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B級映画がカルト的名画に

  映画ファンなら分かると思うが、偶然、何の気なしに観た映画が、いつまでも心に残るということが“たま”にある。ジェイン・シーモア(Jane Seymour)とクリストファー・リーヴ(Christopher Reeve)が共演した『ある日どこかで(Somewhere in Time)』がまさしくそうだ。公開当時、この映画は余り注目されず、興行収益も良くなかったので、ひっそりとロード・ショーを終えていた作品と言えよう。もちろん日本でも公開されたが、人気を博したという評判は聞いたことがない。ところが、しばらく経ってから、『ある日どこかで』は後々まで語り継がれる名作となった。理由は後回しにして、まずはこの意外なヒット作のストーリーを簡単に述べてみたい。

Somewhere in Times 4Somewhere in Times 13(左: コリアーとエリーズ  /  右: 亡くなる寸前のエリーズ)
  時は、1972年。脚本家志望のリチャード・コリアー(クリストファー・リーヴ)は、ミルフィールド大学で自分の処女作を上演してもらった。その後、彼の成功を讃えるパーティーが開かれたのだが、彼はある奇妙な出逢いを経験する。友人らと楽しく会話を交わすコリアー。ところが、ホールの片隅で自分をを見つめる一人の上品な老女に気づく。彼女はリチャードの方に歩み寄り、「帰ってきて(Come back to me !)」という言葉をかける。すると、持っていた懐中時計を彼の手に包み込むよう手渡した。彼女は他に何か言いたそうだったが、そのまま無言で立ち去って行く。奇妙な事に、会場の人々は誰一人として彼女の素性を知らなかった。一方、グランドホテルの自室に戻った老女は、リチャードの書いた脚本を胸に抱き、思い出の曲を聴きながら、その夜、眠るように息を引き取った。

  八年後の1980年、脚本家となったリチャードは、仕事と私生活に行き詰まり、原稿を求める編集者から逃げるようにして車で旅に出る。ドライブの途中、彼は通りかかったグランド・ホテルに目が止まり、吸い寄せられるようにそこに宿泊することにした。チェックインを終えたリチャードは、偶然にも、ホテル内にある歴史の資料室に辿り着く。好奇心をそそられて中に入ったリチャードは、ふと背後に熱い視線を感じた。何事かと後ろを振り向くと、そこには若くて美しい女性の写真が掛かっている。ところが、名札が外されており、誰だか判らない。それでも、そこホテルには「アーサー」というベテランの係員がいたので、リチャードは彼に尋ねてみることにした。すると、温厚なアーサーは鄭重に答え、その貴婦人が昔、ホテルの劇場内で公演をした女優であると教えてくれたのである。

  「ひと目逢ったその日から、恋の炎が燃え盛り・・・」と俗に言うが、「一目惚れ」は洋の東西を問わない。謎の美人女優を目にしたリチャードは、彼女のことが常に頭から離れない。夜になっても寝つけないくらいだから、恋の病は重症だ。そこで、悩めるリチャードは、彼女について調べることにした。調査の結果、写真の主は1912年頃に活躍した、人気女優エリーズ・マッケナ(ジェイン・シーモア)であると判明した。しかし、彼女は1912年以降活動を止めていた。どうも腑に落ちない。ということで、彼はエリーズの附き人であったローラに話を聞きに行く。すると、リチャードは彼女が1972年の夜に亡くなっていたことを知るのであった。

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(左: グランド・ホテル  / 右: エリーズの写真を発見したコリアー )

  リチャードは更に調査を進め行く。意外なことに、エリーズの愛読書は『時の流れを超えて』であったのだ。この本はリチャードに哲学を教えた恩師の著作である。この発見で、リチャードは彼女が口にした「帰ってきて」の意味を知ることができた。熱い思いに揺さぶられた作家の好奇心は留まる事を知らず、リチャードは再び別の発見に驚く。ホテルの宿泊名簿をめくると、そこに自分の名前が載っていたのだ。彼は1912年に今いるホテルに泊まっていたのである。つまり、あり得ないが、タイム・トラベルをしていたという事だ。さっそく、リチャードは時間旅行を研究するフィニー教授のもとを訪ねた。これまでの経緯を話し、どうしたものかと相談したところ、自己催眠の術があるという。教授曰わく、「現代の所持品を捨て、行きたい時代の品物を身に付けなさい」と。さすれば催眠術をかけて過去に遡れるというのだ。そこで早速、リチャードは1912年の頃に作られたスーツを着込み、当時の硬貨と懐中時計をポケットに忍ばせ、ホテルの一室で自分に催眠術をかけてみた。

  すると信じられない事だが、リチャードは1912年の時代にタイム・トラベルを果たす事が出来たのである。グランド・ホテルの直ぐ近くには、穏やかな波がうねる湖が広がり、その浜辺には並木道が延びている。柔らかな陽射しが降り注ぐ中、憧れの女性は木々の間に佇み、蒼く澄みきった風景を眺めていた。リチャードはゆっくりとエリーズの方へと近づく。エリーズは初対面の青年に気付くと、思わず「あなたなの?」と口にしてしまった。どうしてこんな言葉を口ずさんだのか、彼女にも分からないが、自然と出てしまったようである。エリーズは意表を突かれるが、まるで目の前に現れるのを予感していたかのような口調だった。

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(左: クリストファー・ムランマー  / 右: コリアーに出逢ったエリーズ )

  しかし、マネージャーのウィリアム・ロビンソン(クリストファー・プランマー)は、二人の出逢いを快く思っていなかった。彼はエリーズにこう予告していた。「ある男性が現れ、君の人生を変える」、と。その運命的男性こそがリチャードであった。まさしく、この予言を成就するかのように、リチャードはエリーズの人生を変えるこになる。ロビンソンはエリーズに張り付き、この“不吉な男”との接触を妨げようとする。が、彼女は分かっていながらそれを無視。リチャードを伴って馬車に乗り込み、つかの間のデートに出掛けてしまうのだ。浜辺で逢い引きを楽しむ二人は互いの胸中を探ろうとする。リチャードはエリーゼに“あの”言葉を発した真意を尋ねた。しかし、それは彼女にも解らない。ただ、直感的に「運命の相手」と判ったようなのだ。

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(左: 舞台に立つエリーズ  / 右: マネージャーのロビンソンとエリーズ )

  エリーズとの仲を深めたリチャードは、ホテルで上演される舞台を見ることにした。彼は劇場の観客席に坐り、主役の出番を待つ。すると、舞台に華やかな主演女優が現れた。エリーズは貴婦人の役を演じ、傍らにはメイド役の女優が立っている。このメイドはお嬢様に親が決めたフィアンセについて尋ねた。しかし、貴婦人は意気銷沈の様子。というのも、彼女の求婚相手は失望するような容姿で、彼女が嬉しいのは「婚約者の不在」であるそうだ。この発言を聞いて観客は笑い出す。間合いを見計らって、エリーズは演技を続ける。ところが、彼女は脚本に無い台詞を喋り出すのだ。突然の独演にメイド役の女優は戸惑う。これには舞台の前に隠れている脚本家もビックリ。さらに、舞台の袖で見ていたロビンソンも驚く。彼は唖然として、椅子から立ち上がってしまう。だが、舞台の上で演技を披露するエリーズは冷静だった。それどころか、とても演技とは思えぬ台詞を口にしたのだ。彼女は観客席の中央にいるリチャードに向かって話しかけ、独りで「夢に現れた男性」について語り始める。観客には謎でも、リチャードだけには分かっていた。エリーズは自分の気持ちを告白していたのだ。喜びで胸が高鳴り、瞳を輝かせながら恋心を伝えようとする彼女の姿は何とも美しい。こうして架空の恋人について話し終えると、彼女は元の脚本に戻った。

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(写真  / 逢い引きするコリアートウリーズ )

  恋愛という感情は、引き裂かれようとすればするほど、強く結びつくようだ。相思相愛の二人には周りが見えない。ロビンソンはエリーズの才能と美貌を惜しんだ。彼女は絶対スターになれる、と確信していたのだ。しかし、この資質もリチャード出現により危うくなる。確かに、この青年は魅力的だ。エリーズも心底惚れている。だが、もし、彼女がリチャードを失う破目になったら、未来のスターは傷つき、脆くも壊れて行くだろう。エリーズの女優生命を危惧したロビンソンは、リチャードを痛めつけ、無理矢理にでも彼女と別れさせようとする。翌日、ホテルでの公演も終了となり、劇団一行は次の場所へと移ることになった。予想もしない暴行を受け、意識を失っていたリチャードは、ようやく正気を取り戻し、エリーズの部屋をノックするが、時既に遅かった。意気銷沈するリチャードは、ホテルのポーチでうずくまっている。

  ところが、エリーズは仲間と一緒に立ち去ってはいなかった。丘の上に建つホテルでリチャードが落ち込んでいると、階下の庭園にエリーズが現れたのだ。恋人を見つけた彼女は、大声でリチャードに呼びかける。この瞬間、リチャードの全身に魂が蘇った。稲妻に打たれたかのように反応し、彼は全速力でホテルの階段を駆け下りる。彼は階段を上ってくるエリーズをしっかりと抱き寄せた。そして、エリーズも彼の胸に飛び込む。二人は現実を確認するかのように口づけを交わしていた。エリーズはロビンソンに背き、リチャードとの生活を選んだのである。さっきまで幽霊の如くうなだれていたリチャードとは別人のようだ。二人はホテルの一室で食事を共にし、失いかけた愛を育む。しかし、彼らを待ち受ける運命は残酷だった。

Somewhere in Time 1(左  /  ホテルの一室で食事を取るシーン)

  エリーズはこれからの生活に胸を弾ませる。そして、リチャードに新しいスーツも買ってあげようかと提案した。しかし、リチャードは流行遅れでも、その背広を結構気に入っている。彼女の前でおどけるリチャードは、ジャケットを羽織り、何気なくチョッキのポケットに入っていたコインを取り出す。ところが、その硬貨には1979年の刻印が・・・。これは致命的な誤りであった。手にしてはならない禁断の所持品である。リチャードは幸せの絶頂から、絶望の淵へと突き落とされてしまう。一瞬にして彼の目の前が暗くなり、悲鳴を上げるエリーズの顔が小さく消えて行くのだ。「リチャード !」と絶叫する彼女の声が非常に哀しい。

Somewhere in Times 10(写真  /  天国で再会する二人)

  1980年の現代に戻ったリチャードは青ざめる。悪夢以上の悪夢である。彼は再びエリーズの時代に戻ろうとした。古い硬貨を握りしめ、必死になって過去に遡ろうとする。しかし、何度やってもタイム・トラベルができない。どんなに意識を集中させても、目を開ければ現在のまま。それでも諦めずに、再び瞼を閉じる。だが、愛する女性は現れない。彼の瞳に映るのは空虚な部屋の風景ばかり。リチャードは心臓が引きちぎれるほど苦しむ。憔悴しきった青年は、食事を取ることもできず、絶望に打ちひしがれるだけである。彼は生きる屍(しかばね)に等しかった。心臓を動かす理由を失ったリチャードは、徐々に瀕死の状態へと陥り、ついに命の炎が尽きた。こうして、リチャードは再び旅に出る事になった。だが、二度と戻ることのない「永遠の旅に」である。だが、そこには手を差し延べるエリーズがいた。リチャードは彼女の手を握りしめる。今度は決して離さない。そんな言葉が聞こえそうなシーンで幕は閉じる。

懐かしいアメリカを舞台にした映画

Richard Matheson 1Jeannot Szwarc 1(左: リチャード・マセソン  / 右: ヤノット・シュワルツ)

  今では根強い人気を誇る“クラッシック映画”であるが、企画が持ち上がった当時、『ある日どこかで』というロング・セラーは、たった400万ドルの予算しかないB級映画であった。この映像はリチャード・マセソン(Richard Matheson)の小説『Bid Time Return』が原作となっており、後に売れっ子監督となるヤノット・シュワルツ(Jeannot Szwarc)に任される事となった。彼は大ヒット映画の『ジョーズ』や数々のTVドラマを手掛けている。例えば、日本でも知られているTVシリーズの『トワイライト・ゾーン』、『JAG』、『ボーンズ(Bones)』、『グレイズ・アナトミー』、『コールド・ケース』、『キャッスル(Castle)』、『ヒーローズ(Heroes)』などが挙げられる。

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(中央: 「グランド・ホテル」を再訪したジェイン・シーモア )

  映画というのは、必ずしも公開当時に「傑作」となる訳ではない。この低予算映画は批評家から散々な評価を下され、興行収益も僅か970万ドルと惨敗だった。ところが、ケーブル・テレビで放送されるや、視聴者に気に入られ、その評価は燎原の火の如く全国に広がったという。公開20周年を迎えた2000年には、出演者のジェイン・シーモアと車椅子のクリストファー・リーヴスが観客の前に現れた。2002年には映画の舞台となったグランド・ホテルにファンが集まり、ゲストに招かれたジェイン・シーモアが大歓迎を受けたのである。『ある日どこかで』を喜んだのは、配給元のユニヴァーサル・ピクチャーだけではなく、撮影現場となったマケッナ・アイランド(Mackinac Island)も来客万歳で大はしゃぎ。映画の撮影が行われたグランド・ホテルは観光の目玉となり、多くの見物客で賑わっている。この観光地はミシガン州のヒューロン湖に浮かぶ島で、低予算映画の恩恵を最も受けている場所と言えよう。大学教授の経済予測と同じく、映画批評家の判断は本当に的外れだ。

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(写真  / マケッナ・アイランドの風景 )

  それにしても、なぜ件(くだん)のB級映画がヒット作に豹変したのか? それは上品な恋愛物語だからかも知れない。第一、時代背景が良い。原作の小説だと、二人の出逢いは1896年のカルフォルニアであった。ところが、実写版では1912年のミシガン州マッケナ・アイランドとなっている。それでも、古き良きアメリカに違いなく、人々に「慎ましさ」と「謙虚さ」があった。現代の恋愛ドラマだと、女性が女性らしからぬ行為を平然と行い、男性でも恥ずかしくなる演技を披露している。例えば、以前紹介したTVドラマ『アフェアー/ 情事の行方(The Affair)』を観れば分かるだろう。イギリス人女優のルース・ウィルソン(Ruth Wilson)が、主役の「アリソン」を演じているが、彼女の不貞行為はしょうがないとしても、湖の波打ち際にしゃがみ込んで小便をするシーンなんか下品そのものだ。プロデューサーのサラ・トリーム(Sara Treem)とハガイ・レヴィー(Hagai Levi)は、こうしたシーンを挿入することで、ドラマの“リアリティー”を演出しているのだろうが、観ている方からすればカットしてもらいたい場面である。その他、アリソンに興奮する知人の中年男性が、彼女の前で勃起するシーンもあったけど、これだって吐きたくなるほど醜い。まったく、サラとハガイのユダヤ人コンビは、どんな躾を受けてきたのか? 世俗的なユダヤ人家庭には、道徳や品格を無視する親が多い。娘が左翼活動家になっても気にしないし、却って応援したりするから呆れてしまう。保守的な西歐系アメリカ人がユダヤ人を嫌ったのも分かるような気がする。

  公開当時、『ある日どこかで』が世間の話題にならなかったのは、批評家の感想が否定的であったからだ。試写会で作品を吟味した連中は、映画のキャスティングに文句をつけていた。酷評の的になったのは、クリストファー・リーヴである。映画評論家によれば、彼のムキムキな体が「脚本家らしくない」とのことであった。確かに、「スーパーマン」を演じたリーヴ氏の体は筋肉質で、背広を着ていてもその分厚い胸板が判ってしまう。デスク・ワークが中心の作家が、格闘家みたいな体じゃ違和感が拭えない。文系人間なら、もう少し華奢じゃなきゃ。したがって、銀幕で作品を鑑賞している観客は、“つい”赤いマントを羽織ったクラーク・ケントを思い浮かべてしまうのだ。

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( 写真 /  クリストファー・リーヴ)

  しかし、リーヴ氏が固定化したスーパーマンのイメージを払拭したかったのも分かる。彼がSFヒーローとはかけ離れたキャラクターを演じたかったのも無理はない。スティーヴン・セガールはどの映画に出ても、無敵の格闘家しか想像できないし、高倉健も寡黙な男しか要求されなかったのだ。生前、健さんは様々な役をこなすロバート・デ・ニーロに憧れていたという。デ・ニーロは犯罪サスペンスからラブ・コメディーまで見事に演じることが出来たけど、高倉健に志村けんみたいな喜劇役者は似合わない。田村正和も同じで、刑事や犯人、社長、部長、あるいは武士とか浮浪者に至るまで、どんな役があてがわれてもクールでハンサムな「田村正和」のままなのだ。田村氏とよく共演していた橋爪功の方が、色々な役に馴染んでいた。まぁ、田村氏のファンは彼の姿を観ることが第一目的なんだから、もし、監督が二枚目を相殺する役を与えたら田村氏を主役にする意味が無い。冴えない中年のオッサン役ならカンニング竹山で充分だ。『猫タクシー』の竹山は最高だった。

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(左: ジェイムズ・スペイダー  /  アンドリュー・マッカーシー /  ケヴィン・コスナー /  右: サイモン・ベイカー)

  映画の成功を左右する鍵となるのは、何と言っても脚本と配役である。いくら脚本が良くてもキャスティングがミスマッチだと、映画の魅力が半減してしまうからだ。劇の主人公が若い脚本家なら、マッチョなクリストファー・リーヴではなく、『セックスと嘘とビデオテープ』で主演を果たした「若い頃」のジェイムズ・スペイダー(James Spader)とか、『プリティー・イン・ピンク』のアンドリュー・マッカーシー(Andrew McCarthy)、TVドラマ『メンタリスト』で一躍人気者となったサイモン・ベイカー(Simon Baker)、日本でも有名なケヴィン・コスナー(Kevin Costner)といった俳優を起用すれば良かった。こうした役者なら繊細さを兼ね備えた青年を見事に演じることが出来たはずだ。クリストファー・リーヴとは対照的に、「ロビンソン」を演じたクリストファー・プランマーは素晴らしかった。不吉な予感に懸念を示すマネージャー役が板に附いている。こういう脇役がいると、人間模様に“明暗”が現れ、作品全体に締まりが出てくる。

  恋愛ドラマで「肝」となるのは、主人公を演じる俳優の質である。やはり、主役を張る女優に存在感と美貌が無いと映画に魅力が出てこない。監督の個人的人脈やマイノリティに媚びた人選を行ってしまうと、いくら脚本が良くても作品自体が台無しになってしまう。舞台女優を演じるジェイン・シーモアは本当に華やかだった。映画の中で、彼女のポートレイトを撮影するシーンがあるけど、カメラに向けた表情が実にいい。コリアーを目にして微笑む瞬間をカメラマンが捕らえ、素早くシャッターを押したから“例”の写真ができたのだ。未来のコリアーが資料室で目にした写真は、この時撮影されたものである。映画制作者の持論は色々あると思うけど、憧れの女性はやはり美人でなきゃ印象に残らない。多民族主義を広めたいハリウッドのプロデューサーも、TVドラマの主演女優を決める時は、それなりにインパクトのある白人女優を選ぶそうだ。特に、恋愛ドラマの主役に、無理やり黒人やアジア人を起用すると、シーズン2どころかシーズン1の途中で打ち切りとなる危険性があるらしい。アメリカのテレビ業界は非常にシビアで、当初13話か24話くらい予定された番組でも、視聴率が悪いと、数回でキャンセルとなるそうだ。例えば、FOXテレビが制作した『アンカーウーマン』は、たった2回放送されただけで打ち切り。余りにも視聴率が悪すぎたからである。主役のローレン・ジョーンズ(Loren Jones)はモデル上がりの女優で、一本立ちを狙っていたのに、結果は没落の切っ掛けになってしまったんだから、女優の人生とは分からないものである。

Dakota Johnson 2Dakota Johnson 5(写真  / ダコタ・ジョンソンとジェイミー・ドーナン )
  『ある日どこかで』は複雑怪奇なストーリーではなく、写真の女優に惚れた青年がタイム・トラベルを通して過去に遡り、憧れの女性に逢うという単純な恋愛物語だ。しかし、そこが人々に“ウケ”たのであろう。最近のハリウッド映画はネタが尽きたのか、やたらと奇抜な出逢いを設定し、異常なセックスシーンを盛り込んで話題とするようだ。例えば、英国を中心として前評判の高かった『フィフティー・シェイズ・オブ・グレイ(Fifty Shades of Grey)』は、美人女優のダコタ・ジョンソンと実力派のジェイミー・ドーナンを採用し、過激な性描写にBDSMを混ぜる始末。ちなみに、「BDSM」とは「縛る(Bondage)」「服従させる(Discipline)」「サド・マゾ(Sadism & Masochism)」の略である。( 詳しくは、昭和のエロ事師、村西とおる監督にでも訊いてくれ。)

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(写真  /  ダイアン・レイントアレック・ボールドウィン)

  一方、温厚なラブ・ロマンス映画でも退屈な作品が多く、有名な俳優をキャスティングしただけの駄作が結構ある。例えば、ダイアン・レイン(Diane Lane)とアレック・ボールドウィン(Alec Baldwin)が共演した『ボンジュール、アン(Paris Can Wait)』は、凡庸な筋書きで、これといった魅力は無い。既婚のアメリカ人女性がフランスを訪れ、フランス人男性(Arnaud Viard)とロマンティックな時間を過ごすという内容で、印象に残らない作品である。ちなみに、この映画を手掛けたのは、名監督フランシス・フォード・コッポラの夫人、エレノア・コッポラ監督である。ブラッドリー・クーパー(Bradley Cooper)とエマ・ストーン(Emma Stone)が共演した『ALOHA』も、劇場に足を運ぶほどの映画じゃなくて、看板俳優だけが目立つだけの作品だ。この映画は軍需産業に勤めるクーパーと空軍士官のストーンが織り成す恋愛を描いたコメディーだけど、内容は至って平凡で、共演者を有名人で固めただけ、という感じが否めない。空軍将校役にアレック・ボールドウィンを起用し、クーパーの元恋人役にレイチェル・マクアダムズ(Rachel McAdams)を添えている。また、『ゴースト・バスターズ』で人気者となった懐かしいビル・マレー(Bill Murray)も出演していて、ハワイの不動産業者で大富豪のカーソン・ウェルチを演じているが、いまいち魅力に欠ける映画であることは間違いない。案の定、日本公開は無し。ただし、インターネットでなら観ることができる。要するに、銀幕で観るほどの作品じゃないということだ。

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(左: ブラッドリー・クーパー  /  エマ・ストーン / レイチェル・マクアダムズ / 右: ビル・マレー )

  『ある日どこかで』はシンプルで悲劇的な最後を迎える物語であるが、登場人物の内面を丁寧に描いていたから、観客が感動したのだと言えよう。現在のハリウッド映画は、脚本を良質にするより、CG(コンピュータ・グラフィックス)を駆使して映像を派手にしたり、様々な人種を登庸して大勢の人々を動員することばかり考えている。配給会社の意を受けた制作者は、西歐系俳優ばかだと「白」過ぎるから、黒や茶色、黄色の役者も適当に混ぜなくちゃ、と配慮しているのだ。しかし、こんな下心が見え見えの作品じゃウンザリする。ハリウッド映画の衰退は、多民族主義と過度な商業主義にあるのかも知れない。我々だって、お金儲けの娯楽作品と分かっているが、もうちょっと「まし」にならないのか? 日本人としては、アメリカらしいアメリカ映画を観たい訳で、国籍不明のグローバル映画なんか観たくない。アメリカ人だって日本らしい日本画にだけ興味を示すじゃないか。米国市場に売り込むため、無理矢理、支那人やアラブ人、アフリカ人を混ぜ込んだ時代劇を作っても、アメリカ人はおろか日本人だって観ないだろう。日本が舞台の映画なのに、我々が観たら「えっ、どこの街なの? 香港かなぁ? それともマレーシア?」なんて作品じゃ嫌だよねぇ。
  



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