無敵の太陽

主要マスメディアでは解説されない政治問題・文化・社会現象などを論評する。固定観念では分からない問題を黒木頼景が明確に論ずる。

偉人伝/人物評論

「毒ガスの父」はユダヤ人 / フリッツ・ハーバーの遺産


『ワンダー・ウーマン』で無視された科学者

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(左: フリッツ・ハーバー  /  右: ガス・マスクをつけた兵士)

  前回、大ヒット映画の『ワンダー・ウーマン』を紹介したが、その中で合点の行かないシーンがあった。物語は第一次世界大戦を舞台としており、邪悪なドイツ軍はトルコにある秘密工場で密かに毒ガス兵器の開発をしていたというのだ。米国諜報員のスティーヴ・トレヴァーは、早速その研究施設に潜入し、ドイツ軍の機密情報を盗むことに成功する。そして、工場の敷地内にあった飛行機に乗り込むと、追撃を振り切って逃げることができた。ところが、トレヴァーは逃げる途中、飛行機から手榴弾を工場に投げ込み、大爆発を起こした工場は破壊されるのだ。そして、この秘密実験を取り仕切っていたのは、あのエーリッヒ・ルーデンドルフ将軍であった。(実際の監督官は「ドクター・ポイズン」という女性科学者。) ダニー・ヒューストン扮するこのドイツ軍人は、残忍冷酷なうえに悪魔の新兵器を開発していたという訳である。

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(左: エーリッヒ・ルーデンドルフ  / 右: 毒ガス実験の風景 )

  でも、化学専攻の学生が観れば、「何かおかしいぞ」と気がづくはずだ。確かに、ドイツ軍は毒ガス兵器の開発に熱心だったけど、実際に研究を行っていたのは、ユダヤ人化学者のフリッツ・ハーバー(Fritz Haber)である。何でルーデンドルフ将軍が、ガラス越しに実験風景を観察しているんだ? そもそも、『ワンダー・ウーマン』自体がフィクションだからしょうがないけど、「邪悪」なドイツ軍という刷り込み(Prägung)を使って一般人を騙そうとする手口は汚い。脚本家のアラン・ハインバーグは、本当に歴史的事実を知らなかったのか? こういった点を追求するのが、ジャーナリストの務めなんだけど、エンターテイメント欄を担当するのは、藝能ニュースしか分からない素人だから、腹を立てても仕方がない。だいいち、理系で藝能記者なる奴なんていないよなぁ。それに、記者の方だって「いちいち目くじらを立てるなよ!」と反論するから、筆者としては諦めるしかない。

Wonder Woman 27Wonder Woman steve trevor 2






(左ワンダー・ウーマン  / 右スティーヴ・トレヴァー )

  それでも、ちよっとくらいは異論を唱えたい。そこで、簡単ではあるが、フリッツ・ハーバーの人生を述べてみる。(Bretislav Friedrich, "Fritz Haber", Angewandte Chemie Vol. 44, 2005 & Vol. 45, 2006を参照。) フリッツは1868年12月9日、プロイセンのブレスラウ(Breslau / 現在はポーランド領で「Wroclaw」と呼ばれている)で生まれた。父親のジークフリード(Siegfried)は、地元でちょいと知られた染め物商人で、仕事の関係上、薬剤師の腕前を持っていた。息子のフリッツが化学者を志したのは父親の影響かも知れない。一方、母のパウラ(Paula)はフリッツを出産した時に亡くなってしまったという。そこで、鰥(やもめ)となっったジークフリードはフリッツが6歳の時に再婚し、三人の娘をもうけた。つまり、フリッツにとっては異母姉妹ができたことになる。父親とはギクシャクしていたフリッツも、この三姉妹とは仲良くしていたそうだ。

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(左: 幼少時のフリッツ・ハーバー  / 中央: 青年時代のハーバー /  右: 研究者時代のハーバー)

  フリッツが成長する過程で最も影響を受けたのは、叔父のヘルマン(Hermann)からであったらしい。この叔父は地元で新聞社を営んでいたそうで、リベラル思想の持ち主であった。彼は甥のフリッツが化学の実験に興味があるというので、自分が住むアパートメントの空いたスペースを提供し、そこを使わせてやったそうだ。ユダヤ人の家庭に生まれたフリッツではあるが、ユダヤ教の学校へ通わず、地元にあるプロテスタント系の「聖エリザベート」学校(ギムナジウム)に通ったそうだ。そこに在籍する生徒の半数はユダヤ人であったというが、フリッツ自身はユダヤ教への興味が無かったせいか、自分をあまりユダヤ人とは意識せず日常生活を送っていたらしい。昔はどこでもそうだが、父のジークフリードは倅(せがれ)を跡継ぎにしたかった。しかし、息子のフリッツは学問の道に進みたかったようで、叔父のヘルマンに助けてもらい、大念願の学に進むことが出来たという。18歳になったフリッツは、ベルリンのフリードリッヒ・ウィルヘルム大学(Friedrich-Wilhelms-Unversität / 現在のフンボルト大学)に入り、化学と物理学を専攻した。翌年にはハイデルベルク大学に移り、再びベルリンに戻ると、今度はシャーロッテンブルク工科大学(Technische Hochsule Charlottenburg)に転入したそうだ。

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(左: カースルスルーエ時代のハーバーとその同僚たち  /  右: ファーカスと一緒のハーバー)

  ハーバーは1891年にフリードリッヒ・ウィルヘルム大学を優秀な成績(cum laude)で卒業し、有機化合物のヘリオトロピン(heliotropine / piperonal)についての論文で博士号を得た。卒業後、何をしようかと決めかねていたハーバーであるが、父親の要請で化学企業に勤めることになったらしい。彼はスイスに向かい、家族共々親しいゲオルグ・ランゲ(Georg Lunge)の許(もと)に行き、そこで働いていたが、やがてイエナに移ることになった。イエナに移住すると、ルートヴッヒ・クノー(Ludwig Knorr)に師事してリサーチ・アシスタントになったらしい。さらに、イエナを去ると、硝酸の製法で著名な化学者、ウィルヘルム・オストヴァルト(Friedrich Wilhelm Ostwald)の許で働くことになったそうだ。彼は1909年にノーベル化学賞を授与された人物である。

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(左: ゲオルグ・ランゲ  / ルートヴッヒ・クノー / ハインリッヒ・トライチュケ /  右: セオドール・モムゼン)

  このオストヴァルトとは親密になれなかったが、イエナ滞在中のハーバーには人生の転換期が訪れていた。つまり、25歳のハーバーはキリスト教の洗礼を受けたのである。当時、反ユダヤ主義で知られていたハインリッヒ・トライチュケ(Heinrich von Treitschke)がある記事を書き、それに対し高名な歴史家のセオドール・モムゼン(Theodor Mommsen)が反論を書いたという。ハーバーはモムゼンに触発され、キリスト教徒になる決心をしたそうだ。ドイツに住むユダヤ人は常に「ドイツ国民」なのか、それとも「異邦人」なのか、といった問題に悩むので、「自分はドイツ人だ」と断言したいが為に、キリスト教徒になる者が多い。また、社会で出世を考えるとキリスト教徒に鞍替えした方が「得」と考えるユダヤ人もいたので、彼らは信仰心が無くてもキリスト教徒になっていた。だから、日本人は教科書や一般書で「キリスト教徒である」と紹介されるドイツ人でも、その素性や家系をよく調べた方がいい。(ユダヤ人は名前や家系、宗教、国籍、そして容姿まで変えるから、油断がならないぞ。)

  1894年、ハーバーはカールスルーエ工科大学(Technische Hochschule Karlsruhe)に移り、そこで約17年を過ごす事になる。この大学は優秀な科学者を輩出したことで有名だった。日本人に最も馴染みが深いのは、ハインリッヒ・ヘルツ(Heinrich Rudolf Hertz)だろう。ご存じ、周波数の単位「ヘルツ」は彼に由来する。ヘルツはハーバーと同じくユダヤ人であるが、一応キリスト教徒になっている。というのも、彼の父グスタフがルター派に改宗していたからだ。それでも、やはりユダヤ人であることには変わりがなく、ナチ党が台頭したことで、英国に亡命する破目になった。他の科学者で有名なのは、液晶を開発した物理学者のオットー・リーマン(Otto Lehman)だろう。彼の業績は述べるまでもないが、日本人の造語能力はとても素晴らしい。「液晶」という用語は、「液体(liquid)」と「結晶 (crystal)」を組み合わせた造語である。もし科学技術を“自慢”する朝鮮人や支那人なら、どんな訳語や造語を発明したのか、と想像したくなる。

Otto Lehman 1Heinrich Hertz 1Hermann Staudinger 1Carl Bosch 1








(左: オットー・リーマン  / ハインリッヒ・ヘルツ / ヘルマン・シュタウディンガー /  右: カール・ボッシュ)

  カールスルーエ大には他にも、ノーベル賞を授与されたヘルマン・シュタウディンガー(Hermann Staudinger)がいたけれど、ハーバーも化学賞をもらっていた。彼は窒素からアンモニアを合成する研究に取り組み、カール・ボッシェ(Karl Bosch)と一緒に工業化を目指していたのだ。そして、彼らの研究を土台にして化学肥料の開発に成功したのが、スポンサーとなっていたBASF(バーディッシェ・アニリン・ウント・ソーダファブリック / Badische Alnilin und Sodafabrik)社である。この総合化学メーカーは、日本にも支社があるので、たぶん石油化学製品や農業用肥料に詳しい人なら知っているんじゃないか。また、ハーバーはあのマックス・ボルン(Max Born)とも共同研究を行ったことがあり、「ボルン・ハーバー・サイクル」の図は有名だ。ちなみに、この物理学者はユダヤ人で、ナチ・ドイツを離れて英国に亡命することになった。1954年にノーベル賞をもらったボルンは、オーストラリア人歌手オリビア・ニュートン・ジョンの祖父としても有名である。

Max Born 1Olivia Newton John 3Clara Haber 1









(左: マックス・ボルン  / 中央: オリヴィア・ニュートン・ジョン /  右: クララ・イマーヴァール)

  色々な研究に携わっていたハーバーだが、私生活でも重要な事があった。彼は1901年、同じユダヤ人で科学者のクララ・イマーヴァール(Clara Immerwahr)と結婚する。彼女はドイツで初めて博士号を授与された女性らしい。彼女も結婚を切っ掛けにキリスト教へ改宗したそうだある。彼らには息子が生まれ、「ヘルマン」と名づけられた。クララは献身的にフリッツに尽くしたようで、研究よりも家事に専念し、時折夫の論文を英語に訳してあげたそうだ。今の科学者カップルなら、「ダブル・インカム・ノー・キッズ」で優雅な生活を楽しむんだろうが、昔のヨーロッパ人は夫を支える「糟糠(そうこう)の妻」が理想だった。

Tank 1Depth Charges








(左:  戦車  / 右:  水中爆雷 )

  農業の生産性を上げるために貢献したハーバーであるが、彼の名を歴史に刻みつけたたのは、毒ガスの開発であった。第一次世界大戦には様々な兵器が投入され、戦争の様相を一変させていた。例えば、戦車や潜水艦はよく知られているが、空母や水中爆雷(depth charges)、水中聴音器(hydrophones)、飛行機に取りつけるマシンガンなどが挙げられよう。あと日本人なら沖縄戦を思い浮かべてしまうが、敵兵を焼き尽くす火炎放射器は、ドイツ人のリヒャルト・フィードラー(Richard Fiedler)が開発した兵器である。ちなみに、関係無いけど、女性の生理用ナプキンが発達したのも第一次大戦の頃であった。従来は単に布を使っていたくらいだが、この時代になるとセルロースを用いたお手軽製品が登場し、従軍看護婦などは新製品のコテックス(Kotex)を使用していたそうだ。この名称は「コットン(cotton)」と「テクスチャー(織地 / texture)」を組み合わせた言葉である。(くれぐれも断っておくが、筆者は変態じゃないぞ。あくまでも歴史的知識の紹介なんだから。)

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(左: 飛行機に搭載するマシンガン  / 右: 火炎放射器 )

  話を戻すと、ハーバーは有機砒素化合物を主成分とした毒ガス兵器を開発していたそうだ。これは敵兵が装着するフィルターに浸透し、この攻撃を受けた相手はガス・マスクを外したくなるそうだ。ハーバーはドイツ軍が毒ガス兵器を用いることに反対せず、むしろ積極的に用いるよう提案していたのである。というのも、彼は毒ガス攻撃による心理的効果を重視していたからだ。人間は砲撃を喰らっても、段々慣れてしまい、塹壕の中に入ってしまえば、爆発の轟音を聞きながらでも睡眠を取ることができる。ところが、目に見えない毒ガスだと、そうはゆかず、猛毒の気体はあらゆる場所に入ってくるし、逃げようにも逃げられない。一旦ガスを浴びてしまえば目がただれるし、鼻や口から吸引すれば、激痛を伴って呼吸困難に陥る。たとえ死ななくても、動けなくなる程の重態になってしまうだろう。これは非常に怖ろしい。実際、ヒトラーもこの「洗礼」を受け、新兵器の使用に戦慄を覚えたことがある。ハーバー曰わく、「どの戦争も兵士の精神に対するもので、その肉体に対してのものではない」そうだ。("New, Terrible Force, Hit Oppau, Haber Says," New York Times, September 25, 1921)

poison Gas 3Poison Gas









( 写真 / 毒ガス攻撃を受ける兵士たち )

  ハーバーの見解によると、化学兵器は通常兵器よりも「人道的」なのだという。なぜなら、戦争の期間を短くするからだ。なるほど、その考えにも一理ある。大量殺戮が可能な分だけ戦闘が激しくなるので、早期の和平が成立するという訳だ。しかし、戦争はそう簡単に終わることはない。有名なイープル(Ypres)の戦いで毒ガス兵器が使われたが、風向きによっては味方に損害が出てしまうし、確実に相手を殺傷できるとは限らないから、決定的な最終兵器じゃないだろう。ハーバーには悪いが、戦争を終結に向かわせたのは、ドイツの経済的破綻が原因だった。つまり、戦争継続のための財源が尽きたという訳だ。戦闘が終わってドイツに悲惨な結果がもたらされた、ハーバーにも悲劇が訪れていた。夫が残酷な兵器の開発に夢中になっていた頃、夫人のクララはその倫理的罪に悩んでいた。フリッツは化学者の制服を着てウキウキしていたが、その陰でクララは自殺を考えていたのだ。フリッツがベルギーから戻ってくると、彼女は夫の軍用拳銃を手にして自宅の庭に向かい、そこで拳銃自殺を図ってしまうのだ。1915年5月2日、彼女は絶命する。夫のフリッツは睡眠薬を飲んで寝ていたので、その銃声に気づかず、息子のヘルマンが発見したそうだ。

Fritz Haber & Einstein 1(左  /  アインシュタインと一緒のハーバー)
  ドイツの世間が狭いのか、化学兵器の開発者は核兵器の父と親しかった。ハーバーがカイザー・ウィルヘルム研究所(Kaiser Wilhelm Institut für Physikalische Chemie und Elektrochemie)に勤めていた頃、その同僚にアルバート・アインシュタインがいたという。(ちなみに、ハーバーの研究室はユダヤ人銀行家のレオポルド・コペルLeopold Koppelからの資金で運営されていたそうだ。当時のドイツは驚くほどユダヤ人に開かれており、様々な分野でユダヤ人が“活き活きと”暮らしていたのだ。「暗くて排他的なドイツ」というのは、1930年代以降の話である。) 同じユダヤ人科学者だったからか、二人は非常に仲が良く、ハーバーは当時女房と上手く行っていないアインシュタインにとって、良き相談相手となっていた。(Thomas Levenson, Einstein in Berlin, New York, Batam Books,1999を参照。) しかし、化学兵器を肯定していたハーバーと違って、アインシュタインは殺戮兵器に対して否定的であったという。彼は毒ガスが戦争終結の近道になるとは思っていなかった。平和を愛するの天才によれば、兵器に人道的なものはなく、ただ廃棄されることが望ましいとのことだった。でも、そのアインシュタインが毒ガス兵器よりも怖ろしい、原爆の開発を主導していたんだから、何とも皮肉な話である。
 
  戦争が終わると、勝者の英米は900名の「戦犯」を追求するリストを作成していた。「まさか !」と思いたいが、このブラック・リストにハーバーの名前が載っていたのだ。いくら非戦闘員の科学者といえども、戦争協力者なんだから仕方ない。この処置に異論を唱えるユダヤ人だって、第二次大戦後ナチスに協力した科学者を赦さなかったんだから、どうこう文句は言えないんじゃないか。そこで、「戦犯」にされて怯えたハーバーは、お気に入りの化学者用制服を脱ぎ捨てて、一目散に国外脱出を図ったそうだ。しかも、ご自慢の髭を剃り落とすほど怯えていたそうだ。こうした「身支度」を整えたハーバーは、電光石火の如くスイスに逃亡したのだが、それでも安心できなかったのか、ハーバーは戦犯の訴追をかわすため、サンモリッツ(Sankt Moritz)で国籍を取得することにしたという。ところが、あっけなく戦犯捜しは終わってしまい、ハーバーは安心してベルリンに戻ることができた。第一次大戦の頃は、まだ歐米諸国に常識が残っていていたから、敵国を裁判にかけてまで折檻しようとは思っていなかったのだ。ちなみに、戦争中は「邪悪」なドイツであったが、スウェーデンの学界はそれを気にせず、太っ腹とも思えるくらいドイツ人学者にノーベル賞を与え続けていた。1914年から1919年の間に、電磁波を研究したマックス・フォン・ラウエ(Max von Laue)、ガス・マスクを開発したユダヤ人のリヒャルト・ヴィルシュテッター(Richard Willstätter)、「量子力学の父」マックス・プランク(Max Planck)、ユダヤ人嫌いのヨハネス・スターク(Johannes Stark)などが受賞している。ハーバーも1918年に受賞した。

Richard Willstatter 1Max von Laue 1Max Planck 2Johannes Stark 1








(左:  リヒャルト・ヴィルシュテッター / マックス・フォン・ラウエ / マックス・プランク / 右: ヨハネス・スターク )

  栄誉ある化学賞をもらう前のハーバーには、もう一つ別の慶事があった。クララに先立たれて男鰥(やもめ)となっていたハーバーは、1917年に新たな妻シャーロット(Charlotte)を迎える事になった。そして、彼女との間には娘のエヴァと息子ルートヴィッヒが生まれたという。しかし、再婚を果たしたハーバーであったが、その後二人は別れることになる。この離婚劇はさておき、ドイツに戻ったハーバーは、以前の生活を取り戻したかのように見えた。ところが、1930年代になるとドイツの雲行きが怪しくなってきたのだ。ウィルヘルム研究所で独自の研究部署を任されていたハーバーだけど、ユダヤ人であることには変わりがない。彼はユダヤ人を憎むヒットラーの出現で、科学者の地位を失う窮地に追い込まれてしまう。1933年の公務員法でハーバーは、四人のユダヤ人研究員を解雇せねばならなくなったのだ。(ハーバート・フロイントリッヒHerbert Freundlich,ハートムート・コールマンHartmut Kallman, マイケル・ポランニーMichael Polanyi, ラディスラウ・ファーカスLadislau Farkasの四人。) そして、ナチ党の人種政策に憤慨したハーバーは、1933年4月30日、研究所を去るため辞職願を提出したという。この辞任劇を耳にしたマックス・プランクは教育文科大臣のベルンハルト・ルスト(Bernhard Rust)を通して直訴したというが、総統の考えは変わらなかったそうだ。

Herbert Freundlich 1Hartmut Kallmann 1Michael Polanyi 1Ladislaus Farkas 1








(左: ハーバート・フロイントリッヒ  / ハートムート・コールマン  /  マイケル・ポランニー  /   右: ラディイラウ・ファーカス)

  失業したハーバーには、日本やフランスからも誘いがあったというが、最終的に英国のウィリアム・ポープ卿(Sir William Pope)の誘いに乗って、ケムブリッヂ大学に向かうことになったという。この地でも、またハーバーは運命的な出会いを迎える。以前このブログでも紹介した、科学者にして政治家であるハイム・ワイズマン(Chaim Weizmann)と邂逅(かいこう)したのだ。ワイズマンはハーバーに、パレスチナへ移住して、開設間もないダニエル・シフ研究所(Daniel Sieff Institute)に勤めないか、と誘ったらしい。ワイズマンはパレスチナに立派な研究機関を創りたかったそうで、ハーバーは打って付けの人材だった。ところが、ハーバーは未だに自分を「ドイツ人」と考えていたので、遠い外国に渡るつもりはなかったらしい。当時のドイツ系ユダヤ人は、異郷のドイツを本気で「祖国」と考えていたようだ。そういえば、中世史家のエルンスト・カントロヴッツ(Ernst Kantorowicz)も本当にドイツを愛していたらしい。また、ウィーン生まれのシュテファン・ツヴァイク(Stefan Zweig)も故郷を終始愛しており、ヨーロッパの未来に絶望したこの伝記作家はブラジルで自殺を遂げたのだ。

Chaim Weizmann 1Ernst Kantorowicz 1Stefan Zweig 1










(左: ハイム・ワイズマン  /  中央: エルンスト。カントロヴィッツ  / 右: シュテファン・ツヴァイク )

  1934年に入ると、英国で亡命生活を送っていたハーバーは、“これ”といった当てもなく、スイスのバーゼルを旅行したそうだ。しかし、現地で体調を崩し、1月29日、心臓発作でこの世を去ることになった。ハーバーの遺書により、彼の遺体はスイスの地に埋葬され、クララの灰も隣に埋められたという。最初の妻の方が忘れられなかったのかのかなぁ、と思うとちょっぴり悲しくなる。彼の研究は「チクロンB」の開発に繋がったと言われるが、この薬品は殺虫剤で人間用ではなかった。何の物的証拠も示さず、反対尋問の証言でもない噂話を基に、「ガス室殺人」をでっち上げるユダヤ学者と、「ホロコースト・ビジネス」で利益を得る映画人には吐き気がする。もし、ハーバーが生きていたら、「絶滅収容所」の調査をしてもらいたかった。でも、さすがのハーバーも同胞の前では、科学者の良心を捨て去り、「あった、あった」と騒ぐだろう。だって、「科学的事実」より、「同胞愛」のほうが大切だもんね。

 


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ムッソリーニとちょっと違う小池都知事

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独裁者のミニチュア版

  東京都議会選は地方選挙なのに、首都で行われたものだから、まるで総選挙でも行われたかのような騒ぎであった。新聞各社とも大きな見出しで「自民党大敗 !」とか、「都民アフースト大躍進 !」と書いて大はしゃぎだったが、何てことはない、話題を振りまいて販売部数を増やしたい、という下心が透けて見える。要するに、衝撃的な見出しを以て、「歴史的大事件」にしたいのだろう。でも、そんなのは鰻屋の煙と同じで、換気扇から流れてくる臭いに過ぎない。本当の問題は、自民党の獲得議席が激減したことよりも、得体の知れない新人候補が「都民ファースト」という看板だけで当選してしまったことだ。素性もよく判らない相手に、一人頭2千万円ほどの税金を暮れてやるんだから、東京都民は随分と太っ腹である。(まぁ、他の地方議会も同じだけど。)

Koike 31  選挙の翌日に、小池百合子都知事は「都民ファーストの会」代表を辞任して、自分の子分に代表の座を譲ったというが、そんなの形式だけだろう。「都民ファーストの会」とは言っても、実質的には「百合子ファースト友の会」とか「小池商店」といった個人企業なんじゃないか。おそらく、小池氏が大勢の議員や秘書、事務員を引き連れて、私的に運営する会社といったところだろう。したがって、名目的な「代表(社長)」が誰になっても、そんなのはスナックかバーの「雇われママ」と一緒で、創業者の会長の意向に逆らえるはずがない。何でもかんでも、重要事項は小池氏が発する「鶴の一言」で決定だ。まさか、新米議員や陣笠議員が「小池さん、それは違うでしょう !」なんて“タメ口”を利けるはずがないだろう。小池都知事が「みなさぁ~ん、これで宜しいかしらぁ?」と、いつもの甘い声で賛成を求めれば、みんな「ごもっとも!」と叫んで、パチパチと拍手する。なんか、ちょっとソフトな北朝鮮みたい。

  まぁ、小池氏が苦労して手に入れた地位と、その人気を梃子にして作った「党派」なんだから、彼女の自由にしても良かろう。元々知事は「一国一城の主」なんだから。だが、小池氏を見ていてると、スケールが違うのに、何となくイタリアの独裁者を思い浮かべてしまう。ご存じ、イタリアのファシスト党を率いた総帥(ドウチェ)、ベニート・ムッソリノーニ(Benito Mussolini)である。我が国ではヒトラーやチャーチルの影に隠れて地味な存在となっているから、西歐史を専攻しなかった高校生や大学生にはあまり馴染みがない政治家だろう。でも、あの分裂傾向が激しいイタリアを纏め上げたんだから、一応は「凄い人」と考えねばなるまい。

  戦後もそうだが、戦前だと社会主義が矢鱈と持て囃され、多くの若者が「未来の政治体制だ!」と思ったそうである。現在では信じられないが、優等生ならほとんど社会主義者になっていたし、あの保守派の巨星フリードリヒ・フォン・ハイエック博士も、若い頃の一時期だが、社会主義に魅了されたという。稀代の碩学だってよろめいたんだから、他の凡庸な学者や学生が社会主義に傾倒したのも無理はない。ムッソリーニもヒトラーと同じく、学問的正確さは別にして、社会主義に希望を託していた。それに、両者とも高学歴者ではないが頭の回転が鋭く、単なるゴロツキではない。たぶん、独学だったぶん、真剣に勉強していたんだろう。

Mussolini 1(左  /  ベニート・ムッソリーニ)
  少年時代のムッソリーニは乱暴者だったようで、何でもトップを目指し、高慢で迷信深く、気位も高かった。粗野な性格だからしょうがないが、彼は学校で二人の友達を刺したことがあるという。このため学校から追放され、仲間の多くからも憎まれていたそうだ。しかし、少数の者は心から彼を愛し、この腕白坊主に従ったというから、リーダーとしての素質はあったのだろう。不良のベニートは喧嘩早いが、必ずしも常に勇敢であるとは限らなかったそうで、時として男らしさに欠け、オマケにちょっとせこかった。例えば、ゲームに勝った時は掛け金以上のお金を要求し、負けた時には支払いを拒んだこともあるらしい。それでも、彼は野心を抱く少年であったようで、自分には偉大な運命が待ち受けていると信じていた。彼は母親に向かって、「いつか」と口を開き、「いつか、私は地球を揺り動かしてみせます」と語ったそうだ。日本人ならその後を分かっているので、「すごぉぉい!」と驚いてしまうが、イタリア人とかフランス人の子供は大抵“ませた”口を叩き、大人顔負けの“フレーズ”を用いたりするから、あまり真剣に受け取らない方がいい。イタリア人やフランス人だと、六歳の少年でもソフィー・マルソーと(Sophie Marceau)かモニカ・ベルーチ(Monica Bellucci)、エロディ・ナヴァー(Élodie Navarre)とかの「いい女」を見つければ口説こうとするんだから、日本人からすれば、「この餓鬼んちょめ、まだ子供のくせに!」とつい叱りたくなる。

Sophie Marceau 5elodie navarre 2Monica Bellucci 3








(左: ソフィー・マルソー  / 中央: エロディ・ナヴァー /  右: モニカ・ベルッチ)

  こんなベニートも1901年には学校教員になれたというが、翌年には徴兵を逃れるためスイスに向かったらしい。革命家になりたかったムッソリーニは結構な読書家で、ニーチェやショーペンハウアー、ソレルなどに加えマルクス主義の書籍も読んで勉強したみたいである。ただ、顔や手を洗わず、滅多に髭も剃らなかったというから気持ち悪い。そんなムッソリーニは1904年、国王に世継ぎが生まれたので、その恩赦に預かり、イタリアに戻ることができた。そして、村の学校に勤めたり、軍隊に入って「狙撃手」になったという。さらに、ジャーナリストの道を歩むようになり、社会党の機関紙「前進! (Avanti !)」の編集員になったそうだ。彼は編集者として成功し、この新聞の発行部数は5万部から21万部にまで伸びたいう。ムッソリーニは教養のある少数派ではなく、素朴な感動に引き摺られやすい大衆に向かって話しかけたのか良かった。編集社としてのムッソリーニは、ずば抜けて扇動が上手く、この才能がやがて偉大な指導者へと導くことになる。

  ムッソリーニを評したルイジ・バルジーニ(Luigi Barzini)によれば、現実の「編集員ベニート」は、自分が前進するにつれて、どんなものでもでっちあげる。その時どきの大役を演じる自分に見とれ、悦に入っては大根役者振りを発揮していたという。この評伝者は次のように述べていた。

  ムッソリーニは雄弁を上達させ、のにち自分をイタリア最高の、扇動家の一人にさせることになった技術を徐々に磨いていった。彼は自分の言うことが力にあふれ、人の心を動かすものでさえあれば、論理や真実性がどうであろうと、大して気にかけなかった。その身振りはリズムと活力をもっていた。はっきりとした脈絡のない、短い歯切れの良い文章を、しばしば長い、劇的な休止と共に用い、時には声や表情を変えて、次第に激しさを増し、悪罵の嵐で話を終えた。(ルイジ・バルジーニ『イタリア人』 室伏哲郎・室伏尚子 訳、弘文堂、昭和40年、 p.157)

  イタリアの執政官となった人物の特質は、直感的で皮相的な知力の持ち主であったことだ。物事を極端に単純化し、芝居がかった表現にする能力に長けているが、その一方で目覚ましい事件にだけ興味を抱き、その場限りの関心しか持たない。党派的な考えで物事を見るだけで、真実とか正確さ、客観性はどうでもよく、論旨を一貫させる事が自分の意図に沿わない、あるいは抵触するならば、躊躇わずそれを無視する。独裁者だから当り前だけど、こうした時に良心の咎めに苦しむことはない。全部が当て嵌まるわけではないが、何となく小池都知事と似ている。東京の住民やテレビの視聴者が興味を抱くことにだけに取り組み、自分がどう画面に映るかだけを気にして、その場限りのコメントで済ませる。正確な数字を述べているようで、実は中味がなく焦点がぼけていたりするけれど、そんなのは殆ど関係無い。「私は統計にも強いのよ!」との印象を与えれば充分。後は部下に丸投げ。結果がどうなろうがお構いなしで、「良心の咎め」はあるんだろうが、そんなのは「ホッホホホホ!」と笑えば3分で忘れることが出来る。ウルトラマンだって3分経てば戦闘が終わって、次回の予告になるんだ。人間に戻ったウルトラマンが、「あぁ~あ今日は、怪獣と戦ってたくさんビルを壊しちゃったなぁ」と反省しないだろう。それと同じだ。

  民衆を魅了する時代の寵児に共通するのは、記憶力が良くて、頭の切れがいいことだ。ファシストのムッソリーニも抜け目がなく、物覚えが早く、機敏であった。数分の内に複雑な事態を把握し、びくともしない相手に真っ向からぶつかって成功を収めることができる。どのような局面でも、事態が要求するがままの、直感的な決定を下したという。小池都知事も「世間の風」に敏感で、マスコミや一般人がどんなことを求めているのか、女の「直感」で分かるみたいだ。そして、ムッソリーニと小池氏の共通点は、民衆に向けた「ショーマンシップ」に長けている点だ。つまり、演台とか舞台に立って、自分一人が脚光を浴び、聴衆にに向けて娯楽を提供するのだ。バルジーニはムッソリーニの演技について述べている。

  独裁者のショーはいつも目新しく、あっと言わせる態のものである。民衆に興味を抱かせ、血を湧かせ、途方に暮れさせる。怯えさせたり、面白がらせたりと、色々な事を続けて犠牲にされた自由や悲惨な窮乏を忘れさせた。自分に従う民衆を団結させ、反対者の意気を挫き、分裂させ、国内の秩序と国際的信望を獲得することができた。(上掲書 p.173)

  政治家にとって「退屈」は大敵である。たいていの場合、政治は細々とした事務手続きや法律議論の積み重ねで、聞いていて面白くない。只でさえ眠気を誘うのに、聴衆が飽きてしまうような話し方ではダメだ。石破茂が典型例で、彼の演説や解説を聞いていると、5分もしないうちに「もういいよ!」と言いたくなる。あのムッつりした顔を見るだけでも厭だ。女性なら、生理的に拒否してしまうだろう。それに、要領の得ないぼやけた談話を聴いて、誰が感動するというのか? 石破が総裁選に出ても、一般党員の多数を取れないのは、あの話振りのせいだ。いくら大物議員でも、ワクワク感が無い話じゃ誰も附いてこないし、気分的に落ち込んでしまうだろう。名演説とは民衆の心に訴えかけるもので、他人の精神を鼓舞するものでなければならない。石破の語り口はイライラするし、中味がなくて、そのうえ情熱にも欠けている。まだ麻生太郎のほうがマシだ。石破の話を聴いていると、何か口に何かがへばりついているような、後味の悪い感想しか残らない。譬えが悪いけど、もらった饅頭を食べたら、イモ虫が「プチ」っと歯で噛み潰された、そんな感じである。苺大福ならいいんだけど。

Ishiba 2Koike 112Mussolini 2








(左: 石破茂  / 中央: 小池百合子 /  右: ベニート・ムッソリーニ )

  石破と違い、小池氏は中味がなくても、あの口調と笑顔だけで充分だ。彼女が重要な話をしているとき、結論がよく理解できなくても、何か大切な情報を聴いたかのようにに思える。だから、大衆は次もまた聞きに行こうと思うのだ。都知事選の時、一般人は候補者本人よりも小池氏の立ち会い演説を見に来ていたそうだ。じゃあ、候補者は何をしていたかというと、「小池先生が間もなくいらっしゃいます !」、と宣伝に忙しかった。まともな人なら「えっ! 小池氏の選挙じゃないのに !」と思ってしまうが、世間のオバちゃんたちは百合子ちゃんにしか興味が無いのだ。ムッソリーニの演説会も、話を聴くために集まった群衆は多く、道にまで溢れていたそうだ。バルジーニによれば、

  彼の技巧は仰々しく用地で馬鹿げたものであったが、非常に効果的であった。無知なイタリア人を満足させた。イタリアではインテリの数は限られていたから、ムッソリーニの演説は大衆に向けられていた。(上掲書 p.171)

Hamada 11(左  /  浜田幸一)
  デモクラシーでの演説は、少数派のインテリではなく、多数派を占める民衆に向けて喋るのが基本で、気取った知識人の言い回しより、ぶっきらぼうでもイイから愉快で率直なものがいい。昔、浜田幸一議員がメチャクチャな国会乱闘騒ぎを起こしていたが、浜幸さん独自の「筋」を通していたし、確固とした信念が伺えたから、インテリどもが馬鹿にしても、一般の大衆は拍手喝采で楽しんでいた。浜幸さんは民衆政治の要諦、つまり民衆からの人気を取ることが一番重要ということをよく弁えていた。例えば、福祉とか教育を語る場合、統計や専門用語をちらつかせて、偉そうに高邁な哲学を語ったりせず、人々の感情に訴えていた。浜幸さんは人前でも憚らず、自分の十八番「お母さん」を熱唱して大粒の涙を流すから、誰も彼を憎めなくなる。間違ったことや失敗を犯せば、恥ずかしくもなく土下座して謝るから、目の前で糾弾する人も、「あのぉ、もう、分かりました」とか、「どうか頭を上げてください」と言いたくなる。まぁ、浜幸さんのキャラクターもあるだろうが、あんなことは民進党や都民ファーストにいる、ちょっとお金持ちでお高くとまった、弁護士上がりの代議士には真似できない。

  ムッソリーニの成功は信じられぬ程で、彼はイタリアで過去の誰よりも人気があった。新聞や雑誌から総統の写真が切り抜かれ、貧しい百姓小屋でも彼の切り抜き写真が壁に貼り付けられていたらしい。その写真は聖母マリアや聖ヨハネの肖像画と一緒に並んでいたそうだ。ムッソリーニは優れたショーを愛し、立派な陸軍の閲兵式を楽しみ、海軍の観艦式に心を慰められ、広場に集まった大海原の如き大衆に勇気づけられたという。ただ、大衆は見せかけと現実とを混同していた。真実とは彼にとって「それらしく見えるもの」であり、多くの民衆が信じたがるものであったからだ。立派な指導者は、嫌な現実でも正面を向いて取り組むし、耳の痛い話でも進んで聴こうとする。しかし、ムッソリーニは戦況が悪化しても、冷徹な現実に目を背け、卑屈な取り巻き連中や、自分に諂う者ばかりに囲まれていたそうだ。ムッソリーニも事態が逼迫しているのを薄々分かっていたが、それを認められず、自分が他人の為にと作り出した楽園に、自分から耽溺するようになったというから呆れてしまう。彼は自分の絶対的な正しさに確信を持ち、直面する危機を警告されても無視。周りにいるのは、決して真相を伝えない御機嫌取りだけ。

  結果として、彼に近づくのは王国で一番腕利きのおべっか使いばかりということになった。もっとも、彼らはみながみな、不正直だったわけではない。ある者は、自分の言う通りを信じている馬鹿者だっただけである。またある者は、自分の言うことが真実であり、ムッソリーニが本当に現存する最高の偉人であり、しまいには、全てがよいことずくめだったと必死で願っていた。彼らがムッソリーニに諂っていたのは、自分自身を安心させるためであったのだ。残りは、ただの破廉恥なごろつきであった。(上掲書 p. 176)

Clara Petacci 1(左  /  クラレッタ・ペタッチ)

  こうなると、もう何をしても無駄で、独裁者の終焉は近い。案の定、ドイツ人はムッソリーニに内緒で連合国との秘密停戦協定に署名し、イタリア人を戦争捕虜として連合国に引き渡そうとしていた。ムッソリーニはパルチザンに捕まり、愛人のクラレッタ・ペタッチ(Claretta Petacci)も同じ運命を辿ることとなった。1945年4月28日、二人は正式な裁判もなく盗賊のように処刑され、この世に別れを告げることになったのだ。

  独裁者の末路は惨めだ。あるエピソードは興味深い。国王ヴットーリオ・エマヌエレは、ムッソリーニを別荘に迎え、彼の逮捕を命じたことがある。ところが、そのニュースが広まった時、ファシストの叛乱は起きなかった。武器を持って蹶起する忠実な党員は一人もいなかったのだ。「私は血を以て革命を死守することを誓う」と以前口にした者があんなにいたのに、それを守った者は誰もいなかった。何事も起こらなかったという。ショーは終わっていたのだ。ほんの数ヶ月前までは、ムッソリーニは街で熱狂の渦に巻かれ、民衆の熱烈な声援を受けていた。劇場では彼が行った演説に拍手喝采が絶えなかったのに、数週間が過ぎるると、総帥が死を迎えなんて誰が予想したことか。

  ムッソリーニはヒトラーと違っていた。彼はスイスへ少数の部下と共に逃げようとしたが、彼は最後まで迷い、結局決断を下せなかった。これがもとで、彼はクラレッタ・ペタッチと共に逮捕され、二人は豪華な別荘の門の前で銃殺されてしまうのだ。彼女はムッソリーニの体を庇うように一緒に銃弾に斃れたという。金と書類は永久に掻き消されてしまい、二人の遺体はミラノに運ばれた。ムッソリーニの足首にはロープが括り付けられ、給油所の屋根から逆さ吊りにされたそうだ。

  小池都知事は民衆から見放されても、命を失うことはないだろう。目新しい演技が出来なくなり、楽しい政治ショーのネタが尽きても、都知事を退任するだけで、死刑になることはない。巨額の退職金と議員年金が転がってくるから、優雅なマダムに戻って悠々自適の生活だ。巨大なツケを残された都民は、ぶつぶつ言いながらもその「穴埋め」を税金で行い、再び愚劣か気紛れの都知事を選ぶことになるだろう。東京都民は増税に喘ぐということはないから、何回でも同じ愚行を繰り返す。一方、豊かな引退生活を送る小池氏は、時々古巣のテレビ局に出演し、昔話に華を咲かせ、「わたくしが知事の頃はねぇ・・・」と自慢話を交えて対談するかも知れないぞ。ひょっとしたら、「小池元都知事、現在の都政を斬る!」なんていう冠番組を任されて、総合司会を務めていたりして。また、フジテレビのことだ、耄碌した木村太郎をクビにして、小池氏を「ご意見番」に据えることもあり得る。ちょっと歳を食った小池氏でも、「ふフふ・・・」といった笑い声で、お茶の間にいる“同世代の”おばちゃんたちを魅了するかもね。



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