教科書に載せて全日本人に知らせたい現代史 支那人の卑史 朝鮮人の痴史
黒木 頼景
成甲書房


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子供の名前と親の精神

 人間が持つ特徴の一つに理性がある。アリストテレスは人間に理性があることを以て、我々と動物を区別した。キリスト教だと、天主の息、すなわち霊魂が吹き込まれているか否かで区別されている。頭のおかしい言語学者を除き、人間だけが言語を操る動物であることは間違いない。創世記にはアダムが天主のイメージで創られ、イヴ(女)はアダムの「あばら骨」で創られたという。ただし、イヴが誕生する前、あらゆる生き物が土で造られており、天主は人間がどんな風に呼ぶのか見ていたそうだ。アダムはあらゆる家畜や鳥、野原の獣に名前を授け、自分の骨から創られた女を「イヴ(命)」と名付けたのもアダムとなっている。(創世記3章20節)

 子供をもうけた親は多くの場合、「名附け親」になるのが普通だが、近頃の日本人には常識外れの発想をする者がいるようだ。テレビのワイドショーで報道していたけど、赤池肇(あかいけ・はじめ)という高校三年生が、改名を申請して裁判所はそれを許可したという。というのも、彼の本名が「赤池王子様」であったからだ。一般人なら「えっ!」と一瞬言葉を失ってしまうが、彼の母親が可愛さ余って考えた名前というから更に驚く。いくら愛する我が子とはいえ、「王子様」という名前を附けるなんて非常識だ。「一体、どんな頭をしているんだ?」と疑いたくなるような親である。

  しかし、世の中にはこういった珍奇な名前を附ける親が他にもいるらしい。俗に言う「キラキラ・ネーム」を好む親は結構いるそうで、平成になると全国各地に現れたそうである。以下に記す名前はインターネットで調べた情報だから信用性は低いけど、実際に存在するみたいだから幾つか紹介したい。

  ちょっと耳を疑ってしまうが、漫画やアニメを好む親は、子供に贔屓のキャラクターと同じ名前、あるいはその発音を基にして独創的な漢字の組み合わせを用いるそうだ。例えば、人気アニメ「ポケモン」を連想させる「光宇(ぴかちゅう)」とか、「ドラゴンボール」のクリリンを真似た「空理鈴(くりりん)」、ゲーム・ソフトのキャラクターと思われる「是留舵(ぜるだ)」、松本零士先生の「クィーン・エメラルダス」から取ったと考えられる「笑来星(エメラルダス)」などがある。信じられないけど、女の子の名前で「歩如(ぽにょ)」というのがあるそうだ。まさか、魚の「ポニョ」じゃないと思うけど、子供に附ける名前とは思えない。

  筆者は感覚が古いのか、以下の名前を持つ子供がいるとは信じられない。けど、「もしかしたら・・・」という可能性もあるので、一応挙げておく。

 男子の名前 / 動画(てれび)、大麻(たいま)、主人公(ヒーロー)、高飛(ジャンプ)、北斗拳(ほとけ)、龍騎士(ナイト)など。その他、「核(アトム)」というのがあったけど、「アトム」なら「原子」で、「核」なら「ニュークリアス(nucleus)」になると思うのだが、たぶん親に理科の知識が無かったのだろう。夫婦のどちらが発案してたのか分からないが、妻や夫の両親も気づかないんだから、どんな一族なのか想像がつく。真相は謎のままだが、「原子爆弾」は「核爆弾」と呼ぶから「核」を「アトム」と思ったのかも知れない。滑稽な例をもう一つ挙げるとすれば、「宇宙(なさ)」という名前があるらしい。これは米国の「NASA」を念頭に置いて作った名前なんだろうけど、かなり強引な当て字に思える。これくらいひどい名前になれば、国語の教師でも、どう読んでいいのか分かるまい。

  本当に信じられないが、女の子の名前もすごい。例えば、「羽姫芽(わきが)」という名前があるそうだが、これじゃ「腋臭」と間違えられて恥ずかしいじゃないか。「樹茶(きてぃちゃん)」はたぶん、サンリオの「キティー」ちゃんから来ているのだろうが、これは猫キャラの名前で、人間用ではない。無茶な当て字もあるようで、「星(あっぷる)」というのがあった。どうして「星」を英語の「アップル」と呼ぶのか筆者には解らない。ファッション・デザイナーの森英恵(もり・はなえ)さんには、森星(もり・ひかり)という孫娘がいるけど、光る星をもじって附けた名前なのか不明である。英恵さんのご主人は陸軍主計科の森賢(もり・けん)少佐だったけど、「星」という名前を目にしても、「ひかり」と読む知識は無かったはずで、この振り仮名を聞けばビックリしたはずだ。

  不可解な名前はもっとある。例えば、「大穴(だいあな)」だ。これは多分、月の女神「ダイアナ(Diana)」から由来する名前なんだろうけど、用いた漢字がまずい。「おおあな」じゃ馬券で当たったような響きになる。もう目眩がしてくるけど、神経が異常な親は尽きないようで、「沙音瑠(しゃねる)」や「宝石(たから)」と名附ける親がいるそうだ。でも、こんなのは子供を「モノ」扱いにしているとしか思えない。おそらく、デザイナーの「ココ・シャネル」から取った名前なんだろうが、ブランド名を子供の名前にするなんて異常である。もし、親が「グッチ」のファンだと、「愚痴」でもよくなるし、阪神タイガースのファンなら、「虎」と書いて「タイガー」と発音させるかも知れないぞ。キューピー・マヨネーズの愛好者なら、娘に「キューピー」と附けるし、不二家の常連だと「ペコ」ちゃんとなりかねない。

 珍奇名に馴れた人でも、「愛歩(あほ)」という名前を聞けば、「どんな親なんだ?」と唖然とするだろう。こんな親こそ正しく「アホ」である。漫才師の坂田師匠なら「アホの坂田です!」とひょうきんに振る舞って、人々の笑いを誘うが、一般人の女性が「アホです」と自己紹介すれば、「えっ! それ本名なの?」と耳を疑い、次第に凍りつく。学校の先生は授業中に生徒を叱るとき、彼女の存在が気になってしまうんじゃないか。もし、いたずらをした男子生徒を叱る場合、「このドアホが !」と口にできないし、馬鹿らしい事を聞いても「アホか!」と言えなくなる。困った名前はまだあって、「音音」と書いて「のんのん」と読む名前があるそうだ。一体どんな発想をしたら、こんな表記を思いつくのか。第一、これは何の意味を持っているのか、普通の日本人には解らない。パンダじゃあるまいし、「リンリン」とか「ランラン」の類いだ。

  「キラキラ・ネーム」に詳しい人によれば、こうした親は我が子を他人と違った個性的な人間にしたいと考えているそうだが、子供の「未来」に関しては全く考えていないんじゃないか。百歩譲って、幼稚園児くらいまでなら「仕方ない」で済まされるが、小学生になれば笑いものになってしまうし、事によったら、イジメの原因にもなってしまうだろう。また、こうした名前を聞けば、まともな親は「いやだぁ~、一体どんな家庭に生まれた子なのかしら?」と怪訝に思ってしまうから、PTAで話題となるに違いない。一概には言えないけど、こうした名前を附ける親は、知能・教養が低い者、あるいは「個性」を誤解している者という可能性が高い。なぜなら、命名は祖国の文化に基づいているし、ある程度の範囲がある。朝鮮では「金」という家族に生まれた女の子に「玉」という名前が附けられる場合があるけど、日本人ならそうした名前は附けないだろう。いくら「キム・オク」と発音したからといって、「金玉」じゃ可哀想だ。しかも、女の子なんだから尚更である。

  ちょっとでも知性があれば、キラキラ・ネームが世間でどんな評価を受けるのか予想できるし、「こんなの恥ずかしい」と判るだろう。しかし、隔絶した感覚の持ち主は、何で「おかしい」のか解らない。キラキラ・ネームの調査では、親の家系や職業、学歴、趣味、嗜好、地位などが除外されているので、本当のところは不明だが、何となく自覚無き「痛い人」が想像できる。だって、娘に「望己利(もっこり)」とか「煮物(にもの)」と名附ける親がいるんだから、知性のある人物とは思えない。こんなのは赤塚不二夫のギャグ漫画に出てきそうなキャラクター名じゃないか。いずれ鳥山明の漫画を参考にして、「ベジータ」とか「ピッコロ」なんて名前が出てくるぞ。また、『進撃の巨人』を読み耽る熱心なファンだと、子供に「エレン」とか「リバイ」と附けてしまいそうだ。恐ろしいけど、底辺校で育った親ならあり得る。

親の身代わりとなる子供

  他人の子供だから、親がどんな風に命名するかは個人の勝手だろう。しかし、名附けられた子供を考えると不憫に思えてくる。なぜなら、幾人かの子供は、あたかも親のペットみたいになっているからだ。筆者はたまにテレビ東京の『きらきらアフロ』を観て、笑福亭鶴瓶と松嶋尚美が繰り広げる「たわいない雑談」を楽しむ。しかし、松嶋が会話の中で紹介する子供の話を聞くたびに心が痛むことがある。彼女には長男と長女がいるそうで、息子の「珠丸(じゅまる)」が兄で、娘の「空詩(らら)」が妹になるそうだ。漫才師の松嶋がアホなのは藝の一つになっているからいいけど、子供の名前くらい真剣に考えればいいのに、と"つい"思ってしまう。

  子供は自分の名前を選べないから、不幸になることもしばしばある。小学生までなら「じゅまる」君で可愛らしいが、思春期になれば恥ずかしくなるんじゃないか。松嶋がよく引き合いに出す娘の方も、自分の名前を書いて先生や友達に見せたら、「何て読むの?」と質問されるはずだ。この漢字を目にした一般人で、「らら」と読める人は滅多に居るまい。それでも、多文化主義の平成だから仕方ない。だが、親になった松嶋の教育方針には賛同できないところがある。以前、彼女は「英語が上手く喋れたらいいのになぁ」と願うあまり、ついに英会話を習ったそうだ。しかし、単なる趣味の一環なので進歩が無かった。それでもまだ英会話に未練があるようで、松嶋は息子をインターナショナル・スクール附属の幼稚園に入れたそうだ。

  これはまさしく短絡的な「お馬鹿」の発想で、自分の夢を子供で実現しようとする典型例だ。よく、ピアニストに憧れた女性がレッスンを受けるが、中学生や高校生から始めるので全然ダメということがある。まぁ、楽譜さえチンプンカンプなんだから、指と頭がバラバラに動いて演奏が滅茶苦茶になるのも無理はない。普通なら「自分の努力が足りない」と反省するものだが、頭の弱い御仁だと、「小さい頃から練習しなかったから出来ないのよ! 」と考えてしまうそうだ。たぶん、責任を他者に転嫁することで自分のプライドを守りたいんだろう。

  アホな親だからしょうがないけど、こうしたアカンタレは娘を産むと幼稚園児の頃からピアノを習わせ、無理矢理ピアニストにしようとする。ところが、好きでも無い練習を強要される子供は堪ったもんじゃない。ヒステリーを起こして反抗するから、親子喧嘩が絶えず、終いには高価なスタンド・ピアノが部屋のデコレーションになってしまう。だいたい、クラッシカル音楽とは無縁で、カラオケ店に通えば、Jポップスや歌謡曲を熱唱する親が、自分を棚上げにして、娘に「ちゃんと練習しなさい!」と言えるのか? 一方、娘にとったら「音楽」は「苦役」以外の何物でもない。毎日が拷問のようでピアノが兇器に見えてくる。本人に演奏への情熱が無ければ、楽器の練習は苦痛でしかない。

  英語コンプレックスの親も似たような性質がある。近くに普通の幼稚園や小学校があるのに、わざわざインターナショナル・スクールに通わせ、英語を学ばせようとする親は現実を解っていない愚者である。母国語の習得は子供の一生を左右する重要な教育で、国語能力の低下は他の教科、すなわち数学や理科、社会、英語にまで影響を及ぼす。なぜなら、子供は母語で物事を考え、思索する言語で文章を理解し、自分の意見を述べる時も母語が基本となるからだ。例えば、数学の問題を解く時、母語を習得していない子供は、何を問われているのかさえ分からない。感想文や随筆を書く時だって、日本語が拙いと支離滅裂な文章になってしまう。また、物理や哲学の授業を受けた時、「論理的に考えろ」と言われても、そもそも論理的に書かれた説明文を理解できないからお手上げとなる。しかも、漢字を読めない、書けないとなれば、教師の方が厭になってくるじゃないか。

  松嶋は欧米諸国を旅行した時、現地の白人と会話できなかったことを悔やみ、「英語を喋れたらなぁ」と思ったそうだが、その程度の動機で外国語の勉強が続くとは思えない。英語の基礎を習得していないばかりか、記憶力さえ低下している中年女性が、仕事の合間に勉強したからといってマスターできるものじゃないだろう。松嶋は気づいていないだろうが、西ゲルマン語は日本語と文法・構造(syntax)が根本的に違うし、発音や語源さえ繋がりが無いのだ。ある意味、日本人にとって英語やドイツ語は暗号の塊である。だから、成人してから英語を学ぶ者は、しっかりと文法を理解し、語彙を増やさねばならない。ところが、よほどの執念とか野心が無い限り、大人は記憶する量が膨大になると嫌気がさす。不本意でも、途中で諦めてしまう人が続出するのは当然だ。

  こうした挫折を味わった親の中には、自分の怠惰を自覚せず、子供に夢を託す者が少なくない。高額な授業料を払っても、我が子をインターナショナル・スクール(西歐白人の学校)に入れて、理想の分身(親の代役)にしようとする。確かに、外人学校へ入れられた日本人の子供は、記憶力が旺盛だから、友達と遊んでいるうちに英語を覚えるかも知れない。それに、クルクルパーの親と比べれば発音が良く、早口で喋ることもできるから、「まぁ、うちの子天才!」と低能ママは喜ぶ。だが、家に帰れば日本人の親が待っており、コテコテの日本語で話しかけるから、子供の上達は中途半端だ。いくら幼稚園で外人教師と接触しようが、子供にとったら親の方が大切だし、密接な会話や躾は日本語でなされるから、日本語が主要言語となってしまう。したがって、幼児期からの英語教育は初歩的なものに過ぎない。

  松嶋のような日本人は、「親馬鹿」というより「バカ親」に近い。松嶋本人は「バイリンガルの息子になった!」とはしゃぐが、幼い子供は親が味わった屈辱を体験していないから、英語を喋れるようになっても、大した感動は無いはずだ。だいいち、「バイリンガル」になった日本人の子供は、外人教師の質問に反応しているだけで、利発な子供になった訳じゃない。サーカスの熊と同じである。しかし、「輝かしい国際人になってくれ」と願うバカ親は、長いこと劣等感に苛まれているから、子供の英語力が向上したと単純に感激する。ハッピーな教育ママは、我が子の学力や知能が半減している事に気づかない。本来、正しい日本語や多くの漢字を覚える時期に、英語の「お遊戯」や楽しい英会話で時間を潰してしまうと、やがて大切になる国語能力が低下してしまうのだ。バイリンガルで育った高校生や大学生の中には、戦前の随筆すら読めない者がいる。なぜなら、歴史的仮名遣いや正漢字が分からないし、歴史の知識も無いから意味が摑めないのだ。

  見栄を張りたがる親からすると、我が子が英単語をすらすら読め、日常会話も"ネイティヴ"並に交わすことができれば、お金を払うだけの甲斐があったと思ってしまう。しかし、こうした子供は小学校や中学校に進むにつれ、勉強が苦しくなることもあるのだ。幼稚園を卒業した後、米国や英国に移住するんなら別だが、引き続き日本で生活するとなれば、学問は日本語で修めることになる。大学に進む頃になれば、国語や数学、理科の知識も必要になってくるから、英語の点数だけではカバーしきれなくなり、幼少時の「お遊び」を後悔することになるのだ。もっとも、最近では名前を書くだけで入れる私立大学とか、入試は英語だけという学校もあるから、日本語が未熟でも困ることは無い。それに、有名藝人の息子ともなれば、「二世藝人」という就職先があるから、"ひけらかし"の英語力は特技の一つとなる。そもそも、テレビ藝人に"まとも"な日本語は要求されないから、英語を使って外人タレントにインタヴューできる方が得になるのだ。

  日本には脳天気な親が結構多い。「英語を流暢に喋ることができる」という"能力"は、実際のところ「幻想」に近く、日本でしか通用しない「特技」である。英国や米国に行けば分かるけど、街中のほぼ全員が英語を喋っているから、「英会話力」なんて自慢にならない。不法移民や乞食、犯罪者だってそれなりの英語を喋るし、警官からの職務質問にちゃんと答えている。様々な人種が混在する英米だと、ペラペラ話せることより、立派な論文を書ける方が重要となるので、語彙が豊富で表現の巧みな人の方が社会的評価が高い。さらに、教養人ともなれば、英語はもとより、ラテン語の読み書きができるとか、歴史や古典に精通しているということが必須となる。

  しかし、英会話を重視する国際派の教育ママは、欧米の知識人階級まで頭がまわらず、我が子が成人してから、「中身が空っぽ」の木偶(でく)人形であると気づく。筆者は昔、英語力を自慢する女子学生に、「わぁ、凄い。フィリピン人か支那人並ですねぇ~」と言ったことがある。彼女は激怒したけど、イギリス人やアメリカ人だって同じ意見を持つはずだ。たとえ英語を流暢に話せても、肉体が変化してアングロ・サクソン人になる訳じゃない。松嶋たちが目指す「国際的日本人」は植民地で白人にこびる黄色い奉公人と同じだ。日本の歴史や文化について何も語れず、"これ"っといった特技も無く、ただラップ・ミュージシャン並の英語をひけらかしても馬鹿にされるだけだ。まともな西歐人は洞察力が鋭く、間抜け面のアジア人を相手にすることはない。自国の文化を蔑ろにし、誇りを持たない奴は軽蔑されるだけだ。名誉を重んずる西歐人は、たとえ日本人を好きになれなくとも、名誉を尊ぶ者か否か、を判断できる。松嶋の息子や娘がどのように成長するか分からないが、今のような教育を続けている限り、英語を上手に喋るだけのチンピラにしかならない。

  理解しがたい名前を附ける親とか、英語を学ばせる親は、子供のためを思ってそのような行動を取るのだろうが、常識に欠けるため逆の効果をもたらすことになる。また、「海外で通用する名前にしたい」とか「欧米人に近づきたい」と思って子供に西洋風の漢字名、例えば、「健 / ケン(Ken / Kenneth)」「英土 / エド(Ed / Edward)」「登夢(Tom / Thomas)」とか「マリア/ 麻里亜 (Maria)」「ジュリア / 樹里亜(Julia)」といったものを附ける親もどうかしている。確かに、欧米人が聞けば理解できるが、「これって、日本人の名前なのか?」と思ってしまう。まぁ、キリスト教徒の日本人ならミドル・ネームに「ステファノ」とか「パウロ」があってもいいけど、実家が浄土宗とか真言宗なのにヨーロッパ風の名前なんてちょっとおかしい。

  今いる日本人だけでも「困ったちゃん」が多いのに、今年から更なる移民が増えてくるので、驚きの親が激増するだろう。日本にやって来る研修生とか高度技術者というのは、祖国を捨てて日本国籍を目指す下層民が大半なので、日本人の理解を超えた風習や文化を持ち込んでくる。現在はキラキラ・ネーム如きで驚いているが、マレー人やフィリピン人のイスラム教徒が増えれば、「ムハマッド」君とか「アブドル」君といった子供も普通になってくるはずだ。学校でも異変が起こり、「国語」の授業が「日本語」という名称に変わるかも知れないぞ。子供の会話で「君の家では何語を喋っているの?」という質問が出てくるし、外務省のホームページには、「日本の公用語は日本語です」という紹介が出るかも知れない。平成で日本らしい日本が終わり、次の御代では階級や民族でバラバラになった日本になるだろう。バルカン半島みたいに、我が国がバルカン列島になったら大変だ。

  後編に続く。



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