教科書に載せて全日本人に知らせたい現代史 支那人の卑史 朝鮮人の痴史
黒木 頼景
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「営業保守」の竹田恒泰

  旧皇族の名家に生まれた竹田恒泰は、明治天皇の玄孫として有名だ。今や、地上波のワイドショーからインターネット放送の虎ノ門ニュースにまで出演する、若手の売れっ子評論家でもある。皇室に関する知識が著しく低下した現在の日本人にとって、彼の解説は簡単明瞭で分かりやすいから、とても評判がいい。とりわけ、週刊誌やテレビによる悪質な皇室報道が氾濫する今日において、竹田氏の反論や皇室擁護論は貴重である。しかし、最近彼が出版した小林節(慶應大学名誉教授)との対談本は称讃できない。なぜなら、竹田氏は小林教授の法思想を知りながら、敢えてその左翼的な部分に触れないからだ。たとえ、名誉教授の小林節が竹田氏の恩師であっても、悪質な見解があれば鋭く指摘すべきだろう。ところが、竹田氏は恩師に遠慮したのか、対談本の中で巧妙に避けていた。彼には保守派のファンが多いけど、この点に気がつき、彼の「卑屈さ」を批判する者がどれほどいるのか? もし、竹田氏が恩師の本性を認識しつつ、これを読者に伝えないとしたら、彼は「営業保守」の汚名を甘受したことになる。

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(左: 小林節  /  右: 竹田恒泰)

  「護憲派」が多い憲法学会において、小林節は珍しく「改憲派」である。しかし、それは保守思想からの発想ではなく、占領憲法を存続させようと目論む「裏左翼」の手法である。小林節は自衛隊を肯定し、天皇陛下を元首と認めるから、世間は彼を「正常」な憲法学者と思い込む。亡くなった渡部昇一先生も騙された内の一人で、『そろそろ憲法を変えてみようか』(致知出版社、2001年)という対談本で小林教授と憲法を論じていた。筆者が渡部先生に動機を尋ねたところ、ロッキード裁判における違法性を小林教授が賛同したのが切っ掛けだったという。だが、渡部先生は小林教授が「改憲派」の仮面を被った極左学者であるという認識は無かった。たぶん、自衛隊の存在や軍隊の必要性、さらに天皇陛下を国家元首と認めていたから、渡部先生は気を許したのであろう。もし、渡部先生が小林教授の『憲法守って国滅ぶ』を熟読し、筆者の反論を聞いていたら、その有毒性を理解したに違いない。

  竹田氏は対談本の中で、小林教授の『憲法守って国滅ぶ』を読んだことがあると告白し、「ずいぶん学びました」と述べている。(小林節 / 竹田恒泰 『憲法の真髄』 KKベストセラーズ、2018年、p.162) ということは、竹田氏は小林教授の化けの皮や左翼思考に気付いているはずだ。もし、竹田氏が小林教授の「人権」に対する執着心や、何度も国民を「主権者」と力説する姿勢に着眼していなかったらおかしい。狡猾な小林節は、慶應大学の学生に注入した極左思想を、退職後も弟子との対談で世間に撒き散らそうとしている。つくづく思うけど、札付きの「アカ」というのはガラガラ蛇よりも有害だ。ここてでは直接関係無いけど、あの蛇のように鋭い目つきで睨まれ、ビクビクしながら憲法を学んだ学生は本当に気の毒である。受験勉強だけしか知らない大学生というのは、真面目で従順だが、悪党に対する免疫が無いので、左翼教授のレトリックや洗脳テクニックにコロっと引っ掛かっかる。まぁ、支那人みたいに用心深い学生というのは考えものだが、何でも鵜呑みにする若者というのも困ったものである。受験科目に「詐欺師対策」という項目が無いから仕方ないが、20歳前後の成人なんだから、少しくらいは相手の正体を見極める「目」を持つべきだ。

日本人には「主権者」や「人権」などは必要なし

  小林節が大好きな「人権」という言葉は文明国には不必要で、却ってそれによる弊害の方が多い。そもそも、「人間の権利 (human rights)」とは何か? 日本人と同じくイギリス人にとって、「人権」は低次元の代物である。我々は地球上の「単なる人間」なんて見たことはないし、仮に居たとしても制定法や慣習法で扱う人物でもない。イギリス人はフランスのガリア人とか、アイルランドに住むケルト人、ダマスカスやメッカに住むアラブ人、北アフリカで見かけるイスラム教徒など、“具体的”な人間しか想像できず、無色透明で普遍的かつ“抽象的な”人間は議論の前提としないのだ。世界中に散らばる人間には、たいてい名前や綽名がついており、誰かの子供、あるいは何らかの部族に属する成員であり、平原の地中から生まれた漂流者ではない。人間の種類は様々で、肌が黒い者もいれば褐色、白色の者もいて、美人に遭遇する人がいれば、ブスに囲まれる人もいる。人生色々、絶頂があれば絶望もあり、生まれや育ちもバラバラだ。

  だいたい、フランス革命を起こした狂気の知識人が、「人権宣言」なる文章を発表したからといって、なぜ日本人が追従せねばならぬのか? 扇動に弱いフランスの民衆は、怨念に凝り固まった革命家の口車に乗って、先祖代々続いてきた王政と教会を破壊し、「革命の敵」となった貴族や司祭を片っ端から殺しまくった。ロベスピエールやダントンらは流血の惨事を「民衆の為」という言葉で美化したが、最終的に地獄を味わったのは愚かな民衆で、気がつくとナポレオンという「よそ者」が皇帝になり、戦争に次ぐ戦争を経てフランス人は大激減。生きているだけで幸運という状況だった。これなら昔の方がよっぽど良かったんじゃないか。王国時代のフランス人は曲がりなりにも王様の「臣民」という身分だったのに、革命が起きると単なる使い捨ての「駒」に降格し、墓にも刻まれぬ「人間」になってしまった。ロシアから退却する途中で“いつの間にか”野垂れ死に、なんて最悪だ。

  「人権」なるものは、どの国家・社会にも属さない野生動物が持つ「権利」で、「権利」と称しても何の根拠も無いし、誰が保証するのかも分からない。要するに、サハラ沙漠やモンゴル平原に転がっている羊の糞と同じだ。アジアやアフリカにある野蛮国だと、「道を歩いている女性をいきなり強姦してはいけません」とか「ラクダに乗った商人からモノを奪ってはならない」、「隣人を捕まえて奴隷にしてはならない」というのが基本的な「誡め」で、処罰を伴った「掟」であるかどうかさえ怪しいものだ。暗黒大陸の支那だと「人間を食べてはいけない」という禁止条項すら無かった。こんな連中に要求する最低限の「人権」と、日本のような高度文明国が掲げる高級な「人権」との間には雲泥の差がある。いや、異次元の話かも知れない。日本だと国民一人一人が大切にされるので、生活保護世帯でもテレビや冷蔵庫はもちろんのこと、冷房や暖房まで「必需品」とされているし、最新の医療が安く受けられ、子供手当をはじめとする各種の補助金も充実している。更に、安全で衛生的な生活環境まで完備されているから、毎日が楽しく生きていることが嬉しい。日本人が考える「最低限度」の生活など、後進国の人間が見れば憧れの貴族的生活に思えてくる。考えてもみよ。フィリピンやパプアニューギニアに落ちている「人権」と、日本人が共有する「国民の権利」が同等の権利と言えるのか? 日本人が口にする「人権」は、先祖代々日本に住む日系国民が継承する「常識的考え」であり、外国人が驚嘆する「気配り」なのだ。

  ところが、小林節は全人類共通の低級な「人権」を日本国憲法に書き加えようと謀る。彼が外国人の人権まで憲法に明記しようとするのは、日本と外国を区別する国境を低くしたいからである。つまり、太古から我が国を支えてきた日系日本人の子孫を「単なる地球人」に格下げしたいからだ。そもそも、憲法というのは基本的な事のみを明記し、細かいことは書かないというのが常識なのに、小林節は矢鱈と微細な事を刷り込もうとする。例えば、障碍者の「人権」を保証し、それを尊重すべく、現行の憲法第二十五条に、「障碍者が人格的な生存を確保する権利は、国政のうえで特に尊敬されなければならない」といった一文を挿入すべし、と提案しているのだ。(『憲法守って国滅ぶ』 p.150) こんな事まで「憲法に明記せよ !」と主張する小林は異常である。

Beate Sirota Gordon 2(左  /  ベアテ・シロタ・ゴードンン)
   今では明白となっているが、占領軍が作った憲法なんてアメリカ人が見れば「非アメリカ」的で、ビックリ仰天するような内容が含まれているのだ。例えば、現憲法の第二十四条、つまり両者の合意によって「のみ」成立する婚姻というのは憲法の条文に相応しくない。どうして、憲法に個人の結婚が書かれているのか、アメリカ国民だって理解できまい。これは、日本に長く住んでいたベアテ・シロタ・ゴードン(Beate Sirota Gordon)による画策で、日本には本人の意思を無視した結婚が行われているから、「根絶しなければならない」という発想である。ベアテは少女時代に親による勝手な見合い結婚を目にしたそうで、こうした結婚を強いられた日本人女性を不憫に思い、民政局のチャールズ・ケーディス(Charles L. Kades)らに挿入するよう提案したのだ。しかし、いくら不幸な日本人がいたからといって、家庭の問題を憲法で扱うかなんて馬鹿げている。ちなみに、ベアテはソ連から逃れてきた亡命者で、根無し草の真っ赤なユダヤ人であった。また、ケーディスもリベラル派のユダヤ人で、ニューディールを熱心に信奉する弁護士上がりの軍人であった。まったく、ユダヤ人には左翼しかいないのか、と思えるほど有害な人物が多い。

  脱線したので話を戻す。小林節は「主権者・国民」という概念が大好きだ。しかし、「主権者」というのは危険な用語である。なぜなら、これは「無制約の権力」を持つ者という意味であるからだ。法思想の巨人、フリードリッヒ・フォン・ハイエク博士が警告したように、国内において「主権」という概念は有害で、これを持ち出すと歯止めが利かなくなる。もし、国民が「主権者」になれば、国民投票とか全員一致で、どんな法律も成立するし、国民自体を制約するものが無くなってしまうのだ。西歐世界では聖書の影響が甚大で、主権者と言えば「ヤハウエ(天主)」を指す。この唯一絶対神は天地創造主にして全宇宙を支配する究極の存在である。だから、神様の発する言葉は即「誡律」、つまり、誰にも変えることが出来ない永遠の「法」となり、大天使のミカエルやガブリエルでさえも修正不可能だ。旧約聖書の神様は不埒な者を雷で殺してもいいし、イスラエルの民に異教徒の殺戮を許可することもある。善良なヨブを病人にしたり、危害を加えてもお咎め無し。というより、どこにも神様を処罰できる者は存在しないから、最初から何でもやりたい放題。だから、懲らしめとして大洪水を起こしてもいいし、蝗(イナゴ)の大群を発生させてエジプト人を困らせてもいい。

  日本人にはそもそも、「主権者」なんて概念はそぐわない。神話の時代から、唯一絶対神は存在せず、むしろ人間くさい神様が多いし、創造したのは日本列島くらいだ。面白いことに、キリスト教徒は神様とアダムが何語で会話をしたのか知らないが、日本の神様は昔から日本語を話していたと思われるし、感覚も日本的だったと推測できる。そもそも、天皇陛下が祈りで用いる言語が日本語なんだから、五穀豊饒をもたらす神様だって日本語を話していたはずだ。天照大神だって「主権(sovereignty)」と聞けば、田中邦衛みたいに「主権って何だよぉ~?」と尋ねるんじゃないか。西歐と違い、日本では天皇陛下ですら権力が制限されており、天主から独裁的な統治権力を付与されているという教義は皆無。天皇親政を斥けた足利尊氏も独裁権を確立できず、朝廷の下で政治を司る幕府に甘んじ、自らが絶対君主になることはなかった。日本だと色々と厄介な人間関係があって、将軍といえども周囲に気配りをしないと愛想を尽かされてしまうのだ。だから、尊氏も執事の高師直(こうの・もろなお)を邪険にできなかったし、盟友の佐々木道誉(ささき・どうよ / 京極氏)には借りがある。母の実家である上杉氏も大切にせねばならないし、討ち破ったはずの朝廷にも和議を申し入れて丸く収めてもらったくらいだ。

皇室を見下す憲法学者

  小林節が「国民主権」にこだわる理由は、彼の「天皇観」にある。この憲法学者は事実をねじ曲げ、大日本帝國憲法下では天皇が「主権者」であったと吹聴しているのだ。彼は西歐の絶対君主を引き合いに出しながら、現憲法下では天皇に政治の実権は無く、国家を象徴する「元首」に過ぎないと規定する。(『憲法守って国滅ぶ』p.124参照) a) おい、ちょっと待て ! いつ明治天皇は「主権者」になったのか? 確かに、明治大帝は我が国の「君主」で、最高の権威を持つ「元首」であったが、帝国議会や軍部を勝手に動かせる「主権者」じゃないぞ。明治天皇は忠実なる元勲の伊藤博文らに政治を任せ、心配事があれば重臣たちをお召しになって御下問なされた。陸軍だと山縣有朋、海軍なら西郷従道といった重臣を信頼していたので、御自ら戦略や戦術に容喙することはなかったはずだ。もし、明治天皇が「神授権(Divine Right of Kings)」を宣言して親政を行ったのであれば、「主権者」かも知れないが、顧問官や議員、軍人、官僚に支えられる立憲君主が「主権者」なんておかしい。

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(左: ニコライ世   /  中央: 明治天皇    /   右: 昭和天皇)

   昭和天皇の場合はもっと深刻で、「警告権(warning right)」すら持っていなかったんだから、西歐の憲法学者はビックリする。彼らは「そんな~、嘘だろう」と言って信じない。それに、「最高指令権(imperium)を持たない皇帝(Emperor)なんて意味ないじゃん」、と呆れてしまうだろう。ローマ教皇だって結構な権力(plenitudo potestatis)を持っていたんだから。したがって、昭和天皇を神格化された「東洋の専制君主」と見なす西歐人は、危機的状況を迎えても君主の大権(prerogative)を発動しない元首(大元帥)を想像できない。小林節は実際の日本を無視して、左翼学界が捏造した「法的に国家の全権を握った主権者」(上掲書 p.132)を宣伝し、国民を不幸に陥れる専制君主が君臨したという「戦前の暗黒時代」を信じている。だから、二度と再び“あの”暗黒時代に戻らぬよう、戦後は国民が「主権者」となり、「至高の権力を持つ主体」になるべし、と思っているのだ。

  小林節の「皇室封じ込め」は実に陰険で、皇室財産まで剝奪すべき、と考えている。呆れたことに、彼は皇族が財産を持つと「財閥化する」と思っているのだ。小林節の言い分によれば、国家の全権を掌握する戦前の天皇は、神格化され、膨大な財産を保有して、国と国民の上に君臨していたそうだ。彼は次のように述べている。

  明治憲法下では、いわばこの世の権力とあの世の権威に加えて強大な経済力を持った文字通り絶対的な存在であった。(上掲書 p.132)

  あのさぁ~。我が国の天皇陛下はロシア皇帝じゃないんだぞ。もし、昭和天皇がロスチャイルド家を凌ぐ財産を持ったら、天下無敵のリヴァイアサン(巨大な海の怪獣)になるのか? 小林節が言うには、天皇家に膨大な私有財産があると「有害」なんだって。まったくアホらしい ! 皇室に庶民以上の財産があってもいいじゃないか。誰も困らないぞ。それに、もし陛下が多額の資産を有していたら、自ら進んで災難に遭った国民に救いの手を差し延べてしまうだろう。例えば、大震災で悲惨な生活を余儀なくされる国民を御覧になれば、そっと御内帑金(ごないどきん)を側近に渡して、被災者を助けるよう指示されるんじゃないか。また、陛下から頂いた支援金と判った国民は、その大御心に感動し、大粒の涙を流すだろう。これは左翼学者が一番嫌いな光景である。彼らは陛下の温情に感謝し、その有り難さに頭を下げる庶民なんて見たくない。天皇は差別社会と抑圧構造の「象徴」というのが、左翼の学説なのだ。

  小林節は冷酷にも、天皇陛下を「無一文の王様」にしたいと願っている。彼は皇室の財産形成を許さない。なぜなら、「・・・正当に必要な経費は国庫で負担するので、皇室は金の心配は無用」であるそうだ。それに、皇居を始め、天皇家に必要な施設は国家が無償で貸与しているし、公的な活動費に関しては宮廷費が、私的な生活費としては内廷費が支給されているので、象徴としての天皇家はいわば「無一物」でいるのが「正当」なのだという。(上掲書 p.133) それに加え、小林節は皇位継承の際に発生した相続税を認めているのだ。彼は「法の下の平等」や「憲法の精神」を持ち出して、皇室への課税を肯定し、さらに、「歴史的経緯」の視点から、天皇の私有財産を認めない方が“筋”であろう、と述べている。(上掲書 p.134) 彼はあくまでも「民主的統制下」での支出にこだわり、皇室が自由に使える個人財産に反対しているのだ。これ以外にも、小林の財産剝奪提言は徹底している。例えばもし、外国の元首が皇室に美術品を贈呈すれば、その在位中は持っていてもいいが、崩御したら国立美術館に寄贈せよ、と言い放つ。要するに、天皇が個人的に貰ったモノでも、「お前の所有物じゃないんだぞ !」と言いたいのだろう。小林節は不遜にも、「天皇制」を「文化的遺産」と見なし、皇族が財産を持てば変に世俗化すると警鐘を鳴らしているのだ。(共産党と親しい小林節は、コミュニスト用語の「天皇制」を愛好する。)

  竹田恒泰はマスコミから皇室解説者として重宝され、、政治家や知識人による皇族攻撃があれば、熱心に反撃を試みるので、保守派からも評判がいい。しかし、小林節の皇室誹謗に関しては沈黙を守っている。竹田氏は小林節の論文を読んでいるはずだから、この学者がどんな皇室観を持っているのか解っているはずだ。であるとすれば、竹田氏は今回『憲法の真髄』で真っ赤な小林節と対談することになったのだから、いいチャンスじゃないか。一つ一つ「異常な点」や「侮蔑的な見解」を指摘し、コテンパンに批判すべきだろう。ところが、対談本では肝心な問題を避け、恩師の学説に追従する「ヨイショ本」になっている。竹田氏は支那人や朝鮮人からのイチャモンとか、左翼知識人や政治家に対しては勇ましいのに、小林節には刃向かわない。学生の時に世話になったから恩師への批判は遠慮するなんて卑怯だ。たとえ、恩師あるいは友人であろうとも、非常識な見解の持ち主であれば堂々と反論すべきである。本人がどういう考えなのか判らないが、竹田氏は本当に「保守派」の知識人なのか? 普通の国民は昔から、しょっちゅう偽装保守の知識人に騙されてきた。竹田氏のファンは彼に真意を尋ねるべきだ。もし、論点を誤魔化して口ごもるようなら、「営業保守」と思った方がいい。散々彼の著作を購入してから裏切られるよりマシだろう

  後編に続く。



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