善悪を超えた民族紛争
(左 : ユダヤ人団体「AIPAC」の大会 / 右 : イスラエルの攻撃を非難するアラブ系アメリカ人 )
文明国は外部からの攻撃よりも、内部の抗争や腐敗で滅ぶ。現在、アメリカ国内はシオニストのユダヤ人を支持する親イスラエル派と、イスラエルを非難しながらパレスチナを擁護する勢力で分かれている。
(左 : ユダヤ人団体「AIPAC」の大会 / 右 : イスラエルの攻撃を非難するアラブ系アメリカ人 )
文明国は外部からの攻撃よりも、内部の抗争や腐敗で滅ぶ。現在、アメリカ国内はシオニストのユダヤ人を支持する親イスラエル派と、イスラエルを非難しながらパレスチナを擁護する勢力で分かれている。
しかし、よく考えてみると、この騒動はおかしい。なぜアメリカ国民は遠く離れた中東アジアの紛争で揉めているのか? 「約束の地」と呼ばれるカナン(現在のイスラエル附近)では、二千年以上も前から民族紛争が絶えず、ユダヤ人やアラブ人、シリア人、バビロニア人、フェニキア人の軋轢なんかは珍しくない。たとえ、女子供を巻き込んだ虐殺が起こっても、しばらくすれば再び血で血を洗う戦いとなる。復讐の連鎖は“いつもの事”で、そこに宗教的要素が加われば、民族の対立が更に激しくなるは当然だ。
旧約聖書の「ヨシュア記」を読めば判るけど、イスラエルの民は異教徒を殺しまくっていた。何しろ、神様(天主たる「ヤハウエ」)が許しているんだから唖然とするじゃないか!例えば、ヨシュアに率いられたイスラエルの民は、ハツォルを占領し、そこの王様を剣で打ち殺した。さらにヨシュア達はハツォルの全住民を襲撃し、情け容赦なく命を奪っていた。“アジア的野蛮さ”とは言わないが、それでも異教徒の殲滅というのは徹底しており、イスラエルの民は攻撃した地区に火を放って、全住民を焼き尽くす。(「ヨシュア記」第11章10節~13節)イスラエルの軍隊は占領した土地で異民族の王を処刑し、住民を根絶やしにしても平気なのだ。第21世紀ではイスラム教徒の「ジハード(聖戦)」が知られているが、ユダヤ人も昔から「聖戦」を実践していた。
今回のイスラエルvsパレスチナの戦争を巡って、日本でも様々な論評が行われている。だが、おおよそ中東アジアの民族紛争に「正義」とか「邪悪」といった尺度を持ち込むのはよくない。イスラエルがハイテク兵器でガザ地区を攻撃するのは兵卒を大切にするからで、無茶な掃討作戦を断行すれば、地下に潜ったパレスチナ人に逆襲されて大量の戦死者を出すことになるだろう。もし、地下道に潜むパレスチナ兵に脅威を感じるのであれば、イスラエル軍は化学兵器、すなわち神経ガスでも躊躇なく使用するのかも知れない。ただし、人質も犠牲者となるから、相当な覚悟が必要だ。、
日本のテレビ局はパレスチナ人に同情するが、そもそも、ガザ地区で民間人を巻き込んだゲリラ戦を仕掛けるハマス側に非がある。アラブ人のテロリストは民間人を巻き添えにすることで更なる兵力を得ようとするから悪質だ。つまり、親兄弟を殺された青年や少年は、ユダヤ人に対する憎しみを抱くから、ジハードの志願者が自然と増えてくる。怨念というのは復讐の原動力となるから、いくら西歐人の仲介者が和平案を持ちかけても、怒り狂ったパレスチナ人には通用しないだろう。中東アジアでの紛争が終息するのは、ユダヤ人かアラブ人が完全に相手を皆殺しにした時である。つまり、「ジェノサイド(民族殲滅)」が達成された時にだけ「平和」が訪れるということだ。
アメリカに流入する異民族
(左 : アメリカへやって来るユダヤ人家族 / 右 : ポーランドで過ごすユダヤ人家族 )
歐米諸国による仲介や停戦交渉は大切である。しかし、アメリカ人やーヨーロッパ人にとって、もっと考慮すべき問題は、大量のユダヤ人やアラブ人が住み着いていることだろう。特に、ユダヤ人の存在は深刻である。元々、アメリカ合衆国はイギリス人の非国教徒や不満分子が中心になって建国した共和国であり、ユダヤ人を保護するためのシェルターじゃない。ましてや、アラブ人を迎えるための新天地なんて論外。正常な日本人なら気づくけど、アメリカ人は自ら招いた人種対立に悩み、不必要な対外戦争を仕掛けて無用な被害を蒙っている。もし、イギリス人と西歐人だけの国家であれば、黒人問題で膨大なエネルギーを使わなくても済むし、最初からユダヤ人を排除していれば、多民族社会といったデストピアや異文化共生という悪夢にも苦しまなかったはずだ。
米国の大学と同じく、日本の大学でも異人種との共存は“当然の摂理”と教えられ、「どんな移民でも受け容れねばならない」と躾けられている。だが、これはおかしい。なぜ“国家の成員”となりうる移民を吟味し、“良い者”だけを選んではいけないのか?
例えば、普通の日本人が自宅で誕生日会とかバーベキュー・パーティーを開いたとする。大抵の場合、招待客は主人や家族の友人であったり、職場の同僚か、招待客の同伴者だったりするが、通りすがりのベトナム人とか近所に住む在日朝鮮人、商売で来日した支那人が招かれることはない。もし、見ず知らずのアジア人やアフリカ人が自宅の庭で雑談をしたり、台所のテーブルで飯を食っていたら、主催者の家族は「アンタ、誰だ?」と尋ねるし、無関係な侵入者と判れば「テメー、勝手に俺ん家に入ってきやがって! 何様のつもりだ!お前なんか呼んでねえぞ! とっとと出て行け、このバカ野郎!!」と激怒するだろう。たとえ、闖入者が「パーティーに参加するのは世界共通の人権だ!」とか「追い払うのは人種差別だ!」とわめいても、「アホか! テメェー」と怒鳴って蹴り飛ばされるのがオチである。パーティー会場に入るのは「地球人の権利」じゃない。
この“日本的常識”を理解する者なら、アメリカの排他的移民法に不満をもらすユダヤ人やアラブ人を「図々しい奴」と思うだろう。左翼やピンク・リベラルの大学教授は、西歐人以外の移民や非ヨーロッパ人の難民を出来るだけ排斥し、移民枠を設けて制限しようとする地元主義者(所謂「レイシスト」や「ナショナリスト」)を糾弾する。しかし、善人を気取ったインテリどもは、なぜ南歐人や北アフリカ人、ユダヤ人、アラブ人がアメリカへ移住できる権利を有し、帰化申請を許可される権利を持つのかを説明しないのだ。左翼学者というのは、いつも「社会正義」を振りかざし、どんな人間にも「移住や入国の自由がある」と叫ぶ。だが、自分は快適な教室や書斎で優雅な生活を送り、たまに空理空論を弄んで原稿を書いている。彼らは実際の被害を受ける庶民を「低学歴の平民」と見下し、「税金で外人を養え!」と諭す。
マスコミからチヤチヤされたい知識人は、「国境は自由な移住を阻害する障碍物」、そして「」国籍というは部外者(外国人)を排除するための制度」という論調で、移民反対論者を非難する。一般国民は祖国や家族を守りたいだけなのに、象牙の塔に居坐る大学教授は「偏狭な考えの国粋主義者」とか「ヘイトスピーチの右翼」と呼んで蔑む。
(左 / ヘンリー・カボット・ロッジ ) 日本の大学教授は米国の左翼に倣って、移民擁護の「アジビラ(または学術書)」をばら撒き、不愉快な移民を門前払いにしようとする愛国者をコキ下ろす。例えば、アジア移民を排斥しようとしたヘンリー・カボット・ロッジ(Henry Cabot Lodge)上院議員は、レイシストの悪党扱いだ。そして、1924年の移民法を主導したアルバート・ジョンソン(Albert Johnson)下院議員とデイヴィッド・リード(David Reed)上院議員もレイシスト。さらに、1952年の移民・国籍法をつくった反共のパトリック・A・マッカラン(Patrick A. McCarran)上院議員とフランシス・E・ウォルター(Francis E. Walter)下院議員、人種混交や公民権運動に反対した南部のジェイムズ・イーストランド(James O. Eastland)上院議員なども、皆「人種差別論者」とか「右翼ナショナリスト」のレッテルを貼り付けられている。
(左 : アルバート・ジョンソン / デイヴィッド・リード / パトリック・A・マッカラン / 右 : フランシス・E・ウォルター )
(左 : アルバート・ジョンソン / デイヴィッド・リード / パトリック・A・マッカラン / 右 : フランシス・E・ウォルター )
こうした非難を受けるのは政治家だけじゃない。赤く染まったアカデミック界では、西歐的アメリカを守ろうとする者、あるいは北方種族の遺伝子を保存し、アングロ・サクソン的国家を永続させたい優生学者も、悉く「レイシスト」の烙印を押されているのだ。ちょっとでも優生学を擁護しようものなら、即座にヒトラーやネオナチの系譜に分類されるから、終身身分の教授でも恐れおののく。
(左 : ロスロップ・ストダート / ハリー・ラフリン / ヘンリー・フェアフィールド・オズボーン / 右 : チャールズ・ダヴェンポート )
リベラル派の白人学者やユダヤ人の研究者がよく槍玉に挙げるのは、「アメリカ優生学会(American Eugenics Society)」に属し、『The Rising Tide of Color』を書いた歴史家のロスロップ・ストダート(Lothrop Stoddard)や「優生学記録局(Eugenics Record Office)」のハリー・ラフリン(Harry Laughlin)、「アメリカ優生学会」の創設者で「アメリカ自然史博物館」の総裁を務めたヘンリー・フェアフィールド・オズボーン(Henry Fairfield Osborn, Sr.)、著名な生物学者であるチャールズ・ダヴェンポート(Charles Davenport)などである。
(左 / マディソン・グラント)
(左 / マディソン・グラント)
彼らの他にも弾劾される優生学者は存在しており、特にマディソン・グラント(Madison Grant)は有名だ。彼は動物学を専攻した法律家で、ユダヤ人全般から激しく憎まれていた。今でも、有色移民の子孫やユダヤ人の学者から蛇蝎の如く嫌われているから、人間の恨みというのは本当に根深い。“種の保存”を念頭に置いたグラントが、自分たちの種族、すなわち西歐世界の白人、あるいは北方種族(Nordic race)やゲルマン系のヨーロッパ人を大切にしたのは当然だ。赤色分子やピンク・リベラルの大学教授は、大衆からの称賛を期待しているのか、「自民族中心主義(Ethnocentrism)」を徹底的に攻撃する。だが、なぜ「手前味噌」がそんなに赦せないのか?
歴史を振り返ってみれば解るけど、ユダヤ人(イスラエルの民)は選民思想で凝り固まっていたし、ペルシア人は自分たちの“高度な文明”を自慢していた。ペルシア人は、自分たちがギリシア人に劣っているとは全く考えなかった。とりわけ、ユダヤ人は淫乱なギリシア人が嫌いで、全裸でオリンピック競技を行う異教徒を侮蔑していたという。「gymnastics(体育)」の語源となったギリシア語の「gymnos」は、「裸」を意味している。まぁ、全裸の男どもが“フルチン”で走っていたんだから、ユダヤ人の傍観者は唾を吐いて軽蔑したんじゃないか。想像するのも厭だけど、裸のレスリングなんて、ゲイバーの余興みたいだ。
今では凋落しているが、嘗てのモンゴル人は最強の軍事力を誇り、支那や朝鮮ばかりじゃなく、日本までを征服しようと試みた。支那人に至っては差別意識の権化である。彼らは何度も異民族に征服されながらも、全く「中華思想」を棄てなかったし、あろうことか周辺地域の民族を「ケダモノ」扱いだ。今でもそうだけど、支那人は日本人を「東夷(ムジナの類い)」と呼んで蔑んでいる。東大や京大の支那学者はどう思っているのか? 「日韓友好」を謳う国会議員だって、支那人に媚び諂う朝鮮人や支那の中夷秩序に従っている朝鮮人を見れば、「なんだ、こいつら!」と思ってしまうだろう。保守派国民が持て囃すインドでも、夜郎自大なインド人が多く、この大陸では歴史的な身分制度や差別意識が怨霊のように残っている。
日本の知識人は「二枚舌」や「三枚舌」を持っているからなのか、アジア人やアフリカ人が「自己中心主義」に凝り固まっていても、「寛容な精神」で“お構いなし”とする。ところが、西歐人が自己民族優越主義を口にするや、たちどころに目くじらを立て、「人種差別は赦せなぁぁ~い!」と喚き散らす。アメリカ人やヨーロッパ人の優生学者が「白人は美しくて優秀だ」と言えば、鬼のように牙を剝きだし、「レイシストの思想だ!」と非難する。でも、これって親馬鹿的発言や手前味噌の娘自慢と同じゃないか。
マディソン・グラントのような知識人が、人種的ヒエラルキーを描き、黒人を底辺の種族にしたって、そんなのは個人の勝手じゃないか。、黒人の上にユダヤ人やアジア人がいて、そのまた上に地中海沿岸の種族やアルプス周辺の部族が位置する、というが、こんなランキングに科学的根拠は無い。こうしたピラミッド構造の頂点に君臨するのがチュートン系の白色人種、すなわち西歐や北歐のヨーロッパ人となっているが、それは揺るぎない真実なのか? グラントの世界観はユダヤ人やペルシア人、アラブ人、インド人、支那人の世界観と大して変わらず、単に主観的な意見を述べただけである。
しかし、なぜこうした手前味噌の見解にユダヤ人や黒人、そして日本人が反撥するのか? それは彼らが無意識的に白人を世界最高の優越種族と認めているからだ。ユダヤ人や日本人は本音を言わないが、「世界一」と認めている白人が、自らも「俺達が世界一」と宣言するから嫉妬心が湧いてしまうのだろう。保守派の日本人でも、こうした“無意識の前提”に気づかない者が多い。
人種の違いは現実だ
(左 : ナチス時代のドイツ軍人 / 令和の黒人青年 / 西歐系アメリカ人女性 / 右 : アフリカ系アメリカ人女性)
人種の違いは現実だ
(左 : ナチス時代のドイツ軍人 / 令和の黒人青年 / 西歐系アメリカ人女性 / 右 : アフリカ系アメリカ人女性)
オーストリアの司祭、グレゴール・メンデルが明らかにした遺伝子の法則は、雑婚に無頓着だったヨーロッパ人に稲妻のような衝撃を与えた。マディソン・グラントが、異人種との雑婚を危惧したのも当然で、もしチュートン系の北歐種族がセム種族のユダヤ人やアフリカの黒人と混血すれば、北方種族の容姿は激変するか、消滅してしまうだろう。しかも、有色人種との混血児となれば、西歐的精神を継承できないし、何となく西歐文化を嫌いになる虞(おそれ)もある。
だいいち、鏡に映る自分の顔を毎日見れば、小学生だって自分が周辺の白人とは違う人種であると判るはずだ。有色人種の血が混じった子供は、隣人や級友からの冷たい視線を毎日感じながら育つ。となれば、彼らは西歐社会への憎しみを抱き、同化できない現実に苛まれる。混血児の精神は白人の親とは違ったものになり、有色人種の親とその文化へと傾いてくる。精神が肉体を変えることはない。むしろ、人間の精神はその肉体に従う方が普通である。異人種の子供が異国の同質的社会で育つと精神が歪んでしまうことがよくある。例えば、スウェーデン人の夫婦に引き取られた朝鮮人の養子や、イギリス社会で生まれ育ったジャマイカ人の子供は、成長するにつれ現地人への怨念が芽生えてくる。アラブ人の青年やパキ人の少年が、左翼の社会主義者になったり、過激派の活動家になったりするのは、自分の理性で制禦できない感情があるからだ。
話を戻す。グラントは混血による西歐社会の凋落や北方人種の退化を危惧した。彼は次のように述べている。
我々が認めるとか認めたくないとかに拘わらず、長期的に見れば、二つの人種を混ぜ合わせてしまうと、もっと古代的な、特徴の無い、程度が低い人種を生む結果となる。白人とインディアンを交配させればインディアンとなるし、白人と黒人が混ざれば黒人だ。白人とインド人が交わってもインド人である。そして、三種類のヨーロッパ人がどれでもユダヤ人と交われば、その者はユダヤ人となる。(Madison Grant, The Passing of the Great Race or The Racial Basis of European History, New York : Charles Scriber's Sons, 1916, pp.15-16)
こうした発言を耳にすれば、軽蔑されたユダヤ人は激怒するだろう。しかし、遺伝学ないし優生学的見地から考えれば、ユダヤ人の親を持つ子供はユダヤ人に似てくる、と言えるし、自分の子孫がユダヤ人の血統になるなんて厭だ、と思う人もいるはずだ。仮にイギリス人とオランダ人、あるいはノルウェーのチュートン人とデンマークのデイン人が結婚し、二人の間に赤ん坊が生まれても、その容姿は両親祖父母とたいして変わらず、仲間と同じような肉体を以て育つだろう。滑稽なのは、イングランドのアングル人とドイツのザクセン人が結婚した場合だ。生まれた子供は父の国や母の国で育ってもアングロ・サクソン人と見なされ、ドイツ語やイギリス語を話しても違和感が無い。
ところが、ユダヤ人との混血は違ってくる。ユダヤ人がイギリス人、あるいはスウェーデン人やドイツ人が結婚すれば、生まれてくる子供はユダヤ人みたいな容姿になるし、精神的にも非西歐的になる可能性がある。グラントに共鳴する西歐人や異人種排斥の白人を憎むユダヤ人は本当に多く、著名な人類学者あるフランツ・ボアス(Franz Boas)やアシュリー・モンタギュー(Ashley Montagu)といったユダヤ人学者は、肉体的な相違を強調する白人が大嫌い。彼らは「人種」なんて社会的に構築された産物で、ちっとも科学的じゃない、と人種の区別を否定する。だが、一般のアメリカ人は心の奥底でグラント達に共感し、「やはり人種の違いはあるよなぁ~」と思ってしまう。
ちなみに、英国から米国へ渡ってきたアシュリー・モンタギュー(Montague Francis Ashley-Montagu)は、移住先のアメリカで改名しており、彼の本名は「イスラエル・エレンバーグ(Israel Ehrenberg)」というユダヤ風の名前であった。フランツ・ボアスの方はドイツ生まれの帰化ユダヤ人で、アメリカの人類学会で大御所になっていた。コロンビア大学の教授だったボアスは自分の弟子を学者に育て、その人脈を徐々に広げていった。日本でも有名なルース・ベネディクト(Ruth Benedict)やマーガレット・ミード(Margaret Mead)はボアスの教え子である。
( 左 : フランツ・ボアス / アシュリー・モンタギュー / ルース・ベネディクト / 右 : マーガレット・ミード)
アメリカでユダヤ人が巨大な影響力を行使できるのは、教育界で同胞の弟子を教授にしたり、後輩や友人を後継者にしてユダヤ人ネットワークを構築しているからだ。政財界や藝能界 ばかりじゃなく、ユダヤ人は大学や裁判所、医療・福祉業界から、報道やマフィア世界にまで浸透し、隠然たる権力を誇っている。一方、グラントのような知識人は「個人営業者」か「一代限りの言論人」でしかない。永続的な影響力は無いから、本人が死んでしまえば、その著書は図書館の密室で永眠だ。仮に名声が生き延びても、ユダヤ人から絶えず攻撃されるし、アマゾンでは復刻版が販売禁止となったりする。保守派やナショナリストの大学教授がいないのは、アカデミック界が既に左翼やユダヤ人に占領されているからだ。
日本の庶民も「白人至上主義者」と同じ考えで、外見による相違は存在すると思っているし、黒人となれば“別の人種”と認識されている。実際、赤線や青線地帯のパンパンが黒人兵との間にもうけた混血児は「日本人」とは見なされず、異質な血で生まれた「外人の子」という扱いだった。澤田美喜が運営していた「エリザベス・サンダース・ホーム」には、親に棄てられた黒い混血児がたくさん居て、世間の冷たい視線に耐えながら生きていた。
差別というのはどの社会にも存在するから仕方ないけど、アフリカ系の人相をした孤児達が自分の親を探し、「どうしてお母さんは自分を棄てたのか?」と嘆く姿は痛々しい。リベラル派の国民は「戸籍とか出自なんかはどうでもいい。関係ない!」と言い張るが、養子や孤児は「自分が何者なのか」という疑問に悩み、自分のルーツを知りたがる。テレビや雑誌は「人の国際化」を持て囃すが、安易な国際結婚は不幸を招くこともある。
脱線したので話を戻す。こうした“現実”を認識している者、つまり“生々しい本音”を是認できる者なら、なぜ第20世紀初頭にアメリカの優生学者やその支援者が、移民を排斥したかったのかを理解できるだろう。独立戦争の前後までなら、新大陸へ渡ってくる者はイギリス人かスコット人、あるいは宗教的理由で故郷を離れたヨーロッパ人というのが大半だった。
しかし、第20世紀に入ると、段々と南歐や東歐の下層民や労働者が増え始め、中には不愉快なユダヤ移民が混じっていた。エリス・アイランドへやって来るユダヤ人には図々しい奴がいて、彼らはポーランド人とかハンガリー人と称して入国しようと目論んでいた。また、ガリチア地方からのユダヤ人といえば、ゲットー暮らしのユダヤ人と同じタイプの賤民で、アングロ・サクソン人を迎えたい保守派からすれば唾棄すべき異民族でしかなかった。
(左 / ケネス・ロバーツ)
『Why Europe Leaves Home』という本で知られるケネス・ロバーツ(Kenneth Lewis Roberts)は、歴史小説を書くジャーナリストであったが、「メルティング・ポット(人種の坩堝)」に警鐘を鳴らす移民規制論者でもあった。1920年代にアメリカへ渡ってくる東歐・南歐移民というのは、たいてい、貧乏人か食いっぱぐれ、社会の厄介者、あるいは能無しの平民といったところである。ロバーツが述べているように、移民には貧乏人や徴兵逃れも多かった。(Kenneth L. Roberts, 'Ports of Embarkation', The Saturday Evening Post, Vol. 193, May 7, 1921, p.72.)ロバーツはヨーロッパ駐在の公使館員から“嘆き節”を聞いたそうで、アメリカへ渡ってくる移民の“質”について語っていた。
アメリカの入管をくぐってやって来る、移民の10人中9人は、何ら政治的原則や信念を持たない連中だ。彼らには愛国心というものが全く無い。移民としてやって来る若者の大半は、兵役から逃れるためにやって来る連中だ。移民というのは、ほぼ全てが支援された移民である。自発的あるいは支援無しの移民は、現地に適応することが出来ない。現在、すなわち現行の規制のもとでは、後見人(世話人)がいる者か、最低の労働者くらいしか現地に適応できないのである。(上掲書、p.75.)
確かに、イタリアやポーランド、ギリシア、ハンガリー、アルバニアなどからやって来る移民なんかは、たいてい貧しい農民の小倅か、低賃金の工場労働者、未熟練の職人、筋肉労働しか出来ない木偶の坊ばかりだ。大卒の青年とか優秀な科学者、上層中流階級の銀行家、名門の御令嬢、財産と教養を備えた紳士が移民になることはない。そもそも、生まれ育った祖国や家族を棄てて異国にやって来る訳だから、国家に対する忠誠心なんか最初から持ち合わせていないだろう。それに、どんな育ち方をしたのかも怪しい限りである。だいたい、英語も分からぬ東歐の百姓が、アングロ・サクソン的アメリカへ移住したら、イギリス文化を尊重する紳士に変身できるのか?
ヨーロッパ人のふりをしたユダヤ移民も似たり寄ったりで、特にロシアからのユダヤ人は兵役を嫌ってアメリカへ流れきた。ユダヤ人は書物を前にした勉強なら得意だけど、肉体を酷使する軍事訓練となれば大の苦手だ。ゲットー暮らしのタカリ生活が長かったせいか、ユダヤ人には尚武の精神というものが無い。たとえ、陸軍へ入隊しても、配属されるのは諜報部隊か通訳、兵站係、会計係といった非戦闘部門だ。
現在では信じられないが、戦前だとアメリカ陸軍の士官や将校には、アメリカ兵の人種的頽廃やユダヤ人の浸透に危機感を持つ者が結構いた。例えば、合衆国陸軍のアモス・フライズ(Amos Alfred Fries)将軍とかレオナード・ウッド(Leonard Wood)将軍、エリ・ヘルミック(Eli Alva Helmick)少将、エドワード・アーモンド(Edward Mallory Almond)中将、トルーマン・スミス(Truman Smith)大佐、ヘンリー・キルボーン(Henry S. Kilbourne)少佐などは、率直な人種論を展開していたから、今なら上院議員から譴責を受けてしまうし、マスコミからは総攻撃を食らって辞任に追い込まれてしまうだろう。
(左 : アモス・フライズ / レオナード・ウッド / エリ・ヘルミック / 右 : エドワード・アーモンド )
そうじゃなくても、現代のアメリカではユダヤ人団体が政財界で睨みを利かせているから、もしADL(名誉毀損防止同盟)のジョナサン・グリーンブラット(Jonathan Greenblatt)やSPLC(南部貧困法律センター)のジョセフ・レヴィン(Joseph Levin, Sr.)やベネット・グラウ(Bennet Grau)がレイシストの軍人や議員を見つければ、即座に仲間のユダヤ人が騒ぎ出す。たとえ、ベテランの上院議員でも、皇帝ハインリッヒ四世みたいに涙を流して赦しを乞う破目になる。大手のテレビ局が軒並みユダヤ人の支配下なんだから、ユダヤ移民の反対論を口にした一瞬で身の破滅だ。
ユダヤ人の札束に魅せられ、ユダヤ人の鞭に怯えた政治家どもは、こぞって「イスラエル贔屓」となる。選挙の前に「AIPAC詣(もうで)」をする政治家は本当にみっともない。(註 / AIPACとは「米国イスラエル公共問題委員会」) こんな支配構造だから、痴呆大統領のジョー・バイデンは、1050億ドルのイスラエル支援を議会に求めていた。('Biden requests $105 billion from US Congress for aid in Israel, Ukraine, ' The Business Standard, October 21, 2023.)残念ながら、我が国はアメリカの属州になっているけど、宗主国であるアメリカも情けなく、実質的にイスラエルの衛星国となっている。満場一致でイスラエル支援を表明する連邦議会なんて醜悪だ。建国の父祖が現在のアメリカ合衆国を見たら何と思うことか!
(左 : アメリカ建国の父祖 / 右 : 議会で演説するパトリック・ヘンリー)
トマス・ジェファーソンやベンジャミン・フランクリンは、英語を学ぼうとしないドイツ移民を懸念したが、まさか有色人種の移民や難民を大量に受け容れ、黒人が大統領に選ばれるとは夢にも思っていなかったはずだ。しかも、歐州の鼻つまみ者であるユダヤ人が共和国を牛耳り、パトリキ(貴族や族長)のような存在になっているんだから、ジョン・アダムズやジェイムズ・マディソンでも手足が震えてくるだろう。
「我に自由を与えよ、然らずんば死を!(Give me liberty or give me death!)」と叫んだパトリック・ヘンリー(Patrick Henry)なら、小カトー(Marcus Porcius Cato Uticensis)を真似て「ユダヤ人を叩き出せ、さもなくば我に死を!」と訴えるかも。ただし、今度はペーパー・ナイフじゃなく、拳銃を頭に突きつけるくらいの覚悟がないとダメだろうけど・・・。
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