『ワンダー・ウーマン』で無視された科学者

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(左: フリッツ・ハーバー  /  右: ガス・マスクをつけた兵士)

  前回、大ヒット映画の『ワンダー・ウーマン』を紹介したが、その中で合点の行かないシーンがあった。物語は第一次世界大戦を舞台としており、邪悪なドイツ軍はトルコにある秘密工場で密かに毒ガス兵器の開発をしていたというのだ。米国諜報員のスティーヴ・トレヴァーは、早速その研究施設に潜入し、ドイツ軍の機密情報を盗むことに成功する。そして、工場の敷地内にあった飛行機に乗り込むと、追撃を振り切って逃げることができた。ところが、トレヴァーは逃げる途中、飛行機から手榴弾を工場に投げ込み、大爆発を起こした工場は破壊されるのだ。そして、この秘密実験を取り仕切っていたのは、あのエーリッヒ・ルーデンドルフ将軍であった。(実際の監督官は「ドクター・ポイズン」という女性科学者。) ダニー・ヒューストン扮するこのドイツ軍人は、残忍冷酷なうえに悪魔の新兵器を開発していたという訳である。

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(左: エーリッヒ・ルーデンドルフ  / 右: 毒ガス実験の風景 )

  でも、化学専攻の学生が観れば、「何かおかしいぞ」と気がづくはずだ。確かに、ドイツ軍は毒ガス兵器の開発に熱心だったけど、実際に研究を行っていたのは、ユダヤ人化学者のフリッツ・ハーバー(Fritz Haber)である。何でルーデンドルフ将軍が、ガラス越しに実験風景を観察しているんだ? そもそも、『ワンダー・ウーマン』自体がフィクションだからしょうがないけど、「邪悪」なドイツ軍という刷り込み(Prägung)を使って一般人を騙そうとする手口は汚い。脚本家のアラン・ハインバーグは、本当に歴史的事実を知らなかったのか? こういった点を追求するのが、ジャーナリストの務めなんだけど、エンターテイメント欄を担当するのは、藝能ニュースしか分からない素人だから、腹を立てても仕方がない。だいいち、理系で藝能記者なる奴なんていないよなぁ。それに、記者の方だって「いちいち目くじらを立てるなよ!」と反論するから、筆者としては諦めるしかない。

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(左ワンダー・ウーマン  / 右スティーヴ・トレヴァー )

  それでも、ちよっとくらいは異論を唱えたい。そこで、簡単ではあるが、フリッツ・ハーバーの人生を述べてみる。(Bretislav Friedrich, "Fritz Haber", Angewandte Chemie Vol. 44, 2005 & Vol. 45, 2006を参照。) フリッツは1868年12月9日、プロイセンのブレスラウ(Breslau / 現在はポーランド領で「Wroclaw」と呼ばれている)で生まれた。父親のジークフリード(Siegfried)は、地元でちょいと知られた染め物商人で、仕事の関係上、薬剤師の腕前を持っていた。息子のフリッツが化学者を志したのは父親の影響かも知れない。一方、母のパウラ(Paula)はフリッツを出産した時に亡くなってしまったという。そこで、鰥(やもめ)となっったジークフリードはフリッツが6歳の時に再婚し、三人の娘をもうけた。つまり、フリッツにとっては異母姉妹ができたことになる。父親とはギクシャクしていたフリッツも、この三姉妹とは仲良くしていたそうだ。

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(左: 幼少時のフリッツ・ハーバー  / 中央: 青年時代のハーバー /  右: 研究者時代のハーバー)

  フリッツが成長する過程で最も影響を受けたのは、叔父のヘルマン(Hermann)からであったらしい。この叔父は地元で新聞社を営んでいたそうで、リベラル思想の持ち主であった。彼は甥のフリッツが化学の実験に興味があるというので、自分が住むアパートメントの空いたスペースを提供し、そこを使わせてやったそうだ。ユダヤ人の家庭に生まれたフリッツではあるが、ユダヤ教の学校へ通わず、地元にあるプロテスタント系の「聖エリザベート」学校(ギムナジウム)に通ったそうだ。そこに在籍する生徒の半数はユダヤ人であったというが、フリッツ自身はユダヤ教への興味が無かったせいか、自分をあまりユダヤ人とは意識せず日常生活を送っていたらしい。昔はどこでもそうだが、父のジークフリードは倅(せがれ)を跡継ぎにしたかった。しかし、息子のフリッツは学問の道に進みたかったようで、叔父のヘルマンに助けてもらい、大念願の学に進むことが出来たという。18歳になったフリッツは、ベルリンのフリードリッヒ・ウィルヘルム大学(Friedrich-Wilhelms-Unversität / 現在のフンボルト大学)に入り、化学と物理学を専攻した。翌年にはハイデルベルク大学に移り、再びベルリンに戻ると、今度はシャーロッテンブルク工科大学(Technische Hochsule Charlottenburg)に転入したそうだ。

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(左: カースルスルーエ時代のハーバーとその同僚たち  /  右: ファーカスと一緒のハーバー)

  ハーバーは1891年にフリードリッヒ・ウィルヘルム大学を優秀な成績(cum laude)で卒業し、有機化合物のヘリオトロピン(heliotropine / piperonal)についての論文で博士号を得た。卒業後、何をしようかと決めかねていたハーバーであるが、父親の要請で化学企業に勤めることになったらしい。彼はスイスに向かい、家族共々親しいゲオルグ・ランゲ(Georg Lunge)の許(もと)に行き、そこで働いていたが、やがてイエナに移ることになった。イエナに移住すると、ルートヴッヒ・クノー(Ludwig Knorr)に師事してリサーチ・アシスタントになったらしい。さらに、イエナを去ると、硝酸の製法で著名な化学者、ウィルヘルム・オストヴァルト(Friedrich Wilhelm Ostwald)の許で働くことになったそうだ。彼は1909年にノーベル化学賞を授与された人物である。

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(左: ゲオルグ・ランゲ  / ルートヴッヒ・クノー / ハインリッヒ・トライチュケ /  右: セオドール・モムゼン)

  このオストヴァルトとは親密になれなかったが、イエナ滞在中のハーバーには人生の転換期が訪れていた。つまり、25歳のハーバーはキリスト教の洗礼を受けたのである。当時、反ユダヤ主義で知られていたハインリッヒ・トライチュケ(Heinrich von Treitschke)がある記事を書き、それに対し高名な歴史家のセオドール・モムゼン(Theodor Mommsen)が反論を書いたという。ハーバーはモムゼンに触発され、キリスト教徒になる決心をしたそうだ。ドイツに住むユダヤ人は常に「ドイツ国民」なのか、それとも「異邦人」なのか、といった問題に悩むので、「自分はドイツ人だ」と断言したいが為に、キリスト教徒になる者が多い。また、社会で出世を考えるとキリスト教徒に鞍替えした方が「得」と考えるユダヤ人もいたので、彼らは信仰心が無くてもキリスト教徒になっていた。だから、日本人は教科書や一般書で「キリスト教徒である」と紹介されるドイツ人でも、その素性や家系をよく調べた方がいい。(ユダヤ人は名前や家系、宗教、国籍、そして容姿まで変えるから、油断がならないぞ。)

  1894年、ハーバーはカールスルーエ工科大学(Technische Hochschule Karlsruhe)に移り、そこで約17年を過ごす事になる。この大学は優秀な科学者を輩出したことで有名だった。日本人に最も馴染みが深いのは、ハインリッヒ・ヘルツ(Heinrich Rudolf Hertz)だろう。ご存じ、周波数の単位「ヘルツ」は彼に由来する。ヘルツはハーバーと同じくユダヤ人であるが、一応キリスト教徒になっている。というのも、彼の父グスタフがルター派に改宗していたからだ。それでも、やはりユダヤ人であることには変わりがなく、ナチ党が台頭したことで、英国に亡命する破目になった。他の科学者で有名なのは、液晶を開発した物理学者のオットー・リーマン(Otto Lehman)だろう。彼の業績は述べるまでもないが、日本人の造語能力はとても素晴らしい。「液晶」という用語は、「液体(liquid)」と「結晶 (crystal)」を組み合わせた造語である。もし科学技術を“自慢”する朝鮮人や支那人なら、どんな訳語や造語を発明したのか、と想像したくなる。

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(左: オットー・リーマン  / ハインリッヒ・ヘルツ / ヘルマン・シュタウディンガー /  右: カール・ボッシュ)

  カールスルーエ大には他にも、ノーベル賞を授与されたヘルマン・シュタウディンガー(Hermann Staudinger)がいたけれど、ハーバーも化学賞をもらっていた。彼は窒素からアンモニアを合成する研究に取り組み、カール・ボッシェ(Karl Bosch)と一緒に工業化を目指していたのだ。そして、彼らの研究を土台にして化学肥料の開発に成功したのが、スポンサーとなっていたBASF(バーディッシェ・アニリン・ウント・ソーダファブリック / Badische Alnilin und Sodafabrik)社である。この総合化学メーカーは、日本にも支社があるので、たぶん石油化学製品や農業用肥料に詳しい人なら知っているんじゃないか。また、ハーバーはあのマックス・ボルン(Max Born)とも共同研究を行ったことがあり、「ボルン・ハーバー・サイクル」の図は有名だ。ちなみに、この物理学者はユダヤ人で、ナチ・ドイツを離れて英国に亡命することになった。1954年にノーベル賞をもらったボルンは、オーストラリア人歌手オリビア・ニュートン・ジョンの祖父としても有名である。

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(左: マックス・ボルン  / 中央: オリヴィア・ニュートン・ジョン /  右: クララ・イマーヴァール)

  色々な研究に携わっていたハーバーだが、私生活でも重要な事があった。彼は1901年、同じユダヤ人で科学者のクララ・イマーヴァール(Clara Immerwahr)と結婚する。彼女はドイツで初めて博士号を授与された女性らしい。彼女も結婚を切っ掛けにキリスト教へ改宗したそうだある。彼らには息子が生まれ、「ヘルマン」と名づけられた。クララは献身的にフリッツに尽くしたようで、研究よりも家事に専念し、時折夫の論文を英語に訳してあげたそうだ。今の科学者カップルなら、「ダブル・インカム・ノー・キッズ」で優雅な生活を楽しむんだろうが、昔のヨーロッパ人は夫を支える「糟糠(そうこう)の妻」が理想だった。

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(左:  戦車  / 右:  水中爆雷 )

  農業の生産性を上げるために貢献したハーバーであるが、彼の名を歴史に刻みつけたたのは、毒ガスの開発であった。第一次世界大戦には様々な兵器が投入され、戦争の様相を一変させていた。例えば、戦車や潜水艦はよく知られているが、空母や水中爆雷(depth charges)、水中聴音器(hydrophones)、飛行機に取りつけるマシンガンなどが挙げられよう。あと日本人なら沖縄戦を思い浮かべてしまうが、敵兵を焼き尽くす火炎放射器は、ドイツ人のリヒャルト・フィードラー(Richard Fiedler)が開発した兵器である。ちなみに、関係無いけど、女性の生理用ナプキンが発達したのも第一次大戦の頃であった。従来は単に布を使っていたくらいだが、この時代になるとセルロースを用いたお手軽製品が登場し、従軍看護婦などは新製品のコテックス(Kotex)を使用していたそうだ。この名称は「コットン(cotton)」と「テクスチャー(織地 / texture)」を組み合わせた言葉である。(くれぐれも断っておくが、筆者は変態じゃないぞ。あくまでも歴史的知識の紹介なんだから。)

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(左: 飛行機に搭載するマシンガン  / 右: 火炎放射器 )

  話を戻すと、ハーバーは有機砒素化合物を主成分とした毒ガス兵器を開発していたそうだ。これは敵兵が装着するフィルターに浸透し、この攻撃を受けた相手はガス・マスクを外したくなるそうだ。ハーバーはドイツ軍が毒ガス兵器を用いることに反対せず、むしろ積極的に用いるよう提案していたのである。というのも、彼は毒ガス攻撃による心理的効果を重視していたからだ。人間は砲撃を喰らっても、段々慣れてしまい、塹壕の中に入ってしまえば、爆発の轟音を聞きながらでも睡眠を取ることができる。ところが、目に見えない毒ガスだと、そうはゆかず、猛毒の気体はあらゆる場所に入ってくるし、逃げようにも逃げられない。一旦ガスを浴びてしまえば目がただれるし、鼻や口から吸引すれば、激痛を伴って呼吸困難に陥る。たとえ死ななくても、動けなくなる程の重態になってしまうだろう。これは非常に怖ろしい。実際、ヒトラーもこの「洗礼」を受け、新兵器の使用に戦慄を覚えたことがある。ハーバー曰わく、「どの戦争も兵士の精神に対するもので、その肉体に対してのものではない」そうだ。("New, Terrible Force, Hit Oppau, Haber Says," New York Times, September 25, 1921)

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( 写真 / 毒ガス攻撃を受ける兵士たち )

  ハーバーの見解によると、化学兵器は通常兵器よりも「人道的」なのだという。なぜなら、戦争の期間を短くするからだ。なるほど、その考えにも一理ある。大量殺戮が可能な分だけ戦闘が激しくなるので、早期の和平が成立するという訳だ。しかし、戦争はそう簡単に終わることはない。有名なイープル(Ypres)の戦いで毒ガス兵器が使われたが、風向きによっては味方に損害が出てしまうし、確実に相手を殺傷できるとは限らないから、決定的な最終兵器じゃないだろう。ハーバーには悪いが、戦争を終結に向かわせたのは、ドイツの経済的破綻が原因だった。つまり、戦争継続のための財源が尽きたという訳だ。戦闘が終わってドイツに悲惨な結果がもたらされた、ハーバーにも悲劇が訪れていた。夫が残酷な兵器の開発に夢中になっていた頃、夫人のクララはその倫理的罪に悩んでいた。フリッツは化学者の制服を着てウキウキしていたが、その陰でクララは自殺を考えていたのだ。フリッツがベルギーから戻ってくると、彼女は夫の軍用拳銃を手にして自宅の庭に向かい、そこで拳銃自殺を図ってしまうのだ。1915年5月2日、彼女は絶命する。夫のフリッツは睡眠薬を飲んで寝ていたので、その銃声に気づかず、息子のヘルマンが発見したそうだ。

Fritz Haber & Einstein 1(左  /  アインシュタインと一緒のハーバー)
  ドイツの世間が狭いのか、化学兵器の開発者は核兵器の父と親しかった。ハーバーがカイザー・ウィルヘルム研究所(Kaiser Wilhelm Institut für Physikalische Chemie und Elektrochemie)に勤めていた頃、その同僚にアルバート・アインシュタインがいたという。(ちなみに、ハーバーの研究室はユダヤ人銀行家のレオポルド・コペルLeopold Koppelからの資金で運営されていたそうだ。当時のドイツは驚くほどユダヤ人に開かれており、様々な分野でユダヤ人が“活き活きと”暮らしていたのだ。「暗くて排他的なドイツ」というのは、1930年代以降の話である。) 同じユダヤ人科学者だったからか、二人は非常に仲が良く、ハーバーは当時女房と上手く行っていないアインシュタインにとって、良き相談相手となっていた。(Thomas Levenson, Einstein in Berlin, New York, Batam Books,1999を参照。) しかし、化学兵器を肯定していたハーバーと違って、アインシュタインは殺戮兵器に対して否定的であったという。彼は毒ガスが戦争終結の近道になるとは思っていなかった。平和を愛するの天才によれば、兵器に人道的なものはなく、ただ廃棄されることが望ましいとのことだった。でも、そのアインシュタインが毒ガス兵器よりも怖ろしい、原爆の開発を主導していたんだから、何とも皮肉な話である。
 
  戦争が終わると、勝者の英米は900名の「戦犯」を追求するリストを作成していた。「まさか !」と思いたいが、このブラック・リストにハーバーの名前が載っていたのだ。いくら非戦闘員の科学者といえども、戦争協力者なんだから仕方ない。この処置に異論を唱えるユダヤ人だって、第二次大戦後ナチスに協力した科学者を赦さなかったんだから、どうこう文句は言えないんじゃないか。そこで、「戦犯」にされて怯えたハーバーは、お気に入りの化学者用制服を脱ぎ捨てて、一目散に国外脱出を図ったそうだ。しかも、ご自慢の髭を剃り落とすほど怯えていたそうだ。こうした「身支度」を整えたハーバーは、電光石火の如くスイスに逃亡したのだが、それでも安心できなかったのか、ハーバーは戦犯の訴追をかわすため、サンモリッツ(Sankt Moritz)で国籍を取得することにしたという。ところが、あっけなく戦犯捜しは終わってしまい、ハーバーは安心してベルリンに戻ることができた。第一次大戦の頃は、まだ歐米諸国に常識が残っていていたから、敵国を裁判にかけてまで折檻しようとは思っていなかったのだ。ちなみに、戦争中は「邪悪」なドイツであったが、スウェーデンの学界はそれを気にせず、太っ腹とも思えるくらいドイツ人学者にノーベル賞を与え続けていた。1914年から1919年の間に、電磁波を研究したマックス・フォン・ラウエ(Max von Laue)、ガス・マスクを開発したユダヤ人のリヒャルト・ヴィルシュテッター(Richard Willstätter)、「量子力学の父」マックス・プランク(Max Planck)、ユダヤ人嫌いのヨハネス・スターク(Johannes Stark)などが受賞している。ハーバーも1918年に受賞した。

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(左:  リヒャルト・ヴィルシュテッター / マックス・フォン・ラウエ / マックス・プランク / 右: ヨハネス・スターク )

  栄誉ある化学賞をもらう前のハーバーには、もう一つ別の慶事があった。クララに先立たれて男鰥(やもめ)となっていたハーバーは、1917年に新たな妻シャーロット(Charlotte)を迎える事になった。そして、彼女との間には娘のエヴァと息子ルートヴィッヒが生まれたという。しかし、再婚を果たしたハーバーであったが、その後二人は別れることになる。この離婚劇はさておき、ドイツに戻ったハーバーは、以前の生活を取り戻したかのように見えた。ところが、1930年代になるとドイツの雲行きが怪しくなってきたのだ。ウィルヘルム研究所で独自の研究部署を任されていたハーバーだけど、ユダヤ人であることには変わりがない。彼はユダヤ人を憎むヒットラーの出現で、科学者の地位を失う窮地に追い込まれてしまう。1933年の公務員法でハーバーは、四人のユダヤ人研究員を解雇せねばならなくなったのだ。(ハーバート・フロイントリッヒHerbert Freundlich,ハートムート・コールマンHartmut Kallman, マイケル・ポランニーMichael Polanyi, ラディスラウ・ファーカスLadislau Farkasの四人。) そして、ナチ党の人種政策に憤慨したハーバーは、1933年4月30日、研究所を去るため辞職願を提出したという。この辞任劇を耳にしたマックス・プランクは教育文科大臣のベルンハルト・ルスト(Bernhard Rust)を通して直訴したというが、総統の考えは変わらなかったそうだ。

Herbert Freundlich 1Hartmut Kallmann 1Michael Polanyi 1Ladislaus Farkas 1








(左: ハーバート・フロイントリッヒ  / ハートムート・コールマン  /  マイケル・ポランニー  /   右: ラディイラウ・ファーカス)

  失業したハーバーには、日本やフランスからも誘いがあったというが、最終的に英国のウィリアム・ポープ卿(Sir William Pope)の誘いに乗って、ケムブリッヂ大学に向かうことになったという。この地でも、またハーバーは運命的な出会いを迎える。以前このブログでも紹介した、科学者にして政治家であるハイム・ワイズマン(Chaim Weizmann)と邂逅(かいこう)したのだ。ワイズマンはハーバーに、パレスチナへ移住して、開設間もないダニエル・シフ研究所(Daniel Sieff Institute)に勤めないか、と誘ったらしい。ワイズマンはパレスチナに立派な研究機関を創りたかったそうで、ハーバーは打って付けの人材だった。ところが、ハーバーは未だに自分を「ドイツ人」と考えていたので、遠い外国に渡るつもりはなかったらしい。当時のドイツ系ユダヤ人は、異郷のドイツを本気で「祖国」と考えていたようだ。そういえば、中世史家のエルンスト・カントロヴッツ(Ernst Kantorowicz)も本当にドイツを愛していたらしい。また、ウィーン生まれのシュテファン・ツヴァイク(Stefan Zweig)も故郷を終始愛しており、ヨーロッパの未来に絶望したこの伝記作家はブラジルで自殺を遂げたのだ。

Chaim Weizmann 1Ernst Kantorowicz 1Stefan Zweig 1










(左: ハイム・ワイズマン  /  中央: エルンスト。カントロヴィッツ  / 右: シュテファン・ツヴァイク )

  1934年に入ると、英国で亡命生活を送っていたハーバーは、“これ”といった当てもなく、スイスのバーゼルを旅行したそうだ。しかし、現地で体調を崩し、1月29日、心臓発作でこの世を去ることになった。ハーバーの遺書により、彼の遺体はスイスの地に埋葬され、クララの灰も隣に埋められたという。最初の妻の方が忘れられなかったのかのかなぁ、と思うとちょっぴり悲しくなる。彼の研究は「チクロンB」の開発に繋がったと言われるが、この薬品は殺虫剤で人間用ではなかった。何の物的証拠も示さず、反対尋問の証言でもない噂話を基に、「ガス室殺人」をでっち上げるユダヤ学者と、「ホロコースト・ビジネス」で利益を得る映画人には吐き気がする。もし、ハーバーが生きていたら、「絶滅収容所」の調査をしてもらいたかった。でも、さすがのハーバーも同胞の前では、科学者の良心を捨て去り、「あった、あった」と騒ぐだろう。だって、「科学的事実」より、「同胞愛」のほうが大切だもんね。

 


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