無敵の太陽

主要マスメディアでは解説されない政治問題・文化・社会現象などを論評する。固定観念では分からない問題を黒木頼景が明確に論ずる。

ナチス/ヒトラー

アーリア人の赤ん坊を増やせ ! / 同種族を憎むように改造されたアメリカ人

教科書に載せて全日本人に知らせたい現代史 支那人の卑史 朝鮮人の痴史
黒木 頼景
成甲書房






フリーダが持っていた出生の秘密

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(写真  /  ナチス政権下りの理想的ドイツ人少女)

  最近のテレビでは予算不足なのか、昔のビデオを集めて懐メロ番組を流す時がある。大きい子供を持つ父親とか母親でも、往年のスターやアイドル歌手を再び目にして大はしゃぎするんだから、若い時の熱狂は一生消えないのだろう。でも、贔屓とするアイドル歌手がいなかった筆者には、残念ながら一緒に懐かしむことができない。とは言え、筆者にも松田聖子とか中森明菜を好きだった友人がいた。しかし、同級生にアバ(ABBA)とかノーランズ(The Nolands)のファンはいなかったから寂しかった。それでも楽しい思い出は尽きない。今のCDとは違って、LPのアルバムだとジャケットのサイズが大きくて、それぞれのミュージシャンが独自のアイデアを用いてデザインしていたから、ある種の藝術みたいな趣があった。小学生の頃、近所のレコード店に行ってアバのアルバムを注文し、そのレコードが届いたとの知らせを受けた時は嬉しかった。早速、自宅のオーディオ・セットにレコードをかけ、「ヴレヴー(Voulez Vous)」とか「エンジェル・アイズ(Angel Eyes)」「アズ・グッド・アズ・ニュー(As good as new)」といった名曲を毎日のように聴いて、「コンサートに行けたらなぁ」と悔しかったのを今でも覚えている。

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(左: ノーランガ  / 右:  ABBA)

  日本でも1970年代後半から80年代初頭にかけてアバは人気で、ディスコ・ブームも重なっていたから、「ギミ ! ギミ ! ギミ !」とか「ダイシング・クィーン」がよく流れていた。ちなみに、筆者が印象に残っているディスコ・ミュージックと言えば、松田優作のTVドラマ『探偵物語』で使われていた「ディスコ・トレイン(Disco Train)」(歌 / セクシー・リズム・セクションズ)と、沖雅也・柴田恭兵が共演していた『俺たちは天使だ』に挿入されていた「You Can Do, I Can Do」である。(これらの曲はユーチューブにアップされているので、確認したい方は曲名をタイプして検索すれば試聴できます。たぶん、「あの曲か!」と想い出す人もいると思う。) 日本でも成功を収めたアバは、1980年代初頭に解散してしまったが、各メンバーは独自に音楽活動を始めていた。リード・ヴォーカルのアグネッタ・フォルツコグ(Agnetha Fältskog)とフリーダ・リングスタッド(Anni-Frid Lyngstad)は、そけぞれソロ・シンガーの道を歩むようになていった。

  個人活動を始めたフリーダであったが、新曲の「I know there's something going on」はそれほどヒットせず、アバ時代と比べると凋落の様相を否めない。しかし、彼女はドイツ貴族の奥方となった。アバのメンバーであった頃、フリーダはキーボード奏者のベニー(Benny Andersson)と結婚していたが、まもなく離婚してしまい、それでもバンド活動を続けていたという過去がある。人気絶頂で「アバ」というバンドが解散し、ソロ・シンガーになったフリーダは、造園家で伯爵の称号を持つハインリッヒ・ルッツォ・ルウス(Heinrich Ruzzo Reuß)と結婚し、スウェーデンの歌姫からドイツ人のお妃(プリンセス / Prinzessin Reß von Plauen)へと変身していたのである。普通なら、人も羨む華やかなシンデレラ・ストーリーとなるのだが、フリーダには人に話したくない出生の秘密があった。

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(左: アグネッタとフリーダ  /  中央: 夫婦となったフリーダとベニー /  右: 再婚したフリーダと夫のハインリッヒ・ルッツォ・ルウス)

  1945年11月に生まれたアニ・フリード(フリーダ / Anni-Frid Lyngstad)は、シニ・リングスタッド(Synni Lyngstad)を母に、アルフレッド・ハーゼ(Alfred Haase)を父に持つ。母のシニは片田舎に住むノルウェー人女性で、まだ18歳の乙女であった。一方、父親のアルフレッドは、ノルウェーを占領したドイツ軍に属する24歳の軍曹であったという。彼は派遣された街でこの娘と出逢い、彼女の姿に惹かれてしまった。この娘に惚れてしまったアルフレッドは、ジャガイモの詰まった袋をプレゼントして交際を始めたそうだ。現在では笑い話になってしまうが、戦時下の1943年、ノルウェーでは食糧不足が深刻だったので、こうした贈り物は大変貴重であったらしい。逢い引きを続ける若い二人が親密になるのに時間はかからず、彼らは程なくして肉体関係を結ぶようになった。だが、アルフレッドには彼女を幸せに出来ない事情があった。何と、彼は故郷に妻子を持つ既婚者であったのだ。(Ross Benson, "Abba girl's Nazi secret", Daily Mail)

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(左: シニ・リングスタッド  / 中央: アルフレッド・リングスタッド /  右: 父のアルフレッドと再会したフリーダ)

  不倫と敗戦は若い二人を引き裂く。1945年、シニは身籠もるが、恋人のアルフレッドは祖国に帰還することになった。悪い時に悪い事は重なるようで、さらなる不幸が彼女を襲うことになる。ノルウェーの寒村に残されたシニは、周囲からの冷たい視線を浴びることになった。村の者は皆、誰が赤ん坊の父親なのかを知っていたので、彼女が街を歩けば、人々は彼女に向かって「このドイツ人の淫売女 !」と罵ったそうだ。敵国の男と情事を交わしてしまったシニとその母アグニーは村八分となり、時が経つにつれ人々からの仕打ちに耐えきれなくなった。そこで、地元に居場所を無くした親子は、隣国のスウェーデンに逃れ、新たな生活を求めるようになったという。(当時、母のアグニーは夫を亡くした寡婦であったそうだ。) スウェーデンに新居を構えたシニは、ウェイトレスとして働くが、間もなく腎臓を患い、21歳の若さで亡くなってしまう。母を失ったフリーダはまだ2歳であった。こうして幼いフリーダは祖母の手で育てられ、寂しい子供時代を過ごしたそうだ。大人になってから、彼女は幼年時代を振り返っていたが、友達はそう多くなかったという。フリーダは父がドイツ軍人であると聞かされていたが、祖母のアグニーは偽の話を孫に伝えていた。すなわち、父のアルフレッドは海路でドイツに帰る途中、船が沈没して亡くなったと教えていたのだ。後にフリーダが父の真相を知ったのは、アバが人気を博していた1977年の頃であったという。

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(写真  /  若い頃の「フリーダ」ことアニ・フリッド)

アーリア人の赤ん坊を繁殖させる施設

  ドイツ軍人のアルフレッド・ハーゼがノルウェー人娘のシニ・リングスタッドと恋に落ちたのは、偶然の出来事だけではなかった。彼の恋愛は「レーベンスボルン(Lebensborn / 生命の泉)」計画の一環でもあったのだ。エリート組織たる親衛隊(SS /Schutzstaffel)を率いていたハインリッヒ・ヒムラー(heinrich Himmler)は、第三帝國を支える金髪碧眼のアーリア人を増やすことを目論み、ドイツ各地に「レーベンスボルン・ホーム」を創設した。ヒムラーの考えでは、理想的な容姿を備えたエリート部隊の男性が、健康で若いアーリア人の女性と肉体関係を結べば、アーリア人の赤ん坊がたくさん生まれ、ゲルマン民族の肉体が維持できるらしい。もし、個人の自由に任せていると、“へんちくりん”な種族と結婚してしまうから、政府の特別機関が制禦せねばならないという訳だ。こうして、優秀な北方種族の純血性を守り、その優越種族を繁殖させるためには、特別な制度と施設が必要である、との思想がドイツに浸透し始めたのである。

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(左: ハインリッヒ・ヒムラー  /  右: レーベンスボルン・ホームで育つアーリア人の赤ん坊)

  ヒムラーは理想の種族でドイツ帝國を満たすことに心血を注ぐ一方で、彼の民族が持つ血統を穢す劣等人種を憎んだ。ドイツ民族の将来を憂いたヒムラーは、薄汚いスラヴ系民族やタカリ民族のユダヤ人、浮浪者のジプシーなどを排斥しようと決心したのである。彼はまた、腐敗と悪徳が蔓延る都会を嫌悪したので、レーベンスボルン・ホームを美しい田園地帯に建てることにした。現在の日本人にはピンとこないだろうが、ワイマール共和国時代には、ホモ風俗とかキャバレーが花盛りで、おぞましい繁華街には売春婦がたむろっていたというから、ヒトラーやヒムラーはこうした悖徳(はいとく)をドイツ全土から一掃した。「極悪人」の烙印を押されたヒトラーだが、意外にも彼は潔癖症で、倫理・道徳的腐敗に対して峻厳だった。美術を愛したヒトラーからすれば、ゲイ同士のセックスとかストリップ劇場などもっての外。ところが、社会道徳など一顧だにしない世俗的ユダヤ人の中には、ゲイとかレズビアンを用いてキャバレーを経営したり、変態趣味やSMショーとかを商売にして儲ける奴がいたそうだ。

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(左: マグヌス・ヒルシュフェルド  /  右: 男同士でダンスを楽しゲイのむカップル)

  さらに、マグヌス・ヒルシュフェルド(Magnus Hirschfeld)というユダヤ人学者がセックス学(sexology)で有名だったから、ヒトラーやナチ党の愛国者たちが激怒したのも当然だった。この状態は、メル・ゴードン(Mel Gordon)の著書『官能的パニック(Voluptuous Panic)』を繙けば一目瞭然だ。日本人の読者は、ヒルシュフェルドが丸裸の女性を椅子に坐らせ、その手で彼女の性器を開闢させている写真に驚くだろう。こうした本は大学図書館にも無いから、ほとんどの日本人はワイマール期の社会風俗を知らずに、ナチ・ドイツの風紀取締を非難することになる。まぁ、性器丸出しのゲイやレズビアン、性的な幼児趣味、SMプレー、といった写真が満載の本なんて、公共図書館に置くことができないから、大学生でも第三帝國以前のドイツを理解していないのだ。(筆者はこの本を所蔵しているが、その中に掲載されている写真を紹介できない。ブログ運営のライブドア社の検閲が厳しいしこともあるが、実際、あまりにも卑猥な写真なので、いくら鈍感な筆者でも掲載をためらってしまうのだ。どうか、ご勘弁頂きたい。)

  勇敢なアーリア人戦士と美しいアーリア人の母が住むドイツを理想郷としたヒムラーであったが、いくつかの強引な政策もあったから、批判者が出て来ても不思議ではなかったし、排除されたユダヤ人から恨まれることも当然あった。しかし、彼の方針は英米で行われていた社会政策と同じものであったし、現在の福祉制度に通じているから興味深い。レーベンスボルン計画では、由緒正しいSS隊員と健康なアーリア系女性との婚姻が奨励されており、レーベンスボルン・ホームは未婚女性とその赤ん坊、あるいは既婚者との不倫で子供を産んでしまった女性などを保護し、彼らの面倒を見ていたという。ナチ党は逞しい金髪の戦士と家庭を守る母親を理想とし、帝國の未来を担うゲルマン人の子供を産むよう宣伝したし、そうした出産を半ば国民の義務と見なした。こうしたナチスの方針が「悪」なら、日本の武士は単なる殺人鬼だし、家庭を守る専業主婦も否定されねばならない。

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(写真  /  ゲルマン系の母親と赤ん坊)

  そこで、ゲルマン人の出生率を上げるため、ドイツは幾つかの社会政策を推進した。例えば、10歳以下の子供を3人以上持つ母親は、商店の順番待ちの列で優先的に扱われる「名誉母親証」を与えられたという。また、地方の行政当局は、こうした母親達に家賃と公共料金の割引をする制度を採用し、これから家庭を築こうとする若いカップルには、人種的適合性が証明されれば、独身者からの特別税を財源とした融資が行われたそうだ。子供が一人生まれるごとに融資額の四分の一が免除されたという。ということは、四人目を持てば借金がチャラになるということだ。(キャトリーン・クレイ / マイケル・リープマン 『ナチスドイツ支配民族創出計画 』柴崎昭則 訳、現代書館、1997年、 p.92)

  レーベンスボルン・ホームに熱心だったヒムラーと開業医のグレゴル・エーブナー(Gregor Ebner)は、既婚未婚を問わず、とにかく良い血統を持つゲルマン人の子供を増やしたかった。そこで、赤ん坊を養うことが困難な母親を受け容れて、レーベンスボルン・ホームの看護婦が代わりに養育する場合もあったという。とにかく、レーベンスボルン・ホームは魅力に満ち溢れていた。施設は中世の城を思わせる外観をもち、田園地帯にある高級リゾート・ホテルのようでもあった。当時、出産費用は一人頭400マルクであったが、エーブナーは素晴らしい血統を持つ1000名の子供を確保できるのなら、さしたる出費ではないと考えていたそうだ。資金は様々な方法で調達されていて、レーベンスボルン協会の会員からも徴集していた。会員数は1万3千人。そのうち8千名がSSに所属し、766名は各地の警察組織に属する者であった。会費は月に最低27マルクであったが、父親としての義務を果たしていないSSの隊員は、罰としてなのか、余計に会費を払わねばならなかった。しかも、28歳までに最低2人の子供を持たないSS隊員は、より多くの金額を払わねばならなかったそうだ。(上掲書 p.105)

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(左: グレゴル・エーブナー  / 中央: ドイツ人の若い女性  /  右: 少女と一緒のハインリッヒ・ヒムラー)

  それでも、レーベンスボルン計画を維持するには資金が足りなかったようで、1939年、経済省は拡大する赤字を補填すべく100万マルクの補助金を交付したという。日本政府も少子化対策を取るなら、ナチ・ドイツのレーベンスボルン計画をちょっとは参考にすべきだ。国会議員や地方議員、政府の役人はこぞって児童施設の増加を叫ぶが、肝心の国民はセックスをしても結婚しないし、子供すら産まないから少子化が益々深刻となっている。多少のお金をあげても日本人女性は妊娠を嫌がるし、幼稚園が充実すれば「待ってました」とばかりに外で働くから、専業主婦が減って職業婦人が増えてしまう。子供を増やして生活がキツくなるんなら、子供を産まずに所得を上げようとするのは人情だ。ちょっと脇道に逸れるけど、日本の税制は将来を担う国民に対して酷だ。若い夫婦が借金して新居を構えても、その家屋に固定資産をかけて多額の税金を搾り取るんだから、幸せな家庭を築こうなんて思わない。これじゃあ、まるで懲罰金だ。住宅ローンを返済しながら、年金、国民健康保険、市民税、県民税、ガソリン税の二重課税、自動車取得税、車検に加えて消費税のアップじゃ、重税を払うために働いているようなものである。もし、子供を4、5人産んだら住宅借金を棒引きにして、固定資産税も軽減ないし免除となれば、若い夫婦もちょっとは夜の営みに励むかも知れない。

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(写真  /  ナチス時代のドイツにおけるゲルマン系少女たち)

  ナチ・ドイツの崩壊でハインリッヒ・ヒムラーの評価は最低だが、彼がSSのために考案した儀式には注目すべき言葉がある。夏至と冬至の儀式に集まった民衆は、次のように唱和しなければならなかった。

  我々は祖先を尊敬し、その前で跪く。祖先の血は、使命と責務として我々の中に流れている。
  血縁共同体によって、男は遺産を守る義務を負わねばならない。
  存在することの意味は、遺産を結実へと展開することである。
  生命の輝きを保つ聖なる場所を守るのは、家族である。
  男とその妻は、生命の芽を授け、それを担い、そして伝播させる。
  我々の子供たちは、我々の交わりと存在の証明である。
  そして、我々の孫たちは、我々の偉大さを証拠立てるであろう。
  (上掲書 p.64)

  ドイツ史を研究する日本の左翼学者は、頭ごなしにナチスを糾弾するが、ドイツ国内でアーリア系、つまり北方種族のドイツ人が増える事に問題は無いはずだ。確かに、ポーランドを侵掠し、現地人を弾圧したことは非難されるべきだが、侵略戦争なら歐米各国とも常習犯である。英国はアジアやアフリカに宏大な植民地を獲得し、現地の有色人種を蔑み、レイシズムに基づく秩序を形成して、現地人を奴隷の如くこき使っていた。インド人やビルマ人、アフリカ人からすれば、ドイツ人もイギリス人も変わりはないし、自由や博愛を掲げていたフランス人など完全に偽善者だ。ドイツ人を非難するアメリカ人だって、国内では黒人を家畜として働かせていたし、黒人との混血を忌み嫌い、一滴でも黒人の血が混じった子供は白人と見なされなかった。これは、ユダヤ人の祖父母を持つユダヤ系混血者を「ドイツ人」と見なさなかったナチスと同じである。アメリカ人は嫌がるけど、ナチ党はアメリカの人種法を参考にしていたのだ。当時の西歐世界はどこでも人種差別が横行していたし、他国への侵掠とか劣等人種の征服などは伝統的行為であったから、殊さら騒ぎ立てる程のものでもなかった。

恨み骨髄のユダヤ人

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(写真  /  ユダヤ人の集団)

  しかし、ドイツやその他の西歐諸国に住むユダヤには赦しがたかった。彼らは千年以上も異国にタカってきた寄生民族なのに、自らを正当な「ドイツ国民」と考えていたのだ。しかし、ナチ党が台頭すると、如何なる高位高官のユダヤ人も単なる「ユダヤ人」に貶められたから、大騒ぎしても無理はない。以前なら、強欲な領主や君主を札束でビンタすれば、迫害の手が緩んだし、条件次第では引き続き居住が許され、有能なユダヤ人であれば、秘書とか財務官といった手下になることができた。ところが、ヒトラーは甘っちょろい貴族とは決定的に違っていたのである。彼はユダヤ人の袖の下に屈しなかったのだ。ナチスは法律を以てユダヤ人を炙り出した。例えば、

(1) 氏名変更の禁止。ユダヤ人がドイツ風の名前をつけることを禁止したのである。
(2) ユダヤ人の商店はユダヤ人が所有していることを隠してはならない。
(3) ユダヤ人組織は当局に登録せねばならない。
(4) ユダヤ人は自分がユダヤ人であるとこを示す書類を持ち歩かなければならない。
(5) ユダヤ人は不動産業、金貸し屋、工場経営、調査業、結婚仲介業、看護婦、巡回販売員などを営んではならない。
(6) ユダヤ人はドイツ人の劇場に入ってはならない。
(7)ユダヤ人の子供はドイツの学校から排除される。

  これ意外にも様々な禁止条項があった。こうした条例は他国にも適応され、フランスがドイツに占領された時、そこに住むユダヤ人はケルト系のフランス人と区別された。すると、今までフランス人が営んでいると思っていた商店が、実はユダヤ人の店であったとわかってフランスの庶民が驚く、といったケースがあったそうだ。しかも、「こんなに多くあったのか !」と驚嘆したというから面白い。反ユダヤ主義の伝統が根強かったフランスでは、ドイツ人によるユダヤ人迫害に協力する人が少なくなかった。忌々しいユダヤ人を排除してくれたんだから、征服者にしては「良い事」をしたものだ。

  第三帝國の崩壊はドイツ人にとって悲劇であったが、戦勝国の英米にとってもある意味「敗北」であった。経済的に疲弊した英国は別にして、国内に損害が無かった米国も意外なしっぺ返しがあったのだ。あろうことか、ナチスを悪魔にして糾弾したアメリカ人は、自国内で人種差別が出来なくなってしまった。ナチスのユダヤ人迫害はドイツ人の独創ではなく、以前から継承されてきた排除思想が基になっていたのに、まるでドイツ人だけがユダヤ人を虐待したかのような印象操作が戦時中に行われていたのである。ドイツ人が如何なる人種政策を取ろうとも、アメリカ人はそれとは無関係に、従来の人種差別を継続してもよかったのだ。なぜ戦勝国が敗戦国のせいで人種混淆社会になるのか? そもそも、合衆国の白人兵はユダヤ人を救うために参戦したのではないし、黒人との平等を求めて日本兵と戦ったわけでもない。ところが、奇蹟的に生き残った白人兵が帰国すると、国内にはユダヤ人を始めとする戦争難民が押し寄せ、ついでにアジア系移民に関する法的制限も撤廃されてしまったのである。

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(左: ユダヤ人の子供  /  右ユ: ダヤ人の移民)

  激戦に勝ったら厭なユダヤ人を引き受けることになるなんて、まったく馬鹿げている。同じ種族のドイツ人、特に戦争孤児や夫を亡くした母子家庭のゲルマン人なら受け容れてもいいだろう。事実、ジェイムズ・イーストランド上院議員は、戦争で住処を無くしたドイツ難民を優先しようと述べていた。ところが、優先的にやって来たのはむさ苦しいユダヤ人とか、東歐や南歐からの貧民、その他の不愉快な劣等民族であったから、地元のアメリカ人は眉を顰めていた。案の定、住みついたユダヤ人家庭からは筋金入りの共産主義者や、ピンクの左翼、リベラル派気取りのゴロツキ、空論を弄んで社会に害をなす知識人、白人社会にケチをつける左巻きのジャーナリスト、真っ赤に染まった藝能関係者などが輩出されたのである。以前、当ブログで紹介したように、公民権運動で黒人を焚きつけたのはユダヤ人活動家であったし、異人種混淆を奨励する映画を作っていたのもユダヤ人であった。

  映画界やテレビ局、その他の娯楽産業を牛耳ったユダヤ人は、盛んにナチ・ドイツを侮蔑し、ドイツ人が犯したユダヤ人への暴虐、迫害、ガス室殺人などをアメリカ人に吹き込んだ。それにより、上流ないし中流家庭の白人たちは、兇悪犯のドイツ人を蛇蝎の如く嫌うようになってしまった。映画に現れるナチ高官は決まって残忍冷酷で、米軍に銃を向けるドイツ兵は、皆ロボットのように上官に従い、ケダモノのように民間人を殺しまくる。一方、アメリカ兵は人情味に不溢れた正義漢として描かれている。南洋で投降する日本兵を撃ち殺す卑劣なアメリカ兵とか、絨毯爆撃で女子供を皆殺しにするパイロット、焼夷弾で民間人を焼き殺すよう命じる米軍将校などは描かれない。もちろん、占領下の東京や横浜で日本人女性を強姦する黒人兵とか、少女を凌辱する白人兵などは無視。悪いのはナチズムのドイツ人とファシズムの日本人のみだ。

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(左: 二枚クリステン・スチュワートとテレサ・パーマー  /  右: 二枚ティファニー・ティッセンとアレクサンドラ・ダダリオ)

  こうしたプロパガンダ映像で洗脳されたアメリカ白人は、同種族のドイツ人を殊さら憎み、異人種であるはずのユダヤ人に親近感を覚える。しかし、日本人の目から見れば、西歐系アメリカ人とアーリア系ドイツ人は同胞に見えてしまう。もし、第二次大戦を闘った高齢の白人が子供や孫の配偶者を選ぶとしたら、必ず同種族の西歐人を望むだろう。戦争が終わって帰還した白人兵は、たいてい白人娘と結婚し、自分と“似た”子供をもうけた。ここでは直接関係無いけど、白人俳優には他人なのによく似ている者がいる。例えば、女優のテレサ・パーマー(Teresa Palmer)とクリステン・スチュワート(Kristen Stewart)は、アメリカ人の目から見ても似た者同士だ。また、映画「ベイウォッチ」に出演したアレクサンドラ・ダダリオ(Alexandra Daddario)と、TVドラマ「ホワイト・カラー」で人気者となったティファニー・ティッセン(Tiffani Thiessen)も、ちょっと見ればよく似ている。これは彼女たちの親が同じ白人同士で結婚し、祖先からの遺伝子を守ってきた結果、同じタイプの容姿が保存されたという実例ではないのか。

住むなら白人地区

  口では綺麗事を述べる人でも、自分のお金を使う時には本音に忠実となる。例えば、いくら南鮮人を擁護する左翼評論家でも、自分の財布で自家用車を買おうとすれば、韓国の「現代(ヒュンダイ)」ではなく、トヨタとかホンダの日本車、あるいはメルセデス・ベンツやBMWいった高級車を選んでしまうだろう。第一、朝鮮のクルマなんか恥ずかしくて友達に見せられない。また、米国に派遣された日本人社員が現地で自宅を購入したり、子供の学校を探そうとすれば、おのずと白人の住宅地に目を向け、グレた子供が少ない白人学校を選んでしまうだろう。アメリカの白人だって「レイシスト」の日本人に賛同するはずだ。しかし、現在では、北方種族だけのドイツ村とか、白人ばかりが住む高級住宅地は評判が悪い。でも、日本人の不動産鑑定士が土地を調べれば、黒人やヒスパニックがひしめく地域より、西歐系アメリカ人だけが住む地域の方に高い評価額をつけてしまうだろう。実際、裕福なアメリカ白人は白人が圧倒的に多い高級住宅地に屋敷を構える。以前、ビル・クリントン夫妻の豪邸を紹介したが、黒人やヒスパニックに同情的なリベラル・カップルは、有色人種が少ないニューヨーク郊外の白人地域に新居を購入していたのである。

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(左: アメリカにやって来るヒスパニック移民  / 右: アメリカにやって来るムスリム移民 )

  アメリカの白人は敗者の日本人に向かって、「オレ達の国は自由を尊ぶデモクラシーなんだ。お前らみたいに奴隷根性で暮らしている未開人じゃない」と説教するが、彼らに果たして本当の自由があるのか? 例えば、ヒムラーが夢見た金髪碧眼のゲルマン人ばかりで形成される田園地帯が現れたら、裕福な白人層は我先にと土地購入に奔走するだろう。幼稚園や小学校には黒いアフリカ人や褐色のアラブ人が皆無で、どの子供も白い肌に薔薇色の頬をし、大きな青い瞳を輝かせている。こうしたブロンドの幼児は、縮れ毛の黒人が発する独特のアクセントで喋らず、卑猥なダンスに興味を示すことも無い。健全な白人家庭が多くなれば、刑務所に収監された父親とか、福祉金に頼るアバズレ女房、麻薬でラリっているストリート・ギャング、売春婦と大して違わないズベ公、なども激減するだろう。貧困家庭の黒人生徒なんて、卒業後は刑務所に就職するため学校に通っているようなものだ。白人だけの共同体が社会的に公認されれば、リベラル派を気取ったインテリ夫婦だって、アーリア人村に引っ越したくなる。

    そもそも、北方種族ばかりのドイツになったからといって、生粋のドイツ人がどんな損害を受けるというのか? 日本人のみならず、西歐系アメリカ人は冷静に考えてみるべきだ。例えば、ドイツ人に生まれた事を誇る親が、金髪を靡かせるアーリア人だらけの幼稚園を訪れて、「うぁぁぁ~、北歐種族だらけだぁ ! 怖ろしい! こんな幼稚園にウチの子を入れることはできないわ!」と叫ぶのか? たぶん、それとは真逆だろう。もしかしたら、「まぁ、何て素晴らしい幼稚園なの ! どの子もみんな可愛らしいわ! ウチの子もここに通わせたい !」と、うっかり口を滑らすんじゃないか。「ゲルマン系」「アーリア系」「アングロ・サクソン系」と何でもいいが、西歐系アメリカ人はなぜ自分たちの理想を追求しないのか不思議である。

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(写真  /  忌み嫌われるアーリア系の幼児たち)

  もし、アメリカが「自由の国」ならば、黒人やユダヤ人がギァアギャア騒ごうとも、好ましいタイプの白人だけで住宅地を持ったり、北方種族だけの小学校を作ったり、会員制の白人ゴルフ・クラブを開設すればいいじゃないか。民間組織における「受容」と「排斥」は自由であるべきだ。建国以前、イギリス人入植者は自分の好きなように神様を拝めるよう渡ってきた。彼らは新大陸に根づき、アングリカン教会から指図されず独自の教会を設立し、好き勝手な聖書解釈を行っていたのである。それなのに、アングロ・サクソン入植者の子孫は、自分の好きな者たちだけと暮らすことを禁止され、ユダヤ人が提唱する反米教育や不道徳な価値観に抵抗できない。英国のプロテスタント信徒はカトリック教会に反抗できたのに、ユダヤ人団体の前では隷属するなんて情けない。プロテスタントはユダヤ人の下僕なのか?

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(左: 歓迎されるユダヤ人の大人たち  /  右: 大切にされるユダヤ人の子供たち)

  ユダヤ人が哀れな難民として入国した頃は、借りてきた猫みたいにおとなしかったが、この異民族は財力や権力を身につけると、次第に地元民の西歐人へ文句をつけるようになった。白人ばかりのコミュニティーはレイシズムの温床だから駄目。アングロ・サクソン人を始めとするゲルマン種族を称讃するのは、反ユダヤ主義に繋がるから禁止。米国をキリスト教国と定義することは、信仰の自由を阻碍することになるから破棄。西歐文明、とりわけイギリス文化を継承することは、多民族・多文化主義を否定するものだから、テレビや学校の教育プログラムから抹消。こんなアメリカ社会に変貌しているのに、アメリカの白人はフランクフルト学派の毒が廻っているせいか、まったく気づかない。その前に、「ネオ・ナチ」という言葉を聞くだけで震え上がってしまうのだ。ただ、筆者の言うことを理解するアメリカ人も居ることはいる。しかし、彼らは社会的地位を失うことを恐れるから、絶対に賛同することはない。こんな具合だから、綺麗事でしかない理想を語るリベラル派が幅を利かせているのだろう。

白人の赤ん坊は高い

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(写真  /  レーベンスボルン計画で理想的モデルとされそうなアーリア人の男女と家族)

  とにかく、レイシズムを否定するアメリカ社会であるが、養子縁組となれば白人の赤ん坊を望む白人夫婦は多い。もし、アメリカにレーベンスボルン・ホームのような養育施設があって、ヒムラーのように純粋なゲルマン人の赤ん坊を斡旋してくれたら、感涙にむせるカップルがたくさん出てくるだろう。事実、白人の赤ん坊は需要過多で、供給が極めて少ない。だから、白人の赤ん坊は値が高く、その次に白人系のヒスパニック、アジア系と値段が下がり、黒人は最低価格だ。幼くても買い手が付かない。売れ残った黒人の子供が成長してしまえば、もう絶望的である。子供が欲しい白人カップルは、しぶしぶ黒人を引き取るが、ユダヤ人カップルはユダヤ人の養子にこだわるし、異民族の子供を欲しがらない。ユダヤ人は二重思考を恥としないからね彼らは白い肌の子供を優先的に迎え入れ、たまにへそ曲がりのユダヤ人カップルが黒人を養子にする程度。しかし、西歐系白人に対しては人種平等を押しつける。(それなら、パレスチナ難民の子供を養子に迎えればいいのに。)

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(左: 黒人の赤ん坊  / 中央: 支那人の赤ん坊 /  右: ヒスパニック系の子供)

   気前よくユダヤ難民を受け容れたアメリカ人は、本当に愚かである。自分の国なのに“くつろぐ”ことができず、常に異国に居るような気分になるし、周りを見渡せば黒人、アラブ人、南米人、支那人、インド人などが目に付く。しかも、言論の自由があるはずなのに、絶えずユダヤ・メディアの検閲が光っている。そして「自由」と「デモクラシー」を掲げて対外戦争をすれば、その都度、望みもしない難民がやって来るのだ。第二次世界大戦でユダヤ人、朝鮮戦争で朝鮮人、ベトナム戦争でベトナム人、イラク戦争でイラク人、ソマリアの紛争ではソマリア人が雪崩れ込んで来た。こんな結末なら、ナチ・ドイツを徹底的に破壊しなけりゃよかった、と歎きたくなる。日本人が高齢のアメリカ白人を捕まえ、「1950年代以前のアメリカと1960年代以降のアメリカと比べたら、どちらが良いのでしょうか?」と尋ねたら、彼らは声を小さくして「そりゃあ、戦前の方さ」と囁くだろう。「でもなぁ、ワシの孫は黒人との混血児なんだよ」という悲しい告白もあったりして、気の毒なインタビューになったりする。

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(写真  /  高値がつきそうな白人の子供)

  日本人で歴史を研究する者は圧倒的に文系が多いから、歴史を違った角度から考えるという習慣がない。自然科学や数学を専攻する者なら、自然現象をあらゆる角度から考察し、様々な仮説を立て実証したり、研究したりするだろう。たとえ、「定説」であっても、それを疑い、自分で検証するし、学会の大御所が提唱した仮説といえども決定的ではない。ところが、歴史学会に所属する学者だと、長老教授の「史観」に逆らうことはないし、「定説」通りに論文を書けば、やがて正教授になれる。何も無理して有力教授に挑戦する必要はないし、黙って従えば自分も大御所になれるんだから、学会の主流に逆らうのは愚の骨頂だ。アメリカの学会も似たり寄ったりで、かつてアングロ・サクソンが主流だった米国はユダヤ人の天下になってしまった。ナチスにだっで見倣う点はあるだろう。アメリカ人はナチスのユダヤ人虐殺を非難するが、その立派なアメリカには中絶賛成派の「プロ・チョイス」勢力が存在する。「赤ん坊殺し」をチョイス(選択)の問題にするんだから驚く。たしかに、胎児は喋らない。いや、喋ることができない。母親に殺された赤ん坊は天に訴えるしかないのだ。それなら、未婚の母から捨てられた子供を養育したレーベンスボルン・ホームの方が遙かにマシだ。ユダヤ人の子供を殺すことが残酷なら、まだ母親のお腹にいる赤ん坊を殺すことだって悪である。案外、中絶賛成派のフェミニストは、ヒトラーが待つ地獄に直行するかも知れないね。




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可憐な乙女の希望と冷酷な現実 / (続) ヒトラーを崇拝した英国貴婦人


憧れのヒトラーと遭遇

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  1933年、19歳になるユニティはダイアナに連れられ、初めてドイツに渡ることになった。そして、この姉妹はBUF(ブリテン・ファシスト連合)の使節代表として、1933年9月に開かれた「勝利の年のナチ党最初の党大会」に参加したという。彼女たちは勤労奉仕隊の行進に見とれていたが、その後、大会の真打ちであるヒトラーが現れると、会場には割れんばかりの歓声が沸き起こり、ダイアナとユニティもたいそう興奮したらしい。男たちは大声を上げて「ハイル・ヒトラー」と叫び、女たちはヒステリックな陶酔に陥っていたそうで、中には興奮のあまり失神する者までいたという。一般のドイツ人と同様に、憧れのヒトラーを直接目にして、ユニティがどれほど感激したことか。たぶん、1960年代にザ・ビートルズを初めて見た乙女のようなものだろう。(当時は興奮のあまり、コンサート会場で失神するファンまでいたそうだ。)

Unity Mitford 1(左  /  ユニティ・ミットフォード )
  1933年の冬、ユニティは英国に戻っていて、オックスフォードシャーにあるスウィンブルックに滞在していた。彼女は大量に集めたヒトラーの写真を仕分けしたり、レコードをかけて「ホルスト・ヴェッセルの歌」を大音響で繰り返し聴いたりと、呑気な日々を過ごしていた。そんな中、ユニティには向学心が目覚めてくる。じゃじゃ馬娘のユニティがドイツ語を勉強したい、と両親に懇願し始めたのだ。学校ではロクに勉強しなかったユニティが、大好きなヒトラーに逢いたいとの一心で、難解なドイツ語を習得しようというんだから、語学には「動機」というものが如何に大きな要因であるかが分かるだろう。日本人の中に英語が苦手な子供が多いのは、燃え上がるような情熱というか、「何としてもマスターしたい !」という渇望が無いからだ。(日本の女子高生だって、「憧れのイギリス人スター」を見つければ、学校の成績も良くなるさ。中高年のくたびれたオッさん教師じゃ、乙女心も火が消えたようになっちゃうもんね。) ユニティはドイツ語学習のメリットを両親に懇々と説明したそうで、リーズデイル夫妻は怠惰な娘が学問に目覚めたと勘違いし、最終的には娘の願いを聞き入れたという。

  やっとの事で両親の承諾を得たユニティは、意気揚々とミュンヘンに旅立った。ところが、彼女には修学の前提条件が不足していたため、大学に入ることは出来なかった。そこで仕方なく、ケーニヒ通りにある全寮制学校に入ったそうだ。この施設はロシュ男爵夫人が営む女子専用の寄宿学校で、上流階級の娘たちを対象にしたものらしい。ミュンヘンでドイツ語の勉強に打ち込むユニティは、暇な時を見つけるとヒトラーに関するものを物色し、手当たり次第、何でも読んでいたという。そして、彼女はヒトラーがミュンヘンを訪れる際、どこに泊まるのか、どの劇場に赴くのか、如何なる店に立ち寄るのか、を調べ上げたそうだ。偶然にも彼女は知り合いの美容師から、「オステリア・ヴァヴァリア」の情報を突き止めた。この美容師の話によれば、ミュンヘンを訪れたヒトラーは側近を連れて、よくその店で昼食を取っていたというのだ。

Hitler 324  そこら辺にいそうなアイドル歌手の「追っかけファン」なら、お目当ての人物が現れるまで、老舗レストランの前でジッと張り込みを続けそうなものだが、貴族のご令嬢たるユニティは庶民と同じような真似はしない。(筆者の情報なんだけど、日本には「山P」を待ち伏せるオバゃんファンがいるそうで、「憧れ」と「追っかけ」に年齢は関係無いそうだ。それにしても、山下智久の「P」って何の略なのか? もしかしたらクリスチャン・ネームなのかも。) 彼女は両親から100ポンドもの仕送りをもらっていたので、才能溢れるシェフが料理を振る舞うレストランに毎日通うことができ、そこで毎回食事を取っていたのだ。羨ましい。ある日、こうした“待ち伏せ”を行っていたユニティに朗報がもたらされた。間もなくヒトラーとその従者が、予約したテーブルに来るというのだ。そして、待ちに待ったヒトラーが店にやって来ると、ユニティはヒトラーよりも先に帰ろうとせず、辛抱強く憧れの総統が通り過ぎるのを待った。彼女にとって、唯一のチャンスはヒトラーが店を出て行く時で、ユニティは帰りがけのヒトラーに微笑みかけたのだが、当人は気づかぬままだったという。しかし、ユニティはちょっとやそっとでは諦めなかった。女の執念は実に怖ろしい。彼女は毎日毎日シグナルを送り続けたという。

  すると果たせるかな、この仕草が遂に効を奏した。1935年2月9日の午後三時頃、ヒトラーは自分を見つめるブロンド美女に気がついた。彼は店の主人に「このゲルマン女性の原型は一体誰なんだ?」と尋ねたそうだ。ヒトラーの御下問を受けた店の主人は、常連客になっていたユニティのテーブルに近寄ってきて、「総統があなたとお話になりたいそうです」との伝言を運んできたのである。ユニティは立ち上がり、ヒトラーのテーブルに向かう。するとヒトラーは立ち上がり、彼女と握手を交わした。そして二人は三十分ほど会話を楽しむ。ユニティとヒトラーは、英国や先の大戦について語り合い、北方民族同士を嗾(けし)けて戦わせる国際ユダヤ人を決して許してはならない、と意気投合したそうだ。夢のような時間はあっと言う間に過ぎ、ユニティが是非英国へと誘うと、ヒトラーも彼女をバイロイトで開催されるワーグナー音楽祭に招待した。ヒトラーはユニティの住所が書かれたメモをポケットにしまうと、さり気なく店を後にしたという。粋なことに、彼女の昼食代はヒトラーが払っていた。つくづく思うけど、美人は得である。

Unity Mitford 2













(写真  /  ナチス将校と話すユニティ)

  崇拝するヒトラーの知遇を得たユニティは、益々ドイツ社会にのめり込んでいた。彼女はウィルヘルム二世の娘ブルンスヴック公爵夫人(Victoria Louise)や、ウィニフレッド・ワーグナー(Winifred Wagner)らと共に、ミュンヘンにあるヒトラーの私邸に招待された。1935年4月10日にはヘルマン・ゲーリングと女優のエミー・ゾンネマンの結婚式が開かれたが、そこではヒトラーの側に臨席するユニティの姿が観客の目を捉えたらしい。ユニティは社交界を楽しむばかりか、自分がナチス擁護のイギリス人であることを宣伝したそうだ。彼女は愛読する極右週刊誌の『デア・シュチュルマー(Der Stürmer)』に投稿し、ユダヤ人の脅威やその実態について書いた。すると、これが発行者のユリウス・シュトライヒャー(Julius Streicher)の目に止まり、このフランケン管区長は彼女をいたく気に入ったようで、ヘッセルベルクの夏至祭「フランケンの聖なる山」に招待したそうだ。二人は反ユダヤ主義で盛り上がり、ユニティはシュトライヒャー宅に泊まることもあったという。

  一方、英国でダイアナとユニティの安否を気遣うリーズデイル夫妻は、1935年、自分たちの目で娘たちの様子を確かめるべく、遠路遙々ドイツにやって来た。現地でナチスに夢中のユニティを見ると、リーズデイル夫妻は絶望感に囚われるが、そのショックも直ぐに消え失せるようになる。ヒトラーはユニティの両親をミュンヘンの私邸に招き、そこでお茶を勧めながら、英国のパブリック・スクールや法律体系、イギリス兵の勇敢さなどを褒め称えたという。さすがヒトラーは人心掌握術に長けている。英国人の自尊心をくすぐられた夫妻は、すっかりヒトラーの虜(とりこ)となり、ドイツへの固定観念が溶けてしまった。この偏屈夫婦は菜食主義者の仲間を見つけたことで気をよくし、とりわけリーズデイル夫人は自己流の調理法、例えばライ麦の挽き方とかパンの焼き方などをヒトラーに説明したというのだ。(ヒトラーは健康志向の人物だった。) これに対しヒトラーは真剣に耳を傾け、大きな関心を抱いたように見せかけた。すると、普段はクールで近寄りがたいシドニー夫人も、ヒトラーに対しては好印象を持ったようで、「感じがよく、躾もよく行き届いている」と評し、総統の熱心な信奉者になってしまった。そして、一旦抱いた考えを決して変えない頑固な夫人は、生涯にわたってヒトラーの信奉者であり続けたという。

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(左: リーズデイル卿  / 中央: シドニー夫人 /  右: ヒトラー)

  ユダヤ人からボロクソに貶されるヒトラーであるが、意外と人当たりが良く、知的な会話もできたから、直接会った者は結構その人柄に好感をもったそうだ。もっとも、この天才的指導者にとっては一般人など赤児(あかご)も同然。世界政治を動かす総統は、心理戦もよく心得ている。ヒトラーはリーズデイル夫妻の為にメネセデス・ベンツを用意させたし、ニュルンベルクの党大会では彼らの為に貴賓席が設けられていた。ユニティの手紙によれば、リーズデイル卿は親衛隊の将校に囲まれて上機嫌だったという。故郷に帰ったリーズデイル卿は、それまでのドイツ嫌いを一変させ、貴族院で演説を行った時には、ヒトラーが平和を愛する心情を持っていると語ったり、ヒトラーは失業対策に成功し、第三帝國の社会制度は進んでいる、といった報告を行っていたそうだ。戦前の日本政府も対米戦争が嫌なら、有名なアメリカ人をたらし込んで親日家にさせ、議会工作でもさせればよかったのに、とつい考えてしまう。パーティーくらいしか取り柄のない外務官僚は、知り合いの議員や外交官にお願いするくらいで、親日派を増やすために美しいアメリカ人を各地に派遣するとか、各地の名士を手込めにして輿論操作を試みる発想すら無かった。大衆社会の米国で、オッサンの外交官が記者会見を開いたって、誰も興味を示さないだろう。マスコミの関心を集めるは、単純明快な主張と美人の笑顔だ。ユニティ級の美女を日本の代弁者に仕立てた方が、よっぽど効果があるんだけど、悲しいかな、試験秀才には思いつかなかった。

  話を戻す。1935年の末になると、ユニティはナチ党に受け容れられ、ヒトラーから直接、特別な党徽章をもらったという。その裏面にはヒトラーの名前を彫ったモノグラムがあった。そして、総統はこの女性同志に個人的な献辞を添えたポートレイトを、銀の額縁に嵌めてプレゼントしたそうだ。ユニティにとって、それは貴重な宝物となった。しかし、こうした厚遇には別の意図が隠されていたのだ。というのも、英独間を頻繁に行き来するユニティは、ヒトラーにとって非常に有力な手駒となっており、ナチ政権の非公式スポークマンにもなっていたからだ。また、狡猾な総統はユニティを通して、意図的な秘密漏洩者をイギリスの上流階級や影響力のある社会階層に潜入させたのである。さらに、ユニティをごく内輪のサークルに入れることで、ヒトラーは彼女を「ナチ・ドイツの事情通」に仕立て上げる事ができたのだ。彼女がヒトラーについて英国で喋れば、「何らかの裏情報なのでは ?」と勘ぐったイギリス人は、その話に聞き耳を立てる。こうなればヒトラーはユニティを媒介にして、自分にとって都合の良い情報を敵国に流すことができるのだ。

極秘の結婚式

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(左: 若い頃のダイアナ  / 中央: モズレー夫人となっている晩年のダイアナ/  右: オズワルド・モズレー卿 )

  ユニティのみならず、姉のダイアナもナチ・ドイツに関係してきた。1935年にブライアン・ギネスとの離婚が成立したダイアナは、自分の姦通が原因なのに、紳士の体面を保ちたい夫のお陰で巨額の慰謝料をもらうことができた。大金を手にしたダイアナは、ミュンヘンに華麗な邸宅を構え、あまり熱心ではなかったが、大学でドイツ語のコースに通っていたのである。そんな日々を過ごしているダイアナに吉報がもたらされた。1939年、オズワルド・モズレー夫人のシンシアが息を引き取ったというのだ。ダイアナとモズレー卿は長いこと愛人関係にあったが、モズレー夫妻の結婚式は依然として世間の記憶に残っていたので、二人はその状態をあえて合法化しようとは思っていなかった。しかし、そのシンシア夫人も亡くなってしまったから、“わだかまり”も無くなってしまったのだ。そこで、ヒトラーはドイツで二人の結婚式を挙げてやることにし、英国のファシスト指導者とレディー・ダイアナの結婚式は、ゲッペルス宣伝相のサロンで執り行われる事になった。この秘密結婚式は報道陣に一切気づかれずに実行されたそうだ。ダイアナの証言によれば、ランドルフ・チャーチルが厳格に秘密を守ってくれたからであるという。(彼はダイアナの「従兄弟」に当たるウィンストン・チャーチルの息子である。ただし、二年後にモズレー本人がこの秘密を明かすことになった。)

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(左: 「ナチス式敬礼」をするダイアナトユニティ  / 中央: ダイアナ /  右: ユニティ)

  ユニティを私的な宣伝係として用いていたヒトラーは、彼女を大変厚遇していたようだ。彼女はしばしば特別列車にも同乗を許されたし、党所有の公用車を運転手附きで利用することも出来たのだ。ヒトラーは彼女の住居をミュンヘンに用意させ、高級カメラをプレゼントしたかと思えば、今度は党員バッヂを手渡したりと至れり尽くせり。ユニティが肺炎に罹ると、ヒトラーは病院の特別室を手配し、その費用を負担したばかりか、個人的な主治医であるモレル博士を派遣したという。ヒトラーと二人きりで会うことができたユニティは、もう総統にぞっこんだ。ミットフォード家の姉妹までもが、ユニティはヒトラーと結婚するのでは、と疑ったくらいである。ヒトラーの側近も、二人の親密さに驚いたという。ただし、安全面でのことではあるが。

  というのも、ユニティはヒトラーが誰と会い、どこで会議を行うのか、何を意図にしているのか、そして総統の生活全般にわたって色々な事を知っていたのである。例えば、ある時、ヒトラーは五時のお茶をハウス・デア・クンスト(藝術の家)で行う事になっていた。すると、五分前にユニティが現れたのだ。これにはヒトラーも驚いた。彼女は独自の情報源を持っていたのだろう。総統の一行がベルリンからミュンヘンに向かった時も、既にユニティはミュンヘンに着いていた。そして、ミュンヘンからウィーンへ移動した時も、またもやユニティがヒトラーよりも先に着いていたのだ。ヒトラーの副官であるゲルハルド・エンゲルも彼女に驚いていたという。ある食事の席で話されたことだが、ロンドンへの飛行機の着陸進入路は、僅か八基の高射砲部隊によって守られているに過ぎず、英国軍の装備は二個師団分にも足りないとのことだった。彼女はこれらの情報を従兄弟の一人から聞いたのだという。そこで、大いなる関心を示したヒトラーは、早速ユニティが言ったことの裏を取るよう部下に命じ、検証の結果、彼女が述べた事は正確だった。これなら、ヒトラーの側近がユニティを英国のスパイと疑ってもおかしくはない。

夢破れた乙女の自殺

  ヒトラーの寵愛を受けたユニティは、ドイツの総統から「ヴォルフ(狼)」と呼ぶことを許され、同時にこの「ヴォルフ」は親しみを込めてユニティを「ドゥ(君 / 親友が使う二人称)」と呼んだらしい。ヒトラーと打ち解けたユニティは、何度も彼女の祖国がドイツと戦争することはない、否、「するはずがないと確信しています」、と表明してきた。ところが、運命は残酷なものだった。1938年、チェンバレン、ダラディエ、ムッソリーニ、ヒトラーは「ミュンヘン協定」に署名する。ズデーテン地方を手にしたヒトラーは、その食指をポーランドへと伸ばした。1939年9月3日、ドイツ軍のポーランド侵攻から二日後、英国の駐独大使ネヴィル・ヘンダーソンは、ドイツの外交官ヨアキム・フォン・リッペントロップに宣戦布告の通牒を手渡した。ダイアナ・モズレーはロンドンで第二次世界大戦の勃発を耳にする。一方、妹のユニティはミュンヘンにいて、オーバーバイエルン管区長であるアドルフ・ワーグナー邸を訪ねていた。彼女はワーグナー管区長に分厚い封筒を手渡したという。敵国人となってしまったユニティは、重要な書類を預けに来たと話し、対するワーグナーはユニティを慰めると共に、彼女の安全を約束したのである。

  ところが、その封筒には意外な物が入っていた。彼女が去ってから数時間後に封筒を開けたワーグナーは驚く。その中にヒトラーのサイン入りポートレイトと党のバッヂ、そして「遺書」が入っていたのだ。彼女はブリテンとドイツが戦争することには耐えられないので自殺する、との内容であった。ワーグナーは即座に保安部に通報するが、既に英国庭園のベンチに坐っていたユニティは、小型の拳銃で自分の右こめかみを撃っていた。ある警官が彼女を発見し、身元不明で意識不明の女性を大学病院へと運んだそうだ。医長のイェーガー博士が診察したところ、右こめかみから撃ち込まれた弾丸は後頭部に留まったままで、剔出(てきしゅつ)することは生死に係わる危険があったという。この悲報はヒトラー陰鬱にさせたが、その口から同情の言葉は無かった。

Unity Mitford 7(左  /  慎重に搬送されるユニティ)
  バイエルン州内務相はユニティを英国に搬送するため、急行列車を手配し、特別なベッドまで用意して、彼女をスイスのベルンにまで送り届けたそうだ。ベルンで容体が改善したユニティは、母親の手配により、法外な費用を掛けて英国に運ばれたという。母親の献身的な介護のお陰なのか、1940年になるとユニティは次第に歩けるようになった。しかし、彼女には記憶障害が残っており、ヒトラーのことでさえ曖昧に想い出すだけで、第二次世界大戦については一切知らなかったという。戦争末期の頃になると、リーズデイル夫人はユニティと共にインチ・ケネス島に引っ越すことにした。1945年にもなると、再び車を運転できるまでに恢復し、映画を見に行ったり、教会へと通うこともできたそうだ。しかし、彼女は後頭部に爆弾を抱えたままである。ユニティは様々な宗派に慰みを求め、至る所で入信の許可を取りつけたという。

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(左: ウィンストン・チャーチル  /  右: チャーチルとスターリン)

  ところが1948年の春、ついに運命の時間(とき)が迫ってきた。5月28日、英独同盟を夢見たユニティ・ミットフォードは自殺未遂の後遺症により、華麗だが儚い生涯を閉じた。享年34。歴史学の大学教授や世の知識人は、通俗的なヒトラーの「世界征服」に目を向けるが、チャーチルの犯した失敗や悪魔との同盟には目を背けている。確かに、チャーチルはヒトラーという「悪党」を倒したことで「英雄」になってるが、その代わり赤いローズヴェルトと共に兇悪な暴君を育ててしまった。同じ文明圏の国家社会主義者が「敵」で、異文化圏の国際共産主義者が「友」なんておかしい。日本でも人気の高いチャーチル首相は、なぜか「救国の英雄」として祀られているが、現実社会では「亡国へと導いた墓堀人」である。戦争目的を達成できなかった宰相が、偉大なる戦争指導者というのは妙だ。案外、ユニティが夢見た「英独同盟」の方が良かったのかも知れない。ただ、歴史の「イフ」を言い出したらキリが無いけど。



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