今年の11月にはアメリカの大統領選挙がある。前回の選挙(2020年11月3日)では、信じられない不正行為が実行され、通常なら党の代表にもならないジョセフ・バイデンが、史上最多数の得票数(8千128万票以上)を獲得して合衆国大統領になってしまった。しかも、翌年(2021年)の1月6日には、暴徒が議事堂に乱入するという信じられない事件まで起きている。ただし、この暴動騒ぎは民衆党とFBIが仕組んだという容疑が非常にが濃い。
2020年の選挙が終わっても、民衆党や司法省による反トランプ攻撃は止むことがなく、スキャンダルをネタにした裁判沙汰が仕掛けられたり、暴動を扇動した廉で投票用紙から名前を削除される、という妨害工作まであった。となれば、トランプを絶対に再選させたくない闇組織は、新たな陰謀を用意しているに違いない。たぶん、落選計画は既に進行しているのかも知れないが、どんなシナリオが練られているのか、一般国民には予想できないというのが現状だ。
今のところ、我々が予測できるのは、独立派として出馬するロバート・F・ケネディー・ジュニア(Robert Francis Kennedy, Jr.)が、トランプの政敵になるということだ。ケネディーがどれくらいの票を獲得し、どちらの陣営(トランプとバイデン)から“より”多くの票田を食いちぎるのか、本番にならないと判らない。もし、RFKがダークホースとなり、三者とも過半数の選挙人を獲得できないとなれば、合衆国憲法修正第二条(The Twelfth Amendment)が発動され、連邦議員による投票となってしまうだろう。すなわち、得票数が多い上位三名の中から各州の下院議員が大統領を選び、副大統領は上院議員が上位二名の中から選ぶ、ということだ。ただし、大統領を選ぶ際、下院議員は個々人ではなく、集団としての投票となる。つまり、各州が1票を行使する単位となる訳だ。
こうした異常事態は、1824年の大統領選挙にあった。当時、大統領職を目指していたのは、モンロー政権で国務長官になっていたジョン・クィンシー・アダムズ(John Quincy Adams)と、下院議長のヘンリー・クレイ(Henry Clay, Sr.)、戦争長官を務めていたジョン・カルフーン(John C. Calhoun)、財務長官のウィリアム・クロフォード(William H. Crawford)であった。そして、民衆共和党(Democratic-Republican Party)から代表者として選ばれたのは、上院議員になったばかりのアンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson)少将であった。ただし、カルフーンは途中でレースから脱落したので、実質的に選挙戦はアダムズとジャクンソン、そしてクレイとクロフォードが競り合うという状況になっていた。
(左 : アンドリュー・ジャクソン / ジョン・クィンシー・アダムズ / ジョン・カルフーン / 右 : ウィリアム・クロフォード )
1824年の大統領選挙で特徴的なのは、当選に必要な131名の選挙人を獲得した者がいなかったことだ。(当時、合衆国を構成する州の数は24であったので、選挙人の票は合計で261票しかなかった。ちなみに、現在の選挙人総数は538で、当選するには270票が必要となる。) 確かに、ジャクソンは一般国民による直接投票(popular votes)で152,901票を獲得し、全得票数の42.5%を占めることが出来たが、選挙人票(electoral votes)では99票しか取れなかった。一方、アダムズは国民投票で114,023票(31.5%)を獲得し、選挙人で84票を取っている。クレイは47,217票(13%)で選挙人は37票。クロフォードは46,979票(13%)を獲得し、選挙人は41票だった。(Daniel Walker Howe, What Hath God Wrought : The Transformation of America, 1815 - 1848, New York : Oxford University Press, p.208.)
こうして誰も過半数を取れなかったことから、憲法修正第12条が発動される事態となり、下院が上位三名、つまりジャクソン、アダムズ、クレイの中から大統領を選ぶことになったのである。ただ、一般国民ではなく政治家が大統領を選ぶとなれば、様々な裏取引や寝返り、世間に内緒の策略が展開されるのは火を見るよりも明らかだ。案の定、各議員は私利私欲、つまり自分の出世や立場によって誰に投票するかを考えるようになっていた。
例えば、イリノイ州の下院議員ダニエル・クック(Daniel Cook)は、反奴隷制の立場からジャクソンよりもアダムズを選ぶことにした。ペンシルヴァニア選出の下院議員ジェイムズ・ブキャナン(James Buchanan)は、ジャクソン支持派であったから、クレイを国務長官にすることでクレイに寝返るよう誘いを掛けていた。しかし、クレイの意思は既に決まっており、彼はアダムズに投票する肚(はら)であった。ジョン・アダムズ(第二代合衆国大統領)の息子であるジョン・クィンシー・アダムズは、二世議員ということもあって、ジャクソンには無い「オールド・ボーイ・ネットワーク」を持っていたし、民衆共和党やフェデラリスト党の議員に“友好的な仕草”を披露し、多数派工作を図っていた。
実質的には、ジャクソンとアダムズによる議員の争奪戦となっていたが、この闘争で鍵を握るのはクレイであった。彼が動かせる選挙人はたった3州であったが、下院に多くの仲間を持っていたので、全議員の目は彼に注がれていたのだ。(Lynn Hudson Parsons, The Birth of Modern Politics : Andrew Jackson, John Quincy Adams and the Election of 1928, Oxford : Oxford University Press, 2009, p.102.)
ヘンリー・クレイが「キャスティング・ヴォート(casting vote)」を握るとなれば、ホワイトハウスを目指す野心家は、必ずや彼を取り込もうとするだろう。実際、アダムズはクレイを勧誘しようと目論んだ。アダムズは1825年1月9日附の日記に「クレイ氏は6時に訪れ、その晩は私と一緒に会話を交わした。そして、過去の説明と未来の展望を語り合った」と書いている。(Memoirs of John Quncy Adams Comprising Portion of His Diary From 1975 to 1848, ed. by Charles Francis Adams, Vol. VI. , Philadelphia : J. B. Lippincott & Co., 1875, p.464.)
日曜の夜に二人が、どんな“展望”を話し合ったのか判らないが、何らかの“裏取引”や“密談”があったのは間違いない。当時でさえ、「アダムズはクレイを買収したんじゃないか」という世間の噂や、「大統領になったアダムズは、下院議長と不正取引をしたんじゃないか」という疑惑が持ち上がっていたのだ。(Parsons, The Birth of Modern Politics, p.106.)
多少なりとも注目すべきは、ジェイムズ・モンロー大統領の態度である。彼はアダムズからクレイを国務長官にすると聞いた時、はっきりとこの任命に関する危険性を感じ取っていた。しかし、モンローはこれに反対することにも慎重で、敢えて口を挟まず、静かな熟慮を貫くことにした。ただし、ずっと沈黙していると賛成していると思われてしまうので、アダムズの許(もと)へ使者を遣わし、場合によっては何らかの行動を取るぞ、というメッセージを示していた。でも、実際は何もしなかったという。(Barnes F. Lathrop, Documents : Monroe on the Adams-Clay“Bargain”, The American Historical Review, Vol. 42, No. 2, 1937, p.274.)
1824年の選挙が過ぎ、翌年(1825年)の2月9日になると下院による選挙結果が出た。一般国民から熱い支持を受けたジャクソン将軍は敗れ、ジョン・クィンシー・アダムズが第6代合衆国大統領選ばれたのである。故郷のマサチューセッツでは、高齢の父親が息子の勝利に心をときめかしていた。ジョン・アダムズは息子に宛てた手紙の中で、次のように書き記していた。
全能なる主の祝福が、汝の生涯が終わるまで降り注がれんことを願う。主の恩寵は汝が揺り籠にある時からもたらされ、汝を守ってきたのだ。私は汝の妻と家族のためにも同じ祈りを捧げよう。('John Adams to John Quincy Adams on 18th February, 1825', Memoirs of John Quncy Adams Comprising Portion of His Diary From 1975 to 1848, ed. by Charles Francis Adams, Vol. VI, p.504.)
ちなみに、副大統領は1824年12月に決まっており、早期に大統領選を脱落したジョン・カルフーンが、182の選挙人を獲得して副大統領に選ばれていた。
第三の候補者が票田を荒らす
前回の大統領選挙で判った通り、米国の闇組織は何が何でもトランプの再選を阻止するつもりだ。その為なら、露骨な不正行為でも、FBIやCIAを使った非合法手段でもOK。ただし、合法的手段でもトランプを蹴落とすことは出来る。実際、ロバート・F・ケネディー・ジュニアが“独立派”として出馬すれば、民衆党や共和党の一般有権者から何割かの“流出票”はあるだろう。もしかすると、ブームに乗っただけのトランプ支持者が“鞍替え”する可能性だってある。アメリカ人は“既存の商品”に飽きやすく、常に“奇抜な新品”を求めているので、ドナルド・トランプに飽きてしまう有権者だっているはずだ。
市長すら経験していないロバート・F・ケネディーが、どれくらいの“集客力”があるのか未知数だが、ケネディー家の候補者となれば、そう簡単に侮れない。歴史を振り返ってみれば判るけど、第三党による再選妨害は実際にあった。
例えば、大統領のウィリアム・ハワード・タフト(William Howard Taft)が再選を目指した1912年の大統領選は有名だ。この時、民衆党からはニュー・ジャージー州知事を務めウッドロー・ウィルソン(Woodrow Wilson)が選ばれたが、普通ならタフト大統領が再選されるはずである。ところが、元大統領のセオドア・ローズヴェルト(Theodore Roosevelt)が、大統領を二期務めたにもかかわらず、再び大統領を目指したのである。しかし、党の指名を獲得したのはタフトであった。そこで、ローズヴェルトは共和党を離れ、「進歩党(Preogressive Party)」を創ってタフト大統領に挑むことにした。
(左 : ウィリアム・ハワード・タフト / ウッドロー・ウィルソン / セオドア・ローズヴェルト / 右 : ユージン・デブス)
ローズヴェルトの“介入(闖入?)”により、タフトの再選は阻止され、地滑り的勝利でウィルソンが大統領になってしまった。ウィルソンが国民投票(popular votes)で得た数は6,296,284票。総数の41.8%を占めていた。一方、タフトの獲得数は3,486,242票で、23.2%を占めていた。ローズヴェルトの得票数は4,122,721票で、タフトを上回る27.4%であったから、彼が共和党の票田を割ったと考えてよい。この大統領選挙には社会党のユージン・デブス(Eugene V. Debs)も参戦したが、たった6%の得票数(901,551票)しかなかったので“おまけ”程度。選挙人の獲得数は、もちろんゼロ。
この時、大統領選の当否を決める選挙人の数は531名で、ウィルソンは435人を獲得して圧倒的だった。新党から出馬したローズヴェルトはウィルソンに遠く及ばなかったが、それでも88人を獲得できた。一番惨めなのはタフトで、彼が選挙人を獲得できたのはユタ州(2名)とヴァーモント州(2名)だけ。信じられないが、僅か4票だけという有様だった。
アメリカの大統領選挙では、「出来レース」という八百長が多い。表に出ないが、隠然たる権力を誇る闇組織は、ある「本命」を勝たせるために、“わざと”弱い対抗馬を擁立したりする。なぜなら、当選させたい「本命」が一般国民に不人気だと、野心を燃やすライバル候補が次々と現れてしまうので、早めに危険な芽を摘み取る、というのが彼らの鉄則だ。慧眼を有するアメリカ国民なら、薄々感じ取っているが、共和・民衆両党を牛耳る大御所連中は、当選しそうもない駄馬をよく「二者択一」の対立候補に仕立て上げたりする。
これはジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ(George Herbert Walker Bush)の大統領選挙を思い出せば解るだろう。フォード政権でCIA長官を務めた“ポピー”・ブッシュは、よせばいいのに1980年の大統領選挙に挑んだが、ロナルド・レーガンの策略に引っかかってドジを踏んでしまった。(「ポピー(Poppy)」というのはブッシュの渾名。) このため選挙戦を左右するニューハンプシャー州での予備選でレーガン候補に惨敗し、エスタブリッシュメントのお坊ちゃんは、格下の元俳優と組むことになった。政治力学を会得していたレーガンは、政敵だったブッシュを「ランニングメイト(副大統領候補)」に選んだ。一方、ライバルだったブッシュは、当時69歳になっていたレーガンを“老人”と仄めかし、大統領にするには高齢過ぎると疑問を呈していたから、これは“おぞましい”仲直りである。
(左 : ロンダ・フレミングと共演した若き日のロナルド・レーガン / 中央大統領になったレーガン / 右 : CIA 長官時代のジージ・H・W・ブッシュ)
(左 : ロンダ・フレミングと共演した若き日のロナルド・レーガン / 中央大統領になったレーガン / 右 : CIA 長官時代のジージ・H・W・ブッシュ)
大衆政治では「政策」よりも、「人格」の方が重要だ。国民投票で鍵となるのは、なんと言っても“人柄”だ。ブッシュはこの点で遙かに劣っていた。「スカル&ボーンズ」のOBは、何をやっても“大衆の心”を摑むことが出来ず、苦虫をかみ潰したような表情を見せるだけ。翻って、元俳優のレーガンはひと味もふた味も違う。彼が演説や記者会見に現れると、その場はレーガお得意のユーモアで場が和む。記者や大衆はレーガンのジョークでみんな笑顔になる。しかし、ブッシュの方はちっとも面白くない。彼にマイクを向けたって気の利いたジョークは期待できないし、引きつった笑顔じゃジャーナリストの方が苦笑となる。(ブッシュの物真似をしたダーナ・カーヴィーの方がよっぽど面白いぞ。)
(左 / レーガン大統領とブッシュ副代表)
(左 / レーガン大統領とブッシュ副代表)
対抗意識を燃やしたのか、ブッシュはレーガンが提唱する大規模な減税政策を「ヴードゥー経済学(voodoo economics)」だと評し、インテリ気取りで小馬鹿にした。しかし、ブッシュの演説に耳を傾ける国民なんか極僅か。いくらブッシュが「保守主義」を口にしようが、そんなのは上流階級の“説教”にしか過ぎない。たとえ、学術誌から引用した統計を見せびらかしても、大衆からは「小難しい」と毛嫌いされて終わりだ。レーガンはイリノイ州にある無名のユーレカ大学(Eureka College)しか出ていないが、天性の勘が鋭かった。レーガンは南カルフォルニア大学のアーサー・ラッファー(Arthur Betz Laffer)教授から経済政策の説明を聞くと、その要諦を理解し、減税で景気を良くしようと考えたのである。我が国の岸田総理とは大違いだ。
ワシントンのインサイダーではないロナルド・レーガンに敗れたものの、野心家のブッシュは、決してホワイトハウスへの道を諦めなかった。本来なら、副大統領を辞めれば、古巣の石油業界に舞い戻るか、ウォール街に天下るはずなのに、ブッシュはラングレー(CIAの本部がある場所)のオフィスだけじゃ満足しなかった。でも、ブッシュには大統領選挙で勝てるだけの“魅力”が無い。最大の“売り”がレーガン大統領の“後押し”なんだから涙が出てくる。
しかも、1988年の大統領選挙では民衆党から上院議員のゲイリー・ハート(Gary Warren Hart)が乗り出してきたから、不人気のブッシにとってはピンチ。でも、ブッシュ陣営には優秀な策士がいたから一安心。ブッシュにはリー・アットウォーター(Lee Atwater)やロヂャー・エイルズ(Roger Eugene Ailes)みたいな選挙スタッフがいたし、ジェイムズ・ベイカー三世(James Baker III)のような懐刀もいたので、裏の策略だって選り取り見取りだ。どんな素性の配下か知らないけど、ブッシュ陣営はハート議員の“弱点”を嗅ぎつけ、ライバルの蹴落としにかかった。
(左 : ゲイリー・ハート / リー・アットウォーター / ロヂャー・エイルズ / 右 : ジェイムズ・ベイカー三世)
一方、何も知らないハート議員は、以前に知り合った元女優のドナ・ライス(Donna Rice)をバハマ旅行に誘い、「モンキー・ビジネス(Monkey Business)」号というヨットで愉快な時を過ごしていた。しかし、ハート議員は致命的な過ちを犯す。不用心にも、彼はライスの友人に写真撮影を許してしまったのだ。
(左 / ドナ・ライスを膝に載せたゲイリー・ハート)
(左 / ドナ・ライスを膝に載せたゲイリー・ハート)
不思議な事に、この記念写真はタブロイド雑誌の『National Enquirer』1987年6月号に掲載され、一般国民は美女を膝に載せてニコニコと微笑むハート議員を目にすることに。この不倫写真は2万5千ドルで雑誌社に売り渡されたという。('Hart Photo Said to Cost $25,000', United Press International, June 01, 1987.) 当然、フロント・ランナーであったハート議員は、吸血鬼のようなジャーナリストから質問攻めに遭う。結果的に、ハート候補はこのスキャンダルで大統領選をドロップ・アウト。他方、罠を仕掛けたブッシュ陣営は「やったぞ!」と微笑む。暴露記事の見出しが「ゲイリー・ハートは結婚してくれと私に求めた(Gary Hart Asked Me to Marry Him.)」じゃ、世間が大騒ぎになっても無理はない。しかも、ハート議員は既婚者であったから、ドナ・ライスとの不貞行為になるじゃないか。
本命だったハート議員が失脚したことで、民衆党の代表候補はマサチューセッツ州の知事を務めるマイク・デュカキス(Michael S. Dukakis)となった。ただ、ギリシア移民の小倅に過ぎないデュカキスが、共和党候補を倒す“対抗馬”じゃ、ブッシュ当選の確率が高まったのも当然だ。レーガン大統領の跡を引き継ぐブッシュは、柄にもなく「保守派」を自称し、兇悪犯を釈放したデュカキスを糾弾した。でも、南部の共和党員にはウケた。殺人鬼の黒人に甘い東海岸の「リベラル派」とくれば、テキサスやジョージア、サウス・カロライナの保守派国民は、厭でもブッシュに靡く。
(左 : ジョージ・・・ブッシュ / 中央 : マイク・デュカキス / 右 : 戦車に乗ったデュカキス )
さらに、デュカキスは自ら墓穴を掘ることに。彼は“男らしさ”をアピールするため、意気揚々と戦車に乗り込むが、その姿は滑稽でしかなかった。アメリカの事情を知らない日本人でも、ヘルメットを被ったデュカキスの姿を見れば、「あっ、サンダーバードの人形だ!」と笑ってしまうだろう。何しろ、彼は勇敢な「トレイシー家」の軍人(救命隊員)というより、貴婦人のペネロープに雇われた運転手(執事)のパーカーにソックリなんだから。(デュカキスは合衆国陸軍に入った“元兵卒”であったが、その役目は“通信兵”であったから、戦闘機のパイロットであったブッシュとは、かなり違っている。)
1988年の大統領選挙では、“見劣り”がするデュカキスが、民衆党の指名候補であったから、意外と楽勝であったけど、1992年の選挙では苦境に立たされる破目になっていた。共和党内での指名争いでもブッシュは厳しい状況に陥っていた。反移民やリベラル派への鋭い批判で人気を博すパトリック・ブキャナン(Patrick Buchanan)が参戦してきたのだ。偽の保守派であるブッシュが苦戦するのも当然だ。彼はニューハンプシャー州の予備選で劣勢となったが、持ち前の人脈や資金をフル稼働させて、最終的にブキャナンを斥ける事ができた。
しかし、民衆党の指名を獲得したビル・クリントン(William Jefferson Clinton)には対抗できなかった。只でさえ、ブッシュはクリントにリードを許していたのに、そこへテキサスのビジネスマンであるロス・ペロー(Henry Ross Perot, Sr.)が参戦したから大変だ。「独立派」として参加したペローは、ブッシュの再選は危うくするジョーカーであった。「ペロー・システムズ(Perot Systems Corporation)」の社長を務める“第三の男”は、左翼思想に染まったリベラル派でもなく、“実利”を優先するリアリストの商人。ペローは減税や財政均衡を唱えていたから、共和党員でもペローに流れる者が少なくなかった。となれば、ペローはブッシュの票田を食いちぎるライバルだ。
(左 : ロス・ペロー / 右 : ビル・クリントン)
案の定、1992年11月3日の大統領選挙ではブッシュの得票数は伸びず、下馬評で優勢だったビル・クリントンが、勝利を収める結果となった。国民投票ではクリントンが44,909,889票(43%)を獲得し、ブッシュが獲得したのは39,104,550票(37.5%)だ。ペローは19,743,821票(18.9%)を獲得するが、選挙人の獲得数はゼロ。ただし、ペローの参戦で国民票を奪われたブッシュは、共和党が強かった南部や中西部でも苦戦し、獲得した選挙人の数は過半数には届かず、168人を獲得しただけ。一方、クリントンは370の選挙人を獲得することができた。もし、ペローが現れなかったら、ブッシュの再選は可能となっていたのかも知れない。この事例はタフト対ウィルソンの選挙を彷彿させ、有力な第三者の出馬が如何に危険かを物語っている。
過去の大統領選挙を鳥瞰すれば、日本人でも幾つかの不審な点に気づく。中には、巧妙に仕組まれた“八百長選挙”じゃないか、と思える節もあった。例えば、ジョージ・W・ブッシュが挑んだ2000年の選挙では、フロリダ州(選挙人25票)での集計が問題となり、「票の数え直し」という異例の事態となってしまった。(以前のブログでも紹介したが、当時でも電子投票機の不正疑惑が持ち上がっていたのである。) 最終的に、アル・ゴアが266の選挙人しか獲得できず、271の選挙人を獲得したブッシュが当選するという大逆転劇となってしまった。だが、全米各州の国民投票数を合計すれば、ゴアの方が上回っていたから、民衆党支持者は唇を噛んで悔しがっていた。ブッシュが獲得した票数は50,456,002であるのに対し、ゴアの獲得数は50,999,897票であったから、“直接デモクラシーの選挙”であれば、民衆党のゴアが勝っていたという訳だ。
(左 : ジョージ・W・ブッシュ / アル・ゴア / 息子のジョン・ケリー / 右 : 父親のリチャード・ケリー)
9/11同時多発テロを仕組んだ組織は、引き続きジョージ・・ブッシュを大統領にしておきたかったのか、2004年の大統領選挙では、勝ちそうもないジョン・ケリー(John Forbes Kerry)上院議員を担ぎ出した。ケリーは反戦運動の過去を持つバリバリの左翼。ベトナム戦争では海軍士官として従軍したが、“いかがわしい”功績で「Purple Heart」や「Bronz Star」といった勲章をもらっていた。それゆえ、同じ部隊の軍人からは侮蔑されていたという。ケリーの「傷」はこれだけじゃない。彼は地元(マサチューセッツ州)の有権者に対し、如何にも「アイルランド系移民の子孫」であるかのように振る舞っていたが、本当はユダヤ人の血を引くユダヤ系アメリカ人。たぶん意図的だろうが、ケリーはオーストリア・ハンガリーからのユダヤ移民である曾祖父の正体を隠していた。
ユダヤ人の中には、世俗的な便益性を考えてカトリックに改宗する者がいるし、ヨーロッパ人と結婚することでプロテスタントのキリスト教徒に成り変わっている者が多い。ケリーの祖父母も「コーン(Kohn)」というユダヤ名を捨てて、「ケリー(Kerry)」という名前に変えていた。ついでに宗教も破棄し、カトリックに鞍替えして「ヨーロッパ移民」を装っていたというから、本当に狡い。こんな家系から生まれたジョン・ケリーが対抗馬となり、テキサスを本拠地とする「偽保守派」vs東海岸の「左翼リベラル派」による一騎打ち(2004年11月2日)となった訳だから、アメリカ国民は壮大な“茶番劇”を鑑賞していたということになる。
「ポンコツ議員」を競争相手にせよ !
「ポンコツ議員」を競争相手にせよ !
黒人の上院議員であったバラク・フセイン・オバマ(Barack Hussein Obama)の大統領選挙でも、巧妙に仕組まれた八百長の臭いがプンプンしている。この赤い黒人は、初めての挑戦となる2008年の大統領選挙で勝利を摑んだが、その対抗馬は「老いぼれの白い驢馬」であった。共和党支持の保守派国民からすれば、心底ガッカリする人選だ。共和党の上院議員を務めていたジョン・マケイン(John Sidney McCain III)は、レーガン流の“保守主義”を掲げていたが、その正体は民衆党に所属する“リベラル派”と呼んでもおかしくはなく、チャック・シューマー(Charles Ellis Schumer)やジョー・リーバマン(Joseph Isadore Lieberman)と組んだ方が“お似合い”の共和党員、すなわち「名前だけの共和党員(RINO)」である。
(左 : バラク・フセイン・オバマ / ジョン・マケイン / チャック・シューマー / 右 : ジョー・リーバマン )
しかも奇妙なのは、不人気でドロップ・アウト寸前であったのに、なぜか指名争いの後半で急に選挙資金が、マケインのもとに集まってきたことだ。通常なら、マケインのような老いぼれ議員に献金する奴なんかいなだろう。でも、不思議なことに、マケインは共和党の指名を獲得できた。それでも、白人のリベラル高齢者と輝ける「黒人の星」との対決じゃあ、選挙前から勝敗は決まっているだろう。
そもそも、アメリカ人というのは「新しいもの好き」だ。彼らは刺戟的な光景に興奮するから、禁断の黒人大統領さえ望んだりする。それゆえ、オバマにも当選できるチャンスは充分にあった。何しろ、若い白人層は多文化・多民族主義で洗脳されているから、黒人であってもお構いなし。若者には「黒人初の大統領を見てみたい!」という“好奇心”があったし、いくら世界政治の趨勢を決める大統領選挙といっても、大衆にとったら単なる「冬祭り」に過ぎない。スマートフォンの最新版とか、TVゲーム・ソフトの全米発売となれば、朝から長蛇の列が出来るじゃないか。それと同じだ。オバマは365名の選挙人を獲得し、マケインは173人しか取れなかった。
Foxが放映した人気TVドラマ、『24』は日本でも話題となったが、「黒人大統領」なんて、映画の中でしか実現されないフィクションと思われていた。ところが、第21世紀のアメリカでは本当に実現したか驚きだ。ただし、熱しやすいアメリカ国民は、冷たくなるのも早かった。熱狂の渦に興奮したアメリカ人は、三年も過ぎるとオバマの“ボロ”が見えてきたから、最初は「人種平等」を口にしていた白人支持も、次第にオバマを遠ざけるようになっていた。経済音痴で外政も下手糞な黒人じゃ、誰だって嫌気が差してくるじゃないか。でも、黒人支持者は別。彼らは「Yes, We Can !」という“呪文(まじない)”に夢中で、幻想の眼差しで現実を見ていた。“同類のヒーロー”を渇望する黒人にしたら、右でも左でも、あるいは馬鹿でも売国奴でも、とにかく何でもいい。偉大な黒人指導者を眺めていたいのだ。
それに、オバマを担いだ闇組織も「継続」を望んでいたから、彼らは再選を可能にする対抗馬を用意した。2012年の大統領選挙で共和党の指名候補者になったのは、元マサチューセッツ州知事のミット・ロムニー(Willard Mitt Romney)であった。ジョン・マケインと同じく、ミット・ロムニーも共和党に潜り込んだリベラル派である。民衆党からの候補者になってもおかしくはない。共和党の保守派からすれば、積極的に応援したい人物じゃないから、投票所へ向かう足取りも段々と重くなる。となれば、メッキの剥がれたオバマでも楽勝だ。
案の定、ロムニーは206名の選挙人しか取れず、332名を獲得したオバマに敗れた。ロムニーは地元のマサチューセッツを獲得できなかったばかりか、大票田のフロリダ州も落としていた。父親のジョージ・W・ロムニー(George Wilcken Romney)は、ミシガン州の知事を務めていたのに、息子のミット・ロムニーときたら、オヤジの地盤まで獲得できなかったのだ。(ただし、民衆党からの出馬なら選挙人を獲得できたかも。)
とにかく、今年の大統領選挙はどうなるのか、全く見当もつかない。通常なら、老いぼれのジョー・バイデンが惨敗し、ドナルド・トランプが“復活”するはずなんだが、ロバート・ケネディー・ジュニアの登場で、予測が難しくなっている。もしかすると、共和党の票が食い荒らされ、トランプの再選が危なくなる事態だって有り得る。いくら「独立派」として出馬するとはいえ、ケネディーには民衆党内部に強力な“コネ”が残っているから、水面下での裏取引があっても不思議じゃない。トランプ再選を何としても阻止したい連中からすれば、ケネディーは有力な楔となり得る。民衆党を見限ったケネディーの方も、大統領は無理でも、自身の野望を達成したいから、民衆党や共和党の反トランプ陣営と結託し、何らかの妨害工作に手を貸すかも知れないぞ。
(左 : ジョー・バイデン / 中央 : ロバート・ケネディー・ジュニア / 右 : ドナルド・トランプ )
ウクライナとガザでの戦闘が未だに収束せず、疫病の再流行さえ懸念されているから、共和・民衆の党大会まで何が起きるのか、本当に油断ができない。もしかすると、トランプ支持者の右翼が、狂人を装ってバイデンを暗殺するかも知れないし、ムスリムの過激派がアメリカ国内で大規模なテロを実行するシナリオだってあるのだ。現在のアメリカなら、ハリウッド映画みたいなクーデタや武力衝突すら可能だろう。また、いつの間にか不法移民が投票権を持つ“アメリカ国民”になっていたりする場合もある。有権者の嗜好を熟知する選挙のプロが、“元不法移民”を巧妙に分配すれば、「バイデン再選」という悪夢さえ実行可能だ。たとえ、国民投票でバイデンが劣勢でも、選挙人の獲得数で勝利を収めれば、“合法的な当選”を宣言できる。バイデン政権が大量の不法移民を迎え入れたのは、民衆党の票田を増やすためかも知れない。
まともなアメリカ国民は「もはや、アメリカは南米並みのバナナ・リパブリックになってしまった!」と嘆いてしまうが、「後悔先に立たず」だ。移民や難民を無闇矢鱈に増加させたら、憲法を看板にしたデモクラシーでも衰退するしか道はない。建国の父祖は衆愚政治を避けるため、選挙人制度を導入したが、これも徐々に骨抜きになり、司法界すらハニートラップや札束ビンタで腐敗の一途を辿っている。保守派の有権者は何とかして“正常な投票”を模索しているが、その可能性は極めて低いと思う。
こうなりゃ、最後の手段だ。日本の自衛隊を招き、選挙監視団として全米各州に派遣するしかない。だが、「腐っても鯛」のアメリカじゃ無理。普通のアメリカ人では堪えられない。屈辱を味わうくらいなら、国家崩壊の方が遙かにマシである。となれば、最後は「神様頼り」で、キリストの奇蹟を願うしかない。でも、大富豪のユダヤ人に牛耳られたアメリカだ。たとえ天からイエズスが再臨しても、再び十字架刑になってしまうかもね。
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