無敵の太陽

主要マスメディアでは解説されない政治問題・文化・社会現象などを論評する。固定観念では分からない問題を黒木頼景が明確に論ずる。

邦画評論

傷だらけの天使は朝鮮人だった?! / 名作に隠された秘話

教科書に載せて全日本人に知らせたい現代史 支那人の卑史 朝鮮人の痴史
黒木 頼景
成甲書房


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当初の設定は朝鮮人だった

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(左: 萩原健一  /  右: 水谷豊)

  今年の2月か3月頃、偶然にもBS12で『傷だらけの天使』が再放送されていたので、懐かしくなって観てしまった。主演のショーケンこと萩原健一(「修」役)が若いのは当然だが、それよりも修(おさむ)の弟分である亨(あきら)を演じた水谷豊が初々しい。髪をリーゼントにした亨が事ある毎に「アニきぃ~」と纏わりつく演技は、放映した頃から目立っていた。元々は火野正平に依頼するはずの役だったが、正ちゃんのスケジュールが合わなくて、萩原が押す水谷豊に決まったらしい。撮影当時はショーケンの方が有名だったのに、今になって再び観てみると水谷氏の方が妙に印象的である。後に水谷氏は『熱中時代』で教師を、『相棒』で刑事を演じることになるが、筆者の感想としては、「亨」の演技が最高だし、その役が一番似合っている。ちなみに、『熱中時代』のスペシャル版で脚本を担当したのが、チャンネル桜の水島社長だったという。ちょっと意外だ。

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(左: 深作欣二  / 神代辰巳  /  大野克夫 /  右: 井上堯之 )

  裏話によると、新番組としての『傷だらけの天使』は期待したほど視聴率を取れず、打ち切りの形で最終回を迎えることになったらしい。ただし、低視聴率番組であったが、その監督や脚本家、およびゲスト出演者が凄かった。監督には深作欣二、工藤栄一、神代辰巳などを揃え、撮影技師には木村大作、脚本家だと市川森一や鎌田敏夫、音楽は井上堯之に大野克夫、と目を見張るような豪華メンバーが集まっていたのだ。今の高校生だとこうした名前を聞いてもピンとこないだろうが、本当に大物だらけだった。例えば、深作欣二は菅原文太や松方弘樹で知られる『仁義なき戦い』シリーズや沢田研二主演の『魔界転生』、草刈正雄が主役を演じた『復活の日』などを手掛けている。市川森一は『ウルトラセブン』や『帰ってきたウルトラマン』、『太陽にほえろ!』の脚本を書いていた。筆者としては余り好きじゃないんだけど、鎌田敏夫は『ニューヨーク恋物語』や『男女七人夏物語り』、『金曜日の妻たちへ』といったシリーズ・ドラマの脚本家を務めていた。音楽担当の大野克夫は沢田研二の曲を作っていた大御所だ。「勝手にしやがれ」や「カサブランカ・ダンディー」など多数のヒット曲を書いている。

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(左: 岸田今日子  / 右: 岸田森 )

  『傷だらけの天使』は配役の面でも秀逸だった。探偵の修と亨を雇う社長役に岸田今日子が就き、彼女の部下を岸田森(きしだ・しん)が演じていたのだ。岸田今日子はアニメ『ムーミン』の声優としても有名だが、探偵者の社長を演じていた時の彼女は実に若い。ドラマの中で岸田今日子が、映画『エマニュエル夫人』で使われた椅子に坐っているのを観ると、当時の流行が窺われる。岸田森は本当に膝を叩きたくなるような「うまい役者」で、このような名脇役は今では少数派になった。第一話に登場した金子信雄なんか映画ファンには堪らない存在だ。古狸を演じたら右に出る者は無く、彼に匹敵するのはたぶん金田龍之介や小松方正くらいだろう。(また、映画ファンにはお馴染みの室田日出男も出ていた。) ちなみに、岸田森にとって岸田今日子は従姉にあたり、彼女の父親で小説家の岸田國士は叔父になるそうだ。岸田森はシリアスな役から戦隊モノにまで出演する役者だったらしく、円谷プロの『ファイヤーマン』にも出ていたという。やはり、ドラマは主役だけではなく、それを支える脇役がしっかりしていないと駄目で、各人の演技に“締まり”が無くなると、だらけた作品になりやすい。昔のドラマは藝能事務所の介入が少なかったせいか、大根役者がねじ込まれるという悲劇が回避されていたようだ。

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(左: 金子信雄  / 中央: 金田龍之介 /  右: 小松方正)

  ゲスト出演者だって監督のセンスが光る人選だった。例えば、ゲスト女優には関根恵子(現/高橋恵子)、坂口良子、中山麻理、篠ひろ子、桃井かおり、西尾三枝子が出ていて興味が湧く。今では随分とオバちゃんになったけど、若い時の高橋恵子はとても魅力的。第19話「街の灯に桜貝の夢を」では、亨と一緒に個人クラブを営業する酌婦の「明美」を演じている。お金を稼ぎたい亨が自分の部屋をバーに改装し、彼女のヒモになってお客を呼び込むという筋書きで、無茶苦茶な設定だけど面白い。しかし、亨と修は明美にある凄腕の社長「板倉」を色仕掛けでベッドに誘い、その濡れ場シーンを録画させてほしいと頼んだ。彼らはそれをネタに板倉を強請る計画だったのだが、意外なことに騙すはずの明美が板倉に惚れてしまうのだ。修と亨は盗撮フィルムを破棄し、彼女の幸せを願う。しかし、板倉は秘密を打ち明けた明美を殺してしまうのだ。怒り狂った亨は銃を持って板倉を殺そうとするが、側に居た修に止められて涙ながらに断念するという結末だった。

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(左: 関根恵子  /  右: 西尾三枝子)

  第22話「くちなしの花に別れのバラードを」には、可憐な美人女優の篠ひろ子が華道の家元を継ぐ「藤宮葉子」役で出演していた。彼女は落馬により下半身不随となり、車椅子で生活するという設定で、亨と修に偽装誘拐を依頼する。なんと修は結婚式直前の葉子を拐かすと車に乗せて、ウェディング・ドレス姿の彼女を連れ去ってしまうのだ。自由の無い窮屈な生活をしていた葉子は、気晴らしに修に頼んで乗馬クラブに連れて行ってもらう。ドラマでは葉子が乗馬を楽しむ回想シーンが挿入されているが、乗馬服を着た篠ひろ子はとても似合っていた。(やはり、お嬢様役は美人でなきゃ。不細工な女優だと落馬しても同情できない。和泉元彌の母ちゃんみたいな女性だと救う気になれないし、どうしても亀井静香の顔が浮かんでくる。) 乗馬クラブ近くの公園で、修は菓子パンを買って葉子に勧めるが、彼女の“上品な”食べ方を見かねた修は、この御令嬢に“庶民的な”食べ方を教えてやるのだ。パンを噛みつくように頬張る修に倣って、羞じらいながらもパンをかじる葉子が可愛い。下層階級の修と上流階級の葉子が織りなすコントラストが絶妙だった。また、彼女はビー玉遊びも知らず、修に教えてもらっていた。

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(左:  桃井かおり  /  右:  篠ひろ子)

  そんな葉子に好意を寄せる修であったが、葉子は偽装誘拐の他にも陰謀を持っていた。彼女には共犯がいて、修たちを騙していたのだ。しかも、彼女の身体障害は嘘で、実は歩くことが出来たのである。一応誘拐偽装が解決すると、修は葉子に自由な人生を一緒に送ろうと提案する。しかし、彼女は自社ビルに戻ると、側近や弟子たちの説得に折れてしまい、家元の後継者になることを決めてしまうのだ。葉子が側近達と一緒にビルの階段を降りると、玄関で彼女を待つ修を目にする。彼女は修のもとに駆け寄ろうとはしなかった。悲しい表情を見せた葉子が、床にビー玉を落とすシーンがこれまた切なかった。彼女は修との自由な生活より、後継者としての責務を選んでしまったのだ。好きになった女が直前で離れて行くんだから、一途に彼女を待っていた修の心は傷つく。それにしても、哀しみを堪えたヒロインの篠ひろ子は本当に綺麗だった。1970年代の作品だから古臭く見えるけど、こういったラスト・シーンは現在のドラマじゃ滅多にない。「昔は良かった」とは言いたくないけど、今のドラマは余りにも酷すぎる。噂ではフジテレビのドラマが惨敗だという。それなら、お金をかけて独自のドラマを作らず、安い朝鮮ドラマを垂れ流せばいいんじゃないか。大勢の帰化鮮人が観てくれるかもよ。

予期しなかった名作の誕生

  『傷だらけの天使』は、脚本がしっかり練られていたからだろうが、丁寧に描かれた登場人物はどれも印象深かった。また、各エピソードが一つの映画みたいに撮影されていたから、視聴者は茶の間にいても劇場にいるような気分を味わえるからお得だ。携帯カメラで作ったような現代のTVドラマとは大違いである。『傷だらけの天使』には悲しいエンディングの回が結構あって、終わってからも心に残るシーンが多い。例えば、第7話「自動車泥棒にラブソングを」では、修が探偵の仕事で知り合った自動車泥棒の女(川口晶)に惚れてしまう。修たちと一緒に行動するうちに、彼女は泥棒稼業に見切りをつけ、足を洗って故郷に戻ろうとする。しかし、彼女は組織の仲間に殺されてしまうのだ。数日後、亨は偶然その死を新聞で知るのだが、修はまだ気づいていない。亨が修のいる部屋に入ると、ちょうど修は彼女に会いに行くところだった。亨は兄貴に何も言えず、修が笑顔で部屋を出るシーンで終わりとなる。こうした潤いのある結末は、観る者に一滴(ひとしずく)の侘しさを与えるのだろう。『傷だらけの天使』が何度も再放送される所以である。

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( 写真右  /  ショーケンを相手に演技をする川口晶 )

  メインの脚本家を務めた市川森一によれば、当初、修(オサム)と亨(アキラ)の二人は、在日朝鮮人という設定になるはずだった。しかし、日テレ側の反対で実現しなかったという。それもそのはずで、1974年(昭和49年)当時の日本だと、主人公が朝鮮人ではイメージが悪すぎる。せっかく視聴者が二人に感情移入しているのに、在日鮮人では親近感よりも抵抗感が芽生えてしまう。彼らの設定で興味深かったのは、修が中卒で亨が中学中退という学歴であったことだ。「中卒」なまだら解るけど、「中学中退者」とは奇妙である。これでは、亨が朝鮮学校に通っていたんじゃないか、と勘ぐってしまう。市川氏がどういうつもりで在日朝鮮人にしようとしたのか判らないけど、ショーケンと水谷豊が異邦人じゃ厭だなぁ。というのも、ドラマの中で修が亨を叱っているシーンが多いので、短気な「癇癪持ち」の朝鮮人に見えてしまうからだ。いかがわしい任務をこなす探偵でも、純粋な心を抱き続ける修と亨は、やはり日本人の方がいい。

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(左:  修と亨  / 右:  市川森一 )

  それに、日テレ側が朝鮮人の設定に反対したのも当然だ。あんなドラマを放映したら、在日朝鮮人の団体から袋叩きにあってしまうだろう。なにせ、教養のカケラもない亨は、まともに勉強をしたことがないから、新聞を読もうにも漢字が分からない。だから、難しい字を飛ばしながら読んでいた。写真と平仮名で記事を推測しながら理解する亨の姿は滑稽だ。学問が無く社会の底辺で生きる二人は、いかにも在日朝鮮人らしいが、朝鮮人の設定にしてしまうと、異様な風貌をした友人とか、奇妙な癖を持つ親戚が出て来そうで怖い。修には「健太」という幼い息子がいるが、亡くなった妻の実家に預けている。もし修が朝鮮人だと、その子は日鮮混血児となってしまうので、噂話が直ぐ広まってしまう田舎では、祖父母と暮らす子供が不憫だ。亨も片田舎の生まれだが、もし在日鮮人という設定だと、彼が戻る「ふる里」が「朝鮮部落」なんて事にになりかねない。泥にまみれた豚がうろつく貧民窟で、朝鮮人の老婆が路上でキムチを漬けたり、飲んだくれの駄目親爺が暴れていたりでは、目を蔽いたくなる。朝鮮人の視聴者にはよくても、日本人の視聴者だと「気持ち悪い!」とつぶやいて、テレビの前から離れてしまう。せっかく、ビギ(Men's BIGI)の衣装を身に纏ったショーケンが格好良いのに、その正体が在日鮮人じゃぁ、貧乏チンピラのイメージが染みついてしまい、TVドラマが台無しである。

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  今から考えると昭和50年代のドラマ制作者は失敗を恐れず、常に新しいものを追い求め、チャレンジ精神に富んでいたことが分かる。第三話では、名優の室田日出男が元ヤクザのヒモという「高階忠(たかしな・ちゅう)」を演じ、その情婦「有明マリ」には中山麻理が起用されていたのだ。放送時間帯を考慮していなかったのか、ヌードダンサー役の中山麻理は大胆にも乳房を露出してステージに立っていた。日本ってある意味、倫理的リベラルというか、女性の裸体に対して寛容である。シーア派やワッハーブ派のイスラム国では考えられない。地上波での放送なんだから、小学生の子供が見てしまうじゃないか。そう言えば、アメリカやフランスの知識人が驚いていたけど、日本のコンビニでは子供が読む漫画本とエロ本が同じコーナーに並べられているんだから、西歐諸国よりも遙かに“進歩的”なのかも知れない。

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(左と中央:  中山麻理  /  右:  室田日出男)

  低視聴率で最終回を迎えた『傷だらけの天使』は衝撃的であった。修と一緒に田舎暮らしを望む亨は、一生懸命ゲイバーで働き、お客の歓心を買おうと、寒い夜にもかかわらず噴水の中に入ってしまう。この無茶が祟って亨は高熱を出してしまい、修がいない間にわびしく死んでしまうのだ。部屋に戻った修が、毛布にくるまっている亨を起こそうとすると、既に亨は息絶えていた。しかも、二人が暮らしていたペントハウスは解体されることになり、行き場を失った修は亨の遺体をリヤカーで運び、ゴミの埋め立て地に向かったのである。修はブランケットで包んだ亨の遺体をドラム缶の中に入れ、そのまま立ち去ってしまうのだ。「 えぇぇっっっっ! そんなぁ!!」と突っ込みたくなるが、これが自然に思えてしまうから不思議である。こんなのが警察に通報されたら大変な事になるじゃないか。でも、修だとやりそうな愚行である。ただし、亡くなった亨を裸にして、お風呂に入れてやるシーンは泣けてくる。「トルコ嬢(現在だとソープ嬢)」を連れてくるだけのお金が無い修は、ヌード写真をたくさん亨の体に貼り付けて「最後の快楽」を与えてやろうとする。傍から見れば馬鹿らしいけど、亨への愛情に溢れた行為だから、修の“純粋さ”に感動してしまうのだ。このドラマには制作者の情熱と出演者の献身が織り込まれていて、何とも言えない情緒がある。高視聴率を狙ったドラマが低視聴率に終わり、やりたい放題のドラマが名作になるんだから、藝術の世界では何が起きるのか分からない。「楽しくなければテレビじゃない」といっていたフジテレビが一番つまらないんだから皮肉なものである。
  



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子連れ狼 父と子の絆

復讐を誓い冥府魔道へ

  今年のNHK大河ドラマ『軍師官兵衞』は低視聴率だったと聞く。筆者は観ていないけど、どうせ若い視聴者に媚びた配役とトレンディー・ドラマみたいな台本の時代劇だから、時間の無駄としか思えてならない。最近はナツメロがブームになっているみたいで、音楽業界でもローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリン、キッスなど昔の大物バンドが、最後の荒稼ぎに忙しいという。観客も本物を死ぬ前に観たいと思うから、高価なチケットでも構わず購入するのだろう。

  日本の時代劇が衰退して久しい。もう本格的な演技が出来る役者が死につつあるし、脚本家や監督はサラリーマン化して冒険をしないのだ。重厚な演技と脚本に感動するような時代劇作品はもう現れないのかも知れない。最近、ちっとしたことで昔の時代劇を調べたら、『子連れ狼』をもう一度観たくなって、ネットで動画を発見して、つい観てしまった。古いけどいい作品。今回は、筆者の単なる気まぐれと趣味で紹介する時代劇論なので、読まれなくてもいいと思いながら書いてみる。(ただし、筆者は時代劇ファンではないので、拙い説明なのをご容赦ください。)

  TVドラマ『子連れ狼』は若山富三郎や北大路欣也などが演じたが、萬屋錦之介の『子連れ狼』が最も人気があり、適役との評価が高い。水鷗流(すいおうりゅう)の達人にて公儀介錯人の拝一刀はやはり、萬屋が一番存在感があり、重厚な雰囲気を醸し出していた。同太貫を抜き、水鷗流波斬りの術であまたの悪党を斬る腕前は爽快である。萬屋錦之介の迫力ある面構えは、最近の時代劇ではお目にかかれない。同太貫という刀は肥後で作られ、刃肉が厚く長寸で重い。江戸時代中期の刀と違って剛刀であり、甲冑もろとも叩き斬る、とった実践的刀である。戦国時代に最もふさわしい刀であった。

  ここでドラマのあら筋を述べておく。

 拝一刀(おがみいっとう)は公儀介錯人をつとめ、ある時将軍の指南役を柳生一族と争った。柳生側は何としてもその座を得たかったのだか、御前試合で一刀に敗れてしまう。これを承知できぬ裏柳生の総帥烈堂(れつどう)は、一刀が将軍家に謀反を企てたという濡れ衣を着せて一刀を抹殺しようとした。しかし、一刀は葵の御紋が入った裃(かみしも)を着て、柳生の奸計に対峙し、彼らを追い払うことができた。徳川家の紋章に傷をつけるなど、恐ろしくて柳生にはできなかったのである。しかし、柳生の一味が屋敷に踏み込んだ時、一刀の妻あざみは殺されてしまう。まだ幼き大五郎は奇蹟的に助かったが、拝家はお取り潰しになってしまった。この卑劣な柳生の陰謀に憤り、一子大五郎を連れ、拝一刀は刺客の道を歩んたのである。

父と息子のドラマ

 日本のドラマでは、母と子の絆や愛情を描いた作品は多いが、父と息子の関係を濃厚に描いたドラマは少ない。父系社会であるためか欧米の映画では、母親よりも父親と息子の絆を描くことが多い。『子連れ狼』では刺客の父と幼き大五郎が幾多の修羅場をくぐり抜ける。いつ死んでもおかしくない危機が何度もあったが、その都度、必死で堪えて命を繋いできた。四五歳くらいの大五郎が大人でも身震いするような命の危機を体験するのだ。こんな悲惨で危ない生活をなぜ続けるのかと、旅の途中で何人もの人々から非難されるが、一刀は迷うことなく、冥府魔道(めいふまどう)を選んだ親子の宿命を述べるだけである。生きるも死ぬも親子一緒。幼い大五郎も父の覚悟と信念を持った生き様を本能的に悟る。父の背中を見て人生の辛さ、厳しさ、残酷さを知る大五郎。母のぬくもりがまだ欲しいのに、それを父に見せぬいじらしさがこの子にはあった。わずか五歳くらいの小童(こわっぱ)なのに、戦場の武士が味わう死の恐怖を体験するのだ。子供ながらに肝が据わっている。物怖じしないのだ。

壮絶な最期

    第3部25話『波と笛』では辛く長い旅も終着点に至る。宿敵柳生烈堂との対決が始まるのだ。ここで謎だった一刀の貯めた資金の使い道である。刺客依頼1件につき500両を取ってきた一刀は、拝家再興のために使うだろう、と視聴者は推測していた。ところが旧知の竹細工師に送っていた金は、長崎屋新助へ渡り「投擲雷(とうてきらい)」購入に充てられたのである。この外国製手榴弾を持てば、たとえ一刀が死んでも柳生の刺客は大五郎に手出しができない。刀を持って戦えない大五郎とて投擲雷を投げつければ、その威力ゆえに柳生の郎党とて迂闊に近づけないのである。旅を始める前からそまで見通していた一刀に我々は驚嘆するのだ。家門の再興ではなく、ただ一つの目的、すなわち柳生烈堂の首を取ること。体の隅々から沸き上がる怒りを、「烈堂許すまじ」の復讐にだけ向けるのである。我々はその凄まじい執念に戦慄を覚えるとと共に、いたく感服してしまうのだ。

  一刀は烈堂と河原で決闘する。すでに他の刺客と闘い負傷していた一刀は、劣勢であった。闘いのなか一刀は武器を失ってしまう。その死闘のクライマックスでは、烈堂の刀が頭上に振り落される瞬間、一刀が真剣白刃取りでとっさに受け止める。大五郎が烈堂の足に絡みつき、父を必死で助けようとするも、烈堂は渾身の力を刀に込めて一刀の頭に押しつけようとしたのである。刀先が頭に徐々に下ろされ、一刀の頭に押しつけられると鮮血がしたたり落ちてきた。それでも刀を奪い返した一刀は、こんどは自分が烈堂の頭に刀を振り下ろす。烈堂もそれを真剣白刃取りにする。一刀は烈堂に乾坤一擲(けんこんいってき)の一撃を加え、鬼の形相で睨(にら)みつけている。だが、一刀は既に絶命していた。目を開いて烈堂を睨む一刀には、最後のひと押しを続ける力が残っていなかったのである。刀を持ち立ったまま、命の炎が燃え尽きていたのである。まさに壮絶な最期であった。

子に伝える死生観

  烈堂との対決の前、一刀は柳生の残党と一戦を交え負傷してしまった。その傷を大五郎が一生懸命手当てをしている姿はけなげであった。一刀は河原に大五郎と一緒に坐り、来るべき壮絶な死闘を覚悟させるべく、ある心構えを語ったのである。

  目の前に流れる河を見ながら、一刀は大五郎に問う。「河はどこに流れつくか」と尋ねる一刀。「海」と答える大五郎。一刀は大五郎に言い聞かせる。

 
  河は大きなうねりの波、小さなうねりの波があり、寄せては返し、繰り返して絶えることはない。人の命もこの波と同じ。

  生まれては死に、死んでは生まれる。
  よいか、ほどなく父の五体はほどなく物言わぬ屍(かばね)となろう。
  だが、命は波と同じく絶えることはない。来世という岸頭(がんとう)に向かい、また生まれ変わるべく、またうねってゆく。 

  五体は死んでも、父の命は不滅なのだ。お前の命も然り。我らの命、絶えることなく、永遠(とわ)に不滅なのだ。

  分かるな。

  たとえ皮破るるも、血ふくとも、うろたえるな。父の五体倒るるとも、怯むな。父の目閉じらぬとも、その口開かずとも、懼(おそ)るるな。
  
  生まれ変りたる次の世でも、次の次の世でも、我が子はお前ぞ。
  
  わしらは永遠(とわ)の永遠の、父と子。


このように語り終わると一刀は大五郎を堅く抱きしめた。死に行く運命の父が、やがて訪れる父の最期にたいする作法を教えている。父親の絶命に怯まぬよう、幼い息子に諭しているのだ。今そばにいる父が亡くなっても、懼れ悲しむことはない。命は河のように流れて断絶することはない。たとえ父が死のうとも親子の絆は切れない。死んでも親子だ。悲しむでない。七たび死すとも親子に変わりなし。見ている者の目に自然と熱い涙が浮かんでしまう。父の愛とはこれほど深く、熱く、強いものなのか。我らも思わず感涙に咽(むせ)ぶ。これ以上素晴らしい教えがあるのか。死というものをまだ分からぬ子供に、その覚悟をさせているのである。ここに『子連れ狼』の神髄がある。


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