教科書に載せて全日本人に知らせたい現代史 支那人の卑史 朝鮮人の痴史
黒木 頼景
成甲書房


好評発売中 !

楽曲のスタイルが変わった

  筆者は長渕剛のファンじゃないけど、高校時代、長渕氏を好きな先輩がいて、彼の曲を幾つか聴かせてもらったことがある。当時はまだレコード盤とカセット・テープが主流の時代で、FMラジオの音源を録音したテープを貸してもらい、自宅で聴いてみたら意外に良かった。1980年代まで、長渕氏は主にフォーク・ソングを唄っており、試しに初期のアルバムを手にとって、「巡恋歌」とか「涙のセレナーデ」、「18インチの罠」などを聴いてみれば誰でも判るはずだ。現在の高校生や大学生の長渕ファンは、ロック調の曲を耳にして虜(とりこ)になった人が多いと思うが、筆者の個人的な好みを言わせてもらえば、長渕氏には「素顔」のような曲を書いてもらいたい。この歌は男女の別れをモチーフにしており、彼はしんみりと「夜の顔を鏡で映せば、何て悲しい顔なのぉ~」と唄っていたが、たぶん去りゆく恋人は20代の女性だろう。もし、70代の熟女だと、深夜の素顔は「悲しい」どころじゃなく、恐ろしくさえある。だって、化粧を剝がしたデビ夫人なんて想像したくないし、スッピンの黒柳徹子じゃ誰だか判らない。とにかく、長渕氏の真骨頂は、何と言ってもアコースティック・ギターとハーモニカを駆使したライブ・コンサートであろう。昔(1980年代前半)友人に勧められ、武道館で演奏された「夏祭り」の録音テープを聴いたことがあるが、実に味わい深い名曲だった。同じライヴで披露された「もう一人の俺」も印象深い曲で、筆者はギターの部分をコピーしたことがある。最近聞き直して弾いてみたら、ギター・ソロのパートを覚えていたので、我ながらビックリした。

  以前、熱心なファンだった人に長渕氏のことを尋ねてみたことろ、楽曲のスタイルが激変してしまい、「昔の方がよかったなぁ~」と歎いていた。確かに、1970年代から1980年代半ばまでの曲は、フォーク世代が好むようなメロディーで、男女の関係を唄った曲や繊細な音を奏でる曲が多い。しかし、1990年代になると、ロック調の曲が増えて、激しい音を求めるコンサートに変わったみたいだ。たぶん、ファンの間にも戸惑いとか、異論があるんじゃないか。あれだけ曲調が変わると、昔のファンは離れてしまうだろう。おそらく、長渕氏本人は「スタイルの進化」や「新境地の開拓」のつもりなんだろうげと、初期のファンからすれば、ギター1本でライヴ活動をしていた頃の方が懐かしい。おそらく、長渕氏は同じ曲を繰り返したくないと思い、違うタイプの曲に挑戦しているのだろうが、往年のファンはそれを望んでいないはずだ。全部のアルバムを聞いた訳じゃないから詳しい事は言えないけど、最近のライヴ映像を観ると、何となく空回りの曲を作っているように思える。つまり、自分の才能に合わない曲を必死で書いているように推測できるのだ。筆者は彼のファンではないけど、傍から見てもちょっと痛々しい。(私的な事を言わせてもらえば、藝人の「コロッケ」さんが真似をする長渕剛の方が好みで、コロッケさんが歌う「とんぼ」は傑作だ。ファンが観れば激怒するけど、コロッケさんの物真似は絶品で、誰が見ても大爆笑であろう。)

忘れ去られた「名作」ドラマ

  いつ頃から長渕氏が変化したのか判らないが、出演したドラマの影響もあったのかも知れない。TVドラマ「とんぼ」が大ヒットしたせいでヤクザ役が板に附くようになったが、以前はそうじゃなかった。「家族ゲーム」て家庭教師役をしていた頃は、温和でひょうきんなキャラクターとなっており、ドスの利いた役柄は考えられなかった。その中でも特に印象深いのは、後に長渕夫人となる志穂美悦子と共演した「親子ゲーム」の方である。このTVドラマは1986年に放送され、マニアの間では好評なのだが、一般視聴者からは忘却された作品のようだ。ただし、子役が主役を食ったという作品であることだけは間違いない。昔のドラマには時々すごい子役が抜擢されていたから、内容はともかく「話題の作品」になることも結構あった。

  「親子ゲーム」は、元暴走族の矢板保(たもつ)と恋人の三石加代(かよ)が切り盛りする「九十番」というラーメン屋が舞台だった。同棲する加代も元暴走族で、保と喧嘩すれば怯まず反撃するタイプという設定。ある日、彼らの店に見知らぬ親子連れがやって来て、仲睦まじく食事をするが、しばらくすると父親は息子を残し店を出て行く。一人置き去りにされた少年は吉田麻理男(マリオ)という小学四年生。保と加代は食い逃げと分かり、マリオを知り合いの巡査早川に引き渡すが、児童相談所に預けるのを躊躇う早川は、保と加代に“一時的”に預かってくれと頼む。丁度、夏休み中だったので、マリオは学校に通う必要が無かった。保は預かる条件として、店の手伝いを要求し、戻る場所が無いマリオは黙って従うことにした。

a-1143a-113









(左: 「保」役の長渕剛と「加代」を演じる志穂美悦子  /  右: マリオを問い詰める保)

  ぎこちない手つきだが、マリオは皿洗いや出前の仕事に精を出す。しかし、彼は一言も喋らない。というのも、マリオには深い心の傷があったからだ。捨てられる前、彼は父と二人暮らしで、母親は既に家を出ていたという。そして、子育てに疲れた父親は、九十番に連れて行き、最後の食事を済ませると、「たばこを買いに行く」と告げて息子を捨ててしまったのだ。両親に捨てられたと気付くマリオはショックを受けた。こうして、自分に非がある訳でもないのに孤児(みなしご)となった少年は、自分独りで生きて行く事を心に誓う。マリオは日記にこう記した。

   誰にも頼らず、スーパー・マリオのようになりたい。学校も友達も要らない。お父さんお母さんも要らない。

  しかし、一緒に暮らす保はマリオが何を考え、どう思っているのか知りたくなる。マリオはちゃんと店で働くが、保の呼びかけに言葉を返さず、何があっても口を利こうとしないのだ。ある日の深夜、マリオは寝ている2階からこっそりと1階の店に降りて、自宅に電話を掛ける。もしかしたら父親が戻っているのかも、と期待するマリオだが、やはり誰も出ない。そこに、マリオの動きを察知した保が現れ、「何しているんだ? 家に掛けたのか?」と問い質す。だが、マリオは答えない。痺れを切らした保は「何とか言えよ!」と怒鳴る。それでもマリオが黙っているので、保は堪忍袋の緒が切れて、力任せにマリオを張り倒した。すると、投げ飛ばされたマリオが怒りを爆発させ、「バカ野郎 !」と叫び、保の胸に掴み掛かみかかった。側に居た加代が仲裁に入ると、マリオはどう対応して良いのか分からず、そのまま二階に昇って行く。そして、気持ちが高ぶったマリオは、暗い部屋の中で独り涙を流して悔しがる。感情を口に出せない子供の苦しさが観る者にも伝わってくるシーンであった。

  当初、厄介なガキを預かることになったとボヤいていた保と加代であったが、一緒に暮らし始めると何となくマリオが可愛く思えてきた。保は出前先を教えるため、マリオをバイクに乗せて得意先を回り、その途中でマリオ用のヘルメットを買ってあげたりする。加代もマリオの日常を考え、洋服店に赴き、子供用の下着や服、さらにはランドセルまで買おうとしていた。一方、マリオは出前の途中で近所の小学生に囲まれ、質問されても答えないことでイジメを受ける。これに気付いた保はマリオがどうするのか、その出方を見守るだけで助けようとはしなかった。子供達の問題は子供自身で解決すべし、というのが保の考え方なのだ。そして、ついにマリオがイジメっ子達に反撃し、格闘したことで「わだかまり」が消え失せ、近所のガキどもはマリオを受け容れる。

  最初、保や加代の問い掛けに無反応だったマリオだが、次第に表情を示すようになり、三人の関係は近くなった。普段は喋らないマリオだが、自分の気持ちを日記に書くことがあり、保と加代はマリオが居ないときにこっそりと盗み読みをする。マリオは日記の中で無骨な保をコケにするが、加代に対して好感を持っていた。そして、マリオにとって新鮮だったのは、保と加代が本気で感情をぶつけ合い、掴み合いの喧嘩さえ厭わないことであった。マリオの両親は喧嘩をしても殴り合いはせず、冷たい態度で無視するくらいだったので、本音をぶつけ合って喧嘩する保と加代の方に「人間らしさ」を覚えていたのだ。

  結婚もせず同棲していた加代と保だが、マリオという“子供”が存在する事で二人の感情に変化が現れてきた。最初はムッツリしたガキを背負い込んでしまった、という考えだった保と加代も、徐々にマリオとの距離が近くなり、マリオが笑っただけでも喜ぶようになっていた。とりわけ、加代は母性本能が目覚めたのか、マリオの仕事着を新調し、浴衣まで購入して母親気分。一方、学歴の無い保はマリオのために何かしたいと考え、得意な料理を教えようとする。二人はまるで息子を持っているかのような気分になっていた。ある日、マリオが保に腹を立て、店から居なくなると、保と加代はバイクに跨がって近所を探しまくる。しかし、マリオは家を飛び出さず、押し入れの中に隠れていただけだった。マリオの失踪に焦る二人の姿は本当の親のようで、マリオの存在が既に不可欠になっている事が観ている方にも伝わってくる。

  そうこうして、夏休みも終わりに近づいてくると、マリオの運命に大きな転機が訪れてきた。九十番の仕事に慣れてきたマリオのもとに、突然、あの父親が現れてきたのだ。マリオの父親は巡査の早川と保、加代を前にして、マリオを連れ帰り、もう一度親子二人で生活したい、と心境を打ち明ける。これを聞いた保は理性をかなぐり捨てて激怒した。マリオを我が子のように可愛がる保は、息子を捨てた親の希望があまりにも身勝手に思えてしまい、何と言おうが絶対に赦せない。加代もマリオを手放すのが辛くて悲しくなる。しかし、親子の絆は簡単に切れるものではない。マリオは躊躇するが、やはり自分の本心に逆らえず、父親のもとに戻ろうとする。罪悪感に包まれるマリオだが、最終的に父親と一緒に暮らすことを決め、保と加代の店を去ることにした。

  それから数日後、マリオが“ひょっこり”店に現れたから、保と加代はビックリ。マリオは何も無かったかのように、仕事着に着替え、黙々と店の手伝いをする。現代版「鶴の恩返し」のようだが、何かを口にするとマリオが居なくなってしまいそうで、保と加代は平常心を装い、そっとマリオの仕事ぶりを眺めていた。一通り仕事を済ませると、マリオは仕事着を脱ぎ、九十番を去ろうとする。保と加代はバイクにマリオを乗せ、駅まで送って行く。電車に乗り込んだマリオは何も口にしないが、別れを惜しむ気持ちは保と加代に充分伝わっていた。そして、電車が発車すると、涙ぐむ加代はマリオを追いかけようとするが、保がそれを食い止め、静かに見送ることにする。夕方、保と加代は誰も居ない店に戻り、二階の部屋に上がった。すると、窓に張り紙があり、これはマリオの感謝を綴った手紙だった。そこには「いっぱい、いっぱい、ありがとう」と書かれていた。視聴者もつい目頭が熱くなる。心を閉ざしていた少年が、最後に本当の気持ちを露わにしたのだ。

a-1145a-112









(左: 「マリオ」役の柴田一幸    /    右: 「九十番」で働くマリオ)

  「親子ゲーム」は地味なドラマだけど、人間同士の葛藤がよく描かれていて結構良かった。特に、マリオ役の柴田一幸(しばた・かずゆき)君の演技がズバ抜けている。セリフがほとんど無く、顔の表情のみでマリオの気持ちを表現するんだから凄い。今売り出し中のの若手俳優なんか、とうてい太刀打ちできないだろう。とりわけ、哀しそうな表情を浮かべる彼の演技は秀逸で、とても子供の演技とは思えない。「親子ゲーム」の評価のうち90%くらいは、柴田君の存在で占められているじゃないか。長渕剛の演技も悪くはなかったが、所詮、大人のセリフだから、どうしても役者に見えてしまう。ところが、柴田君は本当にマリオみたいだった。さらに凄いのは、柴田君があっさりと藝能界を引退し、一般人に戻ったことだ。おそらく、自分の限界を悟ったのだろう。子役の運命は悲惨なことが多く、成長すると急に需要が無くなり、役者の仕事が回ってこなくなる。高校生になっても小学生の影が纏わり付けば、厭になって俳優を辞めたくなるはずだ。したがって、柴田君の決断は正解と言えるんじゃないか。

家族の大切さ

  このドラマで考えさせられるのは、子供を捨ててしまう親がいるという現実と、その冷酷な仕打ちにもがき苦しむ子供がいるということだ。自分には落ち度が無いのに、愛する親から見放される子供は、どうしていいのか分からない。小学四年生は幼児ではないが、かといって独立できる青年でもないから、何とも歯がゆい年齢だ。マリオが孤独を選び、寡黙になったのも当然である。何処にもぶつけようがない怒りと悲しみを解消しようとすれば、そうした苦痛を招く「感情」を押し殺すしかない。誰かを愛しているから、その人に未練が残る訳で、誰とも関わり合いを持たず、自分だけの世界に閉じ籠もれば傷つくことはない。しかし、周りの人々から愛されたいと欲するのも人情であり、子供なら尚更だ。それなのに、無力な少年に出来る最大の解決策が、孤独になることなんだから、あまりにも哀しすぎるじゃないか。正直な気持ちを恐れ、その場から逃げようとするマリオの姿に、我々が心を打たれるのは、マリオの言葉に出来ない言葉を察するからだろう。

  家族を持つと、“しんどい”事が多い。だが、それを忘れるほどの喜びも多いはずだ。現在、政府は少子化を懸念し、出産祝いを渡したり、託児所を増設し、育児手当の増額、授業料の無償化、扶養控除の拡大などを呼び水にして、出生率を上げようとしている。しかし、日本人はお金をもらえるから子供を産むのか? 高級官僚や大学教授は税金の“ばらまき”ばかりを議論するけど、一番肝心なのは「人間の心」を論じることにある。彼らは将来の経済状態を心配するだけで、「家庭が素晴らしい」という価値観が無いのだ。日本人は名門校への進学とか、見栄の張れる職業に関する知識は豊富でも、子育ての喜びとか、子孫への配慮という点には無頓着である。たぶん、こうした価値観は数量化できないし、特別な勉強が必要とされる訳じゃないから軽視されているのだろう。

  「キャリア・ウーマン」を礼讃するフェミニストは、「出産や育児なんか誰にでも出来るじゃない !」と小馬鹿にするが、家族を持つことには重要な意義がある。いくら華やかな仕事に就いていても、子育てに奮闘する母親の方がやり甲斐を感じるはずだ。子供を幼稚園に送り迎えしたり、早起きして弁当を作るのは面倒だけど、子供のためを思えば苦労とは感じないものである。また、子供が夜中に熱を出せば、一晩中の看病でクタクタになるけど、苦しむ我が子を放っておけないから親は頑張る。最近の子供は妙にマセているから、いくらチビ助でも幼稚園児ともなれば色々と大変だ。例えば、粉末状の風薬を飲ませようとしても、「苦いからイヤ!」と拒み、「ママが飲めばいいじゃん!」と減らず口を叩く。そこで、母親が「苦くないから」とアイスクリームに混ぜても駄目で、子供は口を固く結んでお地蔵さんを決め込む。たとえ、すったもんだの末に飲ませたものの、1時間くらい手間がかかるので、仕事の支度をせねばならない母親は頭を抱えてしまう。一家の大黒柱たる父親だって、職場と家庭の両立で大変だけど、子供の将来を考えれば怠けることはできない。父親の靴下を臭いと嫌がる娘でも、結婚の時に父がコツコツ貯めたお金を手にすれば、感謝の涙が込み上げてくる。そして、父親の方も結婚式で号泣なんだから、キャバレーのお姉ちゃんに貢ぐより自分の娘に給料を使うべきである。昔は、子供の成長を生き甲斐とする親が多かったし、親孝行をしたいと考える子供も同じくらい多かった。

  長渕氏のドラマといえば、「親子ゲーム」より「とんぼ」の方が有名なんだろうけど、彼のファンはどう評価しているのか? 長渕氏は肉体を鍛えて、曲調まで変えてしまったが、華奢な頃の方が良かったように思えてならない。昔、長渕氏がDJを務めるラジオ番組の録音テープを聞いたことがあるけど、現在の長渕氏とは随分違っており、爽やかな好青年という感じだった。それに、妙な政治的・社会的な発言もなく、気楽な話題で笑いを取っていたから、聴いていて愉快だったのを覚えている。過去にこだわるのは良くないが、過去と訣別してしまうことも良いとは言えまい。ただ、これは長渕ファンの間でも意見が分かれるところだろう。

  ミュージシャンには変貌が激しい人がいるようで、フォークソング界の大御所である松山千春も例外ではない。「旅立ち」や「人生の空から」「銀の雨」を唄っていた頃の千春は、長い髪を靡かせる好青年だった。そんな若手歌手も月日が経てば、その雰囲気は豹変し、サングラスは同じでも髪の毛は無い。以前は北海道出身の素朴な青年だったのに、今じゃ山口組の若頭みたいに思えてくる。そして、彼は新曲作りより政治活動の方に熱心な時期があった。共産党系の家庭に育ったから仕方ないけど、よりにもよって鈴木宗男と組むことはないじゃないか。宗男と千春がタッグを組んで街頭演説なんておぞましい。北海道は緑の大自然が豊富なのに、そこに住む道民は赤く染まっている。ただし、鈴木宗男は頭が真っ赤というより腹が真っ黒い。宗男なら演技抜きで、「とんぼ」の出演者になれるんじゃないか。ヤクザから賄賂をもらう政治家の役ならピッタリだ。でも、そんな宗男に蹴りを入れる志穂美悦子のドラマを見てみたい。関係無いけど、長渕剛と悦っちゃんが実際に喧嘩したら、どっちが勝つのかな?



人気ブログランキング