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歴史の闇に潜む支那人と朝鮮人の過去が明らかとなる !

拉致被害者は見殺しの日本人

US Marines 4US Navy Officers 3








(左: 合衆国海兵隊の特殊部隊 / 右: 合衆国海軍の士官)

  今、日本の報道番組では、南鮮大統領の朴槿恵が「ついに弾劾されるぞ!」とか、「辞任するんじゃないか?」といった話題で持ちきりだ。でもさぁ~、こう言っては何だけど、年がら年中「火病」を発症している朝鮮人が、またもや激昂して叫び狂うのは、彼らの“通常営業”なんじゃないか。南鮮人ときたら、国内で政治的鬱血が溜まったり、財閥経済の失敗で不況に陥れば、お得意の「反日カード」を持ち出して、「日帝支配は許せないニダぁ~」とか「慰安婦に謝罪せよぉ~」、「日王は土下座しろ!」と叫べば元気になる。でも、そんなのはシャブ中に一匙の覚醒剤みたいなもので、瞬間的には爽快だが、しばらくすれば再び陰鬱になるだけだ。亡国の民に救い無し。

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(左: 朴槿恵に抗議する朝鮮人 / 右: 怒った顔の朝鮮人少女)

  セオウル号のように沈み行く南鮮は、我々の手に負えるものではないから、自然の流れに身を任せて玄界灘の底に沈むしかない。それでも「日本人はウリ(我)を助けるために金よこせ!」、とギャアギャアわめく南鮮人がいたら、キムチと一緒に甕に詰め込んで、北鮮の地中に埋めてやれ。一年もすれば、北鮮人のご馳走になるだろう。(もっとも、利に聡い北鮮人なら、支那の人肉市場に持ち込んで、ちょいと一稼ぎするかもね。) 南鮮人なんがどうなろうと我々の知ったことではないのに、ワイドショー番組は朝鮮人の御用学者を招いて、一日中、朴槿恵の側近がどうしたこうした、と解説し、まるで朝鮮放送局にでもなったかのように振る舞っていた。しかし、部外者には南鮮の権力闘争のことは分からないし、外野が何を言っても始まらないだろう。テレビを観ている日本の子供なら、ゲスト解説者の朝鮮語訛りを真似して、「ボクもぜぇんぜぇん分かりましぇ~ん」と笑い転げるんじゃないか。

Korean workers 3Koreans of 1904







(左: 抗議デモを行う南鮮人労働者 / 右: 昔の朝鮮人)

  我々にとっては南鮮の政治的混乱より、拉致被害者の奪還の方が重要なはずだ。いったい、政府が「被害者を救出する」と言って何年になるんだ? そもそも、大勢の日本人が拉致されたのは1970年代だぞ。例えば、もし現在、東京か大阪で子供の誘拐事件が起きたとして、警察官が取り乱す両親に向かい「あと二、三十年もすれば解決の糸口が見つかるかも知れません」と告げたら、どんな反応が返ってくるのか? おそらく、激怒した父親は「何言ってやがるんだ!」と警官に掴み掛かるだろうし、母親は泣き崩れて失神してしまうだろう。我が子を攫われた親は、1日だって耐えられないのに、30年ないし40年も放ったらかしにされたら、逆上して北鮮じゃなく国会に銃口を向けるんじゃないか。マフィア国家の北鮮に対し、「話し合いで解決」なんて空論だ。極悪人には武力で交渉すべし。

James Mattis 1James Mattis 2Peter Pace 1







(左と中央: ジェイムズ・マティス/ 右: ピーター・ペイス)

  邦人を見棄てる日本と違い、米国は自国民1人を救出するためには、陸海空の全軍を動員し、真っ先に勇猛果敢な海兵隊を送り込む。国民救出の為には核戦争も辞さないから、北鮮のみならず支那も米国人には手を出さない。悪党だが馬鹿ではない朝鮮人や支那人は、自分より強い者に対しては従順になるのだ。日本人には「北鮮や支那は暴力団が建てた国」という基礎知識が無いから、呑気で悠長な戯言(たわごと)を口に出来るのだ。米国だとクリントンやオバマみたいな卑怯者が大統領になっても、オーヴァル・オフィス(執務室)に控える高級軍人が睨みを利かせているから、世界のゴロツキどもだって二の足を踏んでしまう。だって、今度トランプ政権で国防長官になるジェイムズ・マティス将軍(Gen. James Mattis)はタカ派だし、海兵隊出身の統合参謀本部議長だったピーター・ペイス将軍(Gen. Peter Pace)は、温厚な紳士に見えたがその実非常にタフだった。

Henry Shelton 1Henry Shelton 4Omar Bradley 4George Patton 1






(左2枚: ヘンリー・シェルトン将軍と戦場に於けるシェルトン / オマー・ブラッドリー / 右: ジョージ・パットン)

     同じく海兵隊出身のヘンリー・シェルトン将軍(Gen. Henry Hugh Shelton)なんか、古代ローマの執政官か属州総督みたいだっから、あの鋭い目つきで大統領を黙らせてしまうくらいの迫力があった。歴代の軍人を見ても分かるが、合衆国陸軍には、第二次世界大戦で名を馳せたオマー・ブラッドリー将軍(Gen. Omar Nelson Bradley)がいたし、ジョージ・パットン将軍(Gen. George Smith Patton)もいたじゃないか。パットンは強烈な個性の持ち主で、その活躍は後に映画化されたくらいだから、日本でも有名だ。

熱烈な愛国者だった海軍大佐

  こんなアメリカ合衆国にはその歴史上、素晴らしい軍人が雲霞の如く存在するが、今回はその内の一人ジョサイア・タットノール・ジュニア(Josiah Tattnall, Jr.)を紹介したい。

Josiah Tattnall 1(左 / ジョサイア・タットノール)
  我々もよく知っているポーハタン号で、幕末の横浜にやって来たタトノール代将(Commodore/普段は海軍大佐)は、1795年11月9日、ジョージア州サヴァンナの近くにある「ボナヴェンチュア・プランテーション(Bonaventure Plantaion)」で生まれたという。当時の日本は寛政年間で、徳川家斉が将軍として君臨し、松平定信が老中だった頃である。タトノールは名門の家庭に育ち、その遠い祖先はフランスのノルマンディーからやって来て、イングランドのチェシャイヤーに定住したそうだ。ジェントリー階級に生まれた代将だが、その父親ジョサイア・シニアもすごかった。彼は同じ名前のジョサイアを父親に持ち、その母はアイリス系貴族たるジョン・マルリン大佐(Col. John Mulrne)の一人娘であった。この両親には二人の息子が生まれ、ジョサイアには兄のジョンがいる。

  ジョサイアの家族は王党派だったので、アメリカの入植地で独立運動の気運が高まると、彼の祖父、つまり母の父親マルリン大佐と共に英国へ去って行ったという。しかし、18歳前後の若きジョサイアは故郷のジョージアに抜き難い愛着があったので、両親に従って英国に逃れることを潔く思わなかった。愛国心旺盛なジョサイアは、英国行きの船が錨を上げて出港しようとした時、突如として海に飛び込み、岸まで泳いで是が非でも故郷に残ろうとしたそうだ。(Charles C. Jones, Jr., The Life and Services of Commodore Josiah Tattnall, Norning News Steam Printing House , Savanan, 1878, p.3) しかし、そんな抵抗はしょせん、子供が駄々を捏ねたようなものに過ぎず、彼は家族と共に英国に渡ることとなり、イートン校で勉強する生活になった。イングランドに滞在中、英国海軍に入らないかとの申し出を受けたそうだが、同郷の仲間に刃(やいば)を向けるのを躊躇ったジョサイアは断ったという。

Nathanel Greene 2Anthony Wayne 2(左: ナサニエル・グリーン / 右: アンソニー・ウェイン)
  そうこうしてアメリカ大陸での独立戦争が終盤を迎えた頃、ジョサイアはどうにかジョージアに戻ることが出来て、早速ナサニエル・グリーン(Nathanael Greene)少将麾下の軍団に入ったそうだ。そして、戦場では猛将で知られるアンソニー・ウェイン(Anthony Wayne)准将に仕えて、英国軍をジョージアから駆逐したと言われている。こうした武勲を経歴にして、ジョサイアはチャタム砲兵隊の陸軍大尉となり、次に第一ジョージア聯隊の大佐、そのあと第一師団に属する第一旅団の准将となり、政界に進出するや、ジョージア州選出の連邦下院議員、連邦上院議員、さらにジョージア州知事にまでなった。しかし、彼は1804年西インド諸島で亡くなってしまう。享年36。若すぎる死であった。

  こうして早くに父親を失ったジョサイア・ジュニアは、孤児となってしまった。というのも、父が亡くなる数ヶ月前に母親まで他界していたからだ。(ちなみに、ジョサイアには生まれる前に夭折した兄がいて、1歳半で亡くなってしまったので、彼の両親は生まれてきた弟に同じ名前を授けたらしい。) 彼の母親ハリエット・フェンウィック・タトノール(Harriet Fenwick Tattnall)も名門の出で、彼女の父親エドワード・フェンウィックはサウス・カロライナの郷士で、その祖先はノルマン征服以前のサクソン人貴族に遡るそうだ。これだけの家系に生まれたんだから、高貴な精神を持っていても不思議ではない。父の死を以て、ジョサイアは兄のエドワードや妹のサリーと共にイングランドに渡ったそうだ。彼はイートン・カレッジに入って、そこで6年間勉強したという。

  イングランドでジェントルマン教育を受けたとはいえ、ジョサイアの心には絶えず「アメリカ人魂」が息づいていた。合衆国に尽くした父の愛国心は息子に受け継がれ、ジョサイアも故郷の仲間と過ごした思い出を大切にしていたそうだ。ある日、食事か何かの席で、祖父と一緒にテーブルに着いていた時のエピソードがある。祖父が国王陛下の健康を祝して乾杯しようと呼びかけたところ、ジョサイアは合衆国大統領の健康も一緒に口にするまで、決してグラスに触れなかったという。(上掲書 p.5) ただし、彼が反英国的態度を取っていたと言いう訳ではない。ジョサイアは学校の友人とも親しかったし、一生忘れられない程の楽しい日々を過ごしていたという。

命令よりも同胞を優先した代将

Taku Fort 2Taku Fort 5









(左: タークー要塞 / 中央: 要塞にあった大砲/ 右: 支那兵と闘う英国兵)

  イートン・カレッジで6年間を過ごしたジョサイアは、ブリテンからアメリカへと戻り、海軍に入って士官候補生となった。彼は米英戦争で戦場を経験し、フリゲート艦のコンステレーションやマケドニアでの任務を経て、着々と出世を遂げていったという。こうして海軍大佐となった彼は、蒸気艦「トゥーイ・ワン(Toey-Wan)」の指揮を任され、戦闘命令がなかったにも拘わらず、第二次アヘン戦争(アロー号戦争)に係わって行く。英仏の軍隊はこの戦争で、支那の「大沽(タークー)要塞」を攻めることとなり、1859年6月24日、揚陸部隊を以て作戦に取りかかったが、殊のほか支那軍の抵抗が激しかったので、苦戦を強いられることとなった。というのも、英仏のフリゲートは大型艦であったため、浅い河を航行することができず、小さなガンボート(gunboat)11艇に兵隊が乗り込んで攻撃するしかなかったからだ。英仏の軍人は勇ましく出撃したが、1艇のガンボートには、たった4つの銃砲しか装備されていなかったというから、その戦闘能力は限られていた。

James Hope Sir 3Opium War 5







(左: ジェイムズ・ホープ少将 / 右: 阿片戦争での海戦)

  英国海軍の指揮を執っていたジェイムズ・ホープ少将(Rear Admiral James Hope)と仲間のフランス海軍は、当初、支那軍の戦闘能力を見くびっていた。彼らの事前調査では支那軍など大したことはないと思っていたのに、いざ戦闘を開始してみると、支那軍の砲撃は正確で、しかも容赦ない攻撃を展開していたから、英仏軍の兵士たちは西歐人が砲台にいるのかと勘違いしたそうだ。それでも、英仏軍はめげない。「プローヴァー(Plover)」というガンボートに乗り込んだホープ少将は、ボートのブリッジへ昇り、仁王立ちになって采配を揮っていたという。ところが、要塞から発射された銃弾が軍服の鎖に当たり、その衝撃で彼はデッキに倒れ落ちて、肋骨三本を骨折する重傷を負ったのである。この指揮官のみならず、部隊の兵卒も激戦で多くが負傷、または戦死する事態となってしまった。

Taku Forts 3Taku Fort 1











(左: 英国兵と闘う要塞の支那兵 / 右: 城壁を登る英国軍を突き落とす支那兵)

  一方、タットノール代将は「トゥーイ・ワン」からこの戦闘を眺めているしかなかった。なぜならば、合衆国政府はこの戦争に介入しておらず、彼の任務は観戦のみに限られていたからだ。しかし、彼と種族を同じくする西歐人が、支那軍からの激しい砲撃を受け、無惨にも次々と斃れている。熱血漢のタットノールは居ても立ってもいられない。それもそのはず、彼の目の前でイギリス兵とフランス兵が皆殺しに遭っていたのだ。ここで立たねば軍人ではない。否、男ですらないだろう。そこで、見るに見かねた代将は中立命令を破る際、「血は水よりも濃い(blood is thicker than water.)」と述べたそうだ。(上掲書 p.104) 彼は直ぐさま応援部隊を派遣し、プローヴァー号の負傷者を救出しようとしたそうだ。彼の到着は大いに歓迎され、代将は数名の部下をプローヴァーに残し、負傷者を戦闘地域外に運ぶことにした。

  怪我人を安全な場所に置いてからプローヴァーに戻った代将は、残しておいた部下たちが爆薬で真っ黒になっていることに驚いた。彼が部下たちにその理由を尋ねたところ、彼らの一人が答えたという。

  はい、艦長殿が去った後、我々には何もする事が無かったので、ちょいっと銃を手にしたのであります。

  もちろん、タットノール代将は英国兵の代わりに闘った部下を責めなかった。たぶん、彼は「しょうがない奴らだ。だが、よくやった」と暗に褒めたんじゃないか。彼が黙認したのはその証拠だ。厳密に言えば、タトノール代将の取った行動は命令違反で、合衆国海軍の規律に反すると思えるが、同じ西歐人の将兵を見棄てるよりマシだろう。もし、代将が命令通り「中立」を貫いて、イギリス兵とフランス兵を見殺しにしたら、本国のアメリカ人はどんな評価を下すのか。おそらく、アメリカ人の戦場記者は、タトノールを「臆病者」とか「恥知らず」と非難したであろう。戦闘を見ていないアメリカ本土の兵卒や士官だって、「何だあの野郎。ガッツがねえな。あれじゃあ、武人でなく役人だ」と蔑むんじゃないか。

Opium Chinese 2Opium Chinese 1








(上写真 / 阿片を吸引する支那人たち)

  日本の武士だって、やむにやまれぬ状況なら、命令を無視して仲間を助けるだろう。西郷隆盛とか弟の信吾どんなら、部下に向かって「おいが腹を切るから、おまんらは存分に闘ってこい !」と言うんじゃないか。事情が分かれば大久保利通も責めはしないし、西郷どんの言葉をもらえば、桐野利秋などが先陣を切って突撃するから、前を遮る敵は悉く斬り倒されてしまうだろう。まさしく日本の武士は天下無敵である。特に、示現流を体得した薩摩隼人くらいになると、鬼神だって小便ちびってしまうほど恐ろしい。へっぴり腰の朝鮮人なんか、千人束になってかかっても日本の武士にはかなわないだろう。何たって気魄が違うし、殺気に満ちた鋭い目つきで睨まれたら、ぶるぶる足が震えて腰が抜けてしまうからだ。(こう述べると、山口や福島の国民から、「お前、島津家から金でももらっているのか?」と疑われそうだけど、長州藩士や会津藩士も勇敢な武人ということは充分承知しているので、抗議のメールはご勘弁ください。)

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(左: 西郷隆盛 /中央: 西郷從道 / 右: 晩年のジョサイア・タットノール)

  大沽攻略戦では、英仏軍併せて約450名の死傷者を出したそうだ。(上掲書 p.103) 支那大陸のみならず本国でも立派な功績を残したタットノールは、故郷のジョージアで余生を過ごし、1871年、永久(とわ)の眠りについた。死後、タットノール代将は二度、名誉に輝いたという。一度目は第1次世界大戦の時で、ウィックス級駆逐艦が彼に因んで名づけられた。二度目は、誘導ミサイルを搭載したチャールズ・アダムズ級駆逐艦「タットノール」が就航した時だ。

邦人救出は二の次三の次

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(左: 横田滋夫妻 / 右: 海上自衛隊のイージス艦)

  こうした昔のアメリカ人を見てみると、現在の我々は、とても明治の日本人を祖先に持つ子孫とは思えない。国会では集団安全保障の議論でさえ分裂し、左翼は左翼で、憲法を改正すると日本が「軍国主義国家」になってしまう、と騒いでいるんだからどうしようもない。もっと情けないのは、海外派兵を巡ってのどんちゃん騒ぎだ。外国に派遣される自衛隊を議論しているのに、何丁のライフルや機関銃を許されるべきか、と議員が真顔で話し合っていたんだから、もう目を蔽いたくなるほどの惨状である。特に、合衆国海軍と行動を共にする海上自衛官は、国会議員の馬鹿げた空論に悔し涙を流したり、脳天気な認識に歯ぎしりすることが多い。というのも、アメリカ兵が敵から攻撃されても、掩護や反撃をしてはならず、自衛隊は指をくわえて見ているしかないからだ。たとえ、同盟軍が皆殺しにあっても、自衛官は軍人ではなく特殊公務員だから、「危ない」戦闘行為は厳禁。しかし、そんなことは愚の骨頂だ。現場の指揮官はクビを覚悟で、米軍を軍事的に支援するだろう。部下の隊員たちだって、命令違反で懲戒処分になることを選ぶだはずだ。彼らは如何なる処分も気にせず、同盟軍を助けるために戦闘行為に就く。もし、帰還した将兵が譴責処分を受けるなら、草莽の国民が一斉に蜂起し、愚劣な国会議員に抗議すればいいじゃないか。ぎゃあぎゃあ喚く辻元清美なんか、首にロープを巻き付けて馬で引き摺ってやればいい。国民は拍手喝采するだろう。とにかく、日本の名誉を守ったから、自衛官が罰せられるなんて馬鹿げている。

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(左: 土井たか子 / 福島瑞穂/ 辻元清美/ 右: 福島と辻元のポスター)

  自衛隊に課せられている法的拘束衣は問題だが、さらに許せないのは、拉致被害者を見棄てる政府と、軍事行動を以て邦人を救出することに反対する左翼議員である。事ある毎に「人権」や「平和」を説く下郎に限って、我が国の女子供に冷淡なのだ。昔、土井たか子は「女性の権利」を看板に当選回数を増やしていたが、北鮮による拉致疑惑には敵対的で、無視するというより裏で北鮮と連(つる)んでいた。土井と同じく「女」を武器にしていた福島瑞穂や辻元清美も、拉致された我が国の女性には関心が無かった。在日朝鮮人の少女がちょっとでもイジメられれば、ヒステリーを起こして騒ぐのに、北鮮の工作員に攫われた日本人少女になると、知らぬ顔を決め込む。こんな売国奴に投票した国民がいたんだから、支持した有権者は全員名乗り出ろ、と言いたい。

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(左: 合衆国海軍士官 / 右: 合衆国海兵隊スナイパー)

  タトノール代将は、いくら「外国人」のイギリス兵やフランス兵であっても、種族を同じくする仲間に対して憐憫の情を持っていた。しかし、我々は「同胞」の悲劇なのに、あまりにも冷たすぎる。もし、めぐみさんを攫われた横田滋さんが、「軍事力を使って娘を助けてくれ」と頼んだら、日本国民は何と答えるのか? 票にならない拉致事件に無関心な大半の国会議員は、拉致被害者の代表である横田夫妻が早く死んでくれることを望んでいる。厄介な問題は後回しにして、拉致被害者が北鮮で死に絶えてくれればもっと嬉しい。被害者の「日本人」が死んでくれれば、「死人に口なし」だから、さっさと慰霊祭でも開催し、墓でも作ってやれば国民を黙らせることができよう。そうすれば、後は予てから待ち望んでいた北朝鮮への経済援助と投資事業に着手できる。国民の税金を犯罪者に貢いで、キックバックを北鮮と業者からもらう魂胆なんだろう。同胞の日本人を奪還し、犯罪者の北鮮を壊滅させることが我々の優先事項なのに、政府や国会は相も変わらず「景気対策」が第一の課題になっている。天に召されたタトノール代将が聞いたら、どんな顔をすることか。かつて、日本人は生き恥をさらすくらいなら、死を選んだのにねぇ。



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