無敵の太陽

主要マスメディアでは解説されない政治問題・文化・社会現象などを論評する。固定観念では分からない問題を黒木頼景が明確に論ずる。

支那人

支那人は封じ込めるしかない

教科書に載せて全日本人に知らせたい現代史 支那人の卑史 朝鮮人の痴史
黒木 頼景
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要らなくなった支那人が日本にやって来る

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  このところ、ドナルド・トランプ大統領を敵に回した習近平の権威が怪しくなってきた。ロシアのプーチン大統領が主宰した「東方経済フォーラム」に安倍総理が出席したのは日本でも報道されたが、そこに習近平までもが現れてきたから、ちょっと意外である。米国の経済的攻撃に苦しんでいるのか、ロシアに擦り寄って、一緒に日本を搾取しようと考えているのかも知れない。少し前までは、絶大な権力を求めようと、この国家主席は第二の毛沢東を目指したが、今ではその野望さえ危うくなった。

  日本の保守派知識人には、昔から「支那共産党はもうすぐ崩壊する」とか、「支那経済はやがて破綻する」と述べて、人気を得ようとしている論客がいる。経済評論家の宮崎正弘などは、以前から事ある毎に悲観論を披露し、北京五輪のあと、上海万博が終われば支那は経済的に行き詰まる、と庶民を糠(ぬか)喜びさせていた。しかし、断片的に失敗を繰り返しても北京政府は消滅しなかったし、共産党支配も崩壊する事はなく、今でも続いている。毎度毎度、日本国民は専門家の話を聞いて、北京の要人がどうしたとか、共産党内部の権力闘争の話題に一喜一憂しているが、支那が経済的な不況、あるいは政治的混乱に陥ると日本にとって得になるのか? たとえ、民衆の暴動なり反政府勢力の蜂起によって北京政府が潰れたって、次に樹立される政府も支那人による統治機構なんだから、千年前、二千年前と同じ事の繰り返しになるだろう。つまり、誰が支配者になっても支那人は支那人のままで、支那が文明国になることはない。この暗黒大陸では何もかもがヘドロのように汚れている。空気は煤煙と有害物質で、土壌と地下水は重金属で、人心も物欲とエゴで汚染まみれ。とりわけ、人間の汚れは酷く、P&Gの「アリエール」でも落ちないし、漂白剤でも白くならない。だいたい、薄汚れた空に昇る太陽だって真っ黒なんだから。皮肉なことに、夜の暗黒街だけがネオンで明るいときている。

  一部の日本人は支那の惨状を目にして喜んでいるけど、騒乱状態の国から移民や難民が来たらどうするのか? 支那人には愛国心など一滴も無い。生活に困れば躊躇なくオーストラリアやカナダ、そして無防備な日本へと向かってくるのだ。不況に喘ぐ南鮮人も祖国に見切りをつけ、多くの若者が続々と日本で就職活動を展開している。南鮮人というのは矛盾の塊で、韓国にいれば誰よりも激しく愛国心を叫ぶが、その故郷を良くしようとは思わない。沈み行く船と心中するのは「アホ」だけ。それよりも、憎いけど希望が見える日本に移住し、半島では味わえない快適な生活を得ようと努力する。それにしても、“優しい”同胞を見棄てて、差別的な日本人と一緒に暮らそうと考えるんだから、朝鮮人の思考回路は謎である。でも、これは健全な精神を持つ日本人の考え方で、悲惨な過去しか無い賤民には当て嵌まらない。彼らは連戦連敗の歴史があれば、「100戦連勝」と改竄すればいいと思っているし、親から貰った顔面が醜ければ、近代医学を使って理想に変えてしまうのだ。こんな連中だから、「得」と判れば「日本人」に成りすましてアイデンティティーを変えるなんて朝飯前。

  アジアの最低民族たる支那人も同じで、「東の僻地」に楽園があると判れば殺到する。たとえ、日本政府が入国を制限しても、どこかに穴を見つけるか、無いはずの穴を作って、潜り込もうと考える。支那人の辞書に「不可能」という文字は無い。如何なる人間にも必ず「弱点」があると解っているから、支那人はそこを確実に突いてくる。「人権」という呪文に弱い日本人は、押し寄せてくる支那人の群れを撥ね付けることはできないから、支那人が続々とやって来るに違いない。日本に入るためなら賄賂は当り前だし、闇の仲介業者もゴマンといるから、あらゆる手段で潜り込もうとする。スケベな日本人を利用して国籍を取得する支那人は普通だし、結婚できなくても妊娠すれば、生まれてくる日本人になるから、不法滞在者の母親でも合法的に永住できるのだ。普通の日本人女性は国籍取得のために赤ん坊を産もうとは考えないが、支那人の女狐は「利益」と思えば何でもするし、別人の精子で生まれた子供でも、「日本人の子だよ!」と言い張るから図太い。でも、「そんな風にして生まれてきた子供は、大人になったらどう思うのかなぁ?」と心配するのは日本人の甘いところ。支那人に国家意識は無いから心配ご無用。蛇と支那人に国境なんて関係無い。銭があれば幸せなんだから。

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(左: 米国への出産ツアーに出掛けた支那人妊婦  /  右: 支那人の労働者)

  日本では国民が大切にされるのが「当然」となっている。しかし、世界中でこんな国はごくわずか。民衆は税だけ絞って、後は放し飼い、というのがアジア・アフリカ諸国の常識だ。支那の支配者には、「困ったら棄民」という手段がある。13億ないし14億とも推測される人民を養うのが大変になれば、ベトナムやタイ、シンガポールに移住させればいいし、厄介者や貧乏人、犯罪者なら、日本に送ってしまえばいい。日本が少子化で悩んでいるんなら、「人民を1億人プレゼント」すればODAのお礼になると考えるのが北京政府だ。でも、お中元とお歳暮で2億人となったら、日本全国で一大パニックとなるだろう。支那人の大群とくらべたら、台風と竜巻の方がまだマシだ。突風の被害は一時的なものだが、支那人による災禍は何百年と続くし、もしかしたら、日本そのものが失われてしまう虞(おそれ)がある。そうじゃなくても、全国各地に支那人街が誕生するから、日本人はフン族に怯えたゲルマン人みたいに安全地帯の田舎へ殺到するかも知れない。支那人が移住するということは、支那大陸の悪習がそっくり日本に移植されることを意味する。我が国のマスコミは、ごく稀にいる優秀な支那移民を矢鱈と宣伝するが、取材すらできない悪徳支那人が多いことには目を閉ざす。支那人は日本に移住したからといって「伝統的な態度」を改めることはない。それよりも、支那人を真似る日本人が出現し、日本の治安は更に悪くなるだろう。

  歐米諸国を見渡せば一目瞭然だが、支那人というのは何処に行っても嫌われる民族だ。とにかく、支那人とは係わりたくない。彼らは表面上、ニコニコしながら交流を図るが、本質的に陰険で心に不気味な闇を抱えた種族である。第一、付き合っていて不愉快だ。たとえ、優秀な科学者や技術者、書道や料理の達人、大手企業の経営者であっても、どこか信用できない。貧民は論外だが、小金持ちになった支那人でも、日本人とは「人間の質」が違っているのだ。犯罪者ではなく普通の庶民なのに、唖然とする慣習を持っていたりする。例えば、公共道徳の欠如がそうだ。1980年代に支那に留学した西野広祥教授の滞在記が、支那人の特徴を示していたので面白かった。日本人旅行者でも気付くと思うが、支那人はお金を投げてよこす。ある日、西野氏が駅の切符売り場で行き先と枚数を告げて料金を払うと、駅員が釣り銭をポーンと投げてよこしたそうだ。しかも、クシャクシャにした札を無造作に投げてきたので、思わずギョッとし、むかついたという。(西野広祥 『中国 見たもの聞いたこと』新潮社、1990年、 p.17) 支那人は銀行でもお金を投げるし、お店で買った商品すら投げるくらいだから、紙に包んでくれるなんて芸当は期待できない。

  日本人は「気配り」とか「心遣い」「思いやり」など、支那人には想像もできない行動様式が当り前となっており、それが日常生活の隅々にまで浸透しているから凄い。「その場の空気を察する」なんて超能力者にしか出来ないのに、日本人は小学生でも体得しているんだから驚きだ。ぶっきらぼうな支那人では絶対に無理。「デリカシー」なんて支那人には理解できないし、「何だそれ? 日本製のソースか?」と訊いてくる。たぶん「デリシャス・ソース」の模造品と思っているんだろう。支那人の思考形態は、西野教授の体験記によく現れていた。彼が道を歩いていた時のことだ。彼が進む1m前に飲料のビンが落ちてきて砕け散ったそうだ。西野氏は「いったい、誰が投げたんだ?」と怪訝に思い、あたりのビルを見渡すが、どこの窓にもそれらしき人物の影が見えない。まさか、恨みとは考えられなかったから、「誰かのいたずらだろう」と思ったそうである。(上掲書 p.35)しかし、ビンが当たっていたら怪我をしたかも知れないので、支那の道路を歩くときには注意が必要だ。

  実際、支那人はよくモノを窓から投げる。タバコの吸い殻や紙屑はもちろんのこと、棒切れ、空き缶、油まみれのボロ布、その他の不要品を平気で投げていたそうだ。筆者も米国で物を捨てる支那人に遭遇したことがある。彼らにとって「ポイ捨て」は何でもなく、ごく自然なしぐさなのだ。筆者が「クレーイハウンド」というバスに乗ったときも、前に坐っていた支那人が床に痰を吐き捨てていた。この「痰吐き」が別の日の別のバスでも起こっていたから、支那人にウンザリした事を覚えている。飛行機の中でも支那人マナーが悪く、米国人のスチュワーデスに食べたゴミを渡すし、まるで女中のような扱いだった。日本の観光地でも、支那人がコンビニ弁当を食べた後、容器をポイと路上に捨てる光景などは普通だろう。横浜の支那人街では、新参者の支那人が勝手に廃棄処分の冷蔵庫とかテレビ、ソファーを捨てに来る。

  西野氏のエピソードは一昔前の話だが、その本質は今でも変わっていないだろう。あるとき、支那に長いこといる女子留学生が西野氏に向かって、「そんなの常識よ!」と言い放ったそうである。彼女は建物のそばを歩いていた時、いきなり汚い水を掛けられたことがあったという。支那では加害者より被害者の方が非難されるのだ。詐欺事件では「騙された方が間抜けなんだ」と言われるし、足を踏まれれば、「そこに足を置くから悪い」となじられる。西野氏も彼女と似たような経験があったらしい。彼は毎日、大学の運動場をジョギングしていたが、よく支那人学生が宿舎の窓から物を投げる音を聞いたそうである。そして、何が捨てられたのかを見に行ったら、夥しいコミがあったそうだ。支那人学生は一部屋に8人も住んでいたから、窓から物を捨てる方が便利と考えていた。ある時、西野氏は支那人学生にこう提案したことがあるそうだ。

  宿舎の外にゴミを捨てないで、ゴミ箱に捨てるようにしたらどうだろう。外を掃除する手間がなくなるし、だいいち窓から外を見たとき、下がいつも清潔で気持ちがいいじゃないか。

  すると、その支那人は西野氏の顔を覗き込んで不思議そうに尋ねた。

 あなたはどうしてそんなことを考えるんですか。いらないものをそのつど窓から捨てたほうが便利じゃないですか。外はときどき掃除すればいい。外を掃除する必要がなくなったら、掃除夫の仕事もなくなってしまいますよ。(上掲書 p.37)

  さぁ~すが、支那人。発想が違う。自分の部屋にゴミ箱を置くよりも、外に捨ててしまえばゴミ箱はいつも空のままだ。自分の部屋さえ綺麗なら、外部がどうなろうと知ったことではない、というのが支那人の考えなんだろう。以前、日本の集合団地に暮らす支那人の「ご近所トラブル」という記事を読んだことがある。これは日本人の住人が減って、そこに支那人が住みついたという典型的な老朽化長屋だ。そこに住む日本人の住居者と清掃人は、支那人の非常識にほとほと困っていた。ある支那人女性は階段の踊り場で排便し、その場面を管理人に咎められたそうである。注意をした日本人が「なぜ部屋のトイレを使わないのか?」と尋ねたら、「自分の便所を使うと水道代がかかるから」という回答を聞いたのでビックリり仰天。あまりにも唖然とする理由だったから、返す言葉が無い。団地の廊下や階段で排便するのは恥ずかしくないのか? いくら節約とはいえ、小便や大便を見た住人はギョッとするはずだ。

  暢気に多文化主義を教えている大学教授は、こうした「現実」を解っているのか? 東京工業大学で社会学を教えていた橋爪大三郎なんかは、日本人だけで幸せに暮らせる日本を憎み、アル・グラスビーの翻訳本を監修し、その解説文の中で「日本は一刻も早く、多文化主義に向けて舵を切るべきだ」とほざいていた。( 「解説 オーストラリアの多文化主義から何を学ぶか」、アル・グラスビー著 『寛容のレシピ』 藤森黎子訳、NTT出版、2002年、p.244) 橋爪氏は色々な民族が共存する日本を礼讃していて、妄想まがいの事を述べていた。

  その目的はなにか。門戸を世界に開き、日本を、外国人にとって魅力のある国とすることである。そして、日本社会のメンバーとして、世界各地のさまざまな人びとに集まってもらうことである。それは、そうした人びとの利益にもなるし、日本の利益にもなる。(上掲書解説 p. 241)

  オーストラリアで移民担当大臣を務めたアルバート・グラスビー(Albert J. Grassby)は、日本だと無名だが、オーストラリアでは国家破壊の極悪人として歴史に名を残している。こんな奴の書いた本を訳して学生に勧めているんだから、日本の大学教授がいかに有害か解るだろう。日本の大学は「常識」を教えない点に特徴がある。まず、教員が深紅やピンクの左巻きで、国柄の破壊を目標にしているから、非常識が「理想」になっている。そして、現実社会に適合しない者が教授となり、残り滓の大学院生を弟子にしているから、左翼の牙城が何時まで経っても崩れない。しかも、競争無しの終身雇用。ラーメン屋は不味い料理を出せば廃業となるが、大学教授は下らない論文を書いても失業しないし、業績と関係無く恩給もたっぷり。これなら、橋爪氏が妄想を述べても不思議ではない。ちなみに、彼は小室直樹先生のゼミに参加していた弟子である。師匠が立派でも、有名になった弟子が宮台真司とか副島隆彦じゃ、あの世で眠る小室先生もガッカリするだろう。左翼学者と違って、保守派の学者は一代限りらしい。

  話を戻す。日本が魅力的な国であることは確かだ。しかし、我が国にやって来る外人は選ばなければならない。「誰でも歓迎」なんて馬鹿げている。じゃあ、養子を迎えようとする日本人がいたとして、「どんな子供でもOK」というのが普通なのか? 岸信介総理の実家は、安倍総理の弟(岸信夫議員)を養子にもらったけど、それは御母堂の洋子さんが岸総理の娘だからで、全くの他人ではない。誰でも良ければ、「長州の恥さらし」と評される菅直人でもいいはずだ。でも、菅直人を迎えるくらいなら、普通の日本人は「お家断絶」の方を選ぶ。たとえ赤ん坊でも、支那人や朝鮮人なら嫌だろう。それなら、マンチカンとかスコテッシュフォールドの猫を相続人にした方がよっぽどマシだ。

  日本人はアジア人と一緒になれば不幸になる。日本人はアジア人ではないし、アジア圏にも属していないのだ。かつて「内鮮一体」と称して朝鮮人を「日本国民」にしたが、その結果がどんなものになったのか今の日本人は忘れているのだろう。滑稽に思えるけど、支那人の難民や移民はICBMより恐ろしい。ミサイルといった兵器なら、幾つか対抗手段があるけれど、移民の大群に有効な武器は見つからないので、日本政府は撃退する事ができず受け容れてしまうのだ。頼りの自衛隊でもお手上げ。支那軍の駆逐艦なら攻撃できるけど、難民を満載したボロ船だと手が出せない。いくら対艦ミサイルを持っていても発射ボタンを押せないから、せいぜい難民船を護衛するくらい。しかも、支那人となれば「千客万来」と歓迎する政治家がゴロゴロいるんだから参ってしまう。

  北京政府は厄介者や不満分子を日本に送ることで、国内の問題児を少なくしようとするし、ついでに我が国への攻撃・侵掠にもなるから一石二鳥と考える。支那人を受け容れても日本の庶民にとってはメリットは無し。低賃金労働者をこき使って儲けるのは、人足屋(人材派遣会社)と製造業(3K職場)くらいで、支那人が蝟集する地域に住む日本人は大迷惑。治安や雰囲気が悪くなるので、周辺住宅地の評価が暴落するのは目に見えている。地元の子供が通う公立学校には、支那人やアジア系の子供が増えてしまうから、クラス全体の学力レベルが落ちる危険性もあるだろう。デフレで給料が減額される一方なのに、子供を私立学校に通わせるなんて無理だし、せっかくローンを組んで構えた自宅も、「売るに売れない状態」じゃ泣きたくなる。近所の公園には支那人がウジャウジャいて、以前は幼児を連れて遊ばせることができたのに、今では不愉快だから別の場所を捜さねばならない。近所の商店街には支那人が集う上海料理店とか、奇妙な干物を扱う食材店が出没し、その一角には不気味な連中がうろつく。キャバレーがあれば、酌婦の大半が支那人だ。しかも、訳の解らぬ言語で喋っているから怖い。支那人マフィアが仕切る「ぼったくりバー」だったりして。

  支那人が大量にやって来れば、日本にチャイナタウン、すなわち「支那人祖界」が誕生するので、実質的な領土侵掠となる。支那人が盤踞する区域に住もうとする日本人は居ないから、アパートや中古物件に住むのは皆支那人ということになりやすい。要するに、日本各地で埼玉県の西川口みたいな街が出来上がってしまうのだ。日本の政治評論家は、米中対立で習近平が窮地に立っている、と他人事みたいに述べているが、支那が混乱すれば、もっと多くの支那人が日本に流れ込んでくるだろう。既に北海道や沖縄には大量の支那人が住みついているし、東京や大阪といった都市部にも、不法残留の支那人が多く潜伏しているはずだ。摘発されない支那人が増えれば、彼らは遠慮なく日本に根を張るし、適当な日本人を見つけて形式的に結婚すれば、永住資格を得ることができるから万々歳。しかも、子供を次々と産めば子供手当が増えるし、様々な特典的福祉を手にできるから、支那では味わえない贅沢な暮らしが出来る。そのうえ、僅かな掛け金を払って国民健康保険に加入できるので、病気や怪我の恐怖に怯えずに済む。支那では巷に偽薬が横行し、本物と偽物の区別が付かないから不安だけど、日本なら病院は「清潔」で賄賂も必要ない。日本の病院で、医者が露骨に賄賂を要求したり、ゴミ箱や洗面所に小便をかける奴なんかいないだろう。

  日本人が国防軍を創設することは重要だが、移民や難民を撥ね付ける法整備を整えておくことも肝心だ。西歐諸国がどう言おうとも、難民条約など即刻廃棄すべきである。ドイツやイングランドなど見れば、どれほど難民が問題となっているかが解るはずだ。難民受け容れを拒否できない先進国は、どこでも苦しんでいる。望んでもいない移民や難民を受け容れ、そのしわ寄せを喰っているのは「反対」を表明できない一般国民だ。ドイツで新興政党たる「ドイツのための選択肢(AfD)」が支持を増やしているのは、心の底で異民族反対を唱える人が多いからである。支那人が日本に来れば、困るのは日本の庶民で、受け容れ制度を作った政治家ではない。

  支那には「まともな国家」という希望がない。たとえ、あの汚穢大陸に民衆政が誕生し、みんなの投票で政府が樹立されても、支那人が立派になることはないし、自助努力の国民になることもない。支那の政治家は相変わらず瀆職に精を出し、賄賂を貯め込んで絶対権力を目指す。これを目にした一般人も、政界を改革しようとは考えず、誰も彼もが「私も何とかして儲けたい」と考えるから、昔ながらの腐敗政治に逆戻り。結局、支那を捨てて日本に移り住む方が賢明だ。しかし、日本人にとったら大迷惑。何としても支那人を追い払いたい。といっても、日本人にとっての選択肢は限られている。冷戦時代に合った「封じ込め」政策みたいに、支那人の膨張を防ぐしかない。それにはまづ、「人権」という呪文を解くべきだ。支那人という災厄は絶滅できないから、支那大陸に閉じ込めるしかない。日本は水面下で歐米諸国にはたらきかけ、支那人排除の同盟を画策すべきだろう。ひょっとしたら、天使の顔をしたがる歐米人も、心の底では賛成するかも知れないぞ。



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豚の尻尾が無い清国人 / 支那人であることが恥ずかしい (後編)

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現代風の清朝支那人

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  最近ではすっかり落ち目になってしまったジャッキー・チェン(Jackie Chan)だが、1970年代末から80年代の映画雑誌では、頻繁に取り上げられた俳優である。現在の中学生や高校生にはピンと来ないだろうが、彼の人気は1978年に公開された『蛇拳』や『酔拳』で火が附いた。漫画『ドラゴンボール』に登場する「ジャッキー・チュン(亀仙人)」は、明らかにジャッキー・チェンがモデルで、願いを叶えてくれる大きなドラゴンの「シェンロン」も、ジャッキーの藝名「成龍(シェン・ロン)」から由来するものと推測できる。(ここでは関係無いけど、ジャッキーの娘エッタEtta Ng Chokがレズビアンと判明し、国際ニュースになった。父親のジャッキーはもう大激怒。両親の逆鱗に触れたエッタは勘当になり、今のところ「宿無し」なんだって。ホモの娘を持ったジャッキーも大変だ。こうなりゃドラゴンボールを集めて、「シェンロン」に「娘を正常にしてください」とお願いするしかないよねぇ。)

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(左: 母親のエレインと娘のエッタ・ン・チョク  /  右: パートナーと一緒のエッタ)

  我々が知るジャッキーの本名は「陳港生」なんだけど、日本では「チャン(陳)」ではなく「ちぇん」と呼ばれている。たぶん、映画会社が「ジャッキー・ちゃん」じゃマズいと思ったからだろう。しかし、彼の前から「アグネス・チャン」がいたから、「チャン」でもよさそうなものだが。あまり知られていないけど、ジャッキーは頻繁に名前を変えており、最初、本名から「陳元龍」にしたのだが、何かの理由で父親の氏族名を借りて「房仕龍」と改名し、しばらくしてから再び「成龍」へと変えたそうだ。(ジャッキーの母は「陳」という姓であった。) 1980年に公開された『ヤングマスター』では、ジャッキーの支那名が「成龍」と表示されていたので、「なんで、そんな漢字に?」と疑問に思った日本人は少なくなかったと思う。

  香港のカンフー映画と言えば、ブルース・リーの代表作『ドラゴンへの道』や『燃えよドラゴン』が真っ先に挙げられるけど、ジャッキーの映画はアクションであってもコミカルな作品が多い。しかも、時代背景は第20世紀後半の香港ではなく、清朝末期と思われる設定であった。彼の映画には常連俳優がいて、拳法の達人で放浪癖の師匠と言えば、決まってユエン・シャオティエン(袁小田)で、意地悪な兄貴分にはディーン・シェク(Dean Shek / 石天)が採用されていた。この師匠の吹き替えには、必ず小松方正さんが当たっていたので、彼以外の声だと違和感がある。昔の映画だと、特定の外人俳優と日本人声優がセットになっていて、馴染みの声優と異なる人が起用されることは滅多になかった。例えば、『刑事コジャック』のテリー・サヴァラス(Telly Savalas)の吹き替えは、森山周一郎が担当し、『刑事コロンボ』のピーター・フォーク(Peter Falk)だと男優の小池朝雄、『ダーティー・ハリー』のクリント・イーストウッド(Clint Eastwood)は「ルパン三世」でお馴染みの山田康雄といった具合だ。でも、意外なのは、『チャーリーズ・エンジェル』のシェリル・ラッド(Cheryl Ladd)を任されていた小山茉美が、『Dr.スランプ』のアラレちゃんを担当していたことだ。声の質というか、話し方がまるっきり違っていたけど、同一人物の吹き替えであったから驚いてしまう。ちなみに、『ドラゴンボール』に登場した「ランチ」の声も小山氏の担当であった。

  脱線したので話を戻す。『蛇拳』を劇場やテレビ観ていた日本人は、挌闘シーンに釘付けとなっていたが、映画で使われる妙な小道具に気がつく者は少なかったと思う。例えば、ジャーキー分する道場の門下生に色々と意地悪をする師範代の李(石天)が出てくるが、彼が手にしていたのは阿片を吸引するときに使う大きなキセルだった。映画の前半、この師範代が下っ端のジャッキーをからかい、愛用の喫煙パイプで殴るシーンがあったのだが、支那人には自然でも日本人には驚きだった。ただし、映画の中では明確にアヘン用パイプと判らないが、タバコを吸うための道具とは思えなかったので、支那人が好む吸引器と考えた方が妥当だ。日本人は阿片と聞けばゾっとするけど、支那人の苦力(クーリー)などは、疲労回復や気分転換として吸っていたから、決して極悪人だけの趣味ではない。戦前の日本人なら、支那大陸で阿片窟を覗いた人も多く、後藤朝太郎や細井肇などの本を読めば当時の様子が分かる。

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(左: ジャッキーと師匠の袁小田  /  右: ディーン・シェク)

  ジャッキー・チェンの映画を観る日本人は、彼の素早い組み手や奇抜なアクションばかりに目を奪われるが、出演者たちの容姿にまで注目することはない。改めて映像を観てみると、ジャッキーはもとより、道場の門下生や街中の通行人、市場で仕事に励む商人、拳法を使って庶民を脅す悪党で、「辮髪(べんぱつ)」にしている人が居ないのだ。みんな現代風の髪型をしており、明治の日本にやって来た支那人みたいな出演者が居なかった。現在の日本人なら、図書館で昔の写真を閲覧することができるし、インターネットで捜せば、サンフランシスコに住みついた支那移民を撮した写真を見ることもできるだろう。前世紀のアメリカ人は彼らの辮髪を「豚の尻尾(pig tail)」と呼んでいて、移民排斥を訴える風刺画には、辮髪を垂らした狡猾な支那人や、その長い髪を引っ張るアメリカ人などが描かれていた。 米国では映画に出てくる「フー・マンチュー博士(Dr. Fu Manchu / 傅満洲)」みたいな東洋人が、一般的な支那人のイメージである。この不気味なフーマンチューは、英国人作家のサックス・ローマー(Sax Rohmer)が創り出した架空の支那人で、映画化されると意外なヒット作となり、人気シリーズ化されていたのだ。英国人俳優のクリストファー・リー(Christopher Lee)がフー・マンチュー演じていたから、ちょっとした映画通の日本人であれば、「あの俳優か!」と思い出すだろう。ちなみに、彼はモンスターの役が多く、1958年に公開された『ドラキュラ』で、主役の吸血鬼を演じていた俳優である。また、若い日本人には、『スターウォーズ』でアナキンとオビ=ワンと闘った元ジェダイの騎士、ドゥークー伯爵(Count Dooku)を演じたベテラン役者、と紹介すればピンと来るだろう。

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(左: 「フー・マンチュー」役  / 中央: 「ドラキュラ 」役  /  右: ドゥークー伯爵」役のクリストファー・リー)

  話を戻す。日清戦争後、敗北を喫した支那から沢山の清国人留学生がやって来たのはよく知られている。有名作家の魯迅もその内の一人で、彼は満洲族が漢族に押しつけた辮髪を殊のほか毛嫌いしていた。しかし、普通の支那人留学生は鈍感なのか、この怒れる医学生とは違って、自国の風習を気にせず、長い辮髪をクルクルっと頭に巻き付けて、その上から帽子をチョコンとを被せていたそうだ。この格好を見た当時の日本人は、滑稽さに堪えられず、彼らを「チャンチャン坊主」とからかったので、プライドの高い魯迅には相当な屈辱感になっていた。ちなみに、魯迅が自らの辮髪を切ったのは、日本に来てからのことである。異国に来て様々な苦悩はあったけど、魯迅は日本で近代文明を学び、日本人から多大な恩恵を受けていた。彼の息子である周海嬰は大の日本ファンで、日本の服装を身に纏い、口にする食べ物や薬も日本製を好んだそうで、とりわけ日本のチョコレートが大好物であったという。後進国の支那から来た若者にとって、日本は本当に憧れの先進国だった。

  日本や歐米諸国に住む支那人は、滅多に口にすることはないけど、支那人であることを心の片隅で恥じることが時折ある。昔の辮髪姿を思い出したくない、というのも一つの表れで、自分の祖先がみすぼらしい劣等民族であったことに我慢がならないのである。いくら4千年の歴史を有するとか、世界四大文明の一つとか言っても、同じ社会状況が何世紀ものあいだ、グルグルと螺旋状に廻っていただけで、目覚ましい進歩なんか有り得ず、停滞したままの惰眠社会というのが実態であった。清朝時代に支那大陸を訪れた西歐人や日本人が目にした支那というのは、糞尿が撒き散らかされた汚穢の大国といったところで、いくら建物に立派な文字が書かれていても、街中に鼻を突くような異臭が満ちていたから、孔子も論語もあったもんじゃない。上海を訪れた尾崎咢堂は、街中に充満する悪臭対策として、タバコをスパスパ吸って、自分の鼻を鈍感にさせていたそうだ。(「遊清記」、『尾崎行雄全集』第二巻、平凡社、大正15年)

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(左: 辮髪の支那人青年  /  右: 辮髪を切ってもうら支那人)

  第21世紀に入ってからというもの、支那人の流入が激化し、日本全国津々浦々に支那人の姿が現れるようになった。彼らの永住や帰化が増えれば、当然、支那人と結婚する日本人も増え、我が国の遺伝子プールに支那人の精子や卵子が混ざることになる。言うまでもなく、支那人の親を持つ混血児は日本で育つから、我々と同じように日本語を流暢に喋るが、彼らのナショナル・アイデンティティーが「日本人」になるのかどうかは定かではない。というのも、日支混血児は片親の血筋で以て大勢の支那人、すなわち祖父母、叔父伯母、従兄弟、遠い親戚と「同胞」になってしまい、いくら支那文化を拒絶しても、肉体的に支那人の仲間になってしまうのだ。日支混血児が親の支那名を避け、日本名を望むのは、支那人の血統を恥じているからだろう。支那人の母親を持っている子供は、訊かれない限り学校の友人に母親の素性を打ち明けないし、どうやって父親と出会い、結婚に至ったのかを話したくない。まさか、いかがわしい仲介業者の手引きで来日し、会話もできぬまま農民の父親と籍を入れた、なんて言えないじゃないか。話を聞いた友人は、密かに「それって、合法的な人身売買か、国籍売買じゃないの?」と思ってしまうからだ。もっとも、日本人はその場の「空気」を読んだり、「察し合い」の精神を持っているから、露骨な感想は述べない。

Chinese 0083Chinese Lesson to John Chinaman











(左: 支那移民を排斥するポスター  / 右: 支那人を茶化す風刺画 )

  そう言えば、在日支那人や進歩的文化人が「支那」という慣習的な国名を嫌い、「中国」という紛らわしい国名に“こだわる”のも、「野暮ったい支那」との絶縁を願うからじゃないのか。支那人といったら、汗と垢が皮膚にこびりついた苦力とか、長い口髭を生やした役人、実学を伴わない穀潰しの儒者、残忍非道の匪賊といったイメージしかない。大陸の何処を捜しても、日本人の模範にしたい「立派な支那人」なんか見当たらず、仮に居たとしても、それは紳士を装った詐欺師や極悪人だったりする。支那人の骨董商にかかれば日本人なんか赤児も同然で、闇市で仕入れた贋作を大切に取り扱い、「いやぁぁ、日本の旦那さん、ワタシの店に南宋時代の天目茶碗アルヨ。ワタシ日本人好きだから、アナタだけに内緒で売ってあげる ! 特別に安くするから、どう、買わないか? 」と囁いてくる。猜疑心の薄い日本人は、掘り出し物と錯覚し、精巧に作られた偽物を高値で買うと、茶碗を両手で抱えながら「得したなぁ」と無邪気に喜ぶ。一方、大儲けした支那商人は「日本人、単純ねぇ」とほくそ笑む。戦後、日本の骨董商に調べてもらって、「騙された !」と臍(ほぞ)を噛む日本人が如何に多かったことか。

  またもや脱線したので話を戻す。日本人が「中国」と言えば、広島とか岡山の地域を指す。固有名詞にも混乱が生じており、我々の日常会話にも支障をきたしている。例えば、「中国銀行」は日本の金融機関なのに北京にありそうな銀行名だし、「中国自動車道」と聞けば「上海か南京の幹線道路か?」と思ってしまうだろう。敗戦後、外務省が支那を「中国」と呼ぶよう指令を発したから、マスコミが追従し、一般国民も言い換えるようになったのだ。でも納得できない。大正時代にドイツ帝國が崩壊し、ワイマール共和国になったことがあるが、その時、日本人は態度を改めてドイツ人を「ワイマール人」とは呼ばなかった。オーストリアの言語も「ドイツ語」と呼び続け、「オーストリア語」とは呼ばなかったはずだ。しかし、現代の日本人は北京語や上海語を「中国語」と呼んでいる。それなら、オランダ語を「ゲルマン語」と呼べばいいのに、依然として慣習を守っているから何とも不思議だ。一般の日本人は、ヨーロッパ人に対しては率直にモノが言えるのに、支那人を前にすると急に遠慮がちになるんだから、心の底で支那人は「劣等民族」と思っているのだろう。

  支那人はどうして嫌われるのか? この疑問に対する答えはごまんとあり、説明し始めると長くなる。でも、一つだけ挙げるとすれば、支那人には「悪魔回路」が自然に備わっているという点だ。石ノ森章太郎の代表作、『人造人間キカイダー』を思い出してもらえば分かるけど、キカイダーの人間態ジローには不完全ながらも、最善の行為を取ろうとする「良心回路」が内蔵されていた。しかし、彼の宿敵「ハカイダー」には、キカイダーの破壊のみを目的とする「悪魔回路」が埋め込まれており、情け容赦なく殺戮の限りを尽くす。日本人は悪魔の囁きに悩みながらも「善き行い」を選ぼうと欲するが、支那人は悪魔を利用してまでも「私益」を得ようと図る。日本や米国に住みつく一般の支那人が、北京政府の工作員に躊躇わず協力するのも、銭を中心に物事を考えているからだ。国家への忠誠心とか公共利益の尊重といった精神は、支那人の頭にも辞書にも無い。しかも、倫理道徳は最低ときている。道路で子供や老人がクルマに轢かれたとき、即座に近寄って来るのは、人命救助のためではなく、所持品に金目の物があるかどうかを調べるためだ。日本人は「三人寄れば文殊の智慧」と言うが、支那人が三人集まれば窃盗団が結成され、分け前を巡って二名が命を落とす。

  日本人は昔から支那人と接触しているのに、ちょっと時間が経つと直ぐ忘れる癖がある。彼らの常識と我々の常識には異次元ほどの違いがある。例えば、支那には歴史的に兵匪や土匪が絶えなかったが、近代になって共産主義が浸透すると、共匪までもが出現し、地方の都市や農村を襲ったそうだ。共産党の方針は、狙った土地に暴動を企画して無産階級を扇動すると共に、小学校の教員や私塾講師を入党させ、幼い子供達に共産主義思想を注入しようと謀った。そこで第十八軍の第二師団が共匪掃討作戦に出たそうで、ある特務管䔥営長が容疑者として一人の私塾教師を捕縛し、色々な引っかけを用いて自白させたという。この捕囚によれば、幾多の教員は皆共産党に加盟して、宣伝工作に従事し、金銭までもらっていたそうだ。しかも、共産党が成功した曉には、百畝の田んぼと一軒の家、一人の妻を与えるという約束まであったという。(一色忠慈郎 『支那社会の表裏』 大阪屋號、 昭和6年 p.211)

Opium Chinese 2China old times 001








(左: 阿片を吸引する支那人  /  右: 刑罰を受ける支那人)

  これを聞いた日本人なら「えっっ、女房まで・・・!?」と驚いてしまうだろう。高校の先生は教えてくれないけど、支那では女が「景品」になっていたのだ。共産党に協力して金と家と女を頂戴するなんて呆れてしまうが、小学校教員の俸給は雀の涙ほどだったから、みんな共匪に従ったそうである。金銭の誘惑に弱い支那人は、倫理や神仏なんかどうでもよく、先ず以て現世の利益に傾く。「学校の先生なのに・・・」と思う日本人は甘い。支那大陸では警官や判事だって銭で動くから、「正義」という概念が始めから無い。日本では「嘘つきは泥棒の始まり」と言うが、支那人がこれを聞いたら「嘘つきが泥棒になって何が悪いんだ?」と逆に訊いてくるはずだ。支那人の日常生活で「嘘」は二酸化炭素よりも多いから、「嘘つき」という罵倒語は意味を成さない。日本ではヤクザでも仁義を守っているから、「オジキ! 話が違うじゃねえか!!」と仲間内で喧嘩になる。支那社会で正直なのは詐欺師くらいで、なぜ「正直者」かと言えば、一般の支那人と異なり「他人を騙す職業」との自覚を持っているからだ。

  先ほどの悪役「ハカイダー」も日本人の性格を持っていて、卑劣な騙し討ちではなく、一対一の決闘でキカイダーを倒そうとする。支那人の悪党なら毒殺という手段も有るだろう。しかし、それだと日本の子供たちは「卑怯者 !」と怒って、そっぽを向くから人気番組にならない。日本の時代劇でも同じで、本当に残虐な悪党は登場しないことになっている。例えば、子供を誘拐して身代金を要求するゴロツキの場合、せいぜい脅迫文を送りつけるくらいで、子供の指を切断するとか、片方の目玉を剔って親を脅しつけ、大金を催促するなんてことは有り得ない。(支那人の恐ろしい「肉票」については、拙書『支那人の卑史 朝鮮人の痴史』を呼んでね。) 長寿番組『遠山の金さん』も似たようなもので、御白洲に連れてこられた悪徳商人は、御奉行様の桜吹雪を目にして、「あっ、あの時の遊び人だ !」と思い出し、「もう駄目だ !」と観念するが、支那人ならば、「その入墨がどうしたんですか?」と質問し、決して自分の容疑を認めないだろう。だいたい、桜吹雪の入墨を見たって、「私には何のことやら分かりません」とシラを切ればいいだけだ。支那でのお裁きだと、事前に賄賂を渡しておけば無罪放免になる。お金で転ばない支那人はいないだろう。

  支那人に生まれることは本当に不幸だ。一般的に「支那人」と呼ばれる人々は、祖先が誰なのか分からないし、支那大陸というギャングランドに生きていた人というくらいの定義で、虐殺を生き延びた人々の子孫と思った方がいい。現在の支那人というのは、北方の遊牧民とか女真族、契丹人、蒙古人、ウィグル人、ペルシア人、山岳民族や南支の少数民族など、正体不明の雑種民族である。だから、支那人にとって「国家」というのは血族くらいで、いくら同じ大陸に住んでいようとも「支那国民」とは有名無実で、みんなが赤の他人だ。こうした支那人が日本に来て国籍を取得している訳だから、日系日本人を同胞と思わなくても当然だ。日本人だって如何にして帰化支那人を「日本人化」したらいいのか分からない。それよりも、こうした異邦人を受け容れてしまうと、我々の方が不利益を蒙ることになる。支那人の子が公立学校に混じってくると、支那人に遠慮した歴史教育になってしまうのだ。日本人教師は生徒の中に支那系の子供がいることで、本当の支那人を教える事ができなくなる。もし、具体的な過去を述べたら、日本人の子供はビックリするし、日支混血児は授業を休みたくなるだろう。したがって、日本の教師はなるべく不都合な歴史を避け、支那人生徒を傷つけない授業を行うことになる。日系日本人の「知る権利」は紙屑同然となり、外来生物の子供に配慮した教育方針になってしまうのだ。

  一般の日本国民は暢気だから気付かないけど、面子を重んずる支那系帰化人は、その恥ずかしい出自を隠すため、日系日本人に「支那人への罪悪感」を植え付け、赤裸々な支那人を詮索させないよう画策する。支那人は「攻撃は最大の防禦なり」と分かっているから、日本人の精神を徹底的に叩き潰し、自分たちが作った「思考の枠組み」に入れてしまうのだ。支那人が拵えた「考え方」に嵌まった日本人は、自分がどんな洗脳をされたのか解らないから、常に支那人が得意とする土俵で戦う破目になる。謀略戦や心理戦なら支那人の独壇場で、日本人ではとても勝つことができない。譬えて言うなら、寝技を不得意とするボクサーが総合格闘技に出場し、柔術の達人と試合をするようなもので、愚かなボクサーは相手のタックルを喰らって、不得意な寝技で闘う事になる。格闘技ファンなら、寝技に持ち込まず、立ち技だけで試合を進めた方がいい、と判断するが、教科書を丸暗記するだけの学校秀才には分からない。なぜなら、有利戦を知らない素人は、相手の得意技で不利になっている事すら分からないからだ。「ヘイト・スピーチ」に怯えている日本人は、支那人の得意分野に引きずり込まれていることに気付いていない愚者と同じ。支那人を撃退するには、日本人の方から積極的に攻撃を仕掛け、自分の得意分野で闘うことである。とににかく、我々は支那人や朝鮮人から「民族差別だ !」「人権蹂躙だ !」と非難されても、「それがどうした。お前らなんか目障りだ。国籍を取っても日本人じゃないぞ。さっさと差別の無い祖国に帰れ !」と反論すべきだ。アジア人というのは「タカリ」を専門とする総会屋とか、イチャモンをつけてくるヤクザと同じだから、怯んだ姿を見せてはならない。断固とした態度を示すのが闘いの基本である。
  



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