無敵の太陽

主要マスメディアでは解説されない政治問題・文化・社会現象などを論評する。固定観念では分からない問題を黒木頼景が明確に論ずる。

ナチス/ヒトラー

ドレスデンのホロコースト / イギリス空軍の戦争犯罪

無差別殺戮を行った英米軍

  勝てば官軍、負ければ賊軍。戦争には掟があるようで、実際には無い。理由は簡単。どちらも負けたくないから。第一次歐洲大戦の頃までは、ヨーロッパ人同士が戦っても、野蛮人に対するような殺戮は犯さなかった。各国とも指導部や軍部に紳士がいて、文明国のルールに反するような真似はなるべくしたくなかったし、国家の名誉が傷つくのを恐れた。しかし、第二次欧州戦争はソ連を除けば、文明国同士の戦争なのに、熾烈な戦闘がエスカレートして野蛮人同士の殺し合いになってしまった。科学技術が進歩して容易に大量殺戮が出来るようになったとはいえ、攻撃を仕掛ける指導者にモラルが無くなったことが主な理由なのかもしれない。

  今月、ドイツでドレスデン爆撃70周年を記念する集会が開かれた。英米の猛烈な空爆により、約2万5千人の死者を出し、美しかった歴史的遺産が瓦礫の荒野と化してしまった。連合軍による冷酷無情な大量殺戮なのに、演説を行ったヨアキム・ガウク(Joachim Gauck)大統領は、やはり自虐史観を持っていた。

  民族皆殺しという恐ろしいことをした国家は、自ら起こした戦争から無傷のまま、罰を受けずに再興するとは思えない。我々は誰があの恐ろしい戦争を始めたかを知っている。我々は今日ここでドイツ人犠牲者を思い出すとき、ドイツの戦争による犠牲者を忘れない。(Dresden commemorates WWII bombing,Deutsche Welle, 13 February 2015)

  ガウク大統領の演説を聴くと、ドレスデンへの空爆は因果応報の面があると言いたそうだ。ドイツ人は自ら戦争を起こしたし、ユダヤ人の虐殺を行ったから、その恐ろしい罪への報いを受けたのだ、と仄めかしている。戦後のドイツ人政治家が公の席で、連合国の戦争犯罪を非難できないのは充分承知している。だからこそ、公職に附いていない一般人が、連合国側の戦争犯罪を糾弾すべきではないのか。

  欧米人同様日本人も、第二次世界大戦の悲劇と言えば、ユダヤ人のホロコーストを挙げてしまう。無辜のユダヤ人を強制収容所に入れて、重労働を課した上に、ガス室で殺してしまった、と信じられている。しかし、このガス室殺人は、科学的調査で以て検証されていないのだ。600万人も殺されたのに、英米軍は遺体の検視すらしていなかった。アウシュヴッツを占領したソ連は、検証作業をさせずに、一切を秘密にして学者の調査を許さなかったのである。大量殺戮の話はどうも嘘臭い。ロシア人がなぜ敵であったナチ・ドイツの犯罪を隠したのか、その理由がはっきりしたらユダヤ人も困るだろう。だから、強制収容所の「ホロコースト」は眉唾物である。

  「ホロコースト」は、獣を丸焼きにして、神前に生け贄として捧げるユダヤ教の燔祭を意味する。収容所の遺体焼却炉は怪しいが、空襲による住民の焼き殺しは、文字通り火を見るより明らかだ。焼夷弾による攻撃はある意味、通常の爆弾よりも残酷である。焼夷弾というのは、マグネシウム、リン、油脂などの非常に燃えやすい化学物質を使用した小型爆弾である。注目すべきは、リン(燐)は水で消火できず、粘着性があり付着したものを激しく燃やす特質がある。爆発時の炎と熱風が嵐のように人間を包み、一瞬で大勢を焼き殺す。丸焦げを逃れても被害者の体が焼けだだれる。重度の火傷でもがき苦しむか、瀕死の重傷で後に死亡するかのどちらかであろう。まさに生き地獄である。また、空襲は被害を最大限にするために工夫されていた。まず、高性能爆弾で建物の屋根や窓を吹き飛ばし、その跡で焼夷弾を落とすと、中の人間に燃焼物質が附着して、殺傷効果を上げるのだ。悪魔的なのは、高性能爆弾の一部が、数時間または数日後に爆発するよう設定されており、緊急作業員は危険で瓦礫に埋もれている生存者を助けることが出来ない。消火活動や負傷者の救出中に爆発したら、二次災害で現場は再度混乱するのだ。だから、こうした爆弾は、水道やガス管の修復や現場の復旧作業を遅らせたり、中断させる効果がある。日本人も大空襲で焼夷弾の恐ろしさを身に沁みて分かっていた。

空爆に固執した元帥

  爆撃機による都市空爆が、戦争を勝利に導くと堅く信じていた軍人に、アーサー・ハリス卿(Sir Arthur Harris)がいた。ハリスは、リチャード・パース(Sir Richard Peirse)総司令官の後任として、爆撃集団の最高司令官に就いた。彼は士官学校卒の生粋軍人ではなく、ローデシアで農場支配人を務めていた。第一次大戦の時にロイヤル・ローデシア聯隊に入り、それ以来腰を据えて軍隊に席をもつと決めたらしい。ブルックランドの飛行場で飛行の基礎を30分で習得し、イギリス陸軍航空隊に配属されるという変わった経歴を持つ。ハリスは飛行連隊長として、上空から悪戦苦闘する塹壕線を見て、戦争は空から勝たねばならぬと確信したそうだ。(A.C. グレイリング 『大空襲と原爆は本当に必要だったのか』 鈴木主税/浅岡政子 訳 2007年 p.80)

  ハリスが受け継いだ爆撃機集団はまだ弱かった。第二次大戦勃発当時は、空軍機の出撃は天候に左右されたし、航続距離も短く重爆撃機のように大量の爆弾を搭載できない。しかも、レーダーが未発達で、パイロットの目視に頼っていたから、夜間の出撃だと目的地を探し当てて、たどり着くまでが大変。目標地点に到達しても、今度は爆弾を投下する際、目標地点に上手く落とすことが出来なかった。困ったことに、命中率が低いのに、敵からの迎撃や砲撃で搭乗員の損失が大きかった。単に爆弾を落として無事に帰還、という訳にはいかなかったのだ。空爆は元々一般人を殺傷する目的ではなかった。当初、爆撃機集団の優先すべき攻撃目標は、ドイツの石油供給施設とアルミニュウムおよび部品工場などであった。一般市民の犠牲が見込まれる目標は出来るだけ避けたかったのである。民間人への無差別攻撃を始めたら、軍服を着ている将兵の意味がなくなるではないか。軍服の着用がルールになっていたのは、民間人を誤って殺さないためだろう。しかも、女性、子供、老人、病人を意図的に殺すなど、卑劣な行為と非難されることは明白。政府内部でも反対論が挙がったのも当然だ。それが撤回されたのは、1941年7月である。イギリス空軍参謀本部は、ドイツの輸送機関を混乱させ、一般市民、とりわけ産業労働者の士気を挫くこと、へ舵を切った。しかし、地域爆撃が本格的に始まるのは、もう一段階を経てからだった。

  最初は効果が上がらなかった空爆でも、徐々にではあるが、戦力も性能も強化されつつあった。GEE(ジー)という新たな航行装置が備え付けられ、新型四発重爆撃機の配備数も増えた。とりわけ重要なのは、アヴァロ・ランカスターという主力攻撃機で、ハリスが着任した数週間後の1942年3月から出撃に使われ始めたのである。しかし、これより遙かに重要なのは、空軍参謀本部からの新たな指令だった。1942年2月14日に発せられたもので、作戦の第一目標として敵国一般市民、とりわけ産業労働者の士気に焦点を絞るべし、と述べられていた。(p.81) つまり、戦闘員ではない一般人とはいえ、軍需工場などで働く後方支援国民も、攻撃対象にしてもいい、という方針に踏み切ったのである。爆撃機集団の第一目標が「敵国一般市民」に絞られたので、空軍参謀本部は大量の焼夷弾を用いることになった。

  手始めの生け贄には、バルト海沿岸にある旧ハンザ同盟都市のリューベックが選ばれた。そこが中立国スウェーデンからドイツに鉄鉱石を輸入するための主要な港であり、さらにはUボートの訓練基地でもあったから、というのが表の理由。しかし、焼夷弾の攻撃実験に選ばれた本当の理由は、そこに中世以来の木造建築がたくさんあったからだ。燃えやすい都市を狙ったのだから、住民殺戮の意図があったという証拠である。1942年3月28日から29日にかけての夜に、234機のイギリス空軍爆撃機が出撃し、191機が到着し、かつて無いほどの大規模な破壊がもたらされた。次いでリューベックが襲われ、この地では1,000人が死亡した。それから1ヶ月もしないうちに、木造建築のハンザ同盟都市ロストクが、空爆の餌食になって灰燼(かいじん)に帰した。建前の理由は南部の郊外にハインケルの工場があったからという。ハリスはさらに大規模な爆撃を目指すようになって、1,000機の爆撃機を用いて一つの都市を破滅させる作戦であった。爆撃の恐怖で人々を降伏させることにより、戦争に勝利できるという自分の主張の正しさを証明するためだった。(ハリスの主張は、イラク戦争でも用いられた「衝撃と畏怖(shock and awe)」という戦術を思い出せば理解できるだろう。)

  空軍の底力を政府と軍部に見せつけるため、1,000機の爆撃機によるケルン襲撃「ミレニアム作戦」が始まったのである。第一候補はハンブルクで、ケルンは第二の候補であった。ところが、思案の末、選ばれたのはケルンであった。1942年5月30日に900機の爆撃機が目標に到着し、915トンの焼夷弾と840トンの高性能爆弾を投下したのである。この一晩でケルンが受けた被害は、それまでの空襲をすべて合わせたものより大きかった。240万平方メートルが焼け野原になり、13,000棟の建物が破壊され、45,000人が家を失った。ただ、驚くのは死者が496人にとどまったことだった。これはドイツの都市が周到に準備をしていた証だった。空襲への対応策や防空壕が非常に良く機能していたからである。しかし、ハリスは大規模な空襲を成功させ、完璧な成功を収めたとこに満足していた。

加熱する大空襲

  イギリス空軍爆撃機集団が、ハンブルクをヨーロッパの地図から、抹殺しようとした計画は、「ゴモラ作戦」と名づけられた。この作戦名は、創世記に記されている地名のソドムとゴモラからとられた。「低地の町」ソドムと「沈むこと」を意味するゴモラである。旧約聖書では、そこの住民が罪深い生活をしていたので、天主の怒りを買い、天から降ってきた硫黄の火で滅ぼされたという。(創世記19:24-29) 欧米人はよく洒落た作戦名を思いつく。ドイツ人が神様から滅ぼされる運命にある罪人という訳だ。まるでジハード(聖戦)の魁(さきがけ)である。ゴモラ作戦は5回の大規模な空襲と数回の小規模な空襲であり、1943年7月24日から8月3日まで行われた。ハンブルクの造船所や軍需工場を爆撃したのだが、イギリス空軍は間違いなく市民に被害をもたらした。イギリス空軍はハンブルクの中心地であるアルトシュタット、すなわち旧市街を攻撃目標としていた。怒りに燃えたドイツ空軍の戦闘機が昼間爆撃を待ち構えて、アメリカ軍に反撃を加えた。7月25日の空襲だけで、「空の要塞(Flying Fortress)」と呼ばれたB-17爆撃機が19機も撃墜されてしまった。

  ハンブルク市街に投下された焼夷弾は、圧倒的破壊力を示した。無数の焼夷弾が集中的に投下されため、火炎旋風(fire storm)が起きた。あちこちの街路で発生した火災が延焼して大きな火災となり、巨大な炎柱が高熱を発っして2,000メートルもの高さに燃え上がった。火柱は時速160キメメートルを超える勢いで周辺地域の空気を吸い込みながら燃えさかり、轟音を響かせながら人工の大嵐を発生させ、それによって災害がさらに激しくなる。火炎旋風は3時間もの間、建物や死体を空中に巻き上げた。竈(かまど)のような熱い防空壕から逃げだそうとした人々は、手足が異様に曲がったまま硬直し、煮えたぎるアスファルト道路に沈んでいったという。爆撃機の乗員でさえ、ハンブルクの火災の熱を感じたみたいだ。破壊された市街地から立ち上る煙は、上空7,500メートルにも達する。最初の空爆の犠牲者は吹き飛ばされたか、空気の無くなった防空壕で窒息死したか、あるいは外の荒れ狂う炎で焼け死んだかであった。多くの死体は高熱で縮み、大人の死体が赤ん坊の大きさになっていたという。ハンブルクにおける空爆で、死者が何人なのか正確な死者数は分からないが、少なくとも45,000人の死体が廃墟に横たわり、それ以上の人々が負傷したり精神的ダメージを受けた。都市の半分が瓦礫と化し、34,800棟の建物が崩壊した。この数ヶ月後、125万人もの人々がハンブルクから国境地域へ避難したという。

  イギリス空軍は、1943年にベルリン空襲を計画し、「ベルリン航空戦」と名づけた攻撃を、11月18日から19日にかけての夜間に実行した。ハリスは毎日平均800機の爆撃機を自由に使えるようになっていたし、同年初めに使用可能になった航行技術も効果を上げていたという。技術の進歩により爆撃機は照明弾で示されたコースをたどって目標に向かう必要がなくなり、ドイツ空軍に発見されにくくなったのである。また、イギリス空軍の科学者が考案した様々な電子装置でドイツ軍のレーダーを妨害できた。ハリスはベルリン空襲の成果で自信を持ち、爆撃だけで戦争に勝てるとの主張を繰り返した。自分に作戦の自由が与えられれば、ドイツ征服のため、上陸部隊が血みどろの歩兵戦を行う必要がなくなる、と思っていたのだ。しかし、チャーチルの戦時内閣やイギリス軍参謀本部は爆撃のみで戦争に勝てると信じてはいなかった。ドイツ軍を弱らせるのがせいぜいだろうと考えていたのである。それでも、ハリスのベルリン大空襲は1944年3月まで続き、それと平行して他の大都市にも激しい爆撃が続けられた。しかし、これによってドイツ人の士気を挫くことも、ナチ政権を屈服させることも出来なかった。それに爆撃集団は多くの航空機と隊員を失ったので、戦史ではベルリン空襲は失敗だったと結論づけられている。

  ノルマンディー上陸作戦を控えたイギリス軍は、工場や石油施設、鉄道への攻撃を重点的に行うことにした。命令を受けたハリスは、フランスやベルギーの鉄道網を爆撃し、Dデイまでに60回も爆撃を実施した。イギリス空軍爆撃隊が精密爆撃を行って、可能な限り一般市民の死者を出さないようにしていた。これは賞賛されたし、実のところ、それ以前の都市への爆撃より、はるかに勝利へ貢献していたのである。しかし、ハリスは何としても地域攻撃、つまり都市攻撃を再開したい。まだ、叩き潰す価値のある建物が充分に残っていると主張していた。爆弾を投下したくてうずうずしていたハリスは、空軍が地上軍への戦術的支援を行っている間、ドイツに長い急速を与えているのだ、とチャーチルに書翰を送ったという。圧倒的優位にある連合国の空軍力を用いて、ドイツを今度こそ徹底的に破壊するべきだと力説した。チャーチルは爆撃だけでは勝利を掴めないが、ハリスの意気込みが気に入ったとみえ、目的を達成するよう励ました。戦火を免れているドイツのあらゆるものを破壊するんなら、全面的に支持しましょう、という肚だ。それでも、新たな指令では石油施設と兵站線を第一の攻撃目標とし、都市への攻撃はあくまで第二の目標とするよう命じられていた。

  大戦も終局に入ったのだから、ドイツを降伏させる方が優先されて当然であった。ハリスの上官は石油施設を攻撃するよう圧力をかけた。ハリスも軍人だから命令には従う。しかし、天候が製油所攻撃に適さない時は、何も攻撃しないより、何でもよいからドイツを攻撃すべし、と考えていた。心の底では、連合軍の地上軍がなすことより、「都市攻撃」の完遂の方が、戦争の早期終結に貢献すると確信していたのだ。彼の破壊リストにある15の無傷の主要都市には、ドレスデンが含まれていた。

民間人を狙って殺せ

  軍人は戦争のプロだから、戦争目的を持って戦闘を実行する。暴れたいから銃を乱射するのではない。目的を達成するために、念入りに計画を立てて、冷静に実行するのだ。ドレスデンを攻撃する前に、ドレスデンとはどんな場所か、何を破壊すべきなどを検討したはず。当然だろう。もしそうならば、ドレスデンが重要な工業地域でないことは承知の上で、空爆を行ったことになる。空軍参謀本部はドレスデンが、東部戦線からの避難民で一杯だったことを知っていた。それでも、第一爆撃隊の搭乗員らは、ドレスデンが重要な鉄道センターだと説明されていた。カナダ兵からなる第二爆撃隊は、その地が工業地帯で、電気モーターや精密機器、化学薬品、弾薬を生産している、というブリーフィングを受けていた。ある空軍基地だと、出撃搭乗員はゲシュタポの本部を攻撃する、と教えられていたという。別の基地では、巨大な毒ガス生産工場があると言われていたのである。(David Irving, The Destruction of Dresden, Corgi Books, London, 1966, p.147) 出撃前にはとんでもない流言飛語があったわけだ。真の目的を明確に言えなかったからじゃないか。まさか、司令官が「これから女子供を殺しに行きます」とは、乗組員に言えるはずがない。英雄になるはずのパイロットが、殺人鬼では士気が落ちてしまう。

  1944年2月13日から14日にかけての夜間に、800機のイギリス空軍爆撃機が攻撃し、翌日アメリカ軍が300機、15日は200機で爆撃を行った。アメリカ軍は鉄道操車場を狙ったが、13日と14日のイギリス空軍による夜間爆撃は市の中心部にあるスタジアムを目標にしていたのである。軍事関連施設ではなく、明らかに民間人殺戮が目的であった。攻撃内容は以下の通り。

            高性能爆弾数   焼夷弾数
第一攻撃       3,000          400,000      
第二攻撃                 4,500                  170,000
第三攻撃       1,500                   50,000
第四攻撃        900                     50,000

  この爆撃で13,441棟の住宅が完全に破壊された。つまり、全住宅の36パーセントが灰燼に帰したということだ。3月20日までに確認された死者は202,040名で、まずもって女性や子供が犠牲者になっていたのである。焼け焦げた瓦礫から遺体をすぐには回収できなかった。しかし、68,650名が丸焼けとなったことは事実だ。(David Irving,  pp.259-260) それでも、正確な死亡者は実際のところ分からない。現在では、2万5千人が死亡したというのが定説。当初の目的は重要な軍事作戦が進行する地域に近い輸送地点を叩くことだった。しかし、この周辺にある、東西方向に伸びる鉄道や道路を標的にせず、爆撃機集団に与えられた指令では、都市中心部にあるスタジアムであった。この都市は、ソ連軍の進撃から逃れてくる何万人もの避難民で溢れていたのだ。だからドレスデン空爆には疑問がつきまとう。こんな事実を英米は知られたくないだろう。

  ある悲劇的逸話がある。シュレジアからドレスデンに逃れてきたある女性は、列車で到着後、第一撃の空襲に遭ってしまった。しかし、彼女は危険地帯にやって来たのではない。彼女の夫は、連合軍との同意でドレスデは爆撃されない、と約束されいるから、大丈夫との旨を伝えていたのである。連合軍はドレスデンを、戦後ドイツの首都に使いたいと思っているから、まさか徹底攻撃の対象とは想像していなかった。そうでなければ、夫が妻をドレスデンに向かわせないだろう。何見知らぬ彼女は、子供を連れて「安全な」はずの都市に避難してきたという。(Irving , p.188) しかし、女子供の難民でごった返すドレスデンは 劫火に包まれてしまった。年端もいかぬ子供や体の弱った老人、子供連れの母親はもちろんのこと、もしかしたら妊婦までいたかもしれない。そんな無防備な人々を炎で黒焦げにしてしまったのだ。もし、イギリス兵がナイフを渡されて、彼らを殺せと命令されたら、絶対拒否しただろう。しかし、上空から爆弾を落とすだけだから、良心が痛まない。暗闇に花火が爆発したようなものだ。

  この避難場所補の空爆には二つの理由があった。連合軍は敵国の弱い部分を叩くことで、この都市が撤退する敵軍に利用されることを防ぐこと。もうひとつ理由は、ソ連軍がここに到着した際、爆撃機集団に何が出来るかを誇示するためであった。こうした戦術的理由と外交的脅迫のために、一般市民を犠牲にしたのである。連合軍はナチ・ドイツの残虐行為を宣伝するが、自分たちも同等の罪を犯したことには目を瞑(つむ)っている。ニュルンベルク裁判で「人道に対する罪」という遡及法で、ドイツ人を裁いたが、英米の指導者は誰一人として裁かれていない。ケネディ政権で国防長官を務めたロバート・マクナマラ(Robert S. McNamara)が映画『Fog of War』で、日本への空襲について、涙を浮かべながら語っていた。その中で、空爆の指揮官カーティス・ルメイ(Curtis E. Lemay)将軍に言及している。一夜の空爆で10万人が死んだことを口にするマクナマラに対して、「君は10万人だと騒ぐが、それ以下ならいいのか?」と反論した。上陸となれば何万人ものアメリカ兵が死ぬんだから、空爆をしたのは当然だという理屈である。そして彼は空爆が戦争犯罪との認識を持っていた。しかし、「負ければ」という条件付きだった。

  戦争の歴史を調べて、戦闘倫理を講釈しても始まらない。武力の前に倫理は屈服するのだ。だから、敗者は勝者の理論を受け入れている。危険な言い方をすれば、敗戦による歴史解釈や前科は、次の戦争で勝たなければ払拭できない。冷酷な認識に立てば、それ以外に無いだろう。勝者だって多大な犠牲を払って、戦禍の中から勝利の果実をもぎ取ったのである。だから、戦争後それを最大限に利用するのは当然だ。敗者側が出来ることは、戦闘で負けても、精神まで屈服せぬことである。敗者になっても、奴隷になってはならぬ。この気概すら失いかけているのがドイツ人と日本人である。しかし、日本の一部保守派のように、反米になることも愚かであろう。背後で支那人がほくそ笑むだけだ。大切なことは、賊軍根性で祖国復興を行わぬことである。第二次大戦については、また次の機会で触れたい。



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ゲルマン民族の理想 / アーリア人を妬むユダヤ人 (2)

フェルキッシュ理念を掲げるドイツ人

Nordic Beauty 12











  ドイツ人がどんな理想を持とうとも、独立したドイツ国民の自由である。ちょうどイスラエルのユダヤ人が、独自の信仰を表明しても、外国人が禁止できないのと同じだ。ユダヤ教徒はキリスト教徒がモーゼの五書や預言書などを「旧約」と呼んでも平気だ。遠く離れたヨーロッパの異教徒が、どんなに戯(たわ)けたことを口にしようとも、家畜どもだから放っておけ、と言うだろう。だから、ドイツ人が自分の種族を如何に賞賛しようが、ドイツ人の勝手。カラスが啼いても、誰も文句をつけないじゃないか。我々だって、カザフスタンやタジキスタンのイスラム教徒が、どんなに民族賛美を叫んでも知らんプリ。その国がどこにあるかも全然わからない。「南米にでもあるの?」と聞く者だっている。そもそも、興味が無い。それがどうした? どうでもいい。あっ、うちのワンちゃんに餌をあげる時間だ ! 亭主の晩御飯より、愛犬の食事の方が大切な主婦もいたりして。

  ユダヤ人がナチ・ドイツを憎むのは、「迫害や虐殺を受けたから」ってだけではない。実はユダヤ人が心底ゲルマン人に憧れを抱いていたからだ。ナチスから出て行けと言われても、美しい容貌のゲルマン人が忘れられなかった。片思いの相手に肘鉄を喰らっても、惚れた女を付け回す、ストーカーの心理をもっていたのだ。ユダヤ人はある意味、執念深い変態民族である。長いヨーロッパ史の中で、迫害されながらも、居候の身に甘んじてきた。寄生民族と呼ばれる所以である。ユダヤ人に優秀な人物が多かったのは確かだが、もし彼らが北アフリカで暮らしていたら、今のような多彩な才能を発揮する民族になっていなかっただろう。ユダヤ人は独自の文化がつまらない。ユダヤ文化なんて陰鬱で内心嫌でたまらないのだ。ヨーロッパ人は明るく美しい。活発で自由な発想が許される社会に住んでいる。ユダヤ人女性など、西歐貴婦人や活動的な若い娘がうらやましい。だから、信仰を棄てたユダヤ人は、息が詰まるようなユダヤ社会に二度と戻りたくないのだ。よく「ボロを着てても、心は錦(にしき)」と日本人は歌う。ユダヤ人だって、外見はユダ公でも、心はヨーロッパ人になったつもりでいたのである。

  ナチ党が台頭する前のドイツ文化をちょっと考えてみたい。日本人はドイツに突如としてナチスが出現し、全体主義国家にしてしまったと考えがちだ。学校の授業では、皇帝ウィルヘルムの帝政やワイマール共和政の時代は、学期末に近いからスキップだろう。第三帝国以前の社会に於ける風潮や風俗は謎のままである。何から何までヒトラーが拵えたと考えるのは無茶だろう。人種に関する議論に関して言えば、当時、北方種族(Nordic Race)再考が流行したのである。北欧世界の復活が人気を博していた。この流行を理解しないと、ドイツ・ナショナリズムが分からない。ナショナリズムが国民に浸透するには、まづ国民とは何者かをはっきりさせないと、大衆は国民主義とは何かを把握できない。肝心なのは、大衆の心を掴むような物語でなければならない。小難しい学者の講義ではダメだ。

  国民国家運動を展開する上で、キリスト教は重要かもしれないが、少々役不足の感が否めない。ドイツの国家統一は英国や仏国に後れを取ったが、鉄血宰相ビスマルクの手腕もあって見事に達成された。それというのも、ドイツ人は人種的に均質な民族であったからだ。日本だって戊辰戦争があっても、日本人だけの民族だったから、国内統一が短期間で達成されたし、国民意識の涵養が容易だった。ドイツ人が国民意識を高めて、強靱な国家体制を築くには、その中核となる理念が必要だろう。民衆を団結させるような信念や理念を探したら、古代ゲルマニアにあったのだ。勇敢で偉大なゲルマン戦士がいるじゃないか。ドイツ人の理想は古代ゲルマン人だ、と胸を弾ませた。そこで、キリスト教に改宗する以前のゲルマン民族をドイツ国民の理想像とするわけだ。「キリスト教じゃダメなんですか?」と訪ねる人もいるるるだろう。蓮舫が言えば、拳骨一発喰らわせて、「アホ」と言いたいところだが、良い子もいるだろうから、お答えしなければ。

日本の信仰と似ているゲルマン宗教

  キリスト教は輸入信仰で、中東アジアの新興宗教である。同じ神様を崇めるユダヤ教と表裏一体であった。もちろん、ユダヤ教徒は大工のヨフセフと妻のマリアとの間に生まれた倅(せがれ)、イエズスを天主(God)の息子とは絶対に認めない。ユダヤ教徒は、イエズスをしばしば「あの男」と、吐き捨てるように呼ぶ。全世界を創ったロゴス(言葉)が受肉(incarnation)したなんて、バカらしいというより、天主(ヤハウエ)への冒瀆である。だからユダヤ教徒は使徒である聖ステファノを投石で殺したのだ。(使徒言行録7章54-60) 聖パウロ(元の名はサウル)に至っては、ユダヤ民族の裏切り者である。この新興宗教がローマ帝国で急速に広まって、国教にまでなってしまった。そしてカール大帝の時の強引な布教でゲルマン人もキリスト教徒になったわけ。

  じゃあ、それ以前ゲルマン民族は、何を拝んでいたのか。彼らはヴォーダン神とかトール神とかの超自然的神々を崇拝していたのである。ヴォーダン(オーディンWodan/Odin)とは、北欧神話で主神と位置づけられ、戦争の神とか死を司る神と信じられていた。 アース(Æsir)神族の最強神トール(Thor)とは雷神で豊穣をもたらすと信じられていたから、農民が好んで拝んでいた。ちなみにウォーダンが水曜日(Wednesday)、その妻フリッグ(Frigg)が金曜日(Friday)、トール神が(Thursday)のもとである。また、我が国の皇室と同じような王統神話を持っていた。有名な英国の修道士ベーダ(the Venerable Bede)は、ブリテン島を征服したヘンジスト(Hengist)とホルサ(Horsa)の出生を伝えている。このサクソン人兄弟は、ヴィクトジル(Victgilsus)の息子であり、この父は、ヴィタ(Vitta)で、ヴェクタ(Vecta)の息子。そしてヴェクタはヴォーダンの息子であるから、ヘンジストとホルサは神様の子孫になる。昔は、ゲルマン諸部族の王様は、たいてい神々の子孫であった。それが、キリスト教に改宗したため、王様は古来の神々と縁が切れて、ローマ教皇臨席のもと、地上に於けるキリストの代理者として承認してもらうことになった。戴冠式で聖なる統治者に任命してもらわないと困る。これが教皇と揉めたときに問題となってしまうのだ。色々説明すると長くなるので以下省略。

  当時のドイツ民族主義者の間では、ローマ人に征服される前のゲルマニアが注目された。タキトゥスの『ゲルマニア』は、ロマン主義者の聖典となったのだ。古代ゲルマン世界の勃興は、キリスト教への不満が根底にある。ナショナリズムを強化しようとするためには、キリスト教はパンチに欠けるし役不足なのだ。ドイツ人の魂を掴んで揺り動かし、郷土愛を鼓舞する情熱をもっていない。イエズス・キリストとドイツ人が血と肉で繋がっていないのである。いくら聖餐式でキリストの血と肉を象徴するパンとワインを口にしても、自分の血管に流れるゲルマン人の血が熱くならない。ドイツ人には戦場で心臓が激しく鼓動し、祖国への愛が昂揚するような起爆剤が必要なのだ。ナチオ(生まれ/種族)はゲルマニアの地からであり、パレスチナにあるイェルサレムでは発生しない。イエズスよりもヴォーダン神やトール神の方が、より身近に感じるわけだ。ベツレヘムで生まれたユダヤ人よりも、ドイツ人のご先祖が信仰していた神様だし、自分たちの肉体が神話から由来すると考えた方が楽しい。だから、ドイツ民族主義(Völkische ideologie)の提唱者は、北欧神話を題材にして、ゲルマン戦士の英雄物語を創作したのである。

  当時最も影響力のあった人種理論家はヒューストン・S・チェンバレンであった。ヒトラーも彼に心酔していたくらいだ。チェンバレンはローマの政論家タキトゥスが、ゲルマン人の人種的純粋性を確証していると思えた。人気の聖典『ゲルマニア』は、当時のゲルマン部族が如何なる身体的特徴を持っていたかを記している。

  ゲルーニアの諸族は、何ら異民族との通婚による汚染を蒙らず、ひとえに本来的な、純粋な、ただ自分みずからだけに似る種族として、みずからを維持してきたとする人々の意見に、たくし自身も同じるものである。このゆえにこそ彼らはその人口のあのような巨大さにもかかわらず、身体の外形が、すべての者たちを通じて同一なのだろう。鋭い空色の眼、黄赤色(ブロンド)の頭髪、長大にして、しかもただ強襲にのみ剛強な体軀。(タキトゥス 『ゲルマーニア』 泉井久之助 訳 岩波文庫 1979年 pp.40-41)

  心ときめくような理想の肉体を持っていたゲルマン人を発見してドイツ人は大満足。イタリア人なんか、いくらローマ人の末裔だと吹聴したって、ゲルマン人のような立派な体格を持っていないじゃないか、と言える。素晴らしい藝術が花開いたルネッサンス期を、ドイツ人が創造できなくっても、「俺たちには美しい肉体があるし、ローマ人に負けない精神や美徳だったある」と自信を持つことができた。ドイツの新宗教を構築すべく、民族主義の思想家は歴史的な教訓や実例、類推を引き出そうとした。そうして、古代ゲルマン人の美徳を自分たちも保持していると宣伝したのである。一般国民に英雄的な精神を注入するため、過去の話を現代風に変形させたりしたのだ。

  フェリックス・ダーン(Felix Ludwig Julius Dahn)の『ローマへの闘争(Kampf um Rom)』は、爆発的人気を博した。ケーニッヒスベルクの歴史学教授であったダーンは、古代ドイツ史を研究していたから、民族と祖国に対する熱狂的情熱に溢れていた。異教を警戒したカトリック教会が、ドイツにおけるヴォーダン信仰の復活について、ダーンの責任を追及する事態までになった。(ジョージ・L・モッセ『フェルキッシュ革命』 柏書房 1998年p..102)
彼にとって、古代の信仰や神話、神々が原始的力と真正さを供給する、汲めども尽きぬ水源となった。ドイツ民族主義のイデオローグたちは、古ゲルマン人が使っていたルーン文字や太陽を表す鉤十字、北方人種の故郷とされた伝説のミットガルトなどを持つ出してきた。いわば新たな教典の作成みたいなもんだ。

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(左: アーノ・ブレイカー製作の彫像 / ゲルマン人の神フレイ / ゲルマン人の神オーディン/ 右: フェリクス・ダーン)

  太陽崇拝の起源は一般的な説明によれば、霧が深い北方の住民は、太陽に対する自然な憧憬を表明し、太陽は彼らにとって光と希望、宇宙(コスモス)の概念的中心を表しているという。太陽が雲から出てきて、人間の心が喚起に満ちた勝利に輝く。太陽の回帰は不撓不屈の永遠なる再生に他ならない。そして、キリストを太陽神に、処女マリアをアーリア人の母に変形させる。聖書と同じで、キリストを光の子としても不思議ではない。西歐人は日本人と似ていて、太陽崇拝をしやすい民族である。森の中を歩くと、葉が生い茂る木々の間から、日差しがこぼれてくるから、信仰にもそうしたイメージが応用されるのだ。クリスマス・ツリーだって、ゲルマン人の巨木信仰から由来しているし、イースターもゲルマン人の生命復活信仰が元になっている。ちなみに、中東アジアやインドなどでは、太陽は憎しみの対象だ。焼け付くような熱を発する天空の炎だから、人々は有り難いと思わない。トルコの旗を見ても分かるように、沙漠の民は夜の星や月の方がよっぽど好き。日本の「日の丸」を国旗のデザインにはしないのである。

  日本人にとって興味深いのは、ドイツ的魂の奥底には、樹木と大地への古代信仰が息づいている。北欧の神話はキリスト教と違う世界観を持っていて、北欧神話ではユグラシル(Yggdrasill)という巨大な木が世界を体現していた。キリスト教以前の古代ゲルマン人は、意外なくらい日本の自然崇拝と似ているのだ。たとえば、山奥に建てられた日本の神社には、いつ頃植えたかも分からない古い巨木があり、その幹にはしめ縄が掛けられている。鬱蒼(うっそう)とした森のイメージを大聖堂に取り入れたドイツ人は、日本の大地で育った木材を使って建てる神社に共鳴する。森に住んでいた古代ゲルマン人も、木造の神殿を作っていたが、キリスト教へ改宗したから、ローマ風に石で聖堂を建てたのである。改宗していなければ、伊勢神宮のような神殿が存続していたかもしれない。

  巨大な樹木に畏敬の念を抱くゲルマン人は、大地に潜在する自然のエネルギーを巨木の根が吸い上げて、枝や葉に送り出し成長するイメージを抱くのだ。ドイツ人の人種理論家は、ドイツの大地に根を張るアーリア人種という理想をもつ。ヴィリバント・ヘンチェル(Willibald Hentschel)は、ドイツにおいてダーウィン主義を広めたエルンスト・ヘッケルの弟子で、化学や生物学、農学を修得していた。彼は人類史に関する分析の中で、古来の民族が持つ独特な力に注目した。ヘンチェルは、自然のエネルギーを蓄積するゲルマン種族を心に描いたという。古代から続くゲルマン種族は、濃縮された潜在能力を持つのだ。彼はこう述べる。

 人種とは充電であり、ダイナミックなもので、人種の純粋性を向上させることによって維持され、高められなければならない。人種の内部でさえ、最も有望な血統を奨励し、劣等なそれは置き去りにされるべきである。諸人種が混淆したことから生まれたのではないアーリア人は、血管を流れる高貴な血の質を自ら確保せねばならない。アーリア人の貴族と戦士は、これまで常にそうであったように、淘汰と選抜的な生殖によって形成されるべきなのである。(モッセ p.155)

  ヘンチェルは当時のゲルマン種族の状態を絶望視していた。社会進出で女性が出産を控えるようになったし、大自然に暮らす大家族が理想ではなくなっていたのである。人種衛生学の起源とは、如何に国家の基礎である人種を強靱化して高貴な血統を維持するかにかかっていた。帝国主義時代手では、優秀な人材を育成しなければ、熾烈な競争に勝てないから、そうした焦りは理解できる。アーリア系人口の減少を憂慮したヘンチェルは、真にゲルマン的な入植地(colony)まで提案したのである。この入植地は「ミットガルト(Midgard)」と名付けられ、そこはアーリア人種が由来するという伝説の地である。ヘンチェルによれば、ドイツ人を近代の腐敗的影響から護るには、このような形で分離しなければならない。健全なドイツの農村だけが、民族の発展に必要な刺戟を与えるのだ。したがって、ミットガルトは農村につくらねばならぬ。

  ミットガルト建設は祖先の純粋性を喚起しようと試みるものであった。そこでは選抜的人種繁殖が考慮されたるという。ヘッケルは一夫多妻まで制度化しようと提唱した。入植者の指導者層が誰と誰が結婚するかを決めるそうだ。これはやり過ぎだろう。個人の恋愛感情を制禦するなら、こんな計画は絶対に失敗する。ミットガルトは、アーリア人種の生得的美を主張する人種理論を基盤としていた。アーリア人は金髪で完璧に均整のとれた人種である。かくて外面的な美は精神的美を反映するという。アーリア人種の肉体を賛美し、肉体崇拝を奨励した。ヘンチェルによると、どんな衣服も神の贈り物である肉体を人から疎外し、その結果内的な均衡を破壊する。アーリア人種の美は、本物の美であるから、裸体でなければならない。(モッセ 上掲書 .158) ドイツ人は古代ギリシア人のように、裸こそが最高に美しいと思っていた。ちょっと中東のアラブ人やユダヤ人には無い発想である。

醜い肉体を持ったユダヤ人

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(左: 映画の中でのユダヤ人 / 右: ゲルマン系の女性)

  ドイツ知識人の思想によれば、敬虔なキリスト教精神に満ちたゲルマン人の土地で、キリストを否定する宗教のユダヤ人は異邦人(エイリアン)である。ユダヤ人は手に負えない悪意に満ちたプロレタリアートの縮図であった。純粋で真摯なゲルマン人と違い、ユダヤ人の魂は愚鈍で物質的なものであった。ゲットーから解放されたと言っても、ユダヤ人の性質や肉体が変わったわけじゃない。それに、ゲットー内には、まだまだ大量の東欧ユダヤ人が存在していたのである。作家のレオ・ヘルツベルク=フレンンケル(Leo Herzberg-Fränkrel)や、ジャーナリストのエミール・フランツォース(Karl Emil Franzos )は、自らの過去と絶縁し、過去を軽蔑することさえあった。よほどユダヤ人であることが忌まわしかったのだろう。

  ユダヤ人の身体的特徴はゲルマン的美の理想と対照的であった。短足で歪んだ体型、大食で好色な肥満体、そして「ユダヤ人の鼻」が挙げられる。これらが北方種族の均整がとれた体型と比較されたのである。ナチ政権前なら、ステレオタイプのユダヤ人はグロテスクだが、滑稽な姿に描かれていたのに、ドイツ民族主義では、ユダヤ人は脅威となっており、ドイツ人を奴隷にするかもしれない邪悪な異邦人と描かれた。ユダヤ人はサタン、金髪のゲルマン人種への侵入者であり汚染者であると定義された。ユダヤ人は醜く、髭をはやしていて、長い上着をまとっている。ユダヤ人の血を混入することでアーリア人種を堕落させる。

  通婚によって人種が汚される事への不安は、セックスや愛に関連した強迫観念となった。ニュルンベルク法はユダヤ人がキリスト教徒の家政婦を雇うことを禁止した。金持ちのユダヤ人がアーリア人の召使いを手込めにするかもしれないと考えたからだ。ユダヤ人と言えば、株式取引屋、肥満した銀行家、資本家の象徴だ。こうした決めつけはもちろん否定されるべきだろう。また、異なる宗教間の非難合戦は決着がつかない論争である。ユダヤ教は邪悪だとか、キリスト教徒こそ残忍だと批判しあっても、宗教的無関心が到来するまで収拾がつかない。異質な民族同士の争いはなかなか解決しないものだ。ドイツ人がどうしても、ユダヤ人の民族性や、性格、慣習、文化が嫌いなら、ユダヤ人は荷物を纏めてパレスチナに帰るしかないだろう。ユダヤ人だって、自分の姿を鏡で見れば、諦めがつきそうなものだが。しかし、パレスチナでの生活は苦しいから、嫌われてもドイツに留まりたいというのが、ユダヤ人の本音だろう。

  しかし、どうしても不思議なことがある。ユダヤ人学者はナチスの人種理論をこてんぱんに非難するが、ユダヤ人の身体は実際どうだったのか。ユダヤ人学者はナチのアーリア人優越論を徹底的に批判するが、ユダヤ人はなぜ対抗手段を取らなかったのか? ドイツ人から馬鹿にされたのなら、アーリア人を茶化した風刺画を出版したり、ユダヤ人の身体を賞賛する彫像や絵画を作成したりすれば良かった。また、ユダヤ人の理想的身体を宣伝すれば、ナチ・ドイツ側に反撃を加えることが出来たのではないか。ドイツ側では、アルノ・ブレーカー(Arno Breker)がゲルマン人の理想美を追究して、多くの彫像を製作していた。古代ギリシア彫刻を思わせる、凜々しい大理石のゲルマン戦士やアーリア人女性を創作していたのである。ユダヤ人にも芸術家がいたが、彼らは抽象画や醜い油絵しか製作しなかった。

  ユダヤ人にとって美術は苦手であった。ハインリッヒ・ハイネやカール・マルクスを見れば分かる通り、ユダヤ人自身が「ユダヤ的身体」を嫌悪していたのである。ドイツ人のみならず西欧人一般から、ユダヤ人は一方的にその肉体を馬鹿にされていたのである。これは学問を積んだり、体育で矯正できるものではないからだ。いくら優秀な科学者でも、ユダヤ人とゲルマン人が結婚して、子供が生まれた場合、ユダヤ人的特徴は遺伝しない、と断言できなかった。ユダヤ人の「大きな」鼻あるいは「鉤(カギ)」鼻が混血児に遺伝しないと保証できないだろう。それに、東方ユダヤ人の毛深い身体や黒い髪が、金髪碧眼というドイツ人の肉体的特徴を消去してしまう危険性があった。ユダヤ人遺伝学者ならこれも否定できない。ドイツ人を心底憎んでいるユダヤ人科学者でも、生物学的事実は曲げることが出来ないのだ。ヒトラーによる罵倒で一番こたえたのは、身体を攻撃されることであった。正直なユダヤ人は、「そうだよな」と独り言をつぶやくしかない。

  現在だと、歐洲ではヒトラーやナチズムにつして議論することすら、法律で禁止されている国がある。ナチズムを子供たちに教えるなら、タブーをつくらず、良いところと悪いところを説明しなければ、歴史の真相が分からない。ヒトラーの思想を肯定することが悪いなら、その全面否定だって悪いだろう。ヨーロッパ人は、ユダヤ人に遠慮することなく、淡々と事実を教えればいいんじゃないか。自分たちの歴史は自分たちの目と魂で学ぶのか正道だろう。


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