教科書に載せて全日本人に知らせたい現代史 支那人の卑史 朝鮮人の痴史
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博学の国士 逝く

Watanabe Shoichi 3  平成29年4月17日、知の巨人が天に召された。上智大学名誉教授の渡部昇一は、86歳でその生涯を閉じたことになる。我が国はまたもや偉大なる知識人を失ったと言えよう。人間にはそれぞそれ寿命があるから、いつかはその生命が肉体を離れるわけだが、そうと分かっていても渡部先生の訃報はとても悲しい。先生は衰弱の激しさにもかかわらず、亡くなる直前まで対談の収録に臨まれ、まさしくその身体が燃え尽きるまで、己の義務を果たされた。我々が先生の姿に感銘を受けるのは、その厖大なる知識や曠古の業績だけではなく、日本への熱い思いが全身に漲っていたからだろう。日本人として生を享け、郷里の空気を吸いながら育ち、帝都で身を立てると母国に尽くし、天命を全うすると祖国の土に還った。塵で創られた肉は灰となったが、先生の魂は不滅である。

  渡部先生には様々な顔がある。政治・経済・社会・文化といった世界で幅広い言論活動を繰り広げる評論家の側面を持つ一方で、書斎に現れる知的空間で読書に耽る教養人の姿があった。元々は、英語学を専門にする研究者であったから、先生の生涯を語るなら英文法や言語史の業績に触れるべきなのだが、それは複雑になってしまうので、ここではまず先生の個人的体験について述べてみたい。

  なぜ渡部先生には人気があったのか? この問に対する解答は色々あるけれど、一例を挙げれば、先生はご自分で消化し納得された見解を述べていたからだと思う。「大学」という名の象牙の塔には、図書館で仕入れた書物を“未消化”のまま世間に陳述し、難解な学術用語を操って聴衆を籠絡しようとする輩(やから)が多い。こうした知識人は有名大学で教鞭を執っていたりするから、受験勉強で苦労したり恥を掻いたりした庶民は、よく解らないけど、とりあえず「有り難い話」と思い込み、「お説ごもっとも」とひれふしてしまう。しかし、心の底では納得していないから、どうにもこうにも面白くない。例えば、NHKに出てくるような御用学者の説教なんか左翼のアジ演説と同じなのに、宣伝フィルムを途中で流さないから「NHKは高尚」と思っている視聴者がいたりする。こうした人は昔からいたし、今でもいるだろう。本当に優秀な学者なら、煩雑でややこしい内容でも庶民に解りやすく話せるはずだし、グダグダ言い訳していないで簡潔かつ濃厚なエッセンスのみを披露できるはずだ。でも、それが出来ないのは知能が低いからである。

Tanaka 1( 左 / 田中角栄 )
  こうした似非学者と違って、渡部先生の言論は“解りやすく”納得が行くものであった。例えば、ロッキード裁判を論じた時、先生は反対尋問(cross-examination)の無い法廷証言は証拠にならない、と道破された。どういうことかと言えば、田中角栄が賄賂を貰ったかどうかを判断する裁判で、三木内閣は来日しないコーチャン被告の「証言」を得るために、嘱託尋問を米国に依頼したのである。ところが、コーチャン氏は刑事罰を免責するなら質問に応じると言い張り、それが認められてしまったのだ。法廷に召喚されたコーチャン氏は、日本側の反対尋問が無いまま“自由に”発言ができ、信じられない事だけど、その自白が証拠となってしまったのである。アメリカの陪審員や判事なら腰を抜かして驚くだろう。偽証罪に問われない単なる独り言が、有罪を決める材料になるなんて考えられない。渡部先生が角栄裁判を中世の暗黒裁判と評したのも当然だ。日本でコーチャン氏の「証言」を聞く角栄側は、いくら嘘を並べられても反論できなんいだから、腹立たしいやら悔しいやらでいっぱいだった。当時、裁判官や法学者たちはロッキード裁判の“いかがわしさ”に気づいていたが、異議を唱えれば瀆職にまみれた闇将軍を助けたことになるから、煙たがってみんな黙っていた。門外漢の渡部先生と在野の奇才である小室直樹だけが、「これはおかしい」と声を上げ、角栄攻撃一色の世間に立ち向かったのである。

知的正直(intellectual honesty)を実践した教養人

  「知の巨人」と仰ぎ見られる渡部先生は、他者に対するときと同じく、自分に対しても正直であった。自分で解らなければ、はっきりと「わからない」と認め、決して「わかったフリ」をしないという信条を持っていた。これは先生のロングセラー『知的生活の方法』を読むと分かる。(講談社現代新書 昭和51年 pp.28-47) 渡部先生の恩師、佐藤順太先生は有名な学者が述べた意見であっても、「あれは何を言っているかわからぬ」と斬り捨てたそうだ。この恩師を崇敬する渡部先生は、大学の英文科に進学した時、周りの学生が難しい本や英語の詩を“解ったかのように”話すなか、率直に「解らぬ」と公言していたらしい。渡部先生曰く、「ぞくぞくするほどわからなければ、わからないのだ」という境地に立っていたそうだ。

  英文科の秀才だったから、渡部先生は辞書を引きながらでも、英語の小説や詩を読解することくらいは出来た。しかし、いくら正確に英文を読むことは出来ても、先生には“ぞくぞくする”程の感動を掴めなかったという。つまり、子供の頃に少年講談を読んだ時のような「嬉しさ」とか「楽しさ」に欠けていたのだ。先生は後に西洋哲学の勉強をして、「わからないことは、わからない」として、「わかったことだけ」を出発点にして物事を思考する、ルネ・デカルト(René Descarte)の方法論を学んだらしい。確かに、パーシー・B・シェリー(Percy Bysshe Shelly)やアレグザンダー・ポープ(Alexander Pope)、ウィリアム・ブレイク(William Blake)、ロバート・ブラウニング(Robert Browning)などの詩を日本人が朗読しても、それを心から味わうことは難しいだろう。たとえ意味が分かったとしても、口ずさんで楽しいということは先ずない。漢詩なら得意とする日本人はたくさんいた。渡部先生が挙げていた人物だと、頼山陽とか夏目漱石、伊藤博文、乃木希典である。イングランドに留学して英文学を勉強した漱石でも、楽しんで詠んだのは子供の頃から親しんだ漢詩である。親友の正岡子規に自分で作った漢詩を披露する漱石の姿は、どのようなものだったのか興味深いけど、録画映像が無いから分からない

Rene Descarte 2Shelley 1Alexander Pope 1Robert Browning 3








(左: ルネ・デカルト  /  シェリー  /   ポープ   /   右: ブラウニング )

  筆者は漱石の件で渡部先生に恩義がある。大抵の人は中学とか高校で漱石の小説を読んでいるだろうが、国語が苦手だった筆者は自ら進んで小説を読んだことがなかった。ただ、国語の先生が読むよう勧めたので、仕方なく漱石の代表作『こころ』を手にしたことがある。一応は真剣に読んだのだが、正直なところ「こんな下らないことで、なぜ自殺を選んだのか」と呆れてしまった。ただし、「文豪の名作を理解できぬ俺はやはり馬鹿なのかなぁ」と自分を疑ったことはある。だから、漱石の著作を読んでも友人に感想を語ったこともないし、小説を読んだことすら先生に伝えたことはない。もっとも、興味があったのは専ら音楽だったので、それほど深刻に悩まなかった。ところが、月日が流れ大学生となり、かつての読書を忘れた頃に渡部先生の漱石論を読んで、「何だそうだったのか」と安堵感を得たことがある。

  渡部先生によれば、小説を書いた頃の漱石は若く、中高年からすれば“たわいのない”事で悩んでしまう傾向があったという。『こころ』のストーリーでは、青年時代の「先生」が友人Kから恋人を奪って自分の女房にしてしまった。それから数十年も経っているのに、この略奪婚が元でKが自殺し、その罪悪感をずうっと持ち続けて、ついに「先生」は自殺してしまうのだ。佐藤順太先生によれば、知識人というのは書斎に籠もってあれこれ考えているので、思い詰めると意外にも軽率な行動を取ってしまうらしい。だから、世間で様々な経験を積み、精神が鍛えられた大人であれば、簡単に命を断つという真似はしないだろう。極端な例になってしまうが、青二才の知識人と戦国武将を比べてみれば分かるじゃないか。脳漿を目一杯絞り、智略を用いながら乾坤一擲の大勝負に出る武家の棟梁が、小娘との恋愛くらいで首を吊ることなどあり得ない。戦乱の世に生きる武士は、戦場で恐怖に震えながらも、奮起して刀を振り上げ、死に物狂いで敵の体を突き刺す。時には、刀で相手を斬るというより、がむしゃらに叩くような感じで強引に殺すこともある。そして、斃した敵の首に刀を当てると、一気呵成にその首を切り落とす。自らの血と返り血を浴びながら生き延びようとする武人の姿は壮絶だ。それに比べ、「ボクは他人の許嫁を奪ってしまった」と悩んだ末に、ふと自殺する知識人なんて馬鹿げている。武士なら想像もしないだろう。

  中学生の頃からローマ史が好きだった筆者は、物凄い殺戮を繰り返しながら宏大な領域を征服したローマ人に魅せられていた。だから、漱石が描く小説の世界なんて青瓢箪の花園にしか思えなかったのだ。亡くなるちょっと前に渡部先生はDHCテレビの『書痴の楽園』に出演し、宮崎美子と『こころ』を取り上げて漱石論を述べていたから、先生の発言を覚えているかたもいるだろう。渡部先生は大学生の時に『こころ』を読んでいたく感動したそうだが、壮年になってから読み返してみると「漱石も若かったんだなぁ」と分かり、「不自然な死」に違和感を抱くようになったそうだ。とりわけ、渡部先生は自殺した「先生」の奥さんに同情していた。「先生」は主人公の「私」に自殺の理由を黙っていてくれと頼んだので、夫人はその動機が分からず終いということになり、とても哀れだと語っていたのである。普通に考えてみても、残された寡婦はどんな気持ちで余生を送ったらいいのか憂鬱になるだろう。本当に気の毒だ。渡部先生が「つまらない」と考えたのも当然で、こんな筋書きは余りにも現実離れした虚構である。

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( 写真 / 渡部先生の豪華な書斎「図書館」 )

  凡庸だった高校生の筆者が、日本を代表する碩学と同じ見解に辿り着いたというのは実に奇妙だが、その理由は簡単である。上智大学に入った頃の渡部先生は純粋な「心」を持っていたのだ。道徳的な罪の意識に苛まれて命を断つ「先生」に感銘を受ける、清らかな魂が渡部青年の胸に宿っていたのだろう。しかし、渡部先生も文学青年から一家の大黒柱になったから、青臭い書生ではなくなっていたのだ。一方、筆者が育った時代は豊かな日本だったし、小狡い大人をたくさん見てきたので、心が汚れていたせいか、素直に感動できなかったのである。それに、近代史の書物を読めば、ロシア革命の流血やバルカン半島の民族紛争が明らかとなるし、第二次大戦に目を向けると、ヒトラー、チャーチル、スターリン、ローズヴェルトが企んだ奸計や心理戦が分かるから、たとえ10代の子供であっても中年のように社会を裏から見る癖がついてしまうのだ。高校時代に筆者が興味を持ったのは、教科書に載らない血腥い死闘や陰謀だったから、漱石が拵えた小説はあまりにも幼稚に思え、露骨に言えば「アホらしくて」共感できなかったのである。

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(左: ヒトラー  / チャーチル / スターリン / 右: ローズヴェルト )

  英語学を目指した訳でもない普通の国民が渡部先生に惹かれたのは、先生が純粋な愛国心を持っていたからだろう。先生は色々な社会問題に独自の見解を述べていたが、その根底には“健全な精神”が流れていた。先生は『知的生活の方法』の中で、子供の頃から愛読していた講談社の本があったお陰と述べている。(p.60) 当時の講談本は不健全な要素がほとんど無かったので、渡部少年は「常識的に健全な本」でないと好きになれなかったらしい。だから、多少努力して芥川龍之介の本を読んでみても、「どうもいやでなじめなかった」という。先生の回顧談によると、少年期に芥川を読んでいた近所の早熟少年は、中学生になるや痴漢になってしまったそうだ。しかし、彼は後に大学を普通に卒業し、立派な社会人となったそうだが、読書や勉強とは縁の無い生活を送ったそうである。

健全な精神が宿る読書生活

  渡部先生が安住していた精神的世界は、講談社的健全性が君臨する読書圏で、早熟な少年から見れば幼稚なものであったが、先生にとってはかけがえのない「本物」の世界であったそうだ。そこでは、父は天の如く、母は大地の如く、男の子は勇ましくて元気、女の子はやさしくて美しかったそうである。(p.61) もちろん、講談本の世界にはそうした基準から外れる人物も登場したが、こんな奴は直ぐに「善くない」と判るし、嫌悪すべき者であることは明らかだった。今の中学生や高校生ならマンガやアニメからこうした人間観を学ぶんじゃないか。日教組の教師からは、「命を一番大切にしなさい」とか「戦争は絶対にいけません」と教えられるが、『北斗の拳』を愛読する子供たちには通用しないだろう。例えば、南斗五車星の一人「ジュウザ」は、南斗最後の将を求めて進軍するラオウの前に立ちはだかった。自由気ままに生きる風雲児なのに、愛する異母妹ユリアの為にその命を捨てることにしたのだから尋常ではない。覚悟を決めたジュウザは、無敵のラオウを倒せぬまでも、その腕一本くらいはもぎ取ってやろうと戦いを挑んだ。しかし、ジュウザはラオウの敵ではなかった。満身創痍のジュウザは、無惨にも首の秘孔をラオウに突かれてしまう。ラオウから南斗最後の将は何者かと拷問されるが、ジュウザは意地でも答えない。全身から血が噴き出しているのに、決して口を割ろうとしないジュウザの姿に、読んでいる少年たちは胸を打たれる。こうした日本の子供たちは、愛する者を守るためには、たとえ報われぬと知っていても、命を賭けるという「男子の本懐」に感銘を受けるのだ。したがって、自分の命が惜しいから愛する同胞を見棄てよ、と教える教師に従わない子供がいても不思議ではあるまい。

  若い頃の渡部先生が社会主義とか左翼思想に傾倒しなかったのは、たぶん先生が健全な精神を持ち続けていたからだろう。だいたい、共産党や社会党に靡く者には碌な奴がいないし、また、こうした悪魔の思想を体現する政治家に偉人はいないものだ。普通の日本人で野坂参三や不破哲三、石橋政嗣、土井たか子の評伝を読む者はいないし、そんな本は不愉快だから誰も読まない。一方、日本を心から愛し、命懸けでお国に尽くした元勲は未だに愛されている。渡部先生が尊敬した西郷隆盛も、己の命を鴻毛の如く考えていた武士(もののふ)であった。維新の為には非情な手段を取ることも辞さなかったが、その反面、清廉で忠義に篤い人物であったから、幕臣からも一目置かれる巨魁で、会う人をみな虜にする人望があった。敵であったはずの庄内藩士だって西郷のファンになってしまったくらいだから、その人間的魅力は計り知れないところがある。(ちなみに、渡部先生は庄内藩の酒田市出身で、西郷南洲について詳しく、『「南洲翁遺訓」を読む』という著作まである。)

Watanabe Shoichi 1Saigo Takamori 1Shinohara 1Kirino 1








(渡部先生の右から / 西郷隆盛 / 篠原國幹  /   桐野利秋 )

  西南戦争では、西郷に従った薩摩藩士が多く死んだけど、討ち死にした薩摩隼人の子孫は祖先が西郷南洲と一緒に戦ったことを今でも誇りに思っている。武士の終わりに我慢できなかった桐野利秋や篠原國幹たちに、西郷は惜しげも無く自分の命を渡し、共に滅んでいった。西郷は最初から戦いに勝つ事は考えておらず、みんなが納得するまで戦い、頃合いを見計らって「もうよか」と伝えて自害したのである。外国人からすれば、負け戦の将なのになぜ西郷を「郷里の誇り」と仰いでいるのは理解しがたいが、陸軍大将という最高の地位に就きながらも、自分でなければこの悍馬を御することはできんと心に決め、何の躊躇いも見せず皆に命を預けたんだから、故郷の同胞が涙を流して嗚咽したのも無理はない。西郷はお国の為なら不惜身命。その肉体は滅んでも精神は生き続けた。今でも多くの人が慕っている所以である。徳富蘇峰が喝破したように西郷はまさしく英雄だ。しかし、南洲だけが立派だったのではない。なるほど西郷は偉かったが、その西郷を認めた日本人も偉かった。北鮮との戦争が怖いから、拉致被害者を見棄てようと考える現代の日本人とは大違いである。

  惜しくも渡部先生は亡くなってしまったが、先生が残した偉業は永遠に不滅だろう。そして、日本を愛した先生は、日本を愛する日本人がいる限り愛されるはずだ。渡部先生の功績は余りにも多いので、一度に述べる事はできないし、また紹介し尽くせるものでもあるまい。断続的ではあるが、これからも少しづつ先生の著作について述べて行きたい。



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