無敵の太陽

主要マスメディアでは解説されない政治問題・文化・社会現象などを論評する。固定観念では分からない問題を黒木頼景が明確に論ずる。

アメリカ合衆国

マック・ポテトは車軸グリースで揚げてある? 恐ろしい外食・加工食品業界

加工食品を食べないことがベスト

  年末から正月にかけてマクドナルドの異物混入問題がマスコミを賑わせている。チキン・ナゲットにピニールの切れ端が混じっていた、とかフライド・ポテトに人の歯が入っていたとか、まるで笑えないフォーチュン・クッキーみたいだ。(おみクジが入ったクッキーで、支那料理店で出される。)今頃になってファスト・フードに驚いているが、多少なりとも加工食品や“ジャンク”・フードの製造過程を知っている日本人なら、さして目新しい事件ではない。むしろ、胸が悪くなるような素材や製造工程に無知な国民が、あまりにも大勢いることの方が問題である。

  以前、米国のABCテレビが「ピンク・スライム(pink slime)」と呼ばれる、ハンバーグ用の挽肉加工品を取材し、その驚くべき製造過程を暴露した。よくファスト・フード店で、ハンバーガーを注文すると、丸く型どった冷凍の生肉を鉄板で焼いているのを、一般人でも知っているだろう。このピンク・スライムは、精肉店で客に見せて販売できない屑肉を集めて、グラインダーで作られるのだ。肩や背骨の削ぎ落とし肉や固いスジ肉、捨てるような臓器をまとめて挽肉にするのだ。グラインダーからパイプに送られてくる混合肉に、アンモニア・ガスを振りかけてバクテリアなどを殺菌消毒する。こうして化学処理をした練り物の出来上がり。このピンク色でスライム状の捨て肉を手頃なサイズに固めて、冷凍パッケージすれば、あとは各店に配送するだけだ。(Jim Avila, 70Percent of Ground Beef at Supermarkets Contains ‘Pink Slime’, ABC New, March 7, 2012) この「はんぺん」みたいな練り物を見たら、とても食欲がわくとは思えない。廃棄するはずの肉を化学薬品で変身させ、ハンバークの素にするのは、企業からすれば合理的であり、利潤の高い製造方法である。一般人は怒るだろうが、消費者の健康より、株価の上下の方が大切なのだ。

  マグドナルトのフライド・ポテトは、大人だけではなく、子供にも人気がある。しかし、一般客はどうして旨いのか気にしない。ジャガイモだから安心とは限らないのだ。フライド・ポテトの危険性は、その揚げ油である「パーム油」にあった。1971年、アール・バッツがニクソン大統領によって、農務長官に任命された。彼は政府の規制を撤廃し、生産者の市場を広げて、大規模な穀物輸出を成立させたのである。国による穀物貯蔵というシステムに終止符を打ち、生産者がいつでも好きな時に好きな場所で売れるようにした。農作物生産者たち収入も増え、同時にインスタント食品メーカーも、市場に出回る過剰トウモロコシを喜んだ。安くなった原材料で、各メーカーはこぞって新商品を開発したのである。

  また、以前まで戦略物資だった砂糖は高値であったが、その値段もだいぶ安くなったのである。それは日本人が高果糖コーンシロップ(HFCS)を発明したお陰であった。ショ糖よりも六倍甘くのに安いトウモロコシから作られるので、糖分の高い製品を生産するときのコストが大幅に削減できた。この果糖を使うと、加工食品の見た目も良くなり、一石二鳥である。だが、ショ糖やブドウ糖は体内で複雑な分解過程を経て肝臓に達するが、果糖はその過程を経ずにほとんどそのままで肝臓に蓄積されるのだ。甘味料のほとんどを果糖から摂取すれば、代謝の過程で多量の過程が体内に入り込むのである。こんなことが科学者の間で話題になっても、食品業界と癒着する政治家や官僚にかかれば、果糖は他の糖とたいして変わらない。大問題とはならず、たんに量の問題だ、とされてしまった。御白洲(公聴会)では、ちょっとだけの摂取なら問題なし。これにて一件落着だ。(グレッグ・クライツァー 『デブの帝国』 竹迫仁子 訳 バシリコ 2003年p.20)  

  こうした食品業界の中で注目されたのが、「パーム油」であった。バッツ長官が自由貿易を推進し、パーム油の生産・精製を行っているマレーシアから、安くて大量のパーム油が米国に輸入されるようになった。パーム油の原料となるアブラヤシは、もともとイギリス人支配者がブランテーション向けの作物として広めたのである。貧しいマレー人によって、大量に生産されるこの一次農産品は、現地政治家の出世をも左右するようになったという。このパーム油は化学的に見たら普通の植物油よりも牛脂に近く、精製が難しい。アメリカの輸入業者は、それを「車軸グリース」と呼び、ライバル業者は「樹木ラード」と呼んだのである。(p.25) 1970年代半ば、その樹木ラードは技術進歩のお陰で、活用範囲の広い商業用油脂となった。ポテトを揚げるにも、マーガリン、クッキー、パン、パイを作るにも、インスタント食品を製造するにも適していた。まさしくパーム油革命だ。

  パーム油は安定した油脂なので、その油を使った製品はスーパーの棚に永久陳列できる。しかも、舌触りが良くなるので、メーカーは益々パーム油を多く使うことになった。そうなれば高カロリー食品になるのであるが、当時は二次的問題であった。一番重要なのは、パーム油の価格が、信じられないくらい安かったし、一年を通して価格が安定していたことだ。それというのも、アブラヤシは一年中生い茂るからだ。パーム油は分子構造がラードと似ているため、他の植物油よりも味が良かった。しかも、飽和脂肪酸を多く含むので、パーム油支持者は、密かにそれを「植物油の顔をした牛脂」と呼んでいたのである。

  アメリカの健康医療専門家らは、既に飽和脂肪酸が心血管組織に悪いことを知っていた。飽和脂肪酸は動脈を詰まらせ、血圧を上昇させ、摂取すると早死にする確率が高くなる。農業問題の公聴会で、ある委員は「パーム油はラード(豚脂)よりも飽和脂肪酸を多く含む油脂です」と証言した。しかし、医学会の権威は誰一人として公聴会に出てきて、パーム油に反対を表明しなかった。パーム油なんて小さな問題に関わりたくなかったし、仕事が多すぎる食品医薬局にとっては些細なことであった。それに農務省は業界団体にベッタリで、パーム油支持に回っていたのだ。国民の健康問題より、農産物の国際市場や業界の利益が大切だったのだ。

ビッグ・サイズで売れ

  ファスト・フード業界では、こんなパーム油で揚げたポテトを、消費者により多く売り、利益を拡大するための戦略が取られた。マクドナルド中興の立役者、デイヴット・ウォーラスタインは、マクドナルドでフライド・ポテトのスーパー・サイズを導入したのである。マクドナルドの重役になる前、彼は映画館の経営に携わっていた。映画館は鑑賞券で大きな利益を上げるわけではない。館内で売るドリンクやスナック菓子、ポップコーンの方が利幅が大きいのである。ウォーラスティンはある日気がついた。客はポップコーンの袋を二つも買いたくないが、実は二つくらい買いたい。二つ買うのは恥ずかしいか、本音では二袋分食いたいのだ。そこでウォーラスティンは、ポップコーンの容器を大きくして、値段を少しだけ上げて販売してみた。すると一週間後ポップコーンの売り上げだけではなく、利ざやの大きいコカ・コーラの売り上げも伸びたのである。

  ウォーラスティンはマクドナルドで同じ事を試みようとした。1970年代半ば、同社は客の財布の紐が堅くなり、客足も遠のき、収益が落ちていた。同社の創業者レイ・クロックは当初反対したが、何とか説得して、ジャンボ・サイズのポテトを販売したのである。結果は大成功。このビッグ・サイズ戦略は、他のメニューにも適応されるようになった。しかし、マクドナルド社の中間管理職は、この販売方式を「ディスカウント」としか見なさず、イメージ・ダウンになるのではないかと懸念していた。

  そこに、アラバマ州バーミンガムで、フランチャイズ権を購入したマックス・クーパーが登場し、マクドナルドに多大な貢献をしたのである。顧客減少に苦しむマクドナルドは、コスト削減や商品値下げの限度に達していた。クーパーは収益性の高いドリンクとポテトに注目し、それを収益性の低いハンバーガーと組み合わせれば、売り上げを伸ばすことが出来る、と踏んだのである。経営陣を説得する以前から、彼は後に「バリュー・セット」と呼ばれる商品を売り出していたのである。これがジャンボ・サイズの原形である。「ビッグ・マック・セット」、「フィシュ、フライド・ポテト、ドリンクにパイ」、「独立記念日バリュー・コンボ」の広告を流したのである。売り上げは飛躍的に伸びた。

  「バリュー・セット」の発案者はペプシ・コーラ社のジョン・マーティンであった。彼は経営難のタコベル(メキシコ料理のタコスのファスト・フードチェーン)を立て直したやり手であった。彼は客足が遠のいているのは、リピーター率低下に原因があると解った。顧客にとっては味や見た目ではなく、価格と価値(バリュー)が来店のキー・ポイントであった。客の多くが、「より安く、より多く」を求めていたのだ。日本マクドナルドでも一時期、格安ハンバーガーを販売し、大勢の客が殺到することがあった。日米で客の性格と思考は同じである。1988年にマーティンは全米で「バリュー・セット」を展開して、劇的な効果をあげた。彼はタコベルを再生させたのである。(p.41) 当初は無視していたマクドナルドも、次第にこの販売方式を取り入れて、独自のバリューセット作戦を開始したのである。

下層民ほどよく太る

  ジャンク・フード店で外食したり、ジャンボ・サイズ・メニューを注文するような人は、下層階級に多い。ファスト・フード文化の普及で、国民的肥満が社会問題になった。しかも、問題が厄介なのは下層白人ばかりではなく、ヒスパニックや黒人の子供にまで及んでいるからだ。甘味料満載なうえに、高カロリーで塩分の多いジャンク・フードを、下層民ほど多く食べている。マクドナルドは土曜の午前中に放送される子供番組で、集中的広告を流し、子供の集客にターゲットを絞ったのだ。テレビで洗脳された子供は、親に店へ連れて行ってくれとせがむようになるだろう。また、親子揃ってテレビを観ながらポテト・チップスを食べているのだから、尚更下層階級は太ってしまう。貧困層、黒人、ヒスパニックは、白人よりもテレビ視聴時間が長いだけでなく、運動する時間が短い。その原因は、家庭の躾や肥満意識の希薄さもあったが、貧民は危険地帯に住んでいるから、環境が野外で運動する機会を阻害していたのである。治安が悪い地区に住む親としては、近所で子供が遊んでいる時に、銃で撃たれたり、強姦されたり、誘拐されるのでは、といった心配が常にある。それに街頭にはストリート・ギャングや素行の悪い不良がいるから、子供が誘惑されたり、非行に走ったりするかもしれない。(p.106) だから、室内で遊んだり、テレビを観ていた方が安心できるのだ。

  テレビCMでジャンク・フードを食べる子供は、低所得者家庭に多いのはよく解る。彼らは健康よりも、安いものをたくさん食べることで幸せを感じるのだ。下層階級の黒人やヒスパニックには信じられないくらいのデブがいる。子供の頃からジャンク・フードを食べているから、脳がそれに馴れていて大人になっても食べ続ける。子供が生まれたら、子連れでファスト・フードに出かけてしまう。こうして親子代々のデブという悪循環かできる。しかも、意思が弱くて低能だから、医者が注意しても従わない。中流階級の西欧系白人には、痩せていたり、スポーツで体形を保っている人が多い。しかも、禁酒・禁煙している人や、ベジタリアンまで居るのだ。健康に関しても階級格差が顕著なのが米国である。悲しいのは、肥満による成人病が下層階級の特徴になって、固定化するのである。それに、デブな下層民ほど医療費がかさむのに、保険の掛け金が払えない。日本では格差社会と騒いでいるが、貧富の格差が固定し、特定の人たちが下層民の悪循環に陥るかも知れない。日本もアメリカ社会と同じ轍(てつ)を踏むことになるだろう。マクドナルドの食品に異物が混入していたことよりも、いまだに多くの日本国民が、ジャンク・フードという病気の素を口にしていることの方が、深刻な問題である。



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嘘で固めた過去をもつ国務長官 / 破廉恥なユダヤ人

ユダヤ人の素性を隠すジョン・ケリー
  
  アメリカの世界戦略で重要な役割を果たす国務長官ジョン・ケリー(John Kerry)のことを日本人はよく知らない。シリア内戦の長期化やウクライナ問題で揉めるロシアを扱う政府高官なのに、日本のマスコミはどんな人物なのかを報道しないのだ。町内会長を選ぶ時だって、その人物がどんな家庭の出身か、あるいは過去にどんなことをしたのかを知りたくなるだろう。歌手や俳優の藝人だって皆その過去を知りたいから、暴露雑誌が売れるのだ。藝に関係ないのに、在日朝鮮人の家庭であるとか、ヤクザと交際関係をもつとの噂を、お金を払ってまで覗(のぞ)こうとする。そんなの我々の家計に関係ないだろう。だが、合衆国政府の閣僚は違う。我々の国富が吸い上げられたり、場合によっては一大事に巻き込まれたりするのだ。

  上院議員だったジョン・ケリーは地元のマサチューセッツ州民から、アイルランド移民の子孫だと思われていた。ところが、このケリー氏は「コーン(Kohn)」というユダヤ人の孫であった。(Jennifer Anne Perez, A Jewish Czech in John Kerry's Cout, Reform Judaism Magazine, Vol.32, No.1, Fall 2003) ユダヤ人という異教徒では選挙の時不利だから、アイリス系カトリック信徒だと偽ったのである。ジョン・F・ケネディー大統領の出身地だから、カトリック信徒の支持が得やすいと計算したのだろう。ところが、このケリーは実にとんでもない嘘つきで卑怯者であった。日本人なら呆れてしまう。手始めに、ケリーの家系を辿ってみたい。

  チェコのホーニ・ベネショフ(Horni Benesov)という町で、ベネディクト・コーン(Benedikt Kohn) と妻マチルダ(Mathilde) との間に、フリッツ(fritz)という息子が生まれた。このユダヤ人夫婦の子供は、成長して醸造酒業者になったが、ドイツ人が多数派の土地で成功するのは難しかった。たいていのユダヤ人は商売上その素性を隠し、異教徒すなわちキリスト教徒のふりをしていたのである。

  やがて、フリッツ・コーンはアイダ(Ida)というユダヤ人女性と結婚し、エリック(Erich)という息子をもうけた。1902年3月17日にコーン家は、ウィーンの役所に赴き姓をコーンからケリー(Kerry)に変えることにした。かくして、フリッツ・コーンはフレデリック・ケリー(Frederick Kerry)に変身したのである。ちょうど在日朝鮮人が素性を隠すために、日本名を附けるのと似ている。新生ケリー家は三年ほどオーストリアに住んでから、1905年5月イタリアのジェノアからコーニンゲン・ルイーズ号に乗って米国へ移住した。ケリー親子は一等船室に乗り、フランス人やスイス人らと混じって、ニュー・ヨークのエリス・アイランドに到着したのである。移民の関所たるエリス・アイランドで、フレデリックは移民入管職員に、オーストリアからのドイツ人一家だと申告した。オーストリアのウィーンに在住していたのは事実だろうが、ユダヤ人のくせにドイツ人を騙(かた)るなど、ジョン・ケリーの虚言癖は祖父譲りなのであろう。こうして入管所の門をくぐりながら、フレデリック・ケリーはユダヤ人の家系を捨てたのである。

  フレデリック・ケリーはシカゴに家を持ち、ディアボーン通りにオフィスとを構え、ビジネス・コンサルタントとして働いた。その後何らかの理由でマサチセッツ州に引っ越し、1915年に三番目の子リチャード(Richard)が生まれた。この息子が将来の上院議員ジョン・ケリーの父親になるのだ。国勢調査で彼らは母語をドイツ語と答えていたが、実際はイデッシュ(ユダヤ人の言葉)を喋っていたのである。信仰面ではカトリック教徒で通していた。順調だったビジネスに翳りが差し、1921年フレデリックは破産を苦にして、拳銃を手に取り、自殺してしまったのだ。享年48。それでも息子のリチャードはめげなかった。何とか成功を手にして、名家の令嬢ローズマリー・フォーブス(Rosemary Forbes)と結婚したのである。彼女は裕福で有名なフォーブス家と、米国史に輝くウィンスロップ(Winthrop)家の血を引くお嬢様であった。嫁の威光もあって、リチャードは外交官になり、オスロやベルリン、パリに赴任したという。

  1943年12月11日、リチャードとローズマリーに長男が生まれ、ジョン・フォーブス・ケリーと名付けられた。この息子がオバマ政権の国務長官である。嫡男ジョンは、イェール大学に進み、同期にはジョージ・W・ブッシュがいて、共に有名なクラブ「スカル・アンド・ボーンズ(Scull & Bones)」に入会している。卒業すると海軍に入り、ベトナム戦争に従軍するが、帰国後反戦運動を起こして世間の注目をを浴びる。その後は、政治の道を歩み始め、1982年にマサチューセツ州知事のマイケル・デュカキスのもとで副知事をつとめた。1984年には上院議員に当選する。面白いことに、デュカキスが大統領選でジョージH.W.ブッシュ(父)に敗れ、ケリーが息子のジョージW.ブッシュに再び負けている。そういえば、ミット・ロムニー元マサチューセッツ州知事も大統領選で落ちてしまった。東部リベラル派は全米規模の選挙になると弱い。ちなみに、ケリーは共和党上院議員だったヘンリー・ハインツ(Henry John Heinz III)3世の未亡人テレサと結婚している。彼はあのケチャプで有名なハインツ社の御曹司であった。そのヘンリー亡き後、テレサ(Maria Teresa Heinz/旧姓Thierstein Simões)夫人はケリーと出逢って再婚したのである。ケリーは人脈と財産を得たわけだ。

  上院議員時代、ケリーは新聞の調査(2000年頃)で自分の家系を知った、と語っている。だが、「自分がユダヤ人だったとは知らなかった」という彼の告白は怪しい。ジョン・ケリーには弟キャメロン(Cameron Kerry)がいて、兄の選挙参謀を務めるなど仲がいい。この弟は1983年にキャシー・ワインマン(Kathy Weinman)というユダヤ人女性と結婚したのを機に、ユダヤ教に改宗していたのだ。(E.J. Kessler, Kerry Relies on Cam, His Jewish Brother, The Jewish Daily Forward, March 5, 2004) 通常は、新郎がキリスト教国のキリスト教徒で、新婦がユダヤ教徒の場合、妻の方がキリスト教に改宗する。ボストンで生まれ育って、ずうっとカトリック信徒であったのに、毎週会っていた神父や友人、同僚との宗教的絆を断ち切ってまで、異質なユダヤ教に改宗するなど異常だ。日本人にはピンとこないが、ユダヤ教徒に改宗すると、割礼(circumcision)を受けることになる。割礼とはペニスの包皮を切除する儀式。想像しただけでも痛そう。(日本人女性は赤面するだろうが、旧約聖書の創世記(17:11-14)を読んで下さい。) キャメロンは自分がユダヤ人だということを知っていたのではないか? だからユダヤ教に鞍替えすることを躊躇しなかったのでは。ケリー兄弟は祖父のことも知っていたが、キリスト教徒の仮面をつけた方が何かと重宝だから、計算ずくでカトリック教会に通っていたのであろう。仮面を外しても大丈夫な時期になったから、簡単に脱ぎ捨てた、と考える方が筋が通る。国務長官になってイスラエルを訪問したケリーは、同胞として暖かく歓迎されたのである。(Jews, pro-Israel community warm to prospect of John Kerry as U.S.secretary of state, Haaretz, Decmber 26, 2012) こうした歓迎の背景には、イスラエル・ロビーの暗躍と裏取引があるのを、日本人は忘れてはならない。

卑劣なユダヤ人に偽りの勲章

  米国で議員選挙に出馬する時に候補者は、学歴よりも軍歴の方を自慢する。親子で大統領になったブッシュ家も、父は第二次世界大戦でパイロットとして従軍したことを誇っている。幸か不幸か、わが帝國海軍に撃墜されたジョージ・ブッシュは海に投げ込まれ、かろうじて命を取り留めた。大統領となって日本を訪問したとき、テニスのプレー中に倒れて、また死に損なったのである。祟りか? 息子のジョージ・Wはイェール大とハーバード・ビジネス・スクール卒だが、テキサス州空軍のパイロット出身を強調している。アメリカではガリ勉の秀才より、たくましい軍人の方が格好いいし、女にモテるのだ。東大法学部卒が売りの能無し議員とは、やはり根本的に違う。

  イェール大学卒のケリーは1966年2月18日、合衆国海軍予備役(U.S. Navy Reserves)に入った。ケリーはベトナム戦争で二度の戦闘経験をもつと宣伝しているし、その内容はダグラス・ブリンクリー(Douglas Brinkley)の評伝『義務の出陣(Tour of Duty)』に記されている。ただし、ブリンクリーはケリーの提灯持ち作家だから注意が必要。1968年ベトナムに派遣されたケリーは、湾岸偵察の高速艇(Swift Boat)組員に志願して承諾された。高速艇というのは武装されていない六人乗りボートで、船のスピードと乗員の武器だけが頼りである。政治家になったケリーが、ジャーナリストを前にしてインタヴューを受けるときには、いつも戦争体験を誇張する癖があるので用心せねばならない。彼の上官であったグラント・ヒバード(Grant Hibbard)司令官によれば、ケリーはいつか次のJFK(つまりマサチューセッツ州出身の大統領)になるんだ、と周囲の者に吹聴していたという。ケネディー大統領に憧れていたケリーは、当時から政治的野心を持って入隊してきたのである。

  一応スウィフト・ボート(高速艇)の隊長になったケリー中尉は、パープル・ハート(Purple Heart)勲章を3つ、ブロンズ・スター(Bronz Star)勲章を1つ、シルバー・スター(Silver Star)勲章を1つを授与された英雄らしい。パープル・ハートは名誉の負傷をした者に、ブロンズ・スターは戦場で英雄的または名誉な奉仕をした者に、シルバー・スターは敵との交戦で勇敢な行動をとった者に、それぞれ贈られる勲章である。ジョン・ケリーが語る武勲は、同じ部隊の仲間から悉く否定されている。実際の行動を目撃した戦友は、ケリーを蛇蝎(だかつ)の如く嫌っているのだ。(John O'Neill and Jerome R. Corsi, Unfit for Command, Regnery Publishing, Inc., 2004参照)
  ケリーが大統領選挙に出ると宣言した時、嘗ての仲間ジョン・オニールは、ケリーの英雄譚がホラと知っていたので腹が立った。たまりかねたオニールは、昔の戦友や上官らに呼びかけて、ケリーを糾弾する退役兵組織を結成したのである。あんな卑怯者が最高司令官(大統領)になるなんて、命を賭けて戦った将兵には堪えられない。願いが叶ってケリーは大統領選挙でで敗れた。めでたし、めでたし。

  ケリーの“英雄的行為”は真っ赤な嘘で、実態とはかけ離れた報告に基づく受勲であった。1968年12月8日、カムラン湾北部の沿岸をボートでパトロールしていたケリーは、ベトコン兵らしき者が平船(サンパン)を岸に着けて、何らかの荷下ろしをしていたのである。明け方前でまだ暗い中、ケリーは突如照明弾を発射し、ベトナム人が照らし出された。早速ケリーはM-16ライフルを発射しようとするが、ジャミング(故障)で使い物にならない。そこでM-79グルネード・ランチャー(擲弾銃)を掴み発射したのだが、撃ち方が素人なので、発砲時に飛び散った小さな破片が腕に刺さってしまった。(上掲書 p.37) しかし、それは単なるかすり傷だった。

  ところが、ケリーが発見したのはベトコン兵などではなく、たんなる現地の人夫らしく、銃による交戦・敵兵の攻撃など全くなかった。暗闇でベトナム人を敵兵と勝手に思ったケリーが、焦って銃を撃ち始めたのだ。敵襲と思った仲間は、それに釣られて撃ちまくった。結局分かったのは、ビビッたケリーの早合点。基地に帰還したケリーは、自分のヘマで出血した腕を、ルイス・レトソン軍医に見せて治療してもったという。深刻な顔をして現れたケリーに対して、レトソン軍医は「どうして、ここに来たんだ?」と尋ねたくらい軽傷だった。治療は破片を取り除き、傷口に絆創膏を貼って終わり。部隊の仲間が負傷の真相をレトソン軍医に話したから、後々まで軍医はずっと覚えていたのである。こんな失態を犯したのに、ケリーはヒバート司令官のオフィスを尋ねて、勲章をねだったのである。戦闘無しの報告を受けていた司令官は、馬鹿らしくて直ぐさま却下。(p.40) それなのに3ヶ月後、ケリーはパープル・ハート勲章を手にしてしまったのだ。何らかの裏工作で入手したのだろう。でも、自分のヘマで名誉負傷の勲章をもらうとは。トホホ。

  二度目のパープル・ハート受勲も、虚偽の負傷によるものであった。1969年2月20日、ソン・ボ・デ川をボートで偵察中に、ベトコン兵に攻撃され、ケリーは左脚にロケット砲の破片が刺さったという。血が船のデッキに流れた、と報告している。だが、これも嘘。同行していた士官のロッキー・ヒルドレスによれば、敵軍からの攻撃など無かったらしい。(p.78)「流血が甲板に流れた」というのは誇張されたホラである。ヒルドレスによれば、自分のボートが川に仕掛けてある水雷に引っかかって、敵兵から攻撃を受ける罠にはまった。しかし、先頭のボートに乗っていたケリーは、砲撃を受ける仲間を見捨ててそのまま逃げてしまった。ヒルドレスと部隊員はその待ち伏せ攻撃を自分たちだけで脱出するしかなかったという。

  1969年2月28日の偵察中、ケリーや同じ部隊のダグ・リースはそれぞれボートに乗り込んでいたが、河岸からベトコン兵による攻撃を受けた。リースのボートが先に河岸へ上陸し、敵兵を迎え撃ち、やっと掃討したのである。後からようやく、ケリーたちの部隊が上陸したきた。そこで勇ましいケリーは、負傷した幼いベトコン兵を見つけたらしい。たった一人で逃げようとする弱々しい少年兵を、ケリーは背後から射殺した。(p.85) これでシルバー・スター勲章をもらった。ゲーム・センターの射撃ゲームみたいな得点で、滅多に貰えない勲章をゲット。ウソみたいなホントの話。これが敵との交戦中に勇敢な行為なのか。

  1969年3月13日の偵察で、ケリーはベトコンの備蓄米を発見し、台無しにしようと手榴弾を投げ込んだ。しかし、あまりにも近くに投げて爆発させたので、立ち去ろうとしたケリーは自分の尻に怪我を負ってしまった。だが、ケリーは地雷による負傷と報告している。これで三度目のパープル・ハートを受勲。同じ日には、仲間を助けたことで英雄的行為となった。ジャック・チェノウェス(Jack Chenoweth)のボートは、ケリーのボートより前を航行し、デック・ピースはPCF3(偵察ボート)を指揮していた。ピースのボートが水雷の爆発で破壊され、クルーが川に放り出された。敵兵の攻撃は一切無かったのに、ケリーのボートはその場を逃げてしまった。チェノウェスは水中の仲間を拾い上げた。そうこうしているうちに、遙か彼方に逃げたケリーが戻ってきて、川に浮かぶジム・ラスマンを救出した。(pp.87-88) これでケリーはブロンズ・スター勲章をもらったのである。これのどこが英雄的行為や名誉ある功績なのか。

  祖国に帰還するとケリーはベトナム戦争反対の旗手となる。あの有名なウィリアム・フルブライト(William Fulbright)上院議員が主宰する上院委員会に出席した。彼は米兵による数々の残虐行為を証言することで米国を非難したのだ。アメリカ兵は、ベトナム人女を強姦し、ベトナム人の手足や耳、首を切断し、民間人を手当たり次第撃ち殺し、チンギス・ハンのように村を掠奪した。男性の睾丸に電話線を巻き付けて電流を流すこともやったという。犬や家畜を面白がって殺したり、食料に毒を混ぜることまでして、南ベトナムを徹底的に破壊したと、公言する。(p.103) ケリーの反米活動を詳しく述べたら長くなるので、あとはオニール氏の著書を読んで下さい。

  泥沼化したベトナム戦争への抗議デモが吹き荒れていた当時、ケリーも反戦デモ(Vietam Veteran Against War)に加わっていた。不平不満の帰還兵等が政府に怒りをぶつける目的で、授与された勲章を放り投げるパフォーマンスを行っていたのである。反戦のヒーローであるケリーもメダルを投げ捨てたという。しかし、彼が1984年に上院議員選出馬したとき、ジャーナリストらは驚愕した。ケリーのオフィスの壁に、投げ捨てたはずの勲章が大切に飾られていたのだ。ケリーの弁明によれば、彼が投げたのはデモで知り合った軍人のメダルで、自分の勲章は大事に保管していたという。2004年の大統領選挙中に、ケリーは実際、自分のメダルを抗議デモの際になげたのでは、との疑惑が再浮上した。1971年のABCニューズのインタヴューでは、自分のメダルを投げたと明言していたからだ。メダル投げ捨てを否定するケリーに、ABC側が昔の映像を呈示すると、彼は不機嫌になったという。一部のアメリカ人は議員になったケリーが、政治権力を用いてメダルを再取得したのではないか、と疑っていたのだ。意固地になったケリーは、メダルではなくリボンを投げただけ、と言い張っていた。

  政治家になるために、祖国を罵倒する反戦活動家から愛国者に偏したケリーは、本当に恥知らずのクズである。薄汚いケリーは大統領になれなかったが、隠れ共産主義者オバマによって国務長官に就任した。こんな卑怯者が、シリア内戦やウクライナ問題、支那軍膨張、日米関係を仕切っているのだ。腹立たしいのは、日本のマスコミが大統領選挙中でさえ、ケリーの素性や過去を一切報道してこなかったことである。テレビの特番や新聞での報道を耳にしていた日本国民のうち、どれくらいの者がこうした事実を知ってたのか。筆者は日本のマスコミによるアメリカ報道を観ていたが、まったく思い当たらない。お金を払ってNHKを観たり、朝日新聞を購読していた日本人は馬鹿みたいだ。重要なことは報道しないのが、マスコミの自慢する“報道の自由”である。あぁぁ~、いやになっちゃった。牧伸二みたいにウクレレ弾いて歌いたい。(古くて分からないでしょう。「残念!」 あっ、ギター侍じゃまた古かった。)



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