無敵の太陽

主要マスメディアでは解説されない政治問題・文化・社会現象などを論評する。固定観念では分からない問題を黒木頼景が明確に論ずる。

朝鮮人について

朝鮮名が恥ずかしい / 怨念に凝り固まる朝鮮人(後編)

本名を明かすのはイヤ!!

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(左 : 昔の朝鮮にいた普通の子供達   /   右 : 現在の南鮮に暮らす子供達)

  在日鮮人の2世や3世、あるいは帰化鮮人とその子孫にとっても、日本は彼らの“祖国”じゃない。なるほど、在日や帰化鮮人の子供達は日本で生まれ育ち、日本の幼稚園や小学校に通って日本語を話している。成人しても職場の同僚はほとんどが日本人で、好きな歌手や俳優も日本人ときている。(藝人の中には“隠れ朝鮮人”が存在するけど、一応“日本人”で通しているから、在日鮮人でも気づかない場合が多い。) 

  しかし、我が国で育った在日・帰化鮮人の心には、得体の知れない深い闇があり、脳裏や細胞の片隅に無意識的な“怨念”がある。彼らは「なぜ朝鮮人というたげて馬鹿にするのか?! そんなのは根拠無き差別に過ぎない! 多様性を否定する日本人、アジア人を蔑視する日本人は皆、右翼かゲス野郎の類いだ!」とわめく。こうした種類の朝鮮人は、大学に入って社会学や政治学、国際関係論などを専攻しても、論文のテーマは「日韓関係」とか「日本における民族差別の構造」だったりする。大学院に進む奴はもっと悪質か低レベルの学生で、日本人に対する恨みに“磨き”をかけているだけだ。(この点に関しては、別の機会で論じてみたい。)

  朝鮮人問題というのは、日本社会にとって持病みたいなものだ。表面的には顕著でなくとも、皮膚の奥深くで絶えず疼(うず)いている。(精神の悪性腫瘍みたいなもの、と考えてみればいい。) 日系日本人の方にも、潜在的な嫌悪感、謂わば朝鮮人に対する生理的な嫌悪感が潜んでおり、「アンミカ騒動」みたいな事件が勃発すると、心の奥底で眠っていた感情が急に浮上する。普段、政治問題に無関心な帰化鮮人でも、“民族問題”となれば電光石火の如く血が騒ぐ。朝鮮人の血を引く者は、日系人を“敵”と見なし、怒り狂う同胞に感情移入するようだ。

  やはり、“血”は“紙”よりも重いのだろう。確かに、帰化申請の書類を整え、役所から日本国籍を貰っても、DNAが変化する訳じゃない。たとえ、帰化手続きや結婚で「金」とか「朴」の朝鮮名を捨て去り、「木村」や「新井」に変えたところで、祖先が日本人にすり替わることはない。家族や親戚は基本的に朝鮮人のままである。在日鮮人は日本での“便利さ”を考えて日本国籍を取得するが、冷徹な現実を認識する朝鮮人の親は、「しょせん、日本国籍なんか紙切れだ!」と喝破する。こうした“暴言”を隣で耳にすると、「日本国民」になった子供達は複雑な気持ちになるが、こうした親はリベラル派の知識人よりも正直だ。

  昭和が終わって平成時代に入ると、朝鮮人の心境に変化が生じてくる。昭和30年代から50年代の日本だと、在日朝鮮人が本名を名乗ることはほとんどなかった。たまに金容海*みたいな朝鮮人の活動家に唆(そそのか)され、“民族意識の覚醒”で本名を明かす少年や青年は居たけど、大半の在日鮮人は正体を隠したままだった。特に、子供の将来を心配する親は、出来るだけ近所の日本人と同じように振る舞い、何食わぬ顔で「日本人」を演じていたものだ。

  *註/ 金容海は大阪市にある北鶴橋小学校で民族学級の担当講師を務めていた。ここに通っていた在日鮮人で有名なのは、金正恩の実母である「高容姫」だ。彼女は高京澤と李孟仁との間に生まれた在日鮮人2世で、生野区の北鶴橋に住んでいた。彼女は「高田姫(たかだ・ひめ)」という“通名(偽名)”を持っていたが、普通の日本人が聞けば「変な名前だなぁ~」と思ってしまうだろう。いくら何でも、朝鮮人が多く住む生野区で「お姫様」が居る訳がない。本多忠刻(ほんだ・ただとき)に嫁いだ「千姫(德川秀忠の長女)」なら解るけど、江戸時代の播磨と昭和の生野区じゃレベルが違いすぎる。

朝鮮人少女の嘆き

  一般の日本人は“情”に流されやすく、たとえ常識的な人でも、無防備なまま“お涙頂戴話”を聞いてしまえば、コロッと騙されることがある。日本人の左翼知識人や在日鮮人の活動家は、こうした日本人の“弱点”を突いてくる。彼らは“お人好し”の庶民を操るために、「子供」を利用するから本当に狡猾だ。例えば、小学生の鮮人少女が味わった悲しいエピソードや、朝鮮高校に通う少年が経験した悔しい過去などを語り出す。鮮人問題に詳しくない日系日本人だと、“偏狭”な日本人によるイジメや差別、学校や会社での理不尽な扱いを聞くと恥ずかしくなるから、「俺はこんな奴らと違うぞ!」と善人をアピールする。だが、こうした日本人は鮮人活動家が隠す“裏事情”を知らないし、“省略”した背後関係も知らないから、いとも簡単に「便利な馬鹿(useful idiot)」へとなって行く。そう言えば、冷戦時代、呑気な大学生はレーニン、スターリン、毛沢東を崇拝する赤い教授に“まんまと”騙されていたけど、詐欺師の教授は謝罪も無く退職していた。(もちろん、たっぷり恩給をもらっていだ。)

  テレビや新聞では、リベラル思想にかぶれた大学教授や、左傾化した評論家による「日本人の差別意識」とやらを“よく”耳にする。だが、こうした言論(害悪)の根源を調べて行くと、鮮人活動家が撒き散らす政治宣伝(プロパガンダ)だと判るし、もっと深掘りすると朝鮮人の怨念がこもった文章に辿り着く。例えば、「評論家」と称する金一勉(きん・いちべん)は、日本人を心から憎んでいた。『天皇の軍隊と朝鮮人の慰安婦』(三一書房)とか、『朝鮮人がなぜ「日本名」を名のるのか : 民族意識と差別』(三一書房)といった著作からも判る通り、金一勉は日本人を呪うことで銭を稼いでいた鮮人作家だ。

  この金氏は雑誌に投稿した記事の中で、小学生少女(鮮人娘)が書いた作文を紹介していた。ある日のこと。彼女が石蹴りをして遊んでいると、○男君が出てきて、彼女を「ちょうせん人」と呼んでイジメたそうだ。この鮮人少女は作文に「どうしていじめるのですか」と書いたという。(金一勉「在日朝鮮人二・三世はどう生きるか」、『現代の眼』第13巻、1972年8月号、p.208.)

  個々人の子供は無邪気でも、時折、残酷な感情を剝き出しにするもある。金一勉は小学校低学年の日本人によるイジメを取り上げていた。この児童は朝鮮人の子供に向かって「ヤーイ、チョウセン」と揶揄(からか)い、石の礫(つぶて)を投げつけたそうだ。しかし、どのような状況で石を投げつけるようになったのか、その理由や背景を語っていないので、金氏の文章を鵜呑みにするのは危険である。

  ただ、こうしたイジメが中学生とか高校生になるとやっかいだ。イジメられる朝鮮人だって“仕返し”をするし、朝鮮人の悪仲間や不良と結託し、日本人の不良と喧嘩をすることもある。また、朝鮮人が“日本人狩り”と称して、生意気な日本人を暴行することもあるだろう。朝鮮高校の悪ガキどもは、空手やボクシングを習っている仲間を引き連れ、集団リンチを実行するから、警察沙汰になったりすることもある。

 「民族ナショナリズム」は大迷惑

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(上写真  / 認めたくない朝鮮の過去 )

 「韓流ドラマ」の流行もあってか、平成の中期か今世紀初めの頃に、朝鮮名(本名)を“カミングアウト”する在日鮮人や帰化鮮人が増えてきた。俳優や歌手といった藝人でも、偽名(通名)を掲げず、本名で出演する者も少なくない。おそらく、敗戦後に暴れ回った「第三国人」や、賭博やヒロポン販売で儲けた「不逞鮮人」を知る世代が次々と亡くなっていたからだろう。日本の学校で教えられる「歴史」の授業は、過去を忘れる為の「愚民化教育」であるから、“不都合な歴史”や“論争になる事件”には触れないことになっている。学校教師が坪井豊吉の『在日同胞の動き』とか、森田芳夫の『朝鮮終戦の記録』を紹介することはないから、普通の日本人は朝鮮統治の実態や敗戦後になぜ朝鮮人が居残っているのか、さっぱり解らない。

  日本で暮らす朝鮮人の子供にとって、本名や国籍に関する悩みは深刻だ。特に、父親が民族意識に目覚めて我が子を朝鮮学校に入れたり、鮮人の活動家が本名を名乗るよう仕向けたりするから、幼い子供が“とんでもない目”に遭ったりする。昭和時代の日本だと、名著(?)『ディープ・コリア』で紹介された“みすぼらしい後進国”が南鮮の定番イメージであったし、朝鮮には日本人が憧れるような文化が全く無かった。一方、南鮮では1990年代の末まで日本文化の輸入が禁止されていたが、朝鮮人は“こっそり”と日本の映画やTVドラマ、アニメ、漫画、歌謡曲などに夢中だった。

  南鮮人による日本アニメの“盗作”は有名で、令和の小学生や中学生が聞いたら絶句してしまうだろう。例えば、『ドラゴンボール』の“パクリ作品”として知られているのが『スーパー・チャイルド』だ。人気漫画アニメの『ワンピース』も被害を受け、誰が見ても盗作と判る『ワピース』となっていた。『ドラえもん』は“偽装”を加えない盗作『トンチャモン』となっていた。さすがに、朝鮮で『宇宙戦艦ヤマト』をそのまま放映できないので、ちょっとだけ改変していたが、「新造戦艦アンドロメダ」は明らかな“パクリ”デザインであった。

  朝鮮人が馬鹿げた「ウリジナル(模倣のオリジナル)」を自慢するのは勝手だが、日本に住む朝鮮人は、劣等種族の出自に屈辱感を抱いていたので、「どうして朝鮮人に生まれたのか!」と嘆いていた。朝鮮にまつわる事柄は悉く“ネガティヴ”であったから、幼い鮮人でも何となく自分の血筋を隠したりする。幼稚園はともかく、小学校に通えば小馬鹿にされるのが判っているから、なるべく出自がバレないよう振る舞うし、女子高生ともなれば、家に友達を呼ぶことを避ける。もし、自宅にある“朝鮮グッズ”を友達に発見されたら大変だ。

 東京朝鮮第九初級学校に通う安教勝という四年生が、『日本の人』という作文を書いたことがある。

  ぼくが学校へいくとき、杉一(杉並第一小学校)のせいとが、<朝鮮人! パアセン人!>といったり、二かいから、つばをはいたりしました。ぼくはそのとき、くやしいと思いましたが、ぼくはだまって学校へいってしまいました。だけど、どうして日本人はぼくらのことをパアセン人というんだろう、とぼくは心の中でおもいました。(沖原豊「日本にいる朝鮮人の子供たち」『学校教育』第502号、1959年8月号、p.83.)

   金一勉は、ある鮮人の哀しい回想を紹介している。

 子供の頃でした。僕は日本名で学校へ行っていて、誰もが朝鮮人だったことを知らなかったと思う。でも、僕はいつも不安だった。そんな気持ちからかどうか、ある時、日本人の友達と一緒になって朝鮮人の子供をいじめた事があるんです。チョウセンジンって、はやしてね。今から思うと情けない思い出です。(金一勉「在日朝鮮人二・三世はどう生きるか」p.208)

  “隠れ朝鮮人”の少年が、日本人と一緒になって同胞の子供をイジメるなんて、何とも悲しい現象だが、自分が朝鮮人と悟られないよう、出来るだけ「日本人」らしく振る舞っていた鮮人の子供は痛々しい。自分も同じ朝鮮人なのに、「やぁ~い、チョウセンジン~!」と馬鹿にする時の罪悪感はどんな感情であったのか? 在日鮮人の子供は、多かれ少なかれ、こうした悲哀を経験しているので、温厚な帰化鮮人でも理性では制禦できない“恨み”を持っている。

  朝鮮人の「悲哀エピソード」は山ほどある。例えば、金敏子という中学三年生は、作文の中で「高さご」から来た鮮人のバアさんについて語っていた。この老婆は白い上着に長いスカート姿で、船の形をした“へんてこな靴”を穿いていたそうだ。敏子が庭で四、五人の友達と遊んでいる時、見知らぬ老婆が入ってきて彼女に向かって“ペチャクチャ”と話しかけたから、彼女の友達は面白がって、老婆の話し方を真似たらしい。敏子は次のように述べていた。

  わたしは、ただはずかしさでいっぱいで、部屋にはいるなりおもての障子をしめて、おしいれるなかにかくれました。そしておしいれにはいるなり泣いていました。はずかしくてたまらなかったのです。きまり悪いやら、はずかしいやらで、みんなのまえにでていく勇気がでませんでした。(上掲記事、p.83.)(註/ 平仮名が多くて読みづらいが、朝鮮人の作文なので仕方がない。でも、これが中学三年生の文章だなんて・・・。いったい、どんな教育を受けていたのか?)
 
  この金敏子という少女は、それまで自分が何処で生まれた人間なのかを考えたことがなかったという。変な言葉を喋る老婆と出逢って、初めて「朝鮮人」であることを自覚したそうだ。しかし、彼女の気持ちは晴れない。

  わたしは、あの「高さご」からきたおばあさんをとてもうらみました。こんないやなできごとをつくったおばあさんが、ほんとうににくらしいと、なん度思ったかわかりませんでした。そして、なんで日本人に生まれなかったのかと、かなしく思いました。(上掲記事、p.84.)

  活動家の教師から「民族ナショナリズム」を植え付けられていない子供なら、こうした“屈辱感”や“恥ずかしさ”を噛みしめても当然だろう。子供というのは本能や印象に正直で、大人のように嘘をつくことが出来ない。だが、成長するにつれ、出自を明らかにする者や隠し通す者で別れるようだ。

  川崎市で生まれた蘆佳世(の・かよ)は、在日一世の父親と在日二世の母親との間に生まれた朝鮮人女性で、彼女の父親は結婚を経てから日本に帰化したという。彼女は物心ついた時、既に「自分は韓国人」という意識があったという。その時は“プラスのイメージ”を持っていたから、幼稚園児の時、「私は韓国人なんだよ」と自慢していたそうだ。しかし、小学校に入って二年生や三年生になると、友人との香料を通して、段々と“マイナス・イメージ”を持つようになったらしい。それで彼女は「どうやら、これは言わない方が良さそうだ」と思うようになったそうだ。(<日本籍在日コリアン座談会>「民族をあらわすものはひとつじゃない」『Sai』Vol.18, 1996年Spring, p.6.)
 
  大阪府立大学の大学院に通う矢野勝也(本名/金勝也)は、小学校の頃に「通名」を意識したという。彼が小学校四年生の時、母親から「あんたは朝鮮人よ」と言われ、自分が“外国人”であることを自覚したそうだ。彼は何となく“格好いい”気がしたので、クラスの友達に「おれ、外国人やねん」と触れ回ったが、それを聞いた母親は「そんなこと言うもんじゃない」と叱りつけたらしい。(若者座談会「なまえを語ろう」『Sai』Vol.3, 1992年Summer, p.5.)

   平成中期まで、民族意識を鼓舞する「チョソン友の会」があり、朝鮮人の活動家や教師が同胞の子供達に「本名」を名乗るよう嗾(けしか)けていた。しかし、こうした“オルグ”に反対する子供達もいて、大阪市の矢田南中学校に通う女子生徒三名は、次のように反撥したそうだ。

  私らは「チョソン友の会」はいらんのや。私らは朝鮮人であることを知られたくないんや。友の会の者からとやかく言われるのはまっぴらや。先生も呼びかけるのやめて。先生らは私たちの気持ちわかってんのか。朝鮮人であることが明らかになるということは、差別を受けるということや。もう絶対に呼びかけせんといてや。(吉田道昌「発言する生徒たち」季刊『まだん』第5号、1975年春号、p.25.)

  政治イデオロギーに夢中の教師や活動家は、「朝鮮民族のアイデンティティーに目覚めよ!」と喧伝するが、現実の日本社会を知る女子生徒らは、そんな“妄想”に付き合うほど馬鹿じゃない。朝鮮人が集まるサークルや民族団体でなら、朝鮮語風の発音で名前(本名)を呼び合ったり出来るけど、日本人が大半の学校や職場で「崔(さい)」とか「斐(ぺ)」と名乗ったら、「えぇ~、あの人、朝鮮人だったんだぁ~!」とドン引きだ。

  ちなみに、我が国での「本名」の開示は、悲惨な結果をもたらすことがある。例えば、北鮮の首領であった金正日は、「金玉(きむ・おく)」という個人秘書を持っていた。もし、彼女と同じ名前の朝鮮人が、日本名(通名)を捨てて「本名」を名乗ったら、彼女の兄弟や子供は、学校や職場で笑いものにされてしまうだろう。

  例えば、「木村」とか「新井」といった偽名で日本の小学校に通う少年にとり、母親の本名は死んでも口にしたくない。もし、友達が「金玉」という本名を知ったら、「わぁぁ~い、お前の母ちゃん女なのにキンタマ持っているのかぁぁ~!!」と大爆笑だ。特に小学生だと遠慮が無いから、露骨にゲラゲラ笑われてしまうし、こういった話題は即座に伝達するから、別のクラスにいる子供達もクスクス笑ってしまうだろう。

  こうした“からかい”に気づいた先生は、「こらっ ! そんな事いっちゃダメだぞ!」と叱りつけるが、悪ガキどもから反論されたら大変だ。もし、ちょっと賢い子供がいると、「どうして? あいつの母ちゃんの本名を言っただけだよ! それが悪いの?!」と反論するから、先生は何も言えなくなる。それに、注意する先生だって心の中では、「確かに“キンタマ”じゃ可笑しいよなぁ~」と呟くし、困った、どうしようかなぁ~」と苦笑いだ。実際、在日鮮人の中には、「金玉子」という女性も存在したから、本名の公表は非常に厄介である。

  精神の葛藤で悩むのは子供だけじゃない。異国で育児に取り組む親も様々な不安を抱えている。ある母親が朝鮮人特有の悩みを語っていた。

  私たちのつらいのは小・中・高・大学と日本の学校へやってある子供たちが、中学の一年から三年までに、突然、ある日、何故、朝鮮なの、と聞く日が一日あることです。何も変わったことはしてやってません。そんな日が、子供の成長のなかにあるんです。つらいです。(金一勉「在日朝鮮人二・三世はどう生きるか」p.209.)

  朝鮮人の家庭には、日本人には理解しがたいトラブルが多い。例えば、一流校に通っている朝鮮人の息子にまつわるエピソードがある。彼は学級委員長にも選ばれ、勉強が得意であった。そこで、彼は東京大学へ進もうと考え、その旨を学校教師にも伝えていたそうだ。ところが、ある日、彼は傷だらけの姿で帰宅した。驚いた母親は理由を尋ねたが、息子はただ「転んだ」と答えるだけで本当の理由を話さなかった。不審と不安に駆られた母親は、医者にだけは本当の事を述べて欲しいと頼んだそうだ。

  傷ついた息子は心配する母親の懇願に耳を貸さず、頑なに口を閉ざしたという。彼は四、五日くらい学校を休むことにした。塞ぎ込む少年には「心の休息」が必要だ。彼は再び学校へ通い出すと、母親の機嫌を伺ってから事情を話し始めた。曰く、同学年の級友達は、彼の希望を耳にすると、「朝鮮人が東大へ行くとは生意気だ!」と言い放ち、彼を袋叩きにしたらしい。イジメられた息子は母親思いなのか、「心配しなくていいよ」と語ったそうだ。

  この顛末を聞いた母親は怒り心頭で、腹の虫が治まらなかったのか、学校へ殴り込み、校長と教頭に対して「朝鮮人に生まれただけで、何故、このような仕打ちに会わねばならぬのか、解るように説明してくれ!」と迫ったらしい。物凄い剣幕の母親を前にした教員達は、「ちっとも知らなかった。悪かった。今後そんなことのないように気をつける」の一点張りだったという。憤慨する母親は、「何故」という理由を聞きたかったが、それは不可能な事であった。屈辱感に我慢できない母親は言う。「私は日本人を許せない。子供を痛めつけられた母の怒りは、何年経っても心の底に秘められ、消えない」と。(金一勉「在日朝鮮人二・三世はどう生きるか」p.209.) 

   南鮮の民団に属する在日鮮人や朝鮮問題に無頓着な帰化鮮人の2世・3世は、北鮮人家庭の子供と違い、何の学歴にもならない朝鮮学校へ通わず、日本の公立学校や私立学校に通ったりする。そして、彼らも日本の学校を卒業すれば、日系人と同じく就職を目指すが、ここにも“民族の悲劇”があった。学校では日系人と同じく、机を並べて授業を受けることができても、名門の日系企業への就職は難しい。(令和になると、もう出自にこだわる企業は無くなっている。) 非常に理不尽だけど、突如、“巨大な壁”が現れ、朝鮮人の子供は「職探し」に戸惑う。(パチンコ屋とか朝鮮料理店、ソープランド、暴力団、サラ金、キャバレーなら別だけど、昭和の頃だと、三井物産とか住友銀行、三菱重工、安田生命なんかは無理だろうなぁ~。)

  1970年代から80年代までは大変だった。例えば、埼玉県に住む、ある在日二世の生徒は、高校の卒業を迎えていた。彼は日系人生徒のように就職活動をするが、希望する会社から悉く断られたという。彼は何度も電話を掛けたが、その都度、応募した企業から就職を断られた。理由は簡単。彼が「韓国人(南鮮人)」であったからだ。逆上した青年は、断られる度に受話器を壊すほど憤慨した。そして、怒りの矛先は自分の母親に向けられる。彼は「何故、母さん、韓国人に生んだ?」と喚き散らす。すると、怒りで狂った息子は、寝ている母親のもとに赴き、持っていた出刃包丁を母親の喉元に突きつけた。いやぁ~ホント、朝鮮人の「火病」は凄い。しかし、夕方になると彼の怒りは治まった。彼は一転して“親孝行の息子”に変わり、親の肩を叩くような仕草を見せたという。

  後に、この青年は過去を振り返り、次のように語っていた。

  幼稚園から小・中学校、親しい友達は何でもなかった。普通の友人つき合いがつづいたのです。そのうち大人になったら、韓国人ですよ。私の見ず知らずの国ですよ。父母には故国の想い出がありますし、肌についた国が残っているのです。僕には、大人になった日から、日本で一人ぼっちが始まったのです。何故か、僕はいくら考えても解らないのです。朝鮮人だからいけない、悪いというのですか。・・・私は、日本で生きるのに精一っぱいという場所に、自分を置いて、解らないことを考えないことにしているんです」(金一勉「在日朝鮮人二・三世はどう生きるか」p.210.)

  朝鮮人の大学教授や“反日史観”で凝り固まる評論家、“日韓問題”で飯を喰う活動家などは、日本人が如何に陰湿で、朝鮮人に対する差別を抱えているかを糾弾する。しかし、実際の“被害者”は日本人の方だろう。なるほど、民族差別や偏見により鮮人の子供や青年が辛い目に遭ったりしたが、それは彼らの両親や祖父母が子供を連れて“祖国(南鮮か北鮮)”に帰らなかったからだ。敗戦後、闇市や神戸、川崎、大阪などに留まらず、朝鮮半島へ戻っていれば、「鮮人差別」に遭わなかったじゃないか! もちろん、朝鮮社会では下層民に対する差別があったけど、それは同胞による侮蔑であり、我々が仕組んだことではない。在日鮮人は「差別」よりも「貧乏」が厭なだけだ。

朝鮮人は「祖国」へ帰れ!

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(上写真   /  「日本統治の恩恵」を受ける前の朝鮮人 )

  日本人は“根”が優しいから、在日鮮人の子供を日本の公立学校に迎えてやるが、一緒にされる日本人の方は堪ったもんぢゃない。朝鮮人の子供と同じクラスになると、日系人の学力があがったり、マナーが良くなったりするのか? どちらかと言えば、日系人の方が鮮人児童の言葉遣いや下品な行動を真似たり、悪事に手を染める事の方が多いだろう。歴史の授業だって、教師が鮮人生徒の“反応”を気にしながら講義を進めなければならず、近現代史は訳の解らぬ説明となり、年号と用語の羅列で終わってしまうのだ。

  昭和時代の1969年、在日大韓基督川崎教会が「桜本保育園」を開設し、日本人の子供を期待したが、日本人の保護者は次々と入園を辞退し、やって来るのは在日鮮人の子供ばかり。(「小さな足音がきこえる」季刊『まだん』第5号、1975年春号、p.41.)保育園側はカナダ人宣教師を呼び寄せ、“英会話”を餌にして日本人子弟の入園を図ったが、それでも日本人の親は振り向かなかった。同園の保母たちは「やっぱり・・・」と落胆し、苦渋の表情を浮かべていたという。

  だいたい、無認可の保育所という状態に加え、朝鮮人がゴロゴロいれば、日本人の親は気持ち悪くなってしまうだろう。「右も左も朝鮮人。日本人と思ったら日朝混血児」じゃ、目眩がしてくる。まともな親なら、愛しい我が子をそんな保育園に入れることはない。自分の子供であれば、性格や血筋に加え、親の躾が良く、カタギの家庭で育った“日本人の子”と一緒に遊ばせたいと思うはずだ。「多民族共生」とか「差別なき社会」なんて、所詮、左翼分子の標語に過ぎない。現実の社会は冷徹で、朝鮮人に対する嫌悪感が地下水脈に流れている。

  日本政府と一般国民が、在日鮮人の帰化を許してしまったから仕方ないけど、本来なら、彼らは祖国に帰るべきだった。よく「朝鮮語を話せないから嫌だ!」と駄々を捏ねる奴がいるけど、それなら、なぜ日本の中学や高校、大学で「英語(外国語)」を学んでいるのか? 朝鮮人の親は自分の子供が祖国に戻って就職できるよう、幼い頃から「母国語(朝鮮語)」を学ばせ、受験勉強じゃなく、「朝鮮語習得」に力を入れるべきだろう。在日鮮人の大学生は日本に住みながら南鮮への憧憬や自己識別の問題を語り、両親や祖父母の怠惰を責めない。こうした連中はあろうことか、「国は無くなった方がいい」とか、「日本籍や韓国籍にこだわらず、僕は“金”という“地球人”だ」とほざく。(「なまえを語ろう」『Sai』Vol.3, 1992年Summer, p.8および「民族をあらわすものはひとつじゃない」『Sai』Vol.18, 1996年Spring, p.9を参照。) 

  朝鮮人が「コスモポリタン」とか「地球市民」と称するのは勝手だ。しかし、それなら「さっさと祖国へ帰れ!」と言いたくなる。朝鮮人に“同情”する日本人は、国内で“綺麗事”を言っていないで、親子代々の日本国籍を捨てて、“可哀想”な異民族と一緒に朝鮮半島で暮らせばいいじゃないか! でも、しばらく現地で生活すると、彼らは徐々に嫌気が差してくる。現実を目の当たりにした日本人は、色々な言い訳を考えて、“こっそり”と日本へ舞い戻ってくる。「多民族主義」を掲げる日本人は、多民族国家の支那やマレーシア、インド、パキスタン、アフリカ大陸に移住せず、“同質性”の高い日本で不満を漏らす。「便座除菌クリーナー」を携帯している女子学生が、インドや支那の便所でウンコできるのか? やはり、象牙の塔に住む左翼は、“快適”なオフィスで“理想”を語るんだよねぇ~。


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アンミカ騒動の根源 / 怨念に凝り固まる朝鮮人(前編)

「朝鮮嫌い」が続く日本

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(左 :「反日」を掲げる朝鮮人の群衆 / 右 : 反日朝鮮人に怒りをぶつける日本人の抗議デモ )

  先頃、日清食品が公開した「どん兵衛」のCF(映像宣伝 /所謂「CM」)が、ちょっとした“話題”というか、インターネット界隈での“炎上騒ぎ”となった。筆者は山城新伍と川谷拓三のCFしか知らないが、最新版には朝鮮人のアンミカ(安美佳)というモデルが起用され、この人選が一部の国民に“不評”であったらしい。筆者の個人的な感想を言えば、「こんな気持ち悪い動画で商品の宣伝になるのか?」と疑ってしまうが、一応、プロが作った宣伝映像なので賛否があっても“素晴らしい出来”なんだろう。


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(左  / アンミカ )
  ただ、商品の「イメージ・アップ」を狙った宣伝なんだから、「もっと“まし”な藝人を使うことは出来なかったのか?」と言いたくなる。よりにもよって、国民の反撥を招くような朝鮮人を選ぶなんて馬鹿げている。かつて、アンミカというモデル藝人は、LGBTの件で自民党の杉田水脈・議員を批判した。この鮮人モデルは、杉田氏の意見を一部だけ切り取り、強烈な差別と偏見の持ち主と貶め、「多様性を理解していない」とか、「日本は世界の恥」と罵っていた。

  外国人のアンミカが、タカリ先の日本をどう評価するかは彼女の勝手だが、こんな鮮人を起用する日清食品の宣伝係は、いったい“どんな思考”で採用されたのか? 宣伝担当者は「何処で商品を売っているのか?」をよく考えるべきだ。もし、鮮人モデルがそんなに好きで、「騒いでいるのは、ごく一部のネット右翼だけ」と思っているなら、社名を「日清食品」から「日鮮食品」と変えたらどうなんだ? 「今回のCFは在日鮮人や帰化鮮人のお客様に向けたメッセージです!」と告白すればスッキリするけど、12月になって急遽、新しいCFに差し替えるなんて変だぞ!

みすぼらしい朝鮮人の回収業者

  今回の炎上騒動の淵源は、日本に潜り込んだ朝鮮人の“いかがわしさ”にある。TBSの再現ドラマによれば、アンミカの家族は1974年に“小舟”に乗って“来日”し、そのまま大阪へ移り住んだというが、“入国”の際、ちゃんと入管職員に旅券を見せ、“渡航目的”や“居住先”を明かして大阪に住んだのか? 安氏の“言い訳”というか“釈明”によれば、彼女の家族(7人)はキリスト教徒で、教会の“手伝い”をするため一家で来日したというが、1970年代の朝鮮人が、宗教活動の目的で来日したとは思えない。おそらく、これは両親が子供達に植え付けた“妄想”か、日本人を騙すための“作り話”だろう。

  戦後になっても、日本に大勢の朝鮮人居候が残り、半島から続々と密入国者が流れ込んでくるのは、日韓併合という害悪、ないし明治の失政があったからだ。「朝鮮」というのは日本人が利害できないほどの“劣等国”で、その人民は“無気力”と言っていいほど“潜在能力”が乏しかった。もし、日本による「併合」が無かったら、南鮮は今でも北鮮並みの貧乏国となっていただろう。それゆえ、日本による支配は“悲劇”とは程遠い“恩恵”であり、朝鮮史上かつてない“黄金期”であった。“不幸”なのは日本人の方で、日本の庶民は乞食よりも貧しい“アカンタレ民族”を背負い込む破目になり、朝鮮人が一方的に“幸せ”を噛みしめる結果となってしまった。

Kou 2(左  / 高権三 )
  戦前、「内鮮融和」を熱心に唱えた朝鮮人は意外と多く、そのうちの一人が高権三(こう・ごんぞう)であった。済州島生まれの高氏は、「日本の教育」という恩恵に浴し、早稲田大学補卒業すると、朝鮮の民族主義者になったが、朝鮮戦争以降、北鮮に拉致されて、その消息は不明となったらしい。ただ、彼は戦前、『大阪と半島人』を出版し、在日朝鮮人へ向けて日本への“同化”を説いていた。

  大東亜戦争前、ある程度の渡航規制があったものの、日本には数多くの朝鮮人が住み着いていた。大正14年には在日鮮人の数は3万1千860人であったが、昭和4年には6万7千172人となり、昭和8年になると更に増えて14万277人、昭和10年の頃には20万3千311にまで増えていたという。特に、在日鮮人は大阪に集中したそうで、高氏によれば、列車や食堂でも朝鮮人を見かけるし、天王寺公園や宝塚公園でも洋装や民族衣装の朝鮮人がいたらしい。筋肉労働者が多い猪飼野町だと、通行人の3分の2が朝鮮人であったというからゾッとする。(高権三『大阪と半島人 内鮮同胞よ!』東光商会書籍部、昭和13年、p.5.)

 「絶望」しか落ちていない朝鮮半島の民衆からすれば、日本は「桃源郷」以上の楽園で、0.001%の「成功」しかなくても、日本は“憧れの国”であった。それゆえ、「どんな“侮蔑”や“差別”があっても日本に行きたい!」というのが、当時の鮮人青年の願いで、工場労働者や港湾人夫、炭鉱や建設現場の下っ端など何でもいいから、とにかく日本で働くことが朝鮮人の「希望」であった。日本での「奴隷労働」とか「強制労働」というのは、戦後の“捏造”で、「夢」を叶える為なら多少の苦労は付き物だ。例えば、UFC(米国の総合格闘技大会)でチャンピオンを目指す選手は、日本人でもブラジル人でも“生き地獄”のような猛特訓に耐え忍ぶが、それを以て「奴隷に対するシゴキ」とは言わないだろう。俳優の卵だって、無名のうちは給仕や土方で稼ぎ、1日の食事は「コロッケ・パン」1個とかの生活だ。

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(左: 朝鮮人労務者の男性   / 中央 : 赤ん坊を背負った鮮人の母親  /  右 : 臼と杵を持った朝鮮人の親子)

  日本人の間で朝鮮人のイメージがすこぶる悪いのは、彼らの生活様式や民族的風習に要因の一つがあった。高氏は在日朝鮮人、つまり「内地(日本)」へ出稼ぎに来た鮮人、および定住した鮮人の「拾ひ屋」について語っていた。大阪に住んでいた高氏は、現地の美観を損ねる“同胞”の姿を目にして哀れんでいた。想像するのも“おぞましい”が、彼は襤褸(ぼろ)を着た朝鮮人、あるいは襤褸の如き民族衣装を纏った鮮人女性を街中で見かけたそうだ。彼女達は本当にむさ苦しく、炭俵や南京米袋を肩に背負って“ゴミ漁り”をしていたのである。

  ただし、「ゴミ」と言っても「再利用するための廃棄物」であり、浮浪者みたいな鮮人女性は、軒先に置かれた屑籠(くずかご)や塵箱(ちりばこ)の中から、ボール紙とか古新聞の屑、汚れた布切れ、空の缶詰、ガラスの破片、セルロイドの断片、婦人が梳(す)いた時に出る髪の毛などを見つけ出し、それらを抜粋してお金に換えていたのである。(上掲書、p.70.)

  薄汚い「拾ひ屋」が、家庭から出される廃棄物を買取業者に渡し、こうした“ゴミ”が“再利用”されて新製品の“素材”になるのは結構だが、こうした“リサイクル商品”には「えっ!」と驚くような物があった。例えば、一般家庭や下宿人が投げ捨てた、使い古しの六尺褌(ふんどし)である。とりわけ、独身者となれば、洗濯をするのが面倒だから、穢くなった褌は洗わずにゴミ箱へポイ捨てだ。こうした廃棄されし褌は、専門の業者によって漂白され、絞りなどにかけられて、足袋裏とか兵児帯、手拭タオルなどに変身する。

  現在の我々は眉を顰めてしまうが、その当時は普通の再利用だった。ただし、小便で黄ばんだ褌が“リサイクル”によって「新たな手拭い」となる訳だから、そのタオルで顔を拭く者は、「知らぬが仏」ということになる。でも、その“由来”が内緒だから問題は無い。日本で廃棄された布切れは、晒木綿や座布団に化けて支那や満洲へ輸出されたという。

  もちろん、こうした「拾ひ屋」には日本人もいて、大半が身を崩した者であったらしい。例えば、元銀行員や商売人、職工、司法代書人、板前、漁師、船員、農夫、馬丁など多種多様であったという。しかし、朝鮮人の場合、そのほとんど(約9割)が女であった。男の屑拾いがいても不思議じゃないが、なぜか居なかったそうだ。一般的に、拾ひ屋は世間から蔑まれ、“人間扱い”をされなかった。「拾ひ屋」に身を落とした朝鮮女だって、好き好んでこの賤業に就いた訳じゃない。もし、この拾ひ屋を辞めたら餓死するしかないから、“しぶしぶ”選んだ職種になっていたのだ。

  在日鮮人は昔から悲惨な生活を余儀なくされね者が多く、彼女達の大半は亭主に先立たれた寡婦、あるいは“男”が居ても失業中の甲斐性無し、あるいは“ヒモ”と変わりがないダメ男といった有様だ。たとえ、ちょっと“まし”な同居人がいても、その収入だけでは暮らして行けないから、補助のために屑拾いをしている、という塩梅である。

  朝鮮半島ならともかく、「内地」で「拾ひ屋」の存在は「日本の恥」でしかない。当時(昭和初期)、来日したある西洋人のエピソードがある。この西洋人は大阪を見物したそうだで、彼は自動車で街中を見物していたそうだ。この時、件(くだん)の外国人は、同乗している日本人通訳に向かって、「あの炭俵を担いでいる女は、どこの国の者で、何をしているのか?」と尋ねたらしい。しかし、その通訳は“国辱”を説明することができず、その返答に困ってしまった。(上掲書、p.75.) 確かに、ボロを纏った朝鮮女を見かければ、直ぐ例の「拾ひ屋」と判る。それゆえ、誇り高きにほんじんなら、先進国のお客様に答える事はできまい。彼が沈黙を貫いたのも当然だ。だいたい、在日鮮人が目にしても「同胞の恥」と思うくらいだから、ましてや“一等国”を自負する日本人だと恥ずかしさで涙がこぼれてくる。

  日本人というのは、根っからの“お人好し”というか“お花畑の住人”である。朝鮮人なんかは野生動物並みの奴隷と思えばいいのに、明治政府の愚策によって「日本国民」となってしまった。それゆえ、冷酷な心を持てなかった日本人は、こうした“恥曝し”を何とかしようと考えたそうだ。そこで、大阪の警察官は具体的な解決を模索した。如何にも日本人らしい発想だが、大阪府警は「拾ひ屋」の服装とか持ち物を改良し、年齢制限を設けることにしたそうだ。さらに、大阪の役人は朝鮮女を精神的に指導し、衛生観念までを高めようとしたのである。

  しかし、お人好しの大阪人はこれだけでは足りないと考えた。「逆効果なんじゃないか?」と思えてしまうが、大阪の警察は彼女達を京城の乞食よりも卑しい存在にしようと図ったのである。(上掲書、p.84) 世界史の中でも稀に見る高度倫理を有する特殊民族であるから仕方ないけど、“親心”を発揮した大阪府警は、内地人(日本人)が「拾ひ屋」ばかりでなく、朝鮮人全体を嫌うよう仕向けたのだ。なぜなら、そうするることで彼女達の羞恥心を高め、自発的な意識改革に目覚めるよう尻を叩きたかったからだ。確かに、朝鮮人は異常なほどプライドが高い。だが、同時に、克己心や向上心が驚くほど低いので、彼女達に自主的な行動を期待するのは無駄である。

  大阪の政策を知る高氏は、猪飼野で拾ひ屋の鮮人女と内地人の魚屋を目にしたそうだ。どんな素性の朝鮮人なのか定かではないが、ある朝鮮人女性が魚を売り歩く行商人と値段交渉したそうで、この魚屋は蛸(タコ)の値段を26銭と言い渡した。しかし、彼女は20銭で売ってくれと頼んだそうだ。ところが、この値段交渉はスムーズには行かなかった。そこで、もし値引きが無理なら26銭でもいいから売ってくれ、と頼んだらしいが、この行商人は「お前、拾ひ屋のように見えるけど、こんな魚を買って食べられるのか?」と言い放ち、未練も無くその場を立ち去ってしまったそうだ。(上掲書、p.85.) たぶん、普段の商売なら6銭くらいの値引には応じたはずだ。しかし、相手が朝鮮人となれば話は別。“嫌味”を吐いて販売拒否の態度であった。

  猪飼野を観察した高氏は、別のエピソードも伝えていた。ある種の精神病患者か内地人かは知らぬが、ある拾ひ屋がゴミ箱の蓋を開けて、何かを喰っていたそうだ。通りを歩いていた朝鮮人の女達は、好奇心に駆られたのか、皆で群がり見物していたというが、通りがかった内地人の女性は、「アホだな」と皮肉を言いながら通り過ぎたらしい。これを耳にした一人の朝鮮人青年は憤慨したそうだが、ゴミを漁っていた者が女であったから、彼も黙っていたそうだ。(朝鮮人の拾ひ屋でも、「女」であれば黙認なんておかしい。朝鮮人の男女差別は戦前から酷かった。)

日本に住んでいるから「幸せ」になれる朝鮮人

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(上写真   / 伝統的な朝鮮人  )

  敗戦後の昭和から平成にかけて、学校における「反日教育」は殊のほか悪質だった。令和になっても、その害悪は根絶されず、むしろ人々の潜在意識の中に深く刻み込まれている。反日史観に凝り固まった左翼知識人や、日本で教育を受けた帰化鮮人の多くは、日本における鮮人差別と人種偏見を激しく憎んでいる。でも、その本音は違っており、鮮人移住者にとったら、朝鮮半島における“貧困”の方が遙かに切実で、日本で生まれ育った子供は死んでも祖国へ帰りたくない。

  アメリカの黒人と同じく、日本に住み着いた朝鮮人は貧乏が大嫌いだ。在日鮮人には他人に知られたくない“心の闇”がある。名も無き鮮人、特に下層の「白丁(ペクチョン)」にとったら、愛すべき祖国は毛細血管が収縮するほどの差別社会だ。それゆえ、朝鮮に住むことを考えたら、日本人の侮辱なんて“仔犬の遠吠え”程度。「辛抱」の一言で堪えられる。しかし、祖国での貧困には我慢がならない。朝鮮という劣等国では、日々の“勤労”が人生の“成功”に結び附かないからだ。両班が威張っているだけの序列社会では、「立身出世」という発想じたいが虚しくなる。豊かな文化に囲まれ、中流階級の庶民が存在し、科学技術がドンドン発展するという日本だからこそ、一介の貧乏鮮人でも裸一貫で“のし上がる”ことが出来るのだ。

  実際、戦前の日本でも豊かになった朝鮮人は少なくない。例えば、張在寛は大阪の米問屋に雇われたが、その後、自立して米問屋の経営者になった。浪速区に住んでいた梁尚林は日本語を理解できなかったが、努力して日本語を習得し、裕福な古銭商になることができた。李漢明はセルロイド工場を経営して財を成した朝鮮人。(上掲書、pp.113-115.) 李石會は済州島からやって来た朝鮮人で、錠前製造の会社を引き継ぎ、高田金属工場を経営するまでの実業家になった。康安生は安田ゴム工業所を営む在日鮮人。夫南煕は印刷所を経営していたが、政治にも興味を抱き、一回だけ市議会選挙に立候補したことがあるという。(上掲書、pp.116-118.)

  令和の現在、在日鮮人や帰化鮮人の経営者や株主などは珍しくない。実質的に賭博業となるパチンコ屋の経営や、毛嫌いされる高利貸し、祖国では馬鹿にされる屠殺業、「韓国料理」と言い換えられる「朝鮮料理店」で成功した帰化鮮人の2世や3世も多い。確かに、彼らは幼い頃、近所の悪ガキや学校の同級生から「チョーセン人!」と馬鹿にされ、悔し涙を飲み込んだこともあるだろう。しかし、それでも彼らは“祖国(両親、祖父母、曾祖父母の故郷)”に帰らず、南鮮で就職しようとは考えもしなかった。

  たとえ、日本人に対して恨みを抱いても、普段話している言葉は日本語ときている。趣味や感覚、好みも日本風で、朝鮮半島の同胞とはかなり違っているのだ。ただし、彼らの中には「祖国」への郷愁から、留学や商売で“帰国”する者も多い。だが、大半は祖国の現実に衝撃を受けて還ってくる。自分を温かく迎えてくれるはずの同胞が意外に冷たく、辛辣な言葉で「チョッパリ(豚足)」と馬鹿にするから、ウブな鮮人少女は相当なシッョクを受けて戻ってくる。そうじゃなくても、信頼する同胞が詐欺師となれば怒り心頭だ。商売の相棒が儲けた銭を持ち逃げすれば、「こんな国、滅んでしまえ!」と罵りたくなる。

  在日鮮人や帰化鮮人は、「アンデンティティー・クライシス(自己識別の危機)」に陥りやすい。日本社会で生まれ育ち、日本語で友人と遊び、学校の授業も日本語なら、受験の高校や大学も日本の学校ときている。朝鮮学校なんて“私塾”に過ぎないから行っても無駄。帰化鮮人の子供は、精神の隅々が“日本語”と“日本文化”で成り立っているのに、両親や祖父母から受け継ぐ肉体は悉く“朝鮮印”なんだから、彼ら頭が混乱するのも当然だ。在日鮮人や帰化鮮人が憎んでいるのは日系日本人ではない。自分の体、すなわち両親や祖父母から受け継いだ「朝鮮人の血と肉」を恨んでいるのだ。憎しみの対象が自分自身の細胞にあるんだから、日本人がいくら処方箋を書いても治療は不可能。朝鮮人は朝鮮半島に帰るのが一番だ。

 次回に続く。

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