無敵の太陽

主要マスメディアでは解説されない政治問題・文化・社会現象などを論評する。固定観念では分からない問題を黒木頼景が明確に論ずる。

女性について

家族をつぶせ! 福島みずほの日本人憎悪

白人が消滅する西歐世界

   戦争でもないのに西歐世界でゲルマン系やケルト系白人の数が減少しており、その勢いが止まらない。原因は明白だ。若い男女が結婚しないとか、所帯をもって子供を産まない、あるいは一人しか持たぬよう決めているからだ。若者に性欲が無くなったり、生殖機能に異常が生じたわけでもなかろう。巷のメディアではセックス関連の記事や映像、流行などで溢れている。ファッション業界だって男女が恋愛をしているから、異性の気を引くような服が売れるのだ。先進国の少子化は、結婚の意味が不明確になったことや、出産より仕事の経歴と所得の方が重要視されたことが原因だろう。結婚が神聖で人生の一大事だった昔と違い、婚姻が男女間の共同生活契約みたいになっている。いつでも別れられる同棲生活の方が気楽でいいが、結婚した方が税制上、有利で得だから結婚しようとするカップルが多い。結婚生活が経済上の問題なら、生まれる子供は同棲上の「おまけ」程度だ。

  我が国のマスコミは真実を隠して嘘を撒き散らしながら、日本国民を不幸にしたい意図を持つ。なぜか? 全共闘世代が共産主義革命を起こして支配者になる夢があったが、日本の庶民が健全だったため、彼らに従わなかった。共産主義革命は日本人の生活をメチャクチャにして、貧乏にし、家庭を不幸にして、自暴自棄的人生にすることが重要である。平常心と良識を無くした日本人を大量生産することで、革命戦士軍団ができる。しかし、1970年代も末になると革命熱は消滅。元左翼学生は日本を共産主義国にできぬと悟っても、昔の癖が抜けないから、反日行動をついとってしまうのだ。テレビ局に潜む左翼スタッフがいつまでも左翼踊りを止めぬ理由がここにある。フランスのだらしない同棲婚や北欧の冷え切った家庭を理想とするのだ。少子化対策はヨーロッパに見習えと国民に説教垂れる評論家は、脳幹の中まで真っ赤に染まっているのだ。

  先進国の女性が出産・子育てよりもキャリア(career)を重要視するあまり、晩婚化が進み、出産したいと思ったら、卵子が減少し子宮が老化していた、てなことになっている。運良く妊娠できたって、40歳前後の女性では一人産んだら子宮はもうヘトヘトだ。肉体的にも辛い。彼女らが悔やんでも手遅れ。「後悔先に立たず」を噛みしめて晩年を送るのだ。有名なピュー・ヒスパニック・センターの調査報告書を覗いてみればよく分かる。(The New Demography of American Motherhood, Pew Research Center August 19, 2010)

  アメリカ人女性1000人あたりの子供の数か減少しているのである。1990年に10代の母親が533名だったのに2008年には441名になった。これが35歳以上の女性で母親になった者は、1990年に368名だったのが2008年には603名に増えている。つまり、若い母親が減って高齢の母親が増えていることになる。晩婚化が進んだのである。そこで、出生率を人種別で見てみることにする。( 1000人あたりの出生率)
             1990年        2008年
  白人        22                        14
  黒人               62                        33
    ヒスパニック     53                        38
    アジア人              14                        9

米国では白人女性の晩婚化と出生率減少が確実に進んでいるのだ。その反対にヒスパニック人口が増えている。白人の出生数は、1990年で2,713,000人なのに2008年には2,273,000に減っている。一方、ヒスパニックは1990年に595,000人だったのが2008年には1,039,000人に増えている。

  晩婚化と少子化の原因は、キャリア女性の考え方にもあった。人口や結婚について研究しているシルヴイア・ヒューレト(Sylvia Hewlett)は、企業で高い地位につく女性にインタヴュー調査を行った。ある女性(Polsky 44歳)は、地位が安定して次の出世ができた後に、子供をもてたらいい、と考えていたら、子供がもてる年齢を過ぎていた。別の女性で大学の医学研究者(Kate 52歳)は、キャリアのために30代を無駄にしてしまった。「ただ単に注意していなかった」と後悔している。(Sylvia Ann Hewlett, Executive Women and the Myth of Having It All, Harvard Business Review, April 2002)

  さらに困ったことに、高収入で高学歴を持つキャリア職の女性には、適当な結婚相手が少なくなっているのだ。まさか、彼女らより低収入で低学歴の平社員や肉体労働者では釣り合いがとれないし、自分より若い男たちは振り向いてくれないのである。食べ物に例えれば、賞味期限が切れた高級ハムは、見た目が良さそうでも誰も喰わない。ところが、同様の地位をもつ男たちは、結婚相手に高収入の地位が無くても平気で、若くて魅力的な女性を見つけて、結婚してしまうのだ。彼らは歳をとったキャリア女性には感心がない。乳房が干し柿みたいになっても、キャリア女性は桃尻娘みたいなロマンスを持ち続けているのだ。白馬にまたがった王子様ではなく、白衣の介護師が待っていることに気づかない。

  フェミニストが目指す「女性が輝く社会の実現」とは女性が晩婚化し子供をもたない社会を目指しているのだ。専業主婦はセックスしか能が無い低学歴の女がなるもので、高学歴の女性はその才能を企業で発揮して、輝く人生を歩むのだ、と洗脳する。自尊心をくすぐられた大卒女性は、キャリアを積むために貴重な20代や30代を費やしてしまう。30代後半になって、あわてて結婚しても一人子供を産めるだけ。それでも、フェミニストは子育てはつまらないから、社会(職場)復帰を勧めて、専業主婦を断念させようとする。そのために、配偶者控除を無くして夫婦共稼ぎにし、残された子供は託児所に預けろ、と主張する。これは働く女性を助けるためではなく、仲間である社会党・共産党の役人・福祉関係者に職を与えるためである。税金を子育て支援機関に回せば、赤い反日分子が託児所などで増殖するからだ。そして、既婚女性に経済力をつけさせ、離婚をしやすくし、家庭を崩壊させれば、グレた子供が増えて、革命戦士にしやすくなる。左翼弁護士は「明るい離婚」を宣伝してひと儲け。左翼政治家や赤い官僚に騙された「輝く女性」は、しわくちゃになった顔を見つめて、冷たい一人暮らしの老後と死を迎えるだけ。失った時間を返せ、と怒鳴ったって手遅れだ。

幸せな家庭を壊したい福島みずほ

  説明が長くなったが、こうした背景が頭に入っていないと、現在進行している「女性活用社会」の恐ろしい思想が分からないし、推進している人間の正体も曖昧になってしまうのだ。フェミニズムは根が深く、こんな説明では不十分である。今は、簡単な例をひとつ挙げておく。それは男女同権や女性の人権を、長年言い続けてきた社民党の福島瑞穂を取り上げてみる。

  福島瑞穂は極左弁護士であることは知られているが、その個人的過去はあまり知られていない。彼女は祖母、父、母、姉の五人家族に育った。あまり温かい家庭ではなかったのだろう。祖母は瑞穂の顔を覗いて、「おばあちゃんとおかあさんのどっちがすき? 」と聞くことがあった。その質問に瑞穂は答えなかったという。「おかあさん」と答えれば、祖母は不機嫌になるから、沈黙していたのである。父親は母親と妻の間で、微妙な立場にあった。母親はいつも何か心配そうな顔をしていた。瑞穂は母親が何か言葉をため込んでいるようで、母が幸せであると思えなかった。そこで瑞穂は、家制度に押しつぶされたくない、「嫁」とか「奥さん」とかいう役割は将来演じたくない、と決めたそうだ。( 福島瑞穂 「あなたも家から解放される? 」 『サンサーラ』 1991年2月号 p. 126)

  女を鋳型にはめる「家制度」はもうご免だ、と瑞穂は考えていた。結婚式によくある、「XX家」と「YY家」とのスピーチには、ケーキをぶつけたくなるほど嫌いだという。墓でも、「OO家之墓」というのを見れば、骨になってしまった夫と妻、兄弟姉妹、、嫁姑、親子などが来世でもケンカしているようで「ゾーッ」としてしまうらしい。でも、世間には仲睦まじい夫婦だっているし、仲のいい兄弟だっているだろう。「家制度」が心底嫌いだそうで、日本の墓地は暗くて「家」のオバケが出てきそうだって。なら、明るい霊園に墓を建てればいいだろう。

  政治家になる前、弁護士をしていた瑞穂は、離婚の相談を受けたときを回想する。離婚になると「家」の問題が出てくるから、話がややこしくなるのだ、と言う。離婚調停に双方の両親が出てくると話が難航するから厄介なんだって。また、瑞穂は「父親のいない子と息子を結婚させると戸籍が汚れる」から結婚に反対する母親のケースを話す。子供の結婚に関心がある親の方がまともじゃないか。しかし、「家意識」に縛られたことで生じる破談を一般化してしまう瑞穂は、やはり左に傾いている。

  終いには、「家」によって手足をしばられるのは、うっとうしいから「そろそろ終わりにしたいものだ」と語る。「あなたも家から解放される」という新興宗教の教祖に出もなって、金儲けをしようかな、と思う日々を送っていたそうである。(p.127)  いやぁ、本音を語っていたんだね、瑞穂よ。社会主義とか女性解放運動といった洗脳活動を指導する教祖になれたじゃないか。しかも、2億円の個人資産をもてたのだから、庶民よりも裕福になった。結婚してない亭主の渡部彰悟と一緒にいくら稼いだのか言ってみろ。社会党の仲間がうらやむぞ。他人の家庭を不幸にして喜ぶ奴に限って自分の生活は大切にするのだ。「社会に出て輝く女性」を謳っているが、本当は自分が社民党党首になれて輝いただけだろう。

  フェミニストは会社勤めの女性が出世に関して不満を持っていたり、夫婦生活に問題を抱えていることを承知している。そこで、家庭を離れて他人だらけの会社の方が幸せだと囁く。子供が邪魔なら、社会主義者の保母が面倒を見ると提案する。自分の子供は怪しい共産主義者の元で成長し、外で働く女性は我が子を心配しながら、職場で時間を磨りつぶす。家庭なんかつまらぬ場所と考えるようになった女性は、福島瑞穂の罠にかかったも同然。家庭は「拘束服」程度にしか考えていない瑞穂に騙されたと気づいた頃には、子供も夫も離れているか、他人みたいになっているかだ。詐欺に気づいた被害者と変わらない。女性の人権を人一倍叫んでいた瑞穂が、拉致被害者に対しては冷酷だったとを思い出すべきだ。女性の人権を瑞穂のような社会主義者が主張するときは、革命同志をつくるときだけである。日本の女性にはいい加減「女性の権利」とか言ってる「悪徳政治家」を駆除するよう願いたい。女性の権利や幸福を擁護するのは「女性議員」という幻想は捨てるべきだ。



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フェミニズムの起源

容姿と能力の分別

    世界中の人間は千差万別だからそれぞれ違う。人間は皆平等に創られたというのは、透明人間は皆平等と言うのと同じ。10億年前のホモサピエンスを想像して「人権」や「人類みな兄弟」と教えている教師は、世間に出れは「潰しのきかない」ろくでなし、か大きな子供。親方日の丸の公務員が「男女平等」「能力主義」と言うのを商売人が聞けば、「役人には倒産の心配がないからね」と侮蔑のこもった笑いがこぼれてしまう。

  努力して習得できる能力(ability)と天賦の才(gift)があるように、容姿にだって違いがある。量(quantity)と質(quality)がそうである。体重を減らしたり、筋肉を増強することは努力で何とかなる。しかし、人種や容貌は生来の質であるから、神様が不平等に采配しているのだ。これを承知できないブスがフェミニストになったりする。

  この理由はなかなか言い辛いから、公で口にしない方がいい。醜女(しこめ)は在学中に男から誘われないから、勉強する時間がたくさんある。もっとも、物理や数学を勉強してくれれば、かなり社会に貢献するのだが、もともと凡庸だったりするので文系を選んだりする。ブスに生まれた私怨(resentment)が彼女らを女性学や政治学に向かわせてしまうのだ。(くれぐれも田嶋陽子を想像しないでもらいたい。) 学問への情熱ではなく、不美人を蔑ろにする社会への復讐心をバネに、大学院まで進んでしまうから厄介である。「女性学」というつまらぬ学位をとったとて世間で通用しないから、精神病患者収容施設である大学に就職するのだ。

  こうした醜女教授がさらに無邪気なブス学生を手なずけて弟子にすると、不動の学界ピラミッドが形成されるのである。ここからスピン・オフでフェミニスト官僚が役所と政府に浸透するのは見ての通り。大勢の男どもが競って美人学生に言い寄る光景を横目で見ながら、深夜の図書館で公務員試験勉強をするブスの怨みは恐ろしい。ついでに言うと、ルサンチマン(resentment)という言葉は、ある感情が何度も繰り返し現れることを意味している。男への敵意と美人への嫉妬がブスの孤独な心に何度も沸き上がってくる。押さえれば更に圧力が高まり、反動が大きくなって制禦不能となる。だから、十年二十年、いや生涯、男社会の転覆打倒に精魂を傾けることが出来るのだ。


渡る世間は不平等

  女は男と同様に能力で評価されねばならぬのか。美人が下着姿でモデルをやって大金を稼ぐこともあれば、ブスが工場で下着を縫っても基本給だけしかもらえない場合だってある。魅力的だから若くして結婚ができ、子供を産んで幸せな専業主婦を敵視するのは、子宮が萎んでも乳腺が枯れても独身のフェミニストくらいなものだ。フェミニストだって、いつか自分にも素敵な殿方が現れると妄想するが、気づけば40年が経ってしまったケースがよくある。預言者モーゼは同胞を率いて40年間砂漠を放浪したがシオン(約束の地)に着いた。しかし、フェミニストが率いるブス旅団は人生の荒んだ砂漠を永遠に流浪するしかない。フェミニズムの終着駅は錆び付いた無人駅の如し。井上陽水的に言えば、雨が降ってるのに『傘がない』、吹雪が荒れる『氷の世界』に一人で住んでいるようなもの。若い醜女はそれに気づかない。
  「女性差別反対!」と金切り声をあげて、「能力主義」を言い張る女には鳥肌が立つ。男が「女らしさ」を口にすればオス化したメスは「女性蔑視」だとわめき、「能力があるなら自営業を始めろ」と反論すれば、ヒステリーを起こして「ギァー」で終わり。本当に能力がある女性は叫ばない。たとえば、旅館や料亭の女将、大工棟梁の奥さん、保険の外交員のオバチャンなど。

  容姿格差はテニス界を見てみればよく分かる。日本でも有名なマリア・シャラポアは2004年のウィンブルドンで優勝したくらい実力もあったが、それ以上に目立つ美人である。しかし、実力の点から比較すれば、ヴィーナスとセレーナ・ウィリアムズ姉妹の方が実力は上である。テニスの試合では得点という実力で評価されるから誰も文句は言わないだろう。黒人姉妹の盛り上がった筋肉は男でさえ感嘆する。

  ところが、モデルの世界では実力評価の基準が消えて、主観的な基準から外見で判断される。モデル出演のギャラがまちまちだし、人気だって国や民族によって違ってくる。ランクではセレーナ・ウィリアムズの方が上で、美貌に恵まれたウージニーブシャールやダニエラ・ハンチコバの方が下だろう。日本で各人の写真集を出版したらどれが売れるか。ウィリアムズ姉妹の写真集は人気がでるとは思えない。アフリカでなら黒人男性が買い求めるだろうが、日本や欧米では難しい。シャラポワのポスターや写真集ならヒットするから出版社も喜んで投資するだろうし、スポーツ・メーカーもこぞってラケットやウェアを提供するだろう。

  選手の渾名でも違いがでてくる。「妖精」なんて「ネッシー」や「河童」と同じで、誰も見たことはない。それなのにシャラポワが来日したとき、テレビ局は彼女を「ロシアの妖精」と紹介していた。妖艶だから妖精なのか。では、ウィリアムズ姉妹を「アフリカのキング・コング」とか「アメリカのゴジラ」と呼んでいいものだろうか。とちらも創作物だからシャワポワの場合と同じ理屈だ。

  テニス・コートで黒人だから点数を減らしたり、外人だから優勝してもトロフィーを授与しないのは、不当な差別である。しかし、誰が美しくて、人気があって、礼賛されるかは、各国各人の自由なはずである。左翼が憧れる「平等社会」では、皆が醜美の区別無く暮らす世界か。能力だけが評価の基準で、両親や神様の贈り物で判断してはならぬのか。法律で皆を平等にできるとは思えない。どうしたって人の心には区別差別の気持ちが生まれてくる。全員を美男美女にできないが、全員を醜くすることなら出来る。顔に硫酸を掛けるか、鼻を削ぎ落とせば皆平等に醜くなる。あとは能力主義の世の中になるかもしれない。しかし、そんな世界に住みたい日本人は居ないだろう。

  フェミニストの中にも、美しく生まれたら素直な少女時代を過ごし、幸せな結婚をして子宝に恵まれる平凡な人生を送れたはずの者がいるだろう。鏡を見ながら世の男を怨む日々を送っても自らが不幸になるだけだ。男だって色々な趣味の奴もいるのだ。「蓼(たで)食う虫も好きすき」と言うではないか。寿命がある人生なんだから、明るく生きたらいいのにね。




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