無敵の太陽

主要マスメディアでは解説されない政治問題・文化・社会現象などを論評する。固定観念では分からない問題を黒木頼景が明確に論ずる。

支那人

豚の尻尾が無い清国人 / 支那人であることが恥ずかしい (後編)

教科書に載せて全日本人に知らせたい現代史 支那人の卑史 朝鮮人の痴史
黒木 頼景
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現代風の清朝支那人

Jackie Chan 33
  最近ではすっかり落ち目になってしまったジャッキー・チェン(Jackie Chan)だが、1970年代末から80年代の映画雑誌では、頻繁に取り上げられた俳優である。現在の中学生や高校生にはピンと来ないだろうが、彼の人気は1978年に公開された『蛇拳』や『酔拳』で火が附いた。漫画『ドラゴンボール』に登場する「ジャッキー・チュン(亀仙人)」は、明らかにジャッキー・チェンがモデルで、願いを叶えてくれる大きなドラゴンの「シェンロン」も、ジャッキーの藝名「成龍(シェン・ロン)」から由来するものと推測できる。(ここでは関係無いけど、ジャッキーの娘エッタEtta Ng Chokがレズビアンと判明し、国際ニュースになった。父親のジャッキーはもう大激怒。両親の逆鱗に触れたエッタは勘当になり、今のところ「宿無し」なんだって。ホモの娘を持ったジャッキーも大変だ。こうなりゃドラゴンボールを集めて、「シェンロン」に「娘を正常にしてください」とお願いするしかないよねぇ。)

Etta Ng Chok 2Jackie Chan & Etta 2








(左: 母親のエレインと娘のエッタ・ン・チョク  /  右: パートナーと一緒のエッタ)

  我々が知るジャッキーの本名は「陳港生」なんだけど、日本では「チャン(陳)」ではなく「ちぇん」と呼ばれている。たぶん、映画会社が「ジャッキー・ちゃん」じゃマズいと思ったからだろう。しかし、彼の前から「アグネス・チャン」がいたから、「チャン」でもよさそうなものだが。あまり知られていないけど、ジャッキーは頻繁に名前を変えており、最初、本名から「陳元龍」にしたのだが、何かの理由で父親の氏族名を借りて「房仕龍」と改名し、しばらくしてから再び「成龍」へと変えたそうだ。(ジャッキーの母は「陳」という姓であった。) 1980年に公開された『ヤングマスター』では、ジャッキーの支那名が「成龍」と表示されていたので、「なんで、そんな漢字に?」と疑問に思った日本人は少なくなかったと思う。

  香港のカンフー映画と言えば、ブルース・リーの代表作『ドラゴンへの道』や『燃えよドラゴン』が真っ先に挙げられるけど、ジャッキーの映画はアクションであってもコミカルな作品が多い。しかも、時代背景は第20世紀後半の香港ではなく、清朝末期と思われる設定であった。彼の映画には常連俳優がいて、拳法の達人で放浪癖の師匠と言えば、決まってユエン・シャオティエン(袁小田)で、意地悪な兄貴分にはディーン・シェク(Dean Shek / 石天)が採用されていた。この師匠の吹き替えには、必ず小松方正さんが当たっていたので、彼以外の声だと違和感がある。昔の映画だと、特定の外人俳優と日本人声優がセットになっていて、馴染みの声優と異なる人が起用されることは滅多になかった。例えば、『刑事コジャック』のテリー・サヴァラス(Telly Savalas)の吹き替えは、森山周一郎が担当し、『刑事コロンボ』のピーター・フォーク(Peter Falk)だと男優の小池朝雄、『ダーティー・ハリー』のクリント・イーストウッド(Clint Eastwood)は「ルパン三世」でお馴染みの山田康雄といった具合だ。でも、意外なのは、『チャーリーズ・エンジェル』のシェリル・ラッド(Cheryl Ladd)を任されていた小山茉美が、『Dr.スランプ』のアラレちゃんを担当していたことだ。声の質というか、話し方がまるっきり違っていたけど、同一人物の吹き替えであったから驚いてしまう。ちなみに、『ドラゴンボール』に登場した「ランチ」の声も小山氏の担当であった。

  脱線したので話を戻す。『蛇拳』を劇場やテレビ観ていた日本人は、挌闘シーンに釘付けとなっていたが、映画で使われる妙な小道具に気がつく者は少なかったと思う。例えば、ジャーキー分する道場の門下生に色々と意地悪をする師範代の李(石天)が出てくるが、彼が手にしていたのは阿片を吸引するときに使う大きなキセルだった。映画の前半、この師範代が下っ端のジャッキーをからかい、愛用の喫煙パイプで殴るシーンがあったのだが、支那人には自然でも日本人には驚きだった。ただし、映画の中では明確にアヘン用パイプと判らないが、タバコを吸うための道具とは思えなかったので、支那人が好む吸引器と考えた方が妥当だ。日本人は阿片と聞けばゾっとするけど、支那人の苦力(クーリー)などは、疲労回復や気分転換として吸っていたから、決して極悪人だけの趣味ではない。戦前の日本人なら、支那大陸で阿片窟を覗いた人も多く、後藤朝太郎や細井肇などの本を読めば当時の様子が分かる。

Jackie Chan 2Dean Shek 1










(左: ジャッキーと師匠の袁小田  /  右: ディーン・シェク)

  ジャッキー・チェンの映画を観る日本人は、彼の素早い組み手や奇抜なアクションばかりに目を奪われるが、出演者たちの容姿にまで注目することはない。改めて映像を観てみると、ジャッキーはもとより、道場の門下生や街中の通行人、市場で仕事に励む商人、拳法を使って庶民を脅す悪党で、「辮髪(べんぱつ)」にしている人が居ないのだ。みんな現代風の髪型をしており、明治の日本にやって来た支那人みたいな出演者が居なかった。現在の日本人なら、図書館で昔の写真を閲覧することができるし、インターネットで捜せば、サンフランシスコに住みついた支那移民を撮した写真を見ることもできるだろう。前世紀のアメリカ人は彼らの辮髪を「豚の尻尾(pig tail)」と呼んでいて、移民排斥を訴える風刺画には、辮髪を垂らした狡猾な支那人や、その長い髪を引っ張るアメリカ人などが描かれていた。 米国では映画に出てくる「フー・マンチュー博士(Dr. Fu Manchu / 傅満洲)」みたいな東洋人が、一般的な支那人のイメージである。この不気味なフーマンチューは、英国人作家のサックス・ローマー(Sax Rohmer)が創り出した架空の支那人で、映画化されると意外なヒット作となり、人気シリーズ化されていたのだ。英国人俳優のクリストファー・リー(Christopher Lee)がフー・マンチュー演じていたから、ちょっとした映画通の日本人であれば、「あの俳優か!」と思い出すだろう。ちなみに、彼はモンスターの役が多く、1958年に公開された『ドラキュラ』で、主役の吸血鬼を演じていた俳優である。また、若い日本人には、『スターウォーズ』でアナキンとオビ=ワンと闘った元ジェダイの騎士、ドゥークー伯爵(Count Dooku)を演じたベテラン役者、と紹介すればピンと来るだろう。

Fu Manchu 1Christopher Lee 7Christopher Lee 4








(左: 「フー・マンチュー」役  / 中央: 「ドラキュラ 」役  /  右: ドゥークー伯爵」役のクリストファー・リー)

  話を戻す。日清戦争後、敗北を喫した支那から沢山の清国人留学生がやって来たのはよく知られている。有名作家の魯迅もその内の一人で、彼は満洲族が漢族に押しつけた辮髪を殊のほか毛嫌いしていた。しかし、普通の支那人留学生は鈍感なのか、この怒れる医学生とは違って、自国の風習を気にせず、長い辮髪をクルクルっと頭に巻き付けて、その上から帽子をチョコンとを被せていたそうだ。この格好を見た当時の日本人は、滑稽さに堪えられず、彼らを「チャンチャン坊主」とからかったので、プライドの高い魯迅には相当な屈辱感になっていた。ちなみに、魯迅が自らの辮髪を切ったのは、日本に来てからのことである。異国に来て様々な苦悩はあったけど、魯迅は日本で近代文明を学び、日本人から多大な恩恵を受けていた。彼の息子である周海嬰は大の日本ファンで、日本の服装を身に纏い、口にする食べ物や薬も日本製を好んだそうで、とりわけ日本のチョコレートが大好物であったという。後進国の支那から来た若者にとって、日本は本当に憧れの先進国だった。

  日本や歐米諸国に住む支那人は、滅多に口にすることはないけど、支那人であることを心の片隅で恥じることが時折ある。昔の辮髪姿を思い出したくない、というのも一つの表れで、自分の祖先がみすぼらしい劣等民族であったことに我慢がならないのである。いくら4千年の歴史を有するとか、世界四大文明の一つとか言っても、同じ社会状況が何世紀ものあいだ、グルグルと螺旋状に廻っていただけで、目覚ましい進歩なんか有り得ず、停滞したままの惰眠社会というのが実態であった。清朝時代に支那大陸を訪れた西歐人や日本人が目にした支那というのは、糞尿が撒き散らかされた汚穢の大国といったところで、いくら建物に立派な文字が書かれていても、街中に鼻を突くような異臭が満ちていたから、孔子も論語もあったもんじゃない。上海を訪れた尾崎咢堂は、街中に充満する悪臭対策として、タバコをスパスパ吸って、自分の鼻を鈍感にさせていたそうだ。(「遊清記」、『尾崎行雄全集』第二巻、平凡社、大正15年)

Chinese pig tail 3Chinese pig tale 1










(左: 辮髪の支那人青年  /  右: 辮髪を切ってもうら支那人)

  第21世紀に入ってからというもの、支那人の流入が激化し、日本全国津々浦々に支那人の姿が現れるようになった。彼らの永住や帰化が増えれば、当然、支那人と結婚する日本人も増え、我が国の遺伝子プールに支那人の精子や卵子が混ざることになる。言うまでもなく、支那人の親を持つ混血児は日本で育つから、我々と同じように日本語を流暢に喋るが、彼らのナショナル・アイデンティティーが「日本人」になるのかどうかは定かではない。というのも、日支混血児は片親の血筋で以て大勢の支那人、すなわち祖父母、叔父伯母、従兄弟、遠い親戚と「同胞」になってしまい、いくら支那文化を拒絶しても、肉体的に支那人の仲間になってしまうのだ。日支混血児が親の支那名を避け、日本名を望むのは、支那人の血統を恥じているからだろう。支那人の母親を持っている子供は、訊かれない限り学校の友人に母親の素性を打ち明けないし、どうやって父親と出会い、結婚に至ったのかを話したくない。まさか、いかがわしい仲介業者の手引きで来日し、会話もできぬまま農民の父親と籍を入れた、なんて言えないじゃないか。話を聞いた友人は、密かに「それって、合法的な人身売買か、国籍売買じゃないの?」と思ってしまうからだ。もっとも、日本人はその場の「空気」を読んだり、「察し合い」の精神を持っているから、露骨な感想は述べない。

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(左: 支那移民を排斥するポスター  / 右: 支那人を茶化す風刺画 )

  そう言えば、在日支那人や進歩的文化人が「支那」という慣習的な国名を嫌い、「中国」という紛らわしい国名に“こだわる”のも、「野暮ったい支那」との絶縁を願うからじゃないのか。支那人といったら、汗と垢が皮膚にこびりついた苦力とか、長い口髭を生やした役人、実学を伴わない穀潰しの儒者、残忍非道の匪賊といったイメージしかない。大陸の何処を捜しても、日本人の模範にしたい「立派な支那人」なんか見当たらず、仮に居たとしても、それは紳士を装った詐欺師や極悪人だったりする。支那人の骨董商にかかれば日本人なんか赤児も同然で、闇市で仕入れた贋作を大切に取り扱い、「いやぁぁ、日本の旦那さん、ワタシの店に南宋時代の天目茶碗アルヨ。ワタシ日本人好きだから、アナタだけに内緒で売ってあげる ! 特別に安くするから、どう、買わないか? 」と囁いてくる。猜疑心の薄い日本人は、掘り出し物と錯覚し、精巧に作られた偽物を高値で買うと、茶碗を両手で抱えながら「得したなぁ」と無邪気に喜ぶ。一方、大儲けした支那商人は「日本人、単純ねぇ」とほくそ笑む。戦後、日本の骨董商に調べてもらって、「騙された !」と臍(ほぞ)を噛む日本人が如何に多かったことか。

  またもや脱線したので話を戻す。日本人が「中国」と言えば、広島とか岡山の地域を指す。固有名詞にも混乱が生じており、我々の日常会話にも支障をきたしている。例えば、「中国銀行」は日本の金融機関なのに北京にありそうな銀行名だし、「中国自動車道」と聞けば「上海か南京の幹線道路か?」と思ってしまうだろう。敗戦後、外務省が支那を「中国」と呼ぶよう指令を発したから、マスコミが追従し、一般国民も言い換えるようになったのだ。でも納得できない。大正時代にドイツ帝國が崩壊し、ワイマール共和国になったことがあるが、その時、日本人は態度を改めてドイツ人を「ワイマール人」とは呼ばなかった。オーストリアの言語も「ドイツ語」と呼び続け、「オーストリア語」とは呼ばなかったはずだ。しかし、現代の日本人は北京語や上海語を「中国語」と呼んでいる。それなら、オランダ語を「ゲルマン語」と呼べばいいのに、依然として慣習を守っているから何とも不思議だ。一般の日本人は、ヨーロッパ人に対しては率直にモノが言えるのに、支那人を前にすると急に遠慮がちになるんだから、心の底で支那人は「劣等民族」と思っているのだろう。

  支那人はどうして嫌われるのか? この疑問に対する答えはごまんとあり、説明し始めると長くなる。でも、一つだけ挙げるとすれば、支那人には「悪魔回路」が自然に備わっているという点だ。石ノ森章太郎の代表作、『人造人間キカイダー』を思い出してもらえば分かるけど、キカイダーの人間態ジローには不完全ながらも、最善の行為を取ろうとする「良心回路」が内蔵されていた。しかし、彼の宿敵「ハカイダー」には、キカイダーの破壊のみを目的とする「悪魔回路」が埋め込まれており、情け容赦なく殺戮の限りを尽くす。日本人は悪魔の囁きに悩みながらも「善き行い」を選ぼうと欲するが、支那人は悪魔を利用してまでも「私益」を得ようと図る。日本や米国に住みつく一般の支那人が、北京政府の工作員に躊躇わず協力するのも、銭を中心に物事を考えているからだ。国家への忠誠心とか公共利益の尊重といった精神は、支那人の頭にも辞書にも無い。しかも、倫理道徳は最低ときている。道路で子供や老人がクルマに轢かれたとき、即座に近寄って来るのは、人命救助のためではなく、所持品に金目の物があるかどうかを調べるためだ。日本人は「三人寄れば文殊の智慧」と言うが、支那人が三人集まれば窃盗団が結成され、分け前を巡って二名が命を落とす。

  日本人は昔から支那人と接触しているのに、ちょっと時間が経つと直ぐ忘れる癖がある。彼らの常識と我々の常識には異次元ほどの違いがある。例えば、支那には歴史的に兵匪や土匪が絶えなかったが、近代になって共産主義が浸透すると、共匪までもが出現し、地方の都市や農村を襲ったそうだ。共産党の方針は、狙った土地に暴動を企画して無産階級を扇動すると共に、小学校の教員や私塾講師を入党させ、幼い子供達に共産主義思想を注入しようと謀った。そこで第十八軍の第二師団が共匪掃討作戦に出たそうで、ある特務管䔥営長が容疑者として一人の私塾教師を捕縛し、色々な引っかけを用いて自白させたという。この捕囚によれば、幾多の教員は皆共産党に加盟して、宣伝工作に従事し、金銭までもらっていたそうだ。しかも、共産党が成功した曉には、百畝の田んぼと一軒の家、一人の妻を与えるという約束まであったという。(一色忠慈郎 『支那社会の表裏』 大阪屋號、 昭和6年 p.211)

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(左: 阿片を吸引する支那人  /  右: 刑罰を受ける支那人)

  これを聞いた日本人なら「えっっ、女房まで・・・!?」と驚いてしまうだろう。高校の先生は教えてくれないけど、支那では女が「景品」になっていたのだ。共産党に協力して金と家と女を頂戴するなんて呆れてしまうが、小学校教員の俸給は雀の涙ほどだったから、みんな共匪に従ったそうである。金銭の誘惑に弱い支那人は、倫理や神仏なんかどうでもよく、先ず以て現世の利益に傾く。「学校の先生なのに・・・」と思う日本人は甘い。支那大陸では警官や判事だって銭で動くから、「正義」という概念が始めから無い。日本では「嘘つきは泥棒の始まり」と言うが、支那人がこれを聞いたら「嘘つきが泥棒になって何が悪いんだ?」と逆に訊いてくるはずだ。支那人の日常生活で「嘘」は二酸化炭素よりも多いから、「嘘つき」という罵倒語は意味を成さない。日本ではヤクザでも仁義を守っているから、「オジキ! 話が違うじゃねえか!!」と仲間内で喧嘩になる。支那社会で正直なのは詐欺師くらいで、なぜ「正直者」かと言えば、一般の支那人と異なり「他人を騙す職業」との自覚を持っているからだ。

  先ほどの悪役「ハカイダー」も日本人の性格を持っていて、卑劣な騙し討ちではなく、一対一の決闘でキカイダーを倒そうとする。支那人の悪党なら毒殺という手段も有るだろう。しかし、それだと日本の子供たちは「卑怯者 !」と怒って、そっぽを向くから人気番組にならない。日本の時代劇でも同じで、本当に残虐な悪党は登場しないことになっている。例えば、子供を誘拐して身代金を要求するゴロツキの場合、せいぜい脅迫文を送りつけるくらいで、子供の指を切断するとか、片方の目玉を剔って親を脅しつけ、大金を催促するなんてことは有り得ない。(支那人の恐ろしい「肉票」については、拙書『支那人の卑史 朝鮮人の痴史』を呼んでね。) 長寿番組『遠山の金さん』も似たようなもので、御白洲に連れてこられた悪徳商人は、御奉行様の桜吹雪を目にして、「あっ、あの時の遊び人だ !」と思い出し、「もう駄目だ !」と観念するが、支那人ならば、「その入墨がどうしたんですか?」と質問し、決して自分の容疑を認めないだろう。だいたい、桜吹雪の入墨を見たって、「私には何のことやら分かりません」とシラを切ればいいだけだ。支那でのお裁きだと、事前に賄賂を渡しておけば無罪放免になる。お金で転ばない支那人はいないだろう。

  支那人に生まれることは本当に不幸だ。一般的に「支那人」と呼ばれる人々は、祖先が誰なのか分からないし、支那大陸というギャングランドに生きていた人というくらいの定義で、虐殺を生き延びた人々の子孫と思った方がいい。現在の支那人というのは、北方の遊牧民とか女真族、契丹人、蒙古人、ウィグル人、ペルシア人、山岳民族や南支の少数民族など、正体不明の雑種民族である。だから、支那人にとって「国家」というのは血族くらいで、いくら同じ大陸に住んでいようとも「支那国民」とは有名無実で、みんなが赤の他人だ。こうした支那人が日本に来て国籍を取得している訳だから、日系日本人を同胞と思わなくても当然だ。日本人だって如何にして帰化支那人を「日本人化」したらいいのか分からない。それよりも、こうした異邦人を受け容れてしまうと、我々の方が不利益を蒙ることになる。支那人の子が公立学校に混じってくると、支那人に遠慮した歴史教育になってしまうのだ。日本人教師は生徒の中に支那系の子供がいることで、本当の支那人を教える事ができなくなる。もし、具体的な過去を述べたら、日本人の子供はビックリするし、日支混血児は授業を休みたくなるだろう。したがって、日本の教師はなるべく不都合な歴史を避け、支那人生徒を傷つけない授業を行うことになる。日系日本人の「知る権利」は紙屑同然となり、外来生物の子供に配慮した教育方針になってしまうのだ。

  一般の日本国民は暢気だから気付かないけど、面子を重んずる支那系帰化人は、その恥ずかしい出自を隠すため、日系日本人に「支那人への罪悪感」を植え付け、赤裸々な支那人を詮索させないよう画策する。支那人は「攻撃は最大の防禦なり」と分かっているから、日本人の精神を徹底的に叩き潰し、自分たちが作った「思考の枠組み」に入れてしまうのだ。支那人が拵えた「考え方」に嵌まった日本人は、自分がどんな洗脳をされたのか解らないから、常に支那人が得意とする土俵で戦う破目になる。謀略戦や心理戦なら支那人の独壇場で、日本人ではとても勝つことができない。譬えて言うなら、寝技を不得意とするボクサーが総合格闘技に出場し、柔術の達人と試合をするようなもので、愚かなボクサーは相手のタックルを喰らって、不得意な寝技で闘う事になる。格闘技ファンなら、寝技に持ち込まず、立ち技だけで試合を進めた方がいい、と判断するが、教科書を丸暗記するだけの学校秀才には分からない。なぜなら、有利戦を知らない素人は、相手の得意技で不利になっている事すら分からないからだ。「ヘイト・スピーチ」に怯えている日本人は、支那人の得意分野に引きずり込まれていることに気付いていない愚者と同じ。支那人を撃退するには、日本人の方から積極的に攻撃を仕掛け、自分の得意分野で闘うことである。とににかく、我々は支那人や朝鮮人から「民族差別だ !」「人権蹂躙だ !」と非難されても、「それがどうした。お前らなんか目障りだ。国籍を取っても日本人じゃないぞ。さっさと差別の無い祖国に帰れ !」と反論すべきだ。アジア人というのは「タカリ」を専門とする総会屋とか、イチャモンをつけてくるヤクザと同じだから、怯んだ姿を見せてはならない。断固とした態度を示すのが闘いの基本である。
  



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アジア人役者だらけのチャイナ映画 / 支那人であることが恥ずかしい (前編)

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主要配役がみんなアジア人

Crazy Rich Asians 1











(写真  / 「クレイジー・リッチ・エイジア」ン」のキャストたち )

  戦後から平成の初めくらいまで、日本で「洋画」と言えばハリウッ映画で、次々とヒット作や名作が生まれるほど勢いがあった。ところが、最近は感動作が少なくなり、ネタ切れかと思えるほど凋落している。確かに、巨大な制作費を掛け、ふんだんにCGを使っているから、映像だけは鮮やかで豪華だ。しかし、感動が無い。アクション映画は派手なだけで深みが無いし、ラヴ・コメディーを見てもユダヤ人の下品な笑いがてんこ盛りである。しかも、政治的配慮により、銀幕に映し出される役者はストーリーとは関係無く、意図的に黒人やヒスパニックにされているのだ。手荒な殺人鬼や麻薬の売人は白人にする一方で、正義漢に燃えた弁護士や愛国心に篤いFBI捜査官、優秀な大学教授あるいは科学者などは不思議と黒人になっている。現実のアメリカ社会を見れば「えぇぇ~、違うじゃん !」と言いたくなるが、黒人俳優に知能が低いチンピラ役をあてがうと妙にリアルだからNG。

  人権派やソフト左翼が定番のハリウッド役者たちは、心にもなく“現実の社会”を反映するよう、黒人やヒスパニック、アジア人の俳優を起用しろと叫ぶ。が、都合の悪い「現実」には目を閉ざして沈黙を守っている。例えば、北歐系の白人女性を狙って強姦する黒人やアラブ人とか、仲間同士になると黒人を馬鹿にするユダヤ人などは絶対に題材とならず、企画段階で却下だ。また、ヒスパニック国民の比率が上昇した今日だと、不法移民を扱う映画は、“良き”南米人を描かねばならない。メキシコとかホンデュラスから密入国する外来生物は、祖国で頻発する暴力や腐敗から逃れてくる弱者で、アメリカ人が嫌がる3K職場で文句を言わず、真面目に働く勤労者となっている。劣悪な現場で汗をかくメキシコ人のオヤジは、不法滞在を続ける愛しい家族のため、身を粉にして働く大黒柱だ。そして、彼の娘や息子は英語を話せない両親を助ける親孝行な子供であり、地元の学校に通って優秀な成績を収め、大学にまで進もうとする立派な生徒。ハンディキャップを克服して就職した移民は、白人の偏見にもめげず、日夜努力して出世を成し遂げる、といったシナリオが多い。

  一方、不法入国者の外人が辿り着いた田舎町には、人種差別に満ちた白人が住んでおり、真面目に暮らすヒスパニックを迫害したり、白眼視する冷酷な人物として描かれている。ハリウッドの左翼にとって密入国は深刻な犯罪ではなく、日常よくあるスピード違反や駐車禁止よりも軽い「過ち」なのだ。ICE(入国管理局)に怯えながら暮らすヒスパニックは、いつも弱者で家族思いの善人となっているが、摘発する白人の連邦職員は杓子定規の冷血漢。人気TVドラマの「CSI : マイアミ」には、不法移民を扱ったエピソードがあったけど、やはり悪人は意地悪な南部の白人で、被害者は心優しい黒髪のメキシコ人という筋書きである。劇場で観る映画でも不法移民に同情的な脚本が多く、ハリソン・フォードが出演した『正義のゆくえI.C.E.特別捜査官(Crossing Over)』はリベラル派の宣伝映画といっても過言ではない。

  毎度のことだけど、この作品はユダヤ人監督のウェイン・クレイマー(Wayne Kramer)が脚本を手掛け、配給会社はこれまたユダや系の「ワインシュタイン・カンパニー」であった。プロフィール上、クレイマーは南アフリカ出身の作家兼監督と紹介されるが、その種族にまで言及されることは滅多にない。だから、大半の日本人は彼がユダヤ人ということを知らずに作品を観ている。日本の保守系雑誌は米国の事情を“さらり”と述べるだけで、アメリカで有名な論客や学者を紹介することはないから、一般国民は井の中の蛙(かわず)といったところだ。例えば、弁護士でコラムニストのデビー・シュラッセル(Dabbie Schlussel)は、クレイマーのプロパガンダ映画に憤慨し、自身のブログで彼の正体をバラしていた。しかし、日本の映画評論家たちは一切触れることはなかったし、これからもないだろう。(チャンネル桜の前田有一に期待しても無駄である。) ユダヤ系保守派のデイヴッド・ホロウィッツ(David Horowitz)と組むダニエル・グリーンフィールド(Daniel Greenfield)もクレイマーの偽善について暴露記事を書いていたが、『WiLL』や『正論』で紹介されることはなかった。(たぶん、そう思うけど、あったらご勘弁を。)

Debbie Schlussel 1Daniel Greenfield 2









(左: デビー・シュラッセル  /  右: ダニエル・グリーンフィールド)

  ついでに言えば、主役のハリソン・フォードがユダヤ系なのはもちろんのこと、共演者がこれまたすごかった。あの極左俳優のショーン・ペン(Sean Penn)が国境警備隊の役を演じていたのだ。それにしても、我々が観ている「アメリカ映画」なるものは、本当にアングロ・アメリカを反映する作品なのか? なぜなら、ユダヤ人が物語を作って、ユダヤ人役者が演じ、ユダヤ系メディアが宣伝して、ユダヤ人の配給会社が上映し、ユダヤ人批評家が絶讃したりする。これじゃぁ、どこが「アメリカ映画」なのかよく分からない。映画に限らず、製品の質と生産地は「別」と考えるべきだ。例えば、正体不明の雑種牛を神戸で飼育しても、本物と同じA5等級の神戸牛になる訳じゃない。駄馬やロバをイエメンで育てても、高額なサラブレッドにならないのと同じ理屈である。

Wayne Kramer 3Harrison Ford 2Sean Penn 1









(左: ウェイン・クレイマー  / 中央: ハリソン・フォード  / 右: ショーン・ペン )

  こうしたハリウッドでは、あらたな潮流が生まれているそうだ。最近、アジア人俳優を主役にした『クレイジー・リッチ・エイジアンズ(Crazy Rich Asians)』という映画が公開された。この作品はシンガポール生まれの作家であるケヴィン・クワン(Kevin Kwan)の小説を基にした映画で、メイン・キャラクターを含めた役柄が皆アジア人ということで話題になっている。通常、映画のメ主役を張るのは西歐系アメリカ人で、アジア人の役者はよくて準主役、特別な事情がなければ単なる「脇役」程度が定番だ。ところが、米国におけるアジア人の台頭を計算したのか、映画会社がアジア人役者で固めた作品にGOサインを出した。

Kevin Kwan 1(左  / ケヴィン・クワァン )
  原作者のケヴィン・クウァンはシンガポール生まれの支那人で、裕福な華僑の家族のもとで育ったお坊ちゃん。(Lauren Christiansen, "Crazy Rich Asians Author Kevin Kwan on the Lavish Culture of Asia's Upper Crust : The Reality Is Simply Unbelievable", Vanity Fair, June 11, 2013) 彼の曾祖父はシンガポールで最も古い金融機関「華僑銀行」を設立した人物であるという。ケヴィンの小説には、子供時代に起きたエピソードが幾つか盛り込まれているそうで、上流階級の思い出話といったところだ。富裕層に生まれた華僑の子供らしく、ケヴィンは英国風の学校に通い、外見は支那人でも中身は西歐人と思い込んでいる。(いくら英語を流暢に話せるからといって、イギリス人になれる訳じゃないのに、支那人というのは「形式」さえ整っていれば「俺様は英国的紳士」と考えてしまう。実にふてぶてしい連中だ。) ただし、名誉の観念は育たなかったようで、彼は徴兵逃れをしてシンガポール政府から睨まれている。たぶん、懲役を避けたいから罰金で済まそうという考えだ。いかにも支那人らしい発想である。

  映画化された『クレイジー・リッチ・エイジアン』は、一応米国のテレビ局で取り上げられたが、煌(きら)びやかなセットが満載なだけで、肝心のストーリー自体は至って平凡。しかし、左翼リベラルの評論家たちは大絶賛で、出演者たちの才能を褒めちぎっていた。まぁ、アジア人とか黒人を持ち上げることで、「私はレイシストじゃありませんよ !」というメッセージを発しているのだろう。まさか、「こんなつまらない映画なんてお金の無駄使いだ。でも、劇場で昼寝をしたい人はどうぞ !!」と言える訳がない。アジア系アメリカ人からの反応を考慮すれば、嫌でも「推薦」するしかないし、正直に酷評したって利益はないどころか、仕事が減ってしまうから絶対に駄目。日本だって似たようなもので、普段は“辛口”の映画評論家「おすぎ」も、配給会社の意向を察知すると嘘八百のお世辞を述べるらしい。ただ、どうしょうもない駄作の場合は、「セットやキャスティングがとても豪華」と褒めて、作品自体の「質」には触れないよう心掛けている。そう言えば、「食いしん坊万歳」に出ていた梅宮辰夫が言っていたけど、嫌いな郷土料理が出ると、「歯ごたえがありますねぇ~」とお茶を濁し、決して「味」については言及しなかったうだ。だって、料理を作ってくれた人を前にして、素直に「えぇぇ~、こんなの気持ち悪くて食えないよぉぉ~」とは言えまい。嘘も方便だけど、正直は美徳にならず、ということだ。

  批評家の「お墨付き」を得たクウォンの映画は、どこにでもありそうな恋愛コメディーで、昔からあるハリウッド映画のアジア版に過ぎない。特徴といったら、役者を黄色人種にしただけ。もし、これが白人役者を登用した作品なら、全米ロードショーで必ずや失敗するタイプのラヴ・コメで、DVDレンタル専用のB級映画といった感じである。(有名な「ラジー賞Razzie Awards」にノミネートされるんじゃないか。) 映画のストーリーを簡単に言えば、台湾系女優のコンスタンス・ウー(Constance Wu)が演じるレイチェル・チューは、訪問先のシンガポールで文化ギャップに遭遇し、大変な経験をしながらも現地の人々と心を通わせる、というストーリーだ。彼女はニューヨーク大学で経済を教える教授で、同僚の大学教授ニック・ヤングと恋仲となる。そして、ニックと結婚するレイチェルは、シンガポールに住む彼の母親エレノアを訪ねることになるのだが、将来の義母とアメリカ人のフィアンセは育ちや考え方で食い違う。これもよくあるハリウッド製ラブ・コメの設定だ。当初はぎこちない二人だが、やがてエレノアとレイチェルは理解し合う仲となり、エレノアは息子の嫁としてレイチェルを受け容れる。

Constance Wu 2Henry Golding 2Michelle Yeoh 3








(左: コンスタンス・ウー  / 中央: ヘンリー・ゴールディング  /  右: ミッシェル・ヨー)

  お金持ちの坊ちゃん「ニック」を演じるのはマレーシア人男優のヘンリー・ゴールディング(Henry Golding)で、彼は8歳の時イングランドに移住し、大人になってからクアラルンプールに戻って理容師になったという異色の人物だ。一方、不動産業を営む母エレノアを演じたのは支那人女優のミッシェル・ヨー(Michelle Yeoh)で、彼女の出世作と言えば、「007 / トゥモーロー・ネヴァー・ダイ(Tomorrow Never Die)」であろう。ピアース・ブロスナン演じるジェイムズ・ボンドに協力する支那人エージェント役をこなしていた女優である。もっとも、邦画ファンの人には、『SAYURI』の藝者「豆葉(まめは)」を演じた女優として馴染みがあるんじゃないか。この作品では、支那人女優のチャン・ツッィーが主役を務め、共演者には渡辺謙や桃井かおりがいた。ちなみに、この映画はロブ・マーシャルが監督を務めたが、当初、スティーヴン・スピルバーグも興味を示していたという。しかし、友人の映画プロデューサーであるデイヴィッド・ゲフェン(映画会社「ドリーム・ワークス」のユダヤ人)が難色を示し、「嫌な予感がするから、やめておけ !」と助言したそうだ。案の定、『SAYURI(ゲイシャの回想)』はヒットせず、失敗作の烙印が押されて、日本人の記憶からも消え去って行く。さすが、ユダヤ人は同胞の仕事に関しては、偽善的なリベラリストにならず、冷徹なリアリストになる。

Ziyi Zhang 2John Chu 1









(左: チャン・ツッィー  /  右: ジョン・チュー)

  こんな下らない映画を絶讃する評論家なんて、口にするのも穢らわしいが、制作者側にもトンデモない奴が潜んでいた。監督を務めたのはジョン・チュウ(Jon M. Chu / 朱浩偉)という支那系アメリカ人で、『G.I. Joe バック2リベンジ』を手掛けた人物だ。ただし、この続編は興行収入の面で成功したけど、内容的には陳腐の一言に尽きる。要するに、コンピュータ技術をふんだんに使って豪華にしただけのアクション作品だ。卑屈なコメンテイターにはウケたようだが、独立系の批評家からは厳しい評価を受けたらしい。監督もさることながら、『クレイジー・リッチ・エイジアン』のプロデューサーは、もっともっと凄い人物で、ニーナ・ジェイコブソン(Nina Jacobson)という大御所である。彼女は以前、ディズニー社のスタジオ重役を務めており、映画の『パールハーバー』や『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズを手掛けていたことで、その名を轟かせている。しかし、彼女もリストラの嵐に遭ってしまい、ディズニー社をクビになった。しかし、遣り手の女プロデューサーは挫けなかった。ジェイコブソンは独自の映画スタジオ「カラー・フォース(Color Force)」を設立し、大ヒット映画の『ハンガー・ゲイムズ』を生み出すことになった。

Nina Jacobson 2Bruce Cohen & Dan Jinks









(左: ニーナ・ジェイコブソン  /  右: ゲイ・プロデューサーのブルース・コーウンとダン・ジンクス)

  ただし、ジェイコブソンは敏腕プロデューサーであるが、人権を掲げる典型的な極左ユダヤ人。おまけにレズビアンときている。同居するパートナー(女房?)は同業者のジェン・ブリークリー(Jen Bleakley)という女性で、娘のジョジーと息子のノアという二人の子供を育てている。さらに、藝能界にいる同性愛者LGBTのために「アウト・ゼア(Out There)」という組織まで作ったそうだ。刮目すべきは、この団体を一緒に設立したユダヤ人プロデューサーのブルース・コーエン(Bruce Cohen)である。彼は同性愛者が登場する映画『アメリカン・ビューティー』や『ミルク』を手掛けたことでも有名だ。ハリウッドのユダヤ人は、どうしてキリスト教徒が作った西歐社会でゲイやレズビアンを大切にするのか? 保守的なヨーロッパ人を批判する前に、ホモを毛嫌いするユダヤ人社会で同性愛者の「人権」とやらを叫べばいいのに、ことさら異教徒の国で同性愛を擁護する。ユダヤ人には革命家が多いから、けったいな問題児はユダヤ人社会に封印すべきだ。ちょうど、兇暴なブラックバスは美しい琵琶湖に入れず、ブルーギルやピラニアがウジャウジャいる肥溜めに閉じ込めて、共食いさせる方が良いのと一緒。ユダヤ人同士の喧嘩は見物である。

  それにしても、朝鮮人同様、支那人は嘘で固めた映像を作るのが上手で、自分を偉大に見せたいとする虚栄心に満ちている。原作者のクウァンは西歐人への劣等感に苛まれているのか、「シンガポールはマレーシアでもなければ、支那でもない。俺たちの国はもはや小さな漁村じゃないんだ !」と粋がっていた。(Tessa Wong, "Crazy Rich Asians : The film burdened with crazy Asian expectations", BBC News, 18 August 2018) 映画の中では登場人物のアジア人が豪華な邸宅に住み、高級な服に身を包んで、華やかなパーティーを楽しんでいるが、そんな光景はヨーロッパ貴族の生活を再現して、アジア人に置き換えただけの紛い物である。つまり、シンガポールの華僑による稚拙な猿真似ということだ。例えば、白人に憧れる支那人の娘が、どうしても西歐人になりたいと望み、豪華なドール・ハウスを買ってきて、金髪のバービー人形ではなく、アジア人のフィギュアを入れて喜んでいたら、歐米人と日本人はどう思うのか?

  とにかく、支那人はカナダ籍を取得しようが、アングロ・カナダ人にはなれないし、在米歴が半世紀に及んでもワスプ(WASP)にはなれない。よく華麗な在米生活を送る支那人が、白人気取りで流暢な英語を話しているが、たとえブリテン風アクセントで喋っても、所詮それは彼らの言語じゃなく、借りてきた他人の母語である。「選択の自由」を与えられた日本人が英語を学ぼうとすれば、十中八九、支那系アメリカ人ではなく西歐系アメリカ人を選ぶし、英国史を勉強しようとすれば、インド人やエジプト系ブリテン人ではなく、アングロ・サクソン系の教師を望むはずだ。クルマ選びも同じで、ポルシェやBMWを買うときに、ディーラーから「支那製にしますか、それともドイツ人が作ったものにしますか?」と尋ねられれば、絶対に「ドイツ製の方を」と答えるだろう。せっかく大金を叩いて買う高級車が、「メイド・イン・チャイナ」じゃ厭になる。(それに、支那製だと欠陥車かも知れないので不安だ。高速走行中にタイヤが外れそうで怖い。) アメリカ人だって支那製の星条旗では不満だ。やはり、合衆国の国旗はアメリカ製でなきゃ。

Katy Perry 2Christina Aguilera 2Kylie Minogue 1Justin Timberlake 2








(左: ケイティー・ペリー  / クリスティーナ・アギュレラ  / カイリー・ミノーグ  /  右: ジャスティン・ティンバーレイク )

  朝鮮人のポップ音楽にウンザリした日本人なら、支那人の茶番劇を観てアホらしく思ってしまうが、次第に「憐れだなぁ」と思えてくる。しかし、西歐人を気取った朝鮮人だと永遠に分からない。南鮮からやって来るポップ歌手は、ブリトニー・スピアーズ(Britney Spears)やクリスティーナ・アギュレラ(Christina Aguielera)、ケイティー・ペリー(Katy Perry)、カイリー・ミノーグ(Kylie Minogue)、ジャスティン・ティンバーレイク(Justin Timberlake)などを手本にして、いかにもアメリカ風味のミュージック・ビデオを制作しているが、アメリカ人が見れば「猿のコピー・キャット」にしか思えず、大爆笑間違いなし。支那人だらけのラヴ・ロマンスも同じで、お金を払って観るほどの代物じゃない。よく支那人の映画制作者は、西歐白人ばかりが主役で現実の多民族社会を反映しておらず、全く以て「けしからん!」と怒るが、じゃぁ、支那人を主役にしたらヒット作になるのか? カンフー映画なら大丈夫だろうが、ロマンティック・コメディーじゃ間が持たない。5分で飽きる。

Megan Boone 2Kathryn Morris 2Stana Katic 3Emily Deschanel 3








(左: メーガン・ブーン  /  キャスリン・モリス / スタナ・カティク  /  右: エミリー・デシャネル )

  いくら支那人が多いアメリカとはいえ、支那人の女優を看板にしてドラマを作ったら自爆作品になってしまうだろう。例えば、女性を主役にしたTVドラマだと、圧倒的に白人女性が抜擢されている。日本でも人気が出たドラマ・シリーズを思い出せば分かるじゃないか。例えば、『ボーンズ』のエミリー・デシャネル(Emily Deschanel)とか、『コールド・ケース』のキャスリン・モリス(Kathryn Morris)、『キャッスル』のスタナ・カティク(Stana Katic)、『ブラックリスト』のメイガン・ブーン(Magan Boone)などを見れば明らかだ。それに、現実をよく解っているユダヤ人制作者は、主役級のキャラクターに支那人を起用することはない。かつて、ラヴ・コメの女王といったらメグ・ライアン(Meg Ryan)で、彼女が出演した映画『恋人たちの予感(When Harry Met Sally)』は日本でもヒットした。この作品を手掛けたのはユダヤ人監督のロブ・ライナー(Rob Reiner)で、「ハリー」役にはユダヤ人コメディアンのビリー・クリスタル(Billy Crystal)が起用されていた。もし、恋人の「サリー」役にミッシェル・ヨーが抜擢されていたら、誰も見に行かず、劇場には閑古鳥が鳴いていたことであろう。そもそも、冴えないユダヤ人の男とマレーシア生まれの支那人女が惚れ合ったからといって、何が面白いのか? ユダヤ人の観客でさえ興味が湧かず、別の映画を観に行こうと考えるはずだ。

Rob Reiner 1Meg Ryan 1Billy Crystal 2









(左: ロブ・ライナー  / 中央: メグ・ライアン  / 右: ビリー・クリスタル )

  支那人監督の夢が叶ってアジア人主体のハリウッド映画を制作できたけど、本当に楽しんだアジア系観客は、いったい何人いたことか。日本には自らを「アジア人」と思い込んでいる国民が結構いるけど、こうした映画を観て心から共感するお客が多いとは思えない。アメリカで作られた「洋画」なのに、出演者が支那人やマレー人ばかりじゃ、ボリウッド(インド)映画と大した違いは無いだろう。せいぜい地上波テレビでの無料放送が期待されるくらいで、それすら観ない人が大半なんじゃないか。日本を舞台にした『SAYURI』で、チャン・ツッイーが京都の藝者を演じていたけど、それなら故・夏目雅子とか黒谷友香、吉瀬美智子といった日本人女優の方がよっぽど適している。(いま人気の若手女優は誰なのか分からない。 ) 何はともあれ、支那人が日本人を演じると、何となく香港映画に見えてしまう。アメリカ人は気にならないが、日本人が観るとやはり違和感がある。NHKや朝日新聞は頻繁に「アジアの中の日本」と言うが、庶民感覚からすれば「アジアから外れた日本」という気がしてならない。支那人を愛する左翼分子は、遠慮無く日本国籍を捨てて、さっさと憧れの支那に移住すべきだ。

  後編に続く。

 

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