憧れのヒトラーと遭遇

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  1933年、19歳になるユニティはダイアナに連れられ、初めてドイツに渡ることになった。そして、この姉妹はBUF(ブリテン・ファシスト連合)の使節代表として、1933年9月に開かれた「勝利の年のナチ党最初の党大会」に参加したという。彼女たちは勤労奉仕隊の行進に見とれていたが、その後、大会の真打ちであるヒトラーが現れると、会場には割れんばかりの歓声が沸き起こり、ダイアナとユニティもたいそう興奮したらしい。男たちは大声を上げて「ハイル・ヒトラー」と叫び、女たちはヒステリックな陶酔に陥っていたそうで、中には興奮のあまり失神する者までいたという。一般のドイツ人と同様に、憧れのヒトラーを直接目にして、ユニティがどれほど感激したことか。たぶん、1960年代にザ・ビートルズを初めて見た乙女のようなものだろう。(当時は興奮のあまり、コンサート会場で失神するファンまでいたそうだ。)

Unity Mitford 1(左  /  ユニティ・ミットフォード )
  1933年の冬、ユニティは英国に戻っていて、オックスフォードシャーにあるスウィンブルックに滞在していた。彼女は大量に集めたヒトラーの写真を仕分けしたり、レコードをかけて「ホルスト・ヴェッセルの歌」を大音響で繰り返し聴いたりと、呑気な日々を過ごしていた。そんな中、ユニティには向学心が目覚めてくる。じゃじゃ馬娘のユニティがドイツ語を勉強したい、と両親に懇願し始めたのだ。学校ではロクに勉強しなかったユニティが、大好きなヒトラーに逢いたいとの一心で、難解なドイツ語を習得しようというんだから、語学には「動機」というものが如何に大きな要因であるかが分かるだろう。日本人の中に英語が苦手な子供が多いのは、燃え上がるような情熱というか、「何としてもマスターしたい !」という渇望が無いからだ。(日本の女子高生だって、「憧れのイギリス人スター」を見つければ、学校の成績も良くなるさ。中高年のくたびれたオッさん教師じゃ、乙女心も火が消えたようになっちゃうもんね。) ユニティはドイツ語学習のメリットを両親に懇々と説明したそうで、リーズデイル夫妻は怠惰な娘が学問に目覚めたと勘違いし、最終的には娘の願いを聞き入れたという。

  やっとの事で両親の承諾を得たユニティは、意気揚々とミュンヘンに旅立った。ところが、彼女には修学の前提条件が不足していたため、大学に入ることは出来なかった。そこで仕方なく、ケーニヒ通りにある全寮制学校に入ったそうだ。この施設はロシュ男爵夫人が営む女子専用の寄宿学校で、上流階級の娘たちを対象にしたものらしい。ミュンヘンでドイツ語の勉強に打ち込むユニティは、暇な時を見つけるとヒトラーに関するものを物色し、手当たり次第、何でも読んでいたという。そして、彼女はヒトラーがミュンヘンを訪れる際、どこに泊まるのか、どの劇場に赴くのか、如何なる店に立ち寄るのか、を調べ上げたそうだ。偶然にも彼女は知り合いの美容師から、「オステリア・ヴァヴァリア」の情報を突き止めた。この美容師の話によれば、ミュンヘンを訪れたヒトラーは側近を連れて、よくその店で昼食を取っていたというのだ。

Hitler 324  そこら辺にいそうなアイドル歌手の「追っかけファン」なら、お目当ての人物が現れるまで、老舗レストランの前でジッと張り込みを続けそうなものだが、貴族のご令嬢たるユニティは庶民と同じような真似はしない。(筆者の情報なんだけど、日本には「山P」を待ち伏せるオバゃんファンがいるそうで、「憧れ」と「追っかけ」に年齢は関係無いそうだ。それにしても、山下智久の「P」って何の略なのか? もしかしたらクリスチャン・ネームなのかも。) 彼女は両親から100ポンドもの仕送りをもらっていたので、才能溢れるシェフが料理を振る舞うレストランに毎日通うことができ、そこで毎回食事を取っていたのだ。羨ましい。ある日、こうした“待ち伏せ”を行っていたユニティに朗報がもたらされた。間もなくヒトラーとその従者が、予約したテーブルに来るというのだ。そして、待ちに待ったヒトラーが店にやって来ると、ユニティはヒトラーよりも先に帰ろうとせず、辛抱強く憧れの総統が通り過ぎるのを待った。彼女にとって、唯一のチャンスはヒトラーが店を出て行く時で、ユニティは帰りがけのヒトラーに微笑みかけたのだが、当人は気づかぬままだったという。しかし、ユニティはちょっとやそっとでは諦めなかった。女の執念は実に怖ろしい。彼女は毎日毎日シグナルを送り続けたという。

  すると果たせるかな、この仕草が遂に効を奏した。1935年2月9日の午後三時頃、ヒトラーは自分を見つめるブロンド美女に気がついた。彼は店の主人に「このゲルマン女性の原型は一体誰なんだ?」と尋ねたそうだ。ヒトラーの御下問を受けた店の主人は、常連客になっていたユニティのテーブルに近寄ってきて、「総統があなたとお話になりたいそうです」との伝言を運んできたのである。ユニティは立ち上がり、ヒトラーのテーブルに向かう。するとヒトラーは立ち上がり、彼女と握手を交わした。そして二人は三十分ほど会話を楽しむ。ユニティとヒトラーは、英国や先の大戦について語り合い、北方民族同士を嗾(けし)けて戦わせる国際ユダヤ人を決して許してはならない、と意気投合したそうだ。夢のような時間はあっと言う間に過ぎ、ユニティが是非英国へと誘うと、ヒトラーも彼女をバイロイトで開催されるワーグナー音楽祭に招待した。ヒトラーはユニティの住所が書かれたメモをポケットにしまうと、さり気なく店を後にしたという。粋なことに、彼女の昼食代はヒトラーが払っていた。つくづく思うけど、美人は得である。

Unity Mitford 2













(写真  /  ナチス将校と話すユニティ)

  崇拝するヒトラーの知遇を得たユニティは、益々ドイツ社会にのめり込んでいた。彼女はウィルヘルム二世の娘ブルンスヴック公爵夫人(Victoria Louise)や、ウィニフレッド・ワーグナー(Winifred Wagner)らと共に、ミュンヘンにあるヒトラーの私邸に招待された。1935年4月10日にはヘルマン・ゲーリングと女優のエミー・ゾンネマンの結婚式が開かれたが、そこではヒトラーの側に臨席するユニティの姿が観客の目を捉えたらしい。ユニティは社交界を楽しむばかりか、自分がナチス擁護のイギリス人であることを宣伝したそうだ。彼女は愛読する極右週刊誌の『デア・シュチュルマー(Der Stürmer)』に投稿し、ユダヤ人の脅威やその実態について書いた。すると、これが発行者のユリウス・シュトライヒャー(Julius Streicher)の目に止まり、このフランケン管区長は彼女をいたく気に入ったようで、ヘッセルベルクの夏至祭「フランケンの聖なる山」に招待したそうだ。二人は反ユダヤ主義で盛り上がり、ユニティはシュトライヒャー宅に泊まることもあったという。

  一方、英国でダイアナとユニティの安否を気遣うリーズデイル夫妻は、1935年、自分たちの目で娘たちの様子を確かめるべく、遠路遙々ドイツにやって来た。現地でナチスに夢中のユニティを見ると、リーズデイル夫妻は絶望感に囚われるが、そのショックも直ぐに消え失せるようになる。ヒトラーはユニティの両親をミュンヘンの私邸に招き、そこでお茶を勧めながら、英国のパブリック・スクールや法律体系、イギリス兵の勇敢さなどを褒め称えたという。さすがヒトラーは人心掌握術に長けている。英国人の自尊心をくすぐられた夫妻は、すっかりヒトラーの虜(とりこ)となり、ドイツへの固定観念が溶けてしまった。この偏屈夫婦は菜食主義者の仲間を見つけたことで気をよくし、とりわけリーズデイル夫人は自己流の調理法、例えばライ麦の挽き方とかパンの焼き方などをヒトラーに説明したというのだ。(ヒトラーは健康志向の人物だった。) これに対しヒトラーは真剣に耳を傾け、大きな関心を抱いたように見せかけた。すると、普段はクールで近寄りがたいシドニー夫人も、ヒトラーに対しては好印象を持ったようで、「感じがよく、躾もよく行き届いている」と評し、総統の熱心な信奉者になってしまった。そして、一旦抱いた考えを決して変えない頑固な夫人は、生涯にわたってヒトラーの信奉者であり続けたという。

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(左: リーズデイル卿  / 中央: シドニー夫人 /  右: ヒトラー)

  ユダヤ人からボロクソに貶されるヒトラーであるが、意外と人当たりが良く、知的な会話もできたから、直接会った者は結構その人柄に好感をもったそうだ。もっとも、この天才的指導者にとっては一般人など赤児(あかご)も同然。世界政治を動かす総統は、心理戦もよく心得ている。ヒトラーはリーズデイル夫妻の為にメネセデス・ベンツを用意させたし、ニュルンベルクの党大会では彼らの為に貴賓席が設けられていた。ユニティの手紙によれば、リーズデイル卿は親衛隊の将校に囲まれて上機嫌だったという。故郷に帰ったリーズデイル卿は、それまでのドイツ嫌いを一変させ、貴族院で演説を行った時には、ヒトラーが平和を愛する心情を持っていると語ったり、ヒトラーは失業対策に成功し、第三帝國の社会制度は進んでいる、といった報告を行っていたそうだ。戦前の日本政府も対米戦争が嫌なら、有名なアメリカ人をたらし込んで親日家にさせ、議会工作でもさせればよかったのに、とつい考えてしまう。パーティーくらいしか取り柄のない外務官僚は、知り合いの議員や外交官にお願いするくらいで、親日派を増やすために美しいアメリカ人を各地に派遣するとか、各地の名士を手込めにして輿論操作を試みる発想すら無かった。大衆社会の米国で、オッサンの外交官が記者会見を開いたって、誰も興味を示さないだろう。マスコミの関心を集めるは、単純明快な主張と美人の笑顔だ。ユニティ級の美女を日本の代弁者に仕立てた方が、よっぽど効果があるんだけど、悲しいかな、試験秀才には思いつかなかった。

  話を戻す。1935年の末になると、ユニティはナチ党に受け容れられ、ヒトラーから直接、特別な党徽章をもらったという。その裏面にはヒトラーの名前を彫ったモノグラムがあった。そして、総統はこの女性同志に個人的な献辞を添えたポートレイトを、銀の額縁に嵌めてプレゼントしたそうだ。ユニティにとって、それは貴重な宝物となった。しかし、こうした厚遇には別の意図が隠されていたのだ。というのも、英独間を頻繁に行き来するユニティは、ヒトラーにとって非常に有力な手駒となっており、ナチ政権の非公式スポークマンにもなっていたからだ。また、狡猾な総統はユニティを通して、意図的な秘密漏洩者をイギリスの上流階級や影響力のある社会階層に潜入させたのである。さらに、ユニティをごく内輪のサークルに入れることで、ヒトラーは彼女を「ナチ・ドイツの事情通」に仕立て上げる事ができたのだ。彼女がヒトラーについて英国で喋れば、「何らかの裏情報なのでは ?」と勘ぐったイギリス人は、その話に聞き耳を立てる。こうなればヒトラーはユニティを媒介にして、自分にとって都合の良い情報を敵国に流すことができるのだ。

極秘の結婚式

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(左: 若い頃のダイアナ  / 中央: モズレー夫人となっている晩年のダイアナ/  右: オズワルド・モズレー卿 )

  ユニティのみならず、姉のダイアナもナチ・ドイツに関係してきた。1935年にブライアン・ギネスとの離婚が成立したダイアナは、自分の姦通が原因なのに、紳士の体面を保ちたい夫のお陰で巨額の慰謝料をもらうことができた。大金を手にしたダイアナは、ミュンヘンに華麗な邸宅を構え、あまり熱心ではなかったが、大学でドイツ語のコースに通っていたのである。そんな日々を過ごしているダイアナに吉報がもたらされた。1939年、オズワルド・モズレー夫人のシンシアが息を引き取ったというのだ。ダイアナとモズレー卿は長いこと愛人関係にあったが、モズレー夫妻の結婚式は依然として世間の記憶に残っていたので、二人はその状態をあえて合法化しようとは思っていなかった。しかし、そのシンシア夫人も亡くなってしまったから、“わだかまり”も無くなってしまったのだ。そこで、ヒトラーはドイツで二人の結婚式を挙げてやることにし、英国のファシスト指導者とレディー・ダイアナの結婚式は、ゲッペルス宣伝相のサロンで執り行われる事になった。この秘密結婚式は報道陣に一切気づかれずに実行されたそうだ。ダイアナの証言によれば、ランドルフ・チャーチルが厳格に秘密を守ってくれたからであるという。(彼はダイアナの「従兄弟」に当たるウィンストン・チャーチルの息子である。ただし、二年後にモズレー本人がこの秘密を明かすことになった。)

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(左: 「ナチス式敬礼」をするダイアナトユニティ  / 中央: ダイアナ /  右: ユニティ)

  ユニティを私的な宣伝係として用いていたヒトラーは、彼女を大変厚遇していたようだ。彼女はしばしば特別列車にも同乗を許されたし、党所有の公用車を運転手附きで利用することも出来たのだ。ヒトラーは彼女の住居をミュンヘンに用意させ、高級カメラをプレゼントしたかと思えば、今度は党員バッヂを手渡したりと至れり尽くせり。ユニティが肺炎に罹ると、ヒトラーは病院の特別室を手配し、その費用を負担したばかりか、個人的な主治医であるモレル博士を派遣したという。ヒトラーと二人きりで会うことができたユニティは、もう総統にぞっこんだ。ミットフォード家の姉妹までもが、ユニティはヒトラーと結婚するのでは、と疑ったくらいである。ヒトラーの側近も、二人の親密さに驚いたという。ただし、安全面でのことではあるが。

  というのも、ユニティはヒトラーが誰と会い、どこで会議を行うのか、何を意図にしているのか、そして総統の生活全般にわたって色々な事を知っていたのである。例えば、ある時、ヒトラーは五時のお茶をハウス・デア・クンスト(藝術の家)で行う事になっていた。すると、五分前にユニティが現れたのだ。これにはヒトラーも驚いた。彼女は独自の情報源を持っていたのだろう。総統の一行がベルリンからミュンヘンに向かった時も、既にユニティはミュンヘンに着いていた。そして、ミュンヘンからウィーンへ移動した時も、またもやユニティがヒトラーよりも先に着いていたのだ。ヒトラーの副官であるゲルハルド・エンゲルも彼女に驚いていたという。ある食事の席で話されたことだが、ロンドンへの飛行機の着陸進入路は、僅か八基の高射砲部隊によって守られているに過ぎず、英国軍の装備は二個師団分にも足りないとのことだった。彼女はこれらの情報を従兄弟の一人から聞いたのだという。そこで、大いなる関心を示したヒトラーは、早速ユニティが言ったことの裏を取るよう部下に命じ、検証の結果、彼女が述べた事は正確だった。これなら、ヒトラーの側近がユニティを英国のスパイと疑ってもおかしくはない。

夢破れた乙女の自殺

  ヒトラーの寵愛を受けたユニティは、ドイツの総統から「ヴォルフ(狼)」と呼ぶことを許され、同時にこの「ヴォルフ」は親しみを込めてユニティを「ドゥ(君 / 親友が使う二人称)」と呼んだらしい。ヒトラーと打ち解けたユニティは、何度も彼女の祖国がドイツと戦争することはない、否、「するはずがないと確信しています」、と表明してきた。ところが、運命は残酷なものだった。1938年、チェンバレン、ダラディエ、ムッソリーニ、ヒトラーは「ミュンヘン協定」に署名する。ズデーテン地方を手にしたヒトラーは、その食指をポーランドへと伸ばした。1939年9月3日、ドイツ軍のポーランド侵攻から二日後、英国の駐独大使ネヴィル・ヘンダーソンは、ドイツの外交官ヨアキム・フォン・リッペントロップに宣戦布告の通牒を手渡した。ダイアナ・モズレーはロンドンで第二次世界大戦の勃発を耳にする。一方、妹のユニティはミュンヘンにいて、オーバーバイエルン管区長であるアドルフ・ワーグナー邸を訪ねていた。彼女はワーグナー管区長に分厚い封筒を手渡したという。敵国人となってしまったユニティは、重要な書類を預けに来たと話し、対するワーグナーはユニティを慰めると共に、彼女の安全を約束したのである。

  ところが、その封筒には意外な物が入っていた。彼女が去ってから数時間後に封筒を開けたワーグナーは驚く。その中にヒトラーのサイン入りポートレイトと党のバッヂ、そして「遺書」が入っていたのだ。彼女はブリテンとドイツが戦争することには耐えられないので自殺する、との内容であった。ワーグナーは即座に保安部に通報するが、既に英国庭園のベンチに坐っていたユニティは、小型の拳銃で自分の右こめかみを撃っていた。ある警官が彼女を発見し、身元不明で意識不明の女性を大学病院へと運んだそうだ。医長のイェーガー博士が診察したところ、右こめかみから撃ち込まれた弾丸は後頭部に留まったままで、剔出(てきしゅつ)することは生死に係わる危険があったという。この悲報はヒトラー陰鬱にさせたが、その口から同情の言葉は無かった。

Unity Mitford 7(左  /  慎重に搬送されるユニティ)
  バイエルン州内務相はユニティを英国に搬送するため、急行列車を手配し、特別なベッドまで用意して、彼女をスイスのベルンにまで送り届けたそうだ。ベルンで容体が改善したユニティは、母親の手配により、法外な費用を掛けて英国に運ばれたという。母親の献身的な介護のお陰なのか、1940年になるとユニティは次第に歩けるようになった。しかし、彼女には記憶障害が残っており、ヒトラーのことでさえ曖昧に想い出すだけで、第二次世界大戦については一切知らなかったという。戦争末期の頃になると、リーズデイル夫人はユニティと共にインチ・ケネス島に引っ越すことにした。1945年にもなると、再び車を運転できるまでに恢復し、映画を見に行ったり、教会へと通うこともできたそうだ。しかし、彼女は後頭部に爆弾を抱えたままである。ユニティは様々な宗派に慰みを求め、至る所で入信の許可を取りつけたという。

Winston Churchill 2Stalin & Churchill 1






(左: ウィンストン・チャーチル  /  右: チャーチルとスターリン)

  ところが1948年の春、ついに運命の時間(とき)が迫ってきた。5月28日、英独同盟を夢見たユニティ・ミットフォードは自殺未遂の後遺症により、華麗だが儚い生涯を閉じた。享年34。歴史学の大学教授や世の知識人は、通俗的なヒトラーの「世界征服」に目を向けるが、チャーチルの犯した失敗や悪魔との同盟には目を背けている。確かに、チャーチルはヒトラーという「悪党」を倒したことで「英雄」になってるが、その代わり赤いローズヴェルトと共に兇悪な暴君を育ててしまった。同じ文明圏の国家社会主義者が「敵」で、異文化圏の国際共産主義者が「友」なんておかしい。日本でも人気の高いチャーチル首相は、なぜか「救国の英雄」として祀られているが、現実社会では「亡国へと導いた墓堀人」である。戦争目的を達成できなかった宰相が、偉大なる戦争指導者というのは妙だ。案外、ユニティが夢見た「英独同盟」の方が良かったのかも知れない。ただ、歴史の「イフ」を言い出したらキリが無いけど。



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