絶賛発売中 !




本当にいた狙撃の達人

  前回述べた『山猫は眠らない』の主人公トマス・ベケット曹長にはモデルがいた。それがベトナム戦争で伝説の狙撃手と呼ばれたカルロス・N・ハスコック特務曹長(Gunnery Sergeant Carlos Norman Hathcock II)である。彼は1942年5月20日、アーカンソー州のリトル・ロックに生まれた。幼い時に両親が離婚していたので、カルロスは祖母と一緒に暮らしていたそうだ。彼は小さい時から銃に興味を抱いたそうで、犬を連れて森に入っては狩猟を行っていたらしい。軍人に憧れたカルロス少年は、父親が第一次大戦で持ち帰ったモーゼル銃を用いて、想像上の日本兵を撃つ「兵隊ごっこ」で遊んでいたそうだ。ライフル銃の扱いに慣れたカルロスは、将来海兵隊に入ることを望んでいたという。そして、17歳になった1959年5月20日に、念願の海兵隊員になった。さらに、海兵隊の創立記念日である1962年11月10日、彼は恋人のジョー・ウィンステッドと結婚したというから、まさしく海兵隊が人生の中心となっていた訳だ。(ちなみに海兵隊の公式な創立記念日は、1775年11月10日である。)

Carlos Hathcock 3Carlos Hathcock Sniper 1











(写真 / スナイパーとしてのカルロス・ハスコック)

  海兵隊員になるために育ったようなハスコックだから、ライフルを構えれば誰にも負けず、射撃の腕前は群を抜いていた。1965年に開かれた射撃大会の「ウィンブルドン・カップ」に出場すると、彼は見事、長距離射撃部門で優勝することができた。彼は上官のエドワード・ジェイムズ・ランド大尉とチームを組んで、一緒に射撃大会に出たことがある。海兵隊チームを率いていたランド大尉も中々の狙撃手で、彼はカルロスの才能を高く買っており、スナイパー養成所を創設した時、この相棒を教官にしていたという。(Charles W. Sasser and Craig Roberts, One Shot-One Kill, Pocket Star Books, New York, 1990, p.166) 

Carlos Hathcock 6Jim Land 1










(左: 「ウィンブルドン・カップ」で優勝したハスコック / 右: スナイパー養成所で教鞭をとるジム・ランド)

  射撃の名手たるハスコックは、海兵隊員が大勢犠牲となったベトナム戦争へと入って行く。彼は当時、最前線の一つとされた第55高地(Hill 55)に配属となり、ジャングルでの実戦で活躍することになった。ハスコックが銃を持てば鬼に金棒、ベトコン兵なんか野ネズミか七面鳥みたいなもんだ。彼が仕留めた敵兵は、北ベトナム軍兵とベトコンを含めて、合計93人と記録されるが、これはあくまでも公式な数字であって、実際は300人から400人くらいは殺したんじゃないかと言われいる。まぁ、戦場で射殺死体を数える審判は居ないから、公式記録が低くなっているのも仕方がない。しかし、ハスコックは手放しで狙撃の実績を喜んではいられなかった。狙撃の達人ハスコックを忌々しく思った北ベトナム軍は、彼の命に3万ドルの懸賞金を掛けたのだ。これは途方もない金額である。通常、アメリカ人狙撃手を殺して得られる報奨金といったら、標的のランクにもよるが、だいたい8ドルから2千ドルが相場であったからだ。(Carlos Hathcock, Heroes of the Marine Corps, Marine Corps Veterans News Letter, August 2015) したがって、この金額を見れば、ハスコックが如何に優れた狙撃手だったかが分かるだろう。

  ハスコックたちの狙撃チームは多大な成果を上げたらしく、第55高地周辺で敵兵に殺される海兵隊員の死亡率は激減したそうだ。ランド大尉とハスコックはスナイパー養成プログラムで、訓練生に「一撃必殺(One Shot One Kill)」のモットーを叩き込んだらしい。事実、教官のハスコック自身が狙った標的は外さない名人なんだから、その言葉には重みがある。彼は北ベトナム軍将兵から大変恐れられたようで、「白い羽のスナイパー(Du kích Lông Tráng)」という綽名をつけられたという。なぜなら、彼は被っている迷彩帽子(bush hat)のバンドに白い鳥の羽を差していたからだ。こうした羽は一般的に「臆病者(チキン)」を意味するが、勇猛果敢なハスコックが身につけていたんだから、如何にもアメリカ人らしいジョークである。ハスコックによれば、狙撃手たる者は臆病なまでに慎重でなければならぬそうだが、敵対するベトコン兵からすれば恐怖のトレード・マークに見えてしまう。当時、同じ地帯にいた海兵隊員はハスコックの名声を利用していたらしく、わざと白い羽を地面に残して敵兵を怯えさせ、あたかもハスコックが近くにいるような印象を与えて、彼らを騙していたそうだ。

  ハスコックの武勇伝の中で最も有名なのは、1967年に行われた「エレファント・ヴァレーでの戦闘(the Battle of Elephant Valley)」であろう。アメリカ兵がこの渓谷を「象の谷」と呼んでいたのは、実際にベトナム兵が象に大砲や弾薬を積んで、長い道のりを運ばせていたからだ。ハスコックはスポッター役のジョニー・バーク(Johnny Burke)伍長を伴って斥候に出た時、偶然にも北ベトナム軍の一隊を見つけてしまったという。ハスコックが観察したところ、彼らは単なるガキんちょだったらしい。そのカーキ色の軍服は真新しいし、亀の甲羅みたいなヘルメットには「へこみ」も無いし、使い古された痕跡も無い。担いでいるカラシニコフ銃は新鮮なオイルで磨かれているから、日光に照らされてギラギラしていた。これじゃあ、ど素人丸出しだ。(Sasser and Roberts, One Shot-One Kill, p.142) 士官らしき者でさえ戦闘経験がなさそうに見えた。こんな部隊を目にしたバーク伍長は呆れ顔で、ハスコックに対し「こんなクソ野郎どもがいるなんて信じられますか?」と語りかけた。するとハスコックはこう答えた。「あいつらは、お祭り(jamboree)に向かうボーイ・スカウトだな」、と。

Viet Congs 2Viet Congs 5








(写真 / ベトコン兵たち)

  遠くからベトナム兵の一行を眺めたハスコックは、彼らを新米の集団と見越し、まず指揮を執っている上官を撃ち殺した。突然、目の前で統率者を失った新兵たちはパニックを引き起こし、直ぐさま田んぼの中にぽちゃんと倒れて腹ばいになり、近くの土手の方へ這いつくばって行ったという。こうなると怯えきったベトコンどもは中々土手から出てこようとはしないから、ハスコックとバークはじっくりと相手を待つしかなかった。こうした持久戦に我慢できないベトナム兵は、辺りの様子を確かめようとプレーリー・ドッグのように恐る恐る頭を上げていた。ハスコックには丸見えだが、彼は素人兵がもっと大胆な行動を取るよう、わざと見逃していたのである。しばらく射撃が止んだので、気を許した兵卒は近くの森へ逃げ込もうとしたらしい。しかし、土手と森の距離は約700mあったから、急いで走っても2、3分はかかってしまう。ハスコックにとっては格好の標的だ。案の定、その無謀な逃走を試みた兵がいたが、ハスコックの弾丸に当たってガマ蛙のように死んでいった。ハスコックがベトナム兵を「ハンバーガーども(hamburgers)」と呼んでいたのは、彼らが被弾した時、肉片が飛び散って挽肉のようになるからである。

  ハスコックとベトナム兵の睨み合いは5日間も続き、その間、ベトナム兵は次々とハスコックが発射する銃弾で斃れ、どんどん数が減っていったそうだ。蒸し暑いベトナムの戦場では、焼け付くような日光のもとに放置された死体には蛆が湧き、黒い蠅が大量に群がってくる。土手に隠れているベトナム兵は、喉が渇いても田んぼの水を飲むわけにはいかない。なぜなら、濁った水には人糞や訳の解らぬ物が混ざっていたからだ。こうして日夜緊張を強いられるベトナム兵が疲弊していったのも当然だ。しかも、どこから狙撃されるのか分からないんだから、夜も眠ることができない。銃弾が命中すれば一瞬で仲間があの世行きだから、新兵にとって目に見えぬ敵の恐怖は想像以上である。ハスコックとバークは5日間にも亙る狙撃で、この部隊に大損害を与えて退却したそうだ。

信じられない狙撃

  もう一つ、ハスコックが残した伝説に、強敵「コブラ(Cobra)」との死闘があった。ハスコックはバーク伍長を連れてベトナム兵狩りに出た時、誰かにつけられているのを「第六感」で気づいたという。(Sasser and Roberts, OneShot-One Kill, p.12) ジャングルや尾根を動き回る彼らを、コブラは執拗に追跡していたのである。そして、このベトナム人狙撃手は遂に行動を起こした。ハスコックとバークが尾根をつたって、辺りの様子を伺っていた時のことだ。太陽が照りつける静寂な森に、突如として天空を切り裂くような銃声が鳴り響いたのである。ハスコックは間髪を入れず、バークの方に目を差し向けた。彼は直ちに「バークが殺(や)られた!」と思ったそうだ。一方、銃弾を発射したコブラは、すかさず狙撃地点を離れ、相手に居場所を摑まれぬよう別の地点に移動していた。

  コブラの銃弾を受けた相棒のバーク伍長は、「カルロス、撃たれちまった! アノ野郎、俺の尻を撃ちやがって !」と囁く。これには流石のハスコックも驚いた。ところが、バークから血が出ていない。流れていたのは水だけだった。ハスコックはバークに「あの野郎はお前の水筒を撃ち抜いたんだよ」と教えてやったそうだ。命拾いをしたバーク伍長は、どぎまぎしながら苦笑いを浮かべたという。(上掲書 p.14) 彼らは交互に相手のカバーをしながら、安全な場所へと身を隠したそうだ。(これはよくアクション映画で見られるように、一人が退却するのを相棒が銃を構えて見張り、退却した者が次に銃を構えて、その相棒を無事に退却できるよう見張ってやる手法である。)

  双方との対決が一旦鎮まり、緊張の時間が流れていた。しかし、ハスコックにチャンスが訪れたという。彼の五感は研ぎ澄まされており、ジャングルに漂う敵の臭いや雰囲気、そして息づかいまでもが伝わってくるのだ。ハスコックは一瞬だが、遠くで光った「不自然な」輝きを見逃さなかった。コブラに違いないと思ったハスコックの指に電撃が走り、彼は条件反射的にライフルの引き金を引いたという。彼のウィンチェスター銃から放たれる弾丸は、電光石火の如く、200ヤード先の標的に命中。30.06薬莢の弾丸(slug)はコブラを撃ち抜いた。脳味噌が飛び散った狙撃手は、鶏のように地面でもがきながら絶命したという。

Sniper 20US Marine Sniper 001








(左: スコープを通した見た標的 / 右: 狙撃を行う海兵隊員)

  この銃撃戦の結果を確かめるべく、バーク伍長がコブラのもとに駆けつけると、信じられぬ光景を目にしたそうだ。「何てことだ ! こんな事誰も信じねぇぞ!(Holy shit !Nobody's gonna believe this !)」とバークは叫んだ。というのも、コブラの銃に備わっているスコープの両端が破損していたからである。つまり、ハスコックが撃った銃弾は、そのスコープを貫通してコブラの右眼を射貫いていたのだ。(上掲書 pp.15-16) コブラもハスコックをスコープで捕らえていたが、ハスコックの方がほんの一瞬だけ引き金を引くことが早かったため、コブラを仕留めることができたのである。このエピソードは『山猫は眠らない』に採用されていた。ジャングルで敵のスナイパーに追跡されたトマス・ベケット曹長は、自分のスコープでライフルを構える敵兵を捕らえ、その敵もスコープでベケットを捕らえていた。一流のスナイパー同士が対決する緊迫したシーンである。両者がスコープ越しに互いを捕捉した時、一瞬だけ早くベケットの弾丸が敵兵の目を撃ち抜いた。映画の観客は作り話だと思ったが、こうした驚異の狙撃は本当にあったのだ。

命懸けで戦友を助けた英雄

  世間の注目は派手な銃撃戦に向けられがちだが、一匹狼のカルロス・ハスコックの功績も特筆すべきものが多い。例えば、「フレンチ野郎(French fag)」を抹殺した事が挙げられる。このフランス人は1954年にディエン・ビエン・フー(Dien Bien Phu)が陥落したあとも、そのまま現地で農園(プランテーション)を営んでいた。というものも、彼は民族解放戦線を自称するベトミン(Viet Minh / ベトナム独立同盟会)やベトコン(Viet Cong / 南ベトナム解放を掲げる共産主義者)に協力したので、引き続き事業を許されていたのである。ところが、このフランス野郎は只の卑劣漢ではなかった。西側に背き、東側に寝返っていたのだ。ベトコンたちは彼のプランテーションを拠点にしたり、避難場所にしていたという。しかも、彼らは捕まえたアメリカ兵を農園に連行し、捕虜収容所として使っていたのである。本国のフランス人が聞いたら恥ずかしく思うだろうが、この裏切り者はアメリカ人捕虜をベトコンと一緒に尋問し、拷問にまでかけて楽しんでいたというのだ。(上掲書 p.203)

  この事情を知ったハスコックは黙っていられなかった。爪先から頭まで愛国心の塊であるハスコックは、海兵隊員になるべくして生まれてきたような男だから、このフランス野郎を「ハンバーガー(挽肉)」にしてやろうと思ったらしい。ハスコックは彼が農園の邸宅近くで歩いていたところを発見すると、待ってましたとばかりに一発で仕留めたそうだ。百戦錬磨のハスコックにとっては造作もない任務であった。しかし、彼は狙撃の名手ではあったが、射殺を楽しんだことはない。ただ、彼が敵を撃たなければ、その敵が彼の仲間を殺してしまうから、大勢の仲間を救うためにもハスコックは射殺を続けていたのである。

  ハスコックの活躍で多くのアメリカ兵が命を救われたことは確かである。中でも「アパッチ(Apache)」との綽名を持つベトナム人の女狙撃手を仕留めたことは賞讃に値する。この女兵士はアメリカ兵に対する憎悪に満ちており、捕まえたアメリカ兵を拷問することに喜びを感じていたらしい。彼女は捕虜を丸裸にして竹で作った柵に閉じ込め、ナイフで頬を斬りつけたり、生爪を一つ一つ剥がして苦痛を与えていたのである。そして、涙と血を流しながら呻(うめ)くアメリカ兵に、更なる激痛を与えたという。彼女は捕虜の指を無理矢理、手の甲に折り曲げ、指の関節を砕いた。右手と左手の小指をへし折ると、次は人差し指をねじ曲げ、20分おきにこの作業を別の指に繰り返したそうだ。周りのベトナム兵はその拷問を楽しみながら観賞していた。地獄の責めを受けるアメリカ兵は、たいてい10代か20代前半の若者だった。大ヒット映画『ランボー』のシルベスター・スタローンは、残酷な拷問に弱音を吐かずに、じっと耐えていたが、あんなのは真っ赤な嘘だ。どんな英雄でもひとたび拷問台に括り付けられれば、赤ん坊のように泣きわめくのが普通である。

Viet cong sniper 3Viet Cong sniper 2Viet Cong 2








(写真 / ベトコンの女性兵士)

  アパッチの拷問を受けたアメリカ兵は全員死を迎えたわけでもなく、生き延びて基地に戻ってきた者がいたという。ただし、半殺しの目に遭ってだが。命からがら逃げ延びてきたアメリカ兵は、凄まじい虐待を受け見るも無惨な姿になっていた。アパッチは若いアメリカ兵を竹の柵に縛り付け、持っていたナイフを彼の性器にあてると、睾丸の部分を残したまま、ペニスだけを斬り落としたのだ。血塗れの男根が切り離されると、剔られた股間からからは大量の血が噴き出してくる。「もう長くはもたないだろう」と判断したアパッチは、この捕虜を釈放することにし、彼に向かって笑いながらこう罵った。「走りな ! GI。じきに医者が見つかるかもしれないよ。金網の方へ行きな。私たちは海兵隊が間違ってお前のケツを撃つのを見ていてやるからさ !」と吐き捨てたらしい。必死の思いで基地に辿り着いたアメリカ兵は、大きく手を振って、「敵ぢゃない。撃たないでくれ !」と叫んでいたそうだ。ジェイムズ・ランド大尉たちは、アパッチが仲間を「宦官」にしやがったと怒り狂っていたという。だから、ハスコックがアパッチを殺したことは快挙であった。

  ハスコックは密林を駆け巡るスナイパーとして一流であったが、仲間への愛情に溢れる人物でもあった。1969年9月16日、彼はある悲劇に巻き込まれる。ベトナム中部の沿岸にチュー・ライ(Chu Lai)と言う港町があって、そこに海兵隊の基地(Landing Zone Baldy)、通称「第63高地(Hill 63)」があった。ハスコックは水陸両用車の「アムトラック(Amtrak / LVT-5)」に同乗し、ルート1を走行していたという。すると、この装甲車は対戦車地雷を踏んでしまい、爆発によって炎上してしまったのだ。当然、ハスコックも重傷を負ったが、彼は仲間を助けるべく、炎に包まれた車体の中に飛び込み、無我夢中で同乗者を引き摺り出したという。仲間の命を救ったハスコックは、2度ないし3度の火傷を負ったというから重症である。(「2度熱傷」だと真皮にまで達する症状だが、「3度熱傷」になると皮膚の全層にまで達する火傷であるから、皮膚が茶色になるか、壊死になって白くなるそうだ。) ハスコックは体の40パーセントに火傷を負い、テキサス州のブルック陸軍医療センターに運ばれたという。(Jon Thurber, Carlos Hathcock; Sniper in Vietnam, The Los Angeles Times, February 28, 1999)

  重度の火傷を負ったハスコックは、引退を余儀なくされ、治療の為に皮膚移植手術を10回以上も受けたという。しかし、彼の苦悩は手術だけではなかった。彼は満額年金が下りる20年勤務に、たった55日間だけ足りぬということで、50%の年金額しか受け取れなかったのだ。これじゃあんまりじゃないか。ベトナム戦争で多くの敵を倒し、そのお陰で同胞のアメリカ兵が命拾いをしたのである。しかも、自らの危険を顧みず、炎上する車内から負傷者を救い出したんだぞ。これが英雄じゃなければ、誰が英雄と呼ばれるんだ?

上流階級の卑怯な御曹司

Bill Clinton 6Al Gore 2Robert Reich 1Strobe Talbot 1







(左: ビル・クリントン  / アル・ゴア / ロバート・ライシュ / 右: ストローブ・タルボット )

  ベトナム戦争時代、上流階級のお坊ちゃんは、あの手この手で徴兵を逃れをしていた。例えば、ビル・クリントンはローズ奨学金を得て、オックスフォード大学に留学すると、反戦運動どころか、マリファナまで吸っていたのである。ユダヤ人のくせにローズ奨学生とは、創設者のセシル・ローズがたまげてしまうが、ロバート・ライシュ(Robert Reich / 元労働長官)はクリントンの同期生だった。同じく、ストローブ・タルボット(Nelson Strobridge Talbot III / ロシア専門家で元国務副長官)もローズ奨学生で、危険な戦場には行っていない。副大統領のアルバート・ゴアは戦地に行ったが、ジャーナリストの身分だったから安全だった。たぶん、上院議員の父親アル・ゴア・シニアの取り計らいだろう。権力者は他人の息子に厳しいが、自分の息子には甘いから、いつも特別な抜け道を用意している。例えば、東部エスタブリッシュメントに属するジョージ・H・W・ブッシュは、出来の悪いドラ息子とはいえ、長男のジョージ・ウォーカーが可愛かったので、テキサス州空軍に押し込んで、ベトナム行きを上手くかわすことができた。だから、出来損ないのジョージは、“安全な”テキサスで“勇敢な”パイロットになれたのである。さらに、飲んだくれのアル中になっても、親爺の七光りと共和党主流派の助けで、合衆国大統領にもなれた。水野晴郎じゃないけれど、「いやぁ~、アメリカって本当にいいですね」と言いたくなるじゃないか。

Al Gore 1George W Bush 100George W Bush








(左: ジャーナリスト時代のアル・ゴア / 中央: ジョージ・ブッシュ親子 / 右: パイロット時代のジョージ・ブッシュ )

  高温多湿の汚いベトナムに送られるのは貧乏人の小倅で、大富豪の御曹司は快適な安全地帯で青春を過ごす。例えば、アメリカ社会に君臨するロックフェラー家のジェイ・ロックフェラー(John Davison Rockefeller IV)元上院議員は、ハーバード大学に通っている途中で、“安全な”日本の国際基督教大学(ICU)にご留学。それから、ハーバードを卒業するとイェール大学に進学したそうだ。ところが、学問を終えると歩兵聯隊ではなく、文官ばかりの「平和部隊」に所属して、ベトナムから離れたフィリピンで活躍したそうだ。密林の中でハスコックが恐ろしい敵と対峙していた1967年、このお坊ちゃんはチャールズ・ハーティング・パーシー(Charles Harting Percy)上院議員のご令嬢シャロン(Charon Lee Percy)と恋仲になり、この幸せなカップルは目出度く結婚する。いいなぁ。生まれる家庭が違うと、こうも人生が違うものなのかねぇ~。

Jay Rockefeller 2Jay Rockefeller & Sharon 1Jay Rockefeller's family 1








(左: ジェイ・ロックフェラー上院議員  / 中央: 若い頃のジェイとシャロン・パーシー / 右: ロックフェラーの家族 )

  使命感に燃えるハスコックは、泥沼の中で這いずり回っていたのに、ロックフェラーは甘いハネムーンで、ベッドの上を転がっていたのだ。(もちろん、抱いていたのはライフル銃じゃなく裸の女房だぞ。) 政界で華やかなデビューを果たした大物は、どうしてこうも卑怯者ばかりなのか。祖国に尽くしたハスコックは、全身に火傷を負ったことで多発性硬化症に苦しんでいたのに。しかも、年金が減額された傷痍軍人だなんて。ニューヨーク郊外の豪邸に住むクリントン夫妻や、宏大な牧場で乗馬を楽しむブッシュ親子にとって、「愛国心」など単なる「レトリック」に過ぎないのだろう。

Jay Rockefeller at Kishi's home 2Jay Rockefeller at Kish's home








(写真 / 岸信介邸を訪れたロックフェラー親子)

  卑劣な政治家どもと違い、海兵隊はハスコックの武勲を讃え、ノース・カロライナ州のレジューン基地(Camp Lejeune)にある射撃訓練所はハスコックの名を冠している。また、カルフォルニア州サンディエゴにあるミラマー海兵隊航空基地(Marine Corps Air Station Miramar)の射撃訓練所は、「カルロス・ハスコック射撃場(Carlos Hathcock Range Complex)と改名されたそうだ。なるほど、ハスコックの栄誉は本物である。彼は炎上する装甲車から仲間を救った功績を讃えられ、名誉あるシルバー・スター勲章を授けられた。さらに、パープル・ハート勲章(Purple Heart)、国防奉仕勲章(National Defense Service Medal)、ベトナム従軍勲章(Vietnam Service Medal)などを含め、合計9個のメダルを授与されたのである。引退後は、若手のスナイパー育成に努め、1999年2月22日、ヴァージニア州のヴァージニアビ・ーチで永久(とわ)の眠りに就いたそうだ。享年57。まさしく海兵隊の鑑であった。

Carlos Hathcock 7Carlos Hathcock 5









(写真 / 叙勲されるハスコック )



気ブログランキングへ