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映画を通してアメリカを破壊する

  「政治プロパガンダ」というのは幅が広くて、外国人工作員による巧妙な煽動もあるが、普段の生活で何気なく観ている映画でさえも一種の「思想宣伝(プロパガンダ)」となり得る。戦後はテレビが普及したから、さらに有力な手段となった。特にハリウッドの映画会社は左翼ユダヤ人による世界規模のプロパガンダ機関であり、お客の方から自主的に見に来るから効果抜群である。しかも、お金まで払ってくれるんだから、毒入り林檎を配る魔女も羨むくらい。アメリカの伝統文化を憎むユダヤ人からしたら、笑いが止まらない商売である。

  ハリウッドで制作されるプロパガンダ映画は数え切れないほどあるけれど、その内の一つで、2003年に公開された『モナリザ・スマイル(Mona Lisa Smile)』は地味な作品だったけど、出演者が豪華だったから覚えている方も多いだろう。とりわけ、人気女優のジュリア・ロバーツ(Julia Roberts)が主役を果たしたのだから、前評判に釣られて劇場に赴いた人もいたんじゃないか。その他にも、『スパイダーマン』でメリー・ジェーンを演じたキルステン・ダンスト(Kirsten Dunst)や、「ジェイソン・ボーン」シリーズ三部作でニッキーを演じたジュリア・スタイルズ(Julia Stiles)、バットマン・シリーズの『ダークナイト』でレイチェル・ドーズを演じたマギー・ジレンホール(Maggie Gyllenhaal)、TVドラマ『ワイアー』のドミニク・ウェスト(Dominic West)が共演していたのだ。

  では、肝心な本作『モナリザ・スマイル』の中身はというと、ベトナム戦争で全米が荒れる前の1953年が舞台設定となっているので、アメリカが黄金時代を謳歌していた頃ということになる。映画はジュリア・ロバーツ演じるキャサリン・ワトソンがボストンにある名門女子大に赴任してくるところからストーリーが始まり、このキャサリンは美術史を担当する教師で、自由闊達というか「リベラル」な風土を醸し出すカルフォルニア出身となっていた。日本で言えば、ちょいと左翼がかった「進歩的知識人」といったところだ。ところが、彼女は「セヴン・シスターズ」と呼ばれる東部名門大学7校の一つ、ウェルズリー(Wellesley College)にやって来たもんだから、一悶着あって当然である。当時のお嬢様大学といったら保守派の牙城に等しく、マナーや規律を厳格に守る寮長や教師が目を光らせ、下品な風潮に染まらぬよう「レディー(lady)」の育成に努めていたのだ。だからこそ、上流階級の親が安心して箱入り娘を通わせることが出来たとも言えよう。まぁ、こうしたカレッジはイングランドにある全寮制のパブリック・スクールを米国に再現したようなものである。

  この名門大学で新任教師のキャサリンが最初の授業を行ったところ、プライドの権化みたいな秀才のエリザベス・“ベティー”・ウォーレン(キルステン・ダンスト)に軽くあしらわれ、手玉に取られるといった洗礼を受ける。彼女を始めとする女学生たちは、キャサリンが指定した教科書を完璧なまでに予習しており、彼女が教えるところが無いといった有様だった。茫然とするキャサリンをよそに、生徒の一人が「先生のお話がこれ以上ないようでしたら、自習をしたいのですが」と言い放ち、他の学生たちも次々と席を立ち始めたのである。反抗的な小娘たちに小馬鹿にされ、新米教師を見透かすような態度に傷つくキャサリンであった。

  まるで場違いのパーティーに飛び込んでしまったかのようなキャサリンは、高慢ちきな女子学生ばかりではなく、見るからに保守的な教師陣や保護者たちからも冷ややかな待遇を受けたのである。それもそのはずで、キャサリンと学校側の認識が決定的に違うからだ。リベラル・マインドが旺盛なキャサリンは、知的好奇心に満ちた乙女たちを期待していたが、授業を聞く生徒たちにとって大学とは結婚するまでのサマー・キャンプに過ぎなかった。いくらキャサリンが熱心に現代美術を教えたからといって、学生たちが彼女に触発され、卒業後に画家とか評論家になる訳じゃない。美術史なんか所詮、お嬢さまたちの高級な暇つぶしである。(トリビアだけど、ウェルズリー大卒には、ヒラリー・クリントンや元国務長官のマデリン・オルブライト、宋美齢がいるし、スミス・カレッジ卒にはバーバラ・ブッシュいた。ラドクリフ大学だとキャロライン・ケネディー大使、ヴァッサー・カレッジにはジャクリーン・ケネディー夫人がいたが、卒業したのはジョージ・ワシントン大学だった。)


Ludwig Wittgenstein 1(左 / ルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン)
  日本の有名女子大だって似たようなもので、フランス文学やドイツ哲学を勉強するお嬢様だって、卒業後に小説家や哲学者、大学教授になる訳じゃないだろう。また、学生時代の夏休みに、ルネッサンスの巨匠を勉強する為と称してイタリアやフランスに出掛けるが、たいていは友人と観光旅行を満喫するだけだ。ついでに、ハンサムなヨーロッパ人男性と恋にでも落ちれば儲けものなんじゃないか。ただし、イタリアなんかによくいるゴロツキ男とか、アラブ人かモロッコ人の血が混ざった下層民じゃ駄目。同じイタリア人でも、北部から来たゲルマン系の紳士でなきゃ。ドイツに留学する哲学女子だって五十歩百歩だ。だいたい、顰めっ面してルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein)の『論考』を熟読して、ドイツ人と哲学論議に明け暮れる女子大生なんているのか? (赤点だらけの学生時代、筆者もちょいと勉強したけど、つまらないからギターを弾いてひと休みが多かった。なので、ドイツ哲学を専攻する真剣な学生には一応の敬意は持っている。) 大きなお世話かも知れないが、大学の哲学科にいる行き遅れの女教授(spinster)なんか哀れだ。何て言うか、12月25日が過ぎてしまい、3割引で販売されたヤマザキのクリスマス・ケーキが売れ残こり、棚から下ろされたような寂しさがある。

  それはともかく、「新鮮な息吹」をもたらす女教師が、上流階級の娘たちから袖にされて泣き寝入りじゃドラマにならないら、映画の脚本家「保守的な学生たちが次第に心惹かれる様子を描いている。美術史の授業を通して、キャサリンは教科書丸暗記の才女たちを窘(たしな)め、“自分が”絵と直接向き合いどう解釈するのか、また古典的絵画のみならず現代アートを取り上げ、「藝術とは何なのか?」、「誰が作品の善し悪しを決めるのか?」ということを“自分の頭”で考えるよう促したのである。「自分の頭で考えた意見を持つ」というのは魅力的だが、キャサリンが紹介した現代アート作品のどこが素晴らしいのかは、筆者には分からない。例えば、映画では言及されていないけど、例えば、美術界の批評家はピカソやムンク(Edvard Munch)の作品を素晴らしいと絶讃する。でも、これらの藝術家を本当に愛している庶民は何人いるんだ? もし、ムンクが有名画家じゃなかったら、大金を出して彼の『少女と死』、『不安』、『泣いている裸婦』を買うのか? 高額な値をつける有名作品の『叫び』だって、普通の日本人が観れば子供の絵に過ぎない。青空市場で販売されたら、1万円どころか千円にも満たないぞ。

  賛否両論の別れる現代美術はともかく、キャサリンの熱意に鼓舞される学生も出てきた。ベティーと並ぶ優等生のジョーン・ブランドウィン(ジュリア・スタイルズ)は、新任教師の生き方に理解を示し、キャサリンに対して好感を抱き始める。彼女はキャサリンを「アダムズ・リブ(Adam's Rib)」という女子クラブに招き、クラブの女子学生たちは打ち解けた雰囲気でキャサリンを囲み、若い娘らしい会話に夢中になっていた。(このクラブ名は旧約聖書で女がアダムの肋骨から創られたという記述から得たものであろう。) UCLA(カルフォルニア大学)出のリベラル教師に興味津々な乙女たちは、キャサリンの恋愛経験や「なぜ結婚しないのか」といった私生活まで尋ね、キャサリンがそれに対して正直に答えていたのが印象的だった。

 ただ、こうした雑談の中で明らかとなったのは、保守的なクラスメートたちとひと味違うジゼル・レヴィ(マギー・ジレンホール)の家庭事情であった。彼女の両親は離婚しており、その父親はジゼルを見棄てていたのだ。聡明だが奔放的な恋愛を繰り返すジゼルは、「レヴィ(Levy)」という氏族名からも分かる通り、西歐人風のアシュケナージ系ユダヤ人である。彼女はワスプ(WASP)的学園の中で多少毛並みが違っており、進歩的なキャサリンに相通ずる性格を秘めていた。こうした設定からも分かる通り、ユダヤ人というのは当時から続々と上流社会に浸透しており、彼らの中には異質で破壊的な思想を宿している異端児が多かった。煙草や酒をたしなむジゼルの姿は板に付いていたから、洗練された家庭の出身者と思えない。家庭を大切にする貞淑なレディーというより、社会主義のデモに参加する反逆児が似合っている。やはり、西歐系アメリカ人とは種族的に違うので、どうしても伝統を愛する貴婦人にはなれないのだ。(ちなみに、ジゼルを演じるマギー・ジレンホールもユダヤ人である。)

極左ユダヤ人が作っている映画

  表面上、『モナリザ・スマイル』は学校側と軋轢をきたす新任教師と、様々な悩みを抱える娘たちを描いた学園ドラマである。しかし、その根底には文化破壊型のマルクス主義がとぐろを巻いていたのだ。開明的な美術教師たるキャサリンは、東部上流階級が疑問に感じない因襲に「疑問」を呈し、それに囚われている無感覚な乙女たちに「自由の空気」を吹き込んで“解放”してあげようとする。(ユダヤ人にとったら、アングロ・サクソン人の素晴らしい「伝統」でも、息苦しい異教徒の「因襲」に見えてくるから、キャサリンの考えには注意すべし。) 例えば、教え子のひとりベティーのケースだ。秀才のベティーは超保守的な上流階級に育ったので、伝統や格式を蔑ろにするキャサリンに対し、敵意にも似た反抗心を抱く。学校新聞の記者でもあった彼女は、「リベラル」な思想に染まった新米教師を批判する記事を書いた。その一方、ベティーはイェール大学に進んで法律を勉強できるチャンスがあったにもかかわらず、ハーヴァード大学の青年スペンサー・ジョーンズと結婚してしまうのだ。彼女にとっては、結婚して子供を産み、暖かな家庭を築くことが理想なのである。だが、キャサリンはベティーの才能を惜しみ、「学業と家庭を両立できる」と主張した。つまり、女性にとって家庭を持つことだけが「女の幸せ」ではないと言いたいのだろう。

  キャサリンはフィアンセと結婚しようとするジョーンに対しても同様の意見を述べた。ジョーンは願書を出したイェール大学に見事合格するが、愛するトミーとの結婚話が持ち上がってくると、夫を優先し進学を断念しようとする。それを耳にしたキャサリンはジョーンの家に押しかけ、夢を諦めぬよう説得を試みるが、ジョーンから結婚が決まったとの知らせを受けて戸惑う。ジョーンは当惑する先生に「自分の選択だ」と伝えるが、キャサリンは他の選択しもあると助言する。だが、ジョーンは夫に仕えて家庭を守ることにも価値があると力説したのだ。なるほど、「自立した女性」を理想とするキャサリンにとっては、家庭に籠もって家事や子育てに従事する主婦は「家政婦」程度の女であろう。「別の生き方」を提案する教師と向かい合うジョーンは、自分の信念を持って反論を述べる。彼女は自分が夫の為に犠牲を払っているのではないと断言したのだ。ジョーンはキャサリンに「将来、私が朝起きて、弁護士でない自分を後悔するとでも思っているの?」と問いかけた。もちろん、キャサリンだってジョーンが犠牲を払っているとは思ってはいないが、その態度でジョーンはキャサリンが専業主婦を否定している、と察知したのだ。自らの決定を正しいと信じるジョーンは、情熱的なキャサリンに向かって持論を説く。すなわち、主婦というもは決して人生の深みを知らず、教養や知性に欠け、面白味の無い者ではないのだ、と。そして、ジョーンはキャサリンが嘗て与えた言葉を投げ返した。

  「以前、先生は私に何でも出来ると言っていたわよね」
  「だから、私はこれを選び、こうしているの」

こうした固い意志を聞いたキャサリンは最終的に折れ、ジョーンの結婚を祝福したのである。

  ドラマの中では明言されてはいないが、キャサリンが女性の幸福を結婚に置いていないのは明らかだった。新婚のベティーはハネムーンで長期間授業を休んでいたが、ある日ひよっこりクラスに現れたのである。しばらくぶりに教室へと戻ってきてたベティーに、キャサリンは不機嫌さを隠せなかった。まぁ、自分の講義を「お遊び」程度に思われていたんだからしょうがない。ただ、キャサリンは家庭生活を優先しようとするベティーに賛成しかねていたので、彼女が進学を諦めないよう、試験の最中にもかかわらず大学の願書をそっと手渡していたのだ。こんな真似をするんだから、ベティーが呆れるのも理解できる。ところが、そんなベティーに不幸が訪れる。彼女の夫スペンサーがベッドを共にしてくれなかったのだ。彼女の母親は我慢するよう娘に言い聞かせるが、冷たくなった夫婦関係に堪えきれないベティーは遂に離婚を決意する。そして、実家を出て独立し、上品な母親が「ニューヨークのユダ公(New York kike)」と馬鹿にしたジゼルと一緒に暮らすんだ、と母に告げたのだ。

  これこそ、左翼のユダヤ人制作者が喜ぶ「ハッピー・エンド」である。保守的な西歐人娘が窮屈な家庭生活に見切りを付け、一度は断念した夢を取り戻して社会に羽ばたいて行く。つまり、陰鬱な牢獄(家庭)から脱出し、自由の空気を胸一杯に吸い込むことで、明るいキャリア・ウーマンの道を歩む、という筋書きだ。フェミニストが観たら絶讃するような夢物語である。ハリウッド映画の世界では、子供に囲まれた温かい家庭というのは「幻想」で、乳房が垂れ落ちるまで働き続ける独身女とか、離婚を経験しながらもポジティヴに生きる職業婦人というのが「理想」なのだ。さらに、「フリー・セックス」という性的放縦を楽しむ女なら、もっと「格好いい(クールな)」女性という設定になる。バブル景気前後の日本のドラマも似たようなもので、外資系の会社に勤める管理職のエリート社員とか、美人で遣り手のビジネス・ウーマンが洋風の細いタバコを口にくわえると、若い娘たちは「格好いい!」と思ったものだ。現実の日本だと、松嶋菜々子や米倉涼子みたなのは絶無で、大半が「帝人」の社長夫人だった大屋政子とか、アパ・ホテルの元谷芙美子社長、あるいは「ジャミラ」の姉妹かと思えるようなオバちゃんが、有能なビジネス・ウーマンの典型である。(高校生には分からないと思うけど、「ジャミラ」とは「ウルトラマン」に登場した怪獣。)

  『モナリザ・スマイル』の中では左翼制作者による、保守的な「古き良きアメリカ」に対する陰湿な中傷がまだある。映画の前半で、避妊薬のピルを配った校医(保健の先生)のアマンダ・アームストロング(ジュリエット・スティーヴンソン)が譴責されてしまうのだ。淫乱生活に慣れた現在の観客は、アームストロング先生を処罰するジョセリン・カー校長(マリアン・セルデス)を、冷酷な頑固者と見なしてしまうが、性倫理が厳しかった1950年代のアメリカではトンデモないことだった。(学長役を演じるセルデスは素晴らしく「様」になっている。やはり、ユダヤ系女優のオバちゃんは演技が上手い。) 水着を着た女性を品評する美人コンテストだって不道徳とされた時代だから、放縦な私通(手当たり次第の性交/fornication)を奨励しかねない避妊薬の提供は、教師にあるまじき行為であった。厳格な学校側に反撥を覚える観客を眺めて、原作者や制作者たちは満面の笑みを浮かべたはずだ。

  ハリウッド映画では「リベラル」思考を持つキャラクターには、美人の白人女優が採用されるケースが多い。観客の共感を得るにはユダヤ人の顔をした役者じゃまずいし、かといって黒人やアジア人を雇ってはそれこそ逆効果だ。もし、キャサリン役をユダヤ人フェミニストのベティー・フリーダン(Betty Friedan)やアンドレア・ドゥオーキン(Andrea Dworkin)、イヴ・エンスラー(Eve Ensler)、エラーナ・ストックマン(Elana Maryles Sztokman)、スー・レヴィ・エルウェル(Sue Levi Elwell)、もしくは黒人司会者のオプラ・ウィンフリー(Oprah Winfrey)とか黒人活動家のアリス・ウォーカー(Alice Walker)、朝鮮系アメリカ人女優のサンドラ・オー(Sandra Oh)にしたら観客の心は離れて行くだろう。それなら、主役をモデルのケリー・ブルック(Kelly Brook)とかヘレン・フラナガン(Helen Flanagan)、エミリー・ディドナート(Emily Didonato)、イザベル・ゴウラート(Izabel Goulart)にすれば良いのか、と言えば、それはそれで現実離れしているからダメだ。

  にもかかわらず、主役は美人に限る。なぜなら、どんなに非常識な考えでも美男美女が口にすれば抵抗が少ないし、盗人(ぬすっと)にだって「三分の理」があるくらいだから、観客は主演女優の意見に「何分かの理」を探そうとするだろう。しかも、脚本家が主人公を引き立てるように筋書きと環境を有利に設定しているんだから尚更だ。案の定、「進歩的」な思想を植え付けるキャサリンだが、学生たちからの人気はうなぎ登りで、彼女の講義を受けたいと希望する学生が増えてしまう。教授会では彼女を引き続き雇うことにする。ところが、彼女の契約更新には条件があった。ジョセリン・カー校長はキャサリンの授業内容に介入し、彼女が教える内容は事前に学校側から承認されなければならないとか、教科書から逸脱した講義は行わない、といった制約を課したのだ。大学側は保護者からの苦情に対処したのかも知れない。だが、こんな条件にキャサリンが同意するはずはなく、彼女はウェルズリーを去ることを決心する。

  大学を去る前に行った講義で、キャサリンはヴァン・ゴッホに言及する。生前、ゴッホは自分の信念を枉(ま)げず、世間から賞讃されなくても、ひたすら自らの理想美を追い求めた。死後、彼の作品は世に認められ、その名は永遠に語り継がれることとなったが、皮肉なことが一つだけあった。それは、他人の模倣を拒否した彼が、現在、模倣の対象になっているのだ。キャサリンは名作『ひまわり』を最後の講義で取り上げた。彼女は「あなたもゴッホになれる」というお絵かきセットを紹介し、「彼は生涯で一枚の絵も売れなかったけど、誰にも媚びずに自分の絵をひたすら描き続けたのよ。今ではその絵がみんなにコピーされて、誰でも真似できるようになっているから皮肉なものね」と語っていたのだ。

  人生には出逢いがあれば別れもある。枠にはまった授業を嫌うキャサリンは大学を去ることになるが、最後に学生たちから素晴らしいプレゼントを受け取ることになった。かつてはキャサリンに反抗した教え子たちが、例のお絵かきセットを使って独自に絵を描いたのである。それぞれが誰かの模倣ではなく、自分の感性で筆を執ったのだから、教師冥利に尽きるってもんだ。キャサリンは感動で胸が一杯になる。そして、ラスト・シーンが印象深かった。彼女がタクシーでキャンパスを去ろうとした時、教え子たちはキャサリンを見送ろうと自転車に乗って車と併走し、敬愛する教師との別れを惜しんだのだ。教師にとって、惜別と感謝のこもった教え子の笑顔は忘れられないものである。

ユダヤ人がねじ曲げる世界

  人気女優のジュリア・ロバーツがキャサリンを演じると感動の青春映画となってしまうが、『モナリザ・スマイル』は典型的なハリウッドの左翼作品である。自由な精神を持つ若い教師が、周囲の妨害や冷笑にもめげず、因襲で雁字搦(がんじがら)めにされた生徒を“啓蒙”する、というモチーフが根底にあるからだ。これは、“高邁”で進歩的なユダヤ人が、愚鈍で固陋な西歐人に「自由」の喜びと「多様性」の素晴らしさを教えてあげる、ということを意味する。本来なら、健全で自由な生活を享受する西歐人が、ゲットーに埋もれた賤民のユダヤ人、あるいは宗教的誡律で縛り付けられたユダヤ教徒の女性に、甘美な人生や生きる喜びを教えるというのが現実である。しかし、ハリウッドのユダヤ人は現実のアメリカ社会を反転させ、自分たちをイジメてきた白人たちを愚弄し、ユダヤ人を高級民族に描いている。ただし、映画の中ではユダヤ人の肉体を披露する訳には行かないので、ユダヤ人の「理想」を語る主人公は西歐人の役者にして、異質な顔をした制作者の腹話術人形(ダミー)にしているのだ。

  『モナリザ・スマイル』はイギリス人のマイク・ニューウェル(Mike Newell)が監督を務めた作品である。彼はヒュー・グラント主演の『フォー・ウェデング』や人気シリーズ『ハリー・ポッター』を手掛けた監督としても有名だから、彼を知っている日本人も多いだろう。それでも、脚本を書いたローレンス・コナー(Lawrence Konner)とマーク・ローゼンタール(Mark Rosenthal)を知っている日本人は少ないはずだ。「やはり」と言っては何だが、コナーとローゼンタールが映画制作の主導者で、監督のニューウェルは現場指揮官に過ぎない。コナーとローゼンタールは共にユダヤ人で、数々のヒット作品を一緒に手掛けてきた。例えば、『ナイルの宝石』、『スーパーマン 4』、『スター・トレック 6』、2001年の『猿の惑星』、ブルース・ウィルス主演の『マーキュリー・ライジング』、ニコラス・ケイジ主演の『魔法使いの弟子』などが挙げられる。

  40年以上も映画業界で活躍するローレンス・コナーは、どこにでも居そうなリベラル派のユダヤ人で、どちらかと言えば、有名作家でユダヤ人のゾーイ・ヘラー(Zoë Heller) と結婚した脚本家と紹介した方が分かりやすいだろう。彼女が書いた小説『スキャンダルについてのノート(Notes on a Scandal)』は、『あるスキャンダルについての覚え書き』というタイトルで映画化され、007映画の「M」でお馴染みのジュディ・ディンチ(Judi Dinch)と、映画『エリザベス』で女王役を務めたケイト・ブランシェット(Cate Blanchett)が共演したことでも知られている。問題なのは相棒のマーク・ローゼンタールの方で、彼は若い頃から反抗的なユダヤ人青年であったという。彼はフィラデルフィアにあるセントラル高校に通っていたが、学校の風紀に従わず、問題児となっていたそうだ。校則では長髪が禁止となっていたのに、マークは気にせず髪を伸ばし、最初に規則を破った生徒であるらしい。(Raquel B. Pidal, For The Love of Movies:  Mark Rosenthal's Summer of Love, Wild River Review) 

  今の学校では長髪なんか全然珍しくもないが、彼が高校生だった1967年のアメリカでは、きちんとした身だしなみが当り前だったから、浮浪者みたいな髪型は顰蹙を買っていたのである。彼はザ・ビートルズに憧れていたというが、他の生徒だってジョン・レノンやポール・マッカットニーに夢中な者がいたはずだ。でも、大抵の生徒は敢えて規則を破ろうとはしなかったから、ユダヤ人のマークにはアメリカ的価値観に叛逆する精神、ないし規制の概念を覆したい欲望が備わっていたのだろう。こうしたユダヤ人の革命精神は『モナリザ・スマイル』の中にも、しっかりと盛り込まれていた。

  ユダヤ人は憎い西歐社会を破壊する為に、西歐人の精神を腐敗させることに努力を惜しまない。武力で征服できない相手と見れば、揉み手すり手でその懐に忍び込み、強靱な肉体を動かす魂を破壊しようと試みる。仮に破壊しようとする意図は無くても、彼らはいつも何かを批判したり、気にくわないものに触れるや否や、直ぐ改造したくなるのだ。特に厄介なのは、野暮ったいユダヤ教を棄てた世俗的ユダヤ人である。むさ苦しいユダヤ人社会を改革すればいいのに、世話になっている異民族の社会にターゲットを定めるから、本当に迷惑な連中だ。アメリカの白人社会が嫌いなら、さっさとイスラエルに移住すればいいのに、彼らはそれに文句を垂れながらも内心では憧れているので、自分にとって快適な世界に造り替えようとする。映画に登場するキャサリンはユダヤ人改革者の典型例である。

  ユダヤ人脚本家は狡猾で、ルース・ベーダー・ギンズバーグ(Ruth Bader Ginsburg)判事のようなユダヤ人が主役を務めると観客は見に来ないので、ジュリア・ルバーツみたいな美人女優を採用する、といった小細工をする。もし、現実の世界でキャサリンが現れたら大変だ。ワスプだらけの女子大にユダヤ人教師がやって来て、左翼教育を施せば、必ずや大騒動が巻き起こる。同僚教師のみならず学長、理事長、父兄、卒業生たちから非難の矢が飛んでくるだろう。おそらく上流階級の保守的な親たちは、「やっぱり、ユダヤ人って下品よねぇ~」と陰口が横行するし、学生たちだって「誰があんな教師を招聘したの?」と責任者捜しを始めるだろう。したがって、現実のアメリカ社会なら、こうした左翼教師が女学生から歓迎されて、人気者になるなんてあり得ない。ユダヤ版キャサリンはドブ鼠のように追い立てられ、殺虫剤を吹きかけられながら退散する破目になるだろう。これでは映画のタイトルも『モナリザの微笑み』じゃなくて、『絵に描いた餅』とか『ボストンのシャイロック』になるんじゃないか。

  ユダヤ人脚本家による『モナリザ・スマイル』には更なる注目点があった。この映画は「リヴォルーション・スタジオ(Revolution Studios)」が制作した作品なのだ。会社名に「革命」を附けるくらいだから、映画界に革命を起こす意気込みがあったのだろうが、創設者自体が革命児の気質を有していたのである。「リヴォルーション・スタジオ」はユダヤ人プロデューサーのジョセフ・ロス(Joseph Roth)が設立した会社で、彼は20世紀フォックスや(ディズニー社の傘下にある)ウォルト・ディズニー・スタジオの会長を歴任した人物。しかも、ロスの女房はユダヤ人のドナ・アーコフ(Donna Arkoff)で、映画プロデューサーのサミュエル・ザカリー・アーコフ(Samuel Zachary Arkoff)の娘である。(サミュエルはロシア系ユダヤ人。) 金融界でもそうだが、ユダヤ人というのは同胞結婚を通して業界を支配する傾向が強い。一見するとバラバラに存在するユダヤ人プロデューサーでも、女房の閨閥で密接に繋がっていたりするから、ユダヤ人はいつの間にか大御所とか有力者になるのだ。(余談だけど、英国におけるユダヤ人の人脈を理解するには、ダニエル・ガットゥエインの『分断されたエリート(The Divided Elite)』が参考になる。ユダヤ人の話でつくづく嫌になってしまうが、英国の金融業界を知るには有益だから、我慢して読むしかない。)

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(左: サモュエル・アーコフ / 右: 学校の教室で祈りを捧げる子供たち)

  ユダヤ人に生まれたなら、真っ赤な共産主義者やピンク思考の無神論者を親に持つことは珍しくはなく、ジョセフ・ロスの場合も例外ではなかった。彼の父親ローレンスと母親のフランチェスは筋金入りの左翼だったらしく、1962年に起きた訴訟「エンゲル対ヴィテイル(Engel v. Vitale)」の原告メンバーだった。この裁判は有名で、スティーヴン・エンゲル(Steven Engel)というユダヤ人が中心になって、ニューヨークにあるヘリックス高校で行われていた「祈り」に異議を唱えたのである。当時のアメリカでは、授業の初めに先生が神様への祈りを捧げることが慣習となっており、生徒も先生に従って一緒に祈ることが当り前だった。しかし、ユダヤ人の保護者三名と「スピリチュアル」系無神論者二名が原告となり、学校での礼拝が合衆国憲法修正第一条に抵触すると騒ぎ立てたのだ。つまり、学校は憲法で禁止されている国家宗教の設立を企てているというのである。

  で、問題とされた祈禱の言葉とは何かと言えば、以下のようなものだった。

  全知全能の天主様。我々はあなたを頼り、あなたの祝福が我々に、そして我が両親、我が教師、我が国に注がれることをお願います。アーメン。(Almighty God,we acknoledge our dependence upon Thee, and we beg Thy blessings upon us, our parents, our teachers and our country. Amen.)

  この程度のお祈りにケチをつけるなんて、やっぱりユダヤ人というのは頭がおかしい。そもそも、アメリカはキリスト教徒により建国されたんだから、イエズス・キリストの恩寵を求めてもいいじゃないか。我が子が心配なユダヤ人の親はいつまでも合衆国に居坐っていないで、直ぐさま荷物を纏めてイスラエルに引っ越すべきだ。キリスト教的祈りがユダヤ人の苦情により違憲になってしまうなど言語道断で、建国の父祖や独立戦争の将兵が聞いたら激怒するぞ。アメリカで「ポグロム」が起きなかっただけでも、ユダヤ人は西歐系アメリカ人に感謝すべきだ。

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(左: 1950年代の学校に通う子供たち /右: 当時の貞淑なアメリカ人女性 )

  アメリカ史に暗い日本人は、教会と国家の分離を真に受けてしまうが、入植者のアメリカ人はアングリカン・チャーチのような国教の創設を危惧したのであって、キリスト教を独立した共和国から分離・排除しようとする考えは無かった。独立戦争前後のアメリカ人は、今だと信じられぬくらい敬虔で、キリスト教を信仰するのが常識だった。ところが、時代が経って過激な社会主義やフランクフルト学派のマルクス主義が社会に浸透してしまい、学校で当り前だったキリスト教信仰が問題となってしまったのである。しかも、戦後ユダヤ人が力を持ってしまったので、ますます左翼が勢いづき、キリスト教攻撃に拍車をかけたのだ。反対者の中に「アメリカ・ユダヤ人委員会(American Jewish Committee)」や「米国シナゴーグ評議会(Synagogue Council of America)」が加わっていたことからも明らかである。

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(左: 1950年代のアメリカ人女性 / 右: 古き良き時代のアメリカ人家庭)

  本作『モナリザ・スマイル』では、ロバーツ扮するキャサリンが、学業を軽んじ結婚を優先する白人娘たちを諫めているが、そんなに職業婦人が偉いのか、といった疑問が残る。安倍政権下の日本では「働く女性の活用」とか「活き活きとした女性」なんて標語が持ち上げられているけど、要するに企業が安くて便利な女を使って儲けたいというだけの話だろう。政府は待機児童をなくすため、保育施設の充実を謳うが、子供にとっての幸福が何なのかを考えたことがあるのか? 子供は母親と一緒の時が幸せなのだ。幼い子供にとったら、高級なビジネス・スーツやイタリア製のハイヒールをはいた母親より、割烹着を着て台所で料理を作る母親とか、自分のそばで内職に勤しむ「おかあちゃん」の方がいい。もし、子供がキャリア・ウーマンを目指す母親に、「どうしてママは外で働くの? ママと一緒がいい。お外に行くのは絶対嫌だ!」、と涙を浮かべて懇願したら、日本人女性はどう思うんだ? これは余談だけど、安倍首相には子供がいないから、意外と平気に左翼官僚が勧めるフェミニスト政策を支持してしまうのだろう。もし、左巻きの首相夫人に子供がいて、安倍首相も子育てに喜びを見出せば、家庭での育児がいかに重要かを理解できたはずである。

  そもそも、我が子を他人に預けて、職場で給料をもらう事が、子育てよりも上等で高級な仕事なのか? 幼い息子や娘が流した涙に価値は無いのか? 大学に巣くうフェミニストに洗脳された女性は、会社でこき使われることを理想と考え、「専業主婦なんか誰だってなれるじゃない」と小馬鹿にしがちだ。しかし、偉大な日本人を産み育てるのは、日本人の母親にしかできない。幕末や明治の頃に活躍した数々の偉人には、無名ながら後光が差す「偉大な」母親がいたのだ。以前、このブログでも紹介した山地元治将軍の御母堂は武士の妻、そして日本人の母親の鑑である。我が軍の将校が激戦で勇敢に戦い、苦戦を強いられても我慢強く堪えたのは、溢れるほどの愛情を母親から受けて育ったからである。幼少期に無償の愛を注がれた子供は強くなる。人間の根幹には母親の愛情が不可欠なのだ。戦前の日本なら当然のことだが、西歐の大学で博士号を取った学者が、無学の母親を誰よりも尊敬したのは、人生において何が最も大切なのかを認識していたからだろう。東郷平八郎元帥のように偉大な薩摩隼人の陰には、子供に尽くす立派な母親が存在していたのだ。現在、会社で“活き活きと”キャリアを積む母親の何人が、子供からの尊敬を得ているのか? 家事をする母親の背中でおんぶされ、すやすやと寝ていた子供の方が、いつの日にか親孝行をする子供になるんだぞ。

  ハリウッド映画でクールな職業婦人を見せつけられたアメリカ人女性は、「私もあんな風になりたい!」と感動してしまうが、現実の世界は裏切りの連続で映画の通りには行かないことが多い。映画のキャサリンにはカルフォルニアから追っかけてきた恋人のポール(ジョン・スラッテリー)や、大学で恋仲となったイタリア語講師のビル・ダンバー(ドミニク・ウェスト)がいたけど、実際の世界では大学教授を務めて母親業をこなすのは困難である。努力すればこうした兼業も可能だけど、頻繁に授乳したり、オムツを替えるだけでも大変なのに、子供がグズれば夜泣きをするし、夜中に度々起こされれば睡眠不足となる。また、契約通り授業を行わなければならないのに、子供が熱を出せば病院に連れて行かねばならず、面倒を見てくれる誰かに頼まねばならない。こんな激務を背負って大学教授なんか続けていられない、というのが大半の女性が持つ本音じゃないのか。どちらかを選ばねばならないとしたら、やり甲斐のある育児の方を選択するはずだ。いくら華々しい職業に就いて、世間から注目されようが、独身のまま子宮が枯れ果てるなんて嫌だろう。胎児を宿すはずの子宮が年中ガラ空きで、気がつけば赤ん坊を産めない体になっていた、なんて悲劇である。たとえ、低所得・低学歴の女性でも、赤ん坊を抱きながら、上の子供を幼稚園に送ったり、旦那と子供を連れて公園で遊ぶ母親の方が、独身の高学歴女性より幸せなんじゃないか。ユダヤ人の「理想」にうっとりしている女性は、正直に自分自身の心に向き合い、本音で考えるべきだ。 




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