教科書に載せて全日本人に知らせたい現代史 支那人の卑史 朝鮮人の痴史
黒木 頼景
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密かに進んだクーデタ

  近頃は劇場で邦画を観ることがめっきり減ってしまった。これは個人的趣味の問題だから一般化できないが、お金を払って観たくなるような作品が極めて少ない。それでも、日本映画は毎年制作され、そこそこ健在なんだろうげと、興行収益で見てみると、利益を上げているのはアニメ作品か、人気アイドルをキャスティングしたTVドラマ風映画くらいだろう。子供を対象にした「ドラえもん」とか「名探偵コナン」といったアニメ映画がヒットするのは予想通りだから、これといって驚くに値しない。去年ヒットした『コード・ブルー』という映画は初耳だったけど、インターネットで調べてみたら、TVドラマの劇場版だった。何てことはない、フジテレビが無料で放送したドラマに、多少の制作費を上乗せして作った豪華版ていどの代物だ。既に固定客が附いているから安全パイということなんだろう。一刻も早く見たいファンならお金を払うけど、普通の映画好きなら「劇場に行くまでもない」と思ってしまい、気長に地上波テレビの放送を待つんじゃないか。

  つまらない愚痴になってしまうけど、最近の邦画には“これっ”といった作品が無い。是枝裕和の『万引き家族』なんて銀幕で観る映画じゃないだろう。こんな作品が外国で賞を獲得するなんて、日本映画界の恥さらしだ。平成と違って昭和の頃だと、大人の観客が満足するような作品が結構あった。まづ、出演する役者が上手くて、主役もそうだが脇を固める役者が素晴らしく、全体的に重厚な雰囲気があったのを覚えている。当時は制作陣の意気込みが凄く、民衆は映画の予告編を観ただけでもワクワクしたから、大きなスクリーンと音響設備が整った劇場で鑑賞したいという熱望があった。そうした映画の一つに挙げられるのは、『皇帝のいない八月』である。

  この映画は社会派サスペンスといったところで、憂国の情に燃える自衛隊がクーデタを目論むストーリーとなっている。主人公の藤崎顕正(ふじさき・あきまさ / 渡瀬恒彦)は元一等陸尉(大尉)で、自衛隊を「軍隊」にすべくクーデタ計画「ブルー・プラン」に参加するが、計画の中心人物である真野陸将(鈴木瑞穗)が寸前のところで腰が引けてしまい、悲願のクーデタは頓挫する。これに対して怒り心頭の藤崎は真野に蹶起を促すが、勢いを失った首領に再開の度胸は無かった。後に、クーデタ未遂の責任を取らされた藤崎は自衛隊を去る。博多に居を構えた藤崎は、しがないトラック運転手となって妻の杏子(きょうこ / 吉永小百合)と二人暮らし。だが、彼の野望は消えていなかった。藤崎は志を同じくする自衛官らと密かに関係を保ち、ついに全国規模のクーデタを実行に映す決断を下した。

Taichi 1(左  / 太地喜和子 )
 ところが、秘密裏に実施されるはずだったこのクーデタ計画は、蹶起部隊のトラックが偶然追跡したパトカーを破壊したことで発覚する。この異常な事故に直ぐさま公安当局が反応し、内閣調査室の利倉保久(としくら・やすひさ / 高橋悦史)が責任者となり、危険な政治思想を持つ自衛官の洗い出しを始めた。利倉から報告を受けた佐橋総理(滝沢修)は、不穏な動きの性質を考慮して、計画の黒幕は民政党の重鎮、大畑剛造(佐分利信)に違いないと推測した。大畑は元首相で右派の大御所。かつては戦犯として投獄された経歴を持つ。彼は自分の派閥を用いて政局を動かすほどの有力者で、財界とも繋がりが深い。日本経営連合会の氷山会長などは大畑の邸宅に足繁く通い、様々な裏工作から捻出される上納金を渡していた。権力者というのは何歳になっても金銭慾と性慾が強く、この闇将軍も例外ではない。大畑は中上冴子(太地喜和子)という愛人を囲っており、彼女は表向きナイト・クラブのママとなっていた。

  藤崎の妻である杏子は江見為一郎(えみ・ためいちろう / 三國連太郎)の娘で、彼は陸自幕僚監部で内務調査を担当している。彼は法事で鹿児島にいる時、首相官邸から緊急の連絡を受け、急遽、東京に戻る事になった。しかし、その途中、絶縁した娘に会いに行く。なぜなら、容疑を掛けられた自衛官リストの中に娘婿の藤崎が入っていたからだ。クーデタが未遂に終わった五年前、江見は藤崎の上官で、蹶起に燃える藤崎を咎め、辞任に追い込んだ。すると、江見に恨みを抱いた藤崎は、彼の娘である杏子を拉致して強姦するが、彼女は藤崎に惹かれてしまう。(女心は不思議なもので、真面目な凡人より「危険な香り」がする男に惚れてしまうようだ。) しかし、当時の彼女には石森宏明(山本圭)という婚約者がいた。彼は杏子が何も告げず自分と別れたことに納得しなかったが、仕方ないと諦め別の女性と結婚する。そして、後に彼は勤めていた会社を辞めて雑誌記者となる。

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(左: 渡瀬恒彦と吉永小百合   /   右の中央:  山本圭)

  絶縁していた父親が不意に訪ねてきたことに違和感を感じつつも、杏子は東京へ向かう父を見送った。その直後、藤崎の部下である自衛官が杏子のもとに現れ、夫からの手紙を手渡す。そこには当分の生活費に困らないだけのお金が机の中にあるとだけ書かれていた。夫の身を案じた杏京子は駅に向かい、必死で藤崎を捜すうちに、寝台特急の「さくら」に乗車する。偶然だが、博多で取材を終えた石森も「さくら」に乗っており、車内で杏子と出逢う。この急行列車にはクーデタに参加する自衛官が多数乗車しており、その指揮官は藤崎だった。

  今回のクーデタも真野陸将が首謀者となっていたが、その背後には米軍のG2に所属するトマス中佐が控えていた。このアメリカ人中佐は野心家のようで、革命政府の首班となる真野を裏で操ろうと目論んでいた。二人の接触を報告された利倉は、米軍とCIAが一枚噛んでいることに気付く。クーデタ計画が開始されると、日本各地から蹶起部隊が続々と首都を目指して進行してくる。しかし、真野はトマス中佐と一緒にクルマに乗っていたところを江見に拘束されてしまう。捕虜の尋問に長けた江見は、真野を地下室で拷問にかける。だが、真野は最期まで自白せず、舌を噛み切って自害する道を選んだ。せっかくの手掛かりを殺してしまった江見は、必死になってクルマを調べ、そこに隠された計画書を発見する。クーデタの全貌を知った利倉は、実力行使でクーデタ部隊を鎮圧することに決め、佐橋総理の承諾を仰ぐ。首相からの許可を得た利倉は、特殊部隊を含む自衛隊を投入し、容赦無く叛乱分子を攻撃した。やはり、多勢に無勢なのか、蹶起部隊は次々と潰されて行く。

  ところが、藤崎部隊が乗り込んでいた寝台列車だけは停止させることが出来なかった。そうした中、列車を乗っ取った藤崎は、ようやく夫を捜す妻と再開する。杏子は夫に無謀な事を止めるよう説得するが、藤崎の決意は固く、女房の言葉に耳を傾ける気は無かった。(渡瀬恒彦が“情”に訴える吉永小百合に向かって、「甘ったれんな!」というセリフは格好いい。クールな渡瀬にはこういう言葉が良く似合う。) 「さくら」を占領した藤崎達は、無線で官邸と連絡をつけ、列車に爆弾が仕掛けられている事や、乗務員と乗客を人質にしている事を告げ、大畑との会話を要求する。しかし、その大畑は身の危険を察知して、利倉が知らない別荘に隠れていた。約束の時間が過ぎても要求に応じない利倉に業を煮やした藤崎は、躊躇なく車掌を撃ち殺す。この惨殺に反撥した島軍曹は、クーデタの雲行きが怪しくなったこともあり、列車内で謀反を起こしてしまう。

  一方、この事態を何としても終熄させたい利倉は、クーデタそのものを「無かった事」にすべく、マスコミ各社に箝口令を敷き、武力を以て列車を止めることにした。利倉の狙いはクーデタ部隊の皆殺しである。また、救出した乗客は口封じのため、ずっと政府の監視下に置くというものであった。派遣された自衛隊の特殊部隊が列車に突入すると激しい銃撃戦が起こり、激闘の嵐に晒された藤崎と杏子は銃弾を浴びて斃れてしまう。石森も銃撃戦の犠牲者となった。ところが、瀕死の藤崎は残りの力をふりしぼって起爆装置に手を伸ばし、運命のボタンを押してしまうのだ。各車両は大爆発を起こし、凄まじい炎に包まれる。この鎮圧は「列車の脱線事故」という名目で処理され、クーデタ未遂事件は闇に葬られた。

  クーデタの黒幕であった大畑は、愛人の冴子が持ってきたワインを飲んで急死する。何と、この毒入りワインは利倉の部下が冴子に渡したもので、大畑の居場所が分からない利倉は妾を利用して厄介な大物を抹殺したのだ。意外なことに、冴子は以前、利倉と肉体関係を持っていた。利倉は大畑がワイン好き出あることを知っていたので、何も知らない冴子を暗殺者に仕立てあげ、間接的に厄介者を始末したという訳だ。その冴子も何者かに殺され、その遺体は別荘の近くにある海岸に横たわっていた。一方、娘だけは助けたいと欲した江見は、強行突入を中止するよう利倉に懇願するが、その頼みは聞き入れられず、官邸の警護官に拘束され、乱心者として精神病院に監禁されてしまうのだ。

蹶起した軍人の叫び 

  小林久三の原作を基にした『皇帝のいない八月』は、列車を占拠して要求を突きつけるという筋書きであるが、こうした設定にはちょっと無理がある。首都制圧を目指すなら、列車を乗っ取らず、そのまま穏便に東京まで向かう方がいい。制作秘話によると、ハリウッド映画の『カサンドラクロス』を参考にした為だという。その他、この作品にはニ・ニ六事件や三島由紀夫の自決など、様々な歴史的要素が盛り込まれていた。映画の根底には無茶な計画を推し進めようとする軍人への批判が流れているが、幾つか例外的に感動する場面があった。例えば、列車内でマイクを手にした藤崎の言葉は、現在でも我々の心に鋭く突き刺さる。彼は言う。

  「我々日本人は古来から道義忠誠心に篤く、一億一体となって皇室を中心とした民族国家を形成してきた。しかるに今、どこに愛国心があるのか、どこに日本固有の文化があるのか。道義は麻の如く乱れ、秩序は破壊されようとしている。國體(こくたい)を守るのは軍隊である。自衛隊が目覚めて真の軍隊たらんとする時こそ、日本が目覚める時である! 建国の本義とは天皇を中心とする日本の歴史、文化、伝統を守ることにしか存在しないのである!」

  「我々は耐えた。ただひたすら耐えた。日本人自ら、自衛隊員自ら目覚めてくれることを。しかし、聴け! 憲法改正は既に政治プログラムから除外されたのだ。憲法改正が我が国の議会制民主主義のもとで不可能であれば、我々の取り得る道はひとつ。我々自身が蹶起することである。自衛隊が建軍の本義に立って、真の國軍になるために、我々は怒り悲しみ、四時憤慨した。我々は命を捨て、国の礎石たらんとしたのである!」

  渡瀬恒彦の熱弁は映画で一番のクライマックスになっており、これこそ、言葉で言い尽くせない魂の叫びである。命を懸けてクーデタを実行しようとする武人の覚悟がうかがえる。

  三島事件からもう50年近くなるが、我々は未だに國軍を持てないまま、アメリカの属州状態に甘んじている。独立国というのは、自分の運命を自分で決めることが出来る国家だけを指す。日本は自ら歩む道を自分で決めることができない。なぜならば、兵器システムが全て米国頼みになってるからだ。いくら高級なハイテク装備品を揃えても、それが米軍の支配下に置かれていれば、日本はワシントンの意向を無視できない。形式上日本の総理大臣は自衛隊の最高司令官になっているが、有事となれば合衆国大統領の統制下にある。したがって、独立した行動を取れない自衛隊は、実質的に米国の補助軍であり、合衆国の世界戦略に嵌め込まれている一つの「手駒」に過ぎない。明治の元勲が聞けば、「まさか!そんな ・・・」と驚いてしまうだろう。(これは「毅然とした外交」を求めながら、「軍隊」を否定する一般国民が悪い。)

  祖国を愛する日本人なら、藤崎が味わった屈辱を解るはずだ。自衛官は武人と見なされず、相変わらず特殊公務員のままである。だいたい、軍人を罪人扱いする憲法を温存しながら、「有事には命を張って日本を守ってね」と言える国民がいるのか? クーデタを目論む自衛官を笑うのは容易い。だが、我々は藤崎の焦りと悔しさには共感できる。藤崎は心の底から叫ぶ。「我々は五年も待った。もう待てぬ。我々の愛する美しい歴史と伝統の国、日本を骨抜きにした憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか! 我々が士人の魂を持つ一個の男子として、真の武士として蘇るため、共に立って義のために死ぬ奴はいないのか!」 映画はともかく、毎日苦しい訓練を積む自衛官は、一体どんな気持ちで武器を手にしているのか? 憲法で手足を縛られたまま国防を考えるなんて酷だ。たとえ、事態対処法が制定されたからといって、政治家に国家意識が無く、安全保障の基礎知識すら無い状態では、とても国民を守ることなどできない。第一、国会議員の中に外国の内通者が潜んでいたらどうするのか? 議員自身が売国奴でなくとも、その右腕とか側近がスパイで、普段から機密情報を流していれば、敵は自衛隊の欠点を突くことができる。また、工作員と化した政治家がいれば、有事の時、あるいは有事の前に、自衛隊の出動をそれとなく妨害して侵掠者を手助けすることも考えられるのだ。日本における「シヴィリアン・コントロール」とは「素人の容喙」、すなわち「軍人の邪魔」しか意味しないのである。

Yamamoto Satsuo 1(左  / 山本薩夫 )
  『皇帝のいない八月』で残念なのは、監督が左翼の山本薩夫(やまもと・さつお)であったことだ。彼は『白い巨塔』や『華麗なる一族』、『金環蝕』、『不毛地帯』などを手掛けたことで知られているが、学生時代から左翼思想に染まっていたという。何しろ、在学中から札付きで、特高に捕まるくらいだから筋金入りの左翼だ。これが元で通っていた早稲田大学を中退となり、それから映画界に入ったと言われている。黒澤明や大島渚、山田洋次、渡辺邦男などを思い出せば分かるように、映画監督には元左翼が多い。(渡辺邦男は大ヒット作『明治天皇と日露大戦争』を手掛けた監督。) 山本薩夫も根が赤い人物なので、蹶起する自衛官を題材にしても、どことなく否定的に描いてしまうのだろう。山本監督の本音は石森のセリフに現れている。

  事件に巻き込まれた石森は、列車を制圧した藤崎を罵り、自衛官から奪い取った拳銃を向けて、計画の中止を強要する。ところが、藤崎は怯まない。むしろ、「撃ってみろ!」と脅しをかけた。さすが、軍人の藤崎は度胸のが据わっている。石森は引き金に触れるが、動揺して撃つことができない。藤崎は石森に対し、こう言い放した。

  「撃ってみろ ! ふやけた”お前の平和なんぞ、あっという間に吹っ飛ぶぞ!」
  「お前の平和はクズだ!  東京を見てみろ。どこに美しさがある! とここに秩序があるのか!」
  「我々は憲法を改めて、かつてあった美しい秩序と美しい精神を築くんだ!」

   このように述べた藤崎に対し、真っ向から対峙する石森はこう言い返した。

  「何が秩序だ! 何が伝統だ! 天皇一人のために俺たちは何人殺されたんだ? 」
  「お前は軍国主義の復活に酔っているだけだ ! “命を懸ける”とは、死んだって生きることだ。子供のため、女のために、死んだって自分を守るためだ。俺はそういう平和のために生きている人間だ!」

  石森の反論はまさしく「戦後民主主義」の神髄を言い表している。すなわち、どんな状態であっても「平和が一番」であって、何よりも「生きること」が最高の価値となっている。こうした人物にとって、藤崎の行動は狂気の沙汰としか思えない。石森の平和論は奴隷の人生観と同じだ。奴隷は生きるために、如何なる恥辱をも堪え忍ぶ。どんなに虐待されようが抵抗しないし、“死にたくなるような”辱めを受けても、それを黙って甘受し、支配者の激情が治まるのを待つ。奴隷にとって「武士の誇り」など別次元の贅沢品で、なんらの世俗的利益も無い。むしろ、有害である。第一、主人に従順であれば飯が貰えるし、殺されることもないから、無駄な事はしない方がいい。現在の日本人もこれと似た考えを持っている。独立国の矜持(きょうじ)を放棄し、何があっても武力に訴えず、お金で片をつければ誰も死ぬことはない。危ない場所には近づかず、国内で平和論を唱えていれば、何事も起きず、一生平穏に暮らせると信じている。常識で考えれば馬鹿らしいけど、受験勉強をして大学を卒業した者にとっては、この非常識が「良識」となってしまうのだ。山本圭扮する石森を見ていると本当に情けない。でも、こんな日本人が多数派なんだから、穏健な保守派でもクーデタに賛同したくなる。

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(写真  /  「佐橋総理」役の滝沢修)

  『皇帝のいない八月』は左翼が作った反ナショナリズム映画だが、出演者だけは素晴らしかった。渡瀬恒彦を主役に抜擢したのは正解だったと言えるんじゃないか。裏話によると、兄の渡哲也を起用するはずだったが、スケジュールの都合で弟の渡瀬に主役が回ってきたそうだ。屈折した過去を引き摺る藤崎役なら、実直な感じがする兄よりも、ちょっと不良の雰囲気を漂わせる弟の方が似合っている。また、渡瀬恒彦を囲む脇役が良かった。佐橋総理を演じた滝沢修と大畑剛造を演じた佐分利信は秀逸だ。両者には「いかにも」といった貫禄と存在感がある。クーデタが起きたのに、政権闘争や派閥人事の方を心配する総理大臣なんてケシカランが、滝沢はこうした生臭い政治家を見事に演じていた。滝沢が演じた佐橋総理を見ていると、派閥を率いる佐藤栄作とか福田赳夫よりも、「クリーン」を売りにした腹黒い三木武夫を想い出す。当時の映画としてはよくあるが、クーデタを用いて現政権に揺さぶりを掛ける闇将軍という設定も、ちょっとリアルで実におもしろい。ふてぶてしい大畑役に佐分はピッタリだった。

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(左: 「大畑」を演じた佐分利信   /   右: 「佐橋」を演じた大滝修)

  とにかく、山本監督の描き方には感心しないが、役者のキャスティングだけは抜群だった。そう言えば、彼は1966年に映画版『白い巨塔』を手掛けたが、東都大外科教授の「船尾隆」役には佐利を起用していた。偶然なんだろうげと、1978年に制作されたテレビ版『白い巨塔』では、滝沢修が船尾役を演じていたのだ。一方、劇場版とテレビ版の両方で主役は田宮二郎が務めていた。やはり、「財前五郎」役は田宮が一番だ。佐藤慶も良いが、田宮にはかなわない。脇役のキャスティングもかなり重要で、実力派で固めているから主役が光るという事もあるのだ。ちなみに、映画版の里美教授役には山本圭の兄である山本學が起用されており、TV版の『白い巨塔』では、太地喜和子が財前の愛人「花森ケイ子」を演じていた。太地喜和子にはどうも「愛人」役が似合っているみたいだ。

  もし、『皇帝のいない八月』をナショナリストの監督が撮っていたらどうなっていただろうか? ただ、これは非現実的で、とても難しい。日本には左翼監督ばかりなので無理がある。しかし、藝術性を尊ぶヨーロッパなら、左翼であっても“マシ”な監督がいそうだ。例えば、バート・ランカスターとアラン・ドロンが出演したことで知られる『山猫』や、バイエルン王ルートヴッヒ2世を描いた『ルートヴッヒ』、ナチス時代を扱った『地獄に落ちた勇者ども』などで知られるルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti)が『皇帝のいない八月』を手掛けていたら、どんな作品になっていたことか。おそらく、遙かに深みのある作品になっていたんじゃないかと思う。ヴィスコンティは第二次大戦中、イタリア共産党に入っていたが、映画監督としては一流だった。彼がルートヴッヒ役に抜擢したヘルムート・ベルガーやエリザベート役に起用したロミー・シュナイダーは本当に良かった。何と言っても画面が鮮やかで気品に溢れていたから、巨匠が手掛ける映画には豪華さがある。確かに、邦画だと予算不足でみすぼらしくなるが、もし日本の監督が多少なりとも愛国心を持っていたら、日本人の琴線に触れるような作品になっていたはずだ。左翼の映画にはどうしても軽薄さと幼稚さが見られる。彼らが人間として未熟だから、日本人を感動させることが出来ないのであろう。せっかく渡瀬恒彦を採用したのに、描き方が拙いために作品が「イマイチ」になってしまった。結局、日本の左翼監督には、リリー・フランキーと樹木希林を使った“お粗末”な映画が似合っているのかも知れない。



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