無敵の太陽

主要マスメディアでは解説されない政治問題・文化・社会現象などを論評する。固定観念では分からない問題を黒木頼景が明確に論ずる。

日本の政治

飯山陽の挑戦 / 冷えた心は燃えるのか?

選挙の現実は厳しい

Iiyam Akari 883( 飯山陽)
   自民党の柿沢未途(かきざわ・みと)が公職選挙法違反で辞職したので、四月に東京15区では衆議院の補欠選挙が行われることになった。そこで、まだ議員を出していない日本保守党から、飯山陽(いいやま・あかり)博士が出馬することになったという。ただ、どこまで彼女が得票数を伸ばせるのか、期待と不安が入り交じっている。というのも、新人の飯山氏には地盤や看板が無いからだ。しかも、自民党がどんな候補(隠し球)を用意しているのかも判らない。公明党の動きだって不明だ。

  選挙には莫大な費用がかかるのは誰だって解っている。ただ、お金だけじゃなく、現地での知名度や人脈も選挙の行方を左右するから、それが無いのは本当に致命的だ。それゆえ、“落下傘候補”の飯山氏にとっては、かなり厳しい戦いになるはず。いくらベストセラーの知識人とはいえ、その「人気度」は中東問題に関心がある読書人やYouTubeの視聴者に限られている。また、頼りとなる「支持者」といっても、全国に散らばっているから、インターネット上での人気と実際の支持率には大きなギャップがある。江東区に5千人とか1万人のファンが集中しているなら別だが、投票所に赴く有権者の大半は、言論界に詳しくない普通の国民だ。手元の情報源といえば、もっぱらテレビと新聞の偏向報道くらい。日テレの「ミヤネ屋」が、飯山氏を取り上げ、彼女の思想や経歴、過去の言論を特集することはないだろう。

Koike 324( 小池百合子)
  注目すべきは、金銭スキャンダルで揺れる自民党が、東京15区に誰を擁立するかだ。公明党は学会の命令で動くだけ。もし、柿沢氏の贔屓票が加算されれば、両党の推薦候補はかなり有利となる。ただ、ここでもし、小池百合子が衆院選に参戦すれば、飯田氏の当選は絶望的だ。おそらく、商店街や利益団体の票は小池氏に流れてしまうだろう。また、「知名度」だけで投票する有権者も多いから、出馬表明の時点で小池氏の当選は確実となる。

  そもそも、小池氏は自民党の有力者である二階俊博・元幹事長と昵懇の間柄だ。二人は「保守党」時代の“元同志”でもある。今でも二人の利害関係は続いており、そこへ再び実権を取り戻したい菅義偉が絡んでくるから、「ポスト岸田」も小池百合子になってしまう可能性がある。日本新党からデビューした小池氏は、細川護煕のパターンを再現するかも知れないのだ。つまり、“外様大名(無所属)”でも“将軍職(首相の座)”に就くという戦略だ。

  また、岸田内閣に退屈したマスコミも大胆な女帝に飛びつくから、ひよっとしたら「小池ブーム」の再来になるかも知れない。特に、再選が危うい自民党議員は小池マジックに希望を託す。比例復活で当選した議員となれば、次の選挙で落選という恐怖が頭を横切っている。それなら、たとえ「失望の党」を作った張本人でも、老婆のサリーちゃんにすがりつく。だいたい、岸田の次が石破茂や茂木俊充、河野太郎、上川陽子じゃ、ほぼ確実に永田町から「さよなら」だ。それなら、「亡国の女神」でもいいから、「救済の女狐」に賭けた方がいい。

  どの国でも、民衆政治(デモクラシー)を採用すれば、時間の違いこそあれ、確実に衆愚政治(オクロクラシー)へと転落する。古代ギリシアの哲学者は、英邁な王様によ君主政か、貴族政を中核とした混交政体(mixed constitution)を理想としていた。日本の教師が称賛する「デモクラシー(民衆の支配)」なんて、プラトンから見れば「劣者の支配(カキストクラシー(kakistocracy)」でしかない。「最悪の者(カキストス / kakistos)」が「最善の者(アリストス / aristos)」を斥けて支配者となる訳だから、国家的な自殺行為だ。

  ちなみに、ギリシア人やローマ人が讃えた「高貴な人」や「卓越した人」というのは、血統による「世襲貴族」というより、「才幹(virtus)」に恵まれた優越者を指す。西歐社会では、ペリクレスやキンキナートゥスといった歴史上の偉人が為政者の模範となっている。民衆はルキウス・ブルータス(Lucius Junius Brutus)やマーカス・キケロ(Marcus Tullius Cicero)、ユリウス・カエサル(Gaius Julius Caesar)、あるいはウェリントン公爵やジョージ・ワシントンの中に「正義(iustitia)」や「思慮(prudentia)」「勇気(fortitudo)」といった徳目を感じ取り、その人物が放つ「威厳(dignitas)」に敬服する。

Brutus 8823Cicero 292Wellington 662George Washington 623



 




( ルキウス・ブルータス /  マーカス・キケロ /  ウェリントン公爵 /  ジョージ・ワシントン)

  一方、大東亜戦争に負けて米国の属州になった日本では、優秀な人材は永田町に向かわず、銭儲けが出来るビジネス界へと流れて行く。戦国時代の武将ならともかく、現在の政界で「重厚さ(gravitas)」や「尊厳(austoritas)」を備えた議員なんて虫眼鏡でも発見できまい。 むしろ、「ヴェニスの商人」みたいな連中が標準だ。あとは利権漁りの税金泥棒や華僑の買弁みたいな奴がほとんど。政治活動費は議員のポケット・マネーと化し、温泉旅行や外食の費用、あるいは愛人とのデート代になっている。カラオケ店やSMクラブで「政治の話」をすれば、それだって「政治活動の一環」と言えるから、公費を使っても一向に構わない。軍事・外政は国政の要だが、たいした票にならないという理由で、国防は自衛隊と役人へ丸投げだ。バイデン政権は日本から1.5兆円を巻き上げたが、宗主国に隷属する日本政府とくれば、何らかの追加注文で、あと数兆円を献上することになるだろう。

冷たくなった日本人の精神

  敗戦後、進歩的知識人はデモクラシーを大絶賛。「国民が主権者」という妄想(or嘘)をバラ撒いていた。しかし、「主権者的国民」の多数は不満なようで、「投票したい人物が見つからない」と呟いている。確かに、自民党から出馬する人でも、「誰、この人?」と尋ねたくなるような人物がほとんど。また、そうじゃなくても、自民党の組織に属していた支部長とか、利益団体の回し者、代議士の後釜を狙う元秘書、県会議員から国会議員への昇進を目論む野心家、総務省からのた天下り官僚、特殊法人の元役員、宗教団体のメンバーといった候補者ばかりだ。“カタギ”の一般国民は、自分の職業を辞めてまで議員になろうとは思わない。衆院の小選挙区に挑む候補者だと、300万円の供託金が必要となるし、もし得票数が少なければ没収となるから、普通の国民は尻込みする。それでも、時々、憂国の士が登場し、私益にならない国益を主張する。だが、戦後教育で国家意識を喪失した国民には馬耳東風だ。駅前で熱心に訴えかけても、肝心の大衆は振り向かず、虚しい声が響き渡るだけ。無名の候補者だと「知名度」を上げるだけで精一杯。落選すれば惨めな失業者になってしまうし、家族崩壊の切っ掛けになることもある。

  暗殺された安倍晋三や陰謀で失脚した中川昭一を見れば判る通り、「人気者」や「ルーキー」となる政治家には、素質や能力だけではなく、その人を“偉大”に見せるオーラが必要になってくる。確かに、安倍氏や中川氏と同じタイプの世襲議員には、最初から先代の威光が附いているから選挙は比較的楽な試練となる。親からの地盤を引き継いでいるから、落選のリスクは少なく、危ない金策に走ることもない。「失言王」の麻生太郎だって、何があっても落選することはないから、「御免ね!」と笑顔で謝り、次の選挙でもトップ当選だ。

  評論家は文句を垂れるが、「親の七光り」は政治家にとって貴重な財産となる。田中真紀子なんて政治手腕はおろか、人望すら全く無かったが、オヤジ譲りのダミ声と喋り方で好評を博していた。知能が低い小泉進次郎だって、曾祖父以来の地盤を受け継いでいるから、岸田内閣がどうなろうとも進次郎は安泰だ。田中派のホープであったが、ゼネコン瀆職で失脚した中村喜四郎・元建設大臣も世襲議員である。ただ、彼は父親の名前まで受け継いでいた。本名は「中村伸」というが、選挙で有利だから父親の名前「中村喜四郎」を踏襲し、オヤジの名前で当選を繰り返していた。地元のジイちゃんバアちゃんにしたら、父親でも息子でも、たいした違いは無い。投票所で「馴染みの名前」を書いて終わり。国会議員は歌舞伎役者じゃないけど、贔屓筋のお客様を大切にする点では同じである。「中村屋」が「萬屋」に変わっても、舞台の演技に変わりはない。

Jose Ortega 1121(ホセ・オルテガ・イ・ガセット )
  スペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセット(José Ortega Y Gasset)は、なぜ祖国が没落したのかを考察していた。確かに、スペインは斜陽国家のままで、嘗ての栄光が復活する兆しはない。オルテガは傑出した政治指導者が現れない原因を分析し、次のように述べていた。世間の人々はよく「今日のスペインには人物がいない」と愚痴をこぼす。だが、スペインには本当に偉大な「人物」が居ないのか? なるほど、スペインには長い間、ビスマルク(Otto von Bismarck)やカブール(Camillo Benso Cavour)に匹敵する政治家は現れなかった。

  しかし、民衆が求める偉大な人はオルテガの同世代にも居たはずで、「人物の不在」は本人ではなく民衆の側に原因があった。オルテガによれば、「人物」というのは、「当人が持っている資質にあるのではなく、民衆や、集団や、大衆がある種の選ばれた人に与えるものである」という。(「無脊椎のスペイン」『オルテガ著作集』第2巻、桑名一博訳、白水社、1969年、p.311.)つまり、「人物らしさ」は、彼の人格にではなく、その周囲にあるそうだ。これは「集団的表象に由来するもので、その人物を取り巻く神秘的な光輪、感情的な後光」であるという。民衆はそのような人たちを信じ称賛する。そして、これに対する信仰や尊敬が平凡な人格の周りに集積し、皆の前に現れていたのだ。

  確かに、地元の有権者や著名な財界人、大学教授やジャーナリストが、若き新人を「一廉の人物」と評すれば、巷の庶民は“何となく”その人が偉く見えてくるし、“まとも”な事を言っただけでも、「やはり、あの人は違うねぇ~」と感心する。「クールビス」しか業績のない小池百合子も大衆の熱狂から生まれた政治家の一人だ。ただし、彼女は詐欺師の度胸と才能を有していた。恩人の朝堂院大覚(松浦良右)は騙されないが、小池氏は魔性の笑顔で有力者のジジイどもを次々と籠絡する。竹村健一、細川護煕、羽田孜、二階俊博、小沢一郎、小泉純一郎と、見事なまでの“ジジイ殺し”だ。飯山氏には真似の出来ない藝当である。

  自分の容姿に自信を持っているのか、小池氏は女優並みのオーラを放つ。街頭演説で大衆を前にすれば、キャスターの腕前で聴衆を魅了する。石原慎太郎から「年増の厚化粧」と馬鹿にされても逆上せず、サラリとかわして受け流す。一方、「飯田いかり」ちゃんは、イスラム学者の中田考(なかだ・こう)や東大の池内恵(いけうち・さとし)から攻撃されれば、即座に反撃する。学会から干されても降参しないし、YouTuberとなって闘うから筋金入りだ。

  小池氏はイメージの重要性を解っている。烏合の衆にとって、「公約の履行」なんてどうでもいい。一般人は小池氏の服装や表情の方に興味を示す。政治に疎い大衆は、行政と立法が自分の生活に結びつくとは思わない。華やかな都知事を目に出来れば、それで満足だ。百合子女王が、銀座のママでも都庁のババでも構わない。

  飯山氏なら厄介な移民問題、特にクルド人やトルコ人、アラブ人の流入に関する規制に本腰を入れると思うが、一般国民は移民や難民問題に興味は無いから、彼女の主張は「糠に釘」という結果になる。小池氏も治安維持には一言ありそうだが、有効的な対策は考えて居ないだろう。むしろ、外国人の定住に力を入れそうだ。昔、小池氏は「トルコ嬢」や「トルコ風呂」といった名称の廃止に尽力し、在日トルコ人の悩みに応えたことがある。もし、小池氏のパトロン企業が低賃金労働者を欲すれば、彼女は掌返しで移民賛成派に回るだろう。ちなみに、当時、特殊浴場の業界が新たな名称を公募したところ、貿易会社の石田誠一さんが提案した「ソープランド」に決まった。小池氏は鷹のように勘が鋭く、世間の動向を読む感覚に優れている。

  脱線したので話を戻す。古代ギリシアと現代日本の共通点は、民衆の心が冷めていることだ。オルテガによれば、「指導的な人物の社会的価値は、大衆の持つ情熱の度合い」によって決まるそうだ。(上掲書p.313.) となれば、ナポレオン・ボナパルトでもアドルフ・ヒトラーでも、大衆の熱狂で“のし上がった”ことになる。学校の教科書だと、独裁者の演説によって大衆が熱狂したことになっているが、実際は大衆の情熱がカリスマ的指導者を生み出したのかも知れない。

Hitler 435(アドルフ・ヒトラー )
  フランス人は革命のスローガンに感動し、ロシア遠征で散々な目に遭ってもナポレオンを愛した。そして、ギロチンで貴族の首が飛べば、その流血にも興奮していたからゾッとする。ヴェルサイユ条約で屈辱を嘗めたドイツ人は、復讐に燃えてナショナリズムの権化と化した。ユダヤ人の害悪を取り上げ、民衆の憎しみを煽った伍長は、ウォール街の支援を受けて独裁者となった。米国でもヒトラーは「話題の人」となり、有名な『Time』誌はヒトラー総統のポートレイトを表紙に用い、1938年の「Man of the Year」にしていた。戦後、ユダヤ人の強力な政治プロパガンダが吹き荒れたから、ヒトラーは「悪魔の化身」になってしまったが、当時のドイツ国民からは圧倒的な支持を得ていた。

  日本は占領軍が支配する前から、相当“大衆化”が社会であった。日本人は鰯の群れと同じで、両隣の動きに合わせて泳ぐ。時代の潮流に敏感だから、空気を読めない奴は“のけ者”だ。しかも、熱しやすくて冷めやすい。そして、嫉妬心も強いから、秀でた者が出てくると引きずり下ろしたくなる。皇室のメリットは、嫉妬心の拡散とその鎮火にある。権勢を誇る為政者が、いくら出世しても真の支配者にはなれない。ユーラシア大陸とは違っており、主権を持った終身独裁官なんて無理。所詮、日本の天下人は「平民のなかのプリンチェプス(第一人者)」に過ぎず、どんなに頑張っても天皇陛下にはなれない。

  話を戻す。日本の民衆は政界に「逸材」がいないと嘆く。デモクラシーを疑うオルテガによれば、民衆には優れた者に対する低俗な恨みがあるという。大衆は優れた人物に対しての熱狂と社会的献身を悉く拒絶する。こうした事態を自ら招きながら、民衆は政界に「人物がいない」と愚痴をこぼす。岸田文雄に投票しながら、「税金が高いよねぇ~」と不満を漏らす広島県民は、自分の行動を反省しろ。

  ソクラテスの時代にも豪腕の為政者はいたが、既にギリシア人の心は冷たくなっていた。人々の精神が萎縮し、神話を創造する力さえない。国家の衰退というのは、いつの時代にも起こりうる。哀しいのは、人々がもはや怪力者の背後に「神秘的な燐光」を見出すことが出来なくなっていることだ。

  緊縮財政が猛威を振るった平成時代に、一般国民の生活は徐々に貧しくなった。普通の日本人は、反抗精神すら湧いてこない“無気力な群衆”と化している。ぼんやりとした不安に怯え、暗い将来しか描けない庶民は、どんな秕政でも我慢する。消費税や社会保険税が増額されても辛抱だ。抗議デモさえ無い。むしろ節約生活で耐え忍ぶ。岸田内閣が移民促進に舵を取っても沈黙だ。外人の流入に反対するわけでもない。それよりも、アジア人とは競合しない管理職に就こうと考え、より一層、受験勉強に励もうとする。こうなれば、「子孫への配慮」は消滅し、「自己犠牲の愛国心」なんかは死語となる。「今だけ、カネだけ、自分だけ」が国民の行動原理となれば、納税逃れのコスモポリタン、すなわち各国を移動する「永遠の旅人」が成功者の理想となってしまうだろう。

   テレビや雑誌に招かれる政治評論家は、飯山氏の出馬を聞いて「あんんなのは当選しないよ!」と小馬鹿にするが、筆者は偉いと思う。現在の地位や職業を棄てて政界へ飛び込む訳だから、相当な覚悟があるはずだ。たとえ当選しても、直ぐに儲かるとは限らないし、様々な要求を聞いたり、何らかの団体から圧力を受ければ、全国の支持者から非難を浴び.るだろう。見ず知らずの者から「この裏切者!」と罵倒されれば腹が立つ。特殊利益団体の手先となれば、一般有権者を裏切っても平気だが、大きな期待を背負った飯山氏だと大変だ。支持者の落胆も大きい。自民党には左翼議員がウジャウジャいるから、保守派議員がいくら頑張っても無駄な場合がある。亡くなった安倍総理でも、政権を維持するために左翼議員となっていた。

  チャンネル桜の水島総社長は、参政党や日本保守党にケチをつけ、偽装保守のレッテルを貼っていたが、属州の日本で政治家となれば変節漢になるのか普通だ。左翼以外の選択肢といったら「ノンポリ」くらいしかない。与党を批判する野党が碌でなしばかりとくれば、選択肢の無い選挙が現実の政治となる。若者に自民党支持者が多いのは、消極的な選択が蔓延しているからだ。普通の国民は政治に興味が無いから、「誰が議員になっても同じだ。野党はだらしないから選ばない。政策や公約なんて解らないけど、名前を聞いたことがある候補者だから自民党に入れているだけ」というのが彼らの本音だろう。

  自民党に改革意識が芽生えるのは、落選議員が続出した時だけである。水島社長のように「参政党も駄目。日本保守党も偽物」と言えば、残る選択肢は自民党だけとなる。もし、次の総選挙で自民党が多数を占めれば、岸田内閣の路線が温存され、もっと酷い左翼政策が実施されるだろう。もし、奇蹟的に飯山氏が当選すれば、自民党本部にとって衝撃となる。庶民の反抗しか自民党を変える手段は無い。デモクラシーでは民衆が民衆の命運を悲惨にする。快適な部屋でリストカットする少女みたいで恐ろしい。


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「英語化」で多民族共生を強制か?

日本を多民族社会に変えたい府知事

Yoshimura 33Kishida 7234









  今月、大阪府と大阪市による「副首都推進本部会議」が開かれ、大阪公立大学の国際化が議題になった。この会議内容で刮目すべき点は、2027年度から段階的に秋入学の実施を初め、「“公用語”を英語にする」という計画があることだ。大阪府の吉村洋文知事は記者会見の席で、「グローバルな人材を育成するため」と発表したが、「グローバルな人材」って一体どんな人間なのか? おそらく、英語を流暢に話し、各国で銭儲けに奔走する商売人のことだろう。

  吉村府知事はまた、“英語”を“公用語”にするというが、これは経済学とか社会学、心理学、物理学、生物学の授業を英語で行うという方針なのか? もし、授業が英語で行われるとすれば、教授に提出するターム・ペーパー(学期論文)や試験(筆記/口述)も英語になりそうだ。しかし、講義やゼミに参加する学生は、どれくらいの準備をしているのか? 外国語で論文作成となれば、日本語とは違った言い回しや表現になるし、ドイツ語やフランス語のみならず、ラテン語やギリシア語由来の専門用語を使うことになる。さらに、文脈に沿った適切な言葉を選ばなければならない。

  日本がまだバブル時代にあった頃、アメリカの大学が日本側から誘致を受けたことがある。当時は、まだ日本人には“留学熱”があったので、地方都市の首長は分校を建ててもらい、「地方の活性化」を狙っていた。しかし、「国内留学」という触れ込みにもかかわらず、どれも人気を博すことはなく、ほとんどが閉鎖という結果に終わってしまった。

  例えば、秋田県では1990年にミネソタ州立大学の日本校が設立されたが、不人気が祟って2003年に閉校となる。福島県でも1990年にテキサスA&M大学の郡山校ができたけど、たった4年(1994年)で閉校だ。1990年、大阪府と兵庫県にも、フロリダ州立ウェストフロリダ大学の日本分校が設立されたが、あっけなく1993年に閉校となった。一部の噂では、日本人学生の英語力が低すぎて、授業や研究について行けず、退学する者が出ていたという話もあった。たぶん、高額な学費や立地条件もあったのだろうが、資金と学力があれば、アメリカやブリテンに“直接”留学した方がいい。

  吉村知事は過去の失敗例をどう考えているのか? 彼は「大阪がこれから国際化、もっと言えば日本全体が国際化を目指していかなければ、もう、どんどん衰退していくと僕は思っています。実際、衰退しています」*と述べていたから、英語の授業にすることが“国際化”の条件になると考えているのだろう。(*註/ 「吉村知事『公用語を英語に』発言に失笑続々『カタコト英語で講義してどうする』『イソジンと同じレベル』」Flash、2024年2月13)

  しかし、大阪の大学を英米化しても、東大や京大、慶應や早稲田、上智、東京外大に匹敵する名門校にはなるまい。だいたい、「英語化の大学教育」に切り替えたら「世界的な競争力のある人材」の育成になるのか? (「『公用語を英語にするべき』と吉村知事 大阪公立大の国際競争力強化 春入学廃止・全学生が秋入学へ 課題は入試と就職」関西テレビ、2024年2月12日)

  もしかすると、吉村知事は財界とツルんでいるのかも知れない。これは筆者の憶測になるが、便利に使える移民を輸入することが、「英語化」の目的なんじゃないか? 彼が「秋入学」に固執するのも、外国人留学生、特にアジア諸国からの若者を増やしたいから、伝統的な春入学を潰したいのだろう。大阪公立大学は2027年度から秋入学を導入する方針を示している。報道によれば、工学部など一部の学部や、大学院の全研究科で先行的に始めるそうだ。(「大阪公立大学、2027年度から秋入学一部導入へ」日本経済新聞、2024年2月9日)

  日本維新の議員や吉村知事は、先ず「大阪の国際化」で疑心暗鬼の国民を懐柔し、テレビしか観ない大衆を油断させるつもりなんだろう。そして、この「国際化」とやらが定着したところで、一気に全国規模の“国際化”を推進すつもりなのかも知れない。だが、やって来る“留学生”というのは、英語を公用語にするフィリピン人やインド人、あるいは香港の支那人とかケニア人が大半だろう。その他としては、日本語を不得意とするが、初歩的な英語くらいなら理解できるマレー人とかベトナム人、あるいはベンガル人やペルシア人、アラブ人、トルコ人といった人々だ。

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(左 : 海外へ移住する支那人家族   /  右 : キリスト教の西歐社会に住むイスラム教徒 )

  巷の日本人は「英語の授業による国際化」と聞けば、直ぐブリテン島のイギリス人やアングロ・ケルト系のカナダ人、オーストラリア人、白色人種のアメリカ人を思い描く。たとえイギリス系じゃなくても、英語を流暢に話すドイツ人とかスウェーデン人、あるいはデンマークのデイン人とかネーデルラントのフリジア人を連想するから、西歐系の留学生が自分のクラスメイトになると思ってしまうのだ。

  情けないけど、空想で喜ぶ日本人は「外資系企業」と聞けば、安易にアメリカやブリテンの多国籍業を思い浮かべる。また、「ミッション・スクール」ともなれば、西歐系の白人教師が語学や比較文化を教えてくれるハイカラな学校と早合点する。「外資系企業」というのは多種多様で、もし、経営陣が支那人や朝鮮人、アラブ人とくれば、一般人は「えっ!この人たち何?!」と不気味に思うし、英語を話すミッショナリーの先生が、アントン・ウッキーさんみたいなタミル人とかムーア人だったら、憧れのキャンパス・ライフは台無しだ。おそらく、入試の偏差値が低くなり、受験生が集まらない。学費を下げても人気は回復せず、定員割れという事態がオチだろう。(ウッキー氏は日本テレビの『ズームイン朝』で、英会話のコーナーを担当していた在日外国人。彼はスリランカの出身である。)

  平成時代の2000年頃、英会話スクールの「AEON(イーオン)」は、TV広告で俳優のユアン・マクレガーとかキャメロン・ディアスを用いていた。しかし、実際の授業でインド人やフィリピン人の教師が現れれば、生徒は騙されたような気分となり、「えぇぇ~! CMとちゃうやぁぁ~ん!」とスネてしまうだろう。青山学院とか上智大学の宣伝カタログでも、西歐人の講師が英文科の学生と笑顔で語り合う写真を掲載するし、露骨には言わないけど、「ウチの大学ではゲルマン系の先生が親切丁寧に授業を行いますよぉ~」と仄めかす。

  英会話スクールや大学といっても、所詮、教育商売でしかない。学生を集めるにはイメージを良くしなきゃ! もし、イギリス語やドイツ語の担当教師が、セム種族のユダヤ人とか髭面のアラブ人、あるいは黒光りのアフリカ人となったら、高額所得者のボンボンやインテリ家庭のお嬢様はソッポを向く。「言語学の博士号を持っている先生ですよ!」と紹介しても駄目。“教え方が上手な先生”でも、ダビド・ベン=グリオン(David Ben-Grion)とかヤセル・アラファト(Yasser Arafat)、ネルソン・マンデラ(Nelson Mandela)みたいな教師じゃ厭だろう。

David Ben Grion 1Yasser Arafat 11Suella Braverman 1Kwasi Kwarteng 1








( 左 : ダビド・ベン=グリオン / ヤセル・アラファト  / スエラ・ブレイバーマン  /  右 : クワシ・クワーテン )

  また、「ブリテン・アクセントの英語」を話すネイティヴ・スピーカーといえども、英国の内務大臣を務めたスエラ・ブレイバーマン(Suella Braverman)とか、元財務大臣のクワシ・クワーテン(Kwasi Kwarteng)じゃ、日本人の学生はガッカリする。ブレイバーマン氏は“多様性”に富むイングランドで生まれ育ち、熱心な仏教徒でもあるから、「多文化共生」を掲げる左翼には理想的な人物だ。クワーテン氏も「人種的多様性」を代表する人物となる。彼はガーナ出身の移民だが、名門のイートン校を経てケムブリッジ大学のトリニティー・カレッジに入った。しかも、ハーヴァード大学に留学した後、ケムブリッジ大学で博士号を取得するという秀才だった。しかし、普通の日本人はゲルマン系のブリテン人を望んでいるから、亡くなったダイアナ妃やキャサリン妃のようなイギリス人教師の方がいい。

    以前、ユニクロや楽天で社内の“公用語”を英語にするというニュースが話題になったけど、その後どうなったのか? 部外者の筆者はこうした企業に勤める一般社員が、どのような議論を会議でしているのか、また同僚と英会話で、どんなメリットやデメリットが生じたのかを知りたい。一応、アメリカ人の上司と日本人の部下との会話なら分かる。だが、日本人同士の会話なら日本語でいいじゃないか。わざわざ英語で話すなんて馬鹿げている。例えば、普段、友人がビックリするような出来事を喋ったら、「ホンマかいな?!」とか「信じられへん、嘘やろ!」と返すけど、日本人同士の会話なのにジェスチャーを交えて、「Oh, my God! 」とか「You've gotta be kidding !」「Holy smoke(shit)!」と言ったら滑稽だ。

  脱線したので話を戻す。そもそも、「英語の授業」にするというのは、日本人をインド人かフィリピン人並みに貶める政策でしない。大手企業や多国籍業、あるいは農業や製造業といった個人企業、そして世に言う「ブラック企業」は、低賃金でコキ使える労働者を求めている。それゆえ、中間管理職にした日本人社員には、流暢でなくてもいいから、“簡単な英会話力”を身につけてもらいと思っている。でも、実際は「要求」や「命令」だろう。たぶん、冷凍食品やプラスチック製品を作る工場だと、支那人やベトナム人は、何となく英語らしい“ジャングリッシュ”で日本人上司の指導を受けるんじゃないか? 凡庸な日本人上司だと、複雑な作業は説明できないから、下っ端の外人は仲間と相談したり、適当な推測で仕事を学んで行く。

  今の日本人は信じないだろうが、やがて気づかないうちに段々と「多国籍化」が進んで行く。おそらく、厨房や工場の係長が、丹波哲郎やルー大柴みたいに、英単語を並べただけの説明を口にする日が来るだろう。(丹波氏は中央大学に通っている頃、GHQの通訳をしていたというが、実際、彼の英語力は相当怪しかった。早口で喋るアメリカ人とは適当に対応し、肝心なときには席を外していたというから、かなりの曲者だ。)

  近い将来、外人労働者を受け持つ上司や現場を眺める部外者の日本人は、「いゃ、大変だなぁ~」と苦笑するが、「アジア諸国の一部」と化した日本では、それが“普通”となってしまうのだ。(ゾッとする「アジア人の浸透」については、いくつかの具体例があるが、別の機会で紹介したい。) 一応、牛丼屋の「支店長」でも立派な管理職だが、人手不足の真夜中にビルマ人とかペルシア人と一緒に働くとなれば、日本人の店長は、何となく「この先、ずっと夜勤なのかなぁ~」と不安になる。(高卒のバイト生から吉野家の経営者になった安部修仁社長は例外で、倒産の憂き目に遭った吉野家だから、取締役に抜擢されたのだ。)

  とにかく、日本が「多民族社会」となったら大変だ。外人労働者には“気配り”とか“忖度”を基にする「言い回し」などは通用しないし、“暗黙の掟”とか“空気を読む”といった「超能力」も無い。日本で生まれ、日本の学校で生活しないと複雑怪奇な日本語は理解できないから、異民族との摩擦が増えるだけだ。たぶん、企業経営者はこうした現実を知っているら、「ピジン・イングリッシュ(pidgin English)」を「公用語」にしたいのだろう。岸田総理や吉村知事みたいな反日分子が目指しているのは、日系日本人がアジア訛りの英語を喋り、四苦八苦しながらコミュニケーションをはかる、という多民族国家だ。昔、隠れマルキストの武村正義(「新党さきがけ」代表)が、日本を「小さくてもキラリと光る国」と評したが、日本はシンガポールじゃないぞ。

「卑劣な日本人」を想定する岸田総理

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(左 : 日本を嫌うが日本に住み着きたい朝鮮人   /  右 :「多民族共生」を実現したオーストラリア )

  日本の国家病は大阪だけじゃなく、永田町でも猖獗を極めている。「売国」という枕詞がよく似合う岸田文雄総理も、吉村知事と同じく、多民族社会の実現に積極的である。目眩がするけど、岸田総理は次のように述べていた。

   「残念ながら、我が国においては、雇用や入居などの場面やインターネット上において、外国人、障碍のある人、アイヌの人々、性的マイノリティの人々などが不当な差別を受ける事案を耳にすることも少なくありません」(共生社会と人権に関するシンポジウム、岸田総理ビデオメッセージ-令和6年2月5日、首相官邸ホームページ)

  岸田総理は殊のほか、日本民族を「極悪人」と見なしているが、こんな「差別」ならアジア・アフリカ・南米大陸を見渡せば幾らでもある。コロンビア大学の教授で、戦時中、対日政策を担当していたハーバート・パッシン(Hebert Passin)によれば、日本語は罵倒語に乏しく、朝鮮語や支那語と比べたら格段に少ないと述べていた。侮蔑語や汚い言葉が少ない日本語だと、思いっきり他人を罵倒することは出来ないそうだ。ところが、朝鮮語や支那語だと立て板に水で、溢れるように侮蔑語が出てくる。外国に住んだことのある日本児なら分かるけど、日本は驚くほど差別が少ない国だ。

 しかし、岸田総理は日本人を徹底的に貶めたいのか、次のように語っていた。

  「近年、外国にルーツを有する人々が、特定の民族や国籍等に属していることを理由として不当な差別的言動を受ける事案や、偏見等により放火や名誉毀損等の犯罪被害にまで遭う事案が発生している」

  もう、政治に無頓着な日本人でも、こうした発言を耳にすれば呆れてしまうだろう。名誉毀損の裁判で被害を受けているのは日系日本人の方で、スラップ訴訟で日本人を攻撃するのは怒りに狂った在日鮮人や帰化鮮人とタッグを組む左翼陣営の方である。それに、反日勢力の支那人や朝鮮人、違法就労のベトナム人を批判する日本人でも、彼らの住居に放火はしないし、ガソリンを浴びせかけることもしないだろう。

  岸田総理は「共生社会を実現するために、他者との違いを理解し、互いに受け容れてていくことが重要です」と述べたが、一般の日本人はアジア人との“共生”なんか望んでいないし、「共生社会」を“強制”しているのは、政財界の要人や左翼人権派の方である。平穏な生活を破壊する者が、抵抗する庶民を批判し、更なる混乱を持ち込もうとするのは、本当に赦せない。広島の有権者は、次の選挙でも岸田総理を選ぶと思うが、こうした無意識の愚行が子孫の不幸を招いているのである。(脳天気な投票行動の結果は、20年か30年後に現れる。)

 次回に続く。

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