安倍氏の裏切り
新聞やテレビざわついている通り、て政界はもはや選挙モード一色となった。地上波テレビ局は安倍首相の「大義無き解散」と騒ぎ立てて自民党の敗北を願っているが、「大義」ならいくらでもあるじゃないか。例えば、國體(こくたい)を正常に戻すことだ。自民党は元々マッカーサー憲法を廃止して自主憲法を制定するはずだったのに、田中角栄の到来で忘却の彼方へ押し潰されてしまい、今日では「不磨の大典」となっている。原則を述べれば、占領軍憲法を撤廃して大日本帝國憲法に復帰べきで、「改憲」したら「兇暴な日本人」の肯定となり、米国が強要した「懺悔文」の諒承になってしまうだろう。だが、このままでは防衛政策が二進も三進も行かないから、安倍首相が自衛隊を憲法に明記して少しでも反軍思想を削ごうとする意図は解る。もっとも、NHKからTBS、朝日新聞、産経新聞に至るまで、国防軍を創設することは基本的に「危険」と考えているから、安倍首相の「改憲」すら小さな一歩に過ぎない。したがって、拉致被害者の奪還はほぼ不可能だ。たぶん、衰弱した横田滋さんは娘を取り戻せないままこの世を去るだろう。結果的に、武力放棄の日本人は、同胞の見殺しに賛成した事になる。
保守派の国民が意気銷沈しているのは、期待の星であった安倍首相が意外なぼと頼りなかったことだ。高い支持率を得て第二次政権を発足させたものの、安倍首相の政策は日本の国益を害するものが結構多い。例えば、まともな国民なら消費税のアップは有害だと解っていたのに、安倍首相は財務省に屈服して税率を上げてしまった。案の定、日本経済の成長は腰砕けとなり、デフレ脱却どころの話ではなかった。それなのに、安倍首相はまたもや消費税の増加を目論み、色々な煙幕を張って誤魔化そうとするが、“予定通り”上げるつもりだろう。実際、選挙後にどうするのかは不確定だが、10%に増税すれば、またもや個人消費が落ち込み、税収が増えても、日本経済にとってプラスとはならないから、いずれ不平不満が出てくる。消費税で得たお金を「福祉や教育に廻します」とリップ・サービスを行うが、実際は借金の返済に充てるわけだから、お金が天下を廻るわけじゃない。さらに、「高度人材」と称して大量の移民を輸入しようとしているんだから、日本は「美しい国」ではなく、「アジア人が溢れるドヤ街」になるんじゃないか。「支那人が闊歩する北池袋」が日本の未来なんて冗談じゃない。
(左 / ウラシ゜ミール・プーチン)
保守派論客の一部は、安倍外交を称讃する者もいるが、ロシアに経済協力をしたって北方四島が戻るわけじゃないだろう。どうせ、ロシアに大金をふんだくられた挙げ句、領土紛争の解決をみないまま“貢ぎ損”となるに違いない。いくら安倍首相や外務官僚がプーチンに向かって、「約束した北方領土返還のお話は?」と尋ねても、「その件はまた後で !」と冷淡にあしらわれて終わりだ。こんな遣り取りは不良と弱虫の金銭トラブルと同じである。柄の悪い不良がひ弱な高校生をカツアゲし、「カネを借りとくぞ !」と言い残したからといって、後で返すことなどあり得ない。「借りたんだから、返してくれるだろう」と信じるアホは、一度ロシアの暗黒街で生活してみることだ。今は亡き安倍晋太郎・元外相と首相にった息子の晋三は、河野一郎・洋平親子ほど酷くはないが、ロシア人から見ればどちらも「便利な馬鹿」に見えるだろう。
辛口の保守派国民は安倍晋三首相をコテンパンに扱(こ)き下ろすが、彼以外の議員で誰が首相に最適なのかを口にすることができない。仮に麻生太郎が総理大臣の椅子に坐っても同じ事しかできないし、もっと酷い政策を実行するだろう。麻生氏は吉田茂の孫だが、吉田の思想と気概を継いでいる訳でははないので、保守派国民を失望させるだけだ。したがって、我々は安倍首相に過大な期待を抱かずに、国益に沿う要求を突きつけて抵抗するしかない。例えば、竹中平蔵が「高度な技術を持つ人材を輸入する」と言い張るなら、庶民は「廉価な移民と斡旋業者のパソナに反対!」と叫ぶしかないだろう。保守派国民が期待した安倍氏だが、当人は左翼勢力の猛反撃に遭って怯んでしまい、長期政権の維持のみが当面の目的となってしまった。マスコミの批判をかわすために左翼政策に舵をきると、左翼議員よりも左翼的となってしまい、保守派国民の反撥が激しくなり、却って安倍批判の同調者が増えてしまう。ちょいと想い出してみれば解るけど、「女性が活躍できる日本」って、男女共同参画を推進するフェミニスト官僚や社会主義者の残党が口にしそうな提言である。悲しくなるけど、自民党の保守政権といえども、優柔不断な安倍氏くらいがせいぜいで、石破茂や野田聖子が首相になったらもっと左の方針を取るだろう。縁起でもないが、もし蓮舫が首相になっていたらどんな「惨事」が起きたことか、想像しただけでも怖ろしい。
(左: 麻生太郎 / 石破茂 / 野田聖子 / 右: 竹中平蔵)
テレビ局をはじめとするマスコミは、ランク付けが大好きな日本人の国民性を焚きつけ、「わぁぁい、選挙だ! どの党が躍進するのかなぁ?!」と“人気投票”の皮算用に夢中である。北鮮によるミサイル危機があるのに、テレビ局は「小池新党」の話題で持ちきりだ。本来なら、マスコミは極左集団の民進党を応援したいところだが、2008年の時とは違ってその惨敗が目に見えているので、前原誠司に期待することはできない。だから、視聴率を取れる小池百合子にスポットライトを当てて、自民党の得票数を一票でも減らしたいと考えている。でも、小池百合子は東京都知事なんだから、いきなり国政に返り咲くわにも行くまい。ところが、野心満々の小池氏は「希望の党」を介して国政を動かそうとしている。赤坂の藝者顔負けの笑顔でその代表に就いた。まぁ、総理の椅子に未練がましい小池百合子だから、今更どうこう批評する気にもなれないが、彼女の威光にすがる若狭勝や細野豪志が本当に情けない。あれでも肝を持った男なのか? 小池氏の褌(ふんどし)だかパンティーだか判らないが、彼女の後光で相撲を取る若狭氏は何をしたいのか、そして彼の国家理念や防衛政策はどんなものなのか、皆目見当がつかない。ただ、「国会を一院制にする」と口走っていたから、それを新党の目玉にするのだろうが、この程度のレベルで国政を担うというんだから呆れてしまう。
(左: 若狭勝 / 中央小池百合子 / 右: 細野豪志)
デモクラシー時代の民衆
それにしても、どうしてこうも民衆選挙は不毛なのか? 1990年代、マスコミは中選挙区だから派閥政治が横行し、金権政治が蔓延するのだ、と歎いていたが、小選挙区制度が導入されても派閥政治は無くならなかったし、政治家の質も向上することはなかった。政党助成金は「掴みゼニ」となって議員のお小遣い。政党の綱領で議員を選べるようになった有権者は、依然として代議士に不信感を募らせ、常に政治改革を求めている。でも、選ぶ方だっていい加減なんだから、立候補者ばかりを責めるわけにもいくまい。衆議院選挙も酷いけど、参議院選挙になると、一般国民は「白けムード」を隠せない。「福祉や教育に力を入れます!」といった無難で曖昧な公約を掲げる候補者とか、聞いたことも無い党推薦の新人、特殊団体を母体とする業界人、本業で食えなくなった藝能人などが出馬するから、もう投票するのも厭になる。だから、しょんぼりした一般人は、知名度だけが取り柄の藝人とか元スポーツ選手に投票してしまうのだろう。ビンタが得意なアントニオ猪木、柔道だけしか知らない谷亮子、グラビア・アイドルになれなかった蓮舫、山口百恵を目標にした元アイドル歌手の三原順子、極左思想の元プロレスラー馳浩など、誰が投票したのか名前と顔を知りたい。今井絵理子という参院議員がいるそうだけど、藝能事情に疎い筆者は誰だが判らなかった。「スピード」と聞けば、スポーツ用品メーカーの「スピード(Speedo)」を思い浮かべてしまったから、たまには藝能雑誌を読んでおかなきゃ、と反省したことがある。
(左 / ハロルド・マッキンダー)
民衆政(デモクラシー)に関する見解は色々あるが、昔ちょっと囓った地政学の本を繙いたら、ハロルド・マッキンダー卿(Sir Harold John Mackinder)の批評が面白かったので、簡単だがここで紹介してみたい。地政学を勉強した人なら誰でも知っているマッキンダーは、元々医学を専攻する学生だった。しかし、オックスフォード大学に入って、地質学や地理学、歴史を学ぶようになると、「新しい地理学」を提唱する人物になっていた。彼はオックスフォードの地理学院で総長を務めるが、政治に対する情熱を持っていたので、議員の道を歩もうとする。ところが、一度は落選。それでも挫けず、統一党(ユニオニスト)に属して再び出馬して、見事当選を果たす。1910年から1922年まで下院議員を務め、実際の政治に通じ、「ハートランド理論」を披露する優秀な学者であった。
(左 / 猪口邦子)
翻って日本を見てみると、学者で議員と言えば、小泉政権で大臣となった猪口邦子だ。でも、何となく溜息が出てくる。猪口氏は軍縮会議の日本代表(特命全権大使)として国連で頑張ったというが、「軍隊」の無い日本が核保有国に対して要求を突きつけたからといって、どんな“成果”があったのか。単に“お願い”するだけなら、紫の鉢巻きをした仔猫にだって出来るじゃないか。外務省はロシア人に「お願い猫」をプレゼントすれば、SLBM(潜水艦発射型核ミサイル)を削減してもらえると思っていたのだろう。上智大学の教授だった猪口議員の専門は、何と国際関係論と安全保障なんだって。彼女の名を知らない人でも、組閣時の記念撮影で青いビニール・シートみたいなドレスを着ていたオバちゃん、と言えば思いだしてくれるかも知れない。
脱線したので話を戻す。マッキンダーはデモクラシー時代の民衆について語っていた。民衆参加型の政治形態では、有権者の知能や品格、財産に関係無く一人一票となる訳だが、マッキンダーは大衆が扇動されやすい事に警鐘を鳴らしていた。近代に入ると、一般教育の普及もあって、古代ならさしずめ百姓か奴隷の境遇にあった人々でも、様々な観念を知るようになり、それを弄(もてあそ)ぶようになったという。そこで、鋭敏な洞察力を持つマッキンダーは、西歐社会に潜む危険を見出していた。生半可な教育を受けた人々は、心理的に動揺しやすい状態にあるそうだ。しかも、現代はこのような人々から成り立っているから尚更怖ろしい。一般の人々は観念に飛びつきやすいが、その観念を実際に検証したり、自分の不安定な状態を我慢できるよう訓練されていないという。したがって、現代の人々の大部分は、様々な“暗示”にかかりやすいそうだ。(H.J. マッキンダー『 デモクラシーの理想と現実』 曾村保信訳 原書房 1985年 p.222)
なるほど、テレビ番組と新聞だけしか情報源の無い国民は、社説を書く論説委員とワイドショーの制作者に操られやすい。視聴者は何気なくテレビをつけて眺めているけど、政治ネタを主体とするワイドショーとか報道番組に出てくる大学教授や評論家が、どのような基準や理由で選ばれたのか判らないし、如何なる意図で番組が制作されているのか考えたこともないし、考えようとする切っ掛けすらない。一般視聴者は“脚本”に沿った誘導番組があるとは思っていないのだ。例えば、テレ朝の長寿番組に『ビートたけしのTVタックル』がある。そのゲスト・コメンテーターの顔ぶれを見れば、おおよその主旨が判るし、イチ押しの左翼ゲストが誰なのかが推測できる。北鮮問題とか慰安婦騒動なら金慶珠や辺真一、政治改革なら元三重県知事の北川正恭といった具合に、テレ朝の魂胆が一目瞭然だ。そして、レギュラー出演者の大竹まことは、プロデューサーやディレクターの意見を“それとなく”代弁する役目を果たしている。単なる藝人の大竹が財政問題の統計を持ち出したり、外国の政治家を詳細に語るなんてあり得ない。事前の打ち合わせで、彼が喋るセリフが決まっているのだろう。
敗戦後、マスコミは矢鱈とデモクラシーを称讃したが、その政体は往々にして衆愚政治(ochlocracy)に陥ることが多い。というのも、現代では故郷にあった人々の絆が切断され、コミュニティーが形骸化した結果、個人が孤独な砂粒へと変化したからだ。それでも、強靱な伝統に根ざす日本社会だから、幾らかは賢人が存在するし、保守的な国民もかなり残っているはずだ。ところが、こうした良質な国民がいくら健在でも、その所在がバラバラで、一つの結束した勢力になりづらい構造となっている。また、良識的な日本人がまだ全国各地に残っているといても、広範囲な選挙区に点在するとなれば、その声は小数点以下の音声に零落し、いくら叫んでも大海の一滴にしか過ぎない。やはり、国家意識を持った教養人が地元で結束できる中間組織が必要なのだ。過去を振り返ってみて、なぜ日本人が明治維新を達成できたのかといえば、各地に武士という紳士階級が存在したからだ。いくら百姓お商人が大勢いても、所詮は武力を持たない労働者の塊で、烏合の衆に過ぎない。庶民が立派な指導者を選ぶことも無理。考えてみれば解るが、人民投票で大久保利通が選ばれる訳がないだろう。
かなり前から、マスコミは「地方創生」とか「地方分権」を宣伝していたが、大都市ではない中級自治体や小さな田舎に活力が生まれることは稀である。なぜならば、政治的核となる集団が存在しないからだ。確かに、片田舎といえども土建屋とつるんだ利権集団とか、特殊法人や業界団体といった私益組織ならある。だが、軍事や外政を憂慮する国士集団ではない。昔なら、各地に殿様がいて配下に家臣が控えていたから、地元の利益を越えた国家理念とか、子孫に対する配慮とかを真剣に議論する事ができた。何しろ、幼い頃から「公(おおやけ)」に尽くすことが武士の務めと信じて疑わなかったから、立派な為政者が出現したのも頷ける。しかし現在だと、大学でクルクルパーにされた者が議員を目指したりするから、賤しい根性の持ち主とか公共心の欠落した人物が多い。中には当選してから勉強するとか、視察旅行をしてから考えます、議員報酬が魅力的なので続けます、といった不届き者までいるから腹が立つ。
(左: ローマの元老院を描いた絵画 / 右: ローマの軍人を彫ったレリーフ)
政治家の理想像を探究するとローマ人に行き着くことがある。古代ローマ人は「男らしさ」を意味する「ヴィルトゥス(virtus / 徳)」を重んじていたが、その「ヴィルトゥス」が最も発揮されるのは政治と戦争の場だと思っていた。公共の為に尽くすのが高貴な人間の義務で、パトリキ(貴族)なら議員とか軍人になるのが普通だった。アエミリウス、コルネリウス、ファビウス、ユリウス氏などの名門貴族の者が、大衆に媚びる役者とか詩人になるなんて論外。今の政治家だと、落選しないことに最大限の努力をしているだけで、国家の威信とか名誉の為に尽くそうとする気は毛頭無い。だいたい、有権者にその意識が無いんだから、国会議員に無いのも当然だろう。日本の議員が示す“威厳”なんて当選回数か大臣経験数くらいで、閣僚になって何をしたのか誰も覚えていないんだから、国家への奉仕は有名無実というこだ。一方、ローマの貴族は実力主義に基づいていたようで、名門貴族の出身だからという理由で尊敬されることはなかったという。貴族にある威厳の序列(gradus dignitatis)は、どれくらい国家に尽くしたかによる。つまり、政務官職を歴任し、元老院に入って政治に係わり、その経歴と功績が威厳のランクを決めたのだ。(J.ブライケン 『ローマの共和政』 村上淳一 / 石井紫郎 訳 山川出版 1984年 p.47) 日本の政界には、何でもいいから大臣の椅子に坐りたいという奴がゴロゴロいるから、税金を払うのが馬鹿らしくなる。
(左: フィレンツェの街並み / 右: ミケランジェロ作のダヴィデ像)
話を戻すと、マッキンダーは地方色が豊かになる理由を語っていた。彼はアテネやフィレンツェがどうして見事な文明が開花したのかに疑問を抱いた。ペルシアやエジプトのような巨大帝国なら解るが、アテネやフィレンツェは比較にならぬ程の小都市である。だが、これらの地方都市は政治的および経済的主権を有し、人々が緊密な関係を持っていた。街路地では行き交う人々が常に握手を交わし、様々な家族同士が婚姻関係で結ばれていたから、職人や商人の性質が今とは異なっていた。今なら、一般庶民とはかけ離れた高度に知的な営みも、よく知り合った人々の間で行われることが多かったという。例えば、フィレンツェに住む一青年は、生まれ故郷で市長になったり、事によっては行政長官になったし、軍団のボスになっても、それで一生を終わらず、実際の戦闘で町全体を指揮する将軍になることもできた。また、彼が彫刻家や画家、建築家になった場合、外部の者から注文を受ける代わりに、地元の記念物のために腕を振るうという機会もあった。(上掲書 p.225) つまり、有能な人物がよそに移らず、郷里でその才能を発揮したから、フィレンツェの文化が発展したという訳だ。
マッキンダーはイングランドが地方色を無くし、人材がロンドンに集中したことに危惧を抱いていた。近代になって道路が舗装され、鉄道網が発展すると、貴族階級や富裕階級の者が中央に押しかけ、ロンドンが繁栄する代わりに地方が枯渇するという事態になった。パリに憧れたフランス貴族みたいなものである。交通が未整備の時代なら、地方のコミュニティーにお金持ちと貧乏人、貴族と庶民、親方と職工が皆一緒になって、お互い隣人として責任を分かち合うことができた。ところが、魅惑的な都会生活という選択肢ができると、どうしても人材がそちらへと流れてしまう。とりわけ、地方の「頭脳流失」は痛い。なぜならば、今まで地方の仕事に生き甲斐を感じていた優秀な若者が地元を去り、繁栄を極める首都に集中するからだ。パブリック・スクールを出てオックスフォード大学やケムブリッジ大学に進む青年は、卒業しても郷里に戻らず、中央集権化された公務員の職に就いたりする。役人ばかりではなく、医者や弁護士ですら大都市に群れてしまうのだ。ただし、こうした青年は地方的環境から切り離され、細分化された知的職業で一生を終えることになる。例えば、法律家は数多(あまた)居る同業者と熾烈な競争に明け暮れ、神経をすり減らしながら人生で最良の時期を潰す事になる。
それでもイングランドはまだマシな方で、スコットランドはもっと乖離が著しい。イングランドだと専門職に従事する上流階級と地主階級の者は同じ学校に通うし、商人や大企業の経営者も、その子弟を同じ学校に送っているから、言語や慣習、態度といった社会的区別はそれ程ひどくはない。むしろ、上流中産階級と下層中産階級を分ける溝の方が深い。ところが、スコットランドでは社会の最上級に属する人々が、もっぱらその子弟をイングランドのパブリック・スクールや名門大学に送るので、社会的亀裂が深刻になった。もっとも、スコットランド教会の牧師や法廷弁護士、医者、学校教師などは、スコットランドの大学で教育を受ける方が多い。また、小売店主や職人階級の子弟も大半が地元の学校に通うから、イングランドの場合と比べれば階級的分裂が激しくない。ただ、結果的にスコットランドの貴族だけが、殊さら一般民衆とかけ離れた存在になってしまったのだ。(上掲書 p.230)
「男らしい」リーターに惹かれる大衆
民衆は普段の生活に起こる事に関しては正常な判断ができる。つまり、常識で分別できる範囲に住んでいるから、“非常識”な事はしないものである。ところが、日常生活から離れた外交政策とか金融・財政、軍事といった問題になると、知識不足や洞察力の欠如により判断ができなくなってしまう。だから、健全で賢明な判断を示してくれる力強い指導者が必要なのだ。それができるのは、やはり世襲貴族とか紳士階級の政治家で、労働組合のボスとか藝人崩れでは無理。昔の日本だって、鋭い判断ができたのは島津斉彬とか毛利敬親、鍋島閑叟といった賢侯であったし、戦場で異彩を放った名将も江戸時代に育成された武士である。ところが、武士階級を破壊して、平等な試験による官僚の登庸とか、民衆投票による選抜を始めたら指導者の質が悪くなってしまった。例えば、横山ノックや青島幸男、田中康夫といった俗物は大衆の情念を掻き集めて知事になれたが、国家規模で政治を考え、尊敬に値するような偉人には決してなれない。谷沢永一先生は生前、「大阪はノック程度が丁度いい」と自虐ネタを披露していたが、大阪府民だって武家の候補者がいれば漫才師を選ばないはずだ。
(左: 横山ノック / 青島幸男 / 田中康夫 / 右: 島津斉彬)
マッキンダー曰わく、真のの政治家と呼ばれる人々の最も大切な資格は、その予見の能力にあるそうだ。(上掲書 p. 228) この才覚を持つ政治家は社会的な弊害を未然に防ぐことができるという。マッキンダーの言うことはもっともで、北鮮による拉致事件も、強力な軍隊と防諜機関があれば未然に防げたはずだ。しかし、左翼知識人とマスコミ、それに扇動される大衆を恐れた政治家は、落選の「予想」ばかりを考えていた。また、支那に貢ぐことに熱心だった田中派の議員は、キックバックばかりに夢中で、支那の軍備拡張に気が回らなかったし、たとえ気づいても「どうでもいいや」と思っていた。そして、指導者の「質」を気にしなかった国民は、トンデモない災難に喘ぐことになる。阪神淡路大震災の時は、反自衛隊の村山富市のせいで助かるはずの人が多数死んでしまったし、東日本大震災の時は菅直人が首相だったから、余計な被害地域が拡大し、エネルギー政策まで大損害を受けてしまった。地震や津波は天災だが、無能な宰相の選択は人災である。
日本人は新党ができる度に幻想と後悔を味わう。ロッキード事件で揺れた時には「新自由クラヌブ」ができて、河野洋平や西岡武夫、山口敏夫が自民党を飛び出したが、そこから先の発展が見られず、河野と山口は古巣に戻ることになった。河野が連立時代の自民党総裁になったのも、「出戻り議員」であったからだろう。小池都知事が最初に属した日本新党も、結成当時はかなりマスコミからチヤホヤされたが、何しろ党首があの細川護煕だから実に頼りない。これも結局、解散の憂き目に遭う。田中角栄の秘蔵っ子で、豪腕幹事長の名を恣にした小沢一郎が、政治改革の波に乗って新生党を創ったが、思ったほど上手く行かなかった。小沢は新進党や自由党を経て民主党を率いて大勝利を摑んだ。ところが、民主党政権には悪魔や国賊、詐欺師に道化師が潜んでいたから、日本は漆黒の闇に包まれ、三年間も悪夢が続くことになった。国民は後悔の念に苛まれたが後の祭りだ。今や、小沢一郎は極左の山本太郎と組んで、宿敵だった共産党からも評判がいい。とにかく「新鮮さ」を“売り”にするのは魚屋に限る。小池百合子は新党ブームで勢いに乗っているが、そのメッキはいずれ剝がれるだろう。賞味期限が切れたアジなら干物にすればいいけど、盛りを過ぎた白塗り妖怪は蒸し器に入れてもシワが伸びないし、乙女に戻ることもない。
今回の選挙では、希望の党が躍進すると予測されているから、大幅に議席を減らす安倍首相は窮地に追い込まれるだろう。自民党支持者はマスコミの偏向報道を批判するが、本当の原因は安倍氏の姿勢にあるんじゃないか。つまり、安倍氏には国民を鼓舞する「情熱」が無いのだ。なるほど、一般国民は政治に関心が無いし、ワイドショーの情報操作に左右されやすい。しかし、人物を見定める目は持っている。詳しい政策や法律的な議論は解らないが、議員から放たれる熱意なら感じ取ることができるはずだ。確かに、安倍首相は言葉を選んで冷静に話しかけている。だが、民衆が欲しいのは、胸が高鳴り、ぞくぞくする程の興奮だ。安倍氏は北朝鮮の脅威を訴えるが、その対抗策は自衛隊を合憲化する事くらいで、みんなが驚くような「博奕」ではない。選挙で必要なのは、有権者の心臓に突き刺さるような愛国心の発露だ。マスコミにビクビクしながらの演説ではなく、自決覚悟の挑戦状を国民に叩きつければ、それに呼応する国民だって出てくるだろう。
安倍氏は地上波の番組に出て解散の理由を滔々と説明していたが、そんなことをせず、インターネットに自分の演説動画を投稿して、国民に直接訴えかけるべきであった。老人が観る地上波での放送はNHKだけにすればよい。民放は主旨を歪めて放送する常習犯だから無視するに限る。トランプ大統領がツイッターを活用しているのは、偏向報道を止めないCNNやABC、PBSを懲らしめるためだ。安倍氏より小池氏の方が賢いのは、報道の主導権を取ってマスコミを利用しているからである。小池氏は自民党に不満を持つ国民を取り込むため、「自民党に代わる選択肢」を示している。もちろん、希望の党が発表する公約なんかどれも怪しいが、議席数を守りたいだけの自民党にウンザリしている国民にとったら魅力的だ。有権者は安倍氏の言い訳よりも、積極的な対決姿勢、つまり自問党内の反撥がどれほど強くても自分の目的を貫くという決意を見たいのだ。せせこましく「消費税を福祉に廻します」と言わないで、財務省が嫌がっても5%に戻しますとか、3%あるいは2%にまで下げますと言えばいい。財務官僚が国政の責任を取るわけじゃないんだから、安倍氏は国民に目を向けるべきだろう。
安倍氏が悲願とする改憲だって、せこい修正案を訴えず、堂々と「國軍創設、核武装をします」と言えばいい。マスコミや共産党、公明党、民進党は大騒ぎして反対するだろうが、安倍氏は「対話と圧力ても効果が無かったんだから、極悪人の北鮮に対して他に何の切り札があるんだ?!」と言い返せばいいじゃないか。まともな国民なら心の底で「そうだ !」と賛成するだろう。「私は国民に問いたい。強い日本と弱い日本どちらを選ぶのか? 卑屈な日本人と勇敢な日本人のどちらを選ぶのか? いじめられる日本人と反撃する日本人のどちらを望むのか? 軍隊を持たない国家が毅然とした外交をできるのか ?」と安倍首相が率直に語れば、うなづく国民は意外と多いはずだ。かつて、レーガン大統領は「強いアメリカ」を訴えて勝利した。「弱いアメリカ」とか「譲歩するアメリカ」を掲げていたら、歴史に残るような人気は出ない。民衆は煩雑な行政を理解する能力に欠けるが、従うことになる相手を判断する嗅覚は持っている。日本国民は弱々しいイメージを放つ安倍氏に従わないだろう。世間の女性は安倍氏を見て、「力強い男」と感じるのか? 民衆は近寄ってくるゴマ擦り男より、近寄りがたいオーラを放つ豪傑の方を好む。アニマル柄の服を着ている大阪のオバちゃんが痺れるような男なら、安倍氏は勝利を摑むことが出来るだろう。要するに、虎の威を借る狐じゃ魅力が無いということだ。
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コメントを頂き感謝申し上げます。冷戦時代と違って、現在のロシアに対する評価は歐米諸国でも割れているらしい。経済的にもロシアを封じ込め、プーチンを失脚させたい勢力と、トランプのように連携しながら世界政治を動かそうとする勢力が対立しているようです。歐米諸国のタカ派がロシア批判をするのは結構ですが、彼らの背後にグローバリスト陣営がいるのは気になります。つまり、ロシア経済を牛耳ろうとする勢力が、歐米諸国内で「自作自演」のテロやデモを実行し、米国の軍隊やNATOを利用しようとするからです。例えば、英国で起きたロシア人への暗殺未遂事件はかなり怪しい。どうも腑に落ちません。
プーチンの野望は、ロシアを経済的な大国にすることでしょう。軍隊を支えるのは強力な経済力なので、彼はロシアの産業を発展させたい。その一環として日本を利用したいのではないか。ただ心配なのは、日本の議員や官僚に左翼分子が紛れているので、我が国の利益を犠牲にしてロシアに貢ごうとするから危険です。軍事的圧力を持たない日本がロシアと対等に交渉できる訳がないので、せめて国内の裏切り者だけは排除したいものです。ロシアとの交渉は、レーガン大統領が言ったように、「信頼するが検証」が必要で、もし日本が経済協力をするなら、約束を保証する手段を用意しておくべきですね。