教科書に載せて全日本人に知らせたい現代史 支那人の卑史 朝鮮人の痴史
黒木 頼景
成甲書房


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夢の中で天皇を処刑する !?


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 日本には戦前から怨霊が漂っている。共産主義に心酔した左翼は連続殺人鬼と同じく、崇高な存在を抹殺する時の興奮を好むようだ。神聖な君主を虐殺することは最大の叛逆罪だが、それを犯す時のスリルは何物にも代えがたい。血に飢えた変態が美女を嬲(なぶ)り殺しにして楽しむように、共産主義者は天皇を血祭りに上げることに狂喜する。今のところ非現実的に思えるが、赤色分子は「いつの日か、皇室を葬りたい」と常々思っているようだ。

  とは言っても、日本の庶民は圧倒的に皇室支持者である。だから、いくら左翼議員が誕生しようとも、皇族の皆殺しなんて無理。でも、左巻きの連中は諦めきれない。だから、他の方法を以て皇室の衰退と自然消滅を謀ろうとする。その一つが「女系天皇論」で、これを補強するのが「旧皇族男子の復帰」への反対である。最近、自民党の国会議員が有志を集めて旧皇族の復活を求めようとしたが、左翼勢力は何かとケチをつけて男子皇族の増加を阻もうとしていた。TBSやテレ朝に潜む反日分子にすれば、皇統の存続と安定継承など言語道断。先ずは、女性宮家を創設し、女系天皇を誕生させることが肝要だ。見事「女系天皇」を誕生させたら、これらの左翼は「右翼」に転じて、「これは正統な天皇ではない !」と「正論」を述べる。彼らはカメレオンの如く主張を変えるし、信念(怨念)のためなら手段は選ばない。

  左翼は朝鮮人のように執念深く、ローマ人でもないのにファビウス的戦略を取る。すなわち、彼らは100年かかろうが、目的達成のためには長期的視野で考え行動する。現在の左翼が皇室を廃絶できぬとも、少しづつ皇統を変質させ、次世代の左翼が先輩の意思を受け継ぎ、更に皇統をねじ曲げようとする。そして、いつに「異端の天皇」を誕生させたら、即座に引きずり下ろす。この時、「天皇制」撲滅主義者は平然と「保守派」を装う。こうやって一旦、皇位の空白が出来ればしめたもの。彼らは天皇が君臨しない期間を延長させ、実質上の「人民共和国」を作り、国民投票で「大統領制」に持ち込む。

  仮に、廃絶できなくとも、大幅な予算削減で皇室を締め上げれば、皇族は警備費だけで精一杯となり、活動は神道の行事だけとなる。人目に触れない儀式だけとなれば、何時の間にか「個人の私的宗教」になるから、最終的には「日系土人の迷信」程度になるだろう。なぜなら、将来の日本はアジア移民との共存社会となるから、神道は相対化され、イスラム教や道教、ヒンドゥー教など一緒にされてしまうのだ。それに、移民の増加で異民族の子孫が権力を握ることになるから、神道だけ特別扱いとなることはない。支那系議員や朝鮮系官僚にとったら、皇族など「無駄飯ぐらいの輩」に過ぎず、目障りな遺物といった感じだ。アジア系国民は天皇陛下との家族的な絆を持たないから、皇室が消滅しても「惜しい」「淋しい」という気持ちは無い。「あっ、そうなの !」で終わりだ。

  現在の日本国民は「皇室廃絶」と聞いても「そんな馬鹿な」と笑って真剣に考えないが、左翼陣営は昔から皇室への怨念を持ち続けている。平成の半ば頃から『中央公論』の凋落は決定的で、購入者の激減どころか、その存在さえ認知されないという状態だ。しかし、昭和の終わりまでは一応、老舗のオピニオン雑誌という肩書きを持っていた。極左雑誌の『改造』が消滅すると、左翼教授や進歩的文化人は岩波の『世界』で頑張ったが、一部の左翼は『中央公論』に居城を移した。そして、昭和35年(1960年)、衝撃的な浪漫小説が『中央公論』を揺るがすことになる。

Fukazawa 1( 左 /  深沢七郎)
 深沢七郎と言えば、映画にもなった小説『楢山節考』で有名だ。この深沢は1960年の12月号に『風流夢譚(ふうりゅうむたん)』という小説を投稿した。ところが、この小作品は皇太子殿下と妃殿下(現在の上皇陛下と上皇后陛下)の殺害をテーマにしていたから一大事。というより、巨大地震か津波のような衝撃だった。深沢本人は「フィクション」のつもりで書いたというが、その内容があまりにも不敬だったので、中央公論社の経営陣にまで累が及ぶ事態になった。

 『風流夢譚』は夢の中で起きた「革命騒ぎ」を主人公が語る、というスタイルになっている。主人公は自分の腕時計を修理すべく、時計屋を訪れ、修理を頼んだ後、渋谷駅で八重洲口に向かうバスに乗ろるところだった。ところが、街中が騒がしいので「何事か?」と訝しみ、通りがかりの人に訊いてみることにした。すると、どうやら日本で革命のような暴動が起きたというのだ。彼は隣に立っている人に尋ねた。

  (主人公)「革命ですか、左慾(さよく)の人だちの?」
  (隣人) 「革命じゃないよ、政府を倒して、もっとよい日本を作らなきゃダメだよ」
                                           (深沢七郎「風流夢譚」『中央公論』1960年12月号  p.330.)

ここで主人公は「日本」という国名に嫌悪感を示す。

  (私は)日本という言葉が私は嫌いで、一寸、癪にさわったので、「いやだよ、ニホンなんて国は」と言った。

  相変わらずバス停に立ち止まる主人公は、ふと目の前にあるバスが気になり、何処に行くのか隣人に尋ねた。隣人は自衛隊を迎えに行くんだ、と答える。これを聞いた主人公は「そいつはまずいですね、自衛隊なんか来ては」と苦言を呈する。ところが、この隣人は違った意見を持っていた。

(隣人)「自衛隊もみんな俺達と行動を同じにしていて、反抗するのは幹部だけで、下っぱはみんな農家の2、3男坊ばかりだから、みんな献身的に努力しているのだ」と。

 こうした会話を交わす主人公はイマイチ熱狂できないのか、周りの人が皇居へ押しかけようと誘っても積極的になれない。そうしているうちに、彼は皇居が完全に占拠されたことを知る。主人公はある女性記者の勇ましい言葉を耳にする。

 「これから皇居へ行って、ミッチーが殺(や)られるのをグラビヤにとるのよ」

革命騒ぎで東京の街は物騒になっている。敵(皇居を守る者)は火炎放射器を持ち出して、必死に抵抗しているというし、どこからともなく軍楽隊がやって来て、マンボかルンバ風に「キサス、キサス」を演奏しているという。そうした中、主人公は皇居へと向かい、人波で埋まった皇居広場に辿り着く。すると、そこには凄惨な光景が待っていた。何と、明仁皇太子殿下と美智子妃殿下が横たわっているのだ。主人公がこの状況を述べる。

  皇太子殿下と美智子妃殿下が仰向けに寝かされていて、いま、殺(や)られるところなのである。私が驚いたのは今、首を切ろうとしているそのヒトの振り上げているマサキリは、以前私が薪割りに使っていた見覚えのあるマサキリなのである。わたしはマサカリを使ったことはなく、マサカリよりハバのせまいマサキリを使っていたので、あれは見覚えのあるマサキリなのだ。(困るなァ、俺のマサキリで首などを切ってはキタナクなって)と、私は思ってはいるが、とめようともしないのだ。そうしてマサキリは、さ ! っと振り下ろされて、皇太子殿下の首はスッテンコロコロと音がして、ずーッと向こうまで転がっていった。(あのマサキリは、もう、俺は使わないことにしよう。首など切ってしまって、キタナクて、捨てるのも勿体ないから、誰かにやってしまおう)と思いながら私は眺めていた。(p.333)

 「おぞましい」というより、吐き気がするほど下劣な文章だ。深沢は殿下の死を野良犬以下に考えていたのだろう。彼はこの不敬小説を活き活きと描いている。しかし、殺人鬼を演じる深沢の刃(やいば)は、美智子妃殿下にも向いていた。 

  マサキリはまた振り上げられて、こんどは美智子妃殿下の首がスッテンコロコロカラカラと金属性の音がして転がっていった。首は人ゴミの中へ転がって行って見えなくなってしまって、あとには首のない金襴の御守殿模様の着物を着た胴体が行儀よく寝転んでいるのだ。(p.333.)

  もう、普通の日本人なら深沢を袋叩きにしたくなる。こともあろうに、両殿下の首を刎ねて何とも思わず、斬首に使われたマサキリの方を気にしているんだから、まともな人間じゃない。共産党や全学連を支持する連中というのは、権威を持つ者や庶民から慕われる皇族への深い恨みを持っているから平気なんだろう。それにしても、深沢の皇族に対する憎しみは尋常ではなく、昭和天皇と皇后陛下をも殺し、昭憲皇后まで引き合いに出して、皇室への侮辱を加えていたのだ。

  物語に戻す。主人公の側に現れた老紳士は、彼に「あっちへ行けば天皇、皇后両陛下が殺されている」と教えてくれた。惨殺現場には交通整理の警察官が立っており、首無し遺体の周りには人混みができていたが、見物人は秩序よく動いている。すると、この人混みを掻き分けて、ある老婆が主人公のもとへやって来た。何と、この老婆は明治天皇のお妃である昭憲皇后なのだ。しかし、主人公は敬意を払うことはない。それどころか、図々しく下品なババアとして描いている。

  昭憲皇后が目の前に現れると、私はその前に飛んで行って、いきなり「この糞タレ婆ァ」と怒鳴った。そうすると、(昭憲皇后は)「なにをこく、この糞ッ小僧」と言い返して私を睨みつける。(p.335.)

  当時、この小説を読んだ日本人は唖然としたに違いない。何しろ、皇后陛下が平民でも憚れる野卑な言葉を使うんだから。深沢は路地裏にある古びた飲み屋のババアと間違えているんじゃないか。一応、主人公は自分の言葉使いを説明している。

  「糞ッタレ婆ァ」というのは、「婆ァのくせに人並みに糞をひる奴」とか、「婆ァのひった糞はやわらかくて特別汚いので、きたねえ糞をひりゃーがった婆ァ」という意味で「糞婆ァ」というのは、「顔も手も足も糞の様にきたない婆ぁ」という意味なのである。(p.335.)

  普段、主人公は「糞婆ァ」という言葉なら使うことがあるが、「糞ッタレ婆ァ」という最低な言葉は使ったことはないという。しかし、ここでは何故か使ってしまったそうだ。そして、あろうことか、主人公は「糞ッ小僧」と罵る昭憲皇后に飛びかかり、皇太后の腕を後ろに捻って叫ぶ。彼は「なにをこく、この糞ッタレ婆ァ、てめえだちはヒトの稼いだゼニで栄耀栄華をして」と侮蔑するが、昭憲皇后も負けてはおらず、「なにをこく、この糞ッ小僧ッ」と言い返し、彼の顔を引っ掻く。(p.335)

  主人公に押さえつけられた昭憲皇后は、足をバタバタさせながら暴れ回り、「てめえだちは、誰のおかげで生きていられるのだ。みんな、わたしだちのおかげだぞ」と言う。すると、主人公は「なにをこく、この糞ッタレ婆ァ、なんの証拠があってそんなことを言う。てめえだちの様な吸血鬼なんかに、ゼニをしぼりとられたことはあっても、おかげになんぞなったことはねえぞ」と反論する。これに対し、昭憲皇后は「なにをこく、この糞ッ小僧、8月15日を忘れたか、無条件降伏して、いのちをたすけてやったのはみんなわしのうちのヒロヒトのおかげだぞ」とわめく。(p.336.)

  すると、主人公は「こんちくしょう」と言い放った。彼は昭憲皇后の頭を殴りつけようとするが、その前に言い含めようと考え、「真実」を言い聞かせた。彼は言う。降伏するよう、てめえの息子に教えてやったのは、米内、岡田、鈴木貫太郎なんだぞ、と。彼は皇后陛下の頭を殴るが、その頭に丸い禿(ハゲ)を見つけて驚愕する。何とも奇妙なストーリーだが、夢の中の昭憲皇后は居直って反省せず、両者は妥協も和解もせず平行線のまま。でも、話は進むという調子なのだ。

  深沢の小説はウナギのようにヌルヌルした展開で、主人公が先ほどの老紳士と会話を交わしたり、和歌を詠んだりと支離滅裂。最後に主人公がピストルで自分の頭を撃って夢から覚める、といったシナリオとなる。彼は枕元の腕時計を目にして、夢を見ていたんだ、と安心する。アホらしいけど、これで終わり。普通の読者なら、この巻末小説を読んで「なんだ、これ !」と眉を顰めるが、雑誌の編集長がOKしたんだからしょうがない。

  だが、左翼や問屋が赦しても、右翼は赦さなかった。『風流夢譚』に激怒した右翼少年の小森一孝(17歳)は、嶋中鵬二(しまなか・ほうじ)社長宅に侵入し、夫人や家政婦に向かって「社長は何処だ !」と問い質した。しかし、その時、嶋中氏は不在で、小森は標的を仕留められなかったという。ただし、小森は夫人を傷つけ、止めに入った家政婦を刺殺した。これが有名な「嶋中事件」で、中央公論社は仲介者を通して右翼側と交渉し、事件の沈静化を図ったようだ。当事者の深沢氏は記者会見で涙を流して謝罪し、その後、公の舞台から姿を消して、各地を転々とする生活になったという。放浪作家となった深沢氏は、闘病生活を送りながらも作家活動を続け、『みちのくの人形たち』で谷崎潤一郎賞をもらったそうだ。彼は1987年、ひっそりと息を引き取った。

 「嶋中事件」を目の当たりにした世間の作家や知識人、およびマスコミ人はこぞって暴力による「言論弾圧だ」と騒いだが、これは一般の殺人事件である。犯人の動機が何であれ、一般人が一般人を殺したに過ぎず、国家権力を持つ者が嶋中社長の殺害を命じた訳ではない。例えば、居酒屋でチンピラが隣の客に「うるせえぞ !」と因縁をつけ、ナイフで刺し殺したら「言論弾圧」になるのか? 殺された家政婦は本当に気の毒だが、小森の殺人行為は恨みや激昂による犯罪である。総理大臣や法務大臣の差し金ではない。

  現在の高校生や大学生は、深沢の小説を読んでも彼の思想的背景を知っても、それほど激怒しないだろう。大半の者が「所詮、フィクションなんだから、そんなに目くじらを立てる程のものじゃない。だいたい、こんな小説くらいで殺人事件に及ぶのかなぁ」と首を捻ってしまうだろう。だが、重要なのは刺殺事件じゃなく、深沢に代表される皇室への侮蔑と憎悪だ。深沢が描く主人公は、明らかに皇族を「無駄飯食い」と思っていた。「テメエ達は、人の稼いだ銭で栄耀栄華を誇りやがって」というセリフは、深沢たち左翼一般の意見に違いない。彼らは皇室に対する敬意など微塵もなく、むしろ人民の膏血を啜る蛭(ヒル)かダニのような虫けらと思っている。だから、陛下の首無し胴体を描いても平然としていたのだ。

  現在の反日分子は"より"狡猾で、露骨な天皇反対論は述べない。彼らは正面から「天皇制(共産党用語)」を攻撃せず、パルチザンのようにゲリラ戦を仕掛け、皇族のスキャンダルを捏造したり、宗教儀式の簡略化を提唱したりする。地上波のワイドショーや報道番組が、しきりに「開かれた皇室」とか「皇室外交」を呼びかけるのは、国民と皇室を近づけるためではない。テレビ局や新聞社の左翼分子は、皇族の行事や公務を増やし、ちょっとした皇族のミスを待ち望んでいるのだ。今上陛下や皇后陛下のみならず、秋篠宮殿下、眞子内親王殿下、佳子内親王殿下などがテレビ・カメラの前で公務を行えば、何らかのハプニングが起きるかも知れないし、豪華な式典を中継すれば、「皇族はこんなにも税金を無駄にしている !」との宣伝にもなる。もし、ゴシップのネタになるハプニングが起きなければ、皇族方の服装や晩餐会での会話を取り上げ、意地悪なコメントを述べることで、大衆にネガティヴ・イメージを植え付けることができる。

  今では信じられないが、大東亜戦争を画策した左翼は、敗戦の勢いでも日本を共産化できず、本当に悔しい思いでいっぱいだった。女郎好きの徳田球一みたいな悪党は、女性皇族を強姦するチャンスを望んでいたし、ボルシェビキのように皇族皆殺しを夢見ていた。深沢が陛下の斬首刑を楽しんでいたのは偶然ではない。彼はまさしくマルキストの希望を表現ていたのだ。共産主義者というのは、人間が持つ最も醜い側面を満載した下郎で、高貴な精神を本能的に嫌う意地汚い連中である。

  共産主義者というのは、丁度、美女を拉致して惨殺する精神異常者と似ている。こうした変態は攫ってきた女性を地下室に閉じ込め、強姦を繰り返し、陵辱皇位に飽きると、じっくりと時間をかけて皮膚や筋肉をそぎ落とす。彼は女性の怯えた表情に興奮し、彼女が泣き叫ぶと更に興奮する。このケダモノは手足を縛られ、抵抗できない女性をいたぶることに快感を覚え、首を絞めたり、爪を剥がしたり、あるいは眼球を剔ったりして狂喜する。犯罪者にとって、獲物が高貴になればなるほど幸福感が増加するのだ。触れてはならない神聖な者に手を伸ばすと、最高のスリルを得られる。ブスよりも美人、平民よりも貴族、伯爵よりも王様の方がよい。天皇陛下と比べたら、ロシア皇帝のニコライ2世なんて蛮族の酋長くらい。コミンテル日本支部の日系左翼や在日朝鮮人が躍起になったのも分かる。昭和天皇は極上の獲物で、もし捕虜となったら、誰が最初に斧で首を切断するかの口論になったはずだ。日本の庶民なら身震いするほどの悪夢だが、現在の左翼も本質的には同じ野心を抱いている。

  保守派の日本人は永田町や霞ヶ関、赤坂や渋谷に盤踞する反日分子を甘く見ている。表面上、左翼陣営は勢いを失っているように見えるが、彼らは着々と援軍を増やしている。なぜなら、大量の支那人や朝鮮人、そして日本の文化や伝統に興味の無いアジア人がこぞって帰化しているからだ。昭和から平成にかけて、日教組の左翼教師は「日系人の子供」を「反日予備軍」にしようと努力した。しかし、これからはもっと楽になる。というのも、最初から「外人」であるアジア移民の子供や混血児が激増するからだ。こうした異質な子供は日本人の肉体を持たず、精神的にも日本人とは言えないから、皇室が消滅しても何とも思わない。女系天皇や女性宮家が出現しても驚きはせず、むしろ「男女同権だ。性差別の無い平等社会になって良かった」と喜ぶ。保守派国民というのは熾烈な対立を避ける傾向があるから、流血の暴力革命でなければ立ち上がらない。静かな無血革命が進むのをただ見ているだけ。鈍感なままだ。論壇は南鮮からのイチャモンや米支の経済戦争に夢中だが、本当に恐ろしいのは日本国内に増殖する「内なる敵」なんだぞ。




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