と自慢話を披露していたのである。これを見た一般国民も多かったんじゃないか。何も知らない若い視聴者や、収録スタジオに参加していた一般聴衆は、とても立派な軍人と勘違いしていたのだろう。何と言っても、昭和13年に陸軍大学校を首席で卒業し、わずか28歳で参謀本部作戦部員になったんだから、戦後生まれの一般国民は、こうした
学歴と経歴を聞いてもうメロメロだ。

  さらに、一般人は波瀾万丈の人生を知って瀬島の才覚に驚く。彼は敗戦のためソ連軍の捕虜となり、シベリアに拉致されるという悲劇に遭い、奴隷扱いを受けながらも、やっとのことで日本に生還した。昭和33年、有名な伊藤忠商事の航空機部に入社すると、たちまちその頭角を現し、短期間で異例の出世を遂げて、昭和47年には取締役副社長だ。しかも、昭和53年には取締役会長に納まったうえに、土光敏夫の第二臨調と行革審で委員に任命されたのである。昭和59年、七十二歳になると勲一等瑞宝章を貰うことができた。ついでに、その人生を綴った『幾山河』を出版し、ベストセラーになって大喜び。饒舌で頭の回転が速い瀬島に、世間はまんまと騙された。一般人はシベリアでの状態について曖昧にされていることに疑問を抱かず、瀬島の苦労話ばかりに感心していたのである。知能犯の瀬島は肝心な部分をはぐらかすのが上手い。丸め込まれた一般読者は、「じゃあ、お前はシベリアでどんな待遇を受けたんだ?」とか「ロシア人と協力関係にあったんじゃないか?」とは尋ねなかった。

残忍冷酷な決戦兵器

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(左: 議員時代の源田実 / 右: 大西瀧治郎)

  こうした恥知らずな「エリート軍人」を見ていると、彼らにこき使われた兵卒が憐れでならない。大東亜戦争での悲劇は数え切れないが、その中でも生還不能の新兵器「桜花(おうか)」に搭乗したパイロットには、いくら哀悼の意を表しても不充分に思えてくる。この人間操縦による滑空爆弾は、昭和19年5月に、太田正一・特務少尉が菅原英雄・中尉に構想を持ち掛けたことに始まるという。菅原中尉は太田少尉を和田操・中将に紹介し、和田中将は航空本部に伝えた。航空本部で第二課長を務めていた伊藤祐満・中佐が、先輩で第一課長の高橋千隼(ちはや)・大佐に相談したところ、「軍令部の源田実(げんだ・みのる)・中佐に尋ねてみよ」とのことで、この「決戦兵器」が計画されたらしい。敗戦後に東京裁判が開かれたが、源田は大西瀧治郎(おおにし・たきじろう)・中将が切腹したことを幸いに、キー・パーソンたる自身の罪を隠蔽し、特攻創設の責任を大西にひっかぶせた節がある。戦後、源田は航空自衛隊に入って航空幕長にまで上り詰め、政治家に転身すると自民党所属の参院議員になった。自民党で国防部会の会長を務めた源田は、長年の功績を認められ勲二等瑞宝章まで貰うことができたのだ。特攻の「桜花」に搭乗した下っ端の若い隊員は、「人道的配慮」もされずに死んでいったのに、責任者の源田は、ジョン・F・ケネディー大統領から「レジオン・オブ・メリット」勲章まで授与されて、84年の人生を全うしたのである。しかも、戦争映画では三船敏郎や三橋達也が源田の役を演じて、立派で優秀な軍人のイメージを世間に植え付けたのだ。これじゃあ、散華した隊員が浮かばれない。

  ところで、件(くだん)の「桜花」とは一体どのような飛行機なのか? 実は、飛行機というより「グライダー」と言った方が良いくらいの代物であった。「桜花隊」で第四分隊長を務めていた林冨士夫・中尉が「桜花」の練習機を見た時、「帝國海軍は、こんな物しか作れないのか」と呆れたらしい。というのも、「桜花」は全長6メートルの軽合金製の同隊に、全幅役5メートルのベニア製の翼が附いていて、胴体の下に脚や車輪が無い。その代わり、着陸用のベニア製橇(そり)が附いていた。ただし、実戦で用いられる「桜花」には橇が無く、胴体頭部が1.2トンの徹甲弾、後部に推進用火薬ロケットが装備されていたそうだ。この「グライダー」を母機の一式陸上攻撃機が吊り下げて運び、敵艦に接近すると、搭乗員がロケットを噴射しながら操縦して、目標の艦船に体当たりするのである。予定では敵艦は撃沈するはずだが、実際は運搬途中で敵戦闘機に撃墜されてしまうこともあった。こんな「グライダー」を胴体にくっつけた母機など、俊敏な戦闘機にとったら「格好のカモ」である。飛行隊長の野中五郎・少佐などは、「掩護の戦闘機もろくすっぽないのに、司令官がひきうけやがって」とぼやいていた。一式陸攻が2トンもの桜花を吊り下げたことで、飛行速度が落ち、動きも鈍くなるのを野中少佐は充分認識していたので、こんな成算の乏しい攻撃をやるよりも、夜間雷撃をやる方がよっぽど戦果をあげることが出来るのに、と悔しがっていた。しかし、司令官の岡村基春(もとはる)・大佐は、充分な掩護戦闘機をつければ、必ず成功すると自説を枉(ま)げなかった。まったく、こうした類いの上司は今も昔もいるもんだ。結局、部下が貧乏くじを引いて自爆することになるんだから、敵軍の将兵より自軍の将校を殺したくなる。

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(右: 「桜花」を説明する絵 / 左: 「桜花」を胴体に附けている一式)

  「桜花隊」があった第721航空隊は、茨城県鹿島郡の神ノ池海軍航空基地に移転した時、「海軍神雷部隊」の大門礼を掲げたという。「神雷」の名称は、岡村司令官が「疾風迅雷」という響きから発案したらしい。昭和20年3月21日、野中少佐率いる「第一神風桜花特別攻撃隊神雷部隊」の一式陸攻18機と掩護戦闘機55機が出撃したが、途中で掩護戦闘機が故障して引き返し、55機が30機に激減した。また、味方の情報から、敵機動部隊は空母八隻を含む三群と分かり、敵の防空戦闘機が多数控えていることが判明した。通常なら野中隊を引き戻すところだが、司令長官の宇垣纏(まとめ)・中将は、「神雷隊は敵の目前に迫っている。必至必殺を誓っている若い連中を呼び戻すには忍びない」との意見を発し、そのまま攻撃決行を厳命したそうだ。(生寿 上掲書 p.103) そんなに「忍びない」んなら、宇垣中将自身が「桜花」機に搭乗して、自爆攻撃を「決行」すればいいじゃないか。どうして若い隊員たちに無理強いをするのか。

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(左と中央: 宇垣纏 / 右: 源田実)

  野中部隊は敵機動部隊から50カイリ(約90km)の手前で、高性能なF6F戦闘機50機に襲われたそうだ。わずか数十分で陸攻18機は全滅し、掩護戦闘機10機は撃墜されてしまった。陸攻隊の野中少佐以下135名、桜花隊の三橋謙太郎・大尉以下15名、掩護戦闘機隊の漆山睦男・大尉以下10名、合計160名が虚しく戦死したという。「桜花」を人間が操縦する爆弾と分かった米軍は、その特攻兵器に「BAKA(バカ)」と名づけたらしい。まさくし、「人間爆弾」は馬鹿げた作戦であり、冷酷非情な攻撃であった。ところが、その責任を取って自害したのは、大西瀧治郎中将と国定謙男(くにさだ・かねお)・少佐だけである。「神風(じんぷう)特攻」に係わった指揮官や参謀は、自分の罪を贖わず、若き戦没者を「英雄」に祭り上げて、致命的な失敗に知らぬ顔を決め込んでいたのだ。老い先短い将校が長生きして、未来のある若者が自爆を強要されるなんて本末転倒だ。確かに、青年隊員たちは“志願”したが、その「志願」は、上官から「国家・民族の命運がかかっている」と力説された結果の決断である。彼らがその特攻を「無謀」で「無駄」、「非合理的突撃です」、と断れる雰囲気ではなかったのは言うまでもない。そんなに“有効的”攻撃と思うなら、米内光政・大将や阿南惟幾(あなみ・これちか)・大将が「竜巻隊」か「建武隊」に加わって、神風攻撃を実践したらじゃないか。もし「桜花」の操縦が苦手なら、人間魚雷「回天」にでも乗って、敵艦にぶつかればいい。予科練の青年だって「志願者リスト」に載っていたんだから、高齢の高級将校だって突撃できたであろう。でも、簡単な造りの新兵器「回天」を見たら、勲章をじゃらじゃら附けた海軍将校でも、「おい、本気か ?! 冗談だろう !」と驚くに違いない。

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(左: 「回天」 / 右: 「回天」への志願兵たち)

  「桜花隊」の戦死したパイロットは本当に気の毒だが、その出撃者を銓衡(せんこう)した上官だって辛かった。部下を訓練していた林冨士夫隊長は、青年を確実な死に送ることに耐えかねて、何度も出撃者名簿に自分の名前を書いては岡村司令官に提出したが、その都度却下されたという。第722航空隊の「竜巻部隊」を率いていた新庄浩・中尉も、自分の名前をリストに書いて岡村司令官に差し出したが、これも却下されてしまった。腹に据えかねた新庄中尉は、林中尉を連れて岡村大佐のもとに押しかけたそうだ。「なぜ指揮官先頭で行かせないのか。残されるのは堪えられません」と凄んだが、同席していた岩城副長が「そんなヤワな男は兵学校で養った覚えはない」と一蹴りした。ある朝、林中尉はタバコを吹かしながら、「明日は誰を殺そうか」と悩まずにすむ平和な世界を夢見たそうだ。彼は部下の別盃までは立ち会うことができたが、その後は人のいない方に走って行き、しゃがみ込みながら嗚咽(おえつ)したという。同じ釜の飯を食った可愛い部下を、戦死が確実な出撃に向かわせるんだから無理もない。胸が張り裂けるくらいの悲しみであり、断腸の思いとは正にこのことだ。

昭和天皇の最敬礼

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(写真/昭和天皇)

  戦場で生死を賭けた士卒は苦しんだが、その悲惨な報告を受けた昭和天皇も別の苦しみにもがいていた。最初から対米戦争に大反対だった陛下は、できうる限り軍部に対する抵抗を試み、戦争回避に努められていた。しかし、南進をどうしても決行し、日本を破滅に導きたかった海軍は、陛下の大御心を平然と蹂躙し、愛国心に燃える素直な兵士を死に追いやった。最初から無謀な戦さと予想されていたんだから、我が軍の苦戦は当然の結果である。特に、装備や兵站を軽視していた我が軍は、各地で悲惨な目に遭った。例えば、アッツ島での激戦は有名だ。昭和18年5月12日、アッツ島守備の山崎部隊は、強力な米軍の攻撃を受けて、部隊長以下2千数百名の将兵が窮地に陥った。現地の戦況は極めて憂慮すべき事態となり、この状況は毎日陛下にご報告されていたらしい。5月24日、参謀総長が上奏した時、陛下より「山崎部隊は本当によくやった」との御沙汰があったので、この御沙汰は直ちに山崎部隊に伝達されたという。すると、現地部隊は「恐懼感激、最後まで善戦健闘すべき」旨の返電が大本営に送られてきたそうだ。しかし、運命の日は、5月29日に訪れた。現地部隊は最後の夜襲に先立ち、最後の電報が大本営に入り、現地では暗号書の焼却と全無線機の破壊が行われたのだ。つまり、最期を覚悟した出撃である。

  この本電は直ちに宮中に届けられ、杉山参謀総長が拝謁し、陛下にご報告を行ったそうだ。陛下は静かに上奏をお聞きになり、何ら御下問は無かったという。しかし、陛下は参謀総長に「部隊の将兵は最期までよくやった。この事を伝えよ」と仰せられた。すると杉山大将は、「畏れながら、ただいま上奏いたしました如く、無線機は既に破壊されておりますので、お伝えすることはできません」と申し上げた。ところが、陛下は「それでもよいから電波を出しててやれ」と仰せられたそうだ。(出雲井晶 編 『昭和天皇』 日本教文社 昭和8年 pp.137) たとえ現地の部隊に届かなくても、「よくやった」というお言葉は無駄ではない。陛下と兵士の心が繋がっているから、死に行く者たちには伝わっているのだ。もし普通の人間なら陛下だって、国民のようにその場で泣き崩れるかも知れない。しかし、陛下は帝國陸海軍を統率する大元帥である。あらゆる悲しみを一身に背負われて、国民の前で毅然と振る舞わねばならない。国民一人の戦死は矢の如く陛下の大御心に突き刺さる。しかし、陛下は心臓に数千数万の矢が刺さっても、激痛で跪くことはできないのだ。陛下は瀕死の将兵が発する僅かな叫び声を受け止めなければならない。これが如何に残酷な事か。戦後の日本国民はこのことを忘れているのだ。

  アッツ島玉砕の話はまさしく、陛下の真摯なお気持ちが滲み出るエピソードである。これを聞けば国民は皆感激し、たとえ辛くとも陛下の為に戦おうと思うだろう。それにしても、次々と国民が死んで行く戦況に耐えていた陛下のお心はどんなものだったのか。本当のところ、我々には陛下の御軫念(ごしんねん)は分からない。しかし、必死で戦う将兵の熱き思いを一番汲んでいたのは、大本営の将軍たちではなく昭和天皇じゃないのか。参謀総長以下、大本営の将校たちはアッツ島での敗退を、心の中で「致し方ない」と思っていたことだろう。しかし、陛下には息絶えた子供を抱く親のように、玉砕覚悟の将兵を慈しんでいたのだ。我々は陛下の純粋なお気持ちに触れると、誰でも幼子(おさなご)のように泣けてくる。もし、敗戦で陛下が絞首刑と決まったら、多くの国民が死を覚悟の上で占領軍にゲリラ攻撃を仕掛けたに違いない。日本国民にとって、陛下は命より尊い存在である。アメリカ人にはこうした君臣の絆は分かるまい。

  日本人の戦死はどれも等しいが、特攻隊の戦死は陛下にとって特に辛い現実であった。昭和20年の元旦に陛下は「晴れの御前」をお召し上がりになったそうだ。しかし、この御膳が終わってから、白い布に包まれた軍からのお膳が届けられたという。それは小さな白木のお膳で、尾がしら附の鯛と赤飯、キントン、二合の清酒が添えてあった。このお膳には「連日のごとく出撃している特攻隊員に対し、その壮途に餞(はなむけ)として出す料理でございます」との口上が附いていたという。両陛下は長い間、この料理を御覧になっていたそうで、召し上がらずにそのまま武官にお下げになったらしい。武官たちも初めて「最後の料理」を見たそうだ。彼らも祖国に殉じる若者の心情を思うと胸が一杯になったという。これを御覧になった陛下も同じお心を持っていたに違いない。(『昭和史の天皇 (1) 陛下と特攻隊』 昭和55年 p.116) 

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(写真 / 出撃を前にした特攻隊員たち)

  昭和20年1月の頃の話である。我が軍はフィリピン攻略の際、ルソン島中部のリンガエン湾で米軍艦隊と対戦した。日本兵は激戦の上に持久戦を強いられて大変だったという。この戦況を上奏するため、大橋戒三・大佐が参内し、大佐は陛下の机の前にルソン島の地図を広げると、特攻隊がリンガエン湾のどのあたりに突入したのかをご報告していたそうだ。大橋大佐はかがみ込みながら地図を見て、問題の戦場を指していたらしい。その時だ。突然、陛下はすっとお立ちになり、最敬礼をなされたのである。( 上掲書 p.125) とっさのことで動揺したのだが、大橋大佐は自分のイガグリ頭に、垂れ下がった陛下のご頭髪が触れた感覚を持った。大佐はその感触で、陛下が最敬礼をされていることに、初めて気がついたらしい。だが、いま頭を挙げると陛下の額に自分の頭が当たってしまうと考えた大佐は、そのまま動かずじっとしていたそうだ。その大橋大佐も、心の中で最敬礼をしていたという。大橋大佐は陛下の真摯な行為に深い感銘を受けた。大橋大佐は電気で打たれたような衝撃を覚え、しばらく興奮状態にあったそうだ。陛下は祖国の為に命を捧げた特攻隊員に、大元帥、国父、君主として最高の敬意を表されたのではないか。多くの将兵が国家と陛下の為に出陣したのである。陛下にとっては“当然”の、否、“自然”な行動であったのだろう。

Nishibe 1(左 / 西部邁)

  我が国では、毎年毎年、アホなマスコミが靖國神社を問題にして、どの政治家が参拝するのかを騒いでいる。しかし、いつも無言で英霊を慰めているのは、先帝陛下であり、今上陛下であろう。以前、西部邁は昭和天皇に法的な罪は無いとしても、倫理的責任があるから退位すべきであったと述べていた。陛下の宣言で大東亜戦争が始まったことは確かだが、それは立憲君主として拒否できない行為である。それよりも、対米戦争を仕組んだ赤い軍人や官僚、それを調子に乗って賛成した国民の方が悪い。西部氏は昭和天皇が退位することに国民が同意するとでも思っていたのか? また、当時の国民が天皇陛下に罪をかぶせて、「最高責任者だからしようがないよなぁ~」と口にする事を期待していたのか? まっとうな日本人なら、陛下が倫理的に悪かったなんて考えない。そんなのは学生運動をしでかした碌でなしの意見である。知識人の中には、「トップの天皇が責任を取らなかったから、指導層の軍人が逃げおおせたんだ」と考える奴が多い。軍部に予算をつけた革新官僚やソ連を信奉する赤い将校は彼らの同志だから、その罪過を追求したくないのだろう。しかし、英霊は絶対そのように考えないはずだ。戦場で散った将兵は、靖國で戦友を迎え、たとえ肉体は滅びても、陛下に最敬礼するに違いない。英霊が宿る祖国を蔑ろにしている現在の日本国民は、先祖が命より大切にした日本を思い出すべきだ。




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