教科書に載せて全日本人に知らせたい現代史 支那人の卑史 朝鮮人の痴史
黒木 頼景
成甲書房

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日本人が国家防衛を考えない理由

  日本のマスコミ視聴率の取れる刺戟的な事件のみを取り上げ、左巻きのゲストを招いて軽佻浮薄なコメントを流布する。まぁ、無料放送の娯楽番組だから仕方ないが、影響力の大きい政治宣伝だから黙認すことはできない。最近の話題を拾えば、オウム真理教が残した闇の真実だ。麻原彰晃が死刑になっても、教団が持っていたロシアや北鮮との太いパイプは明らかにされていない。しかし、ワイドショーの司会者は、「赦しがたいテロ事件を忘れてはなりません !」と飽きもせずに説教を垂れる。だが、本当に重要なのは、その惨劇を引き起こした原因だろう。どうして、公的機関はカルト集団に及び腰だったのか? テレビは触れなかったが、巷では創価学会の存在が囁かれていた。公安や警察はオウムの「いかがわしさ」に気付いていたが、「疑惑」だけで宗教組織にメスを入れるなんて恐ろしくてできなかったのだ。隠然たる権力を有する公明党議員から、「国家による宗教弾圧だ!」と非難されるのは目に見えている。だから、「怪しい」と分かっていながらも放置したのだろう。しかし、案の定、創価学会を見倣って麻原は信者を衆院選に立候補させた。結果は惨敗だったけど、もし麻原が長期計画を立てて、慎重に政権奪取を謀っていたら戦慄の状態になっていたことだろう。

  また、拉致事件を巡るマスコミの言動も同じ程度。拉致被害者の救出が滞っていると、局アナが慎重な面持ちで「一刻も早く事件の解決を望みます」と口にする。だが、こんなセリフなら、子供でも言えるじゃないか。テレ朝やTBSは、下らない決まり文句を繰り返していないで、自分達が延々と述べてきた「軍国主義反対!」を謝罪すべきなんじゃないか。世界中の国々が軍隊を持っているのに、我が国だけが他国の正義を信頼して“丸腰”になるなんて“おかしい”だろう。NHKや朝日新聞の本社および支店には大勢の警備員が配置されているが、どうして「善良」な一般人を信用しないのか不思議だ。日本という国家は戸締まりをせず、オープンで「無防備がいい」と言っているのに、どうして自社ビルは「厳重」に防衛しているのか? NHKなどは受信料を払っている「日本国民」は門前払いで、たとえ正当な抗議であっても絶対に門の通行を許さない。昔、中村粲先生が度重なる反日番組に憤慨し、会長宛に質問状を書留で郵送したが、それすらNHKは拒否した。呆れるほどの防禦だ。お金は取るけど苦情は受け付けないNHK。しかし、朝鮮人の「お言葉」なら大歓迎。(昔、筆者が「ハングル講座」の内容に文句をつけたら、担当者が筆者を「在日北鮮人」と勘違いして、やたらと丁寧な対応だった。しかし、筆者が「日系日本人」と判明するや、手のひらを返したように冷たくなった。「皆様のNHK」は朝鮮人に向けたキャッチフレーズなのかも知れないぞ。)

  とにかく、なぜ日本の民衆は軍隊の創設を許さないばかりか、敵国の支那や朝鮮に対して卑屈なのか? その理由の一つに挙げられるのは、「国家意識の喪失」である。しかも、これを補強するかのように、教育界やマスコミ、官庁、政財界、および藝能界にまで「日本人は根っからの悪、国家自体も本質的に悪」というイメージが刷り込まれている。でも、支那やロシア、南北朝鮮を見れば、どちらが悪の帝国なのか一目瞭然じゃないか。しかし、進歩的知識人が糾弾するのは決まって日本。とりわけ、我が国を憎む左翼教師は、日本が基本的に犯罪国家と決めつけ、国民を戦争に駆り出し、大勢を死に追いやるという前提から議論を進める。こうした考えでは、反論しようにも糸口が見つからず、温和な愛国派だと諦めるしかない。そもそも、支那人や朝鮮人が“侵掠戦争”の被害者という見解がおかしい。大陸の支配を目指す軍閥は、支那の民衆が何人死のうが構わない。学校教師は何かと言えばアヘン戦争を持ち出し、惨敗を喫した支那人に同情するが、末端の支那人からすればイギリス人の支配は天の恵みだ。秕政と搾取しかしない支那皇帝と法治主義を守るアングロ・サクソン人の「どちら」が“まし”なのか一目瞭然じゃないか。日本に統治された朝鮮人だって、李朝の「虫けら」から、「単なる人間」、「日本の隣人」、人も羨む「大日本帝國の国民」へと昇格し、夢のような文明生活を体験できたのだ。貧民の小倅だった朴正煕なら、この事実に反対できない。いや、諸手を挙げて賛成だ。分からないのは大統領になった娘だけ。

Mao 1(左  /  毛沢東)
  我が国の歴史教育は本当にアホらしい。マスコミも一般国民に向かって“際限なく”謝れと言う。しかし、毛沢東を見て罪悪感を持つ者がいるのか? 日本にやって来る下っ端の支那人でさえ兇暴なんだぞ。ところが、そんな連中でも怯えて小便をちびるのが赤い皇帝。毛沢東のような支配者になると、1人の叛逆者を捕まえるために、1億人の民を殺しても平気なのだ。いちいち捜索するのが面倒なら、村ごと、都市ごと、省ごとの規模で皆殺し。その方が楽だからねぇ。でも、日本では絶対に無理。いくら何でも、総理大臣が新宿に潜伏する工作員1名を抹殺するために、空爆で全住民を焼き尽くすことはできない。第一、こんな虐殺は天皇陛下が許さない。しかし、毛沢東を尊敬する習近平だと出来そう。この独裁者なら、ウーロン茶を啜りながら「適当にやっとけ!」と命令するんじゃないか。そう言えば昔、ベトナム戦争で兵卒に発破(ハッパ)を掛けるため、アメリカ軍の指揮官が「グック(ベトナム人の蔑称)どもの命なんかハンバーガー以下なんだぞ !」と言ったそうだが、支那人が聞いたら「えっ、そんなに高いの!?」と驚くだろう。支那人の命だと、100名まとめたってビッグマック・セットに及ばないんだから。もしかしたら、「支那人3名」で「ポテト・フライ1本」分だったりして。案外、これくらいが現実の相場なのかも。

  話を戻す。日本人が国家意識に欠けることは前々から言われていたことだ。昭和50年頃に、高木書房が対談本をシリーズ化していて、その中に『国家意識なき日本人』という一冊があった。保守派論客の福田恆存(ふくだ・つねあり)や京大教授の勝田吉太郎、高名な哲学者の田中美知太郎など、著名な保守派知識人が日本について語っており、今でも色褪せない意見となっている。そして、この対談本の中にちょいと気になる議論があった。中央大学教授を経て早稲田大学の客員教授になっていた武藤光朗(むとう・みつろう)が国家暴力論を述べており、その基本認識が如何にも左翼インテリを臭わすものであったのだ。

  「国家というのは巨大な暴力装置」というのは、よく政治学者から耳にする。なるほど、国家は社会秩序を維持するために警察力を用いるし、究極の処罰として死刑制度を残している。また、戦争に備えて普段から徴兵(血税)を行うし、有事の際は国防のため「死んでこい!」と“強制”できるから、あながち嘘ではない。左翼の大学教授は、「ゲバルト(暴力 / Gewalt)」というドイツ語が大好きで、これは権力とか支配を説明するときに用いる言葉だ。武藤教授によれば、物理的な強制力(ゲバルト)が国家の根底にあり、その行使には正当性を持たせなければならないという。そして、この正当な暴力を行使する独占的な主体が国家であるそうだ。武藤氏は次のように述べていた。

  ・・・国家というものが、人間の基本的な状況を形づくる要素としての暴力に根ざしていることろに特徴があるということです。(『国家意識なき日本人』高木書房、昭和51年 p.223)

  確かに、我々人間の内面には「悪魔」の要素が潜んでいるので、武藤氏がこうした性悪説に基づくのは“もっとも”なことである。しかし、対談相手の福田恆存は、この「暴力」という日本語訳に不満で、「ケバルト」は決して邪悪な「力」とは規定できないのに、この和訳だと恰も「不正な力」という響きになってしまうと述べていた。国家を維持する為の「力」を「暴力」と呼んでしまうと、何か正当性に欠けた「ダーク・フォース(dark force)」みたいに思えてくるからだ。もちろん、中央政府は有無を言わさぬ権力を持たないと国家を運営できないから、「力強い統治機関」になるべきだけど、「暴力を用いる巨大組織」じゃ、マフィアかヤクザみたいに思えてしまう。もっとも、「暴力装置」としての日本国に反抗した元左翼学生が、いけしゃあしゃあと大学教授になっていたから、「ゲバルト」を「暴力」と訳したくなるのも当然だ。しかも、彼らには「ゲバ棒」に対する特別な“愛着”がある。「悪魔の手下」である機動隊に立ち向かった“勇者”が、国家権力や警察機構を「弾圧者」と考えても不思議ではない。ただし、普通の庶民は警察官を尊敬しており、全共闘の学生どもを「不届き者」とか「親の脛(すね)をかじった碌でなし」、あるいは「甘ったれの穀潰し」と思っていた。

  学生運動上がりの教師には、国家を「敵対者」と考える者が多い。例えば、中学や高校、大学に巣くう左翼教員は、本能的にスパイ防止法に反対する。たとえ、国内に潜む外国の諜報員や工作員を摘発するためと説明しても、「絶対に嫌だ!」と反対し、「戦前の日本に戻すな!」と喚き散らす。テレビ局や新聞社に潜り込んだ左翼分子も、「治安維持法の復活だ!」と悲鳴を上げる。しかし、なぜ彼らはこんなにも反撥を覚えるのか? それは、彼らが左翼細胞やコミンテルンの支援者だからだ。つまり、治安維持法の対象者を尊敬する極左、摘発される側に組する共鳴者、密かに革命を切望する謀反人だからである。普通の日本人は警察を「頼もしい味方」と考えるが、反日分子は自分達を逮捕する「弾圧部隊」と見なす。確かに、あの忌まわしい戦前の共産党に所属し、朝鮮人と一緒になって「プロレタリア革命の遂行」や「天皇制廃止!」、「ブルジョア社会の打倒!」を掲げる連中からすれば、特高は赦しがたい政府の手先で、仲間をしょっ引く秘密警察みたいなものだ。

  それでも、大人になって“きちんと”過去の暴挙を反省し、カタギの教授になった者はいい。例えば、学習院大学の教授になった香山健一とか、東大の駒場村で経済学を教えるようになった西部邁とかは「マシ」な方だったが、過去の清算をせず、“ちゃっかりと”民間企業や地方大学に潜り込んだ連中は、昔の頭を引き摺ったままだった。とりわけ不愉快なのは、就職活動に精を出した「裏切者」である。彼らは急に態度を改め、汚らしい長髪を切って「善良な学生」に変身するや、澄ました顔で面接に臨んでいたのだ。でも、本当に醜いのは大学に居坐った残党だ。反省もしない変節漢は肝心の学問よりも、学内政治や派閥作りに熱心で、自分に忠実な大学院生を子分にし、講師から教授に昇進させることで「弟子」を増やしていた。まるで歌舞伎界の世襲みたいだけど、真っ赤に染まった大学が未だに左翼の巣窟になっているのは、こうした縁故主義が教授会の常識になっているからだ。例えば、法学部だと横田喜三郎とか芦部信喜、宮澤俊義が汚染源となり、その流れを汲む小林直樹とか高橋和之、長谷部恭男、辻村みよ子などの極左学者が多く誕生した。当然ながら、この淀みは当分のあいだ浄化されることはない。肥溜めに浮いた「黄色い汁」が、八ヶ岳の「湧水」にならないのと同じ理屈だ。

  これだけでも酷いのに、我が国の法曹界は護憲学派と人権思想が混ざっているから、サリン並の猛毒となる。ただし、法学部の一般学生は学者志望の者とはチョット違う。民間企業に就職した卒業生は、一応、世間の荒波に揉まれるから、まともな感覚を備えている。でも、大学教育の後遺症が残っているので、選挙の時に憲法論議が湧き起こると、急に性格が変わってくる。彼らは在学中、毎回、無防備のまま左巻きの講義を聞いていたから、頭の中枢を冒されているのだ。優等生になると重症で、高純度のヘロインを打って痙攣を引き起こした患者というより、毎日少量の水銀を飲んで歩行障碍や視野狭窄に陥った中毒者に近い。毒を飲んでいる意識は無いが、症状は確実に重くなっていて、卒業する頃には頭がクラクラだ。大抵の卒業生は思想的な水銀中毒になっている。朝一杯のココアならいいけど、毎日、水銀入りの味噌汁だと体に悪い。これに「朝日新聞」というプリメントが加われば、もう一生治らない成人病になる。世の中には、意地悪な上司のお茶に雑巾の絞り汁を入れる女子社員がいるそうだが、無垢な学生に水銀入りのコーヒーを勧める学者はもっとタチが悪い。

狂った変態のフランス哲学者

  とにかく、左巻きの大学教授というのは、教え子の頭から常識を取り除いて、その飽きスペースに害毒を流し込む。ただ、「大学院教授」とかの名刺の裏に、「狂人」とか「変態」と書いていないから判らないだけだ。支那産の養殖ウナギを「国産天然モノ」と表示する偽装ラベルと同じである。つくづく憐れに思えてくるが、一般学生は受験勉強しかしていないから、世間の常識どころか漫画の知識さえ無い。例えば、一般教養で政治とか哲学の授業を取ると、フランスの気違い思想家であるジャン=ジャック・ルソーが唱えた社会契約説を吹き込まれてしまう。戦後の大学には保守派の教授がいないから、一般学生はこの善人に見えるフランス人が、実はトンデモない悪人たった、ということに気付かない。(桑原武夫みたいな奴なら各大学にゴロゴロいる。) 恥知らずで嘘つきの変態野郎が吐き捨てたハッタリを知れば、日本の大学生も眉を顰めるどころか、『エミール』とか『告白』といった著書を焼き捨てるだろう。でも、大抵の大学教授はルソーの本性に言及せず、欺瞞で塗り固められた「思想」を伝授するだけ。だから、何も知らない従順な学生は、教授の講義を聴いて「へぇ~、そうなんだ」と丸め込まれてしまう。

Jean Jacques Rousseau 1(左  /  ジャン=ジャック・ルソー)
  ルソーの生涯はレスター・クロッカー(Lester Crocker)による二巻本の伝記に詳しく書かれているが、左翼教授にとっては“都合の悪い”暴露本なので、現在に至るまで翻訳されたことはないし、今後も翻訳されることはない。日本の政治学部には掃いて捨てるほどルソー信者がいるのに、ルソーの破廉恥な私生活を暴露する学者は0.1%かゼロ。隠匿された事実にこそ重要な情報があるなんて、授業料を払っている学生が気の毒だ。ここでは長くなるので省略するが、ちょっとだけ紹介したい。例えば、ルソーの変態思想の一端は、彼の畸形なペニスにあった。彼は生まれながら「尿道下裂(hypospadias)」を患っており、成人すると尿道狭窄で痛いカテーテルを使用しなければならなかったくらいである。(Lester G. Crocker, Jean-Jaques Rousseau : The Quest 1712 - 1758, Vol. One, The Macmillan Company, New York, 1968,  p. 16)

  しかし、ルソーはトロンシャン(Tronchin)医師による治療を拒絶し、この親切な医者とも仲違いをし、喧嘩別れとなっている。それでいてルソーは世界中の人間を愛し、「全人類の友」を自称していたんだから白々しい。ちなみに、ルソーの生殖機能は損なわれていなかったので、女とのセックスはできた。しかし、この卑劣漢は薄情で、作った子供はポイ捨て。ルソーは「市民」の幸福を云々したけど、我が子を5人も捨てた冷血漢が、本当にフランス人民への愛に満ちあふれていたのか? このペテン師は子供の誕生日すら知らなかったのに、「私ほど父親になったら優しい人間は居るまい」と豪語していたのだ。しかも、ルソーは自分の親爺とも仲が悪く、父親のお金にしか興味が無かった。

  古くなった下着のように女を取り替える狂人には、精神的な欠陥ばかりではく、肉体的な異常性もあった。天性の詐欺師たるルソーは、パリのサロンに出入りしたが、その上流社会で耐えがたい屈辱を味わっていた。自分に興味を示してくれる貴婦人を相手にお喋りを披露していたが、ルソーは時折、「いつまでこのお上品な会話が終わるんだろう」とヤキモキしていたのである。というのも、彼は尿道狭窄により、しょっちゅう尿意を催していたからだ。ところが、いざホースの解放となった時、どの部屋にも貴婦人が居たので排尿できず、みんなが見ている前でチョロチョロっと小便を垂れるしかなかったという。これ一つを見ても、赤面するルソーが、いかにフランス貴族を憎んでいたかが解るだろう。常識を備えた日本人なら、こんな野郎が語る「理想社会」なんか信じない。詐欺師の正体がバレると、学生が「何だ、こんな奴!」と吐き捨てるから、ルソー崇拝者の教授はなるべく触れないように努めていたのだ。初耳の人は是非クロッカーの伝記を読んでもらいたい。

Thomas Hobbes 1(左  /  トマス・ホッブス)
  とにかく、政治学の講義でよく言及される「社会契約説」とか「一般意志」なんて眉唾物だ。政治学者はトマス・ホッブスやルソーを持ち出して、「市民」の安全や自由を守る為に、人々が契約を結んで社会を作ったと教えるが、我々はそんな契約を交わして国家を選んだりしているのか? ルソーは「一般意志」を言い出して、これに服従することを説いたけど、こんなのはレーニンみたいな奴の言いなりになるための催眠術だ。タウン・ミーティングのような集会に参加した人々が、互いに話し合い、討議を尽くせば最終的に正しい結論に辿り着くなんて馬鹿らしい。一般意志は多数者の投票で見出され、選ばれし者によって執行されるというが、実際は、全体主義国家に自分自身を差し出す教義だった。「民衆政治」を自慢していたフランス人は、恐怖政治を経てナポレオン・ボナパルトのような独裁者に隷属し、不必要な戦争で肉片となって死んでいったのだ。学者は「一般意志」という言葉を重宝しているが、実際は、砂粒のような愚民が熱狂して、詐欺師に扇動されるのがオチである。こんな騙しの手口より、日本人が生み出した武家政治の方がよっぽど素晴らしい。

  日本の左翼学者は懲りもせず「社会契約論」を口にするが、そもそも日本人は「契約」で日本という国家に住んでいるのか? 例えば、我々は生命保険に入ろうと思ったとき、日本生命とか明治生命とかを当たってみる。そして、特約とか掛け金を調べて、「どの会社がいいかなぁ」と考えるはずだ。色々と思案した末に、A社と契約を結んだりするが、日本人は「日本」という国家(社会)を吟味して「この国にしよう」と選ぶのか? じゃあ、もし気に食わなかったら、日本と契約を結ばずに、他の国に移り住むのかと言えば、そうではあるまい。我々はどんな状況になろうとも、日本に住み続けるし、祖国を良くしようと「みんな」で努力する。千年前の祖先も生まれて骨を埋める領地は「日本」しか有り得ず、天皇陛下と契約を結んで臣下になった訳じゃない。たとえ、後醍醐天皇が親政を宣言したからといって、足利尊氏や新田義貞が「じゃあ、我々は契約を破棄して朝鮮に移住します」なんい言わないだろう。武士は朝廷に対して諌言を行ったり、公家を動かして策略を巡らし、何とか天下を安泰にしようと努めた。我々は天皇陛下が存在するからこその日本国民であり、天皇陛下も大切な臣民が存在するからこその立憲君主であらせられる。サッカー・チームなら、任期が切れて交替する監督や、年俸に不満で移籍する選手がいても不思議じゃないが、日本国はテナントがクルクル替わる雑居ビルではない。

Hayek 3(左  / フリードリッヒ・ハイエク )
  日本人はホッブスが想像したような「孤立した野蛮人」じゃなく、遙か昔から「みんなで暮らすことがいい」と分かっていた民族である。だいたい、生まれた時からバラバラの個人で、暴力と生存闘争に明け暮れる原始人が、どうして契約を結んで社会を構築したら幸せになれると予想し、かつ理解できたのか? いくら未開人でも、集団で暮らす安心感と共同体の温かさを知っていたから、「契約」なるものを結ぼうと思ったんじゃないか。政治哲学の巨星フリードリッヒ・フォン・ハイエク博士も言っていたけど、トマス・ホッブスが描く原始的個人主義は神話であるという。だから「万人の万人に対する戦争」なんて最初から無かった。( Friedrich A. von Hayek, The Fatal Conceit : The Errors of Socialism, The Collected Works Volume 1, ed. by W. W. Bartley III, The University of Chicago Press, Chicago, p.12)

  筆者は有名大学の法学部で何が語られているのか直接知らないけど、日本人の常識くらいは持っていたので、大学教師の話は最初から「怪しい」と思っていた。ホッブスやルソーといった思想家の言説を語るなら、まず彼らの素生とか私生活を紹介すべきだ。教壇に立って偉そうな講釈を垂れる学者だって、幼馴染みを前にしたら普段と違った態度になるだろう。なぜなら、中学や高校のクラスメイトは、自分の恥ずかしい失敗や公表したくない過去を知っているからだ。政治哲学における「自由」とか「正義」を述べている教授でも、若い時には美人だけを特別扱いにするスケベだったり、友達にお金を借りても返さないとか、先輩には媚びるけど、後輩に対しては横柄だったりする。また、独裁政治を批判し「平等主義」を称讃する長老教授でも、教授会では「権威」をちらつかせて有能な若手を威圧したり、自分の著作を批判する同僚や駆け出しの助教授に制裁を加えたりするものだ。「清廉」が“売り”の共産党も同じで、無産労働者を支援するはずの政党が、ピンハネで末端の党員を搾取していたし、不破哲三は豪華な別荘で余生を過ごしていた。第一、私有財産に固執する共産主義者なんて滑稽だ。そもそも、共産党幹部が口にする「民主主義」とは、「民衆の主人になって支配する」という意味で、「民衆が主体の政治体制」ではない。「馬鹿は騙して利用せよ」が共産主義者と左翼学者のモットーだ。

  日本は高学歴社会だけど、高度な判断力を有する国民が増えた訳じゃない。なぜかと言えば、悠久の歴史を通して出来上がった庶民の常識を大学で消されているからだ。確かに、教科書や参考書に載っている知識を暗記した人は多いが、それらを用いて的確に物事を判断できるかどうかは疑わしい。また、教科書の記述が本当に正しいのかどうかを確かめる人は滅多にいないだろう。そもそも、教科書を執筆した学者は、一体どんな人物なのか? こんな重要な事を誰も気にしないなんておかしい。犯罪者には愚劣で暴力的な奴がいるけど、中には紳士を装った詐欺師や高度な知識を有する金庫破り、完全犯罪を目論む殺人鬼もいる。一般人は信じないけど、大学教授も同じで、植民地大学に就職した元活動家とか、皇室を心から憎む反日分子、我が国を根底から改造しようと謀るサイコパス、国境を破壊したい根無し草など、恐ろしい人物が異常に多い。一般国民は学校を卒業しても、引き続きテレビで洗脳を受けているから、本当に悲惨だ。世間のオっちゃんやオバはんは、赤ワインとか栄養ドリンクを飲んで肉体面での健康を気にするけど、若いときに赤く染まった脳味噌を治療しようとは思わない。一流大学を出た「元お嬢様」はもっと深刻で、二段腹の中年になっても、ピンク系リベラリズムで物事を考えてしまうのだ。たぶん、昔染まった「アカ(赤 / 垢?)」の除染が済んでいないからだろう。

  進歩的知識人は馬鹿にするけど、休日に明治座の芝居を見物したり、浅草で芋羊羹を食べているオバちゃんは、ヨーロッパの左翼みたいな「理性だけの狂人」にはならない。世間の厳しさを知る庶民は、頭でっかちのインテリとは違い、人間社会の不条理を弁えている。日本の庶民はフランスの左翼インテリとは異なり、古今亭志ん朝の落語などを聞いて、世の中の「道理」に通じているから、机上の設計図だけで社会が動かないことくらい解っているのだ。お天道様が輝く日本だと、いくら一流大学出のエリート官僚だって、冷酷な奴は周囲から見放されるし、本人も義理と人情を欠く政治家には従わない。また、狡猾なだけの政治家は人情味のある政治家に勝てないし、派閥の人数を増やしたければ「人望」を身につけないといけないから大変だ。ゲバ棒を振り回して粋がっていた教授なんか、口先だけの輩(やから)で何を言おうが信用できない。それよりも、子供と亭主の面倒を見て、孫に囲まれるオバタリアンの方が、遙かに気の利いた言葉を吐くかも知れないぞ。ある街頭インタビューはとても面白かった。番組のレポーターが通行人の中年女性と話をして家族の話題になったとき、「退職して家でゴロゴロする旦那さんに嫌気が差しているそうですが、どうして別れないですか?」と質問した。すると、このオバゃんは笑顔で「人類愛かしら?」と答えていたのだ。さすが日本のオバちゃんは凄い。歐米のインテリ女性だと真面目に「夫婦愛」と述べるが、日本のオバちゃんはひと味違うウィットに富んでいた。



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