教科書に載せて全日本人に知らせたい現代史 支那人の卑史 朝鮮人の痴史
黒木 頼景
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困った王様が君臨していた英国

American Revolution 2









  昨年(2018)の11月30日、秋篠宮殿下が記者会見でなされた御発言は、誠に現代を映し出す鑑(かがみ)である。殿下の御言葉は、大嘗祭は宗教色が強いので、それを国費で賄うことは宗教分離を定めた「憲法」に違反するのではないか、という趣旨のものであった。たぶん、これは前回の儀式にかかった総経費が二十数億円にも上った事への反省なのかも知れない。そこで、秋篠宮殿下は公費を充てることは適切ではないので、内廷費から捻出すべし、というお考えなのだ。

  おそらく、殿下は国民の税負担を御心配なさっての御発言なんだろうが、こうした思考は皇室伝統に沿うものではない。第一、現在の「日本国憲法」は、占領軍が作成した懲罰目的の「反省文」であり、日本の國體(constitution)を反映していないのは周知の事実。反軍思想に基づいた「憲法」などは、狂人を縛る「拘束衣」に過ぎず、明治大帝ばかりか、元勲たちが目にしたら卒倒しそうな代物である。一方、我が国の憲法学者がこの「懲罰憲法」を称讃したのは、強かった日本軍の解体と日本人の弱体化を加速したからだ。今では信じられないけど、敗戦後の進歩的文化人たちはソ連の侵攻を期待し、赤軍が上陸したら赤絨毯で迎えるつもりだった。スターリン元帥が日本の支配者になれば、威張り腐っていた軍人は総て銃殺刑だし、天皇陛下も抹殺できる。しかも、鬱陶しい国粋主義的老教授たちが一掃されるので、「アカ」と罵られた若手は「やったぁ! ようやく俺たちも正教授になれるぞ!」と大喜び。ただ、彼らにとって残念なのは粛清の天使がスターリンじゃなく、マッカーサー元帥であったことだ。でも、邪魔者を片付けることが出来たから、結果的にはどちらでも良かったのだろう。

  次に厄介なのが、「宗教分離」という呪文だ。これは高校や大学で憲法の授業を取ると、必ず出くわす洗脳用語である。元々、「政治と宗教を融合してはならない」とする禁止は西歐からの輸入で、江戸時代の日本人が聞いたら「アホか!」と呆れ返るだろう。神州の日本で「祭り事」を抜いた「政治(まつりごと)」なんて考えられない。西歐人が教会の政治介入を嫌ったのは、三十年戦争のような宗派争いに嫌気が差したのと、「王権神授説(Divine Right of Kings)」といった政治思想、すなわち主流派となった教会による迫害を排除したかったからである。日本人は礼拝の違いくらいで何百万人も殺そうとは思わないし、神主が政治を壟断して独裁権を狙うなんて考えない。戦国時代だってイランのホメイニみたいな宗教家は現れなかった。家康が頼りにした大僧正の天海は結構な影響力を持っていたが、所詮は知恵袋的存在に過ぎず、本多や酒井、井伊、榊原の四天王を凌駕する程の権力を握ることはなかった。

American Continental Congress 1American puritans 1









  イギリス人が宗教的権威をふりかざす君主を嫌うのは、スコットランドからやって来たジェイムズ1世の秕政(ひせい)に由来する。この王様について話すと長くなるから省略するが、「最も賢い愚者」と呼ばれたジェイムズは王権神授説の権化だった。彼の考えによると、国王は天主(God)の恩寵(grace)を授かった地上に於けるキリストの代理人(Vicarius Christi)であるから一番偉いというわけ。したがって、臣民が王様に楯突くということは、全知全能のイエズス・キリストに向かって叛逆するのと同じくらい不届き千万、即縛り首でもおかしくはない。従順な臣民に慣れたジェイムズにすれば、イギリス人は御しがたく、何かあれば直ぐイングランドの法や伝統を持ち出して、あれこれ注文をつけるから頭にくる。

  自信満々の王様にとって、あれこれ諌言を挟んでくるイングランド人は実に鬱陶しい。「お前らはつべこべ言わず、朕の言うことにだけ従え!」というのがジェイムズの主張であり、臣下への命令でもあった。ところが、コモン・ローの大家であるエドワード・クック卿(Sir Edward Coke)などは、「たとえ国王陛下の権威・権力といえども、イングランドの法の下にあります!」なんて口答えするから、ジェイムズは怒髪天を突く勢いで叱責する。案の定、王様の逆鱗に触れたエドワード卿は投獄されてしまう。しかし、彼は牢屋に入ってもへこたれなかった。(まるで、巣鴨プリズンに入った岸信介みたい。) そのうえ、エドワード卿は人望が厚く、彼を支持する仲間も多い。というこで、国王ジェイムズはしぶしぶだが、エドワード卿の粛清を諦めるしかなかった。一方、日本でも有名なフランシスコ・ベーコン卿は卑屈なほど王様にベッタリ。胡麻を擦りすぎでバターになるくらい。ベーコンはコモン・ローの法律家を侮蔑し、国王の絶対権力を認めないクックを目の敵にしていた。日本の歴史教科書では偉大な哲学者扱いだが、その個人的資質や性格を調べてみると、本当に嫌な奴ということが分かる。

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( 左: ジェイムズ1世 / チャールズ1世  /  エドワード・クック / 右: フランシス・ベーコン )

  まぁ、親爺がこんな風だったから、息子のチャールズ1世も王権神授説を心から信じていた。何しろ、「議会は国王の意思に従え!」という態度であったから、君主政を尊重するイングランドの臣民は気の毒なくらい困っていた。庶民は建艦税で苦しむし、紳士階級の愛国者は高圧的な王様に参っていた。国王に諌言しながらも恭順を示すジョン・エリオット卿(Sir John Eliot)は、チャールズ国王を直接非難できないから、側近のバッキンガム公爵(Duke of Buckingham / George Villiers)を攻撃するしかなかったという。本当は、チャールズが一番反省すべきなんだが、この王様には自己反省という精神が無く、議会が反抗的だと、ムっときて強制的に解散を命じるほどだった。こんな調子だから、オリヴァー・クロムウェルの言い分にも三分の理くらいあると思えてしまうのだ。

誤解されているアメリカの政教分離

  「政教分離」と言えば、左翼知識人は合衆国憲法を持ち出して、「親分のアメリカ人も宗教と政治を分けているじゃないか!」と自己弁護に励むが、建国の父祖たちが反キリスト教的ということは全くなかった。それどころか、彼らは国民の道徳心を涵養するためにも、絶対キリスト教が必要と思っていたのだ。政教分離が取りだたされたのは、「アングリカン教会あるいは別の教会を創って、アメリカの新たな国教にしてはならない」というだけで、公の場からキリスト教を排除することではなかった。キリスト教を大切にしていた有名人を挙げるとキリが無いけど、ちょっとだけ紹介してみる。

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(左: ジョン・ジェイ  / ジョン・アダムズ  / ジョン・クインジー・アダムズ  / 右: アレグザンダー・ハミルトン )

  日本の高校生だとピンと来ないだろうが、ジョン・ジェイは著名な建国の父祖である。彼は連邦最高裁で初代の首席判事を務めたり、外務長官およびニューヨーク州知事などを歴任した外政官でもあった。フランス・オランダ系であったジェイの祖先は、宗教的迫害を逃れてきたユグノー信徒であったという。したがって、こうした家庭に育ったジョンが敬虔なキリスト教徒であってもおかしくはない。彼にとってキリスト教抜きの社会倫理など考えられず、事実、次のように述べていた。「アメリカで信仰されているキリスト教は、叡智と美徳に満ちている」(John Jay, Correspondence and Public Papers of John Jay, ed. by Henry P. Johnston, G. P. Putman's Sons, New York, 1893, Vol. IV, p. 491.Address to the Annual Meeting of the American Bible Society, May 8, 1823.)

  第二代合衆国大統領を務めたジョン・アダムズの息子で、自身も第六代大統領となったジョン・クィンジー・アダムズは、キリスト教文明を讃えていた。彼は言う。「キリスト教は文明人のものでり、理に叶っている」(John Quincy Adams, An Oration Delivered Before the Inhabitants of the Town of Newburyport at Their Request on the Sixty-First Annuversary of the Declaration of Independence, Newburyport, Charles Whipple, 1937, p. 17.)

  今さら歎いても始まらないが、日本の大学教授は左巻きの連中が矢鱈と多いので、アメリカ史の授業も左旋回が定番となっている。アメリカ政治を“専門”にしている教授どもは、アレグザンダー・ハミルトンとかジョン・アダムズといった保守派を嫌っているから、一生をかけての研究対象とはならず、ちょっと触れるだけか、ほぼ無視というのが普通だ。大学の図書館を眺めてみると一目瞭然。本棚には左翼学者のクズ本ばかりが陳列されており、「無能な教授を養うために著作が購入されたのでは?」と誰もが疑問を抱く。だいたい、ハミルトンやアダムズの評伝や研究書が、岩波書店とかミネルヴァ書房、平凡社などから出版されているのか? ヘルベルト・マルクーゼ(Herbert Marcuse)やエリック・ホブスボウム(Eric Hobsbawm)などの左翼本なら沢山あるのにねぇ~。

Thomas Paine 1(左  /  トマス・ペイン)
     日本の歴史学会はマルキストの養老院みたいで、メンバーの旋毛(つむじ)は悉く左巻き。ややピンクに染まったくらいの若手だと、「学問が足りない!」とばかりに根性焼きを加える。彼らにとってのヒーローは、フランス革命を起こしたジャコバン派とか、トマス・ペイン(Thomas Paine)の如き革命家や扇動家で、ジョージ・ワシントン将軍のようなイギリス紳士ではない。とにかく、日本の歴史学者や政治学者は、保守的なアメリカ人を嫌い、社会改革を目指す過激派が大好き。ということで、ペインの『コモン・センス』とか『理性の時代』、『人間の権利』は大好評。日本の伝統的社会を改造し、本丸の皇室を潰したい極左学者は、ヨーロッパ貴族や君主政を批判するペインを持ち上げ、アメリカの独立革命を讃美する。だが、彼らは建国の父祖なんかどうでもいい。要は、君主政を否定し、人民主体の共和政を樹立したいだけだ。一方、独立戦争を起こした入植者たちは本国の君主政に反対しておらず、ただイングランドの臣民が代々持つ「国民の権利」を守りたかっただけ。したがって、トマス・ペインのようなゴロツキ扇動家のパンフレットなんか興味が無い。むしろ、唾棄すべき紙切れだった。

  独立派の中でも思慮深いジョン・アダムズは、不届き者で卑しい根性を持つペインに対して厳しく反駁した。彼は言う。

  かつて広まった宗教すべてにおいて、または古代や現代にある宗教の中で、キリスト信仰は叡智と美徳、公平、人情の宗教である。あの“ならず者”(ペイン)が何を言うのか、言わせてやれ」(John Adams, The Works of John Adams, Second President of the United States , ed. by Charles Francis Adams, Charles C. Little and James Brown, Boston, 1850-1856,  Vol. III, p.421, diary entry for July 26, 1796.)

  独立宣言の署名者であるベンジャミン・ラッシュは、友人のジョン・デッキンソン(John Dickinson / 合衆国憲法の署名者)に宛てた手紙に、ペインの『理性の時代』は「馬鹿げており、不敬だ」と書いている。(Benjamin Rush, Letters of Benjamin Rush, ed. by L. H. Butterfield, Princeton University Press, Princeton, 1951, Vol. II, p.770. to John Dickinson, Febraury 16, 1796.) また、別の偉人で独立宣言に署名したチャールズ・キャロルは、ペインの著作を「キリスト教に対し冒瀆的な書物である」と評していた。(Joseph Gurn, Charles Carroll of Carrollton, P. J. Kennedy & Sons, New York, 1932, p.203.)

Benjamin Rush 1John Dickinson 2Charles Carroll 2









(左: ベンジャミン・ラッシュ   / 中央: ジョン・ディキンソン  / 右: チャールズ・キャロル)

  歐米の歴史や政治学を担当する左翼教授たちは、授業中、一応“公平さ”を演出し、その本性を隠そうとする。心の奥では集中的にフランス革命を教えたいのだが、そうすると「隠れ共産主義者」とバレてしまうので、アメリカの革命を一緒に教えて、革命を「進歩の証し」と教え込む。だが、本当はキリスト教や君主政を貶したいだけ。皇室と神道を抹殺したいマルキストは、「理性」による統治、すなわち迷信を排した「啓蒙主義」こそが理想の政治であると嘯(うそぶ)く。啓蒙主義の特徴は、「如何なる宗教であっても、所詮は“私的な信仰サークル”に過ぎない、と斬り捨てる考え方にある。そこで、日本の政治学者は暗に「神道なんて未開部族の妄信であり、高級な人間、すなわち高学歴で理性的な進歩的知識人なら信じない」と囁き、「アメリカでも政教分離なんだから、日本でも神社を民間団体に格下げし、なるべく天皇を政治から遠ざけるのが良い!」と訴えかけるのだ。

  ところが、建国当時のアメリカ人ときたら、キリスト教信仰が当り前。今のアメリカ人とは比べものにならぬほど敬虔で、ピューリタンとかユグノー、クウェイカーなどが珍しくなかった。普段の生活で経験なのは当り前で、死を迎えようとする者なら、更に篤い信仰心を抱いていた。日本でも似たようなことはあるだろう。例えば、若い時に神仏を蔑ろにしていた者でも、高齢になって“お迎え”を予見するようになると、急に信仰に目覚め、安らかな永眠を望んだりする。また、一家の大黒柱だと、遺産相続や葬儀をどうしようかと考えるものだ。責任感の強い日本人なら、家族への遺書を認(したた)める時、けっこう真剣な気持ちになる。(ここでは関係無い話だが、なぜ一般人は自殺の時だけ「遺書」を使い、財産分与に関する遺書を「遺言状」と呼ぶのか? 自分が筆を用いて書いた手紙なら「遺書」でも良いと思うのだが・・・。)

  建国の父祖たちの遺書には、キリスト教が色濃く反映されていた。例えば、合衆国憲法に署名したガニング・ベッドフォードは、追悼式でこう述べている。「あらゆる名誉、全ての支配権を持つ三位一体の天主、すなわち、父と子と聖霊よ、永遠に、アーメン」(Gunning Bedford, Funeral Oration Upon the Death of General George Washington, James Wilson,Wilmington, 1800, p.18.)  有名な法理学者のジェイムズ・ケントも敬虔なキリスト教徒であった。「私があなたにこう述べるのは、もし私に何かあれば、分かるよね。おそらく、君にとって慰めになるであろう。私の救いは主イエズス・キリストにある」(James Kent, Memoirs and Letters of James Kent, ed. by William Kent, Little, Brown and Co., Boston, 1898, p.184.)

  そう言えば、日本の公職者は引退後の余生をどう過ごすのか? 恩給をもらう議員や官僚は、現役の頃あれこれ面倒を見てやった建設会社とか金融機関、特殊法人、大学などに天下りするが、神道や仏教の施設で役員に就くことは極めて少ない。神主を兼業して議員になった自民党の綿貫民輔は例外で、大抵の国会議員は俗物ばかり。政党や企業の顧問に納まって、更なる金銭を得ようとする。しかし、昔のアメリカでは宗教団体の役職に就く有名人が多かった。日本ではあまり知られていない人物も混じっているが、幾人かを紹介したい。
 
  アブラハム・ボールドウィン (Abraham Baldwin) 合衆国憲法に署名、独立戦争時の牧師。
  イライアス・ブディノー (Elias Boudinot) 大陸会議の議長、アメリカ聖書教会の創立者にして初代会長。
  ジョン・ブルックス(John Brooks) マサチューセッツ州知事、独立戦争時の将軍、ミドルセックス聖書協会の会長。
  サミュエル・デクスター(Samuel Dexter) アダムズ政権時の国務長官で上院議員を務め、インディアンに対する宣教活動に従事した。
  フランシス・スコット・キー(Francis Scott Key) 国歌となった「The Star-Spangled Banner」の作者で、アメリカ聖書協会の副会長。
  ジョン・マーシャル(John Marshall) 連邦裁判所の首席判事でアメリカ聖書協会の副会長を務めた。

  今上陛下や秋篠宮殿下が「政教分離」に敏感となり、政争の素(もと)になる行為を避けようとするお気持ちはよく分かる。国民の中には、「どうして陛下は靖國へ参拝なさらないのだろう?」と不満に思う者もいるだろうが、多数派が伝統や神道に無関心で、マスコミの言いなりになっている状況では仕方がない。日本国民の大多数が神道に対して誤解を持ち、大学でクルクルパーにされているんだから、陛下や殿下だけ古来の伝統を堅持するとなれば、政治的な摩擦が生じてしまうだろう。もし、天皇陛下が「英霊に会いに行くぞ! 文句があるのか!」と側近を叱責し、猛反対を振り切って靖國参拝を強行したら、如何なる結果を招くことか! おそらく、NHKやTBS、フジテレビ、朝日新聞などが、こぞって陛下の参拝を取り上げ、支那人や朝鮮人に“ご注進”となるはずだ。マスコミに潜む左翼分子は、自分達で言えないから支那人や朝鮮人に代弁してもらい、間接的に陛下の「憲法違反」を糾弾し、土下座するまで反皇室キャンペーンを繰り広げるだろう。

  そもそも、一般国民の精神が異常になっていることが問題なのだ。普通の日本人は学校教育で赤く洗脳されており、更に「神道は軍国主義の支柱になっていた」と刷り込まれている。だが、そんなこと言ったら、キリスト教やイスラム教だって罪は免れない。いくら平和の宗教でも、場合によっては戦争に利用されることは結構あった。時の権力者が私益の戦争を隠すため、「聖戦」と呼ぶことは毎度の事で、「えぇぇ~! そんな!」と驚くには値しない。ところが、日教組は特殊な目的を持っており、神道だけを目の敵にしている。筆者が小学生の時、給食の献立には「クリスマス・メニュー」があったけど、誰も「違憲だ、宗教の介入だ!」と騒ぐことはなかった。公立学校でも日曜日は安息日でお休み。未だによく理解できないけど、幼稚園児の子供が事故で亡くなると「天国」に旅立つことになっていた。(もちろん、葬式は仏教風で、坊主がお経を読む場合でも、幼い子供は天に召されるそうだ。) 大半の人は意識していないが、カレンダーもグレゴリウス歴を用いており、教師はそれを「西暦」と称して誤魔化していた。驚くことに、宗教を否定する共産党員までもが、キリスト教暦を採用しているんだから面白い。たぶん、意地でも元号を使いたくないからだろう。

  日本の皇室は年々危機に晒されている。マスコミは常に「退位」と言い習わし、決して「譲位」とは呼ばないし、元号が変わるとなれば、「印刷業者が大変なことになる」とか、「役所や民間企業の業務に支障が生じる」、「年数を数えるとき、元号だと計算しにくい。西暦だけにしたらどうか」と様々なイチャモンをつけてくる。もっと心配なのは、悠仁親王殿下の教育内容である。どんな教師が如何なる思想を吹き込むのか、保守派国民なら不安になるはずだ。昭和天皇の場合だと、杉浦重剛とか乃木希典といった一流の国士が教師になっていた。しかし、皇太子殿下の場合はどうなのか? 悠仁親王殿下が高校生や大学生になった時、どんな人物が歴史や哲学を担当するのか、心配の種は尽きない。もっと恐ろしいのは、将来のお妃がどんな人物になるかだ。もしかしたら、朝鮮系の女性とか、ちょっと赤く染まった家庭の娘だったりして。たぶん「ない」と思うが、その一方で可能性も否定できない。もし、神道の儀式に反撥を覚えるプリンセスの誕生となれば、皇族の間で内紛が勃発するかも知れないぞ。あまり未来予測はしたくないけど、皇室記事で儲けたい週刊文春や週刊新潮がどんな見出しをつけてくるのか心配だ。だって、朝日新聞が喜ぶようなタイトルが目に浮かんでくるじゃないか。



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