無敵の太陽

主要マスメディアでは解説されない政治問題・文化・社会現象などを論評する。固定観念では分からない問題を黒木頼景が明確に論ずる。

邦画評論

皇帝のいない八月 / 耐えに耐えた自衛官

教科書に載せて全日本人に知らせたい現代史 支那人の卑史 朝鮮人の痴史
黒木 頼景
成甲書房


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密かに進んだクーデタ

  近頃は劇場で邦画を観ることがめっきり減ってしまった。これは個人的趣味の問題だから一般化できないが、お金を払って観たくなるような作品が極めて少ない。それでも、日本映画は毎年制作され、そこそこ健在なんだろうげと、興行収益で見てみると、利益を上げているのはアニメ作品か、人気アイドルをキャスティングしたTVドラマ風映画くらいだろう。子供を対象にした「ドラえもん」とか「名探偵コナン」といったアニメ映画がヒットするのは予想通りだから、これといって驚くに値しない。去年ヒットした『コード・ブルー』という映画は初耳だったけど、インターネットで調べてみたら、TVドラマの劇場版だった。何てことはない、フジテレビが無料で放送したドラマに、多少の制作費を上乗せして作った豪華版ていどの代物だ。既に固定客が附いているから安全パイということなんだろう。一刻も早く見たいファンならお金を払うけど、普通の映画好きなら「劇場に行くまでもない」と思ってしまい、気長に地上波テレビの放送を待つんじゃないか。

  つまらない愚痴になってしまうけど、最近の邦画には“これっ”といった作品が無い。是枝裕和の『万引き家族』なんて銀幕で観る映画じゃないだろう。こんな作品が外国で賞を獲得するなんて、日本映画界の恥さらしだ。平成と違って昭和の頃だと、大人の観客が満足するような作品が結構あった。まづ、出演する役者が上手くて、主役もそうだが脇を固める役者が素晴らしく、全体的に重厚な雰囲気があったのを覚えている。当時は制作陣の意気込みが凄く、民衆は映画の予告編を観ただけでもワクワクしたから、大きなスクリーンと音響設備が整った劇場で鑑賞したいという熱望があった。そうした映画の一つに挙げられるのは、『皇帝のいない八月』である。

  この映画は社会派サスペンスといったところで、憂国の情に燃える自衛隊がクーデタを目論むストーリーとなっている。主人公の藤崎顕正(ふじさき・あきまさ / 渡瀬恒彦)は元一等陸尉(大尉)で、自衛隊を「軍隊」にすべくクーデタ計画「ブルー・プラン」に参加するが、計画の中心人物である真野陸将(鈴木瑞穗)が寸前のところで腰が引けてしまい、悲願のクーデタは頓挫する。これに対して怒り心頭の藤崎は真野に蹶起を促すが、勢いを失った首領に再開の度胸は無かった。後に、クーデタ未遂の責任を取らされた藤崎は自衛隊を去る。博多に居を構えた藤崎は、しがないトラック運転手となって妻の杏子(きょうこ / 吉永小百合)と二人暮らし。だが、彼の野望は消えていなかった。藤崎は志を同じくする自衛官らと密かに関係を保ち、ついに全国規模のクーデタを実行に映す決断を下した。

Taichi 1(左  / 太地喜和子 )
 ところが、秘密裏に実施されるはずだったこのクーデタ計画は、蹶起部隊のトラックが偶然追跡したパトカーを破壊したことで発覚する。この異常な事故に直ぐさま公安当局が反応し、内閣調査室の利倉保久(としくら・やすひさ / 高橋悦史)が責任者となり、危険な政治思想を持つ自衛官の洗い出しを始めた。利倉から報告を受けた佐橋総理(滝沢修)は、不穏な動きの性質を考慮して、計画の黒幕は民政党の重鎮、大畑剛造(佐分利信)に違いないと推測した。大畑は元首相で右派の大御所。かつては戦犯として投獄された経歴を持つ。彼は自分の派閥を用いて政局を動かすほどの有力者で、財界とも繋がりが深い。日本経営連合会の氷山会長などは大畑の邸宅に足繁く通い、様々な裏工作から捻出される上納金を渡していた。権力者というのは何歳になっても金銭慾と性慾が強く、この闇将軍も例外ではない。大畑は中上冴子(太地喜和子)という愛人を囲っており、彼女は表向きナイト・クラブのママとなっていた。

  藤崎の妻である杏子は江見為一郎(えみ・ためいちろう / 三國連太郎)の娘で、彼は陸自幕僚監部で内務調査を担当している。彼は法事で鹿児島にいる時、首相官邸から緊急の連絡を受け、急遽、東京に戻る事になった。しかし、その途中、絶縁した娘に会いに行く。なぜなら、容疑を掛けられた自衛官リストの中に娘婿の藤崎が入っていたからだ。クーデタが未遂に終わった五年前、江見は藤崎の上官で、蹶起に燃える藤崎を咎め、辞任に追い込んだ。すると、江見に恨みを抱いた藤崎は、彼の娘である杏子を拉致して強姦するが、彼女は藤崎に惹かれてしまう。(女心は不思議なもので、真面目な凡人より「危険な香り」がする男に惚れてしまうようだ。) しかし、当時の彼女には石森宏明(山本圭)という婚約者がいた。彼は杏子が何も告げず自分と別れたことに納得しなかったが、仕方ないと諦め別の女性と結婚する。そして、後に彼は勤めていた会社を辞めて雑誌記者となる。

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(左: 渡瀬恒彦と吉永小百合   /   右の中央:  山本圭)

  絶縁していた父親が不意に訪ねてきたことに違和感を感じつつも、杏子は東京へ向かう父を見送った。その直後、藤崎の部下である自衛官が杏子のもとに現れ、夫からの手紙を手渡す。そこには当分の生活費に困らないだけのお金が机の中にあるとだけ書かれていた。夫の身を案じた杏京子は駅に向かい、必死で藤崎を捜すうちに、寝台特急の「さくら」に乗車する。偶然だが、博多で取材を終えた石森も「さくら」に乗っており、車内で杏子と出逢う。この急行列車にはクーデタに参加する自衛官が多数乗車しており、その指揮官は藤崎だった。

  今回のクーデタも真野陸将が首謀者となっていたが、その背後には米軍のG2に所属するトマス中佐が控えていた。このアメリカ人中佐は野心家のようで、革命政府の首班となる真野を裏で操ろうと目論んでいた。二人の接触を報告された利倉は、米軍とCIAが一枚噛んでいることに気付く。クーデタ計画が開始されると、日本各地から蹶起部隊が続々と首都を目指して進行してくる。しかし、真野はトマス中佐と一緒にクルマに乗っていたところを江見に拘束されてしまう。捕虜の尋問に長けた江見は、真野を地下室で拷問にかける。だが、真野は最期まで自白せず、舌を噛み切って自害する道を選んだ。せっかくの手掛かりを殺してしまった江見は、必死になってクルマを調べ、そこに隠された計画書を発見する。クーデタの全貌を知った利倉は、実力行使でクーデタ部隊を鎮圧することに決め、佐橋総理の承諾を仰ぐ。首相からの許可を得た利倉は、特殊部隊を含む自衛隊を投入し、容赦無く叛乱分子を攻撃した。やはり、多勢に無勢なのか、蹶起部隊は次々と潰されて行く。

  ところが、藤崎部隊が乗り込んでいた寝台列車だけは停止させることが出来なかった。そうした中、列車を乗っ取った藤崎は、ようやく夫を捜す妻と再開する。杏子は夫に無謀な事を止めるよう説得するが、藤崎の決意は固く、女房の言葉に耳を傾ける気は無かった。(渡瀬恒彦が“情”に訴える吉永小百合に向かって、「甘ったれんな!」というセリフは格好いい。クールな渡瀬にはこういう言葉が良く似合う。) 「さくら」を占領した藤崎達は、無線で官邸と連絡をつけ、列車に爆弾が仕掛けられている事や、乗務員と乗客を人質にしている事を告げ、大畑との会話を要求する。しかし、その大畑は身の危険を察知して、利倉が知らない別荘に隠れていた。約束の時間が過ぎても要求に応じない利倉に業を煮やした藤崎は、躊躇なく車掌を撃ち殺す。この惨殺に反撥した島軍曹は、クーデタの雲行きが怪しくなったこともあり、列車内で謀反を起こしてしまう。

  一方、この事態を何としても終熄させたい利倉は、クーデタそのものを「無かった事」にすべく、マスコミ各社に箝口令を敷き、武力を以て列車を止めることにした。利倉の狙いはクーデタ部隊の皆殺しである。また、救出した乗客は口封じのため、ずっと政府の監視下に置くというものであった。派遣された自衛隊の特殊部隊が列車に突入すると激しい銃撃戦が起こり、激闘の嵐に晒された藤崎と杏子は銃弾を浴びて斃れてしまう。石森も銃撃戦の犠牲者となった。ところが、瀕死の藤崎は残りの力をふりしぼって起爆装置に手を伸ばし、運命のボタンを押してしまうのだ。各車両は大爆発を起こし、凄まじい炎に包まれる。この鎮圧は「列車の脱線事故」という名目で処理され、クーデタ未遂事件は闇に葬られた。

  クーデタの黒幕であった大畑は、愛人の冴子が持ってきたワインを飲んで急死する。何と、この毒入りワインは利倉の部下が冴子に渡したもので、大畑の居場所が分からない利倉は妾を利用して厄介な大物を抹殺したのだ。意外なことに、冴子は以前、利倉と肉体関係を持っていた。利倉は大畑がワイン好き出あることを知っていたので、何も知らない冴子を暗殺者に仕立てあげ、間接的に厄介者を始末したという訳だ。その冴子も何者かに殺され、その遺体は別荘の近くにある海岸に横たわっていた。一方、娘だけは助けたいと欲した江見は、強行突入を中止するよう利倉に懇願するが、その頼みは聞き入れられず、官邸の警護官に拘束され、乱心者として精神病院に監禁されてしまうのだ。

蹶起した軍人の叫び 

  小林久三の原作を基にした『皇帝のいない八月』は、列車を占拠して要求を突きつけるという筋書きであるが、こうした設定にはちょっと無理がある。首都制圧を目指すなら、列車を乗っ取らず、そのまま穏便に東京まで向かう方がいい。制作秘話によると、ハリウッド映画の『カサンドラクロス』を参考にした為だという。その他、この作品にはニ・ニ六事件や三島由紀夫の自決など、様々な歴史的要素が盛り込まれていた。映画の根底には無茶な計画を推し進めようとする軍人への批判が流れているが、幾つか例外的に感動する場面があった。例えば、列車内でマイクを手にした藤崎の言葉は、現在でも我々の心に鋭く突き刺さる。彼は言う。

  「我々日本人は古来から道義忠誠心に篤く、一億一体となって皇室を中心とした民族国家を形成してきた。しかるに今、どこに愛国心があるのか、どこに日本固有の文化があるのか。道義は麻の如く乱れ、秩序は破壊されようとしている。國體(こくたい)を守るのは軍隊である。自衛隊が目覚めて真の軍隊たらんとする時こそ、日本が目覚める時である! 建国の本義とは天皇を中心とする日本の歴史、文化、伝統を守ることにしか存在しないのである!」

  「我々は耐えた。ただひたすら耐えた。日本人自ら、自衛隊員自ら目覚めてくれることを。しかし、聴け! 憲法改正は既に政治プログラムから除外されたのだ。憲法改正が我が国の議会制民主主義のもとで不可能であれば、我々の取り得る道はひとつ。我々自身が蹶起することである。自衛隊が建軍の本義に立って、真の國軍になるために、我々は怒り悲しみ、四時憤慨した。我々は命を捨て、国の礎石たらんとしたのである!」

  渡瀬恒彦の熱弁は映画で一番のクライマックスになっており、これこそ、言葉で言い尽くせない魂の叫びである。命を懸けてクーデタを実行しようとする武人の覚悟がうかがえる。

  三島事件からもう50年近くなるが、我々は未だに國軍を持てないまま、アメリカの属州状態に甘んじている。独立国というのは、自分の運命を自分で決めることが出来る国家だけを指す。日本は自ら歩む道を自分で決めることができない。なぜならば、兵器システムが全て米国頼みになってるからだ。いくら高級なハイテク装備品を揃えても、それが米軍の支配下に置かれていれば、日本はワシントンの意向を無視できない。形式上日本の総理大臣は自衛隊の最高司令官になっているが、有事となれば合衆国大統領の統制下にある。したがって、独立した行動を取れない自衛隊は、実質的に米国の補助軍であり、合衆国の世界戦略に嵌め込まれている一つの「手駒」に過ぎない。明治の元勲が聞けば、「まさか!そんな ・・・」と驚いてしまうだろう。(これは「毅然とした外交」を求めながら、「軍隊」を否定する一般国民が悪い。)

  祖国を愛する日本人なら、藤崎が味わった屈辱を解るはずだ。自衛官は武人と見なされず、相変わらず特殊公務員のままである。だいたい、軍人を罪人扱いする憲法を温存しながら、「有事には命を張って日本を守ってね」と言える国民がいるのか? クーデタを目論む自衛官を笑うのは容易い。だが、我々は藤崎の焦りと悔しさには共感できる。藤崎は心の底から叫ぶ。「我々は五年も待った。もう待てぬ。我々の愛する美しい歴史と伝統の国、日本を骨抜きにした憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか! 我々が士人の魂を持つ一個の男子として、真の武士として蘇るため、共に立って義のために死ぬ奴はいないのか!」 映画はともかく、毎日苦しい訓練を積む自衛官は、一体どんな気持ちで武器を手にしているのか? 憲法で手足を縛られたまま国防を考えるなんて酷だ。たとえ、事態対処法が制定されたからといって、政治家に国家意識が無く、安全保障の基礎知識すら無い状態では、とても国民を守ることなどできない。第一、国会議員の中に外国の内通者が潜んでいたらどうするのか? 議員自身が売国奴でなくとも、その右腕とか側近がスパイで、普段から機密情報を流していれば、敵は自衛隊の欠点を突くことができる。また、工作員と化した政治家がいれば、有事の時、あるいは有事の前に、自衛隊の出動をそれとなく妨害して侵掠者を手助けすることも考えられるのだ。日本における「シヴィリアン・コントロール」とは「素人の容喙」、すなわち「軍人の邪魔」しか意味しないのである。

Yamamoto Satsuo 1(左  / 山本薩夫 )
  『皇帝のいない八月』で残念なのは、監督が左翼の山本薩夫(やまもと・さつお)であったことだ。彼は『白い巨塔』や『華麗なる一族』、『金環蝕』、『不毛地帯』などを手掛けたことで知られているが、学生時代から左翼思想に染まっていたという。何しろ、在学中から札付きで、特高に捕まるくらいだから筋金入りの左翼だ。これが元で通っていた早稲田大学を中退となり、それから映画界に入ったと言われている。黒澤明や大島渚、山田洋次、渡辺邦男などを思い出せば分かるように、映画監督には元左翼が多い。(渡辺邦男は大ヒット作『明治天皇と日露大戦争』を手掛けた監督。) 山本薩夫も根が赤い人物なので、蹶起する自衛官を題材にしても、どことなく否定的に描いてしまうのだろう。山本監督の本音は石森のセリフに現れている。

  事件に巻き込まれた石森は、列車を制圧した藤崎を罵り、自衛官から奪い取った拳銃を向けて、計画の中止を強要する。ところが、藤崎は怯まない。むしろ、「撃ってみろ!」と脅しをかけた。さすが、軍人の藤崎は度胸のが据わっている。石森は引き金に触れるが、動揺して撃つことができない。藤崎は石森に対し、こう言い放した。

  「撃ってみろ ! ふやけた”お前の平和なんぞ、あっという間に吹っ飛ぶぞ!」
  「お前の平和はクズだ!  東京を見てみろ。どこに美しさがある! とここに秩序があるのか!」
  「我々は憲法を改めて、かつてあった美しい秩序と美しい精神を築くんだ!」

   このように述べた藤崎に対し、真っ向から対峙する石森はこう言い返した。

  「何が秩序だ! 何が伝統だ! 天皇一人のために俺たちは何人殺されたんだ? 」
  「お前は軍国主義の復活に酔っているだけだ ! “命を懸ける”とは、死んだって生きることだ。子供のため、女のために、死んだって自分を守るためだ。俺はそういう平和のために生きている人間だ!」

  石森の反論はまさしく「戦後民主主義」の神髄を言い表している。すなわち、どんな状態であっても「平和が一番」であって、何よりも「生きること」が最高の価値となっている。こうした人物にとって、藤崎の行動は狂気の沙汰としか思えない。石森の平和論は奴隷の人生観と同じだ。奴隷は生きるために、如何なる恥辱をも堪え忍ぶ。どんなに虐待されようが抵抗しないし、“死にたくなるような”辱めを受けても、それを黙って甘受し、支配者の激情が治まるのを待つ。奴隷にとって「武士の誇り」など別次元の贅沢品で、なんらの世俗的利益も無い。むしろ、有害である。第一、主人に従順であれば飯が貰えるし、殺されることもないから、無駄な事はしない方がいい。現在の日本人もこれと似た考えを持っている。独立国の矜持(きょうじ)を放棄し、何があっても武力に訴えず、お金で片をつければ誰も死ぬことはない。危ない場所には近づかず、国内で平和論を唱えていれば、何事も起きず、一生平穏に暮らせると信じている。常識で考えれば馬鹿らしいけど、受験勉強をして大学を卒業した者にとっては、この非常識が「良識」となってしまうのだ。山本圭扮する石森を見ていると本当に情けない。でも、こんな日本人が多数派なんだから、穏健な保守派でもクーデタに賛同したくなる。

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(写真  /  「佐橋総理」役の滝沢修)

  『皇帝のいない八月』は左翼が作った反ナショナリズム映画だが、出演者だけは素晴らしかった。渡瀬恒彦を主役に抜擢したのは正解だったと言えるんじゃないか。裏話によると、兄の渡哲也を起用するはずだったが、スケジュールの都合で弟の渡瀬に主役が回ってきたそうだ。屈折した過去を引き摺る藤崎役なら、実直な感じがする兄よりも、ちょっと不良の雰囲気を漂わせる弟の方が似合っている。また、渡瀬恒彦を囲む脇役が良かった。佐橋総理を演じた滝沢修と大畑剛造を演じた佐分利信は秀逸だ。両者には「いかにも」といった貫禄と存在感がある。クーデタが起きたのに、政権闘争や派閥人事の方を心配する総理大臣なんてケシカランが、滝沢はこうした生臭い政治家を見事に演じていた。滝沢が演じた佐橋総理を見ていると、派閥を率いる佐藤栄作とか福田赳夫よりも、「クリーン」を売りにした腹黒い三木武夫を想い出す。当時の映画としてはよくあるが、クーデタを用いて現政権に揺さぶりを掛ける闇将軍という設定も、ちょっとリアルで実におもしろい。ふてぶてしい大畑役に佐分はピッタリだった。

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(左: 「大畑」を演じた佐分利信   /   右: 「佐橋」を演じた大滝修)

  とにかく、山本監督の描き方には感心しないが、役者のキャスティングだけは抜群だった。そう言えば、彼は1966年に映画版『白い巨塔』を手掛けたが、東都大外科教授の「船尾隆」役には佐利を起用していた。偶然なんだろうげと、1978年に制作されたテレビ版『白い巨塔』では、滝沢修が船尾役を演じていたのだ。一方、劇場版とテレビ版の両方で主役は田宮二郎が務めていた。やはり、「財前五郎」役は田宮が一番だ。佐藤慶も良いが、田宮にはかなわない。脇役のキャスティングもかなり重要で、実力派で固めているから主役が光るという事もあるのだ。ちなみに、映画版の里美教授役には山本圭の兄である山本學が起用されており、TV版の『白い巨塔』では、太地喜和子が財前の愛人「花森ケイ子」を演じていた。太地喜和子にはどうも「愛人」役が似合っているみたいだ。

  もし、『皇帝のいない八月』をナショナリストの監督が撮っていたらどうなっていただろうか? ただ、これは非現実的で、とても難しい。日本には左翼監督ばかりなので無理がある。しかし、藝術性を尊ぶヨーロッパなら、左翼であっても“マシ”な監督がいそうだ。例えば、バート・ランカスターとアラン・ドロンが出演したことで知られる『山猫』や、バイエルン王ルートヴッヒ2世を描いた『ルートヴッヒ』、ナチス時代を扱った『地獄に落ちた勇者ども』などで知られるルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti)が『皇帝のいない八月』を手掛けていたら、どんな作品になっていたことか。おそらく、遙かに深みのある作品になっていたんじゃないかと思う。ヴィスコンティは第二次大戦中、イタリア共産党に入っていたが、映画監督としては一流だった。彼がルートヴッヒ役に抜擢したヘルムート・ベルガーやエリザベート役に起用したロミー・シュナイダーは本当に良かった。何と言っても画面が鮮やかで気品に溢れていたから、巨匠が手掛ける映画には豪華さがある。確かに、邦画だと予算不足でみすぼらしくなるが、もし日本の監督が多少なりとも愛国心を持っていたら、日本人の琴線に触れるような作品になっていたはずだ。左翼の映画にはどうしても軽薄さと幼稚さが見られる。彼らが人間として未熟だから、日本人を感動させることが出来ないのであろう。せっかく渡瀬恒彦を採用したのに、描き方が拙いために作品が「イマイチ」になってしまった。結局、日本の左翼監督には、リリー・フランキーと樹木希林を使った“お粗末”な映画が似合っているのかも知れない。



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長渕剛の「親子ゲーム」 / 心を閉ざした少年

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楽曲のスタイルが変わった

  筆者は長渕剛のファンじゃないけど、高校時代、長渕氏を好きな先輩がいて、彼の曲を幾つか聴かせてもらったことがある。当時はまだレコード盤とカセット・テープが主流の時代で、FMラジオの音源を録音したテープを貸してもらい、自宅で聴いてみたら意外に良かった。1980年代まで、長渕氏は主にフォーク・ソングを唄っており、試しに初期のアルバムを手にとって、「巡恋歌」とか「涙のセレナーデ」、「18インチの罠」などを聴いてみれば誰でも判るはずだ。現在の高校生や大学生の長渕ファンは、ロック調の曲を耳にして虜(とりこ)になった人が多いと思うが、筆者の個人的な好みを言わせてもらえば、長渕氏には「素顔」のような曲を書いてもらいたい。この歌は男女の別れをモチーフにしており、彼はしんみりと「夜の顔を鏡で映せば、何て悲しい顔なのぉ~」と唄っていたが、たぶん去りゆく恋人は20代の女性だろう。もし、70代の熟女だと、深夜の素顔は「悲しい」どころじゃなく、恐ろしくさえある。だって、化粧を剝がしたデビ夫人なんて想像したくないし、スッピンの黒柳徹子じゃ誰だか判らない。とにかく、長渕氏の真骨頂は、何と言ってもアコースティック・ギターとハーモニカを駆使したライブ・コンサートであろう。昔(1980年代前半)友人に勧められ、武道館で演奏された「夏祭り」の録音テープを聴いたことがあるが、実に味わい深い名曲だった。同じライヴで披露された「もう一人の俺」も印象深い曲で、筆者はギターの部分をコピーしたことがある。最近聞き直して弾いてみたら、ギター・ソロのパートを覚えていたので、我ながらビックリした。

  以前、熱心なファンだった人に長渕氏のことを尋ねてみたことろ、楽曲のスタイルが激変してしまい、「昔の方がよかったなぁ~」と歎いていた。確かに、1970年代から1980年代半ばまでの曲は、フォーク世代が好むようなメロディーで、男女の関係を唄った曲や繊細な音を奏でる曲が多い。しかし、1990年代になると、ロック調の曲が増えて、激しい音を求めるコンサートに変わったみたいだ。たぶん、ファンの間にも戸惑いとか、異論があるんじゃないか。あれだけ曲調が変わると、昔のファンは離れてしまうだろう。おそらく、長渕氏本人は「スタイルの進化」や「新境地の開拓」のつもりなんだろうげと、初期のファンからすれば、ギター1本でライヴ活動をしていた頃の方が懐かしい。おそらく、長渕氏は同じ曲を繰り返したくないと思い、違うタイプの曲に挑戦しているのだろうが、往年のファンはそれを望んでいないはずだ。全部のアルバムを聞いた訳じゃないから詳しい事は言えないけど、最近のライヴ映像を観ると、何となく空回りの曲を作っているように思える。つまり、自分の才能に合わない曲を必死で書いているように推測できるのだ。筆者は彼のファンではないけど、傍から見てもちょっと痛々しい。(私的な事を言わせてもらえば、藝人の「コロッケ」さんが真似をする長渕剛の方が好みで、コロッケさんが歌う「とんぼ」は傑作だ。ファンが観れば激怒するけど、コロッケさんの物真似は絶品で、誰が見ても大爆笑であろう。)

忘れ去られた「名作」ドラマ

  いつ頃から長渕氏が変化したのか判らないが、出演したドラマの影響もあったのかも知れない。TVドラマ「とんぼ」が大ヒットしたせいでヤクザ役が板に附くようになったが、以前はそうじゃなかった。「家族ゲーム」て家庭教師役をしていた頃は、温和でひょうきんなキャラクターとなっており、ドスの利いた役柄は考えられなかった。その中でも特に印象深いのは、後に長渕夫人となる志穂美悦子と共演した「親子ゲーム」の方である。このTVドラマは1986年に放送され、マニアの間では好評なのだが、一般視聴者からは忘却された作品のようだ。ただし、子役が主役を食ったという作品であることだけは間違いない。昔のドラマには時々すごい子役が抜擢されていたから、内容はともかく「話題の作品」になることも結構あった。

  「親子ゲーム」は、元暴走族の矢板保(たもつ)と恋人の三石加代(かよ)が切り盛りする「九十番」というラーメン屋が舞台だった。同棲する加代も元暴走族で、保と喧嘩すれば怯まず反撃するタイプという設定。ある日、彼らの店に見知らぬ親子連れがやって来て、仲睦まじく食事をするが、しばらくすると父親は息子を残し店を出て行く。一人置き去りにされた少年は吉田麻理男(マリオ)という小学四年生。保と加代は食い逃げと分かり、マリオを知り合いの巡査早川に引き渡すが、児童相談所に預けるのを躊躇う早川は、保と加代に“一時的”に預かってくれと頼む。丁度、夏休み中だったので、マリオは学校に通う必要が無かった。保は預かる条件として、店の手伝いを要求し、戻る場所が無いマリオは黙って従うことにした。

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(左: 「保」役の長渕剛と「加代」を演じる志穂美悦子  /  右: マリオを問い詰める保)

  ぎこちない手つきだが、マリオは皿洗いや出前の仕事に精を出す。しかし、彼は一言も喋らない。というのも、マリオには深い心の傷があったからだ。捨てられる前、彼は父と二人暮らしで、母親は既に家を出ていたという。そして、子育てに疲れた父親は、九十番に連れて行き、最後の食事を済ませると、「たばこを買いに行く」と告げて息子を捨ててしまったのだ。両親に捨てられたと気付くマリオはショックを受けた。こうして、自分に非がある訳でもないのに孤児(みなしご)となった少年は、自分独りで生きて行く事を心に誓う。マリオは日記にこう記した。

   誰にも頼らず、スーパー・マリオのようになりたい。学校も友達も要らない。お父さんお母さんも要らない。

  しかし、一緒に暮らす保はマリオが何を考え、どう思っているのか知りたくなる。マリオはちゃんと店で働くが、保の呼びかけに言葉を返さず、何があっても口を利こうとしないのだ。ある日の深夜、マリオは寝ている2階からこっそりと1階の店に降りて、自宅に電話を掛ける。もしかしたら父親が戻っているのかも、と期待するマリオだが、やはり誰も出ない。そこに、マリオの動きを察知した保が現れ、「何しているんだ? 家に掛けたのか?」と問い質す。だが、マリオは答えない。痺れを切らした保は「何とか言えよ!」と怒鳴る。それでもマリオが黙っているので、保は堪忍袋の緒が切れて、力任せにマリオを張り倒した。すると、投げ飛ばされたマリオが怒りを爆発させ、「バカ野郎 !」と叫び、保の胸に掴み掛かみかかった。側に居た加代が仲裁に入ると、マリオはどう対応して良いのか分からず、そのまま二階に昇って行く。そして、気持ちが高ぶったマリオは、暗い部屋の中で独り涙を流して悔しがる。感情を口に出せない子供の苦しさが観る者にも伝わってくるシーンであった。

  当初、厄介なガキを預かることになったとボヤいていた保と加代であったが、一緒に暮らし始めると何となくマリオが可愛く思えてきた。保は出前先を教えるため、マリオをバイクに乗せて得意先を回り、その途中でマリオ用のヘルメットを買ってあげたりする。加代もマリオの日常を考え、洋服店に赴き、子供用の下着や服、さらにはランドセルまで買おうとしていた。一方、マリオは出前の途中で近所の小学生に囲まれ、質問されても答えないことでイジメを受ける。これに気付いた保はマリオがどうするのか、その出方を見守るだけで助けようとはしなかった。子供達の問題は子供自身で解決すべし、というのが保の考え方なのだ。そして、ついにマリオがイジメっ子達に反撃し、格闘したことで「わだかまり」が消え失せ、近所のガキどもはマリオを受け容れる。

  最初、保や加代の問い掛けに無反応だったマリオだが、次第に表情を示すようになり、三人の関係は近くなった。普段は喋らないマリオだが、自分の気持ちを日記に書くことがあり、保と加代はマリオが居ないときにこっそりと盗み読みをする。マリオは日記の中で無骨な保をコケにするが、加代に対して好感を持っていた。そして、マリオにとって新鮮だったのは、保と加代が本気で感情をぶつけ合い、掴み合いの喧嘩さえ厭わないことであった。マリオの両親は喧嘩をしても殴り合いはせず、冷たい態度で無視するくらいだったので、本音をぶつけ合って喧嘩する保と加代の方に「人間らしさ」を覚えていたのだ。

  結婚もせず同棲していた加代と保だが、マリオという“子供”が存在する事で二人の感情に変化が現れてきた。最初はムッツリしたガキを背負い込んでしまった、という考えだった保と加代も、徐々にマリオとの距離が近くなり、マリオが笑っただけでも喜ぶようになっていた。とりわけ、加代は母性本能が目覚めたのか、マリオの仕事着を新調し、浴衣まで購入して母親気分。一方、学歴の無い保はマリオのために何かしたいと考え、得意な料理を教えようとする。二人はまるで息子を持っているかのような気分になっていた。ある日、マリオが保に腹を立て、店から居なくなると、保と加代はバイクに跨がって近所を探しまくる。しかし、マリオは家を飛び出さず、押し入れの中に隠れていただけだった。マリオの失踪に焦る二人の姿は本当の親のようで、マリオの存在が既に不可欠になっている事が観ている方にも伝わってくる。

  そうこうして、夏休みも終わりに近づいてくると、マリオの運命に大きな転機が訪れてきた。九十番の仕事に慣れてきたマリオのもとに、突然、あの父親が現れてきたのだ。マリオの父親は巡査の早川と保、加代を前にして、マリオを連れ帰り、もう一度親子二人で生活したい、と心境を打ち明ける。これを聞いた保は理性をかなぐり捨てて激怒した。マリオを我が子のように可愛がる保は、息子を捨てた親の希望があまりにも身勝手に思えてしまい、何と言おうが絶対に赦せない。加代もマリオを手放すのが辛くて悲しくなる。しかし、親子の絆は簡単に切れるものではない。マリオは躊躇するが、やはり自分の本心に逆らえず、父親のもとに戻ろうとする。罪悪感に包まれるマリオだが、最終的に父親と一緒に暮らすことを決め、保と加代の店を去ることにした。

  それから数日後、マリオが“ひょっこり”店に現れたから、保と加代はビックリ。マリオは何も無かったかのように、仕事着に着替え、黙々と店の手伝いをする。現代版「鶴の恩返し」のようだが、何かを口にするとマリオが居なくなってしまいそうで、保と加代は平常心を装い、そっとマリオの仕事ぶりを眺めていた。一通り仕事を済ませると、マリオは仕事着を脱ぎ、九十番を去ろうとする。保と加代はバイクにマリオを乗せ、駅まで送って行く。電車に乗り込んだマリオは何も口にしないが、別れを惜しむ気持ちは保と加代に充分伝わっていた。そして、電車が発車すると、涙ぐむ加代はマリオを追いかけようとするが、保がそれを食い止め、静かに見送ることにする。夕方、保と加代は誰も居ない店に戻り、二階の部屋に上がった。すると、窓に張り紙があり、これはマリオの感謝を綴った手紙だった。そこには「いっぱい、いっぱい、ありがとう」と書かれていた。視聴者もつい目頭が熱くなる。心を閉ざしていた少年が、最後に本当の気持ちを露わにしたのだ。

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(左: 「マリオ」役の柴田一幸    /    右: 「九十番」で働くマリオ)

  「親子ゲーム」は地味なドラマだけど、人間同士の葛藤がよく描かれていて結構良かった。特に、マリオ役の柴田一幸(しばた・かずゆき)君の演技がズバ抜けている。セリフがほとんど無く、顔の表情のみでマリオの気持ちを表現するんだから凄い。今売り出し中のの若手俳優なんか、とうてい太刀打ちできないだろう。とりわけ、哀しそうな表情を浮かべる彼の演技は秀逸で、とても子供の演技とは思えない。「親子ゲーム」の評価のうち90%くらいは、柴田君の存在で占められているじゃないか。長渕剛の演技も悪くはなかったが、所詮、大人のセリフだから、どうしても役者に見えてしまう。ところが、柴田君は本当にマリオみたいだった。さらに凄いのは、柴田君があっさりと藝能界を引退し、一般人に戻ったことだ。おそらく、自分の限界を悟ったのだろう。子役の運命は悲惨なことが多く、成長すると急に需要が無くなり、役者の仕事が回ってこなくなる。高校生になっても小学生の影が纏わり付けば、厭になって俳優を辞めたくなるはずだ。したがって、柴田君の決断は正解と言えるんじゃないか。

家族の大切さ

  このドラマで考えさせられるのは、子供を捨ててしまう親がいるという現実と、その冷酷な仕打ちにもがき苦しむ子供がいるということだ。自分には落ち度が無いのに、愛する親から見放される子供は、どうしていいのか分からない。小学四年生は幼児ではないが、かといって独立できる青年でもないから、何とも歯がゆい年齢だ。マリオが孤独を選び、寡黙になったのも当然である。何処にもぶつけようがない怒りと悲しみを解消しようとすれば、そうした苦痛を招く「感情」を押し殺すしかない。誰かを愛しているから、その人に未練が残る訳で、誰とも関わり合いを持たず、自分だけの世界に閉じ籠もれば傷つくことはない。しかし、周りの人々から愛されたいと欲するのも人情であり、子供なら尚更だ。それなのに、無力な少年に出来る最大の解決策が、孤独になることなんだから、あまりにも哀しすぎるじゃないか。正直な気持ちを恐れ、その場から逃げようとするマリオの姿に、我々が心を打たれるのは、マリオの言葉に出来ない言葉を察するからだろう。

  家族を持つと、“しんどい”事が多い。だが、それを忘れるほどの喜びも多いはずだ。現在、政府は少子化を懸念し、出産祝いを渡したり、託児所を増設し、育児手当の増額、授業料の無償化、扶養控除の拡大などを呼び水にして、出生率を上げようとしている。しかし、日本人はお金をもらえるから子供を産むのか? 高級官僚や大学教授は税金の“ばらまき”ばかりを議論するけど、一番肝心なのは「人間の心」を論じることにある。彼らは将来の経済状態を心配するだけで、「家庭が素晴らしい」という価値観が無いのだ。日本人は名門校への進学とか、見栄の張れる職業に関する知識は豊富でも、子育ての喜びとか、子孫への配慮という点には無頓着である。たぶん、こうした価値観は数量化できないし、特別な勉強が必要とされる訳じゃないから軽視されているのだろう。

  「キャリア・ウーマン」を礼讃するフェミニストは、「出産や育児なんか誰にでも出来るじゃない !」と小馬鹿にするが、家族を持つことには重要な意義がある。いくら華やかな仕事に就いていても、子育てに奮闘する母親の方がやり甲斐を感じるはずだ。子供を幼稚園に送り迎えしたり、早起きして弁当を作るのは面倒だけど、子供のためを思えば苦労とは感じないものである。また、子供が夜中に熱を出せば、一晩中の看病でクタクタになるけど、苦しむ我が子を放っておけないから親は頑張る。最近の子供は妙にマセているから、いくらチビ助でも幼稚園児ともなれば色々と大変だ。例えば、粉末状の風薬を飲ませようとしても、「苦いからイヤ!」と拒み、「ママが飲めばいいじゃん!」と減らず口を叩く。そこで、母親が「苦くないから」とアイスクリームに混ぜても駄目で、子供は口を固く結んでお地蔵さんを決め込む。たとえ、すったもんだの末に飲ませたものの、1時間くらい手間がかかるので、仕事の支度をせねばならない母親は頭を抱えてしまう。一家の大黒柱たる父親だって、職場と家庭の両立で大変だけど、子供の将来を考えれば怠けることはできない。父親の靴下を臭いと嫌がる娘でも、結婚の時に父がコツコツ貯めたお金を手にすれば、感謝の涙が込み上げてくる。そして、父親の方も結婚式で号泣なんだから、キャバレーのお姉ちゃんに貢ぐより自分の娘に給料を使うべきである。昔は、子供の成長を生き甲斐とする親が多かったし、親孝行をしたいと考える子供も同じくらい多かった。

  長渕氏のドラマといえば、「親子ゲーム」より「とんぼ」の方が有名なんだろうけど、彼のファンはどう評価しているのか? 長渕氏は肉体を鍛えて、曲調まで変えてしまったが、華奢な頃の方が良かったように思えてならない。昔、長渕氏がDJを務めるラジオ番組の録音テープを聞いたことがあるけど、現在の長渕氏とは随分違っており、爽やかな好青年という感じだった。それに、妙な政治的・社会的な発言もなく、気楽な話題で笑いを取っていたから、聴いていて愉快だったのを覚えている。過去にこだわるのは良くないが、過去と訣別してしまうことも良いとは言えまい。ただ、これは長渕ファンの間でも意見が分かれるところだろう。

  ミュージシャンには変貌が激しい人がいるようで、フォークソング界の大御所である松山千春も例外ではない。「旅立ち」や「人生の空から」「銀の雨」を唄っていた頃の千春は、長い髪を靡かせる好青年だった。そんな若手歌手も月日が経てば、その雰囲気は豹変し、サングラスは同じでも髪の毛は無い。以前は北海道出身の素朴な青年だったのに、今じゃ山口組の若頭みたいに思えてくる。そして、彼は新曲作りより政治活動の方に熱心な時期があった。共産党系の家庭に育ったから仕方ないけど、よりにもよって鈴木宗男と組むことはないじゃないか。宗男と千春がタッグを組んで街頭演説なんておぞましい。北海道は緑の大自然が豊富なのに、そこに住む道民は赤く染まっている。ただし、鈴木宗男は頭が真っ赤というより腹が真っ黒い。宗男なら演技抜きで、「とんぼ」の出演者になれるんじゃないか。ヤクザから賄賂をもらう政治家の役ならピッタリだ。でも、そんな宗男に蹴りを入れる志穂美悦子のドラマを見てみたい。関係無いけど、長渕剛と悦っちゃんが実際に喧嘩したら、どっちが勝つのかな?



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