無敵の太陽

主要マスメディアでは解説されない政治問題・文化・社会現象などを論評する。固定観念では分からない問題を黒木頼景が明確に論ずる。

映画・ドラマ評論

自爆したハン・ソロ / 「失敗作」の汚名を得たスピンオフ作品

教科書に載せて全日本人に知らせたい現代史 支那人の卑史 朝鮮人の痴史
黒木 頼景
成甲書房

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何匹目のドジョウを狙っていたのか?

Star Wars Solo 321Felicity Jones 5









  先月末、「スター・ウォー」シリーズから“また”スピン・オフ作品が公開された。今回は、ミレニアム・ファルコン号を操縦する英雄ハン・ソロが主役。彼の運命を変えるレイア姫とルーク・スカイウォーカーに逢う前の、若き時代を扱っているそうだ。しかし、制作者の期待とは裏腹に、その興行成績は無惨なものだった。全米公開第二週で大幅に下落してしまい、たった2千500万ドルから3千500万ドル程度の稼ぎであったという。好成績が予想された英国でも振るわず、興行収入はせいぜい800万ドルくらい。(Stefan Kyriazis, "Star Wars Han Solo movie Global box office DISASTER on second weekend Why? ", Daily Express, June 3, 2018) 同シリーズのスピン・オフ作品『ローグ・ワン』でさえ、第二週までの間に6千800万ドルを稼ぎ出していたんだから、どれくらい酷いか判るだろう。(「スターメウォーズ」に関しては、当ブログのPart 1Part 2を参照。)

  でも、この失態は予め予想できたんじゃないか。まず、配役の顔ぶれを見ただけでも落胆するから、予告編じたいに魅力が無い。「スター・ウォーズ」を愛する西歐系アメリカ人からすれば、「まぁ~た、人種的多様性(racisl diversity)を反映した作品かよぉ~」とウンザリする。ハリソン・フォードがユダヤ系アメリカ人だから仕方ないが、若きハン・ソロを演じるオールデン・エアレンライク(Alden Ehrenreich)もユダヤ人俳優だ。彼はスティーヴン・スピルバーグに見出されて有名になったという。期待の新人をシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)で見つけるんだから、ユダヤ人の同胞愛は信仰の枠を越えているんだねぇ。主役の男優をユダヤ人にすると、相手役の女優は美形の西歐人とするのがハリウッドの法則だ。オールデンの相方となったのは、大ヒットTVドラマ『ゲーム・オブ・スローン』で注目されたエミリア・クラーク(Emilia Clarke)。彼女が演じるのは、かつての同志で、ソロの元恋人キラ(Qi'ra)という役柄である。“クセ”のある役だけど、まぁ面白くするためだからしょうがない。それにしても、エミリアは不運だ。ヒット作になるはずだった『ターミネーター: ジェネシス』に抜擢されたが、蓋を開けてみれば散々な結果で、新作を準備するジェイムズ・キャメロン監督によれば、完全に無視する悪夢なんだって。今回の『ソロ』でも“またもや”貧乏くじを引いてしまった。ちょっと可哀想。

Alden Ehrenreich 3Emilia Clarke 3










(左: ハリソン・フォード  / 中央: オールデン・エアレンライク  /  右: エミリア・クラーク )

   この新作にはソロと親しいお馴染みの密輸人「ランド」が登場し、以前はビリー・ディー・ウィリアムズ(Billy Dee Williams)が演じていたが、今回はドナルド・グローヴァー(Donald Glover)が若き日のランドを演じている。黒人役者と並ぶ白人の脇役ときたら、あまり大した俳優をつけない、というのがスター・ウォーズの特徴だ。ソロの師匠として登場するトビアス・ベケット役には、見るからにアホ丸出しの白人男優、ウディー・ハレルソン(Woody Harrelson)が採用された。彼は時々映画で奇人変人の役をこなすけど、私生活でも似たような側面を持っている。まず、彼の家族が常識外れだ。信じられないけど、彼の父親チャールズはプロの殺し屋。嘘と思うだろうがホントの話。ウディーの父親はジョン・H・ウッド(John H. Wood, Jr.)判事を殺した廉で逮捕され、法廷で終身刑の判決を受けた。すごぉ~い。まるで、クライム・サスペンスの序盤みたいだ。

Billy Dee Williams 1Donald Glover 2Woody Harrelson & father Charles 1








(左: ビリー・ディー・ウィリアムズ  / ドナルド・グローヴァー   / 逮捕されたチャールズ・ハレルソン   /  右: 息子のウディー・ハレルソン)

  しかし、カエルの子はカエルなのか、ウディーも警察沙汰が絶えなかった。母子家庭ながらも、ちゃんと大学に通って卒業し、念願の俳優にもなれたのに、1982年、路上で騒ぎながら踊っていたところを通報され、駆けつけた警官に抵抗したので逮捕されたそうだ。さらに2002年、ロンドンを訪れた時、タクシーの運転手と揉めて警察の厄介になり、罰金刑を喰らってしまった。でも、こういう類いのバカは懲りない。2006年、パパラッチにしつこく追いかけられ、ナイトクラブでカメラマンを殴ってしまい、これまた罰金刑を受ける破目に。ハリウッド・スターだから仕方ないけど、ウディーもリベラル左翼で、マリファナの合法化を推進する一人である。自分でも大麻を栽培するほどの不届き者で、常識というものが無い。こんな頭の持ち主だから、尊敬する人物も普通ではなかった。ウディーが影響を受けた知識人とは、何と、日本でも有名なユダヤ人左翼の歴史家で、2010年に亡くなったハワード・ジン(Howard Zinn)であるという。

Howard Zinn 1Daniel Ellsberg 3Noam Chomsky 3








(左: ハワード・ジン  / 中央: ダニウル・エルズバーグ  / 右: ノーム・チョムスキー )

  ジンは公民権運動で活躍し、ベトナム反戦でも知られている札付きのアカであるけど、「ペンタゴン・ペーパー」の件は忘れ去られている。「ランド・コーポレーション(RAND Corporation)」の軍事アナリストであったダニエル・エルズバーグ(Daniel Ellsberg)は、密かに「ペンタゴン・ペーパー」のコピーをハワード・ジンとその妻ロズリンに渡していた。ちなみに、エルズバーグもユダヤ人学者。「類は群れる」のか、ジンの仲間には極左知識人が多く、反戦を掲げるユダヤ人活動家、ノーム・チョムスキー(Noam Chomsky)もその内の一人であった。チョムスキーは元々言語学者で文法の研究では優れていたが、次第に政治問題へと関心を寄せるようになり、振り返ってみると、左翼活動家としての経歴の方が長い。チョムスキーは理想主義を掲げるユダヤ人によく見受けられるタイプで、イスラエルの対パレスチナ政策にも批判的で、米国内のシオニスト系ユダヤ人と反目しているそうだ。まったく、ユダヤ人というのは他人の国で「いざこざ」を起こし、現地人をも巻き込んで事態を悪化させる常習犯である。こうした異民族は反省しないから、強制手段を用いて排除すべきだ。

Thandie Newton 1(左  /  タンディー・ニュートン)
  随分と脱線したので話を戻す。ジョージ・ルーカスが当初描いていた「スター・ウォーズ」は、宇宙を舞台にしたスペース・ファンタジーであった。しかし、ユダヤ人が支配するディズニー社に売却されると、「多民族主義」と「社会正義」を推進するプロパガンダ映画になってしまった。例えば、映画でトビアス・ベケットの妻を演じるのは、イングランドの白人とジンバブエ黒人の混血女優、タンディ・ニュートン(Thandie Newton)だ。彼女は日本でも知られており、映画『ミッション・インポシブル 2』とTVドラマ・シリーズ『ER』に出演していた女優である。彼女は黒光りしたコテコテのアフリカ人ではなく、ハル・ベリーみたいなライト・スキンの黒人だから、何となく使いやすい。

失敗作の元兇となったユダヤ人制作者

  日本人はスクリーンに映し出される役者ばかりに目を奪われるが、「スター・ウォーズ」をメチャクチャにした制作陣、すなわち裏方の元兇にこそ目を向けるべきである。そこで、A級戦犯の筆頭になるのは、ルーカス・フィルムの社長を務めるキャサリン・ケネディー(Kathleen Kennedy)かも知れない。元々、彼女はスピルバーグ監督に見初められたプロデューサーで、同監督の映画『シンドラーのリスト』や『ジュラシック・パーク』でもプロデューサーを務めていた。いわば、スピルバーグの飼い犬というか、ユダヤ人の妾みたいなものである。彼女と一緒に『ソロ』を手掛けたのは、アリソン・シェアマー(Allison Shearmur)というユダヤ人のプロデューサーで、今年の1月に肺癌で亡くなっている。彼女は大物プロデューサーであるスタンリー・ヤッフェ(Stanley R. Jaffe)の弟子だった。このユダヤ人もハリウッドで名が通っており、ダスティン・ホフマンとメリルストリープの共演でヒットした映画『クレイマー・クレイマー』のほか、『がんばれベアーズ』や『告発の行方』を制作したことでも知られている。松田優作が出演した『ブラック・レイン』でも彼がプロデューサーを務めていた。

Kathleen Kennedy 1Allison Sheamur 2Stanley Jaffe 1Ron Howard 2








(左: キャサリーン・ケネディー  / アリソン・シェアマー  /  スタンリー・ヤッフェ /  右: ロン・ハワード)

  ハリウッドは本当にユダヤ人だらけだ。『ソロ』の脚本を担当したのは、ジョナサンとローレンスのカスダン兄弟(Jonathan & Lawrence Kasdan)で、ローレンスは同シリーズと馴染みか深く『帝國の逆襲』や『フォースの覚醒』でも脚本を書いていた。ハリソン・フォードが「インディアナ・ジョーンズ」に扮して出演した映画『レイダース / 失われたアーク』も、ローレンスが脚本を担当した作品だ。勧善懲悪のアクション映画をユダヤ人が描くんだから、ドイツ人が悪役になるのも当然で、定番通り、聖櫃(アーク)を簒奪しようとする邪悪なナチスと、冷酷非情なドイツ人将校が登場していた。一方、監督のロン・ハワード(Ron Howard)は非ユダヤ人で、制作者同士のゴタゴタを引き受けて、急遽、代役の監督を務めたそうだ。それにしても、大作を任されたはずなのに、結果は駄作となってしまったのだから、何とも不運な人である。

Lawrence & Jonathan Kasdan 1Chris Weitz 1Ram Bergman 1







(左: ジョナサンとローレンス・カスダン  / 中央: クリス・ワイツ  /   右: ラム・バーグマン )

  スピン・オフ作品の『ローグ・ワン』にもユダヤ人が絡んでおり、脚本を手掛けたトニー・ギルロイは、ドイツ・イタリア系のアメリカ人だけど、主導権は共同脚本家のクリス・ワイツ(Chris Weitz)が握っていたはずだ。プロフィール上、ワイツは「チェコ系アメリカ人」となっているが、実際はチェコ系ユダヤ人を父に持ち、母親の方はメキシコ人という非西歐系の根無し草だ。ユダヤ人というのは、書類上の国籍を以て正体を隠すクセがあるので、我々は騙されないよう、どんな血筋なのかを調べねばならない。『フォースの覚醒』で総指揮を務めたのはユダヤ人の売れっ子監督J.J.エイブラムズ(Jacob J. Abrams)だが、あまりにも作品が不評だったせいか、続編の『最後のジェダイ』はライアン・ジョンソン(Rian Johnson)に任され、彼が監督を務めることになった。しかし、脚本を書いたのは、またしても異人種で、ラム・バーグマン(Ram Bergman)というイスラエルのユダヤ人。もう、スター・ウォーズ・シリーズを“つまらなく”する為にユダヤ人を用いたとしか思えない。

魅力ある作品を生み出せないハリウッド

  「スター・ウォーズ」シリーズだけではなく、どうして最近のハリウッド映画には凡庸な作品が多いのか? それは、一つに、西歐人の魂を鼓舞するようなストーリーとキャスティングが無いからだ。ユダヤ人は米国を「人種の坩堝(るつぼ)」と思っているが、この共和国はアングロ・サクソン人によって建てられた、ジェントリー階級を主体とするもう一つのイングランドである。したがって、この独立国に招かれていいのは、デンマーク王国のデイン人とかネーデルラント連邦のフリジア人、スカンジナヴィア半島のノルマン人、ガリアに根づくケルト系のフランス人、先祖代々チュートン系のドイツ人などで、東歐や南歐の劣等民族は好ましくなかった。ゆえに、ゲットーに暮らすユダヤ人なんてもってのほか。だいたい、ヨーロッパで「鼻つまみ者」扱い賤民が、いくら新天地のアメリカとはいえ、なんで歓迎されなきゃならないんだ? まともな日本人なら、「歴史の書き換え」に気付くはずだ。異民族を征服する手段は、何も剣や銃だけとは限らない。紙鉄砲という洗脳もあるのだ。

  利益供与とか袖の下を貰っているから仕方ないけど、大半の映画評論家は新たなスター・ウォーズ作品を褒めちぎっていた。彼らの評価は軒並み90%と非常に高い。ところが、お金を払って劇場で鑑賞した一般人は、「まあまあ」とか「普通」といった評価がほとんどで、熱心な白人ファンだと満足度は40%程度に過ぎなかったという。期待値が高いだけに落胆も大きい、ということなのか。それにしても、ディズニーのドル箱部門に入ったせいか、キャスティングには黒人やヒスパニック、アジア人が盛りだくさん。明らかに、世界規模での“営業”を考えている。つまり、「大金を稼ぐ」という目標を先に考えて、後から物語を構築しているのだろう。だから、どの作品もつまらない。主役や脇役のキャラクターには、“ほとばしる”情熱とか揺るぎない信念を感じられず、単に様々な人種が取り揃えられているに過ぎない。確かに、CG技術の向上で、派手な戦闘シーンや大規模な破壊・爆発映像が可能となったが、肝心の登場人物に魅力が無いんだから不満が募るのも当然だ。

Felicity Jones 3(左  /  フェリシティー・ジョーンズ)
  例えば、比較的好成績だった『ローグ・ワン』でさえ酷かった。主人公のジン・アーソ(フェリシティー・ジョーンズ)は、帝国軍お抱えの技術者を父に持ち、両親と別れて成長するが、“当然の如く”抵抗を続ける共和国軍に協力する。「やはり」と言っては何だが、予想通りデス・スターの設計図を盗もうとするのだ。彼女は危険を顧みずパルチザとなって帝国軍と闘うが、その信念はどこから来るのか? デス・スターの建設を指揮する父親の罪を贖うためなのか、それとも帝国軍の圧政に我慢できない反撥心なのか、イマイチよく判らない。映画では、必死になって設計図のデータを共和国側に送信しようと奮闘するが、最後にはデス・スターのビーム攻撃を受けて、惑星ごと消滅してしまうのだ。彼女と一緒になって闘った東洋系戦士のベイズ・マルバスとチアルート・イムウェも悲惨な最期を遂げるが、その動機が何とも薄かった。彼らは単に帝國側に叛旗を翻すパルチザンというだけ。フォレスト・ウィテカー(Forest Whitaker)演じるソウ・ゲレラに至っては、「こんなキャラクターなんか要らない !」と思えるくらい余計だった。まるで、無理やり押し込んだ大物役者みたい。たぶん、制作者が黒人観客用に「黒い奴でも一つ入れとくか !」とサービスしたんじゃないか。

  外国でも大金を儲けよう図る制作者が、世界市場を意識し、有色人種の観客を取り込もうとするのは理解できる。アジア系の盲目戦士「チアルート」を設定し、この配役に支那人男優のドニー・イェン(Donnie Yen)を据えたのも、アジア戦略の一環だろう。しかし、リベラル派の制作者はそれだけでは満足できず、もう一人の東洋人キャラクター「ベイズ・マルバス」を加え、支那人のチアン・ウェン(Jiang Wen)に演じさせた。カンフーの達人らしきチアルートには、ベイズ・マルバスという相棒が附き、二人は銃撃戦の最中に絶命する。日本人の観客なら何とも思わないが、北米にいるアジア人は、「やっと我々のヒーローが誕生した !」と喜ぶんじゃないか。でも、本当にそうなのか? マーケット・リサーチの会社が提示する観客の意識調査は怪しく、そのまま鵜呑みにはできない。他方、ハリウッドの制作者はそんなことを気にも留めず、ドンドン左翼的アジェンダを実行する。彼らは世界中のフェミニストにも配慮して、主人公を“男優り”の女性にし、若手女優のフェリシティー・ジョーンズ(Felicity Jones)にやらせていた。『フォースの覚醒』で小娘の「レイ」が主人公になり、デイジー・リドリー(Daisy Ridley)が採用されたのも同じ考えだ。結局、物語から西歐系男子を排除するというイデオロギーのもと、小娘と黒人、そして東洋人を抜擢したんだろう。

Forest Whitaker 1Donnie Yen 3Jiang Wen 1Daisy Ridley 3








(左: フォレスト・ウテカー  / ドニー・イェン  / チァン・ウェン  / 右: デイジー・リドリー  )

Travis Fimmel 2Kevin McKidd 1Max Martini 1Charlie Hunnam 11








(左: トラヴィス・フィンメル  /  ケヴィン・マクキッド/ マックス・マーティーニ /  右: チャーリー・ハナム)

  何はともあれ、「スター・ウォーズ」を愛する西歐系アメリカ人は、左翼思想に染まった冒険活劇ではなく、勇気と信念を持って悪と戦う「白人の英雄」を見たがっている。ジェダイの騎士だって本来なら、凜々しいゲルマン系男優だけを集めるべきで、黒人のサミュエル・L・ジャクソンとか、ヨボヨボの老人、奇妙な宇宙人なんか余計なエキストラで“邪魔”なだけだ。ジェダイの騎士を演じさせるなら、若手のハンサム男優シャーリー・ハナム(Charlie Hunnum)やトラヴィス・フィンメル(Travis Fimmel)、古代ローマの百卒長を演じたケヴィン・マクキッド(Kevin McKidd)、特殊部隊の軍人が似合うマックス・マーティーニ(Max Martini)、高級将校を演じさせたらピカいちのチャンス・ケリー(Chance Kelly)、冷静沈着な参謀といった雰囲気のトミー・フラナガン(Tommy Flanagan)など、いくらでも思いつく。そもそも、ジェダイのモデルは中世の武装修道士で、ドイツ騎士修道会(Deutsche Orden)や聖堂騎士団(Kights Templar)を思い出せばピンとくるだろう。だから、ジェダイの騎士を全員ヘイデン・クリステンセン(Hayden Christensen)とか、ユアン・マクレガー(Ewan McGregor)、アレック・ギネス(Alec Guinness)みたいな白人男性にしたっていいじゃないか。その方が“絵”になるし、畏敬の念も生まれてくる。

Hayden Christensen 7Ewan McGregor 3Alec Guinness 3








(左: ヘイデン・クリステンセン  / 中央: ユアン・マクレガー  /  右: マークハミルとアレック・ギネス)

  ジェダイの騎士が集まる評議会にしても同じだ。共和国の枢密院に妖怪もどきのメンバーが混じっているんじゃ、威厳も権威もあったもんじゃない。理想を言えば、共和政ローマの元老院みたいに、歴戦の勇士とか名門の元執政官が構成員じゃないとねぇ~。ローマ史に詳しくない日本人でも、共和政を樹立したルキウス・ブルートゥス(Lucius Junius Brutus)やプブリウス(Publius Valerius Publicola)、共和政体の権化たるキンキナートゥス(Lucius Quinctius Cincinatus)、峻厳な大カトー(Marcus Porcius Cato)、驍将のスキピオ・アフリカーヌス(Scipio Africanus)、名門のファビウス・マクシムス(Quintus Fabius Maxmus Gurges)、独裁官となった英雄のユリウス・カエサルなど、ちょっと考えれば直ぐ思い浮かぶじゃないか。

Lucius Brutus 1Scipio Africanus 1Cato the Elder 1Julius Caesar 5








(左: ルキウス・ブルータス   /  スキピオ・アフリカーヌス / マーカス・カトー  /  右: ユリウス・カエサル)

  それにしても、なぜこうも最近の「スター・ウォーズ」作品には魅力が無いのか? それは、制作者のユダヤ人が西歐社会を愛することが出来ず、無意識的に白人達を憎み、彼らの祖先を称讃できないからだ。第7部の『フォースの覚醒』を指揮したJ.J.エイブラムズは、白人だらけの西歐社会が大嫌い。彼の発言によれば、映画は現実の社会を“反映”せねばならぬそうだ。(Nick Statt, "Director J. J. Abrams weighs in on diversity in the Star Wars universe", CBS Interactive, July 11, 2015) つまり、ヨーロッパ系の白人ばかりを採用して作品を作ってはならない、ということだろう。彼が新作の舵を取ったとき、白人の「スター・ウォーズ」ファンは有色人種の過剰なキャスティングに不満を爆発させていた。(インターネットでボイコット運動まで起こったんだから、相当なものである。)

J. J. Abrams 2Jennifer Garner 9








(左:  J.J.  エイブラムズ/  右: ジェニファー・ガーナー)

  しかし、エイブラムズ監督はこうした抗議に耳を傾けるどころか、逆に反撥を覚えて“右翼的”な白人ファンを窘(たしな)めていた。この点で、彼は実にユダヤ人らしい。偏見に満ちあふれた西歐人に「高邁な理念」を教えるのが、上等な民族、すなわちユダヤ人の務めだと思っているからだ。でも、それには賛同できない。かつて、TVドラマの『エイリアス(Alias)』を制作したエイブラムズは、白人美女が大好きで、主演女優に西歐系のジェニファー・ガーナー(Jennifer Garner)を採用していた。そして、彼女の共演者にはユダヤ人を用意する。劇中、彼女の父親役はヴィクター・ガルバー(Victor Garber)が演じ、恋人になる同僚はマイケル・ヴァルタン(Michael Vartan)、仲良しの同僚にはグレッグ・グルンバーグ(Greg Grunberg)といった具合。ドラマの中でキーパーソンとなるスローン役には、大御所のロン・リフキン(Ron Rifkin)を当てていた。ユダヤ人俳優に取り囲まれた白人女優なんて、アラブ人の盗賊に攫われた白雪姫みたいだ。監督のエイブラムズは嫉妬心の塊なのか、白人の男優となれば敵意を剝き出しにする。つまり、ライバルとなる異教徒の男は排斥するということだ。これはユダヤ人に特徴的な性癖で、ヨーロッパ人の白い女は、ビジネスで成功した者に対する「トロフィー」でしかない。この赦しがたき現実を見るから、歐米の白人男性はユダヤ人に激怒するんだろう。

Victor Garber 1Ron Rifkin 2Michael Vartan 1Greg Grunberg 2








(左: ヴィクター・ガルバー  / ロン・リフキン  / マイケル・ヴァルタン  /  右: グレッグ・グルンバーグ)

戦う意味が曖昧なスペース・ファンタジー

  「スター・ウォーズ」を食い物にするユダヤ人は、「悪の帝国と戦う共和国軍」という図式で、ジェダイの騎士や叛乱軍の将兵を描くが、観客は彼らが何の為に命を賭けるのか、がよく分からない。確かに、パルチザンは邪悪な皇帝の支配に立ち向かう「自由の戦士」なんだろうけど、その気概が何とも薄っぺらいのだ。孤島に隠居するルーク・スカイウォーカーの描き方も雑で、彼が怨みを抱くカイロ・レンと闘うシーンがあったけど、それはルークが念力で創り出した幻影に過ぎず、本人は遠く離れた島で遠隔操作をしていた、という「仕掛け」である。でも、こんなオチを見せつけらたら、劇場で観ていたファンは納得できない。腹に据えかねた観客が「カネを返せ !」と叫んでも不思議じゃないぞ。だいたい、ルークがカイロ・レンに対し「お前が最後のジェダイだ」と告げて、コロっと死んでしまうなんて、悲劇どころか洒落にもならない。観客は「何で死んじゃうの?」と自失茫然。映画は訳の解らないまま幕を閉じる。お客様が「えぇぇっ、これでお終い!?」と驚くのも無理はない。しかし、配給会社に媚びる映画評論家は、こんな駄作を「素晴らしい出来だ !」と大絶賛。ライト・サーバーを使った壮絶な決闘シーンもないのに、力尽きたルークが夕陽を背にして孤独死なんだから、「どこが傑作なのか ?」と言いたくなる。

Mark Hamill 1Adam Driver 6Daisy Ridley 003








(左: 「ルーク」役のマーク・ハミル  / 中央: 「カイロ・レン」役のアダム・ドライヴァー /  右: 「レイ」役のデイジー・リドリー)

Rian Johnson 1(左  脚本家のライアン・ジョンソン)

  登場人物が丁寧に描かれ、それぞれの内面が深くないと、たとえ派手な映像がふんだんに盛り込まれていても観客は感動しないものだ。ルークに弟子入りし、ジェダイの剣術を教えてもらったレイも、何が目的なのか不明確で、鋼鉄の意思を貫こうとする信念が見受けられない。脚本を担当したライアン・ジョンソンは、感動的な物語を書きたければ、日本のアニメを勉強すべきだ。昭和に放送されたアニメ番組には良質な作品が多かった。例えば、名作『新造人間キャシャーン』は、2008年に公開された『バットマン: ダーク・ナイト(The Dark Knight)』の魁(さきがけ)となるアニメだった。キャシャーンは人々の為に必死で闘っているのに、民衆から感謝されず、却って恨まれてしまう哀しいヒーローとなっていた。主人公の東鉄也(あずま・てつや)は、父親が作ってしまった兇悪なアンドロイドを倒すため、二度と人間に戻れないことを承知の上で、機械の体になることを志願し、無敵のキャシャーンとなって死闘を繰り返す。ちょっと感動的なのは、彼が科学者の父親に「アンドロイドにして下さい」と頼んだ時、側に居た母に向かって「赦して下さい」と謝るシーンであった。「躾が良く親孝行の息子」というキャラクター設定は、いかにも昭和的で、古き良き日本を示している。(下品な言葉遣いを「リアル」と称して、ことさら映画に盛り込むユダヤ人とは大違いだ。)

  しかし、新造人間となった鉄也は、自分が「機械」であることを隠さねばならず、誰にも心を許すことができない。幼なじみの上月ルナと再会しても、自分の正体を打ち明けられず、鉄也であることすら否定しようとする。こうしたキャシャーンの姿に、我が国の子供たちは心を打たれ感銘を受けたものだ。ある時、キャシャーンはアンドロ軍団に襲われた子連れの夫婦を助けるが、感謝する父親はアンドロイドに対する憎しみを漏らす。それを聞いたキャシャーンは、無言のまま何も答えず、辛い気持ちを隠していた。自分も同じ類いの「機械」であると言えないからだ。しかし、彼は挫けなかった。キャシャーンは離れ離れになった両親に向かって独り言を述べていた。

  アンドロ軍団から人間を救うことが、新造人間である俺の使命なんだ。お父さん、お母さん。キャシャーンは木っ端微塵になるまで戦います。(第2話の後半)

  こうした「男の覚悟」を聴く日本のちびっ子達は、溢れる涙を抑えながら、「キャシャーンがやらねば誰がやる」というセリフを口ずさむ。誰からも感謝されないのに、それでも皆の為と思って命を賭けるんだから、大人でも感動するじゃないか。日本人は同質民族だから、「みんなの為に闘う」という気持ちを自然に持つ。いちいち、「自由の為」と断らなくても、当り前だから理屈を述べることはない。だが、雑多な民族や人種で構成される米国だと、“もっともらしい”大義が必要で、やれ「自由だ !」「デモクラシーを守れ!」とかのスローガンが必要になってくる。というのも、隣に住む人間を見れば、肌の色や顔附きが違うし、家系や学歴、躾や慣習もバラバラだ。ゆえに、西歐系のアメリカ人は黒人やアラブ人、南米人、アジア人を見ると、「こんな野郎の為に俺は死ぬのか?」と疑問に思えてくる。そして、彼らの顔をじっくり見詰めると、段々と馬鹿らしくなってしまうのだ。こんな訳だから、戦争になれば生身の群衆を見ないで、布製の星条旗ばかり眺めている。

black people 121Americans 11









(写真  /  「アメリカ人」と呼ばれる人々)

  平成の日本アニメはおかしくなってしまったが、少なくとも昭和までは素晴らしい作品が多かった。日本の子供達は「屁理屈を並べた教育動画」とか「政治的配慮を盛り込んだ教養漫画」なんて求めなかったし、制作者もそんなイデオロギーとは無縁だった。昭和40年代や50年代の子供が、「もっと有色人種のキャラクターを増やさなきゃ !」とか、アジアとの友好を考えて「支那人や朝鮮人の主人公も作ったら ?」と要求することはまず無かった。キャシャーンとその両親が西歐的容姿でも不思議ではなかったし、「上月ルナが金髪の北歐女性なんておかしい」と抗議する子供も皆無で、むしろ好んで観ていたくらいである。人種のバランスを考えながら映画を作るハリウッドとは、根本的に違っていたのだ。視聴者である子供が中心のアニメ制作は清々しい。昭和のアニメが今でも魅力を失わないのは、日本人の制作者が「創りたいものを創り」、政治イデオロギーや興行成績にとらわれず、自分の夢を素直に描いていたからだ。作品のキャラクターに黒人が一人も登場せず、みんな白い肌のアーリア人なんて、アメリカ人が聞いたら卒倒するが、日本人は気にしないで楽しんでいた。アメリカの知識人は我々に向かって「表現の自由」を自慢するが、彼らの本国に目を向けると、その自由は枯れ果て、実質的には空洞化している。つまり、教科書の中にだけに存在する「空想」なのだ。

  色々不満を述べてしまったが、所詮「スター・ウォーズ」シリーズはゼニ儲けの道具に過ぎない。いくらジョージ・ルーカスが「スペース・ファンタジー」と宣伝しようが、世界市場で関連グッズやDVDを販売する方が重要だ。仮に劇場での収入が赤字でも、ディズニー・ランドやイベント会場で儲ければいい。一つのスピン・オフ作品が失敗しても、第二弾、第三弾のスピン・オフを上映すれば、どれか一つくらいはヒットするだろう。著作権を持つディズニー社は、向こう百年間は同シリーズで儲けるつもりらしい。スピン・オフ映画第75弾とか、第96弾になれば、訳の解らぬ宇宙人とか魚の海賊が主人公になっているかも知れないぞ。巨大なヒキガエルにしか見えない「ジャバ・ザ・ハット(Jabba the Hutt)」が主人公の映画だって有り得る。でも、そんな作品は観たくない。

  とは言え、欲に目が眩んだディズニー社なら、ルーク・スカイウォーカーの隠し子とか、オビ=ワン・ケノビの遠い親戚とか、適当な理由をつけて、新たなキャラクターを生み出し、次々とジェダイの騎士を増やすんじゃないか。もしかしたら、ルーク・スカイウォーカー12世なんて騎士が出るかもよ。そうしたら、歌舞伎役者みたいだ。まぁ、スター・ウォーズは日本のチャンバラ劇を参考にしているくらいだから、世襲の騎士くらい簡単に誕生させるだろう。もし、第22世紀までスター・ウォーズが続いていたら、本当にライト・セーバーが開発されるかもよ。そうしたら、日本の子供達は大喜びでおもちゃ屋に殺到するだろう。ただし、これだと「スター・ウォーズ」じゃなくて「マネー・ゲーム」だ。




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ある日どこかで


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B級映画がカルト的名画に

  映画ファンなら分かると思うが、偶然、何の気なしに観た映画が、いつまでも心に残るということが“たま”にある。ジェイン・シーモア(Jane Seymour)とクリストファー・リーヴ(Christopher Reeve)が共演した『ある日どこかで(Somewhere in Time)』がまさしくそうだ。公開当時、この映画は余り注目されず、興行収益も良くなかったので、ひっそりとロード・ショーを終えていた作品と言えよう。もちろん日本でも公開されたが、人気を博したという評判は聞いたことがない。ところが、しばらく経ってから、『ある日どこかで』は後々まで語り継がれる名作となった。理由は後回しにして、まずはこの意外なヒット作のストーリーを簡単に述べてみたい。

Somewhere in Times 4Somewhere in Times 13(左: コリアーとエリーズ  /  右: 亡くなる寸前のエリーズ)
  時は、1972年。脚本家志望のリチャード・コリアー(クリストファー・リーヴ)は、ミルフィールド大学で自分の処女作を上演してもらった。その後、彼の成功を讃えるパーティーが開かれたのだが、彼はある奇妙な出逢いを経験する。友人らと楽しく会話を交わすコリアー。ところが、ホールの片隅で自分をを見つめる一人の上品な老女に気づく。彼女はリチャードの方に歩み寄り、「帰ってきて(Come back to me !)」という言葉をかける。すると、持っていた懐中時計を彼の手に包み込むよう手渡した。彼女は他に何か言いたそうだったが、そのまま無言で立ち去って行く。奇妙な事に、会場の人々は誰一人として彼女の素性を知らなかった。一方、グランドホテルの自室に戻った老女は、リチャードの書いた脚本を胸に抱き、思い出の曲を聴きながら、その夜、眠るように息を引き取った。

  八年後の1980年、脚本家となったリチャードは、仕事と私生活に行き詰まり、原稿を求める編集者から逃げるようにして車で旅に出る。ドライブの途中、彼は通りかかったグランド・ホテルに目が止まり、吸い寄せられるようにそこに宿泊することにした。チェックインを終えたリチャードは、偶然にも、ホテル内にある歴史の資料室に辿り着く。好奇心をそそられて中に入ったリチャードは、ふと背後に熱い視線を感じた。何事かと後ろを振り向くと、そこには若くて美しい女性の写真が掛かっている。ところが、名札が外されており、誰だか判らない。それでも、そこホテルには「アーサー」というベテランの係員がいたので、リチャードは彼に尋ねてみることにした。すると、温厚なアーサーは鄭重に答え、その貴婦人が昔、ホテルの劇場内で公演をした女優であると教えてくれたのである。

  「ひと目逢ったその日から、恋の炎が燃え盛り・・・」と俗に言うが、「一目惚れ」は洋の東西を問わない。謎の美人女優を目にしたリチャードは、彼女のことが常に頭から離れない。夜になっても寝つけないくらいだから、恋の病は重症だ。そこで、悩めるリチャードは、彼女について調べることにした。調査の結果、写真の主は1912年頃に活躍した、人気女優エリーズ・マッケナ(ジェイン・シーモア)であると判明した。しかし、彼女は1912年以降活動を止めていた。どうも腑に落ちない。ということで、彼はエリーズの附き人であったローラに話を聞きに行く。すると、リチャードは彼女が1972年の夜に亡くなっていたことを知るのであった。

Mackinac Island Grand HotelSomewhere in Time 9








(左: グランド・ホテル  / 右: エリーズの写真を発見したコリアー )

  リチャードは更に調査を進め行く。意外なことに、エリーズの愛読書は『時の流れを超えて』であったのだ。この本はリチャードに哲学を教えた恩師の著作である。この発見で、リチャードは彼女が口にした「帰ってきて」の意味を知ることができた。熱い思いに揺さぶられた作家の好奇心は留まる事を知らず、リチャードは再び別の発見に驚く。ホテルの宿泊名簿をめくると、そこに自分の名前が載っていたのだ。彼は1912年に今いるホテルに泊まっていたのである。つまり、あり得ないが、タイム・トラベルをしていたという事だ。さっそく、リチャードは時間旅行を研究するフィニー教授のもとを訪ねた。これまでの経緯を話し、どうしたものかと相談したところ、自己催眠の術があるという。教授曰わく、「現代の所持品を捨て、行きたい時代の品物を身に付けなさい」と。さすれば催眠術をかけて過去に遡れるというのだ。そこで早速、リチャードは1912年の頃に作られたスーツを着込み、当時の硬貨と懐中時計をポケットに忍ばせ、ホテルの一室で自分に催眠術をかけてみた。

  すると信じられない事だが、リチャードは1912年の時代にタイム・トラベルを果たす事が出来たのである。グランド・ホテルの直ぐ近くには、穏やかな波がうねる湖が広がり、その浜辺には並木道が延びている。柔らかな陽射しが降り注ぐ中、憧れの女性は木々の間に佇み、蒼く澄みきった風景を眺めていた。リチャードはゆっくりとエリーズの方へと近づく。エリーズは初対面の青年に気付くと、思わず「あなたなの?」と口にしてしまった。どうしてこんな言葉を口ずさんだのか、彼女にも分からないが、自然と出てしまったようである。エリーズは意表を突かれるが、まるで目の前に現れるのを予感していたかのような口調だった。

Christopher Plummer 3Somewhere in Times 8








(左: クリストファー・ムランマー  / 右: コリアーに出逢ったエリーズ )

  しかし、マネージャーのウィリアム・ロビンソン(クリストファー・プランマー)は、二人の出逢いを快く思っていなかった。彼はエリーズにこう予告していた。「ある男性が現れ、君の人生を変える」、と。その運命的男性こそがリチャードであった。まさしく、この予言を成就するかのように、リチャードはエリーズの人生を変えるこになる。ロビンソンはエリーズに張り付き、この“不吉な男”との接触を妨げようとする。が、彼女は分かっていながらそれを無視。リチャードを伴って馬車に乗り込み、つかの間のデートに出掛けてしまうのだ。浜辺で逢い引きを楽しむ二人は互いの胸中を探ろうとする。リチャードはエリーゼに“あの”言葉を発した真意を尋ねた。しかし、それは彼女にも解らない。ただ、直感的に「運命の相手」と判ったようなのだ。

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(左: 舞台に立つエリーズ  / 右: マネージャーのロビンソンとエリーズ )

  エリーズとの仲を深めたリチャードは、ホテルで上演される舞台を見ることにした。彼は劇場の観客席に坐り、主役の出番を待つ。すると、舞台に華やかな主演女優が現れた。エリーズは貴婦人の役を演じ、傍らにはメイド役の女優が立っている。このメイドはお嬢様に親が決めたフィアンセについて尋ねた。しかし、貴婦人は意気銷沈の様子。というのも、彼女の求婚相手は失望するような容姿で、彼女が嬉しいのは「婚約者の不在」であるそうだ。この発言を聞いて観客は笑い出す。間合いを見計らって、エリーズは演技を続ける。ところが、彼女は脚本に無い台詞を喋り出すのだ。突然の独演にメイド役の女優は戸惑う。これには舞台の前に隠れている脚本家もビックリ。さらに、舞台の袖で見ていたロビンソンも驚く。彼は唖然として、椅子から立ち上がってしまう。だが、舞台の上で演技を披露するエリーズは冷静だった。それどころか、とても演技とは思えぬ台詞を口にしたのだ。彼女は観客席の中央にいるリチャードに向かって話しかけ、独りで「夢に現れた男性」について語り始める。観客には謎でも、リチャードだけには分かっていた。エリーズは自分の気持ちを告白していたのだ。喜びで胸が高鳴り、瞳を輝かせながら恋心を伝えようとする彼女の姿は何とも美しい。こうして架空の恋人について話し終えると、彼女は元の脚本に戻った。

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(写真  / 逢い引きするコリアートウリーズ )

  恋愛という感情は、引き裂かれようとすればするほど、強く結びつくようだ。相思相愛の二人には周りが見えない。ロビンソンはエリーズの才能と美貌を惜しんだ。彼女は絶対スターになれる、と確信していたのだ。しかし、この資質もリチャード出現により危うくなる。確かに、この青年は魅力的だ。エリーズも心底惚れている。だが、もし、彼女がリチャードを失う破目になったら、未来のスターは傷つき、脆くも壊れて行くだろう。エリーズの女優生命を危惧したロビンソンは、リチャードを痛めつけ、無理矢理にでも彼女と別れさせようとする。翌日、ホテルでの公演も終了となり、劇団一行は次の場所へと移ることになった。予想もしない暴行を受け、意識を失っていたリチャードは、ようやく正気を取り戻し、エリーズの部屋をノックするが、時既に遅かった。意気銷沈するリチャードは、ホテルのポーチでうずくまっている。

  ところが、エリーズは仲間と一緒に立ち去ってはいなかった。丘の上に建つホテルでリチャードが落ち込んでいると、階下の庭園にエリーズが現れたのだ。恋人を見つけた彼女は、大声でリチャードに呼びかける。この瞬間、リチャードの全身に魂が蘇った。稲妻に打たれたかのように反応し、彼は全速力でホテルの階段を駆け下りる。彼は階段を上ってくるエリーズをしっかりと抱き寄せた。そして、エリーズも彼の胸に飛び込む。二人は現実を確認するかのように口づけを交わしていた。エリーズはロビンソンに背き、リチャードとの生活を選んだのである。さっきまで幽霊の如くうなだれていたリチャードとは別人のようだ。二人はホテルの一室で食事を共にし、失いかけた愛を育む。しかし、彼らを待ち受ける運命は残酷だった。

Somewhere in Time 1(左  /  ホテルの一室で食事を取るシーン)

  エリーズはこれからの生活に胸を弾ませる。そして、リチャードに新しいスーツも買ってあげようかと提案した。しかし、リチャードは流行遅れでも、その背広を結構気に入っている。彼女の前でおどけるリチャードは、ジャケットを羽織り、何気なくチョッキのポケットに入っていたコインを取り出す。ところが、その硬貨には1979年の刻印が・・・。これは致命的な誤りであった。手にしてはならない禁断の所持品である。リチャードは幸せの絶頂から、絶望の淵へと突き落とされてしまう。一瞬にして彼の目の前が暗くなり、悲鳴を上げるエリーズの顔が小さく消えて行くのだ。「リチャード !」と絶叫する彼女の声が非常に哀しい。

Somewhere in Times 10(写真  /  天国で再会する二人)

  1980年の現代に戻ったリチャードは青ざめる。悪夢以上の悪夢である。彼は再びエリーズの時代に戻ろうとした。古い硬貨を握りしめ、必死になって過去に遡ろうとする。しかし、何度やってもタイム・トラベルができない。どんなに意識を集中させても、目を開ければ現在のまま。それでも諦めずに、再び瞼を閉じる。だが、愛する女性は現れない。彼の瞳に映るのは空虚な部屋の風景ばかり。リチャードは心臓が引きちぎれるほど苦しむ。憔悴しきった青年は、食事を取ることもできず、絶望に打ちひしがれるだけである。彼は生きる屍(しかばね)に等しかった。心臓を動かす理由を失ったリチャードは、徐々に瀕死の状態へと陥り、ついに命の炎が尽きた。こうして、リチャードは再び旅に出る事になった。だが、二度と戻ることのない「永遠の旅に」である。だが、そこには手を差し延べるエリーズがいた。リチャードは彼女の手を握りしめる。今度は決して離さない。そんな言葉が聞こえそうなシーンで幕は閉じる。

懐かしいアメリカを舞台にした映画

Richard Matheson 1Jeannot Szwarc 1(左: リチャード・マセソン  / 右: ヤノット・シュワルツ)

  今では根強い人気を誇る“クラッシック映画”であるが、企画が持ち上がった当時、『ある日どこかで』というロング・セラーは、たった400万ドルの予算しかないB級映画であった。この映像はリチャード・マセソン(Richard Matheson)の小説『Bid Time Return』が原作となっており、後に売れっ子監督となるヤノット・シュワルツ(Jeannot Szwarc)に任される事となった。彼は大ヒット映画の『ジョーズ』や数々のTVドラマを手掛けている。例えば、日本でも知られているTVシリーズの『トワイライト・ゾーン』、『JAG』、『ボーンズ(Bones)』、『グレイズ・アナトミー』、『コールド・ケース』、『キャッスル(Castle)』、『ヒーローズ(Heroes)』などが挙げられる。

Jane Seymour 7Jane Seymour at Grand HotelJane Seymour 5









(中央: 「グランド・ホテル」を再訪したジェイン・シーモア )

  映画というのは、必ずしも公開当時に「傑作」となる訳ではない。この低予算映画は批評家から散々な評価を下され、興行収益も僅か970万ドルと惨敗だった。ところが、ケーブル・テレビで放送されるや、視聴者に気に入られ、その評価は燎原の火の如く全国に広がったという。公開20周年を迎えた2000年には、出演者のジェイン・シーモアと車椅子のクリストファー・リーヴスが観客の前に現れた。2002年には映画の舞台となったグランド・ホテルにファンが集まり、ゲストに招かれたジェイン・シーモアが大歓迎を受けたのである。『ある日どこかで』を喜んだのは、配給元のユニヴァーサル・ピクチャーだけではなく、撮影現場となったマケッナ・アイランド(Mackinac Island)も来客万歳で大はしゃぎ。映画の撮影が行われたグランド・ホテルは観光の目玉となり、多くの見物客で賑わっている。この観光地はミシガン州のヒューロン湖に浮かぶ島で、低予算映画の恩恵を最も受けている場所と言えよう。大学教授の経済予測と同じく、映画批評家の判断は本当に的外れだ。

Mackinac Island 3Mackinac Island 5








(写真  / マケッナ・アイランドの風景 )

  それにしても、なぜ件(くだん)のB級映画がヒット作に豹変したのか? それは上品な恋愛物語だからかも知れない。第一、時代背景が良い。原作の小説だと、二人の出逢いは1896年のカルフォルニアであった。ところが、実写版では1912年のミシガン州マッケナ・アイランドとなっている。それでも、古き良きアメリカに違いなく、人々に「慎ましさ」と「謙虚さ」があった。現代の恋愛ドラマだと、女性が女性らしからぬ行為を平然と行い、男性でも恥ずかしくなる演技を披露している。例えば、以前紹介したTVドラマ『アフェアー/ 情事の行方(The Affair)』を観れば分かるだろう。イギリス人女優のルース・ウィルソン(Ruth Wilson)が、主役の「アリソン」を演じているが、彼女の不貞行為はしょうがないとしても、湖の波打ち際にしゃがみ込んで小便をするシーンなんか下品そのものだ。プロデューサーのサラ・トリーム(Sara Treem)とハガイ・レヴィー(Hagai Levi)は、こうしたシーンを挿入することで、ドラマの“リアリティー”を演出しているのだろうが、観ている方からすればカットしてもらいたい場面である。その他、アリソンに興奮する知人の中年男性が、彼女の前で勃起するシーンもあったけど、これだって吐きたくなるほど醜い。まったく、サラとハガイのユダヤ人コンビは、どんな躾を受けてきたのか? 世俗的なユダヤ人家庭には、道徳や品格を無視する親が多い。娘が左翼活動家になっても気にしないし、却って応援したりするから呆れてしまう。保守的な西歐系アメリカ人がユダヤ人を嫌ったのも分かるような気がする。

  公開当時、『ある日どこかで』が世間の話題にならなかったのは、批評家の感想が否定的であったからだ。試写会で作品を吟味した連中は、映画のキャスティングに文句をつけていた。酷評の的になったのは、クリストファー・リーヴである。映画評論家によれば、彼のムキムキな体が「脚本家らしくない」とのことであった。確かに、「スーパーマン」を演じたリーヴ氏の体は筋肉質で、背広を着ていてもその分厚い胸板が判ってしまう。デスク・ワークが中心の作家が、格闘家みたいな体じゃ違和感が拭えない。文系人間なら、もう少し華奢じゃなきゃ。したがって、銀幕で作品を鑑賞している観客は、“つい”赤いマントを羽織ったクラーク・ケントを思い浮かべてしまうのだ。

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( 写真 /  クリストファー・リーヴ)

  しかし、リーヴ氏が固定化したスーパーマンのイメージを払拭したかったのも分かる。彼がSFヒーローとはかけ離れたキャラクターを演じたかったのも無理はない。スティーヴン・セガールはどの映画に出ても、無敵の格闘家しか想像できないし、高倉健も寡黙な男しか要求されなかったのだ。生前、健さんは様々な役をこなすロバート・デ・ニーロに憧れていたという。デ・ニーロは犯罪サスペンスからラブ・コメディーまで見事に演じることが出来たけど、高倉健に志村けんみたいな喜劇役者は似合わない。田村正和も同じで、刑事や犯人、社長、部長、あるいは武士とか浮浪者に至るまで、どんな役があてがわれてもクールでハンサムな「田村正和」のままなのだ。田村氏とよく共演していた橋爪功の方が、色々な役に馴染んでいた。まぁ、田村氏のファンは彼の姿を観ることが第一目的なんだから、もし、監督が二枚目を相殺する役を与えたら田村氏を主役にする意味が無い。冴えない中年のオッサン役ならカンニング竹山で充分だ。『猫タクシー』の竹山は最高だった。

James Spader 8Andrew McCArthy 2Kevin Costner 3Simon Baker 1








(左: ジェイムズ・スペイダー  /  アンドリュー・マッカーシー /  ケヴィン・コスナー /  右: サイモン・ベイカー)

  映画の成功を左右する鍵となるのは、何と言っても脚本と配役である。いくら脚本が良くてもキャスティングがミスマッチだと、映画の魅力が半減してしまうからだ。劇の主人公が若い脚本家なら、マッチョなクリストファー・リーヴではなく、『セックスと嘘とビデオテープ』で主演を果たした「若い頃」のジェイムズ・スペイダー(James Spader)とか、『プリティー・イン・ピンク』のアンドリュー・マッカーシー(Andrew McCarthy)、TVドラマ『メンタリスト』で一躍人気者となったサイモン・ベイカー(Simon Baker)、日本でも有名なケヴィン・コスナー(Kevin Costner)といった俳優を起用すれば良かった。こうした役者なら繊細さを兼ね備えた青年を見事に演じることが出来たはずだ。クリストファー・リーヴとは対照的に、「ロビンソン」を演じたクリストファー・プランマーは素晴らしかった。不吉な予感に懸念を示すマネージャー役が板に附いている。こういう脇役がいると、人間模様に“明暗”が現れ、作品全体に締まりが出てくる。

  恋愛ドラマで「肝」となるのは、主人公を演じる俳優の質である。やはり、主役を張る女優に存在感と美貌が無いと映画に魅力が出てこない。監督の個人的人脈やマイノリティに媚びた人選を行ってしまうと、いくら脚本が良くても作品自体が台無しになってしまう。舞台女優を演じるジェイン・シーモアは本当に華やかだった。映画の中で、彼女のポートレイトを撮影するシーンがあるけど、カメラに向けた表情が実にいい。コリアーを目にして微笑む瞬間をカメラマンが捕らえ、素早くシャッターを押したから“例”の写真ができたのだ。未来のコリアーが資料室で目にした写真は、この時撮影されたものである。映画制作者の持論は色々あると思うけど、憧れの女性はやはり美人でなきゃ印象に残らない。多民族主義を広めたいハリウッドのプロデューサーも、TVドラマの主演女優を決める時は、それなりにインパクトのある白人女優を選ぶそうだ。特に、恋愛ドラマの主役に、無理やり黒人やアジア人を起用すると、シーズン2どころかシーズン1の途中で打ち切りとなる危険性があるらしい。アメリカのテレビ業界は非常にシビアで、当初13話か24話くらい予定された番組でも、視聴率が悪いと、数回でキャンセルとなるそうだ。例えば、FOXテレビが制作した『アンカーウーマン』は、たった2回放送されただけで打ち切り。余りにも視聴率が悪すぎたからである。主役のローレン・ジョーンズ(Loren Jones)はモデル上がりの女優で、一本立ちを狙っていたのに、結果は没落の切っ掛けになってしまったんだから、女優の人生とは分からないものである。

Dakota Johnson 2Dakota Johnson 5(写真  / ダコタ・ジョンソンとジェイミー・ドーナン )
  『ある日どこかで』は複雑怪奇なストーリーではなく、写真の女優に惚れた青年がタイム・トラベルを通して過去に遡り、憧れの女性に逢うという単純な恋愛物語だ。しかし、そこが人々に“ウケ”たのであろう。最近のハリウッド映画はネタが尽きたのか、やたらと奇抜な出逢いを設定し、異常なセックスシーンを盛り込んで話題とするようだ。例えば、英国を中心として前評判の高かった『フィフティー・シェイズ・オブ・グレイ(Fifty Shades of Grey)』は、美人女優のダコタ・ジョンソンと実力派のジェイミー・ドーナンを採用し、過激な性描写にBDSMを混ぜる始末。ちなみに、「BDSM」とは「縛る(Bondage)」「服従させる(Discipline)」「サド・マゾ(Sadism & Masochism)」の略である。( 詳しくは、昭和のエロ事師、村西とおる監督にでも訊いてくれ。)

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(写真  /  ダイアン・レイントアレック・ボールドウィン)

  一方、温厚なラブ・ロマンス映画でも退屈な作品が多く、有名な俳優をキャスティングしただけの駄作が結構ある。例えば、ダイアン・レイン(Diane Lane)とアレック・ボールドウィン(Alec Baldwin)が共演した『ボンジュール、アン(Paris Can Wait)』は、凡庸な筋書きで、これといった魅力は無い。既婚のアメリカ人女性がフランスを訪れ、フランス人男性(Arnaud Viard)とロマンティックな時間を過ごすという内容で、印象に残らない作品である。ちなみに、この映画を手掛けたのは、名監督フランシス・フォード・コッポラの夫人、エレノア・コッポラ監督である。ブラッドリー・クーパー(Bradley Cooper)とエマ・ストーン(Emma Stone)が共演した『ALOHA』も、劇場に足を運ぶほどの映画じゃなくて、看板俳優だけが目立つだけの作品だ。この映画は軍需産業に勤めるクーパーと空軍士官のストーンが織り成す恋愛を描いたコメディーだけど、内容は至って平凡で、共演者を有名人で固めただけ、という感じが否めない。空軍将校役にアレック・ボールドウィンを起用し、クーパーの元恋人役にレイチェル・マクアダムズ(Rachel McAdams)を添えている。また、『ゴースト・バスターズ』で人気者となった懐かしいビル・マレー(Bill Murray)も出演していて、ハワイの不動産業者で大富豪のカーソン・ウェルチを演じているが、いまいち魅力に欠ける映画であることは間違いない。案の定、日本公開は無し。ただし、インターネットでなら観ることができる。要するに、銀幕で観るほどの作品じゃないということだ。

Bradley Cooper 1Emma Stone 4Rachel McAdams 1Bill Murray 1








(左: ブラッドリー・クーパー  /  エマ・ストーン / レイチェル・マクアダムズ / 右: ビル・マレー )

  『ある日どこかで』はシンプルで悲劇的な最後を迎える物語であるが、登場人物の内面を丁寧に描いていたから、観客が感動したのだと言えよう。現在のハリウッド映画は、脚本を良質にするより、CG(コンピュータ・グラフィックス)を駆使して映像を派手にしたり、様々な人種を登庸して大勢の人々を動員することばかり考えている。配給会社の意を受けた制作者は、西歐系俳優ばかだと「白」過ぎるから、黒や茶色、黄色の役者も適当に混ぜなくちゃ、と配慮しているのだ。しかし、こんな下心が見え見えの作品じゃウンザリする。ハリウッド映画の衰退は、多民族主義と過度な商業主義にあるのかも知れない。我々だって、お金儲けの娯楽作品と分かっているが、もうちょっと「まし」にならないのか? 日本人としては、アメリカらしいアメリカ映画を観たい訳で、国籍不明のグローバル映画なんか観たくない。アメリカ人だって日本らしい日本画にだけ興味を示すじゃないか。米国市場に売り込むため、無理矢理、支那人やアラブ人、アフリカ人を混ぜ込んだ時代劇を作っても、アメリカ人はおろか日本人だって観ないだろう。日本が舞台の映画なのに、我々が観たら「えっ、どこの街なの? 香港かなぁ? それともマレーシア?」なんて作品じゃ嫌だよねぇ。
  



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