勘定が出来ない店員

  今更なんだけど、日本の庶民は高度な労働者である。第二次世界大戦の時、アメリカ軍の将校は皇軍の指揮官を馬鹿にしていたが、我が軍の兵卒に驚きを隠せなかったという。勇気があって粘り強く、一つ言えば、残りの九つを察して、思った以上の働きを見せてくれるからだ。アメリカの兵卒だと、簡単明瞭に言わないと理解できないし、命令されたこと以上の成果を期待することはできない。こうした日本人の潜在能力は、商店や企業で働く現場の人間によく現れている。ちょっと私的な話で申し訳ないが、昔、プレゼント用に「浜崎あゆみ」のCDを買おうと、新宿にあるCDショップに立ち寄ったことがある。この歌手については知識が乏しく、名前だけ覚えて店に足を運んだので、どんなアルバムかも分からず、とにかく豪華そうな作品を購入しようと思った。そこで、五十音順に並べられたCDを前に、「は」行で捜したがなかったので、「あ」行を当たったが見つからなかったのだ。そこで、若い女子店員さんを捕まえて「あの~、“島崎あゆみ”のCDありますか ?」と尋ねてみた。すると彼女は「あっ、浜崎あゆみですね」と答えてくれたので、その瞬間、初めて自分の間違えに気づいたのである。あまりにも単純な間違えで恥ずかしく、彼女の顔を直視できなかった。親切な店員さんが勧めてくれたCDを即座に購入し、足早にその店を後にした。それ以降、筆者は浜崎氏の歌を聴く気になれない。今でもどんな曲だか分からず、ただ人気歌手という噂しか知らないから、曲に関しては何とも言えない。それにしても、日本の店員はすごい。一瞬で筆者の間違えに気づいたんだから。(たぶん、筆者は「島崎和歌子」と混同したのかも。)

balck employees Macdonald(左/マクドナルドの従業員)

  今度は、アメリカの店員の例である。筆者がまだ20歳の頃、夏のワシントン州シアトルをうろついたことがあった。色々と市内の店を巡ったので喉が乾き、丁度見かけた街中のマクドナルドに立ち寄ってみた。普段は滅多に入らないチェーン店だ。店内に入ると、注文カウンターのところに、日本ではまず雇われないだろうと思われる、太った黒人の中年オバちゃんが待ち構えていた。ちょっとためらったが、勇気を持って、「アイスド・コーヒーありますか?」と尋ねてみた。すると、このオバちゃん店員は、「ちょっと待ちな !」と人差し指を立てて、後ろに下がると、氷を入れたホット・コーヒーを持ってきたのである。メニューに無い“特別な”コーヒーを作ってくれたことには感謝するが、タダでさえ「薄い(weak)コーヒー」が更に薄くなって、茶色の冷や水を飲んでいるみたいだった。当時、アメリカではアイス・コーヒーはメニューになかったのである。あったのは、アイス・ティーくらい。日本のコカ・コーラ社が缶のアイス・コーヒーを発売しているのは、奇妙なことに思えたほどだ。アメリカ人には夏に冷たいコーヒーを飲もうとする発想がないのか、と呆れた思いがある。それにしても、なぜか都市部のマクドナルドには、黒人の店員が多かった。低賃金の職種だから仕方がないが、あんな親切なオバちゃ店員は例外で、一般的にやる気の無い従業員が一般的だった。

  こんな事もあってか、西海岸のあるカフェテリアに友人と入った時、軽い食事を取ったことがある。食事が済んだから、レジで勘定を払おうとした。その時、正確には覚えていないけど、16ドル78セントといった半端な金額だった。筆者がレジにいた若い黒人の店員に20ドル札と3セントを渡したら、彼女は何の意味か分からず困惑していたのだ。筆者は3ドルと25セント、つまり1ドル札3枚とクウォータ硬貨(25セント)1枚を、おつりとして貰いたかっただけだ。小銭が邪魔だったので、つい日本式に払ってしまったのだ。ところが、暗算が出来ないその店員は何かの詐欺と勘違いしてしまったのである。日本人は引き算で考えるが、アメリカ人は逆に16ドル78セントにお金を足して行き、20ドルになることでおつりを計算していたのだ。だから、なぜ筆者が3セント渡したかを理解できなかったのである。まぁ、米国だと教育格差が激しいから、天才もいれば凡庸な子供、救いようのない馬鹿まで千差万別だ。でも、その時は「簡単な算数くらい勉強しておけよ !」とつぶやいてしまった。結局、店長が勘定をしてくれたので助かった。まだ、スーパーなどでバーコードが導入される前の日本だと、レジ係のオバちゃんがキーを素早く叩いて勘定をしてくれたし、釣り銭を正確に渡してくれたものである。八百屋の女将さんだと、即座に商品の合計金額を暗算する名人がいた。今でも、コンビニ店員には熟練のレジ係がいるから、日本人の下っ端労働者はすごい。

  最後に、もう一つ。ニュー・ヨークのある大学で起こった出来事だ。ちょいと用があって、図書館で調べ物を済ませ、その日は昼飯を取れないほと忙しかった。腹が減ったので、早い夕食を取ろうと、午後4時頃に食堂へ行ってみた。キャンパス内のカフェテリアに行くと、まだ早かったのか誰も居なくて、ガランと静まりかえっている。気にせずハンバーガーとジュースを盆に載せて、レジで勘定を済ませようとした時だ。レジには両側に盆をのせるレーンがあって、店員が盆に載っている料理を見ながら金額を教えてくれ、お客はその場でお金を払うシステムになっていた。他に誰もいないレジの場所に、一人の若い学生風の黒人娘が立っていたので、筆者はレジのレーンに向かい、財布を取り出すべく盆を乗せようとした。すると、彼女は「こっち側に来て ! (Go to the other side !)」と筆者に指示したのである。一瞬、聞き間違えかと思ったが、間違いではなかった。他に誰もお客が居ないのに、右側のレーンではなく、左側のレーンに盆を載せろというのだ。でも、左右レーンの中間に立っている彼女は、単に顔を右に向ければ済むことなのに、店の規則で左側のレーンを使うよう命じられていたのである。筆者は周りを見渡し、確認したが誰もいなかった。馬鹿らしいと思ったが、仕方がないので、クルリと左側に移ってお金を払うことにした。あの時は、筆者の英語能力が劣っていたのか、と勘違いするほどの驚きであった。思わず「えっ !」と小声で日本語が出てしまったのを覚えている。まったく融通の利かない店員だった。でも、釣り銭を間違えなかっただけマシか。それにしても、人間はとっさの時だと母国語を口にしてしまうのだ。

身近に迫る支那人の人口侵略

  政府や財界は人手不足を口実に外国人労働者を積極的に招き、アジア人留学生や研修生、特殊技能外人も受け容れているので、今やあちこちの店で外国人店員を見かけるようになった。あるフランチャイズ・和風レストランでは、日本語がちよっと可笑しいけど、そこそこ使えるタイ人とかビルマ人の安い給仕を雇っているようだ。彼らは日本人のように気が利かないといか、日本人なら当り前の発想ができないらしい。例えば、始業時間前に出勤し、準備万端にして臨むことに気がつかなかったり、料理の出し方やお皿の並べ方から、調理の合理的手順といったことが拙いそうだ。店長もこうしたアジア人の部下に、一つ一つ教えなければならず、相当苦労しているらしい。日本人従業員はもとより、学生アルバイトでも、ある程度教えれば、「あとはよろしく」とか「お客さんの反応をよく見ていてね」で済むだろう。日本人だと常識的基礎を教えなくても、お客の気持ちを察知して自発的に接客態度を反省したり、仕事を効率よく工夫することがでる。企業の幹部連中は店長に命令するだけでいいが、現場のアジア人を指導する破目になる店長は大変だ。安い外人従業員を任された店長は、その安くなった分を自らの労力を使ってカバーすることになるからだ。移民を入れて喜ぶ経団連のアホどもは、実際の現場で働いてみろ。下っ端の日本人の苦労が身に沁みるはずだ。

  食堂やコンビニなどで支那人の店員に出逢うとちょっと嫌な感じがするが、逆に支那人がお客の場合だと何十倍も嫌だ。2015年に札幌のコンビニで起きた、支那人旅行者による暴行事件を覚えている方も多いだろう。深夜、新婚の支那人夫婦がコンビニでアイス・クリームを購入しようとしたが、その妻が会計前にアイス・クリームを食べたので、男性店員が注意したそうだ。言葉が通じなかったので、この店員は身振り手振りで店の外に出るよう促したという。すると、その支那人亭主は妻が侮辱されたと思い、店員に殴りかかって顔に傷を負わせたらしい。日本人には信じられないが、支那人は店で食い物を買う時、最初に味見してから買うそうだ。しかし、その食い物が気に入らない場合、お金を払わず食いかけの物を棚に戻す風習があるらしい。日本人店員なら目を剝いて激怒するが、支那人には普通の事だ。例えば、浅草を訪れる支那人が、だんご屋に立ち寄って串刺しの「きな粉団子」を一口食べたが、期待した味と違っていたので、店の陳列棚に戻そうとしたらしい。すると、これに気づいたオバちゃん店員は慌てて、「そんなことしちゃ駄目 !」と注意して、「No、No !」と声を荒げ、お金を払うよう言い渡した。でも、なんで支那人相手に英語なんだ、と笑ってしまうが、オバちゃん店員は日本語が通じないと思ったから、知っている外国語を口にしたのだろう。それにしても、支那人は何をしでかすか分かったもんじゃないから、常に目が離せない。

  日本でトラブルを起こす支那人観光客は、米国でも問題を持ち込んでいた。ロッド・ドレーラーというアメリカ人が、レストランでの迷惑な支那人客に遭遇した話がある。50代とおぼしき支那人女性客が二人、店に入ってきてテーブルについたそうだ。そこで、ウェイターが注文を聞きに彼女たちの席にやって来た。彼が尋ねたところ、この支那人たちはほとんど英語を話せず、言いたいことが伝わらなかったので、ウェイターに痺れを切らしていたそうだ。すると、二人の内の一人が次第に苛立ち、iPhoneを取り出すと、画面をじっと見つめながら、何かを夢中で捜していたらしい。ウェイターが話しかけても、彼女は無視したままで、益々必死な表情となり、非常に焦っていたという。無言で何かをしている支那人なんて不気味だし、何をし始めるか分かったもんじゃない。これでは、ウェイターがいくら親切でもお手上げだ。

  後で、ドレーラー氏はそのウェイターに、一体どんな事情なのかを訊いたそうだ。その給仕が語るところによれば、二人の支那人客はレストランに訪れる遙か前、ネットで店のメニューを調べていたという。ところが、お目当ての料理は既に終了となっており、ウェイターは彼女たちにその料理を出せないと説明したそうだ。しかし、楽しみにしていた料理が無いと告げられるや、その支那人はみるみるうちに怒りを表し、彼に八つ当たりしたという。(Rod Dreher, The Ugly Chinese, The American Conservative, October 3, 2014) あぁ~、支那人ってのは、どうにもこうにも分からず屋というか、自分中心主義者というか、けったいな民族である。歐米や日本のレストランには、「季節限定」のメニューというものがあって、新鮮で旬な素材を使ってお客に提供するが、季節が変わる頃には終了となるのが普通である。年がら年中、ドロドロの揚げ物や辛い麻婆豆腐、こってりした酢豚を食っている連中とは違うのだ。支那人ならいつでも病気で死んだ豚の肉を食っているが、先進国のグルメ客は旬の松茸やヒラメのムニエルとか、脂ののった寒ブリなど、「粋」な料理を季節ごとに楽しんでいる。野暮天の支那人には分からないだろう。それにしても、支那人のオバんたちは、何とも我が儘というか、実にふてぶてしい。厨房のフライパンで頭をぶん殴ってやればいいのに。ちょっとは正気になるだろう。

Chinese at Kiyomizu(左/清水寺の支那人観光客)

  店からつまみ出したい支那人は、日本の観光地にも溢れていた。例えば、京都の清水寺に押しかけた支那人観光客のマナー違反は有名で、英国人記者も仰天したらしく、「デイリー・メール」紙が報道されていたくらいだ。音羽の瀧から水を掬おうと、長い列に並んでいた数名の支那人客は、待ちきれなくなって水たまりの所に足を踏み入れ、柄杓ではなくペット・ボトルに水を入れていたのだ。これには日本人客もびっくり。さぁ~すが支那人。やることが大胆だ。日本人だと恥ずかしくて出来ない。まったく、支那人が来ると折角の名所が台無しである。美しい風景が穢れるし、素晴らしい神社仏閣も醜くなる。京都での観光旅行が、スラム街見物になってしまう。支那人ときたら、平気でビニール・パッケージや空き缶を道端や花壇に捨てるし、禁煙地区でもタバコを吸って、吸い殻を投げ棄ててしまうのだ。観光地の美観を損ねるという意識が一切無い。地元の日本人はこうした無礼な支那人観光客に怒り心頭だ。不愉快極まりない。ガーガー鳴くアヒルの群れが通っているのか、と勘違いするような支那人の団体客を見ると、無性に蹴り飛ばしたくなる。日本人は心が優しいから口にしないが、露骨なアメリカ人なら汚い言葉で罵るに違いない。

商売熱心な在日支那人

  日本にやって来る支那人観光客も問題だが、さらに深刻なのは、日本に住みつく支那人である。支那人は放って置くと信じられないような行動に出るからだ。TBSの番組「東京マガジン」でも紹介されていたが、多摩川の河川敷には日本人のみならず、支那人までもが違法に野菜を栽培しているという。日本人の不法農民は、家庭菜園の延長みたいだが、支那人の方は見るからに「商売」用に栽培しているのが分かる。どういう滞在身分なのか分からないが、外国に住んで堂々と不法栽培・公有地の不法占拠を行っているんだから、図々しいったらありゃしない。支那人は小さくても儲け口となりそうな噂には敏感で、無料で土地を農地に出来ると聞きつけたのであろう。普通の日本人は役場にお金を払って、合法的に野菜を栽培しているそうだ。こんな不法を犯している支那人でも、長く居坐ればやがて国籍が取得できるのだ。「ワタシ中国人アルヨ !」と支那語訛りで喋る連中が、我々と“対等な”権利を持つ「日本国民」になってしまう。移民に無関心な一般人は、この恐ろしい未来をよく考えるべきである。

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(左: 河辺に棄てられた牡蠣の貝殻 / 右: 貝を奪い取る者)

  多摩川に支那農民が発生すれば、今度は江戸川で支那商人が現れていた。この支那人たちは川で採れる牡蠣(かき)を目当てに来ており、その牡蠣を箱一杯に奪うと、河辺にしゃがんで牡蠣の身だけを取り除くと、貝殻はポイっと外に捨ててしまうのだ。河辺には一面、牡蠣の殻だらけ。何も知らずに川を訪れた日本人は、足などに殻が刺さって怪我をする。江戸川では親子連れが訪れ、貝を採って楽しんでいるので、子供が牡蠣の破片で手を切ってしまうことがあるそうだ。子供は泣きじゃくり、母親は大急ぎで傷の手当てをせねばならない。以前なら、休日の潮干狩りくらいで、一般人の親子が個人的に楽しむ程度だったのに、この不逞支那人は商売人で、日本の川の幸を根こそぎ持って行ってしまうのだ。これって、琵琶湖の小魚をすべて食べ尽くしてしまうブラック・バスやブルー・ギルといった兇暴な外来魚と同じゃないか。支那人は特定外来生物に指定すべし。

  日本人は国防に無頓着すぎる。ミサイル防衛システムも大切だが、近所や同じ県に住む支那人にも警戒すべきだ。彼らが一旦住みつくと、街があっと言う間に支那人だらけになり、雰囲気が悪くなる。支那人が群棲する街が、素晴らしい住宅地になったり、外国人が憧れるような観光地になった例しがない。例えば、イタリアのミラノやフィレンツェのような歴史が息づく名所に支那人が集まったらどんな事が起こるか、想像しただけでも恐ろしい。日本でも白銀台とか麻布、恵比寿、広尾、高輪とか、お洒落な地域にあの“がさつな”支那人が住んでいたら、地価が暴落するだろう。不動産所有者に意地悪するなら、その周辺に支那人をうろうろさせることだ。景観が悪くなるだけではなく、何らかの犯罪が増えたり、いざこざが勃発するから、地域住民は支那人が寄りつかないよう対策を講じるに違いない。日本人はオランダ村なら喜んで見に行くが、支那人村とか朝鮮村が出来ても訪れないだろう。支那人がうじゃうじゃ居る村なんか、お金を払って見に行く観光地じゃない。

  支那人はタフな民族だから、嫌われてもめげない。差別する日本人がどれ程いようもと、素晴らしい日本に押しかけてくる。一部のマスコミや地上波テレビ局は、日本の良さを賞讃する支那人を取り上げ、支那人に対する警戒心をなくそうとしている。我々はこういったヤラセ番組に騙されてはいけない。支那人がいくら日本に憧れようとも、日本に住むことを許してはならないのだ。支那人の居住や帰化を許すということは、我々が支那人に同化する危険性を生むことになる。支那人と共生すれば、彼らが我々の良き隣人となるのではない。現実は逆である。日本人が支那人のような下劣な民族になってしまうのだ。徐々に、支那人みたいな行動を取る日本人が増えてくるだろう。いずれ、支那人並の図々しい日本人が町内会の大半を占め、「昔は違ったのになぁ」と嘆く日系日本人が出てくるかも知れない。「あの時、手を打っていればなぁ」と後悔しても遅いのだ。商店街ですれ違う通行人が、「ニーハオ」と挨拶するような時代になったら、日本はお終いだぞ。




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