支那人の卑史 朝鮮人の痴史 教科書に載せて全日本人に知らせたい現代史 [ 黒木 頼景 ]
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アメリカ史の中で結構あった戒厳令

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(左 : ドナルド・トランプ大統領  /  右 : アンドリュー・ジャクソン大統領)

  普段、筆者は『虎ノ門ニュース』を観ない。例外は、須田のオジキ(須田慎一郎)が暴力団の話題を扱った時だけだ。山口組や一和会の情報は地上波テレビじゃ報道しないから、特殊なジャーナリストによる裏話を聞くしかない。ある人々がDHCの番組を熱心に観ているのは、あまりにも地上波の番組が下らないからだろう。でも、筆者は須田氏以外のゲスト・コメンターなんて興味が無いから、勝手に解説を垂れ流していればいいと思っている。ところが、今回の大統領選挙は色々な言論人が意見を述べ、奇妙な対立が起こっているので、仕方なく『虎ノ門ニュース』を観ることにした。

  12月16日に放送された『虎ノ門ニュース』には、大高未貴と上念司が出演し、アメリカ大統領選挙について双方の見解を述べていた。ところが、上念氏の“ある発言”を聞いて、筆者は椅子から転げ落ちてしまった。大高氏がトランプ大統領による戒厳令を「なきにしもあらず」と言い、その可能性を仄めかしていたところ、意見を求められた上念氏は、「さすがに、戒厳令はアメリカ240年の民主主義の中で一度も出したことが無いので、それは無いかなぁ~」と応えていたのだ。筆者は「えっっ !!!」と耳を疑い、「確か、アメリカ史には幾つもあったはずだけど・・・」と不安になってしまった。というのも、筆者は独学だけど、アメリカ史に関する書物を何冊か読んでいたからだ。それに、マイケル・フリン将軍もテレビ番組のインタビューに応える中で、過去に40回ほど戒厳令は施行された、と述べていた。

Joseph Nunn 01(左  / ジョセフ・ナン )
  ここからは“客観的事実”を述べる「上念司先生」と違う意見になるので、筆者の妄想や誤解と思って読んでください。「Brennan Center for Justice」の「Liberty & National Security Program」で研究員を務めているジョセフ・ナン(Joseph Nunn)氏によると、南北戦争の初めから第二次世界大戦の終結まで、少なくとも60回ほど戒厳令(martial law)が宣言されたそうだ。(Joseph Nunn, "Martial Law in the United States : Its History and Why the President Can't Declare It", Brennan Center for Justice, August 20, 2020.) もちろん、南北戦争以前にも戒厳令は発動され、元宗主国のイングランドでも軍隊による支配は度々あった。

  「戒厳令」というのは、要するに知事や大統領による国家の統制である。通常の法手続きによらず、一般人や公務員、政治家を逮捕・拘束できる権能を与え、軍部による民間部門の支配を正当化する非常手段と言えよう。アングロ・サクソン諸国で非常に有名なウィリアム・ブラックストーン卿によれば、戒厳令というのは明確な原理原則に基づかず、その意思決定過程において全く恣意的であるらしい。かつてマシュー・ヘイル卿(Sir Matthew Hale)が言ったように、法律として許可されるものというより、何か気紛れなものである。(William Blackstone, Commentaries on the Laws of England, the Twelfth edition, A. Strahan and W. Woodfall : London, 1793,  p.412.)

  日本人が「戒厳令」と聞けば、1998年に公開されたハリウッド映画、『マーシャル・ロー(The Siege)』を思い出す人もいるだろう。この作品では、FBIと軍隊の緊張関係が描かれている。アメリカ国内で起こるテロ事件をFBI捜査官(デンゼル・ワシントン)とCIA局員(アネット・ベニング)が食い止めようとするが、その脅威があまりにも深刻なので、ついに戒厳令が敷かれ、陸軍のウィリアム・デヴロー(ブルース・ウィリアム)が鎮圧に乗り出す、という筋書きだった。でも、過去に起きた実際の戒厳令は何となく地味で、労働者の暴動に対処する限定的な戒厳令がほとんど。

  例えば、1842年、トマス・ドー(Thomas Dorr)によって組織された集会を封じ込めるため、ロード・アイランドの評議会は戒厳令を宣言した。1903年、コロラド州のジェイムズ・ピーボディー(James Peabody)知事は、炭鉱組合によるストライキを鎮圧すべく、戒厳令を発動し、州兵を動員したという。1933年、ジョージア州のユージン・タルマッジ(Eugene Talmadge)知事はハイウェイ評議会のメンバーを取り締まるために戒厳令を宣言した。オクラホマ州のウィリアム・マレー(William Murray)知事なんかは、1930年代に度々戒厳令を宣言し、その任期中30回以上も発令したそうだ。

Battle of New Olreans 001Andrew Jackson 21111








(左 : 「 ニー・オリンズの戦い」を描いた絵画 /  右 : アンドリュー・ジャクソン将軍の彫像 )

  しかし、特筆すべきは、後に大統領となるアンドリュー・ジャクソン将軍が実施した戒厳令である。彼の晴れ舞台は、何と言っても1815年1月にブリテン軍と干戈を交えた「ニー・オリンズの戦い(Battle of New Orleans)」だ。「憲法の父」と称されるジェイムズ・マディソンが大統領の時、第二次対英戦争が勃発したのは有名で、1814年、アメリカ合衆国に上陸したブリテン軍は破竹の勢いだった。上陸部隊を率いるのロバート・ロス(Robert Ross)将軍。は、たいした反撃を受けることもなく首都ワシントンに肉迫する。アメリカ側で必死で抵抗するのはジョシュア・バーネイ(Joshua Barney)提督くらい。

  以前、ヨークとニューアークで焼き討ちに遭った雪辱を果たすためか、ロス将軍麾下のブリテン軍は、首都の公共建築物を焼き払い、その中には大統領官邸や議事堂、議会図書館も含まれていた。(この火災のあと、大統領官邸は白く塗られて「ホワイト・ハウス」と呼ばれるようになる。) ブリテン海軍少将のジョージ・コクバーン卿(Sir George Cockburn)は、アメリカの新聞社から「悪党(悪漢 / the Ruffian)」呼ばわりされたから、二度と中傷記事を書けないよう、新聞社のビルを破壊させたという。燃え上がるワシントンを背景にコクバーン少将を描いた絵画は、今でもアメリカ人にとって屈辱である。

George Cockburn 01Burning of Washington 002George Cockburn burning of Washington









(左 : ジョージ・コクバーン卿  / 中央 : ブリテン軍によって放火された建物  /  右 : 首都炎上を背景にするコクバーン少将)

  大統領官邸で事態を見守っていたドリー・マディソン夫人は、迫り来るブリテン軍による掠奪を恐れ、急遽、大切な銀食器や書類、美術品、家具など持ち出すことにした。しかし、壁に掛かっていたジョージ・ワシントン大統領の肖像画は取り外すのが大変なので、召使いや庭師が梯子を使って外し、この貴重品を守ったことは有名な逸話である。一方、亭主のジェイムズ・マディソンは、ブランデスバーグの戦いで恐怖に駆られ、部下と一緒に退散していた。英米の戦争はゲント(ガン / Ghent)の条約で一段落したけど、マディソン大統領の評判は最悪だ。いくら勉強が出来ても、マディソンは所詮「勇猛果敢な薩摩隼人」じゃなく、「青瓢箪の学者タイプ」だから逃げ足が速くても仕方がない。でも、「男らしさ」を美徳とするアメリカの庶民だと、「何だ、あの臆病者 !」という陰口になってしまう。マディソンの一行はメリーランド州のモンゴメリー郡に避難し、ブルックヴィルという街にあるカレブ・ベントレーの家に泊めてもらったそうだ。そして、ここが臨時の大統領司令部となった。

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(左 : ジェイムズ・マディソン  /  中央 : ドリー・マディソン / 右 : アンドリュー・ジャクソン )

  ひ弱なマディソンと違い、アンドリュー・ジャクソンは大胆不敵な猛将だ。彼は1815年に雌雄を決する「ニューオリンズの戦い」でブリテン軍を蹴散らした。1月8日に火蓋が切られた戦闘では、ケンタッキー州の兵卒が不名誉な逃走を図ったが、ブリテン軍の方にも失策があり、陸軍少将のエドワード・パケナム卿(Sir Edward M. Pakenham)は背後からアメリカ軍を攻撃する好機を逃してしまった。パケナム将軍は5,300名の兵隊に縦列の密集形態を取らせ、無謀にも正面攻撃を命じてしまったのだ。迎え撃つアメリカ軍の陣地は準備万端。強固な壁を張り巡らせていたので攻め落とすことは非常に困難であった。結局、ブリテン軍の突撃は猛烈な肉弾戦となってしまう。この大敗はアメリカ軍による“大虐殺”と言っていい。夥しい数の戦死者や負傷者を出してしまった。戦闘後の報告によると、ブリテン軍の死者は285名、負傷者が1,265名、捕虜や行方不明になった者は485名。合計2,000名以上の損失を出している。一方、アメリカ軍の戦没者はたったの13名。負傷者が30名くらいで、捕虜や行方不明者が19名となっている。ついでに言うと、ブリテン兵を率いていたパケナム少将は、戦闘中に被弾して担架で運ばれたが、まもなく絶命した。享年36。

  かなり脱線したので話を戻す。対英戦争で「ニュー・オリンズが重要となるに違いない」、と踏んだジャクソン将軍は、覚悟を決めてルイジアナ州に入るが、この南国は異邦人が雑居するコスモポリタンであった。ルイジアナに残っているフランス人もいれば、大陸の西部を支配するスペイン人もいる。さらに、アメリカ人を籠絡するイギリス人や叛乱分子、討伐軍を攪乱するための工作員や諜報員も潜んでいるから、ジャクソン将軍は誰も信用できない。そこで1814年12月16日、ジャクソンはニュー・オリンズ市で戒厳令を発動する。市街に出入りする者は、全て軍部に報告するよう義務づけ、同時にミリシア(民兵)の徴用も行うことにした。戒厳令のご時世となれば、軍隊は必要な者を誰でも軍隊に組み入れるし、民間人から奴隷や馬、牛、荷車だって徴発できる。

  しかし、こうした強引な手法は、地元の政治家や有力者からの反撥を招きやすい。例えば、現地で州の上院議員を務めるルイス・ルワリエ(Louis Louaillier)は、「ルイジアナに住むフランス系市民(A Citizen of Louisiana of French Origin)」というペンネームで、「ルイジアナ・クーリエ(Louisiana Courier)」紙に記事を投稿し、アンドリュー・ジャクソン将軍の方針を非難した。すると、ジャクソン将軍はルワリエを逮捕し、この上院議員がドミニク・ホール(Dominick Hall)判事に身柄提出令状(writ of habeas corpus)を求めると、この裁判官も逮捕したのである。(John Spencer Bassett, The Life of Andrew Jackson, New Edition, Two Volumes in One, The Macmillan Company, New York, 1925, pp. 225-226.)

  この「身柄提出令状」というのは、所謂「人身保護令(ハベアス・コープス)」による逮捕令状で、権力者が国民を違法な形で逮捕・拘束できぬよう被疑者を保護する目的を持っている。この札(令状)があると、政府当局者は恣意的に国民を逮捕できず、たとえ被疑者を拘束できても、速やかに裁判所に連行せねばならない。そして、裁判官の前で、明確な容疑とか拘束理由を述べることになる。これはイングランドのマグナ・カルタにまで遡るコモンローの規則および法慣習と言っても差し支えない。(Frederick  William Maitland, The Constitutional History of England, Cambridge, 1908, pp. 217-275, 313-315, 324, 376. を参照。) 南北戦争の時、エイブラハム・リンカン大統領が独裁者となり、人身保護令を停止して、批判者や叛逆者を拘束した話は有名だ。

    長い歴史を通して「国民の権利」が形成されたイングランドでは、地元の権力者や領主が勝手に臣民を捕まえ、私的な牢獄に閉じ込めることは許されなかった。王様は臣民の訴えに応じ、その逮捕者を国王裁判所にまで連れてくるよう獄吏に令状を送り、同臣民の身柄を国王裁判所に提出するよう命じたのである。何しろ、国王は地上における天主の代理人(vicar of God)であり、王国の正義を司る最高判事を兼ねているから、カンガルー裁判(リンチ法廷又はインチキ裁判)なんてNG。キリストの再臨まで子羊(信徒)を預かる王様が、匪賊の親分みたいじゃ駄目だろう。これが支那だと法律は権力者の道具だから、気に食わない奴は適当な罪をかぶせて“しょっ引く”ことができる。「何でも有り」の支那大陸では、倫理道徳なんて書物の中にしかない。瀆職、背徳、陰謀が渦巻いているだけ。皇帝は法の上に君臨し、勝手気ままに臣下を裁くことができる。そもそも「国民」という概念が無いから、支那の一般人なんて家畜や奴隷と同じだ。逮捕した後に法律を作って処刑したって構わないし、生きたまま肉を削いでバーベキューにしても良い。支那では天下を握った者が絶対者。全知全能の皇帝に刃向かう奴は愚かだ。

  話を戻す。投獄されたルワリエ議員は軍事法廷に引き出されるが、そこでは有罪にならなかった。しかし、逮捕されたホール判事は憐れなもので、ジャクソン将軍の命令で州境に連行されると、官吏から「戒厳令が解除されても絶対に戻ってくるんじゃないぞ !」と厳命される有様。国外追放という屈辱を味わったホール判事は、「おのれぇ~ 、 ジャクソンめ ! 今に見ていろ !」と復讐の炎を燃やしていた。1851年2月、英米の間でゲント(Peace of Ghent)の和平が結ばれ、その知らせがジャクソン将軍の耳に届くと、将軍は戒厳令を解くことにした。

Andrew Jackson in court(左  /  裁判の様子を描いた油絵)
  たぶん、ホール判事は「戒厳令が解除されたぞ !」と喜んだに違いない。早速、ジャクソン将軍は裁判にかけられ、地元の判事から突き上げを喰らう破目になった。しかし、刮目すべきは、その法廷に追放されたエドワード・ホール判事が君臨していたことだ。恨み骨髄のホール判事はジャクソン将軍の暴政を咎め、彼に1千ドルの罰金を科したという。しかし、ジャクソン将軍は反省する気配が全く無かった。なぜなら、彼には非常事態に直面したから非常手段を使ったまでだ、という態度があったからだ。確かに、ブリテン軍の進撃を受けてニューオリンズの街を守れるのは軍隊しかない。しかも、周囲は怪しい者ばかり。彼は戒厳令を敷く前に法律顧問のエドワード・リヴィングストン(Edward Livingston)とアブナー・ダンカン(Abner Duncan)に意見を訊いていた。戒厳令の発動に関しては、今でも様々な解釈が飛び交っているけど、それは合衆国憲法に明確な条文が無いからだ。連邦法はどんな状況なら誰が、どの機関が大統領の軍事的独裁権や戒厳令の権能を承認するのかを規定していないので、憲法学者の中で意見が分かれてもしょうがない。叛乱法(Insurrection Act)の場合、議会による要求で大統領が州兵や国軍を動員して暴動を鎮圧することもできる。しかし、それも法的な枠組みの中で成されるのが一般的だ。

  問題は、外国の侵掠とか大規模な叛乱といった緊急事態が発生し、政治家が議会に集まって戒厳令を承認するかどうかの議論をする時間が無い場合である。建国の父祖は思慮深い賢人であったから、非常事態の行動を法律で縛っておくことに不安を感じていたのかも知れない。共和政体を守るために憲法は欠かせないが、憲法を残すために共和国を失っては元も子もない。ただし、建国の父祖は執政官や指揮官による恣意的支配には懸念を抱いていた。彼らはイングランドの国王や領主が常備軍を用いて議会を解散させたり、刃向かう議員を逮捕するといったケースを覚えていた。だから、国民の権利を憲法で守ろうとしたし、軍隊の統帥権を議会に据えるべきと思っていたのだ。しかし、緊急事態の詳細を憲法で規定すると、共和国は予想外の事態に対処できない。いくら建国の父祖でも何百年後の未来は分からないから、立法府や行政府に法的な拘束衣を着せるのは危険だ、と理解したのだろう。

  古代ローマでも国家の緊急事態はあって、元老院が狼狽すれば、共和政の執政官や帝国の元首が独裁的な権力を用いて治安を恢復(かいふく)していた。もちろん、キンキナートスやマーカス・カトーみたいな英傑が元老院に居ればいいけど、有能な重鎮が常に存在するとは限らない。たいてい、議会には凡庸な人物か愚鈍な人物が議席を占め、危機が訪れても小田原評定というのが普通だろう。まぁ、世の法学者は理想論を述べる輩だから、冷酷な現実を論じる仕事には不向きだ。戒厳令は国家の要求に基づいて正当化されるものである。何かの創造は必要から生じるもので、必要性はその行使を正当化するものである。(Stephen Dycus and William C. Banks, "Martial Law Would Sweep the Country Into a Great Legal Unkown", The Atlantic, March 27, 2020.) 一般的に、戒厳令は大統領や知事から発せられることが多く、議会が主導権を取ることは少ない。たぶん、多数の議論では緊急事態に間に合わないから、行政機関の首長や軍の最高司令官に判断に任せる方が賢明なんだろう。

John Tyler 02( 左 / ジョン・タイラー大統領)
  二期目の大統領を全うしたアンドリュー・ジャクソンは、晩年になっても一つだけ心残りがあった。それはホール判事から科せられた罰金である。彼はそれを返却してもらいたかった。しかも、「利子を附け」てだ。これは金銭的に困っていたからではなく、名誉の問題であったからだ。そして、ジャクソンの要求は政治的にも重要であったから、彼を嫌うホイッグ党(Whig Party)や民衆共和党(Democratic Republican Party / 後の民衆党)も「どうしようかなぁ~」と考えていた。何しろ、ジャクソンが属する民衆共和党にとって、この元大統領は絶大な人気を誇る英雄だ。しかも、民衆共和党を纏め上げる人物はジャクソン以外にいなかった。次の大統領選挙を考えれば、ジャクソンの人気を利用した方がいい。対するホイッグ党もジャクソン人気にあやかろうとしたから、ジャクソンの願を叶えてやることにした。ジョン・タイラー大統領の時代、1844年2月16日、第28合衆国議会は罰金の返還を承認する法律を可決した。この立法により、ジャクソン元大統領は嫌々ながら払った1,000ドルと利子の27ドルをもらったそうだ。

  ちょっと長い説明になってしまったが、アメリカにおける戒厳令の発動に関しては、今でも様々な論争があり、どのような条件が整えば大統領が戒厳令を敷くことができるのか、明確には解らない。しかし、戒厳令を違法とする動きも無いから、アメリカ人は心の何処かで非常事態の軍政を認めているんだろう。筆者は「アメリカ史の中で戒厳令は幾つもあった」と思っているが、上念先生は「一度も無い」というので、読者には高校か大学の先生に尋ねてもらいたい。さすがに、教え子からの質問なら、学校の先生は嘘をつかないはずだ。

  混迷を深めるアメリカ大統領選挙では、トランプ大統領による戒厳令の噂が飛び交っていたが、本当に発令されるかどうか分からない。確かに、こうした選択肢はあるけど、トランプ大統領が本当に選ぶのかどうか甚だ疑問である。未来のことは誰にも判らないから、「一つの可能性」と考えておいた方が無難だろう。

  


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