無敵の太陽

主要マスメディアでは解説されない政治問題・文化・社会現象などを論評する。固定観念では分からない問題を黒木頼景が明確に論ずる。

偉人伝/人物評論

伝説の敏腕スナイパー / One Shot One Kill (パート 2)

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本当にいた狙撃の達人

  前回述べた『山猫は眠らない』の主人公トマス・ベケット曹長にはモデルがいた。それがベトナム戦争で伝説の狙撃手と呼ばれたカルロス・N・ハスコック特務曹長(Gunnery Sergeant Carlos Norman Hathcock II)である。彼は1942年5月20日、アーカンソー州のリトル・ロックに生まれた。幼い時に両親が離婚していたので、カルロスは祖母と一緒に暮らしていたそうだ。彼は小さい時から銃に興味を抱いたそうで、犬を連れて森に入っては狩猟を行っていたらしい。軍人に憧れたカルロス少年は、父親が第一次大戦で持ち帰ったモーゼル銃を用いて、想像上の日本兵を撃つ「兵隊ごっこ」で遊んでいたそうだ。ライフル銃の扱いに慣れたカルロスは、将来海兵隊に入ることを望んでいたという。そして、17歳になった1959年5月20日に、念願の海兵隊員になった。さらに、海兵隊の創立記念日である1962年11月10日、彼は恋人のジョー・ウィンステッドと結婚したというから、まさしく海兵隊が人生の中心となっていた訳だ。(ちなみに海兵隊の公式な創立記念日は、1775年11月10日である。)

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(写真 / スナイパーとしてのカルロス・ハスコック)

  海兵隊員になるために育ったようなハスコックだから、ライフルを構えれば誰にも負けず、射撃の腕前は群を抜いていた。1965年に開かれた射撃大会の「ウィンブルドン・カップ」に出場すると、彼は見事、長距離射撃部門で優勝することができた。彼は上官のエドワード・ジェイムズ・ランド大尉とチームを組んで、一緒に射撃大会に出たことがある。海兵隊チームを率いていたランド大尉も中々の狙撃手で、彼はカルロスの才能を高く買っており、スナイパー養成所を創設した時、この相棒を教官にしていたという。(Charles W. Sasser and Craig Roberts, One Shot-One Kill, Pocket Star Books, New York, 1990, p.166) 

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(左: 「ウィンブルドン・カップ」で優勝したハスコック / 右: スナイパー養成所で教鞭をとるジム・ランド)

  射撃の名手たるハスコックは、海兵隊員が大勢犠牲となったベトナム戦争へと入って行く。彼は当時、最前線の一つとされた第55高地(Hill 55)に配属となり、ジャングルでの実戦で活躍することになった。ハスコックが銃を持てば鬼に金棒、ベトコン兵なんか野ネズミか七面鳥みたいなもんだ。彼が仕留めた敵兵は、北ベトナム軍兵とベトコンを含めて、合計93人と記録されるが、これはあくまでも公式な数字であって、実際は300人から400人くらいは殺したんじゃないかと言われいる。まぁ、戦場で射殺死体を数える審判は居ないから、公式記録が低くなっているのも仕方がない。しかし、ハスコックは手放しで狙撃の実績を喜んではいられなかった。狙撃の達人ハスコックを忌々しく思った北ベトナム軍は、彼の命に3万ドルの懸賞金を掛けたのだ。これは途方もない金額である。通常、アメリカ人狙撃手を殺して得られる報奨金といったら、標的のランクにもよるが、だいたい8ドルから2千ドルが相場であったからだ。(Carlos Hathcock, Heroes of the Marine Corps, Marine Corps Veterans News Letter, August 2015) したがって、この金額を見れば、ハスコックが如何に優れた狙撃手だったかが分かるだろう。

  ハスコックたちの狙撃チームは多大な成果を上げたらしく、第55高地周辺で敵兵に殺される海兵隊員の死亡率は激減したそうだ。ランド大尉とハスコックはスナイパー養成プログラムで、訓練生に「一撃必殺(One Shot One Kill)」のモットーを叩き込んだらしい。事実、教官のハスコック自身が狙った標的は外さない名人なんだから、その言葉には重みがある。彼は北ベトナム軍将兵から大変恐れられたようで、「白い羽のスナイパー(Du kích Lông Tráng)」という綽名をつけられたという。なぜなら、彼は被っている迷彩帽子(bush hat)のバンドに白い鳥の羽を差していたからだ。こうした羽は一般的に「臆病者(チキン)」を意味するが、勇猛果敢なハスコックが身につけていたんだから、如何にもアメリカ人らしいジョークである。ハスコックによれば、狙撃手たる者は臆病なまでに慎重でなければならぬそうだが、敵対するベトコン兵からすれば恐怖のトレード・マークに見えてしまう。当時、同じ地帯にいた海兵隊員はハスコックの名声を利用していたらしく、わざと白い羽を地面に残して敵兵を怯えさせ、あたかもハスコックが近くにいるような印象を与えて、彼らを騙していたそうだ。

  ハスコックの武勇伝の中で最も有名なのは、1967年に行われた「エレファント・ヴァレーでの戦闘(the Battle of Elephant Valley)」であろう。アメリカ兵がこの渓谷を「象の谷」と呼んでいたのは、実際にベトナム兵が象に大砲や弾薬を積んで、長い道のりを運ばせていたからだ。ハスコックはスポッター役のジョニー・バーク(Johnny Burke)伍長を伴って斥候に出た時、偶然にも北ベトナム軍の一隊を見つけてしまったという。ハスコックが観察したところ、彼らは単なるガキんちょだったらしい。そのカーキ色の軍服は真新しいし、亀の甲羅みたいなヘルメットには「へこみ」も無いし、使い古された痕跡も無い。担いでいるカラシニコフ銃は新鮮なオイルで磨かれているから、日光に照らされてギラギラしていた。これじゃあ、ど素人丸出しだ。(Sasser and Roberts, One Shot-One Kill, p.142) 士官らしき者でさえ戦闘経験がなさそうに見えた。こんな部隊を目にしたバーク伍長は呆れ顔で、ハスコックに対し「こんなクソ野郎どもがいるなんて信じられますか?」と語りかけた。するとハスコックはこう答えた。「あいつらは、お祭り(jamboree)に向かうボーイ・スカウトだな」、と。

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(写真 / ベトコン兵たち)

  遠くからベトナム兵の一行を眺めたハスコックは、彼らを新米の集団と見越し、まず指揮を執っている上官を撃ち殺した。突然、目の前で統率者を失った新兵たちはパニックを引き起こし、直ぐさま田んぼの中にぽちゃんと倒れて腹ばいになり、近くの土手の方へ這いつくばって行ったという。こうなると怯えきったベトコンどもは中々土手から出てこようとはしないから、ハスコックとバークはじっくりと相手を待つしかなかった。こうした持久戦に我慢できないベトナム兵は、辺りの様子を確かめようとプレーリー・ドッグのように恐る恐る頭を上げていた。ハスコックには丸見えだが、彼は素人兵がもっと大胆な行動を取るよう、わざと見逃していたのである。しばらく射撃が止んだので、気を許した兵卒は近くの森へ逃げ込もうとしたらしい。しかし、土手と森の距離は約700mあったから、急いで走っても2、3分はかかってしまう。ハスコックにとっては格好の標的だ。案の定、その無謀な逃走を試みた兵がいたが、ハスコックの弾丸に当たってガマ蛙のように死んでいった。ハスコックがベトナム兵を「ハンバーガーども(hamburgers)」と呼んでいたのは、彼らが被弾した時、肉片が飛び散って挽肉のようになるからである。

  ハスコックとベトナム兵の睨み合いは5日間も続き、その間、ベトナム兵は次々とハスコックが発射する銃弾で斃れ、どんどん数が減っていったそうだ。蒸し暑いベトナムの戦場では、焼け付くような日光のもとに放置された死体には蛆が湧き、黒い蠅が大量に群がってくる。土手に隠れているベトナム兵は、喉が渇いても田んぼの水を飲むわけにはいかない。なぜなら、濁った水には人糞や訳の解らぬ物が混ざっていたからだ。こうして日夜緊張を強いられるベトナム兵が疲弊していったのも当然だ。しかも、どこから狙撃されるのか分からないんだから、夜も眠ることができない。銃弾が命中すれば一瞬で仲間があの世行きだから、新兵にとって目に見えぬ敵の恐怖は想像以上である。ハスコックとバークは5日間にも亙る狙撃で、この部隊に大損害を与えて退却したそうだ。

信じられない狙撃

  もう一つ、ハスコックが残した伝説に、強敵「コブラ(Cobra)」との死闘があった。ハスコックはバーク伍長を連れてベトナム兵狩りに出た時、誰かにつけられているのを「第六感」で気づいたという。(Sasser and Roberts, OneShot-One Kill, p.12) ジャングルや尾根を動き回る彼らを、コブラは執拗に追跡していたのである。そして、このベトナム人狙撃手は遂に行動を起こした。ハスコックとバークが尾根をつたって、辺りの様子を伺っていた時のことだ。太陽が照りつける静寂な森に、突如として天空を切り裂くような銃声が鳴り響いたのである。ハスコックは間髪を入れず、バークの方に目を差し向けた。彼は直ちに「バークが殺(や)られた!」と思ったそうだ。一方、銃弾を発射したコブラは、すかさず狙撃地点を離れ、相手に居場所を摑まれぬよう別の地点に移動していた。

  コブラの銃弾を受けた相棒のバーク伍長は、「カルロス、撃たれちまった! アノ野郎、俺の尻を撃ちやがって !」と囁く。これには流石のハスコックも驚いた。ところが、バークから血が出ていない。流れていたのは水だけだった。ハスコックはバークに「あの野郎はお前の水筒を撃ち抜いたんだよ」と教えてやったそうだ。命拾いをしたバーク伍長は、どぎまぎしながら苦笑いを浮かべたという。(上掲書 p.14) 彼らは交互に相手のカバーをしながら、安全な場所へと身を隠したそうだ。(これはよくアクション映画で見られるように、一人が退却するのを相棒が銃を構えて見張り、退却した者が次に銃を構えて、その相棒を無事に退却できるよう見張ってやる手法である。)

  双方との対決が一旦鎮まり、緊張の時間が流れていた。しかし、ハスコックにチャンスが訪れたという。彼の五感は研ぎ澄まされており、ジャングルに漂う敵の臭いや雰囲気、そして息づかいまでもが伝わってくるのだ。ハスコックは一瞬だが、遠くで光った「不自然な」輝きを見逃さなかった。コブラに違いないと思ったハスコックの指に電撃が走り、彼は条件反射的にライフルの引き金を引いたという。彼のウィンチェスター銃から放たれる弾丸は、電光石火の如く、200ヤード先の標的に命中。30.06薬莢の弾丸(slug)はコブラを撃ち抜いた。脳味噌が飛び散った狙撃手は、鶏のように地面でもがきながら絶命したという。

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(左: スコープを通した見た標的 / 右: 狙撃を行う海兵隊員)

  この銃撃戦の結果を確かめるべく、バーク伍長がコブラのもとに駆けつけると、信じられぬ光景を目にしたそうだ。「何てことだ ! こんな事誰も信じねぇぞ!(Holy shit !Nobody's gonna believe this !)」とバークは叫んだ。というのも、コブラの銃に備わっているスコープの両端が破損していたからである。つまり、ハスコックが撃った銃弾は、そのスコープを貫通してコブラの右眼を射貫いていたのだ。(上掲書 pp.15-16) コブラもハスコックをスコープで捕らえていたが、ハスコックの方がほんの一瞬だけ引き金を引くことが早かったため、コブラを仕留めることができたのである。このエピソードは『山猫は眠らない』に採用されていた。ジャングルで敵のスナイパーに追跡されたトマス・ベケット曹長は、自分のスコープでライフルを構える敵兵を捕らえ、その敵もスコープでベケットを捕らえていた。一流のスナイパー同士が対決する緊迫したシーンである。両者がスコープ越しに互いを捕捉した時、一瞬だけ早くベケットの弾丸が敵兵の目を撃ち抜いた。映画の観客は作り話だと思ったが、こうした驚異の狙撃は本当にあったのだ。

命懸けで戦友を助けた英雄

  世間の注目は派手な銃撃戦に向けられがちだが、一匹狼のカルロス・ハスコックの功績も特筆すべきものが多い。例えば、「フレンチ野郎(French fag)」を抹殺した事が挙げられる。このフランス人は1954年にディエン・ビエン・フー(Dien Bien Phu)が陥落したあとも、そのまま現地で農園(プランテーション)を営んでいた。というものも、彼は民族解放戦線を自称するベトミン(Viet Minh / ベトナム独立同盟会)やベトコン(Viet Cong / 南ベトナム解放を掲げる共産主義者)に協力したので、引き続き事業を許されていたのである。ところが、このフランス野郎は只の卑劣漢ではなかった。西側に背き、東側に寝返っていたのだ。ベトコンたちは彼のプランテーションを拠点にしたり、避難場所にしていたという。しかも、彼らは捕まえたアメリカ兵を農園に連行し、捕虜収容所として使っていたのである。本国のフランス人が聞いたら恥ずかしく思うだろうが、この裏切り者はアメリカ人捕虜をベトコンと一緒に尋問し、拷問にまでかけて楽しんでいたというのだ。(上掲書 p.203)

  この事情を知ったハスコックは黙っていられなかった。爪先から頭まで愛国心の塊であるハスコックは、海兵隊員になるべくして生まれてきたような男だから、このフランス野郎を「ハンバーガー(挽肉)」にしてやろうと思ったらしい。ハスコックは彼が農園の邸宅近くで歩いていたところを発見すると、待ってましたとばかりに一発で仕留めたそうだ。百戦錬磨のハスコックにとっては造作もない任務であった。しかし、彼は狙撃の名手ではあったが、射殺を楽しんだことはない。ただ、彼が敵を撃たなければ、その敵が彼の仲間を殺してしまうから、大勢の仲間を救うためにもハスコックは射殺を続けていたのである。

  ハスコックの活躍で多くのアメリカ兵が命を救われたことは確かである。中でも「アパッチ(Apache)」との綽名を持つベトナム人の女狙撃手を仕留めたことは賞讃に値する。この女兵士はアメリカ兵に対する憎悪に満ちており、捕まえたアメリカ兵を拷問することに喜びを感じていたらしい。彼女は捕虜を丸裸にして竹で作った柵に閉じ込め、ナイフで頬を斬りつけたり、生爪を一つ一つ剥がして苦痛を与えていたのである。そして、涙と血を流しながら呻(うめ)くアメリカ兵に、更なる激痛を与えたという。彼女は捕虜の指を無理矢理、手の甲に折り曲げ、指の関節を砕いた。右手と左手の小指をへし折ると、次は人差し指をねじ曲げ、20分おきにこの作業を別の指に繰り返したそうだ。周りのベトナム兵はその拷問を楽しみながら観賞していた。地獄の責めを受けるアメリカ兵は、たいてい10代か20代前半の若者だった。大ヒット映画『ランボー』のシルベスター・スタローンは、残酷な拷問に弱音を吐かずに、じっと耐えていたが、あんなのは真っ赤な嘘だ。どんな英雄でもひとたび拷問台に括り付けられれば、赤ん坊のように泣きわめくのが普通である。

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(写真 / ベトコンの女性兵士)

  アパッチの拷問を受けたアメリカ兵は全員死を迎えたわけでもなく、生き延びて基地に戻ってきた者がいたという。ただし、半殺しの目に遭ってだが。命からがら逃げ延びてきたアメリカ兵は、凄まじい虐待を受け見るも無惨な姿になっていた。アパッチは若いアメリカ兵を竹の柵に縛り付け、持っていたナイフを彼の性器にあてると、睾丸の部分を残したまま、ペニスだけを斬り落としたのだ。血塗れの男根が切り離されると、剔られた股間からからは大量の血が噴き出してくる。「もう長くはもたないだろう」と判断したアパッチは、この捕虜を釈放することにし、彼に向かって笑いながらこう罵った。「走りな ! GI。じきに医者が見つかるかもしれないよ。金網の方へ行きな。私たちは海兵隊が間違ってお前のケツを撃つのを見ていてやるからさ !」と吐き捨てたらしい。必死の思いで基地に辿り着いたアメリカ兵は、大きく手を振って、「敵ぢゃない。撃たないでくれ !」と叫んでいたそうだ。ジェイムズ・ランド大尉たちは、アパッチが仲間を「宦官」にしやがったと怒り狂っていたという。だから、ハスコックがアパッチを殺したことは快挙であった。

  ハスコックは密林を駆け巡るスナイパーとして一流であったが、仲間への愛情に溢れる人物でもあった。1969年9月16日、彼はある悲劇に巻き込まれる。ベトナム中部の沿岸にチュー・ライ(Chu Lai)と言う港町があって、そこに海兵隊の基地(Landing Zone Baldy)、通称「第63高地(Hill 63)」があった。ハスコックは水陸両用車の「アムトラック(Amtrak / LVT-5)」に同乗し、ルート1を走行していたという。すると、この装甲車は対戦車地雷を踏んでしまい、爆発によって炎上してしまったのだ。当然、ハスコックも重傷を負ったが、彼は仲間を助けるべく、炎に包まれた車体の中に飛び込み、無我夢中で同乗者を引き摺り出したという。仲間の命を救ったハスコックは、2度ないし3度の火傷を負ったというから重症である。(「2度熱傷」だと真皮にまで達する症状だが、「3度熱傷」になると皮膚の全層にまで達する火傷であるから、皮膚が茶色になるか、壊死になって白くなるそうだ。) ハスコックは体の40パーセントに火傷を負い、テキサス州のブルック陸軍医療センターに運ばれたという。(Jon Thurber, Carlos Hathcock; Sniper in Vietnam, The Los Angeles Times, February 28, 1999)

  重度の火傷を負ったハスコックは、引退を余儀なくされ、治療の為に皮膚移植手術を10回以上も受けたという。しかし、彼の苦悩は手術だけではなかった。彼は満額年金が下りる20年勤務に、たった55日間だけ足りぬということで、50%の年金額しか受け取れなかったのだ。これじゃあんまりじゃないか。ベトナム戦争で多くの敵を倒し、そのお陰で同胞のアメリカ兵が命拾いをしたのである。しかも、自らの危険を顧みず、炎上する車内から負傷者を救い出したんだぞ。これが英雄じゃなければ、誰が英雄と呼ばれるんだ?

上流階級の卑怯な御曹司

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(左: ビル・クリントン  / アル・ゴア / ロバート・ライシュ / 右: ストローブ・タルボット )

  ベトナム戦争時代、上流階級のお坊ちゃんは、あの手この手で徴兵を逃れをしていた。例えば、ビル・クリントンはローズ奨学金を得て、オックスフォード大学に留学すると、反戦運動どころか、マリファナまで吸っていたのである。ユダヤ人のくせにローズ奨学生とは、創設者のセシル・ローズがたまげてしまうが、ロバート・ライシュ(Robert Reich / 元労働長官)はクリントンの同期生だった。同じく、ストローブ・タルボット(Nelson Strobridge Talbot III / ロシア専門家で元国務副長官)もローズ奨学生で、危険な戦場には行っていない。副大統領のアルバート・ゴアは戦地に行ったが、ジャーナリストの身分だったから安全だった。たぶん、上院議員の父親アル・ゴア・シニアの取り計らいだろう。権力者は他人の息子に厳しいが、自分の息子には甘いから、いつも特別な抜け道を用意している。例えば、東部エスタブリッシュメントに属するジョージ・H・W・ブッシュは、出来の悪いドラ息子とはいえ、長男のジョージ・ウォーカーが可愛かったので、テキサス州空軍に押し込んで、ベトナム行きを上手くかわすことができた。だから、出来損ないのジョージは、“安全な”テキサスで“勇敢な”パイロットになれたのである。さらに、飲んだくれのアル中になっても、親爺の七光りと共和党主流派の助けで、合衆国大統領にもなれた。水野晴郎じゃないけれど、「いやぁ~、アメリカって本当にいいですね」と言いたくなるじゃないか。

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(左: ジャーナリスト時代のアル・ゴア / 中央: ジョージ・ブッシュ親子 / 右: パイロット時代のジョージ・ブッシュ )

  高温多湿の汚いベトナムに送られるのは貧乏人の小倅で、大富豪の御曹司は快適な安全地帯で青春を過ごす。例えば、アメリカ社会に君臨するロックフェラー家のジェイ・ロックフェラー(John Davison Rockefeller IV)元上院議員は、ハーバード大学に通っている途中で、“安全な”日本の国際基督教大学(ICU)にご留学。それから、ハーバードを卒業するとイェール大学に進学したそうだ。ところが、学問を終えると歩兵聯隊ではなく、文官ばかりの「平和部隊」に所属して、ベトナムから離れたフィリピンで活躍したそうだ。密林の中でハスコックが恐ろしい敵と対峙していた1967年、このお坊ちゃんはチャールズ・ハーティング・パーシー(Charles Harting Percy)上院議員のご令嬢シャロン(Charon Lee Percy)と恋仲になり、この幸せなカップルは目出度く結婚する。いいなぁ。生まれる家庭が違うと、こうも人生が違うものなのかねぇ~。

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(左: ジェイ・ロックフェラー上院議員  / 中央: 若い頃のジェイとシャロン・パーシー / 右: ロックフェラーの家族 )

  使命感に燃えるハスコックは、泥沼の中で這いずり回っていたのに、ロックフェラーは甘いハネムーンで、ベッドの上を転がっていたのだ。(もちろん、抱いていたのはライフル銃じゃなく裸の女房だぞ。) 政界で華やかなデビューを果たした大物は、どうしてこうも卑怯者ばかりなのか。祖国に尽くしたハスコックは、全身に火傷を負ったことで多発性硬化症に苦しんでいたのに。しかも、年金が減額された傷痍軍人だなんて。ニューヨーク郊外の豪邸に住むクリントン夫妻や、宏大な牧場で乗馬を楽しむブッシュ親子にとって、「愛国心」など単なる「レトリック」に過ぎないのだろう。

Jay Rockefeller at Kishi's home 2Jay Rockefeller at Kish's home








(写真 / 岸信介邸を訪れたロックフェラー親子)

  卑劣な政治家どもと違い、海兵隊はハスコックの武勲を讃え、ノース・カロライナ州のレジューン基地(Camp Lejeune)にある射撃訓練所はハスコックの名を冠している。また、カルフォルニア州サンディエゴにあるミラマー海兵隊航空基地(Marine Corps Air Station Miramar)の射撃訓練所は、「カルロス・ハスコック射撃場(Carlos Hathcock Range Complex)と改名されたそうだ。なるほど、ハスコックの栄誉は本物である。彼は炎上する装甲車から仲間を救った功績を讃えられ、名誉あるシルバー・スター勲章を授けられた。さらに、パープル・ハート勲章(Purple Heart)、国防奉仕勲章(National Defense Service Medal)、ベトナム従軍勲章(Vietnam Service Medal)などを含め、合計9個のメダルを授与されたのである。引退後は、若手のスナイパー育成に努め、1999年2月22日、ヴァージニア州のヴァージニアビ・ーチで永久(とわ)の眠りに就いたそうだ。享年57。まさしく海兵隊の鑑であった。

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(写真 / 叙勲されるハスコック )



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「血は水よりも濃い」と思ったアメリカ人 / 同胞を見棄てる日本人


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拉致被害者は見殺しの日本人

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(左: 合衆国海兵隊の特殊部隊 / 右: 合衆国海軍の士官)

  今、日本の報道番組では、南鮮大統領の朴槿恵が「ついに弾劾されるぞ!」とか、「辞任するんじゃないか?」といった話題で持ちきりだ。でもさぁ~、こう言っては何だけど、年がら年中「火病」を発症している朝鮮人が、またもや激昂して叫び狂うのは、彼らの“通常営業”なんじゃないか。南鮮人ときたら、国内で政治的鬱血が溜まったり、財閥経済の失敗で不況に陥れば、お得意の「反日カード」を持ち出して、「日帝支配は許せないニダぁ~」とか「慰安婦に謝罪せよぉ~」、「日王は土下座しろ!」と叫べば元気になる。でも、そんなのはシャブ中に一匙の覚醒剤みたいなもので、瞬間的には爽快だが、しばらくすれば再び陰鬱になるだけだ。亡国の民に救い無し。

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(左: 朴槿恵に抗議する朝鮮人 / 右: 怒った顔の朝鮮人少女)

  セオウル号のように沈み行く南鮮は、我々の手に負えるものではないから、自然の流れに身を任せて玄界灘の底に沈むしかない。それでも「日本人はウリ(我)を助けるために金よこせ!」、とギャアギャアわめく南鮮人がいたら、キムチと一緒に甕に詰め込んで、北鮮の地中に埋めてやれ。一年もすれば、北鮮人のご馳走になるだろう。(もっとも、利に聡い北鮮人なら、支那の人肉市場に持ち込んで、ちょいと一稼ぎするかもね。) 南鮮人なんがどうなろうと我々の知ったことではないのに、ワイドショー番組は朝鮮人の御用学者を招いて、一日中、朴槿恵の側近がどうしたこうした、と解説し、まるで朝鮮放送局にでもなったかのように振る舞っていた。しかし、部外者には南鮮の権力闘争のことは分からないし、外野が何を言っても始まらないだろう。テレビを観ている日本の子供なら、ゲスト解説者の朝鮮語訛りを真似して、「ボクもぜぇんぜぇん分かりましぇ~ん」と笑い転げるんじゃないか。

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(左: 抗議デモを行う南鮮人労働者 / 右: 昔の朝鮮人)

  我々にとっては南鮮の政治的混乱より、拉致被害者の奪還の方が重要なはずだ。いったい、政府が「被害者を救出する」と言って何年になるんだ? そもそも、大勢の日本人が拉致されたのは1970年代だぞ。例えば、もし現在、東京か大阪で子供の誘拐事件が起きたとして、警察官が取り乱す両親に向かい「あと二、三十年もすれば解決の糸口が見つかるかも知れません」と告げたら、どんな反応が返ってくるのか? おそらく、激怒した父親は「何言ってやがるんだ!」と警官に掴み掛かるだろうし、母親は泣き崩れて失神してしまうだろう。我が子を攫われた親は、1日だって耐えられないのに、30年ないし40年も放ったらかしにされたら、逆上して北鮮じゃなく国会に銃口を向けるんじゃないか。マフィア国家の北鮮に対し、「話し合いで解決」なんて空論だ。極悪人には武力で交渉すべし。

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(左と中央: ジェイムズ・マティス/ 右: ピーター・ペイス)

  邦人を見棄てる日本と違い、米国は自国民1人を救出するためには、陸海空の全軍を動員し、真っ先に勇猛果敢な海兵隊を送り込む。国民救出の為には核戦争も辞さないから、北鮮のみならず支那も米国人には手を出さない。悪党だが馬鹿ではない朝鮮人や支那人は、自分より強い者に対しては従順になるのだ。日本人には「北鮮や支那は暴力団が建てた国」という基礎知識が無いから、呑気で悠長な戯言(たわごと)を口に出来るのだ。米国だとクリントンやオバマみたいな卑怯者が大統領になっても、オーヴァル・オフィス(執務室)に控える高級軍人が睨みを利かせているから、世界のゴロツキどもだって二の足を踏んでしまう。だって、今度トランプ政権で国防長官になるジェイムズ・マティス将軍(Gen. James Mattis)はタカ派だし、海兵隊出身の統合参謀本部議長だったピーター・ペイス将軍(Gen. Peter Pace)は、温厚な紳士に見えたがその実非常にタフだった。

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(左2枚: ヘンリー・シェルトン将軍と戦場に於けるシェルトン / オマー・ブラッドリー / 右: ジョージ・パットン)

     同じく海兵隊出身のヘンリー・シェルトン将軍(Gen. Henry Hugh Shelton)なんか、古代ローマの執政官か属州総督みたいだっから、あの鋭い目つきで大統領を黙らせてしまうくらいの迫力があった。歴代の軍人を見ても分かるが、合衆国陸軍には、第二次世界大戦で名を馳せたオマー・ブラッドリー将軍(Gen. Omar Nelson Bradley)がいたし、ジョージ・パットン将軍(Gen. George Smith Patton)もいたじゃないか。パットンは強烈な個性の持ち主で、その活躍は後に映画化されたくらいだから、日本でも有名だ。

熱烈な愛国者だった海軍大佐

  こんなアメリカ合衆国にはその歴史上、素晴らしい軍人が雲霞の如く存在するが、今回はその内の一人ジョサイア・タットノール・ジュニア(Josiah Tattnall, Jr.)を紹介したい。

Josiah Tattnall 1(左 / ジョサイア・タットノール)
  我々もよく知っているポーハタン号で、幕末の横浜にやって来たタトノール代将(Commodore/普段は海軍大佐)は、1795年11月9日、ジョージア州サヴァンナの近くにある「ボナヴェンチュア・プランテーション(Bonaventure Plantaion)」で生まれたという。当時の日本は寛政年間で、徳川家斉が将軍として君臨し、松平定信が老中だった頃である。タトノールは名門の家庭に育ち、その遠い祖先はフランスのノルマンディーからやって来て、イングランドのチェシャイヤーに定住したそうだ。ジェントリー階級に生まれた代将だが、その父親ジョサイア・シニアもすごかった。彼は同じ名前のジョサイアを父親に持ち、その母はアイリス系貴族たるジョン・マルリン大佐(Col. John Mulrne)の一人娘であった。この両親には二人の息子が生まれ、ジョサイアには兄のジョンがいる。

  ジョサイアの家族は王党派だったので、アメリカの入植地で独立運動の気運が高まると、彼の祖父、つまり母の父親マルリン大佐と共に英国へ去って行ったという。しかし、18歳前後の若きジョサイアは故郷のジョージアに抜き難い愛着があったので、両親に従って英国に逃れることを潔く思わなかった。愛国心旺盛なジョサイアは、英国行きの船が錨を上げて出港しようとした時、突如として海に飛び込み、岸まで泳いで是が非でも故郷に残ろうとしたそうだ。(Charles C. Jones, Jr., The Life and Services of Commodore Josiah Tattnall, Norning News Steam Printing House , Savanan, 1878, p.3) しかし、そんな抵抗はしょせん、子供が駄々を捏ねたようなものに過ぎず、彼は家族と共に英国に渡ることとなり、イートン校で勉強する生活になった。イングランドに滞在中、英国海軍に入らないかとの申し出を受けたそうだが、同郷の仲間に刃(やいば)を向けるのを躊躇ったジョサイアは断ったという。

Nathanel Greene 2Anthony Wayne 2(左: ナサニエル・グリーン / 右: アンソニー・ウェイン)
  そうこうしてアメリカ大陸での独立戦争が終盤を迎えた頃、ジョサイアはどうにかジョージアに戻ることが出来て、早速ナサニエル・グリーン(Nathanael Greene)少将麾下の軍団に入ったそうだ。そして、戦場では猛将で知られるアンソニー・ウェイン(Anthony Wayne)准将に仕えて、英国軍をジョージアから駆逐したと言われている。こうした武勲を経歴にして、ジョサイアはチャタム砲兵隊の陸軍大尉となり、次に第一ジョージア聯隊の大佐、そのあと第一師団に属する第一旅団の准将となり、政界に進出するや、ジョージア州選出の連邦下院議員、連邦上院議員、さらにジョージア州知事にまでなった。しかし、彼は1804年西インド諸島で亡くなってしまう。享年36。若すぎる死であった。

  こうして早くに父親を失ったジョサイア・ジュニアは、孤児となってしまった。というのも、父が亡くなる数ヶ月前に母親まで他界していたからだ。(ちなみに、ジョサイアには生まれる前に夭折した兄がいて、1歳半で亡くなってしまったので、彼の両親は生まれてきた弟に同じ名前を授けたらしい。) 彼の母親ハリエット・フェンウィック・タトノール(Harriet Fenwick Tattnall)も名門の出で、彼女の父親エドワード・フェンウィックはサウス・カロライナの郷士で、その祖先はノルマン征服以前のサクソン人貴族に遡るそうだ。これだけの家系に生まれたんだから、高貴な精神を持っていても不思議ではない。父の死を以て、ジョサイアは兄のエドワードや妹のサリーと共にイングランドに渡ったそうだ。彼はイートン・カレッジに入って、そこで6年間勉強したという。

  イングランドでジェントルマン教育を受けたとはいえ、ジョサイアの心には絶えず「アメリカ人魂」が息づいていた。合衆国に尽くした父の愛国心は息子に受け継がれ、ジョサイアも故郷の仲間と過ごした思い出を大切にしていたそうだ。ある日、食事か何かの席で、祖父と一緒にテーブルに着いていた時のエピソードがある。祖父が国王陛下の健康を祝して乾杯しようと呼びかけたところ、ジョサイアは合衆国大統領の健康も一緒に口にするまで、決してグラスに触れなかったという。(上掲書 p.5) ただし、彼が反英国的態度を取っていたと言いう訳ではない。ジョサイアは学校の友人とも親しかったし、一生忘れられない程の楽しい日々を過ごしていたという。

命令よりも同胞を優先した代将

Taku Fort 2Taku Fort 5









(左: タークー要塞 / 中央: 要塞にあった大砲/ 右: 支那兵と闘う英国兵)

  イートン・カレッジで6年間を過ごしたジョサイアは、ブリテンからアメリカへと戻り、海軍に入って士官候補生となった。彼は米英戦争で戦場を経験し、フリゲート艦のコンステレーションやマケドニアでの任務を経て、着々と出世を遂げていったという。こうして海軍大佐となった彼は、蒸気艦「トゥーイ・ワン(Toey-Wan)」の指揮を任され、戦闘命令がなかったにも拘わらず、第二次アヘン戦争(アロー号戦争)に係わって行く。英仏の軍隊はこの戦争で、支那の「大沽(タークー)要塞」を攻めることとなり、1859年6月24日、揚陸部隊を以て作戦に取りかかったが、殊のほか支那軍の抵抗が激しかったので、苦戦を強いられることとなった。というのも、英仏のフリゲートは大型艦であったため、浅い河を航行することができず、小さなガンボート(gunboat)11艇に兵隊が乗り込んで攻撃するしかなかったからだ。英仏の軍人は勇ましく出撃したが、1艇のガンボートには、たった4つの銃砲しか装備されていなかったというから、その戦闘能力は限られていた。

James Hope Sir 3Opium War 5







(左: ジェイムズ・ホープ少将 / 右: 阿片戦争での海戦)

  英国海軍の指揮を執っていたジェイムズ・ホープ少将(Rear Admiral James Hope)と仲間のフランス海軍は、当初、支那軍の戦闘能力を見くびっていた。彼らの事前調査では支那軍など大したことはないと思っていたのに、いざ戦闘を開始してみると、支那軍の砲撃は正確で、しかも容赦ない攻撃を展開していたから、英仏軍の兵士たちは西歐人が砲台にいるのかと勘違いしたそうだ。それでも、英仏軍はめげない。「プローヴァー(Plover)」というガンボートに乗り込んだホープ少将は、ボートのブリッジへ昇り、仁王立ちになって采配を揮っていたという。ところが、要塞から発射された銃弾が軍服の鎖に当たり、その衝撃で彼はデッキに倒れ落ちて、肋骨三本を骨折する重傷を負ったのである。この指揮官のみならず、部隊の兵卒も激戦で多くが負傷、または戦死する事態となってしまった。

Taku Forts 3Taku Fort 1











(左: 英国兵と闘う要塞の支那兵 / 右: 城壁を登る英国軍を突き落とす支那兵)

  一方、タットノール代将は「トゥーイ・ワン」からこの戦闘を眺めているしかなかった。なぜならば、合衆国政府はこの戦争に介入しておらず、彼の任務は観戦のみに限られていたからだ。しかし、彼と種族を同じくする西歐人が、支那軍からの激しい砲撃を受け、無惨にも次々と斃れている。熱血漢のタットノールは居ても立ってもいられない。それもそのはず、彼の目の前でイギリス兵とフランス兵が皆殺しに遭っていたのだ。ここで立たねば軍人ではない。否、男ですらないだろう。そこで、見るに見かねた代将は中立命令を破る際、「血は水よりも濃い(blood is thicker than water.)」と述べたそうだ。(上掲書 p.104) 彼は直ぐさま応援部隊を派遣し、プローヴァー号の負傷者を救出しようとしたそうだ。彼の到着は大いに歓迎され、代将は数名の部下をプローヴァーに残し、負傷者を戦闘地域外に運ぶことにした。

  怪我人を安全な場所に置いてからプローヴァーに戻った代将は、残しておいた部下たちが爆薬で真っ黒になっていることに驚いた。彼が部下たちにその理由を尋ねたところ、彼らの一人が答えたという。

  はい、艦長殿が去った後、我々には何もする事が無かったので、ちょいっと銃を手にしたのであります。

  もちろん、タットノール代将は英国兵の代わりに闘った部下を責めなかった。たぶん、彼は「しょうがない奴らだ。だが、よくやった」と暗に褒めたんじゃないか。彼が黙認したのはその証拠だ。厳密に言えば、タトノール代将の取った行動は命令違反で、合衆国海軍の規律に反すると思えるが、同じ西歐人の将兵を見棄てるよりマシだろう。もし、代将が命令通り「中立」を貫いて、イギリス兵とフランス兵を見殺しにしたら、本国のアメリカ人はどんな評価を下すのか。おそらく、アメリカ人の戦場記者は、タトノールを「臆病者」とか「恥知らず」と非難したであろう。戦闘を見ていないアメリカ本土の兵卒や士官だって、「何だあの野郎。ガッツがねえな。あれじゃあ、武人でなく役人だ」と蔑むんじゃないか。

Opium Chinese 2Opium Chinese 1








(上写真 / 阿片を吸引する支那人たち)

  日本の武士だって、やむにやまれぬ状況なら、命令を無視して仲間を助けるだろう。西郷隆盛とか弟の信吾どんなら、部下に向かって「おいが腹を切るから、おまんらは存分に闘ってこい !」と言うんじゃないか。事情が分かれば大久保利通も責めはしないし、西郷どんの言葉をもらえば、桐野利秋などが先陣を切って突撃するから、前を遮る敵は悉く斬り倒されてしまうだろう。まさしく日本の武士は天下無敵である。特に、示現流を体得した薩摩隼人くらいになると、鬼神だって小便ちびってしまうほど恐ろしい。へっぴり腰の朝鮮人なんか、千人束になってかかっても日本の武士にはかなわないだろう。何たって気魄が違うし、殺気に満ちた鋭い目つきで睨まれたら、ぶるぶる足が震えて腰が抜けてしまうからだ。(こう述べると、山口や福島の国民から、「お前、島津家から金でももらっているのか?」と疑われそうだけど、長州藩士や会津藩士も勇敢な武人ということは充分承知しているので、抗議のメールはご勘弁ください。)

Saigo Takamori 1Saito Tsugumichi 1Josiah Tattnall 2









(左: 西郷隆盛 /中央: 西郷從道 / 右: 晩年のジョサイア・タットノール)

  大沽攻略戦では、英仏軍併せて約450名の死傷者を出したそうだ。(上掲書 p.103) 支那大陸のみならず本国でも立派な功績を残したタットノールは、故郷のジョージアで余生を過ごし、1871年、永久(とわ)の眠りについた。死後、タットノール代将は二度、名誉に輝いたという。一度目は第1次世界大戦の時で、ウィックス級駆逐艦が彼に因んで名づけられた。二度目は、誘導ミサイルを搭載したチャールズ・アダムズ級駆逐艦「タットノール」が就航した時だ。

邦人救出は二の次三の次

Japan Abduction 1Japan Navy Kongo 1








(左: 横田滋夫妻 / 右: 海上自衛隊のイージス艦)

  こうした昔のアメリカ人を見てみると、現在の我々は、とても明治の日本人を祖先に持つ子孫とは思えない。国会では集団安全保障の議論でさえ分裂し、左翼は左翼で、憲法を改正すると日本が「軍国主義国家」になってしまう、と騒いでいるんだからどうしようもない。もっと情けないのは、海外派兵を巡ってのどんちゃん騒ぎだ。外国に派遣される自衛隊を議論しているのに、何丁のライフルや機関銃を許されるべきか、と議員が真顔で話し合っていたんだから、もう目を蔽いたくなるほどの惨状である。特に、合衆国海軍と行動を共にする海上自衛官は、国会議員の馬鹿げた空論に悔し涙を流したり、脳天気な認識に歯ぎしりすることが多い。というのも、アメリカ兵が敵から攻撃されても、掩護や反撃をしてはならず、自衛隊は指をくわえて見ているしかないからだ。たとえ、同盟軍が皆殺しにあっても、自衛官は軍人ではなく特殊公務員だから、「危ない」戦闘行為は厳禁。しかし、そんなことは愚の骨頂だ。現場の指揮官はクビを覚悟で、米軍を軍事的に支援するだろう。部下の隊員たちだって、命令違反で懲戒処分になることを選ぶだはずだ。彼らは如何なる処分も気にせず、同盟軍を助けるために戦闘行為に就く。もし、帰還した将兵が譴責処分を受けるなら、草莽の国民が一斉に蜂起し、愚劣な国会議員に抗議すればいいじゃないか。ぎゃあぎゃあ喚く辻元清美なんか、首にロープを巻き付けて馬で引き摺ってやればいい。国民は拍手喝采するだろう。とにかく、日本の名誉を守ったから、自衛官が罰せられるなんて馬鹿げている。

Doi Takako 2Fukushima Mizuho 1Tsujimot Kiyomi 1Tsujimot Kiyomi 4








(左: 土井たか子 / 福島瑞穂/ 辻元清美/ 右: 福島と辻元のポスター)

  自衛隊に課せられている法的拘束衣は問題だが、さらに許せないのは、拉致被害者を見棄てる政府と、軍事行動を以て邦人を救出することに反対する左翼議員である。事ある毎に「人権」や「平和」を説く下郎に限って、我が国の女子供に冷淡なのだ。昔、土井たか子は「女性の権利」を看板に当選回数を増やしていたが、北鮮による拉致疑惑には敵対的で、無視するというより裏で北鮮と連(つる)んでいた。土井と同じく「女」を武器にしていた福島瑞穂や辻元清美も、拉致された我が国の女性には関心が無かった。在日朝鮮人の少女がちょっとでもイジメられれば、ヒステリーを起こして騒ぐのに、北鮮の工作員に攫われた日本人少女になると、知らぬ顔を決め込む。こんな売国奴に投票した国民がいたんだから、支持した有権者は全員名乗り出ろ、と言いたい。

US Navy Officers 2US Marines 3








(左: 合衆国海軍士官 / 右: 合衆国海兵隊スナイパー)

  タトノール代将は、いくら「外国人」のイギリス兵やフランス兵であっても、種族を同じくする仲間に対して憐憫の情を持っていた。しかし、我々は「同胞」の悲劇なのに、あまりにも冷たすぎる。もし、めぐみさんを攫われた横田滋さんが、「軍事力を使って娘を助けてくれ」と頼んだら、日本国民は何と答えるのか? 票にならない拉致事件に無関心な大半の国会議員は、拉致被害者の代表である横田夫妻が早く死んでくれることを望んでいる。厄介な問題は後回しにして、拉致被害者が北鮮で死に絶えてくれればもっと嬉しい。被害者の「日本人」が死んでくれれば、「死人に口なし」だから、さっさと慰霊祭でも開催し、墓でも作ってやれば国民を黙らせることができよう。そうすれば、後は予てから待ち望んでいた北朝鮮への経済援助と投資事業に着手できる。国民の税金を犯罪者に貢いで、キックバックを北鮮と業者からもらう魂胆なんだろう。同胞の日本人を奪還し、犯罪者の北鮮を壊滅させることが我々の優先事項なのに、政府や国会は相も変わらず「景気対策」が第一の課題になっている。天に召されたタトノール代将が聞いたら、どんな顔をすることか。かつて、日本人は生き恥をさらすくらいなら、死を選んだのにねぇ。



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