無敵の太陽

主要マスメディアでは解説されない政治問題・文化・社会現象などを論評する。固定観念では分からない問題を黒木頼景が明確に論ずる。

女性について

フェミニストの偶像だったワンダー・ウーマン

女性学はマルクス思想が基本

  フェミニズムは共産主義思想から由来する。一般人だと、このフェミニズムを深刻に考えていないから、女性の地位を向上させる勉強だし、いいんじゃないか、と単純に認めてしまう。しかし、女性学とは決して女性のための学問ではない。実態はその逆だ。女性を不幸にさせる奸計(かんけい)である。保守派の国民でも余り分かっていないが、共産主義とは「人間改造」を通して社会を変質させるイデオロギーなのだ。我々はコミュニズムと聞けば、私有財産の否定とか、生産手段の国有化と考えがちである。しかし、そんなのは「人間改造」が進んでからの強奪であり、こうした犯罪を許す素地をつくる為の精神破壊が、共産主義者にとって必要なのだ。共産主義者は、ある意味、武闘派と謀略派という役割分担がある。ロシアや支那、キューバでゴロツキどもを使い、暴力革命を起こしたのが武闘派だとすれば、英国を始めとする西欧諸国で、国民道徳を腐蝕させて静かに国家を乗っ取るのが謀略派であろう。我が国の場合だと、たとえば、左翼教師が皇室を罵倒することで、日本国民の団結力を削ぎ、君臣の離反が起こったところで、一気に皇室を潰すつもりたのだ。また、赤い民法学者が家族の絆を切断することで、親子は単なる同居人となり、野生動物のように、その日暮らしの浮浪者になる。さらに、隠れ共産主義者が善悪の区別を曖昧にすることで、各個人は道徳や品格のないダメ人間に変わる。自堕落な子供が増えれば、共産主義革命がやりやすい。フェミニストと呼ばれる文系共産主義者は、革命の下ごしらえを担当しているのだ。ただ、今日では革命といってもソ連のような国家を作る意志はなく、現状の伝統的社会を破壊したい、という情念が達成されれば満足というのが左翼の本音だろう。贅沢に慣れた左翼は貧乏生活が嫌なのだ。

  フェミニズムの本流を知るには、その害毒が流されている源を探る必要がある。諸悪の根源たるカール・マルクスやフリードリッヒ・エンゲルスの考えを理解すれば、彼らに追随する学者や評論家の隠された悪意が判明する。フェミニストの政治宣伝はたくさんあるが、そのうちの一つを紹介したい。まずフェミニストは女の幸せを憎む。以前、男にモテない「卒業顔」が、フェミニズムの学者なることについて書いた。醜女(しこめ)は、美人に生まれて、幸せな結婚をし、子宝に恵まれる女性を嫉妬する。「嫉妬」は人間の感情の中で、一番醜く克服しがたい感情で、「憎しみ」よりもタチが悪い。そこで女性学のブスは、幸せそうな専業主婦を貶める。家庭は安らぎの場ではなく、「牢獄」みたいなもので、主婦は家庭に縛られた女中とみなす。フェミニストの大学教授は女子学生に、「キャリア・ウーマン(career woman)は素晴らしく、専業主婦というのは能無し女である。子供と亭主の世話で一生を棒に振り、女性としての自己実現をできぬまま、自宅で埋もれてしまう哀れな下女」、というイメージを植え付ける。

  専業主婦のイメージが悪いのは、キャリア・ウーマンのイメージが、誇張されて実際より良く修正されているからだ。幸せを噛みしめる主婦を目の敵にするフェミニストは、高級なビジネス・スーツで身を包み、綺麗な都会のオフィスで働く方が、はるかに価値があると臭わせる。しかも、家事は無給だが会社勤めなら給料を取れるから、という理屈を持ち出す。そうした悪魔の囁きもあってか、ビジネス・ウーマンは他人による“金銭的評価”と“役職の昇進”があるから、自分の能力が社会的に評価されたと思って嬉しくなる。ところが、家庭内だと、褒めてくれるのは亭主と子供だけで、金銭的報酬は無いし、出世だって無い。本当なら、愛する家族からの感謝の方が素晴らしいはずなのに、フェミニストの洗脳を受けると、会社の上司から褒められる方が、より意義があると考えてしまうのだ。しかし、会社はその女性が利益をもたらすから雇用しているだけで、失敗したり病気になれば解雇の対象にしてしまう。家庭なら母親のクビは無いし、病気になれば家族が看病してくれる。だいたい、会社で福山雅治みたいな同僚と出逢って、やがて恋人になれるとか、波瀾万丈の人生だけど最後には成功する人生、といったサクセス・ストーリーはドラマの中だけ。現実の会社では、地味な努力と嫌な苦労の方が多い。家庭の主婦は女優みたいに着飾れないが、子供の世話で忙しくしていても、何となく充実している。もっとましな男と結婚したかったと思っても、鏡に映った自分を見れば割れ鍋にとじ蓋、似たもの夫婦で平穏な暮らしが遅れれば満足だ。中高年になった日本人女性は天下無敵、世界一幸せなオバタリアンになれる。亭主元気で留守がいい。亭主が死んでも遺産は残る。友達と浅草に出掛ければ寂しくない。それに孫が生まれれば、生きる張りがまたできる。オバタリアンは、議員を選ぶ投票権なんかより、綾小路きみまろのチケットが欲しい。こういう中高年のお嬢様は、誰が何と言おうとも日本の底力。フェミニストの戯言(たわごと)など聞く耳持たない。オバタリアンはフェミニストの天敵だ。

Friedrich Engels(左/フリードリッヒ・エンゲルス)
  共産主義思想に染まったフェミニストは、やたらと男女平等を唱える。夫婦でも平等に家事をしろ、とか亭主も育児休暇をとって、女房の代わりに子育てをしろ、といったお節介を言う。そんなことを本に書いて飯を喰っているのが、女性学の教授だ。ただし、そんな本は誰も買わないけど、図書館が購入してくれるから、かろうじて成立する商売である。酷い連中だと、国立大学で給料や研究費をもらったり、あるいは役所で男女平等推進委員について税金を貪っていたり、と様々。こうした穀潰しの教祖はエンゲルスだ。彼は家庭の主婦が、家父長制や単婚制家族のせいで、社会との関わりを持たなくなったと言う。そして、「妻は筆頭女中となり、社会的生産への参加から駆逐された」と見なした。(エンゲルス 『家族・私有財産・国家の起源』 戸原四郎 訳 岩波文庫 昭和40年 p.97) エンゲルスは近代工業が出現して、はじめてプロレタリアートの女性だけに社会進出の道が開けたと述べ、主婦は家庭での“私的奉仕”だから一文も稼ぐことができない、と馬鹿にしているのだ。妻は家内奴隷で、無産階級の代表。夫は金銭を稼ぐ支配者で、ブルジョアである、と勝手なことをほざいている。アホらしいけど、エンゲルスの言い分を聞いてやると、近代の産業界で働けば、妻と夫の社会的平等が樹立され、法律上で完全に平等になるんだとさ。この共産主義者曰く、

  女性の解放は、全女性が公的産業に復帰することを第一の前提条件とし、これはまた、社会の経済的単位としての個別家族の属性を除去する事を必要とする・・・。(上掲書 p.98)

  つまり、エンゲルスによれば、家の外で働く事が女性の解放なんだって。じゃあ、家庭は刑務所なのか? 彼が考える「妻」とは、夫にとって無給の専属売春婦。子供にとっては、家政婦程度。共産主義社会では、「子供たちの養育や教育は公的事項となる。嫡出子であろうとも私生児であろうと、一様にすべての子供の世話を社会が見る」というのだ。(p.100) テレビでは「女性の味方」をしている評論家が、結婚もせずに子供を産む同棲カップルを賛美しているが、結婚という神聖な制度を抹殺したいだけだろう。私生児が増えても、託児所があれば問題ない。こうなりゃ育児は託卵と同じ。他人が世話をするのだから、親の愛情なんか無い。ペット預かり所と同等か、それ以下じゃないのか? 日本でも社民党や民主党の左翼議員が、しきりに児童保育所や託児所を増やせと叫んでいるが、これは子を持つ母親のためではない。女性は出産したら、元のプロレタリアート、すなわち無産階級労働者として、工場で働けと言いたいのだ。「家庭で子供に愛情を注ぐことは無駄な行為」と考えているから、母親に託児所へ我が子を預けろ、と勧めているのである。社会主義者は、税金(他人の銭)を使って箱物を作り、“仲間”を保育士や託児所の職員に据えて、税金を呉れてやるのだ。赤い同志の職場を確保・創出してあげるとは、なんて心が優しいんだろう。

  こうして、身内の支持者が税金で養われ、左翼議員の子分どもは喜び、仕事をもらって感謝に堪えない。赤い保育士は税金を喰うばかりか、子供の魂までをも汚染する。彼らが教えることといったら、「男女平等」か「平和主義」くらいなものだ。具体的に言えば、子供が呼び合う時に、「くん」や「さん」で男女差別をしないとか、残酷な昔話は読み聞かせないとかである。昔話の「桃太郎」は、無闇に鬼を虐殺するから禁止。鬼退治をしない桃太郎なんてつまらない。しかし、赤い教師にとって「殺すこと」は一切悪である。それなら「ドラゴン・ボール」はどうなるのだろうか? 「カメ」と「ウサギ」の競争だって、同時に“ゴール・イン”じゃ子供だって飽きてしまう。実の母親が子供を育てることは、家風の伝承になるから、伝統的価値を破壊したい共産主義者にとっては許せない。共働きを勧められる親は、赤い政治家や官僚が別の意図を持っていることに気付かないから、働く女性に配慮する良い人と勘違いしてしまう。ワルい奴らは、笑顔で毒を盛るから注意が必要だ。

ワンダー・ウーマンの隠された正体

  フェミニストはとにかく性差別を無くしたい。「差別」撤廃なら、結構じゃないか、と考える一般人は甘いのだ。フェミニストは生物学的な男女の違いや、社会の慣習による男女の役割分担を、すべて破壊して、自らが「合理的精神」で設計した「夢の共産主義世界」を実現したいだけだ。こんな社会設計など役人の商売と同じで、無惨な結果に終わるのは目に見えている。しかし、無邪気な一般人は、愕然とする結果を見るまでは、如何なる警告にも耳を貸さないものだ。男女平等にするには、二つの方法がある。男を女々しくするか、女をたくましくするかである。大学で行われている「ジェンダー」学講座を聞けば分かる通り、性別が曖昧な透明人間か、性器のない「のっぺらぼう」を作ることが目的なのだ。しかし、チンチンの無い宦官とか、ヒゲをはやして太い声のオカマみたいなのが、理想的人間とは気持ちが悪い。「性転換」をやたらと話題にするNHKは、国民を性的倒錯者にしたい、という願望がある。マス・メディアを使ったプロパガンダとは恐ろしいものだ。

  日本と同じく、アメリカでもコミック漫画は大変な人気である。第二次大戦前から超人キャラクターが存在し、スーパーマンのデビューが1938年、続いてバットマンが1939年に出現。こういったヒーロー漫画が登場すると、子供たちは夢中になって読んでいた。ところが、1941年になると前代未聞の新たなヒーローが誕生したのである。それがワンダー・ウーマン(Wonder Woman)だ。女戦士アマゾネスがアメリカ合衆国に現れて、正義と自由の為に悪と闘うというストーリー。当時、正義の味方といったら男が当り前であった。スーパーマンを見れば分かる通り、筋肉隆々のゲルマン戦士か北欧の豪傑バーサーカー(berserker)といったところが定番。ところがワンダー・ウーマンは、ヴィーナスのように美しいが、軍神マルス(Mars)のように強い。現代の我々から見れば、珍しくもないキャラクターだが、おしとやかな女性が基本だった1940年代のアメリカでは画期的な企画であった。しかも、このワンダー・ウーマンの原作者は漫画家ではなく科学者であったから驚き。


  ワンダー・ウーマンを創り上げたのは、ウィリアム・モウルトン・マーストン(William Moulton Marston)という心理学者で、1918年にハーバード・ロー・スクールを卒業すると、1921年に心理学で博士号(Ph.D.)を取得した人物である。(ちなみに、当時のハーバード法学院は女性の入学を認めていなかった。) 今では人気漫画の原作者として有名なマーストン博士だが、元々漫画家を目指していたわけではない。彼はちょっと手塚治虫と似ている。医学を専攻した手塚氏だから名作『ブラック・ジャック』をリアルに描けた。漫画家としての手塚氏は、一流だが薄い左翼思考が珠(たま)にきず。『リボンの騎士』や『ふしぎなメルモ』を観ると、男か女か曖昧な中性的キャラクターが気になる。赤旗に連載していたくらいだから、きっと単純な戦争反対の平和主義者だったのだろう。ちなみに、機動戦士ガンダムのキャラクター・デザイナーだった安彦良和(やすひこ・よしかず)は学生運動上がりの漫画家である。彼は虫プロ出身者で、筆者も昔から好きな作家であるから残念。なんかアニメ論になってしまったから話を戻そう。

  マーストン博士はかつて、ハーバード大学でヒューゴ・ミュンスターバーグ(Hugo Münsterberg)という心理学者の助手をしていた。(Katha Pollitt, Wonder Woman's Kinky Feminist Roots, The Atlantic, November 2004) 師匠のミュンスターバーグが血圧測定の研究をしていたので、マーストンは後に、いわゆる「嘘発見器(lie detector)」を製作し、現在もその名をとどめている。TVドラマ観た日本人なら、ワンダー・ウーマンが悪党を金色の投げ縄で捕まえた時、その悪人が正直になって真実を語るシーンを覚えているだろう。真相を正直に告白させる縄は、嘘発見器からの発想である。「なるほど」と納得かなぁ。日本じゃ遠山の金さんが桜吹雪の刺青を見せただけで、正直に罪を認めるのだから、日本人は罪人でも素直である。また、水戸の黄門様が印籠を見せただけで、悪代官の手下が静かになるのだから、これまた日本の悪党は子供みたい。隠密で他の藩に侵入した水戸光圀一行なら、皆殺しにして知らぬ顔を決め込めば良いのに。水戸藩から「ご老公はそちらに居ませんか? 」と尋ねられたって、「さあねぇ」で終わりだ。日本人って純粋な民族である。

欺瞞のフェミニスト学者であった原作者

William_Moulton_Marston(左/ウィリアム・モウルトン・マーストン)
  左翼学者や御用学者には偽善者が多い。進歩的文化人には、言行不一致の者や裏の顔を持つ連中がゴロゴロいた。例えば共産主義が大好きだった作家の井上ひさしは、前妻好子夫人に対して、暴力をふるっていたので、人格破綻者として知られている。共産党の「九条の会」などで頑張っていた井上氏は、好子夫人と離婚後、米原ユリと再婚。彼女は共産党幹部であった米原昶(いたる)の娘で、ロシア語の翻訳家としてちょいと知られた米原万里の妹だ。今は亡き米原万里は札付きの左翼で、佐藤優(まさる)と互いに褒め合っていたロシアの手先であった。また脱線しちやったから話を戻す。表では、女性の権利獲得活動に熱心だったマーストンだが、私生活では女を弄んでいたのである。二人の女と同居生活をしていたから、世間は眉をひそめたのである。彼にはエリザベス・ハロウェイ(Elizabeth Holloway)という正妻がいて、研究の手伝いをしてもらっていた。マーストンは学術誌(Journal of Experimental Psychology)に性と血圧に関する論文(「Sex Characteristics of Systolic Blood Plessure」)を投稿したが、その時もエリザベス夫人が実験を手伝ってくれたのだ。アカデミックな姿勢を取っていたが、マーストンの研究にはいかがわしいものが混ざっている。1928年、彼は記者を招いて、自家製の「ラヴ・メーター(Love Meter)」を用いて公開実験を行った。三人のブロンド娘と三人ブルーネット娘に、グレタ・ガルボ主演の『肉体と悪魔(Flesh and the Devil)』を鑑賞させ、腕につけた血圧測定器で彼女たちの興奮度を計ったという。その測定値から、マーストンは金髪娘より、茶髪の娘の方が容易に昂奮すると結論づけたという。(Jill Lepore, The Last Amazon, The New Yorker, September 22, 2014 Issue) あまりに馬鹿げた実験がキッカケとなり、マーストンが務めていたコロンビア大学は雇用契約を打ち切り、彼は事実上ブラック・リストに載ってしまった。まぁ、当然だ。こうして失業者となったマーストンに、漫画業界から誘いが来たというわけ。

  その前に、マーストン博士の女癖とワンダー・ウーマン誕生秘話について述べねばならない。彼は女性の参政権運動に熱心であった。この運動は、女性でも男性と同じく政治的判断ができ、道徳的には男性よりも優れているという思想に立脚する。、第19世紀に、英国などでは女性を有権者にすべし、との主張が社会主義者たちのあいたで騒がれ、米国でも女性の普通選挙権獲得闘争に火がついた。男性優位思想を崩すため、左翼の文化人類学者は、キリスト教西欧世界ではない未開部族や古代世界を探究して、女性優位あるいは母系社会などを紹介していた。その一つがギリシア神話に出てくるアマゾネス(Amazōn/Amazonis)である。トロイア戦争に参加したアマゾネスの女王ペンテシレイア(Penthesileia)は、軍神アーレス(Ares)とオトレラ(Ortrera)の娘で、勇敢な女戦士。アマゾネスといったら、弓を引くとき邪魔になるからというので、左の乳房を切り取ったという伝承が有名。左翼学者は政治的未来的のためなら、神話や南方土人の話を利用するのだ。

  当時、左翼知識人は男女平等思想に執着したいた。マックス・イーストマン(Max Eastman)は、左翼転向学者で、後にフリードリッヒ・フォン・ハイエック教授やルートヴィヒ・フォン・ミーセズ教授らと共に、自由主義者になっていたが、嘗ては女性の普通選挙権獲得を支援する同盟(New York Men's League for Woman Suffrage)の創設者で、雑誌『大衆(The Masses)』の編集者を務めていた。避妊具を使った産児制限論で高名なマーガレット・サンガー(Margaret Sanger/旧姓Higgins)も、女性の権利拡大に賛成で、熱烈なフェミニストであった。マーガレットの実家であるヒギンズ家で、一番過激なのが妹のエセル・バーン(Ethel Higgins Byrne/Jack Bryneと結婚)である。この姉妹はアメリカで初の産児制限クリニックをブルックリンで開設した。フェミニズムにどっぷり浸かったエセルは、中絶推進のためならハンガー・ストライキも辞さず、ついに逮捕されてしまった。姉のマーガッレットはニューヨーク州知事と取引をし、妹の産児制限運動を辞めさせる代わりに、彼女の恩赦をもらったのである。

Max_Eastman 1Margaret Sanger 1Ethel Byrne 1









(左:マックス・イーストマン / 中央:マーガレット・サンガー / 右:エセル・バーン)

  1923年頃、ある詐欺事件が元でアメリカン大学を解雇されたマーストンは、タフツ大学に移って研究を続けていた。その大学で、彼はオリーヴ・バーン(Olive Bryrne)という教え子と一緒に働く事になる。このオリーヴとは、エセル・バーンの娘であった。大学教授が若い娘に手を出すことは時折あるが、マーストンは既婚者なのに、オリーヴと恋仲になってしまったからさあ大変。不倫をしたマーストンは妻エリザベスと離婚するのかと思いきや、何と愛人の教え子と同居したいと言い出したのだ。彼はエリザベス夫人に、もしオリーヴとの情事を認めてくれないなら、離縁するぞと脅かしたという。そこでエリザベスは事態を何とか収拾しようと努め、下した決断は、自分は仕事に専念し、愛人のオリーヴが家事と育児を担当するというものだった。エリザベスには子供が二人居たので、その世話を第二夫人に任せたわけだ。そして、エリザベスはブリタニカ百科事典の編集委員をしていたので、その仕事に没頭することで気持ちの整理をつけていた。肝心のウィリアム・マーストンは、両方の妻と子供をもうけて大満足。ハーレム生活は楽しい。オリーヴはウィリアムとの子供であるバーンとドンを産んだが、その子供たちには真実を告げなかった。実の父は既に他界したとの嘘を教えていたのだ。(Glen Weldon, William Moulton Marston biography: Jill Lepore's Secret History of Wonder Woman, Slate, Nonember 3, 2014) 実の父は目の前に居るのに。オリーヴは架空のリチャード氏をでっち上げ、その未亡人の振りをしたというから、もう呆れて物が言えない。精神病というか異常である。しかも、後に彼女は自分の子供を、ウィリアムとエリザベスの養子にすることと承諾したという。過激フェミニストの娘は、やはり良識を備えていなかった。しかし、マーストン家の子供たちも、困惑していたのではないか? 2人の母親と異母兄弟4で、父親は女房の世話になっていたのだ。友達の家庭とは明らかに違うじゃないか。

Marstons
















(写真/右端の黒い服の女性がエリザベス夫人/中央の椅子に坐っているのがマーストン博士/その後ろに立つ白い服の女性がオリーブ/4人の子供たち/左端の女性は不明)

  マーストン家では幸せな二重婚が営まれていたが、アメリカ社会は第二次世界大戦の勃発により、女性が大量に動員されて、毎日が大変であった。また、戦争で犠牲者や戦歿者が出れば、息子を失った母親とか夫を失った妻も増えてくる。それなのに、女性が軍隊や工場で働くようになり、男性と平等になる夢が到来した、とマーガレット・サンガーは喜んだ。しかも、彼女にとっては嬉しいことが一つあった。1937年アメリカ医学協会が避妊法を承認してくれたのだ。この吉報をもってマーガレットは、女性や人類の勝利だとはしゃいでいたのである。戦争が起こって女性も家庭から飛び出て外で働くようになったから、フェミニストのサンガーは、期待を大きく膨らませていたらしい。しかし、彼女は政府の対応にがっかり。サンガーは合衆国政府が、女性の妊娠を防ぐために避妊対策を支援してくれるもの、と思っていた。ところが、政府は彼女の期待を裏切ったのである。戦争中に女性が妊娠していたら、働き手が減って困るじゃないか、と思っていたのだろう。しかし、当時のアメリカ社会は性的問題については、依然として保守的であった。

Elizabeth Holloway(左/エリザベス・ハロウェイ夫人)

  一方、義理の兄ウィリアム・マーストンは何をしていたのか? オール・アメリカン出版社(All American Publicaations)に雇われていたのだ。1940年、スーパーマンを世に出していたマックス・ゲインズ(Max Gaines/本来のユダヤ人名Maxwell Charles Ginzburg)は、偶然オリーヴ・バーンの『ファミリー・サークル』という記事を読んだことから、マーストンを知るようになった。ただし、オリーヴはスーパーマンをヒトラーのような正義感を持つ、危険なファシストと見なしていたのだ。ユダヤ人が作ったキャラクターを、ヒトラーみたいと酷評するなんて、あんまりじゃないか。それでも、ゲインズはマーストンをコンサルタントとして雇い、そこでマーストンは女性のヒーローが必要である、とゲインズを説得しらしい。その結果、ワンダー・ウーマンは『オール・スター・コミックス』のスーパー・ヒーロー軍団に加えられたという。戦闘が激しくなった1943年、彼は『ワンダー・ウーマン』のストーリーを書いていた。太平洋や欧州大陸でドンパチやっているのに、漫画を考えている学者なんて呑気なもんだ。『女性らしさへの闘い』という題で、戦争の神マルスや有事に携わる女性について書いていたという。彼はもし、女性が戦争で力をつければ、男性中心社会の桎梏(しっこく)から抜け出せるとか、女性がアマゾネスみたいになれば、男性よりも強くなって、戦争を終わらせることができるのだ、と考えていたようだ。戦争末期になる頃には、スーパーマンやバットマンを除けば、ワンダー・ウーマンは唯一のスーパー・ヒーローになっていた。

プロパガンダとしてのTVドラマ

  1960年代後半から1970年代にかけて、アメリカではベトナム反戦運動が盛り上がっており、その勢いに乗ってフェミニズムも台頭し始めた。日本の学生運動家も、1970年代は左翼の黄金期だったから懐かしいだろう。当時は、アメリカで持て囃されたフェミニストの旗手ベティー・フリーダン(Betty Friedan)が来日したり、彼女の著書が翻訳されたりと、女性学がとても流行った。しかし、このフリーダンは本名ベティ・ゴールドバーグ(Bettye Naomi Goldberg)といい、ロシアとハンガリーからのユダヤ移民を両親に持つ。全米女性組織(National Organization for Woman/NOW)を率いて、女性や人類の進歩のために活動していた、と紹介されるが、本当の顔は筋金入りの共産主義者で、さらに家庭では大変な暴力妻だった。後に、亭主のカール・フリーダンは散々な目に遭っていた、という裏話を打ち明けている。(Germaine Geer, The Betty I knew, The Guardian, 7 February 2006/David Horowitz,Feminism's Dirty Secret, World Jewish Review, June 12, 2000)

  フェミニストには裏の顔を持つ人物が多い。有名なグロリア・シュタイネム(Gloria Steinem)は、表向き過激派フェミニストであったが、実は陰でCIAの密告者を務めていた。彼女の母親ルースはプレスビテリアン教会のスコット人であったが、父親のレオはユダヤ人であった。母のルースは娘のグロリアと妹のスザンヌに、反ユダヤ主義の恐ろしさを教える一方で、ユダヤ人であることは誇るべき遺産であることを説いたという。(Letty Cottin Pogrebin, Gloria Steinem, Jewish Women's Archive) そうい言われてみれば、左翼思想に傾いたグロリアの性格は、父親譲りなのかも知れない。父方の祖母ポウリン・シュタイネム(paulin Perlmutter Steinem)は、左翼思想に染まった過激派だったという。孫娘のグロリアによれば、改革派のユダヤ教徒だったらしい。祖母ポウリンは女性の普通選挙権獲得のために熱弁を振るい、、当時としては急進的な思想を持つユダヤ人女性だった。そんな家系のグロリアは社会主義の学生運動に精を出す傍ら、仲間の情報をCIAのハンドラーに渡していたという。しかも、チェスター・ボウルズ奨学金という名目で、CIAからお金をもらっていたのだ。グロリアは裏で「チクリ屋」をやりながら、表ではフェミニズムと人権活動に勤しんでいた。そんな彼女を隠れ共産主義者のオバマ大統領が表彰したのである。この肌と腹が真っ黒な大統領は、事もあろうに合衆国で最も権威ある「自由メダル(Medal of Freedom)」を、反米の闘士グロリア・シュタイネムに授与したのだ。これって、CIAに協力し、国家の裨益(ひえき)をはかったからか? 残念、違います。白人社会の撲滅を図った公民権運動に貢献したからだそうで、オバマ大統領はたいそう嬉しかったようだ。この男にとって、アメリカの国益とは何なのか? 反米大統領を称えているアメリカ人を見ると、精神が頽廃した国民の末路を見ているような気分になる。

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(左:娘のキャサリン・クラハム/右:父のユージン・メイヤー)

  表向き、反権力のポーズを取っていたグロリアは、ワシントンポスト紙の所有者キャサリン・グラハム(Katharine Graham)から密かに支援を受けていた。グロリアの正体がバレそうになったとき、グラハムがマスコミ対策に応じてくれて、もみ消し工作を謀ったという。しかし、この努力も空しく、結局はジャーナリストに暴露されてしまった。このグラハム女史は共和党の大物支援者で、裏ではCIAと繋がっていたのだ。ちなみに、彼女の父親ユージン・マイヤー(Eugene Meyer)はユダヤ人で、メディア界を牛耳る一人であった。CIAはメディア界に大勢手先を潜入させて、独自のネットワークを築いている。表向きCIAはアメリカ国内で活動できないはずだが、こっそりとFBIの縄張りを侵していたのだ。

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(左:歌手のリンダ・カーター/中央:ワンダー・ウーマン/右:海軍士官のダイアナ・プリンス役)

  ユダヤ人がエンターテイメント業界で成功する秘訣を調べると、あることが分かってくる。それは、彼らが伝統や慣習、ないしキリスト教倫理に縛られていないということだ。西歐キリスト教徒ではないユダヤ人は、既成の道徳を無視したって良心が痛まない。現在なら、TVドラマで、猟奇的殺人、近親相姦、同性愛や異人種間セックス、幼児ポルノ、残虐な暴力シーン、下品な生活など、良識ある一般家庭では忌避される話題を平然と取り上げ、ドラマの中に織り込んでしまう。だから、1975年、フェミニズムの象徴たる『ワンダー・ウーマン』を実写化することなど朝飯前。ABCで『ワンダー・ウーマン』を実現させたダグラス・クレーマー(Douglas S. Cramer)は、大ヒットTVシリーズの『ミッション・インポシブル』や『ダイナスティー』を手がけた敏腕プロデューサーである。彼は当時、まだ無名のリンダ・カーター(Lynda Carter)を起用して大成功を収めた。ユダヤ人女優なら、あれほど人気が出なかったと思う。バーバラ・ストライサンドみたいなユダヤ人女性では、美女と設定されたヒーロー役は務まらない。リンダ・カーターはメキシコ系の母親を持つが、父親がイギリス・スコット系白人なので、その美貌を活かしミス・ワールドUSAでアリゾナ代表になれた。歌手としてはイマイチだったが、ワンダー・ウーマン役で永遠のスターになれた。彼女の印象が余りにも強烈だったので、後に作るワンダーウーマンの映画やドラマで、起用する女優の選考に難儀することとなったらしい。

  しかし、クレーマーは単純なTVプロデューサーではなかった。彼はNBCで『ドーン(Dawn :Portrait of a Teenage Runaway)』というドラマを制作したこともある。この作品は、家出をした10代の少女が、ハリウッドに行き売春婦として身を持ち崩すという内容であった。まだ若かったイヴ・プラム(Eve Plumb)が、主人公「ドーン・ウェザビー」を演じていたのが印象的。不埒なドラマかも知れぬが、ハリウッドでは珍しくない。むかし、ロバート・デ・ニーロ主演の映画『タクシー・ドライバー』で、ジョディー・フォスターが幼い娼婦を演じて話題になったが、ユダヤ人が支配するハリウッドでは社会的モラルは紙くず同然。フェミニズムが流行れば、それを題材としたドラマを作っても不思議じゃない。ワンダー・ウーマンは美人で魅力的なのに、妙に中性的であった。ドラマの中では同僚のスティーブ・トレヴァー大佐と親しくなるが、色恋に発展することなく、物語はもっぱら超人的能力による悪党退治。まるでレズビアンのように見えてしまう。

  超人的ヒーローの番組が成功したなら、今度はもう少し現実的内容で、新たなヒーローを作りたいと思うだろう。そこで、『チャーリーズ・エンジェル』の登場だ。1970年代当時、アメリカでは刑事ものドラマといえば、男性の警察官が主役のものばかり。『スタスキー・アンド・ハッチ』などがそうだ。ところが、ABC局内では、三人の美女を主役にしたドラマの企画が持ち上がった。これまたユダヤ人で、名プロデューサーのアーロン・スペリング(Aaron Spelling)が手がけたという。今では有名になったジャクリン・スミス(Jaclyn Smith)やファラー・フォセット(Farrah Fawcett)も、当時は無名の女優だった。亡くなったファラー・フォセットはアメリカのみならず、日本でも大人気となり、カメリア・ダイヤモンドのCMにも登場したし、彼女の妹役で採用されたシェリル・ラッド(Cheryl Ladd)も日本で有名だった。ウィスキーのCMに採用されたりして、彼女の歌と共によく知られるようになった。当時の映画雑誌『スクリーン』や『ロードショー』では度々取り上げられていたから、多くの日本人が覚えているだろう。またチャーリーズ・エンジェルでは、タニア・ロバーツ(Tanya Roberts)も有名になり、後に007シリーズでボンド・ガールになれた。三人の女探偵が事件を解決するドラマというのは、当時大きな賭であった。男社会のアメリカでは女性捜査員など弱々しく思えたからである。しかし、こうした華奢な体の美女でも、力強く男勝りの能力を発揮するから、TVドラマは面白いのかも知れない。でも、美女のビキニ姿という、視聴者向けサービスがあったから、人気が出たのだろう。それでも、男に負けない強い自立した女性、というイメージを社会に植え付けることには成功したのである。今では、頼りない男に、力強い女刑事という設定のドラマは珍しくない。

  チャーリーズ・エンジェルもまた、女性が男と同様の能力がある事を示す、プロパガンダ・ドラマであった。番組プロデューサーのスペリングは、典型的左翼ユダヤ人で、『アメリアについて(Something about Amelia)』というドラマでは、近親相姦というタブーに触れたし、『夜のリトル・レディーズ(Little Ladies of the Night)』では、家出少女と売春を扱ったという。(Ben Shapiro, Primetime Propaganda, Broadside Books, New York, 2011, p.179) スペリングがタッグを組んだレオナード・ゴールドバーク(Leonard Goldberg)も、コチコチの左翼。彼は更に過激な若手バリー・ディラー(Barry Diller)を引き上げたり、後にディズニー社の会長となるマイケル・アイズナー(Michael Eisner)とも同志であった。左翼リベラル派ユダヤ人のネットワークは、巨大な蜘蛛の巣のように張り巡らされているのだ。

弊害となるかも知れない特殊部隊

  フェミニズムの害悪は映画界から実社会へと流れてしまった。フィクションの中で、超人的アマゾネスや女探偵が活躍したってどうってことないが、合衆国陸軍でスーパー・ウーマン部隊が編成されてしまったのだから深刻だ。以前、人気女優のデミ・ムアー(Demi Moore)が出演した『G.I. ジェーン』という映画が公開され、そこそこヒットして話題になった。デミ・ムアーが海軍特殊部隊で初の女性隊員になるストーリーだが、最近、陸軍特殊部隊に、女性だけで編成されたエリート・チームの存在が明らかにされた。(Melia Patria, Muriel Pearson, et al, Inside ‘Ashley's War’,Story of a Special Ops program That Put Woman in Afganistan Warzones,Abc News, April 21, 2015) 軍隊内の同性愛者問題だって、左翼議員のせいで排除できなくなったアメリカ軍は、またもや頭の痛い問題に悩むこととなった。このチームは中東アジア地域で活動する秘密部隊で、アフガニスタンで現地人の宣伝慰撫を行ったり、女性にまつわる文化的摩擦を少なくしようとの意図を持って創設されたらしい。たとえば、イスラム教徒の家庭に踏み込んだ場合、男のアメリカ兵が女性の身体検査をすれば、イスラム教徒の男が激怒するからだ。女性兵ならムスリム女性が何か隠し持っていないかを抵抗なく検査できる。

  特殊部隊に選抜されるくらいだから、女性隊員は男並みの腕力や体力を有している。メーガン・カラン(Meghan Curran)大尉やエミリー・ミラー(Emily Miller)小隊長は、軍服を着ていなければ、普通のアメリカ人女性に見える。女性であっても武器の取り扱いや、重い荷物を持って行動することは可能だ。オリンピック選手や格闘技選手を見れば、女性でも男性以上の身体能力を持つことは理解できよう。しかし、こうしたスーパー・ソルジャーであっても、女であることに変わりがない。例えば、女性兵士が小隊か中隊に配属され、戦場で闘ったとしよう。敵の指揮官は女性兵をわざと狙って、他の兵士をおびき寄せるかも知れない。例えば、一人の女性兵を殺さぬよう狙撃して、わざと戦場で負傷させる。まだ息があり、苦痛に叫ぶ彼女を助けるために、部隊の男どもはこぞって彼女を救おうと飛び出す。そんな兵士を敵のスナイパーは、次々と狙い撃ちするだろうから、部隊のの損失は重大になる。一人の女性を餌に、二人三人と仲間を殺すことができるだろう。何が何でも女を救う文化圏の弱点を、敵軍は必ず突いてくる。指揮官といえども部下の無鉄砲さをすべて統率できない。

  女性部隊の導入は政治的リスクも考慮せねばならない。もし、彼女たちが実戦投入され、戦場で敵軍に捕まった場合、アメリカ軍司令部や合衆国政府はどうするのか? テロリスト兵が白人女の兵卒を生け捕りにして、輪姦したらアメリカの輿論(よろん)は激昂するに決まっている。それに、もしISILのようなテロリスト集団が、拘束した白人女を強姦したり、斬首したりする映像をインターネットに流したらどうなるのか? 男の兵卒なら拷問はあっても、強姦はないだろう。しかし、エリート女性部隊には、試験成績の良い中流階級の白人女性が多い。憎しみに満ちたムスリム・ゲリラ兵は、喜んで生け捕りにした高級白人を淫売のようにいたぶるだろう。こんな事が起きれば、冷静な政治家でもお手上げだ。気がかりなのは、中東戦争を拡大させたいグローバリスト集団が、わざと女性部隊の情報を流して、子飼いのテロリスト部隊に襲撃させる、といった八百長を仕組むかも知れないからだ。世間が同情を寄せるような白人女を捕虜の中から選んで、薄汚い下郎に輪姦させ、それを録画して全世界に流す。合衆国政府が規制したって、どこかの国のジャーナリストが報道するだろう。センセーションを呼ぶ映像は、アメリカの輿論を簡単に動かし、陰謀組織に買収された議員は、強姦されたり殺害された女性兵士の報復を煽るだろう。こうなれば大統領は中東地域に大規模な征伐軍を送るしかない。まさか、復讐をしないとの選択はしないだろう。それよりむしろ、徹底した殲滅作戦を提唱した方が人気が上がる。こうなれば、中東戦争の泥沼化を望む者たちはほくそ笑む。軍隊に男女平等を要求する馬鹿なフェミニストのせいで、アメリカ人はもっと大きな戦争に巻き込まれるだろう。戦場に女を出してはならない、というタブーを破った国は必ず報いを受ける。

  女性は知能や技能において、男性と同等の結果を出すことができるだろう。しかし、忘れてはならないのが、女性は細胞の一つ一つに女性の刻印を押されているということだ。染色体が違えば、体のつくりは違ってくるし、脳味噌だって男と女では異なる。脳が異質ならば、精神だって同じわけがない。運動競技で男まさりの女性でも、野蛮な男どもに捕まれば、強姦の対象となってしまう。こうした下劣な者には、男女平等だとか、人道に反するといった寝言は通用しない。上流社会出身の才女であれ、下層階級のあばずれでも、単なる女といった肉の塊で、性欲の対象になってしまうのだ。ケダモノに輪姦されて解放された女性を引き取る親や兄弟、友人、世間一般はどう反応するのか? 娘が従軍するのを許した親は後悔するだろう。家族の哀しみと世間の激昂は収まりがつかない。女性が不利な分野でも、女性の進出を主張するフェミニストは責任がとれるのか? こうした左翼に限って、肝心な時には無口になるものだ。中には雲隠れをして、ほとぼりが冷めるのを待つ奴がいる。権利を主張する時は勇ましく、責任が問われる時は卑怯に振る舞う。我々はフェミニストの口車に乗ってはならない。男女は不平等が自然だ。日本では、男の役割と女の役割が別れていたが、それで社会が潤滑に回っていたし、幸せなことも多かった。フェミニストに賛成して不幸になるより、昔の日本的価値に戻った方が賢明であろう。




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ブスだと卒業できる 卒業顔の怨念は不滅です

ブスへの慰め

  霞ヶ関官僚には元左翼学生がごまんといる。とりわけ法務省や厚労省で、女性の社会的待遇や地位向上を担当するような女性官僚には、フェミニズムの黴菌に感染した人が多い。試験秀才だから中央官庁に入れたのだろうが、出世競争になると男の官僚に劣るから、怨みを持つ女性が結構いるのだ。有能な女性なら、ファッション・モデル業界といった民間企業に就職したり、独力で自営業でも営めば、嫉妬心や不平を持たなくて済むのに、と筆者はつい思ってしまう。親方日の丸の役所だと、平等思想の建前があるから、異常な性格の持ち主でも容認されるのであろう。役所勤めの女性は結婚よりも職業を高く評価しがちである。外で他人のために働くより、家で子供や夫のために働く方が素晴らしく、重要なことなのに、それが分からない。結婚できなかったり、男から求愛されぬ醜女の怨みとしか思えない。家族より仕事を優先する思想の淵源には、ブスのひがみが見え隠れする。それに、学校で男女平等という左翼思想で洗脳されているから尚更である。そこで、勉強して馬鹿になる女性を少し考えてみたい。

  むかし、国際日本文化研究センターの井上章一・助教授が『美人論』を出版した。(リブロポート 1991年) 井上氏は、昔の日本では醜美について解説する教科書があったことを紹介した。明治の修身教科書は、「美人は徳を失いやすい」と書いたそうである。たとえば「瀧鶴台(たきかくだい)の妻」の物語は、修身科目書が愛用したストーリーであったという。長州の碩学、瀧鶴台の妻は、容姿は醜かったが、心は極めて美しかった。夫に従順でよく家を治めたので、鶴台も彼女を重んじたそうである。心掛け次第で夫に愛される立派な妻になれることを教えたかったのである。修身教科書は「みめ形いと醜かりしが、心ざまは極めて美し」と彼の妻を褒めた。現代の我々には驚きだが、当時の教育界では「容貌(みめ)より心」を強調する美人排斥論、醜婦(しゅうふ)奨励論が盛んだった。

  しかし、深尾韶という小学校教師が『家庭雑誌』(明治40年1月号)に投稿した文章によれば、美人排斥論は現実社会と食い違うらしい。深尾は不美人を褒める修身教育を現実にそぐわないと批判するのだ。彼の教師生活に照らし合わせれば、美人に属する子供の十人中八九は、皆極めて善良な性格を有していた。彼は「自分は世間の美人排斥論、醜婦奨励論に対して此の現象を甚だ不思議に感じました」と述べている。深尾の長年の観察からすると、修身教科書が推奨する良妻賢母の卵は、理想とはかなり離れているのだ。彼は容姿(みめ)よろしかぬ将来の婦人は、「容姿より心」どころか、容姿も心もメチャメチャで、猜疑、嫉妬、意固地、残忍、その他将来婦人の悪徳たるべきものの質量を多く備えているという。そうして深尾は長年の経験上、美人は善人で、醜婦は悪人である、ということを知るに至ったらしい。修身教科書がなぜこんな嘘をつくのかを考察して、教科書執筆者が醜男醜女(ぶおとこぶおんな)なので、苦し紛れに偶然たる美人の毒婦をとらえて、毒婦はすべて美人で、美人は皆品性下劣なる者とコジつけたのであろう、と結論づけた。(p.20)

  深尾氏の見解は我々にも納得できる。昔は、スケ番という不良の女子生徒がいて、派手な化粧に髪にパーマを当てて、長いスカートを引きずっていた。美人も少しは居ただろうが、たいていブスだった。不良だから真面目に勉強せぬ。もとから性格が悪い上に成績も悪くなる。そうすると勉強ができて可愛い女の子は、男子生徒からちやほやされるから、スケ番のイジメの対象になってしまう。なぜか美少女は素直で、ちょと上等な階級の家庭や良家の娘が多かった。一方、ブスのスケ番は荒んでいる家庭の子が多いような気がする。容姿と性格が比例するように思えるのは、筆者ひとりだけではないだろう。

  井上章一は深尾氏の結論に部分的異論を唱える。醜い者が美しい者を妬む気持ちは昔も今も変わらない。もし、醜男醜女の嫉妬心による教科書なら、どうして現代には同じ道徳教科書がないのか、と。井上氏は、明治大正期には美人が勉強を継続しにくかったからだ、と考える。当時の平均結婚年齢はとても低く、十代半ばの娘が結婚することも珍しくはなかった。だから、女学校在学中に嫁に行く女子もいたのである。もちろん卒業する女生徒もいたが、結婚で中退せぬ子には不美人が多かったのも事実であった。そこで当時の人々は、勉学を続けて卒業するような女の子を“卒業面(そつぎょうづら)”、と呼んでいたのである。三輪田元道という教育者も、醜い顔の卒業面に言及していたのだ。今は美人学生だって卒業するのが当然であるが、これは学歴が身分になる現代の特徴からきているから、卒業は容貌との関係は薄いとみてよいだろう。

  著書の中で井上氏は卒業面の代表例を紹介している。廃娼や婦人参政権獲得で指導的立場をとった久布白落美(くぶしろおちみ)という婦人活動家は、娘時代(明治29年)母親に連れられて、大叔母の矢島楫子(やじまかじこ)が院長をつとめる女学院を訪れた。面接試験で、矢島院長は落実をひと目見るなり、母親に「この人はあまり器量がよくないからつづくでしょう」と語ったそうである。(p.23) 矢島院長は偉い。よくぞ言った。あっぱれ。いまなら母親と娘が激怒して裁判沙汰になるだろう。昔の日本はかなり現実容認主義が浸透していたのだ。矢島院長の予言通り、落実は無事ご卒業になったそうである。

  そこで疑問だが、人脈がたいして広くもない小娘が、どうやって嫁ぎ先を見つけたたのか、である。その疑問を解く鍵は授業参観であった。明治・大正時代には、近隣の有力者がしばしば、息子の嫁探しのために女学校を訪れていたのである。彼らは授業参観を通じて、適当な嫁の候補を容姿で選んでいたのだ。顔だけで判断しても大丈夫なのか、と心配になるが、恋愛は容姿から始まることがよくあるから、多分支障は無かったのであろう。それに、授業を聞いている女学生を見ただけで、性格や思想を分かるはずがない。現代の見合い縁談いだって、相手方の写真を見て本人が会うかどうか決めるだろう。当時の学校では、美しい子から順々にクラスを離れることになった。ひとり抜けふたり抜け、最後に残るのはブスばかり。こうした物色参観は昭和の初めまで続いたという。(p.25)

  醜女(しこめ)が辛い目に遭うのは分かるが、美人の女学生にも不幸があったらしい。明治40年に時事新報社主宰の美人コンテストがあり、素人娘のみが審査の対象となった。そこで末広ヒロ子という女学生が一位になったのだが、本人が応募したのではなく、彼女の義兄が内緒で写真を送ってしまったのである。彼女は福岡県小倉市の末広直方・市長の娘で、学習院中等部に通っている16歳の乙女であった。写真取り消しは無理だったが、義兄に頼んで名前だけでも匿名にしてもらい、ヒロ子の写真は末広トメ子という名で掲載された。しかし、時事新報を見たクラス・メートがヒロ子だと気づいてしまった。当時の学習院は乃木希典大将が院長を務めており、謹厳と質素を旨としていたから、ヒロ子は放校処分になってしまった。だが、温情厚い乃木院長はヒロ子の嫁入り先を斡旋したのである。なんと乃木院長は、かの有名な英雄、野津道貫(のづみちつら)・陸軍大将にヒロ子を紹介したのである。すごい。さすがは乃木大将。やることが違う。公爵の野津家にご子息がいらしたから、退学処分になった美女を紹介したのである。どうせ勉強したって公爵夫人にはなれないのだから、不幸中の幸いであろう。

  明治から昭和初期にかけての日本では、女が勉強して出世するのは非常に困難だったし、職業婦人が専業主婦より素晴らしいとは思われなかった。それでも勉強したい女性は少数ながら存在したら、彼女たちは師範学校に進み、教員になったりしたのである。だが、美人だって日本のために貢献したのである。とたとえば、陸奥宗光外務大臣のお亮(りょう)夫人は美人で評判であった。江戸時代までの日本は、身分社会であったため、女性は容姿よりも家柄で上下が決まった。直参旗本の娘と単なる町娘とでは比較にならない。ところが明治になって維新の元勲らが、西洋人相手に舞踏会や晩餐会を開くに当たって、困ったことが起きた。政府高官の夫人が公家や武家の女性では、西洋的社交に不向きだった。しかも、容姿だってたいしたことはなかったのである。そこで藝者上がりの社交的夫人の方が、変な気位の高さがなかったし、西欧文化に適合するのも上手だった。陸奥宗光が再婚した亮子夫人は、元藝妓で「小鈴」と呼ばれていた美女だったし、社交界の華であったという。日本女性の容姿批評で厳しかったイギリス人外交官アーネスト・サトウでさえ、陸奥夫人のお亮さんには「美女」の評価を与えたくらいである。カミソリ陸奥と呼ばれた外務大臣は、女性の趣味も一流だった。

  明治の頃は、人々が醜女(しこめ)を割と平気でからかっていたから、教育者は不美人な女学生を励ますつもりで、あえて「醜婦奨励論」を書いたのではあるまいか。教科書執筆者は、卒業面の女生が世間の嘲(あざけ)りを気にせぬよう、現実を曲げても「美人排斥論」を唱えたのではないか。井上氏は、不美人でも熱心に勉強して修養を積もうとする子が、劣等感を抱かぬよう、世間の冷笑からガードするバリヤーだった、と結論づけている。(p.37)

社会に害をもたらす醜女

   世間が何と言おうとも、結婚できぬ卒業面の女学生が、自立して生きていくために勉強するなら良い。しかし、伝統を重んずる高度倫理社会の日本に、社会主義やマルクス思想が浸透してきたから問題なのである。共産主義者は人間の醜い情念につけ込むのが得意だ。赤い革命家は国家転覆のために、まづ社会の基礎である家族を崩壊させようとする。モラル無き人間を大量生産し、革命の駒に使うのである。まともな家庭に育つ若者は、共産主義に惹(ひ)かれないので、左翼活動家はふしだらで下品な親を生産するか離婚家庭をつくるよう仕向ける。そうすれば性格の歪んだ子供を増やすことができるのだ。共産主義の煽動に靡(なび)くような者には、性格がひねくれた下郎が多いのはそのためである。

  フェミニストになるような女学生には、滅多に美人を発見できない。「恨み」や「憤慨」を意味する英単語「resentment」とは、「(嫌な)感情を再びもつ」ことからきている。フェミニストに共感する女子生徒は、鏡を見る度に自分の顔を不快に思い、世間に対して憤りを感じるようになるのだ。特に男どもは女性を外見あるいは性(ジェンダー)で差別するから許せない。男社会は女性の敵である、との怨念に炎がともる。田嶋陽子や大澤真理、上野千鶴子を見れば、たいていの男は彼女らがなぜフェミニストになったかが分かる。こんな卒業面の女学生なら、さぞかし勉強に集中できたであろう。(だだし、有害な勉強内容だが。) デートなどの煩悩フリーだ。

  フェミニストは女性の地位向上のためなら、物理学や数学を熱心に学ぶよう女子に言えばいい。理系ならジェンダーに関係なく出世ができるし、ノーベル賞だってもらえるではないか。しかし、彼女らはクズ同然の「女性学」を学生に吹き込み、子分を増やすだけである。しかも、大学などの教育機関で給料を取りながら有害科目を教え、誰も読まない駄本を図書館に買わせているのだ。一般国民はテレビに出演して叫(わめ)いている田嶋陽子は知っているが、彼女の著作を読んだ者はまずいないだろう。卒業面のフェミニストが目指す社会は恐ろしく荒(すさ)んでいる。美女の幸せを叩きつぶして、醜女の天下を築こうとしているのだ。男が女性の魅力にうっとりしない「男女平等」社会など、女性にとっても忌まわしい。ファッショナブルな服や化粧が要らない世界が面白いのか。結婚よりも仕事の方が上等なのか。フェミニストが主導する“女性が輝く社会”とは、卒業面の行かず後家が、大いばりできる社会だろう。老婆になったフェミニストを見ると、干からびた水商売のバアさんみたいで、思わずゾッとしてしまう。男に怨念を抱きながら老いるババアを見てもフェミニスト講座をとる女学生は、僻み根性の暗い子だろうし、明るい家庭も築けないだろう。卒業面にシワが寄ったらもっと醜くなるのにねぇ。これ以上言うと背中を刺されそうなので、今日はここでお開きに。




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