黒木 頼景
成甲書房
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父親の葬儀を優先
古代ギリシア人は公共精神に富んでいた。都市を構成する公民は、自分達こそが国家の支柱であるとの自負を持っていたから、外敵襲来となれば、命懸けで守ったそうである。自由を尊ぶギリシア人は、誰かの意思に従属することを好まず、自分の運命は自分で決めるのを「良し」とした。だからこそ、人の支配ではなく、法の支配に服するのである。自由人とは明確なルールに従って生きる公民であり、奴隷とは次に何が起きるのか判らず、不安な日々を送る下僕である。両班という主人(ドミヌス)に隷属する朝鮮の民は、いつ支配者の“気紛れ”で投獄されたり、処刑されたりするのか分からない。法が鞭となる支那でも同じだ。支那の皇帝が布告する法律は、民衆を管理するための道具に過ぎず、家畜を制禦する棍棒とよく似ている。したがって、支那に於ける「法の支配」とは「恐怖の支配」に等しい。皇帝が法の“下”ではなく“上”にある支那では、いつも臣民の首に匕首(あいくち)が突き立てられている、ということだ。
日本人は親孝行よりも主君への忠義を重んずる。しかし、朝鮮人は親孝行の優先が当り前。彼らが国王の権力に服するのは利益があるからで、公(おおやけ)に仕えることが名誉であるからではない。支配者はいつも暴力装置の管理者で、民衆の安寧を願って存在する訳じゃないから、臣民としては面従腹背で充分と考える。時の権力者は天下の經綸に勤しむ護民官というよりも、むしろ民衆の搾取を楽しむ匪賊の親玉といったところだ。その結果、民衆は権力への警戒心を常に持ち、血縁だけを頼りとする。身内の相互援助が行動規範となってしまえば、親孝行が最高倫理になるのも当然だ。彼らが異常なまでに先祖供養を重要視するのも、一族の繁栄こそが最大の安全保障になっているからだろう。朝鮮人と結婚した日本人女性が仰天するのは、夫の親兄弟とか親戚一同が祖先の墓に熱狂していることだ。生きている嫁をそっちのけで、寝ても覚めても死体を崇めているんだから呆れて物が言えない。虐げられた日本人妻なら、「こいつら全員、北鮮のミサイルであの世に行っちゃえ !」と願ってしまう。(クズ野菜を用いたキムチの漬け方くらいで、姑からギャアギャア怒られたら、「死ね、この糞ババァ !」と思ってしまうじゃないか。)
前回紹介した金容雲教授は、朝鮮民族が国家の一大事より、自分の「家」と「親」を選んでしまうことを歎いていた。彼は著書の中で、李朝末期に義勇兵を率いた李麟栄(リ・インヨン)の話を述べている。李大将は1907年、日本人による閔妃殺害に憤慨し、日本に対して兵を挙げたという。彼は壮大な宣言文を掲げたそうだ。
同胞よ ! 我々は団結して祖国のために身を捧げ、我が独立を回復せねばならない。我々は全世界に向かって野蛮な日本人の不正と乱暴を訴えねばならない。奴らは狡猾で残忍だ。進歩と人類の敵である。
我々は全ての日本人と、そのスパイの親日へつらい分子、および野蛮人の軍隊を斬り捨てるために全力を尽くさねばならない。(金容雲 『韓国人大反省』 p. 75)
この檄文が発せられると、全国各地で活動していた義兵が、漢江上流の揚州に集まり、最も人望が高かった李将軍は、将兵の推薦を受けて全国13道を束ねる総司令官に就任したそうだ。西洋式の銃を持つ李朝の旧軍人三千が立ち上がり、彼らを含む約1万の兵力が、朝鮮の天敵である日本に戦いを挑もうとしたというが、そんなのは無謀というか、集団自殺の一種じゃないのか。金教授には気の毒だけど、1万人の軍隊といっても、そんなのは不平分子の寄せ集めで、西洋式の軍事訓練を積んだ兵隊ではあるまい。どちらかと言えば、烏合の衆と呼んでいい。いくら反日闘争に燃えたといっても、尚武の精神で鍛え上げられた日本人の前では、五月蠅(うるさ)いだけのガマ蛙ていどで、斧を振り上げる蟷螂(カマキリ)といい勝負だ。朝鮮兵と比べれば、会津藩士の娘の方が強いんじゃないか。
「憎い日本人を倒せ!」と威勢はいいが、朝鮮人というのは「肝心」な時に“とんでもない”失態をやらかすから、日本人はしばしば唖然とする。朝鮮兵がまさに蹶起(けっき)しようとした“その時”、李大将のもとに父親の訃報が届けられたという。彼は直ぐさま出兵中止を命じ、その日のうちに慶尚北道にある故郷の聞慶(ムンギョン)に向かい、父の葬儀を執り行ったそうだ。ここまでなら、彼の部下も納得できた。人情として理解できるからだ。ところが、次の行動が如何にも朝鮮人らしかった。恙(つつが)なく葬儀を終えた李大将は、麾下の参謀達に向かってこう述べたという。
国に対し不忠なる者は父に対して不孝であり、父に不孝なる者は国に不忠であるから、道は一つだけだ。それゆえ私はこの国の孝の基準に沿って三年間喪に服する。その後再び十三道の倡義軍を集め、日本軍を掃滅する。(上掲書 p.76)
日本人がこんな宣言を聞けば驚いてしまうが、朝鮮軍の将兵は儒教で雁字搦めとなっていたから、指揮官の言葉を正しいと思ったそうだ。戦(いくさ)のタイミングを見事にハズすところなど、「なるほど、朝鮮人らしいなぁ」と妙に感心してしまうが、金教授はこの発想を朝鮮人の原型に深く根ざした「伝統的倫理感」と評していた。また、金教授は李大将を「愛国者」と呼んでいるものの、決定的な瞬間に「国家」ではなく「家門」を選んでしまった、と惜しんでいる。朝鮮人というのは権力を握る独裁者から、掘っ立て小屋に暮らす貧民に至るまで、自分の事しか考えない。「独立闘争?」の勇士と思われている李承晩も、朝鮮的思考で亡命していたから、ある意味“伝統主義者”なんだろう。
日本人の役人にも公金を横領する者や、合法的に浪費する奴がいるから、朝鮮人のことを一方的に馬鹿にできないが、朝鮮人の公金流用には少々驚かされる。例えば、彼らは会社のお金を横領して祖先の墓を建ててしまうそうだ。日本ではさすがに“これ”は無いだろう。盆暮れ正月にだって墓参りを忘れる者がいるし、休暇を利用して海外旅行に出掛けてしまう者もいるくらいだから、日本人に墓地への執着は無い。(落語家の笑福亭鶴瓶は、頻繁に師匠の墓参りをするそうだけど、こうした日本人は稀だ。最近の坊さんなんか、クリスマス・イヴにディズニーランドを訪れ、恋人とデートする者がいるというから、修行や成仏は二の次で、「煩悩」ばかりに熱心なのか、と思えてしまう。) 金教授は全斗煥(ぜんとかん)・元大統領の例を挙げていた。全斗煥は大統領に就任するや否や、故郷にいる両親の墓を仰々しく建てて、そこに軍を動員し、ヘリコプターの着陸場まで造ってしまった。(上掲書 p.77) もう、目眩がしてくる。そんなに墓が大切なのか? 他人のゼニを使って両親と先祖を敬うなんて異常だ。しかも、それを「倫理的善」と思っているんだから、まったく朝鮮人は救いようがない。
支配者の空虚な約束
様々な人種や欲望が渦巻くニューヨークで、ちょいとクセのあるアメリカ人が「俺を信用しろ(Trust me !)」と言ったら、決して信用せぬことが肝心だ。これなら、キャバクラの姉ちゃんに入れ上げている日本のオっさんだって解る。妖艶な酌婦が「ほかの人とは付き合ってないの! あなただけ !」と囁いても、それを真に受けると痛い目に遭うから用心する。だって、こうした女性が本当に愛しているのは、福澤諭吉の顔が載っているお札だけなんだから。支那人はもっと猜疑心が強い。普通の人間がコロっと詐欺師に変身する暗黒大陸では、クロ詐欺、シロ詐欺、鵺(ぬえ)的な鷺(さぎ)までいるから油断大敵、支那用心。朝鮮も同じで、特に民衆は権力者の言葉を信用しないそうだ。役人を頭から信じているのは日本人くらい。TVドラマだからしょうがないけど、刺青をした遠山の金さんが庶民の味方なんて、アメリカ人もビックリだ。アメリカの裁判官で刺青を彫った人が現れたら、ロシアン・マフィアの親戚みたいに思われちゃうから。
(左 / 申性模)
「困った時のお上頼み」は日本だけ。朝鮮人には想像できない。鮮戦争の時など、北鮮軍を目の前にしたソウル市民は、ずっと不安に苛(さいな)まれていたという。当時、国防省の申性模(シン・ソンモ)という責任者が、ラジオを通して何回も「ソウルを絶対死守する。安心せよ !」と繰り返したそうだ。しかし、財産と権力のある者は一足先に逃げていた。(まさしく、支那人の舎弟は俊敏だ !) 憐れなのは一般の民衆である。彼らは逃げようにも行き場が無く、この空虚な大言壮語を信じるしかなかった。一方、太鼓判を押した連中は、ソウル市民を見棄てて、自分だけ助かろうと逃げてしまった。しかも、自らの保身を考え、退路に当たる漢江(ハンガン)の橋まで爆破してしまったのだ。さぁ~すが、朝鮮の為政者はやることがひと味違う。彼らは「死んでも命が助かりますように !」と祈るんじゃないか。いくら「同胞」と言ったって、「他人」は所詮「他人」だからさ。
言っちゃ何だが、朝鮮の大衆はいつも不幸だ。百貨店を建てれば崩壊するし、国家を創れば混乱となる。北鮮軍に追い詰められた人々の中には、人民軍に虐殺されるのを避けるため、漢江に身を投げる者もいたという。悲劇が年中行事となる朝鮮ならではの光景だ。とても信じられない話だが、後にソウルに戻ってきた政府高官らは、ソウル市民に謝罪するどころか、逆に残っていた人々を叛逆者扱いにしたそうだ。朝鮮人の権力者に「恥知らず」という叱責は通用しない。だって、最初から恥の意識が無いんだもん。この罵倒は名誉心を叩き込まれた人に向けての非難で、「生きてこそナンボ」と考える人には馬耳東風である。戦乱の卑怯者たちは、呆れたことに脱走仲間と絆を深めるべく、「渡江派」とか「残留派」なる派閥を形成したそうだ。
日本の高級官僚と似ているが、アジア人の権力者に失態の責任を自ら取ろうする者は極めて少ない。とりわけ、朝鮮戦争の時は皆無だった。ただし、激昂する世論を宥めるために、一人の高級将校を生け贄にしたそうだ。命令に従って橋を爆破した軍人は、屠殺を厭がる羊のように抵抗するが、あっけなく銃殺刑へ。後年、「命令を執行しただけなのに !」と悔しさを滲ませる遺族は、国を相手取って訴訟を起こしたそうだが、その結果は曖昧にされてお終いなった。(上掲書 p.83) いやぁ~、「デス・イズ・コリア」を象徴するような話だ。我々は朝鮮に生まれなくて良かった。どおりで在日朝鮮人が帰国しない訳だ。
「ソウルを死守する」と喝破した申性模(シン・ソンモ)は、首を括ってお詫びするどころか、例の「裏切り」が露呈した後も健在であった。それどころか、彼は悪名高い「居昌(コチャン)事件」を隠蔽しようとしたのだ。1951年2月に起きたこの事件は、南鮮軍による民間人の大殺戮で、今でも南鮮国民は恨みを抱いている。南鮮軍の第11師団に属する第9聯隊から派遣された第3大隊は、共産ゲリラや共匪パルチザンを根絶やしにするため、驚くべき軍事行動に出た。倫理観を喪失した将兵は、居昌郡の村人を強制的に山へと追い込み、怯える民衆に集中射撃を加え、一人ずつ確認しては殺しまくったそうだ。朝鮮兵による民間人の嬲(なぶ)り殺しには年季が入っている。日本人の我々にも、容赦無く攻撃する姿が目に浮かぶじゃないか。か弱い女子供が相手だと、朝鮮人は勇ましくなるからねぇ。
共産ゲリラの掃討作戦と言っても、一掃したのは丸腰の民間人である。犠牲者のうち10歳未満の子供が313名で、11歳から50歳までの者が340名、60歳以上の老人が66名であったという。実に、700名以上の一般人を殺したことになる。それなのに、当時の国防長官であった申性模は失脚しなかった。なぜか? それは、彼の特技にあった。申長官は「嘘泣き」の名人であったそうで、大統領の前でも必ず感激の涙を流したそうだ。(上掲書 p.84) たぶん、彼は上官の歓心を買うため、見事なまでに憂国の涙を流し、自分が如何に真摯な愛国者なのかをアピールしたのだろう。もしかすると、ルイ13世に仕えたリシュリュー枢機卿(Cardinal de Richelieu)も顔負けの名演技を披露したんじゃないか。
だいたい、共産軍のパルチザンが居たのなら、一般人を保護してから掃討作戦を実施すべきだ。どうして無辜の民を纏めて虐殺するのか。日本人のような文明人には解らない。後に明らかとなったが、当時の村には、壮年男子がほとんど居なかった。つまり、どうみてもゲリラに見えない女子供と老人ばかりであったのだ。息を吐くように嘘をつく朝鮮人なので、倫理的に責めてもしょうがないが、ある虚偽報告は注目に値する。住民の中には軍人や警察の家族も居たのだが、一人の警察官がある軍人の妻を暴行したらしい。そこで、村人が彼を責めると、この暴行魔は後の処罰が怖くなり、村人全身を「アカ」であると報告したそうだ。その結果は推して知るべし。朝鮮人の「性奴隷伝説」を信じている愚かな日本人は、よくよく肝に銘じるべきである。朝鮮人の「証言」には嘘がたくさん混ざっているのは“毎度”のことだ。「混ざっている」というより、嘘の大海に「真実」らしき「小さな嘘」が混じっていると考えた方がいい。朝鮮人の考え方だと、10リットルの水に1mgのレモン汁を垂らしたら、もう「精力絶倫、ビタミンCが豊富な栄養ドリンク」になってしまう。そもそも、大金を貯めていた「性奴隷」なんて、信じる方が馬鹿である。
朝鮮の悲劇は人気ドラマのように続く。1960年の4・19騒動で民衆政の風が吹き荒れ、各地で虐殺された者の家族が遺族会を結成したそうだ。ところが、1961年の5・16クーデタで、遺族たちが思わぬ被害に遭ってしまった。というのも、遺族会の幹部らが全員「赤」のレッテルを貼られてしまい、検証もされず処刑されてしまったのだ。盧泰愚大統領の時になって、ようやく事件の一端が明らかとなったが、肝心の部分は隠されたままで、実質的な反省は無かったという。「真相」を徹底的に究明すると、責任者が炙り出されてしまうから、狡猾な連中は先手を打って真実を揉み消そうとする。これだから、庶民はいつも泣き寝入りとなる。金教授はこうした蛮行を行う将校を取り上げ、彼らの潜在意識を分析していた。曰わく、絶対権力を持つ者は常に他人を粛清することができる。そうなると、自分と関係無い村人などは“赤の他人”だから、自分の都合で「敵」と見なしても構わない。我々にはびっくり仰天の思考様式だが、ぶっきらぼうな朝鮮人を見れば納得できる。彼らの国では「諦めること」が生きることの基本なのだ。
(左 / 戦争で家族を亡くした朝鮮人たち)
日本人は“無意識的”に隣人や同胞を「ひと様」「よそ様」と呼んで、「気配り」や「気遣い」を心掛けるが、朝鮮人には我々が“当然”と思う“感覚”が無い。同じ村に暮らす住民同士でも、姓や本貫(宗族集団)が異なれば赤の他人だし、両班と常民、奴卑との間にも歴然とした身分格差がある。日本人には解りづらいが、朝鮮人だと同じ姓の「金」でも本貫が違えば「よそ者」だ。例えば、金海金氏と善山金氏は別々の祖先を持つし、単に「李」氏といっても、慶州李氏なのか全州李氏なのか判らない。本貫が違えば同じ「金」という氏族名を持つ男女は結婚できるが、同じ本貫だと近親相姦みたいで忌み嫌われてしまい、恋愛に発展しない場合がある。日本人は恋人同士が「佐藤」とか「鈴木」という同じ姓でも気にせず、「結婚しても名字が変わらなくて良かった」くらいにしか考えない。
朝鮮人には賤民や白丁(ペクチョン)の子孫が多いのに、それを隠して系譜を自慢するのが大好きだ。金容雲教授も述べていたが、朝鮮人の中には、大した祖先でもないのに、尊大に振る舞って矢鱈と他人を小馬鹿にする奴がいるそうだ。こんな頭を持った人間が権力の座に就けば、どんな事をしでかすか容易に想像がつく。偉くなると、たちまちその差別意識を覚醒させ、地位と財力を背景にして競争相手や民衆を弾圧するそうだ。朝鮮人はこうした権力濫用に何ら良心の呵責を持たない。彼らは割と簡単に容疑者を拷問に掛けられるし、罪無き農民を虐殺できる。金教授によれば、死体の数で出世しようと考える輩(やから)もいるらしい。日本人だと、「おいっ! それはネェだろう !」と叫んでしまうが、済州島でも光州でも、大量虐殺を犯した指揮官が勲章をもらっているくらいだから、朝鮮人の「常識」は我々の理解を超えている。金教授曰わく、「朝鮮民族は、病的意識のせいで、互いに殺し合った」そうだ。(上掲書 pp.88-89)
つくづく思うけど、日本人は朝鮮に生まれなくて本当に良かった。あんな国に生まれ落ちたら、幸せな生活どころか、人間の尊厳すら維持できない。日本の軍人は国家国民の為に命を捧げたし、守られた国民は心の底から英霊に感謝した。天皇陛下に至っては、まさしく生き神様。朝鮮人や支那人が自慢する聖人君子など、日本的価値観で測れば、詐欺師か偽善者の類いだ。孔子だって漢字を沢山知っている知識人程度で、人格的には日本の庶民くらい。「まごころ」の試験を課せば落第生となる。日本人は上手な漢詩を詠めなくても、人間観察の名人だから、孔子や老子に逢っても感動しないだろう。大阪のオバちゃんなら「なぁ~に、あの人。偉そうにしちゃってさぁ。イヤねぇ~」で終わり。さすが、世界最強の人間通は違う。オレオレ詐欺にも引っ掛からない。電話越しに偽息子が「お金を振りこんでくれ !」と頼んできても、「そんなの知らん ! うちが貰いたいくらいやわぁ!」と切り返すんだから、詐欺集団もガッカリする。それでいて人情に厚いときてるから、支那人にはチンプンカンプン。まぁ、馬鹿な大学教授が支那人のホラ話に騙されているだけだ。
何だか訳の解らぬ話になったげと、とにかく朝鮮人が朝鮮人と共に国家を創れば、蟻地獄しか誕生しないということだ。北鮮は「地上の楽園」と称した生き地獄であり、隣の南鮮は独裁国に面した煉獄である。朝鮮人はそのどちらにも住みたくないから、海を隔てた敵国(桃源郷)に逃れようとするのだ。もっとも、こんな異邦人を迎える我が国は大迷惑である。公徳心が欠落した賤民を、税金を使って「国民」にしなければならないからだ。嫌いな「日本国民」になりたがっている朝鮮人は雲霞の如く存在するが、「南鮮国民」になりたがっている日本人は何名いるのか? 南鮮に帰化したいと望む日本人の数を教えもらいたいものである。たぶん、韓国政府は「秘密」にするんだろうなぁ。南鮮車の販売台数より少なかったら恥だもんね。
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コメントを頂き感謝申し上げます。日本人は謀略戦に疎いので、帰化人や外国人の親を持つ混血児に対し厳格な監視を取れずにいます。日本に敵対する支那や朝鮮は、スパイ・ネットワークを構築する際、まず日本国内に暮らす支那系や朝鮮系の住民に接触を図るはずです。やはり、同じ民族のバックグラウンドを持つ者を協力者に仕立てた方が安心できるし、効率が良い。米国に派遣された支那人工作員は、FBIに手先を送り込むため支那系アメリカ人を利用したそうで、いきなり白人を抱き込むようなことは少ないそうです。異民族を協力者にするのは大変だし、いつFBIに寝返るのか分からないから、支那人スパイも心配なんでしょうね。
日本には外国勢力の協力者が多いので、少なくとも怪しい在日外国人や帰化人の家族くらいは監視対象にすべきです。本当は、法務省が帰化審査を厳しくし、なるべく申請を拒絶すべきなんですが、「民族差別」という非難が怖くて簡単に許してしまうようです。外国人に国籍を与えてしまうと「日本国民」になってしまうので、監視や捜査がしにくくなる。やはり、異民族を排除するのが治安維持とって有効なのかも知れません。