教科書に載せて全日本人に知らせたい現代史 支那人の卑史 朝鮮人の痴史
黒木 頼景
成甲書房


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言論の自由を認めない大学

  日本の社会がおかしくなった原因の一つに、大学進学率の上昇が挙げられる。曾ては「駅弁大学」と揶揄された大学も、定員割れで名前を書けば入れる娯楽施設に変貌した。単に学生が麻雀やスポーツに明け暮れているだけならまだ良いが、いつの間にか左翼教授に洗脳され、常識まで失っているから、その弊害は極めて深刻だ。普段は正常なのに、政治問題を議論すると非常識になったりする。例えば、安倍政権が大量の移民を受け容れようとしているが、それに対し保守派国民が異議を唱えれば、「排外主義者ってレイシストよねぇ~」と顔を顰める人が結構多い。しかし、こうした寛大な善人でも、不愉快な支那人やベトナム人が日本にやって来て、我々と“対等”な「日本国民」になったら、「何であんな人達と私が同等なのよぉ ~」と不機嫌になる。一般人の感覚では、難民のベンガル人やクルド人、ソマリア人が隣に住みつくと不安だし、帰化人となっても「同胞」とは思えない。「見た目で判断してはならない」と叱られても、目玉の附いた日本人なら“生理的”に嫌ってしまうのだ。

  ところが、大学教育を受けた日本人は、自然な感情を押し殺すよう“調教”されているので、内心で嫌がっても露骨にその感情を出すことができない。人種や容姿で判断することは倫理道徳に反する、と刷り込まれているかだ。本当は不愉快なんだけど、我慢しながら笑顔で歓迎したりする。でも、その忍耐にも限界と放棄があるはずだ。例えば、若い日本人女性が電車に乗り、長椅子の空席を見つけたとする。しかし、両隣には茶色いビルマ人と黒いアフリカ人が坐っているので、その間に坐る気分になれない。いつもなら、疲れて坐りたいところだが、気付かないふりをして立ったままにしたら、彼女の心には「何か」がある。また、夜遅く高層アパートメントの部屋に帰ろうとして、上の階に昇るエレベーターを待っていたとする。そして、ようやく扉が開いて乗ろうとしたら、エレベーターの中には黒人だらけ。そこで、「あっ、ごめんなさい、私は下に向かうので」と誤魔化したら、その女性はには内緒の理由があるに違いない。彼女はなぜ咄嗟に嘘をついたのか? 学校で洗脳されていない日本人や白人なら、こうした行動を理解できるはずだ。

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  1960年代以降の歐米諸国では、国内の異民族に対する人種的発言は命取りとなっている。特に、白人の政治家が有色人種を非難すれば、「レイシスト」の烙印を押されて政治生命を絶たれるし、テレビ局に雇われたジャーナリストも人種問題でPC(政治的に正しい思想)に違反すれば、即左遷かクビだ。それでも、こうした言論弾圧と自己検閲に反対する知識人は細々と存在し、オーストラリアで物議を醸し出したアンドリュー・フレイザー(Andrew Fraser)氏も、僅かながら生き残っている保守派の一人である。

  フレイザー氏は曾てマコッリー大学で准教授を務めていたが、オーストラリアにやって来るアフリカ難民やアジア移民を批判するコメントを新聞に送り、それが原因で大学の授業を妨害される破目になった。マスコミや移民支援団体、人権派弁護士などの抗議に恐れをなした大学側は、フレイザー氏に辞任を求めたが、彼は断固拒否した。フレイザー氏は根拠なき暴言を吐いたのではなく、異なった人種の行動や性質、知能などを研究した学者の意見を基に、アフリカ人にはまともな国家を形成できず、それに関する知能が足りないと語っただけである。これはほとんどのヨーロッパ人が密かに思っていることで、別に目新しい見解ではない。ただ、あえて口にしないだけである。もし、高名な大学教授や人気を博する評論家が、正直な意見を発言すれば、直ちにマスコミから集中攻撃を受け、社会的地位を失ってしまうだろう。したがって、悧巧な奴ほど黙っている。フレイザー氏の「過ち」とは、その禁忌(タブー)を破って、堂々と公言したことにある。

Andrew Fraser 1(左  / アンドリュー・フレイザー )
  オーストラリアの左翼マスコミはフレイザー氏の主張を「レイシスト的意見」、あるいは「ネオナチやKKKの発想だ」と非難した。しかし、彼は学術的自由(academic freedom)に基づいて独自の主張を述べただけである。歐米の先進国なら、大学教授のみならず一般人でも発言の自由を許されているはずなのに、オーストラリアのマスコミやインテリどもは、人種にまつわる“不都合”な言説を許さない。マッコーリー大学の副学長も民族団体や黒人活動家の脅迫に屈服し、フレイザー氏の発言を不適切なものとして謝罪した。つまり、大学の名声と保身を考えて、学問の自由を捨ててしまったのだ。アフリカ人やアジア人の感情を害する論文は、たとえ研究データや学術的分析に基づいていても排除される。となれば、学問の自由はどこにあるのか?

  フレイザー氏には、もう一つ災難が降りかかっていた。彼は「白豪主義政策の再考(Rethinking of the White Australia Policy)」という論文を書き、「ディーキン法学評論」誌に掲載する予定だった。しかし、この噂を聞きつけた弁護士が、ディーキン大学を訴えるぞ、と脅したので、大学側が編集部に圧力を掛け、フレイザー氏の論文を印刷しないよう命令したのだ。つまり、人種差別的な論文、あるいは騒動を引き起こしそうな表現は予め排除する、という方針が貫かれたのである。でも、これはおかしい。フレイザー氏が書いた論文の中身は読者が判断すべきで、ブルブル震えた大学経営者が決めることではないはずだ。これは我が国で行われているマスコミの事前検閲と同じである。もし、フレイザー氏の投稿論文が悪意に満ちた「暴論」ならば、一般読者が彼を無視するようになり、悪徳教授は次第に何処かへ消えて行くはずだ。

  ところが、歐米にはフレイザー氏の論調に賛成する一般人がいて、密かに彼の本を購入したりする。2011年、フレイザー氏はアングロ・サクソン系国民の民族性や、その自己否定的態度を扱った『ワスプ・クェスチョン(The WASP Question)』を刊行した。(筆者も発売されると早速この本を購入し、とても感銘を受けた。) イングランドやカナダ、アメリカには、表面上は沈黙していても内心怒っている西歐系白人が結構存在し、そうした一般人が白人社会を肯定する書物を愛読している。昔は我が国でも日本を誹謗する左翼本が流行し、朝日新聞の書評欄で絶讃されることか度々あった。しかし、谷沢永一や渡部昇一といった保守派の大御所が、“親日的”な随筆や歴史本を発表すると、瞬く間にベストセラーになり、進歩的文化人は歯ぎしりして悔しがった。だいたい、そんなに我が国が下劣で、日本民族が残虐なら、憧れの支那や北鮮に移住すればいいじゃないか。日本を侵略国と決めつける連中に限って、死んでも北京や平壌に引っ越そうとは考えない。彼らは一生“嫌いな”日本に住み続ける。そして、日本を憎む朝鮮人や支那人も、違法な手段を使ってまで日本にやって来るんだから、何とも不可解だ。

  マッコーリー大学を去ったフレイザー氏は、シドニー郊外にあるユナイテッド神学校(カレッジ)に入り、西歐キリスト教を研究すべく、初心に戻って神学のコースを取ったそうだ。しかし、こんな元大学教授が一般学生と一緒に講義を受ければ担当教授だってやりづらい。(例えば、「ひふみん」の愛称で知られる棋士の加藤一二三(かとう・ひふみ)先生が、市民将棋講座に参加したら、講師の若手棋士は緊張して口ごもってしまうだろう。「神武以来の天才」と称された加藤先生を前にして、「えぇ~と、この手筋では・・・」と説明するのは、少々おこがましい。逆に講師の方が「加藤先生、この場合どうしたら良いのでしょうか?」と尋ねてくるだろう。) ちなみに、このカレッジはリベラル派の校風で知られている。だから、授業に参加するフレイザー氏は直ぐに「問題児」となった。ボンクラな若者と違って、碩学の「受講生」だから、教授に対する質問は鋭く、反論も容赦が無い。しかも、教室には非白人の学生が多く居たから尚更だ。

  2011年4月、反人種主義を掲げる学生や教授たちはフレイザー氏の存在に我慢できなかったようで、四人の教職員がクライヴ・ピアソン学長に不満をぶつけたそうだ。曰わく、フレイザー氏はレイシストで性差別主義者、反ユダヤ主義者、白人至上主義者である、と。後に、フレイザー氏は告発者の素性を摑み、ある教員がなぜ不安に感じたのかを知り得た。その告発者によれば、多くの学生がフレイザー氏の発言を耳にして、彼の考えや主張をもっと詳しく聴きたくなったからだ、という。(Andrew Fraser, The cult of “The Other” and the end of academic freedom, Australian Protectionist Party, March 4, 2012) つまり、フレイザー氏の話に魅力を感じた学生が続出し、彼の思想をもっと知りたいと思ってしまったのだ。左翼的授業しか受けてこなかった青年にとって、フレイザー氏の見解は新鮮で、白人であることに罪悪感を覚える必要は無い、と教えられた学生は、「そうだよなぁ」と悟り始めたのである。

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(左: 憎まれている白人の少女  / 中央: 白人と黒人の混血児 /  右: ミス・コンテストに出場した黒人美女)

  考えてみれば馬鹿らしいけど、大学に通っている学生が、世間から非難された元准教授に出逢い、初めて「学問の自由」に目覚めたんだから滑稽である。「大学」という象牙の塔では左翼が暴れ放題で、有害なマルクス主義とか無政府主義もどきの革新主義、国家破壊を目指す法思想、王室を侮辱する人民主義、白人を罪人とする暗黒史観など珍しくもない。ところが、アングロ・サクソン系の白人教授がゲルマン民族の偉業やイングランドの文化、キリスト教倫理、貴族政治、立憲君主制、ヨーロッパ人の肉体美などを称讃すれば、「レイシスト」あるいは「ネオ・ナチ」と批判されてしまうのだ。アフリカ人が黒人の美しさや強靱な肉体を自慢してもOKなのに、西歐白人が自分たちの容姿や文明を称讃すればNGなんておかしい。各民族には独自の「お国自慢」とか「手前味噌」があっていいはずだ。白人だけに禁止すれば、却ってそれは差別になるだろう。

  歐米でもそうだけど、日本の左翼は一方的な意見を保守派に押しつける。彼らは気に食わない意見に出くわすと、その内容がなぜ間違っているのか、あるいはどの点が悪いのかを「言論」で反駁しない。もし、ある論文が親日的で左翼の枠組みから逸脱していると、「保守反動」とか「民族差別」といったレッテルを貼り付け、政治介入か裁判沙汰で葬ろうとする。普段は「言論の自由を守れ !」とわめき立てるのに、都合の悪い反論に出逢うと赤い守護天使は黒い悪魔に変身だ。左翼活動家や赤い大学教授は主要メディアとグルになって、政敵を社会的に抹殺しようとするから、反左翼でも権力を持たない知識人は沈黙するしかない。地上波テレビと大新聞を敵に回したら、普通の個人が負けてしまうのは当然だ。一般人はPC(政治的に正しい言葉遣い)に盲従しているが、こんな用語集は左翼が勝手に作った政治思想に他ならない。彼らは自分達で恣意的に作った思考の枠組みを他人に被せて、その精神を支配してしまうのだ。一般国民は人間が作った迷路の中を走っているネズミのような動物である。もし、その道から逸脱すると電気ショックで「お仕置き」となるから、怖くて自由に歩けない。一般人が左翼の洗脳から抜け出すのは非情に困難だ。今の日本人は気軽に「言論の自由」を楽しんでいるようだが、本当にそれを守るには、時として相当な覚悟が必要となる。 

 

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