教科書に載せて全日本人に知らせたい現代史 支那人の卑史 朝鮮人の痴史
黒木 頼景
成甲書房


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絶命の前に認めた手紙

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   毎年八月になると、マスコミは大東亜戦争の反省会と不戦の表明会で大忙しだ。左翼リベラリズムを格好いい、と信じている大学教授や政治家、進歩的知識人らは、命懸けで祖国を護った帝國軍人よりも、日本を呪う朝鮮人や、“被害を受けた”と称する支那人、大金を稼いだ鮮人売春婦(当時の用語で言えば「鮮ピー」)の方を大切に思い、「哀悼の意」を表しながら、心にも無い涙を流している。しかし、常識を備えた日本人なら、激戦を耐え抜いた将兵、とりわけ国家に命を捧げた英霊の方に涙を流すはずだ。

  「愛国」を看板にする営業保守は、戦没者を讃える振りをしながら、いじけた負け惜しみに固執する。「日本はアジア解放の為に英米と戦い、敗北はしたものの、アジア諸国の独立に貢献したのだ !」と言いふらす。しかし、一つしかない命を懸けた将兵は、本当に「アジア解放」の為に激戦に挑んだのか? 確かに、そのような意気込みで戦った軍人もいただろう。だが、大抵は自分の家族や友人、故郷の先輩・後輩、銃後の女子供、そして大元帥である天皇陛下を念頭に置いて戦っていたんじゃないか。毎日のように仲間が亡くなる戦地で、「明日は我が身・・・」と思う将兵は、栄光ある大日本帝国の軍人として死ぬ覚悟を決めていたに違いない。補給が滞っているのに、敵兵が攻めてくる状況で、「自分だけは何とかなる」と楽観視する者は滅多にいないだろう。

  こんな事態になれば、同じ部隊の戦友に、「もし、俺が死んだら、小指を切り取って女房に渡してくれ」と頼む兵卒がいたのも不思議じゃない。ビルマ戦線で散々な目に遭った故・会田雄次・京都大学名誉教授は、敗戦濃厚な戦争末期、戦友が次々と亡くなって行くのを目にしたそうだ。会田先生は絶命した戦友の指を切断し、それを竹筒の中に入れ、蓋をしたら小刀で名前を刻んだという。先生はそうした指を一つ一つ毛布に包んで、千二百個近い小指を馬に乗せ、川を泳いだり雨の中を行軍したそうだ。しかし、その「遺品」は徐々に腐ってしまい、蠅がウジャウジャ集(たか)ってきたという。さらに、竹が擦れて文字が分からなくなってしまう、という問題も起きた。悪いことは重なるようで、酷使された馬が死んでしまうと、結局、運んでいた指を捨てざるを得ない状況になり、先生は申し訳ないと思いつつも、途中で土の中に埋めてしまったそうだ。

  とにかく、嵐のように弾丸が飛び交う戦場で勇気を振り絞る兵卒や下士官、少尉や中尉が、どのような心境だったのか、平和な時代に生きる我々には、とうてい想像がつかない。ましてや、「確実な死」を控えた特攻隊の心理となれば、我々の感覚を軽く超えている。しかし、そんな我々でも英霊の祖国愛や家族愛なら分かる。なぜなら、日系国民は日本人の血と肉を伝承し、英霊と“共振”する心を持っているからだ。日本人の親から生まれ、日本の風土で育ち、日本の文化を愛する日本国民は、同胞が喜ぶとき共に喜び、同胞が悲しみに包まれれば共に悲しむ。我々は祖国と仲間を護るためなら命を惜しまない。たとえ、我が身が砲弾で肉片になろうとも、また、炎に包まれ灰になろうとも、他の日本人が生き延びれば自分が生きているのと同じだ、と考える。日本人は太古から流れる「血の河」を信じているのかも知れない。自分の命は、この大河に流れる一滴に過ぎず、我が身が滅んでも、その肉体と精神は子孫へと受け継がれてゆく。戦友を残して死んでも、靖國神社で再会できるから、「先に行って待っている」と言えるのだ。こう考えると、天皇陛下の靖國御親拝に反対するのは、日本人の心を失った地球市民か、日本を憎む左翼分子、あるいは「日本人の皮」を被ったアジア系帰化人と言えるのではないか。

悲痛な日本人の遺書

  現在、我々は死を前にした将兵の遺書を靖國神社で目にすることができる。遺族でなくとも、これらの遺書を読めば、英霊がどのような心境で戦(いくさ)に臨んだのか、多少なりとも理解できるはずだ。特に、子供の行く末を案じた手紙には胸を打たれる。例えば、清水正義・陸軍兵長(昭和20年6月30日レイテ島にて戦死、35歳)の遺書は、家族への深い愛情が示されている。

子供の養育をたのむ

  政子 その後げんきですか。私も至極元気にて戦場に向かいます。男子の本懐これにすぎるは無し。・・・御国の為に戦死致し、神として靖國神社に祭られ同胞より拝しられるとはなんたる幸福であろう。お前の名誉とも思ふ。しかし其の反面には、いい知れぬ淋しさ、悲しさがあると深く信じ切っている。これも定まった運命なのだ。人間の力では如何とも出来ないのだ。願くは志水政子となつた以上、可愛い子供の養育に務め成長するのを楽しみに志水家を立派に立ててくれる様に願ひたい。
 淋しいから又再婚すると申せば俺は何ともいはず九段の花の下よりお前の幸福を祈っている。然し子供の事は末々まで幸福で暮らす様願いたい。・・・・御両親様の事はくれぐれもよろしく頼む。お前も充分身体に気をつけて元気に暮らしなさい。
 ではこれにてお別れ致します。

政子殿                                                     清水正義

(『英霊の言乃葉』<1> 靖國神社、平成7年、pp. 85-86.)

  戦地で妻子のことを心配する軍人には同情を禁じ得ない。とりわけ、幼い子供を残した将兵なら、生きて日本へ帰りたいと望む気持ちは人一倍強いはずだ。しかし、その細やかな希望すら実現しない場合が多いから、戦争とは冷酷なものである。鈴木勝義・陸軍伍長(昭和19年7月13日ハルマラ島沖にて戦死、 31歳)は、まだ見ぬ我が子を想いながら散っていった。

戦地にて 父になる日

  本日四谷からの葉書で女児出産を知りました。先づ祝を申します。
出発前男児がほしいなんて云つたが、今となつては何でもいい。長の月日苦しんで生まれた我が児、と思へば苦しみがいがあつたらう。 
 一人前に生まれて来たと信ずる。此の葉書が着く頃には体重、其の他どんな児かと云ふ事が家から知らせてくると思ふが、それが又待遠しい気がする。・・・・
昭和十六年九月二十一日で父になる。

(『英霊の言乃葉』<3> 靖國神社、平成9年、pp.69-70.)

  粂野利雄・陸軍上等兵 (昭和20年6月20日 北支山西省永済県にて戦死、37歳)が書き残した、家族への遺書を読むと、熱いものが胸に込み上げてくる。

兄弟仲よくしなさいよ

・・・・
  一枝 男子一度戦の庭に立つからは、断じて生還は期すべきではない。夫が潔く一命を君国に捧げることを銃後を護る日本人女性の誇りとせよ。しかしか弱いお前が、四人の子供の養育は並々ならぬことだ。我が子の為に、お前自身の体をいたはれ。そして斯うした言葉は、かへつて気にそわぬかも知れないが、亡き夫に対しては無理な義理立てはいらぬ。
  お前達母子五人のために、最も幸福と考へられる道を選べ。・・・・
芳春、千代子 お母さんに心配かけぬやう早く立派な人間になりなさい。風邪をひかないやうに、食べすぎをしないやう気をつけて。決してけんかをしてはいけない。四人きりの兄弟だ。仲よくしなさい。まだ小さくて何も知らない勝秋や行成をかはいがつてやりなさいよ。
では皆んな、さようなら。

(『英霊の言乃葉』<2> 靖國神社、平成8年、pp.59-60) 

  野沢吉一郎・陸軍軍曹(昭和19年10月26日 バシー海峡にて戦死、39歳)の遺書も、読んでいるうちに涙がこぼれてくる。

妻への遺言
魂は生きてお前のそばに居る

 長い間まことに御苦労であつた。つらくばかりお前に当たつてほんとうにすまなかつたが、私は幸であつた。身体のやせる程苦労させたが、皆前世の約束であつたとあきらめてくれ。先に行つてお前の席をとつて待つ。子供の事をくれぐれもたのむ。又父母の事もくれぐれもたのむ。お前が無事に幸福な日を送る事を見守つて居る。
 悲しむな。嘆くな。人の世は皆こんなものだ。子供の事くれぐれもたのむ。達者に居れよ。病気せぬ様にせいよ。苦しかつたが又楽しかつたな。過ぎた日の楽しかつた事を思ひ起こして日を暮らせ。
 子供は一日毎に大きくなる。思い出したなら仏様にお参りをせい。私の身体は死んでも、タマシヒは生きてお前のそばに居る。
 つましくして細々と生活を立て、子供の生長を楽しみにて待てよ。 サヤウナラ。

(『英霊の言乃葉』<3> 靖國神社、平成9年、pp.21-22.)

  妻子への手紙を読むと胸が締め付けられる思いになるが、母親へ宛てた手紙も同じくらい哀しみに満ちている。菊池武雄・陸軍曹長 (昭和20年8月12日 フィリピン島マニラにて戦死、25歳)は、先立つ不孝を詫びていた。

「遺言書」

  お母さん さらば。
私も愈々国家の為、お役に立つときが来ました。私は入営の際、既に身は大君に捧げしものとして入営した私であります。男として生れ一世一代の死場所と求めることが出来、こんな嬉しい愉快なことはありません。
 私は喜んで死んで行きます。
 ただ、私の亡きあとは一家挙げて幸福に暮らして行く事、私は草葉の陰から祈つて居ります。・・・・
 白木の箱が届いたら、どうか泣かずに、褒めて下さい。

遺言書 昭和十七年五月十八日 午後四時

(『英霊の言乃葉』<2> 靖國神社、平成8年、pp.15-16.)

   日本人にとって、母親というのは特別な存在で、自分が死んだ後、老いた母親がどうなるのか心配する将兵は実に多かった。千原達郎・海軍大尉 (昭和20年4月13日 沖縄方面にて戦死、24歳)の手紙には、母親への愛が滲み出ている。

母の愛と祈り

 私の飛行服のポケットにはお守袋が入ってゐる。袋は学徒出陣の餞(はなむけ)として京大から贈られたものである。・・・・私は朝、飛行服に着替へて学生舎を出ると、胸のこのお守袋を手で触りながら、明け切らぬ東の空に向ひ、「母上お早うございます。立派にお役に立ちますやう、今日もお守り下さい」と口の中でつぶやく。飛行機に乗る前にも、この所作を繰返すことがある。夜は寝る前に星空に向ひ、「お母さんおやすみなさい、立派にお役に立ちますやう、明日もお守り下さい」と、心でいふ。いつ頃から、かういふ習慣になつたのか知らないが、何は忘れてもこれだけは忘れたことがない。女々しいと思ひ、滑稽だとも思ふ。しかし、この習慣を止めやうとも思はない。私は母の愛と祈りを片時も忘れたことがない。私と母とはいくら離れてゐても、このお互いの愛と祈りとでぴつたり繋がつてゐるのである。

(『英霊の言乃葉』<3> 靖國神社、平成9年、pp.7-8.)

  特攻隊員として散っていった高瀬丁(つよし)・海軍少尉の遺書を読むと、まさしく親孝行の青年だったことが分かり、貴重な人材を失った悲しみでいっぱいになる。(神風特別攻撃隊神雷部隊第九建武隊、昭和20年4月29日 沖縄本島東方海海上にて戦死、20歳)

御両親の名を叫びながら散ります

 御恵み深き父母上様、聖戦に参加せんとして愛機に搭乗する前に書します。この世に生を亨けて拾機星霜、夏の日も冬の日も慈しみ励まし日本男子にお育て下さいました。
  父母上様、何一つとして御恩に報ひませんでしたが、大日本帝国軍人として大君に命を捧げて皇国の為散つて逝く、私を孝行者と云つて下さい。
決してお嘆き下さいますな。私は幸福でした。私は最後の最後まで御教訓に背きませんでした。そして晴れ晴れとした気持ちで祖先の御前に行けます。唯一つ残念なのは御高恩に報ひられなかつた事のみです。
 父母上様、父母上様よ、お姿を心に秘め御名を心で叫びながら散ります。
 父母上様、さやうなせ、さやうなら。

(『英霊の言乃葉』<3> 靖國神社、平成9年、pp.55-56.)

  まだ二十歳の青年が、父親と母親に対して「さようなら」と告げて、特攻機に乗り込む姿は本当に痛ましい。そして、息子を失った両親の悲痛も相当辛いものである。特攻隊員には、生還率が1%も無い。彼が果たそうとするのは、「100%の死」という残酷な任務だけである。それでも、日本の青年は出撃した。戦後、進歩的知識人は特攻を愚策となじり、犬死にのように扱った。確かに、特攻は外道である。しかし、だからといって、特攻隊員が上官の脅迫で散華したというのは間違いだ。特攻隊員には命を抛ってでも守りたいものがあった。この両親や妻子に悲しい思いをさせても、護りたかったものというのは何か。それは日本という国家である。日本人には愛おしくて、懐かしい、「日本」という独立した祖国があった。

  現在の日本人には、命懸けで守りたいという「国家」が無い。かつて、我が軍の将兵は支那大陸や東南アジアの戦場で、「溝壑(こうがく)の死」を遂げた。つまり、「道端の溝で野垂れ死んだ」ということだ。海戦では遺体が海底に沈み、海の藻屑となる。遺骨が何処にあるのか分からない。陸戦では更に悲惨だ。銃弾や爆発で体が肉片となった兵士がいたし、たとえ生き延びても、爆弾の破片が全身に突き刺さっていたり、指や片腕、両脚が吹き飛ばされていたりする。また、爆撃の嵐で眼球を失い、病院のベッドで目を覚ますが、いくら頑張っても暗闇のまま、という悲劇も多い。傷痍兵には戦没者にはない苦悩がある。だが、祖国の独立を失うことは死よりも辛かった。今生きている日本人の惨めさは、米軍が駐留していることではない。「国家の独立」という言葉が国民の頭から消え去り、その言葉を実感できなくなっていることにあるのだ。

  国家の為に命を捧げてくれた将兵の遺書を読むと、自然と熱い涙がこぼれてくる。ところが、現在の日本人には、英霊への感謝が無い。あれほど大勢の軍人が祖国を護ってくれたのに、今の国会議員や官僚は祖先の遺産を何とも思っていないのだ。日本国籍というのは、単なる紙切れではない。我々が日本という国家に誇りを持てるのは、先人が子孫のことを思い、大量の血と汗と涙を流してくれたからだ。それなのに、政府の重鎮や中央官庁の役人は、支那人や朝鮮人、ベトナム人、フィリピン人、アフリカ人などに日本国籍を無料で配布しても何とも思わない。企業経営者も売国奴に等しく、たかだか時給を200円か300円安くしたい為に、アジア人労働者を輸入し、タダで渡せる日本国籍をボーナス代わりにしているのだ。

  我が軍の将兵は必死で祖国を守ったのに、今やその「日本」には、日本人とは関係の無い「よそ者」が住み着いている。だいたい、日本国籍を目的にやって来るベトナム人やフィリピン人に、英霊への感謝があるのか? また、日本を心から憎む帰化支那人や帰化朝鮮人の子孫が、靖國神社に行って英霊の遺書を読み、感動して涙を流すとはとうてい思えない。天皇陛下の御真影を燃やす奴ならいくらでもいる。そもそも、彼らが靖國神社に足を向けるなんて、端っから考えられない。 戦後、在日朝鮮人の多くは、ひっそりと日本国籍を取得した。だが、彼らが帝國陸海軍の将兵に感謝したことはない。訊くだけ野暮だが、帰化鮮人で日本を愛するものは何割いるのか? 日本人と結婚した支那人は念願の日本国籍を取ろうとするが、この帰化人には愛国心があるのか? 北海道や沖縄の土地を買い漁る支那人には、日本の軍人など眼中になく、金銭への愛着しかない。日系日本人は国籍が何を意味するのか考えるべきだ。日本国籍は日本人が受け継ぐ世襲財産で、アジア人へのお中元ではない。戦死を覚悟した我が軍の将兵は、「日本人」の同胞を守るべく、戦場へと赴いたのだ。支那人や朝鮮人の楽園を築くために死んでいったんじゃないぞ。



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